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# 底本:「夏目漱石全集1」ちくま文庫、筑摩書房
#    1987(昭和62)年9月29日第1刷発行
# 底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
#    1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
# 入力:柴田卓治
# 校正:渡部峰子(一)、おのしげひこ(二、五)、田尻幹二(三)、高橋真也(四、七、八、十、十一)、しず(六)、瀬戸さえ子(九)
# 1999年9月17日公開
# 2009年10月25日修正
# 青空文庫作成ファイル:
# このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
#
わがはいはねこである。
なまえはまだない。
どこでうまれたかとんとけんとうがつかぬ。
なにでもうすぐらいじめじめしたところでにゃーにゃーないていたことだけはきおくしている。
わがはいはここではじめてにんげんというものをみた。
しかもあとできくとそれはしょせいというにんげんちゅうでいちばんどうあくなしゅぞくであったそうだ。
このしょせいというのはときどきわれわれをとらえてにてくうというはなしである。
しかしそのとうじはなにというこうもなかったからべつだんこわしいともおもわなかった。
ただかれのてのひらにのせられてすーともちあげられたときなんだかふわふわしたかんじがあったばかりである。
てのひらのうえですこしおちついてしょせいのかおをみたのがいわゆるにんげんというもののみはじめであろう。
このときみょうなものだとおもったかんじがいまでものこっている。
だいいちもうをもってそうしょくされべきはずのかおがつるつるしてまるでやかんだ。
そのごねこにもだいぶあったがこんなかたわにはいちどもであわしたことがない。
のみならずかおのまんなかがあまりにとっきしている。
そうしてそのあなのなかからときどきぷうぷうとけむりをふく。
どうものんどせぽくてじつによわった。
これがにんげんののむたばこというものであることはようやくこのころしった。
このしょせいのてのひらのうらでしばらくはよいこころもちにすわっておったが、しばらくするとひじょうなそくりょくでうんてんしはじめた。
しょせいがうごくのかじぶんだけがうごくのかわからないがむあんにめがめぐる。
むねがわるくなる。
とうていたすからないとおもっていると、どさりとおとがしてめからひがでた。
それまではきおくしているがあとはなにのことやらいくらかんがえだそうとしてもわからない。
ふときがついてみるとしょせいはいない。
たくさんおったきょうだいがいっぴきもみえぬ。
かんじんのははおやさえすがたをかくしてしまった。
そのかみいままでのところとはちがってむあんにあかるい。
めをあいていられぬくらいだ。
はてななにでもようすがおかしいと、のそのそはいだしてみるとひじょうにいたい。
わがはいはわらのうえからきゅうにささはらのなかへすてられたのである。
ようやくのおもいでささはらをはいだすとむこうにおおきないけがある。
わがはいはいけのまえにすわってどうしたらよかろうとかんがえてみた。
べつにこれというふんべつもでない。
しばらくしてないたらしょせいがまたむかえにきてくれるかとかんがえついた。
にゃー、にゃーとこころみにやってみたがだれもこない。
そのうちいけのうえをさらさらとかぜがわたってひがくれかかる。
はらがひじょうにへってきた。
なきたくてもこえがでない。
しかたがない、なにでもよいからしょくもつのあるところまであるこうとけっしんをしてそろりそろりといけをひだりりにまわりはじめた。
どうもひじょうにくるしい。
そこをがまんしてむりやりにはっていくとようやくのことでなんとなくにんげんくさいところへでた。
ここへはいいったら、どうにかなるとおもってたけがきのくずれたあなから、とあるやしきないにもぐりこんだ。
えんはふしぎなもので、もしこのたけがきがやぶれていなかったなら、わがはいはついにろぼうにがししたかもしれんのである。
いちじゅのかげとはよくゆったものだ。
このかきねのあなはきょうにいたるまでわがはいがりんかのさんもうをほうもんするときのつうろになっている。
さてやしきへはしのびこんだもののこれからさきどうしてよいかわからない。
そのうちにくらくなる、はらはへる、さむさはさむし、あめがふってくるというしまつでもういっこくのゆうよができなくなった。
しかたがないからとにかくあかるくてあたたかそうなほうへかたへとあるいていく。
いまからかんがえるとそのときはすでにいえのうちにはいいっておったのだ。
ここでわがはいはかれのしょせいいがいのにんげんをふたたびみるべききかいにそうぐうしたのである。
だいいちにあったのがおさんである。
これはまえのしょせいよりいっそうらんぼうなほうでわがはいをみるやいなやいきなり頸筋をつかんでひょうへほうりだした。
いやこれはだめだとおもったからめをねぶってうんをてんにまかせていた。
しかしひもじいのとさむいのにはどうしてもがまんができん。
わがはいはふたたびおさんのひまをみてだいどころへはいのぼった。
するとまもなくまたなげだされた。
わがはいはなげだされてははいのぼり、はいのぼってはなげだされ、なにでもおなじことをよんごへんくりかえしたのをきおくしている。
そのときにおさんというものはつくづくいやになった。
このかんおさんのさんうまを偸んでこのへんぽうをしてやってから、やっとむねの痞がおりた。
わがはいがさいごにつまみだされようとしたときに、このいえのしゅじんがそうぞうしいなにだといいながらでてきた。
げじょはわがはいをぶらさげてしゅじんのほうへむけてこのやどなしのしょうねこがいくらだしてもだしてもみだいしょへのぼってきてこまりますという。
しゅじんははなのもとのくろいけをよりながらわがはいのかおをしばらくながめておったが、やがてそんならうちへおいてやれといったままおくへはいいってしまった。
しゅじんはあまりくちをきかぬひととみえた。
げじょはくやしそうにわがはいをだいどころへほうりだした。
かくしてわがはいはついにこのいえをじぶんのじゅうかときわめることにしたのである。
わがはいのしゅじんはめったにわがはいとかおをあわせることがない。
しょくぎょうはきょうしだそうだ。
がっこうからかえるとしゅうじつしょさいにはいいったぎりほとんどでてくることがない。
いえのものはたいへんなべんきょうかだとおもっている。
とうにんもべんきょうかであるかのごとくみせている。
しかしじっさいはうちのものがいうようなきんべんかではない。
わがはいはときどきしのびあしにかれのしょさいをのぞいてみるが、かれはよくひるねをしていることがある。
ときどきよみかけてあるほんのうえによだれをたらしている。
かれはいじゃくでひふのいろがあわきいろをおびてだんりょくのないふかっぱつなちょうこうをあらわしている。
そのくせにおおいをくう。
おおめしをくったのちでたかじやすたーぜをのむ。
のんだのちでしょもつをひろげる。
にさんぺーじよむとねむくなる。
よだれをほんのうえへたらす。
これがかれのまいよくりかえすにっかである。
わがはいはねこながらときどきかんがえることがある。
きょうしというものはじつにらくなものだ。
にんげんとうまれたらきょうしとなるにかぎる。
こんなにねていてつとまるものならねこにでもできぬことはないと。
それでもしゅじんにいわせるときょうしほどつらいものはないそうでかれはともだちがくるたびになんとかかんとかふへいをならしている。
わがはいがこのいえへすみこんだとうじは、しゅじんいがいのものにははなはだふじんぼうであった。
どこへいってもはねつけられてあいてにしてくれてがなかった。
いかにちんちょうされなかったかは、きょうにいたるまでなまえさえつけてくれないのでもわかる。
わがはいはしかたがないから、できえるかぎりわがはいをいれてくれたしゅじんのはたにいることをつとめた。
あさしゅじんがしんぶんをよむときはかならずかれのひざのうえにのる。
かれがひるねをするときはかならずそのせなかにのる。
これはあながちしゅじんがすきというわけではないがべつにかまいしゅがなかったからやむをえんのである。
そのごいろいろけいけんのうえ、あさはめしびつのうえ、よるはこたつのうえ、てんきのよいひるは椽側へねることとした。
しかしいちばんこころもちのよいのはよるにはいってここのうちのしょうきょうのねどこへもぐりこんでいっしょにねることである。
このしょうきょうというのはいつつとみっつでよるになるとににんがひとつゆかへはいっていっけんへねる。
わがはいはいつでもかれらのちゅうかんにおのれれをようるべきよちをみいだしてどうにか、こうにかわりこむのであるが、うんわるくしょうきょうのいちにんがめをさますがさいごたいへんなことになる。
しょうきょうは――ことにちいさいほうがしつがわるい――ねこがきたねこがきたといってよなかでもなにでもおおきなこえでなきだすのである。
するとれいのしんけいいじゃくせいのしゅじんはかならずめをさましてつぎのへやからとびだしてくる。
げんにせんだってなどはものゆびでしりぺたをひどくたたかれた。
わがはいはにんげんとどうきょしてかれらをかんさつすればするほど、かれらはわがままなものだとだんげんせざるをえないようになった。
ことにわがはいがときどきどうきんするしょうきょうのごときにいたってはげんごどうだんである。
じぶんのかってなときはひとをさかさにしたり、あたまへふくろをかぶせたり、ほうりだしたり、へっついのなかへおしこんだりする。
しかもわがはいのほうですこしでもてだしをしようものならやないそうがかりでおいまわしてはくがいをくわえる。
このかんもちょっとたたみでつめをみがいだらさいくんがひじょうにおこってそれからよういにざしきへいれない。
だいどころのいたのまでたが顫えていてもいっこうへいきなものである。
わがはいのそんけいするすじむこうのしろくんなどはあうどごとににんげんほどふにんじょうなものはないといっておらるる。
はくくんはせんじつだまのようなこねこをよん疋うまれたのである。
ところがそこのいえのしょせいがさんにちめにそいつをうらのいけへもっていってよん疋ながらすててきたそうだ。
はくくんはなみだをながしてそのいちぶしじゅうをはなしたうえ、どうしてもわがとうねこぞくがおやこのあいをかんくしてうつくしいかぞくてきせいかつをするにはにんげんとたたかってこれをそうめつせねばならぬといわれた。
いちいちもっとものぎろんとおもう。
またとなりのさんもうくんなどはにんげんがしょゆうけんということをかいしていないといってだいにふんがいしている。
がんらいわれわれどうぞくかんではめとげのあたまでもぼらのほぞでもいちばんさきにみつけたものがこれをくうけんりがあるものとなっている。
もしあいてがこのきやくをまもらなければわんりょくにうったえてよいくらいのものだ。
しかるにかれらにんげんはごうもこのかんねんがないとみえてわがとうがみつけたごちそうはかならずかれらのためにりゃくだつせらるるのである。
かれらはそのきょうりょくをたのんでせいとうにわれじんがくいえべきものをうばってすましている。
はくくんはぐんじんのいえにおりさんもうくんはだいげんのしゅじんをもっている。
わがはいはきょうしのいえにすんでいるだけ、こんなことにかんするとりょうくんよりもむしろらくてんである。
ただそのひそのひがどうにかこうにかおくられればよい。
いくらにんげんだって、そういつまでもさかえることもあるまい。
まあきをながくねこのじせつをまつがよかろう。
わがままでおもいだしたからちょっとわがはいのいえのしゅじんがこのわがままでしっぱいしたはなしをしよう。
がんらいこのしゅじんはなにといってひとにすぐれてできることもないが、なににでもよくてをだしたがる。
はいくをやってほととぎすへとうしょをしたり、しんたいしをみょうじょうへだしたり、まちがいだらけのえいぶんをかいたり、ときによるとゆみにこったり、うたいをならったり、またあるときはゔぁいおりんなどをぶーぶーならしたりするが、きのどくなことには、どれもこれもものになっておらん。
そのくせやりだすといじゃくのくせにいやにねっしんだ。
こうかのなかでうたいをうたって、きんじょでこうかせんせいとあだなをつけられているにもかんせずいっこうへいきなもので、やはりこれはたいらのむねさかりにてこうをくりかえしている。
みんながそらむねさかりだとふきだすくらいである。
このしゅじんがどういうこうになったものかわがはいのすみこんでからいちがつばかりごのあるつきのげっきゅうびに、おおきなつつみをさげてあわただしくかえってきた。
なにをかってきたのかとおもうとすいさいえのぐともうひつとわっとまんというかみできょうからうたいやはいくをやめてえをかくけっしんとみえた。
はたしてよくじつからとうぶんのまというものはまいにちまいにちしょさいでひるねもしないでえばかりかいている。
しかしそのかきあげたものをみるとなにをかいたものやらだれにもかんていがつかない。
とうにんもあまりあまくないとおもったものか、あるひそのゆうじんでびがくとかをやっているひとがきたときにしたのようなはなしをしているのをきいた。
「どうもあまくかけないものだね。
ひとのをみるとなんでもないようだがみずからひつをとってみるといまさらのようにむずかしくかんずる」これはしゅじんのじゅっかいである。
なるほどいつわりのないところだ。
かれのともはきんぶちのめがねえつにしゅじんのかおをみながら、「そうはじめからじょうずにはかけないさ、だいいっしつないのそうぞうばかりでががかけるわけのものではない。
むかしし以太りのおおやあんどれあ・でる・さるとがいったことがある。
がをかくならなにでもしぜんそのものをうつせ。
てんにせいしんあり。
ちにろはなあり。
とぶに禽あり。
はしるにししあり。
いけにきんぎょあり。
かれきにかんからすあり。
しぜんはこれいちはばのだいかつがなりと。
どうだきみもがらしいがをかこうとおもうならちとしゃせいをしたら」
「へえあんどれあ・でる・さるとがそんなことをいったことがあるかい。
ちっともしらなかった。
なるほどこりゃもっともだ。
じつにそのとおりだ」としゅじんはむあんにかんしんしている。
きんぶちのうらにはあざけけるようなえみがみえた。
そのよくじつわがはいはれいのごとく椽側にでてこころもちよくひるねをしていたら、しゅじんがれいになくしょさいからでてきてわがはいのうしろでなにかしきりにやっている。
ふとめがさめてなにをしているかといちふんばかりさいもくにめをあけてみると、かれはよねんもなくあんどれあ・でる・さるとをきめこんでいる。
わがはいはこのありさまをみておぼえずしっしょうするのをきんじえなかった。
かれはかれのともにやゆせられたるけっかとしてまずてはじめにわがはいをしゃせいしつつあるのである。
わがはいはすでにじゅうぶんねた。
あくびがしたくてたまらない。
しかしせっかくしゅじんがねっしんにふでをとっているのをうごいてはきのどくだとおもって、じっとからしぼうしておった。
かれはいまわがはいのりんかくをかきあげてかおのあたりをいろいろどっている。
わがはいはじはくする。
わがはいはねことしてけっしてじょうじょうのできではない。
せといいけなみといいがおのぞうさといいあえてたのねこにまさるとはけっしておもっておらん。
しかしいくらぶきりょうのわがはいでも、いまわがはいのしゅじんにえがきだされつつあるようなみょうなすがたとは、どうしてもおもわれない。
だいいっしょくがちがう。
わがはいはなみ斯産のねこのごとくきをふくめるあわはいいろにうるしのごときふいりのひふをゆうしている。
これだけはだれがみてもうたがうべからざるじじつとおもう。
しかるにこんしゅじんのさいしきをみると、きでもなければくろでもない、はいいろでもなければかっしょくでもない、さればとてこれらをまぜたいろでもない。
ただいちしゅのいろであるというよりほかにひょうしかたのないいろである。
そのうえふしぎなことはめがない。
もっともこれはねているところをしゃせいしたのだからむりもないがめらしいところさえみえないからめくらねこだかねているねこだかはんぜんしないのである。
わがはいはしんじゅうひそかにいくらあんどれあ・でる・さるとでもこれではしようがないとおもった。
しかしそのねっしんにはかんぷくせざるをえない。
なるべくならうごかずにおってやりたいとおもったが、さっきからしょうべんが催うしている。
みうちのきんにくはむずむずする。
もはやいちふんもゆうよができぬしぎとなったから、やむをえずしっけいしてりょうあしをまえへぞんぶんのして、くびをひくくおしだしてあーあとだいなるあくびをした。
さてこうなってみると、もうおとなしくしていてもしかたがない。
どうせしゅじんのよていはうち壊わしたのだから、ついでにうらへいってようをたそうとおもってのそのそはいだした。
するとしゅじんはしつぼうといかりをかきまぜたようなこえをして、ざしきのなかから「このばかやろう」とどなった。
このしゅじんはひとをののしるときはかならずばかやろうというのがくせである。
ほかにわるぐちのいいようをしらないのだからしかたがないが、いままでからしぼうしたひとのきもしらないで、むあんにばかやろうこわりはしっけいだとおもう。
それもへいぜいわがはいがかれのせなかへのるときにすこしはよいかおでもするならこのまんばもあまんじてうけるが、こっちのべんりになることはなにひとつこころよくしてくれたこともないのに、しょうべんにたったのをばかやろうとはひどい。
がんらいにんげんというものはじこのりきりょうに慢じてみんなぞうちょうしている。
すこしにんげんよりつよいものがでてきてたしなめてやらなくてはこのさきどこまでぞうちょうするかわからない。
わがままもこのくらいならがまんするがわがはいはにんげんのふとくについてこれよりもすうばいかなしむべきほうどうをみみにしたことがある。
わがはいのいえのうらにじゅうつぼばかりのちゃえんがある。
ひろくはないがしょうしゃとしたこころもちよくひのあたるところだ。
うちのしょうきょうがあまりさわいでらくらくひるねのできないときや、あまりたいくつではらかげんのよくないおりなどは、わがはいはいつでもここへでてこうぜんのきをやしなうのがれいである。
あるこはるの穏かなびのにじごろであったが、わがはいはひるめしごかいよくいっすいしたのち、うんどうかたがたこのちゃえんへとふをはこばした。
ちゃのきのねをいちほんいちほんかぎながら、にしがわのすぎかきのそばまでくると、枯菊をおしたおしてそのうえにおおきなねこがぜんごふかくにねている。
かれはわがはいのちかづくのもいっこうこころづかざるごとく、またこころづくもむとんじゃくなるごとく、おおきないびきをしてながながとからだをよこえてねむっている。
たのにわないにしのびいりたるものがかくまでへいきにねむられるものかと、わがはいはひそかにそのだいたんなるどきょうにおどろかざるをえなかった。
かれはじゅんすいのくろねこである。
わずかにうまをすぎたるたいようは、とうめいなるこうせんをかれのひふのうえにほうげかけて、きらきらするやわらけのまよりめにみえぬほのおでももえでずるようにおもわれた。
かれはねこちゅうのだいおうともいうべきほどのいだいなるたいかくをゆうしている。
わがはいのばいはたしかにある。
わがはいはたんしょうのねんと、こうきのこころにぜんごをわすれてかれのまえにちょりつしてよねんもなくながめていると、しずかなるこはるのかぜが、すぎかきのうえからでたるあおぎりのえだをかるくさそってばらばらとにさんまいのはが枯菊のしげみにおちた。
だいおうはかっとそのまんまるのめをひらいた。
いまでもきおくしている。
そのめはにんげんのちんちょうするこはくというものよりもはるかにうつくしくかがやいていた。
かれはみうごきもしない。
そうぼうのおくからいるごときひかりをわがはいのわいしょうなるがくのうえにあつめて、ごめえはいったいなにだとゆった。
だいおうにしてはしょうしょうことばがいやしいとおもったがなにしろそのこえのそこにいぬをも挫しぐべきりょくがこもっているのでわがはいはすくなからずおそれをだいた。
しかしあいさつをしないとけん呑だとおもったから「わがはいはねこである。
なまえはまだない」となるべくへいきをよそおってれいぜんとこたえた。
しかしこのときわがはいのしんぞうはたしかにへいじよりもはげしくこどうしておった。
かれはだいにけいべつせるちょうしで「なに、ねこだ?ねこがきいてあきれらあ。
すべてえどこにすんでるんだ」ずいぶんぼうじゃくぶじんである。
「わがはいはここのきょうしのいえにいるのだ」「どうせそんなことだろうとおもった。
いやにやせてるじゃねえか」とだいおうだけにきえんをふきかける。
ことばづけからさっするとどうもりょうけのねこともおもわれない。
しかしそのあぶらきってひまんしているところをみるとごちそうをくってるらしい、ゆたかにくらしているらしい。
わがはいは「そういうきみはいったいだれだい」ときかざるをえなかった。
「おのれれあくるまやのくろよ」こうぜんたるものだ。
くるまやのくろはこのきんぺんでしらぬものなきらんぼうねこである。
しかしくるまやだけにつよいばかりでちっともきょういくがないからあまりだれもこうさいしない。
どうめいけいえんしゅぎのまとになっているやつだ。
わがはいはかれのなをきいてしょうしょうしりこそばゆきかんじをおこすとどうじに、いっぽうではしょうしょうけいぶのねんもしょうじたのである。
わがはいはまずかれがどのくらいむがくであるかをためしてみようとおもってひだりのもんどうをしてみた。
「いったいしゃやときょうしとはどっちがえらいだろう」
「くるまやのほうがつよいにきょくっていらあな。
ごめえのうちのしゅじんをみねえ、まるでほねとかわばかりだぜ」
「きみもくるまやのねこだけにおおいたきょうそうだ。
くるまやにいるとごちそうがくえるとみえるね」
「なににおれなんざ、どこのくにへいったってくいものにふじゆうはしねえつもりだ。
ごめえなんかもちゃはたけばかりぐるぐるまわっていねえで、ちっとおのれののちへくっついてきてみねえ。
いちとつきとたたねえうちにみちがえるようにふとれるぜ」
「おってそうねがうことにしよう。
しかしいえはきょうしのほうがくるまやよりおおきいのにすんでいるようにおもわれる」
「へらぼうめ、うちなんかいくらおおきくたってはらのたしになるもんか」
かれはだいにかんしゃくにさわったようすで、かんちくをそいだようなみみをしきりとぴくつかせてあららかにたちさった。
わがはいがくるまやのくろとちきになったのはこれからである。
そのごわがはいはたびたびくろとかいこうする。
かいこうするごとにかれはくるまやそうとうのきえんをはく。
さきにわがはいがみみにしたというふとくじけんもじつはくろからきいたのである。
あるるひれいのごとくわがはいとくろはあたたかいちゃはたけのなかでねころびながらいろいろざつだんをしていると、かれはいつものじまんはなしをさもあたらしそうにくりかえしたあとで、わがはいにむかってしたのごとくしつもんした。
「ごめえはいままでにねずみをなんひきとったことがある」ちしきはくろよりもよほどはったつしているつもりだがわんりょくとゆうきとにいたってはとうていくろのひかくにはならないとかくごはしていたものの、このといにせっしたるときは、さすがにきまりがよくはなかった。
けれどもじじつはじじつで詐るわけにはいかないから、わがはいは「じつはとろうとろうとおもってまだとらない」とこたえた。
くろはかれのはなのさきからぴんと突はっているながいひげをびりびりとふるわせてひじょうにわらった。
がんらいくろはじまんをするたけにどこかたりないところがあって、かれのきえんをかんしんしたようにいんこうをころころならしてきんちょうしていればはなはだぎょしやすいねこである。
わがはいはかれとこんづけになってからじかにこのこきゅうをのみこんだからこのばあいにもなまじいおのれれをべんごしてますますけいせいをわるくするのもぐである、いっそのことかれにじぶんのてがらばなしをしゃべらしてごちゃをにごすにわかくはないとしあんをさだめた。
そこでおとなしく「きみなどはとしがとしであるからだいぶとったろう」とそそのかしてみた。
かぜんかれは墻壁のけつしょにとっかんしてきた。
「たんとでもねえがさんよんじゅうはとったろう」とはとくいげなるかれのこたえであった。
かれはなおかたりをつづけて「ねずみのひゃくやにひゃくはいちにんでいつでもひきうけるがいたちってえやつはてにあわねえ。
いちどいたちにむかってひどいめにあった」「へえなるほど」とあいづちをうつ。
くろはおおきなめをぱちつかせていう。
「きょねんのだいそうじのときだ。
うちのていしゅがせっかいのふくろをもって椽のしたへはいこんだらごめえおおきないたちのやろうがめんくってとびだしたとおもいねえ」「ふん」とかんしんしてみせる。
「いたちってけどもなにねずみのすこしおおきいぐれえのものだ。
こんちくしょうってきでおっかけてとうとうどろみぞのなかへおいこんだとおもいねえ」「うまくやったね」とかっさいしてやる。
「ところがごめえいざってえだんになるとやっこめさいごっぺをこきゃがった。
におえのくさくねえのってそれからってえものはいたちをみるとむねがわるくならあ」かれはここにいたってあたかもきょねんのしゅうきをいまなおかんずるごとくまえあしをあげてはなのあたまをにさんへんなでめぐわした。
わがはいもしょうしょうきのどくなかんじがする。
ちっとけいきをつけてやろうとおもって「しかしねずみならきみににらまれてはひゃくねんめだろう。
きみはあまりねずみをとるのがめいじんでねずみばかりくうものだからそんなにふとっていろつやがよいのだろう」くろのごきげんをとるためのこのしつもんはふしぎにもはんたいのけっかをていしゅつした。
かれは喟然としてたいそくしていう。
「こうげえるとつまらねえ。
いくらかせいでねずみをとったって――いちてえにんげんほどふてえやつはよのなかにいねえぜ。
ひとのとったねずみをみんなとりあげやがってこうばんへもっていきゃあがる。
こうばんじゃだれがとったかわからねえからそのたんびにごせんずつくれるじゃねえか。
うちのていしゅなんかおのれのおかげでもういちえんごじゅうせんくらいもうけていやがるくせに、ろくなものをくわせたこともありゃしねえ。
おいにんげんてものあからだのよいどろぼうだぜ」さすがむがくのくろもこのくらいのりくつはわかるとみえてすこぶるおこったようすでせなかのけをさかだてている。
わがはいはしょうしょうきみがわるくなったからよいかげんにそのばをえびすまかしていえへかえった。
このときからわがはいはけっしてねずみをとるまいとけっしんした。
しかしくろのこぶんになってねずみいがいのごちそうをりょうってあるくこともしなかった。
ごちそうをくうよりもねていたほうがきらくでいい。
きょうしのいえにいるとねこもきょうしのようなせいしつになるとみえる。
ようじんしないといまにいじゃくになるかもしれない。
きょうしといえばわがはいのしゅじんもちかごろにいたってはとうていすいさいがにおいてもちのないことをさとったものとみえてじゅうにがついちにちのにっきにこんなことをかきつけた。
○○というひとにきょうのかいではじめてであった。
あのひとはおおいたほうとうをしたひとだというがなるほどつうじんらしいふうさいをしている。
こういうしつのひとはおんなにすかれるものだから○○がほうとうをしたというよりもほうとうをするべくよぎなくせられたというのがてきとうであろう。
あのひとのさいくんはげいしゃだそうだ、うらやましいことである。
がんらいほうとうかをわるくいうひとのだいぶぶんはほうとうをするしかくのないものがおおい。
またほうとうかをもってじにんするれんちゅうのうちにも、ほうとうするしかくのないものがおおい。
これらはよぎなくされないのにむりにすすんでやるのである。
あたかもわがはいのすいさいがにおけるがごときものでとうていそつぎょうするきづかいはない。
しかるにもかんせず、じぶんだけはつうじんだとおもってなしている。
りょうりやのさけをのんだりまちあいへはいいるからつうじんとなりえるというろんがたつなら、わがはいもひとかどのすいさいがかになりえるりくつだ。
わがはいのすいさいがのごときはかかないほうがましであるとおなじように、ぐまいなるつうじんよりもやまだしのだいやぼのほうがはるかにじょうとうだ。
つうじんろんはちょっとしゅこうしかねる。
またげいしゃのさいくんをともしいなどというところはきょうしとしてはくちにすべからざるぐれつのこうであるが、じこのすいさいがにおけるひひょうめだけはたしかなものだ。
しゅじんはかくのごとくじちのめいあるにもかんせずそのじ惚心はなかなかぬけない。
ちゅうににちおいてじゅうにがつよんにちのにっきにこんなことをかいている。
さくやはぼくがすいさいがをかいてとうていものにならんとおもって、そこらにほうっておいたのをだれかがりっぱながくにしてらんまにかけてくれたゆめをみた。
さてがくになったところをみるとわがながらきゅうにじょうずになった。
ひじょうにうれしい。
これならりっぱなものだとひとりでながめくらしていると、よるがあけてめがさめてやはりもとのとおりへたであることがあさひとともにめいりょうになってしまった。
しゅじんはゆめのうらまですいさいがのみれんをせおってあるいているとみえる。
これではすいさいがかはむろんふうしのところいいつうじんにもなれないしつだ。
しゅじんがすいさいがをゆめにみたよくじつれいのきんぶちめがねのびがくしゃがひさしぶりでしゅじんをほうもんした。
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かんげつはなんとなくそわそわしているごとくみえた。
にんげんのしんりほどかいしがたいものはない。
このしゅじんのいまのこころはおこっているのだか、うかれているのだか、またはてつじんのいしょにいちどうのいあんをもとめつつあるのか、ちっともわからない。
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くいたければくい、ねたければねる、おこるときはいっしょうけんめいにおこり、なくときはぜったいぜつめいになく。
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にっきをつけるひまがあるなら椽側にねているまでのことさ。
かんだのぼうちんでばんさんをくう。
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たかじやすたーぜはむろんいかん。
だれがなにとゆってもだめだ。
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しゅじんのこころはわがはいのがんきゅうのようにかんだんなくへんかしている。
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せんだってそのゆうじんでぼうというがくしゃがたずねてきて、いっしゅのけんちから、すべてのびょうきはふそのざいあくとじこのざいあくのけっかにほかならないというぎろんをした。
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するとゆうじんは「かーらいるがいじゃくだって、いじゃくのびょうにんがかならずかーらいるにはなれないさ」ときめつけたのでしゅじんはもくぜんとしていた。
かくのごとくきょえいしんにとんでいるもののじっさいはやはりいじゃくでないほうがいいとみえて、こんやからばんしゃくをはじめるなどというのはちょっとこっけいだ。
かんがえてみるとけさぞうにをあんなにたくさんくったのもさくやかんげつくんとまさむねをひっくりかえしたえいきょうかもしれない。
わがはいもちょっとぞうにがくってみたくなった。
わがはいはねこではあるがたいていのものはくう。
くるまやのくろのようによこちょうのさかなやまでえんせいをするきりょくはないし、しんどうのにげんきんのししょうのところのさんもうのようにぜいたくはむろんうんえるみぶんでない。
したがってぞんがいいやはすくないほうだ。
しょうきょうのくいこぼしためん麭もくうし、もちがしの※もなめる。
こうのものはすこぶるまずいがけいけんのためたくあんをにせつばかりやったことがある。
くってみるとみょうなもので、たいていのものはくえる。
あれはいやだ、これはいやだというのはぜいたくなわがままでとうていきょうしのいえにいるねこなどのくちにすべきところでない。
しゅじんのはなしによるとふらんすにばるざっくというしょうせつかがあったそうだ。
このおとこがだいのぜいたくやで――もっともこれはくちのぜいたくやではない、しょうせつかだけにぶんしょうのぜいたくをつくしたということである。
ばるざっくがあるるひじぶんのかいているしょうせつちゅうのにんげんのなをつけようとおもっていろいろつけてみたが、どうしてもきにいらない。
ところへゆうじんがあそびにきたのでいっしょにさんぽにでかけた。
ゆうじんはかたよりなにもしらずにつれだされたのであるが、ばるざっくはかねてじぶんのくしんしているなをめつけようというかんがえだからおうらいへでるとなにもしないでみせさきのかんばんばかりみてほこういている。
ところがやはりきにいったながない。
ゆうじんをつれてむあんにあるく。
ゆうじんはわけがわからずにくっついていく。
かれらはついにあさからばんまでともえりをたんけんした。
そのかえりがけにばるざっくはふとあるさいほうやのかんばんがめについた。
みるとそのかんばんにまーかすというながかいてある。
ばるざっくはてをはくって「これだこれだこれにかぎる。
まーかすはよいなじゃないか。
まーかすのうえへずぃーというかしらもじをつける、するともうしぶんのないなができる。
ずぃーでなくてはいかん。
Z. Marcus はじつにうまい。
どうもじぶんでつくったなはうまくつけたつもりでもなんとなくこいとらしいところがあっておもしろくない。
ようやくのことできにいったなができた」とゆうじんのめいわくはまるでわすれて、いちにんうれしがったというが、しょうせつちゅうのにんげんのなまえをつけるにいちにちともえりをたんけんしなくてはならぬようではずいぶんてすうのかかるはなしだ。
ぜいたくもこのくらいできればけっこうなものだがわがはいのようにかきてきしゅじんをもつみのうえではとてもそんなきはでない。
なにでもいい、くえさえすれば、というきになるのもきょうぐうのしからしむるところであろう。
だからこんぞうにがくいたくなったのもけっしてぜいたくのけっかではない、なにでもくえるときにくっておこうというこうから、しゅじんのくいあましたぞうにがもしやだいどころにのこっていはすまいかとおもいだしたからである。
……だいどころへまわってみる。
けさみたとおりのもちが、けさみたとおりのいろでわんのそこにこうちゃくしている。
はくじょうするがもちというものはいままでいちへんもくちにいれたことがない。
みるとうまそうにもあるし、またすこしはきみがわるくもある。
まえあしでうえにかかっているなっぱをかきよせる。
つめをみるともちのじょうひがひきかかってねばねばする。
かいでみるとかまのそこのめしをごひつへうつすときのようなこうがする。
くおうかな、やめようかな、とあたりをみまわす。
こうかふこうかだれもいない。
ごさんはくれもはるもおなじようなかおをしてはねをついている。
しょうきょうはおくざしきで「なんとおっしゃるうさぎさん」をうたっている。
くうとすればいまだ。
もしこのきをはずすとらいねんまではもちというもののあじをしらずにくらしてしまわねばならぬ。
わがはいはこのせつなにねこながらいちのしんりをかんとくした。
「えがたききかいはすべてのどうぶつをして、このまざることをも敢てせしむ」わがはいはみをいうとそんなにぞうにをくいたくはないのである。
いなわんそこのようすをじゅくしすればするほどきみがわるくなって、くうのがいやになったのである。
このときもしごさんでもかってぐちをあけたなら、おくのしょうきょうのあしおとがこちらへちかづくのをききえたなら、わがはいは惜気もなくわんをみすてたろう、しかもぞうにのことはらいねんまでねんとうにうかばなかったろう。
ところがだれもこない、いくら※躇していてもだれもこない。
はやくくわぬかくわぬかとさいそくされるようなこころもちがする。
わがはいはわんのなかをのぞきこみながら、はやくだれかきてくれればいいとねんじた。
やはりだれもきてくれない。
わがはいはとうとうぞうにをくわなければならぬ。
さいごにからだぜんたいのじゅうりょうをわんのそこへおとすようにして、あぐりともちのかくをいっすんばかりくいこんだ。
このくらいちからをこめてくいついたのだから、たいていなものならかみきれるわけだが、おどろいた!もうよかろうとおもってはをひこうとするとひけない。
もういちへんかみなおそうとするとうごきがとれない。
もちはまものだなとかんづいたときはすでにおそかった。
ぬまへでもおちたひとがあしをぬこうとしょうりょるたびにぶくぶくふかくしずむように、かめばかむほどくちがおもくなる、はがうごかなくなる。
はこたえはあるが、はこたえがあるだけでどうしてもしまつをつけることができない。
びがくしゃ迷亭せんせいがかつてわがはいのしゅじんをひょうしてきみはわりきれないおとこだといったことがあるが、なるほどうまいことをいったものだ。
このもちもしゅじんとおなじようにどうしてもわりきれない。
かんでもかんでも、さんでじゅうをわれるごとくじんみらいぎわかたのつくきはあるまいとおもわれた。
このはんもんのさいわがはいはおぼえずだいにのしんりにほうちゃくした。
「すべてのどうぶつはちょっかくてきにじぶつのてきふてきをよちす」しんりはすでにふたつまではつめいしたが、もちがくっついているのでごうもゆかいをかんじない。
はがもちのにくにきゅうしゅうされて、ぬけるようにいたい。
はやくくいきってにげないとごさんがくる。
しょうきょうのしょうかもやんだようだ、きっとだいどころへ馳けだしてくるにそういない。
はんもんのきょくしっぽをぐるぐるふってみたがなんらのこうのうもない、みみをたてたりねかしたりしたがだめである。
かんがえてみるとみみとしっぽはもちとなんらのかんけいもない。
ようするにふりそんの、だてそんの、ねかしそんであるときがついたからやめにした。
ようやくのことこれはまえあしのたすけをかりてもちをはらいおとすにかぎるとかんがえついた。
まずみぎのほうをあげてくちのしゅういをなでまわす。
なでたくらいでわりきれるわけのものではない。
こんどはひだりりのほうをのばしてくちをちゅうしんとしてきゅうげきにえんをかくしてみる。
そんなのろいでまはおちない。
からしぼうがかんじんだとおもってさゆう交る交るにうごかしたがやはりいぜんとしてははもちのなかにぶらくだっている。
ええめんどうだとりょうあしをいちどにつかう。
するとふしぎなことにこのときだけはあとあしにほんでたつことができた。
なんだかねこでないようなかんじがする。
ねこであろうが、あるまいがこうなったひにゃあかまうものか、なにでももちのまがおちるまでやるべしといういきごみでむちゃくちゃにかおちゅうひっかきまわす。
まえあしのうんどうがもうれつなのでややともするとちゅうしんをうしなってたおれかかる。
たおれかかるたびにあとあしでちょうしをとらなくてはならぬから、ひとつしょにいるわけにもいかんので、だいどころちゅうあちら、こちらととんでめぐる。
わがながらよくこんなにきようにたっていられたものだとおもう。
だいさんのしんりがまっしぐらにげんぜんする。
「ききにのぞめばへいじょうなしあたわざるところのものをなしあたう。
これをてんゆうという」こうにてんゆうをとおるけたるわがはいがいっしょうけんめいもちのまとたたかっていると、なんだかあしおとがしておくよりひとがくるようなきあいである。
ここでひとにきたられてはたいへんだとおもって、いよいよやっきとなってだいどころをかけめぐる。
あしおとはだんだんちかづいてくる。
ああざんねんだがてんゆうがすこしたりない。
とうとうしょうきょうにみつけられた。
「あらねこがごぞうにをたべておどりをおどっている」とおおきなこえをする。
このこえをだいいちにききつけたのがごさんである。
はねもはごいたもうちやってかってから「あらまあ」ととびこんでくる。
さいくんはちりめんのもんつきで「いやなねこねえ」とおおせられる。
しゅじんさえしょさいからでてきて「このばかやろう」といった。
おもしろいおもしろいというのはしょうともばかりである。
そうしてみんなもうしあわせたようにげらげらわらっている。
はらはたつ、くるしくはある、おどりはやめるわけにゆかぬ、よわった。
ようやくわらいがやみそうになったら、いつつになるおんなのこが「おかあよう、ねこもずいぶんね」といったのできょうらんをきとうになんとかするというぜいでまたたいへんわらわれた。
にんげんのどうじょうにとぼしいじっこうもおおいたけんぶんしたが、このときほどうらめしくかんじたことはなかった。
ついにてんゆうもどっかへきえうせて、ざいらいのとおりよっつ這になって、めをしろくろするのしゅうたいをえんずるまでにへいこうした。
さすがみごろしにするのもきのどくとみえて「まあもちをとってやれ」としゅじんがごさんにめいずる。
ごさんはもっとおどらせようじゃありませんかというめづけでさいくんをみる。
さいくんはおどりはみたいが、ころしてまでみるきはないのでだまっている。
「とってやらんとしんでしまう、はやくとってやれ」としゅじんはふたたびげじょをかえりみる。
ごさんはごちそうをはんぶんたべかけてゆめからおこされたときのように、きのないかおをしてもちをつかんでぐいとひく。
かんげつくんじゃないがまえばがみんなおれるかとおもった。
どうもいたいのいたくないのって、もちのなかへかたくくいこんでいるはをなさけようしゃもなくひっぱるのだからたまらない。
わがはいが「すべてのあんらくはこんくをつうかせざるべからず」というだいよんのしんりをけいけんして、けろけろとあたりをみまわしたときには、かじんはすでにおくざしきへはいいってしまっておった。
こんなしっぱいをしたときにはうちにいてごさんなんぞにかおをみられるのもなんとなくばつがわるい。
いっそのこときをやすえてしんどうのにげんきんのごししょうさんのところのさんもうこでもほうもんしようとだいどころからうらへでた。
みけこはこのきんぺんでゆうめいなびぼうかである。
わがはいはねこにはそういないがもののなさけはいちとおりこころえている。
うちでしゅじんのにがいかおをみたり、ごさんのけん突をくってきぶんがすぐれんときはかならずこのいせいのほうゆうのもとをほうもんしていろいろなはなしをする。
すると、いつのまにかこころがはればれしていままでのしんぱいもくろうもなにもかもわすれて、うまれかわったようなこころもちになる。
じょせいのえいきょうというものはじつにばくだいなものだ。
すぎかきのひまから、いるかなとおもってみわたすと、みけこはしょうがつだからくびわのあたらしいのをしてぎょうぎよく椽側にすわっている。
そのせなかのまるさかげんがいうにいわれんほどうつくしい。
きょくせんのびをつくしている。
しっぽのまがりかげん、あしのおりぐあい、ものうげにみみをちょいちょいふるけしきなどもとうていけいようができん。
ことによくひのあたるところにあたたかそうに、しなよくひかえているものだから、しんたいはせいしゅくたんせいのたいどをゆうするにもせきらず、てんがもうをあざむくほどのなめらかなまんみのけははるのひかりをはんしゃしてかぜなきにむらむらとびどうするごとくにおもわれる。
わがはいはしばらくこうこつとしてながめていたが、やがてわがにかえるとどうじに、ひくいこえで「みけこさんさんもうこさん」といいながらまえあしでまねいた。
みけこは「あらせんせい」と椽をおりる。
あかいくびわにつけたすずがちゃらちゃらとなる。
おやしょうがつになったらすずまでつけたな、どうもいいおとだとかんしんしているまに、わがはいのはたにきて「あらせんせい、おめでとう」とおをひだりりへふる。
われとうねこぞくかんでおかたみにあいさつをするときにはおをぼうのごとくたてて、それをひだりりへぐるりとまわすのである。
ちょうないでわがはいをせんせいとよんでくれるのはこのみけこばかりである。
わがはいはぜんかいことわったとおりまだなはないのであるが、きょうしのいえにいるものだからさんもうこだけはそんけいしてせんせいせんせいといってくれる。
わがはいもせんせいといわれてまんざらわるいこころもちもしないから、はいはいとへんじをしている。
「やあおめでとう、たいそうりっぱにごけしょうができましたね」「ええきょねんのくれごししょうさんにかっていただいたの、むべいでしょう」とちゃらちゃらならしてみせる。
「なるほどよいおとですな、わがはいなどはうまれてから、そんなりっぱなものはみたことがないですよ」「あらいやだ、みんなぶらさげるのよ」とまたちゃらちゃらならす。
「いいおとでしょう、あたしうれしいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃらつづけざまにならす。
「あなたのうちのごししょうさんはたいへんあなたをかわいがっているとみえますね」とわれみにひきくらべてあんに欣羨のいをもらす。
みけこはむじゃきなものである「ほんとよ、まるでじぶんのしょうきょうのようよ」とあどけなくわらう。
ねこだってわらわないとはかぎらない。
にんげんはじぶんよりほかにわらえるものがないようにおもっているのはまちがいである。
わがはいがわらうのははなのあなをさんかくにしてのんどのどぼとけをしんどうさせてわらうのだからにんげんにはわからぬはずである。
「いったいあなたのところのごしゅじんはなにですか」「あらごしゅじんだって、みょうなのね。
ごししょうさんだわ。
にげんきんのごししょうさんよ」「それはわがはいもしっていますがね。
そのおんみぶんはなになんです。
いずれむかししはりっぱなほうなんでしょうな」「ええ」
きみをまつまのひめこまつ……………
しょうじのうちでごししょうさんがにげんきんをはじきだす。
「むべいごえでしょう」とさんもうこはじまんする。
「むべいようだが、わがはいにはよくわからん。
ぜんたいなにというものですか」「あれ?あれはなんとかってものよ。
ごししょうさんはあれがだいすきなの。
……ごししょうさんはあれでろくじゅうによ。
ずいぶんじょうぶだわね」ろくじゅうにでいきているくらいだからじょうぶといわねばなるまい。
わがはいは「はあ」とへんじをした。
すこしまがぬけたようだがべつにめいとうもでてこなかったからしかたがない。
「あれでも、もとはみぶんがたいへんよかったんだって。
いつでもそうおっしゃるの」「へえもとはなにだったんです」「なにでもてんしょういんさまのごゆうひつのいもうとのごよめにいったさききのごっかさんのおいのむすめなんだって」「なんですって?」「あのてんしょういんさまのごゆうひつのいもうとのごよめにいった……」「なるほど。
すこしまってください。
てんしょういんさまのいもうとのごゆうひつの……」「あらそうじゃないの、てんしょういんさまのごゆうひつのいもうとの……」「よろしいわかりましたてんしょういんさまのでしょう」「ええ」「ごゆうひつのでしょう」「そうよ」「ごよめにいった」「いもうとのごよめにいったですよ」「そうそうまちがった。
いもうとのごよめにはいったさききの」「おっかさんのおいのむすめなんですとさ」「おっかさんのおいのむすめなんですか」「ええ。
わかったでしょう」「いいえ。
なんだかこんざつしてようりょうをえないですよ。
つまるところてんしょういんさまのなにになるんですか」「あなたもよっぽどわからないのね。
だからてんしょういんさまのごゆうひつのいもうとのごよめにいったさききのごっかさんのおいのむすめなんだって、さきっきっからいってるんじゃありませんか」「それはすっかりわかっているんですがね」「それがわかりさえすればいいんでしょう」「ええ」としかたがないからこうさんをした。
われ々はときとするとりづめのきょげんをはかねばならぬことがある。
しょうじのなかでにげんきんのおとがぱったりやむと、ごししょうさんのこえで「さんもうやさんもうやごはんだよ」とよぶ。
みけこはうれしそうに「あらごししょうさんがよんでいらっしゃるから、わたししかえるわ、よくって?」わるいとゆったってしかたがない。
「それじゃまたあそびにいらっしゃい」とすずをちゃらちゃらならしてにわさきまでかけていったがきゅうにもどってきて「あなたたいへんしょくがわるくってよ。
どうかしやしなくって」としんぱいそうにといかける。
まさかぞうにをくっておどりをおどったともいわれないから「なにべつだんのこともありませんが、すこしかんがえごとをしたらずつうがしてね。
あなたとはなしでもしたらなおるだろうとおもってじつはでかけてきたのですよ」「そう。
ごだいじになさいまし。
さようなら」すこしはなごりおしきにみえた。
これでぞうにのげんきもさっぱりとかいふくした。
いいこころもちになった。
かえりにれいのちゃえんをとおりぬけようとおもってしもばしらのとけかかったのをふみつけながらけんにんじのくずれからかおをだすとまたくるまやのくろが枯菊のうえにせをやまにしてあくびをしている。
ちかごろはくろをみてきょうふするようなわがはいではないが、はなしをされるとめんどうだからしらぬかおをしていきすぎようとした。
くろのせいしつとしてたがおのれれをけいぶしたと認むるやいなやけっしてだまっていない。
「おい、ななしのごんべえ、ちかごろじゃおつうたかくとまってるじゃあねえか。
いくらきょうしのめしをくったって、そんなこうまんちきなめんらあするねえ。
ひとつけおもしろくもねえ」くろはわがはいのゆうめいになったのを、まだしらんとみえる。
せつめいしてやりたいがとうていわかるやっこではないから、まずいちおうのあいさつをしてできえるかぎりはやくごめんこうむるにわかくはないとけっしんした。
「いやくろくんおめでとう。
ふあいへんげんきがいいね」としっぽをたててひだりへくるりとまわりわす。
くろはしっぽをたてたぎりあいさつもしない。
「なにおめでてえ?しょうがつでおめでたけりゃ、ごめえなんざあねんがねんじゅうおめでてえほうだろう。
きをつけろい、このふいこのむこうめんめ」ふいこのむかうづらというくはばりのげんごであるようだが、わがはいにはりょうかいができなかった。
「ちょっと伺がうがふいこのむかうづらというのはどういういみかね」「へん、てめえがあくからだをつかれてるくせに、そのわけをききゃせわあねえ、だからしょうがつやろうだってことよ」しょうがつやろうはしてきであるが、そのいみにいたるとふいこのなんとかよりもいっそうふめいりょうなもんくである。
さんこうのためちょっときいておきたいが、きいたってめいりょうなとうべんはえられぬにきわまっているから、めんとたいったままむごんでたっておった。
いささかてもちぶさたのからだである。
するととつぜんくろのうちのかみさんがおおきなこえをはりあげて「おやたなへあげておいたさけがない。
たいへんだ。
またあのくろのちくしょうがとったんだよ。
ほんとににくらしいねこだっちゃありゃあしない。
いまにかえってきたら、どうするかみていやがれ」とどなる。
しょしゅんののどかなくうきをぶえんりょにしんどうさせて、えだをならさぬきみがみよをだいにぞくりょうしてしまう。
くろはどなるなら、どなりたいだけどなっていろといわぬばかりにおうちゃくなかおをして、しかくな顋をまえへだしながら、あれをきいたかとあいずをする。
いままではくろとのおうたいできがつかなかったが、みるとかれのあしのしたにはいちきれにせんさんりんにそうとうするさけのほねがどろだらけになってころがっている。
「きみふあいへんやってるな」といままでのゆきがかりはわすれて、ついかんとうことばをほうていした。
くろはそのくらいなことではなかなかきげんをなおさない。
「なにがやってるでえ、このやろう。
しゃけのいっさいやにせつであいかわらずたあなにだ。
ひとをみくびびったごとをいうねえ。
はばかりながらくるまやのくろだあ」とうでまくりのかわりにみぎのまえあしをぎゃくかにかたのあたりまでかきあげた。
「きみがくろくんだということは、はじめからしってるさ」「しってるのに、あいかわらずやってるたあなにだ。
なにだてえことよ」とあついのをしきりにふきかける。
にんげんならむなぐらをとられてこづきまわされるところである。
しょうしょうへきえきしてないしんこまったことになったなとおもっていると、ふたたびれいのかみさんのおおごえがきこえる。
「ちょいとにしかわさん、おいにしかわさんてば、ようがあるんだよこのひとあ。
ぎゅうにくをいちきんすぐもってくるんだよ。
いいかい、わかったかい、ぎゅうにくのかたくないところをいちきんだよ」とぎゅうにくちゅうもんのこえがしりんのせきばくをやぶる。
「へんねんにいっぺんぎゅうにくをあつらえるとおもって、いやにおおきなこえをだしゃあがらあ。
ぎゅうにくいちきんがとなりきんじょへじまんなんだからしまつにおえねえおもねまだ」とくろはあざけりながらよっつあしを踏はる。
わがはいはあいさつのしようもないからだまってみている。
「いちきんくらいじゃあ、しょうちができねえんだが、しかたがねえ、いいからとっときゃ、いまにくってやらあ」とじぶんのためにあつらえたもののごとくいう。
「こんどはほんとうのごちそうだ。
けっこうけっこう」とわがはいはなるべくかれをきそうとする。
「ごめっちのしったことじゃねえ。
だまっていろ。
うるせえや」といいながらとつぜんあとあしでしもばしらのくずれたやつをわがはいのあたまへばさりとあびせかける。
わがはいがおどろきろいて、からだのどろをはらっているまにくろはかきねをもぐって、どこかへすがたをかくした。
おおかたにしかわのうしを覘にいったものであろう。
いえへかえるとざしきのなかが、いつになくはるめいてしゅじんのわらいごえさえようきにきこえる。
はてなとあけはなした椽側からのぼってしゅじんのはたへよってみるとみなれぬきゃくがきている。
あたまをきれいにわけて、もめんのもんつきのはおりにおぐらのはかまをつけてしごくまじめそうなしょせいたいのおとこである。
しゅじんのてあぶりのかくをみるとしゅんけいぬりのまきたばこいれとならんでおちとうふうくんをしょうかい致候みずしまかんげつというめいしがあるので、このきゃくのなまえも、かんげつくんのゆうじんであるということもしれた。
しゅきゃくのたいわはとちゅうからであるからぜんごがよくわからんが、なんでもわがはいがぜんかいにしょうかいしたびがくしゃ迷亭くんのことにかんしているらしい。
「それでおもしろいしゅこうがあるからぜひいっしょにこいとおっしゃるので」ときゃくはおちついていう。
「なにですか、そのせいようりょうりへいってうまめしをくうのについてしゅこうがあるというのですか」としゅじんはちゃをぞくぎたしてきゃくのまえへおしやる。
「さあ、そのしゅこうというのが、そのときはわたしにもわからなかったんですが、いずれあのほうのことですから、なにかおもしろいたねがあるのだろうとおもいまして……」「いっしょにいきましたか、なるほど」「ところがおどろいたのです」しゅじんはそれみたかといわぬばかりに、ひざのうえにのったわがはいのあたまをぽかとたたく。
すこしいたい。
「またばかなちゃばんみたようなことなんでしょう。
あのおとこはあれがくせでね」ときゅうにあんどれあ・でる・さるとじけんをおもいだす。
「へへー。
きみなにかかわったものをくおうじゃないかとおっしゃるので」「なにをくいました」「まずこんだてをみながらいろいろりょうりについてのごはなしがありました」「あつらえらえないまえにですか」「ええ」「それから」「それからくびをひねってぼいのほうをごらんになって、どうもかわったものもないようだなとおっしゃるとぼいはまけぬきでかものろーすかこうじのちゃっぷなどはいかがですというと、せんせいは、そんなつきなみをくいにわざわざここまできやしないとおっしゃるんで、ぼいはつきなみといういみがわからんものですからみょうなかおをしてだまっていましたよ」「そうでしょう」「それからわたしのほうをごむきになって、きみふらんすやえいよしとしへいくとずいぶんてんめいちょうやまんようちょうがくえるんだが、にっぽんじゃどこへいったってばんでおしたようで、どうもせいようりょうりへはいいるきがしないというようなたいき※で――ぜんたいあのほうはようこうなすったことがあるのですかな」「なに迷亭がようこうなんかするもんですか、そりゃきんもあり、ときもあり、いこうとおもえばいつでもいかれるんですがね。
おおかたこれからいくつもりのところを、かこにみたてたしゃらくなんでしょう」としゅじんはじぶんながらうまいことをいったつもりでさそいだしえみをする。
きゃくはさまでかんぷくしたようすもない。
「そうですか、わたしはまたいつのまにようこうなさったかとおもって、ついまじめにはいちょうしていました。
それにみてきたようになめくじのそっぷのごはなしやかえるのしちゅのけいようをなさるものですから」「そりゃだれかにきいたんでしょう、うそをつくことはなかなかめいじんですからね」「どうもそうのようで」とかびんのすいせんをながめる。
すこしくざんねんのけしきにもとられる。
「じゃしゅこうというのは、それなんですね」としゅじんがねんをおす。
「いえそれはほんのぼうとうなので、ほんろんはこれからなのです」「ふーん」としゅじんはこうきてきなかんとうことばをはさむ。
「それから、とてもなめくじやかえるはくおうってもくえやしないから、まあとちめんぼーくらいなところでまけとくことにしようじゃないかきみとごそうだんなさるものですから、わたしはついなにのきなしに、それがいいでしょう、といってしまったので」「へー、とちめんぼうはみょうですな」「ええまったくみょうなのですが、せんせいがあまりまじめだものですから、ついきがつきませんでした」とあたかもしゅじんにむかって麁忽をわびているようにみえる。
「それからどうしました」としゅじんはむとんじゃくにきく。
きゃくのしゃざいにはいっこうどうじょうをあらわしておらん。
「それからぼいにおいとちめんぼーをににんまえもってこいというと、ぼいがめんちぼーですかとききなおしましたが、せんせいはますますまじめな貌でめんちぼーじゃないとちめんぼーだとていせいされました」「なある。
そのとちめんぼーというりょうりはいったいあるんですか」「さあわたしもすこしおかしいとはおもいましたがいかにもせんせいがちんちゃくであるし、そのうえあのとおりのせいようどおりでいらっしゃるし、ことにそのときはようこうなすったものとしんじきっていたものですから、わたしもくちをそえてとちめんぼーだとちめんぼーだとぼいにおしえてやりました」「ぼいはどうしました」「ぼいがね、いまかんがえるとじつにこっけいなんですがね、しばらくしあんしていましてね、はなはだごきのどくさまですがきょうはとちめんぼーはごあいにくさまでめんちぼーならごににんまえすぐにできますというと、せんせいはひじょうにざんねんなようすで、それじゃせっかくここまできたかいがない。
どうかとちめんぼーをつごうしてくわせてもらうわけにはいくまいかと、ぼいににじゅうせんぎんかをやられると、ぼいはそれではともかくもりょうりばんとそうだんしてまいりましょうとおくへいきましたよ」「たいへんとちめんぼーがくいたかったとみえますね」「しばらくしてぼいがでてきてしんにごあいにくで、ごあつらえならこしらえますがしょうしょうじかんがかかります、というと迷亭せんせいはおちついたもので、どうせわれわれはしょうがつでひまなんだから、すこしまってくっていこうじゃないかといいながらぽっけっとからはまきをだしてぷかりぷかりふかしはじめられたので、わたししもしかたがないから、ふところからにっぽんしんぶんをだしてよみだしました、するとぼいはまたおくへそうだんにいきましたよ」「いやにてすうがかかりますな」としゅじんはせんそうのつうしんをよむくらいのいきこみでせきをまえめる。
「するとぼいがまたでてきて、ちかごろはとちめんぼーのざいりょうがふっていでかめやへいってもよこはまのじゅうごばんへいってもかわれませんからとうぶんのまはごあいにくさまでときのどくそうにいうと、せんせいはそりゃこまったな、せっかくきたのになあとわたしのほうをごらんになってしきりにくりかえさるるので、わたしもだまっているわけにもまいりませんから、どうもいかんですな、いかんごくるですなとちょうしをあわせたのです」「ごもっともで」としゅじんがさんせいする。
なにがごもっともだかわがはいにはわからん。
「するとぼいもきのどくだとみえて、そのうちざいりょうがまいりましたら、どうかねがいますってんでしょう。
せんせいがざいりょうはなにをつかうかねととわれるとぼいはへへへへとわらってへんじをしないんです。
ざいりょうはにっぽんはのはいじんだろうとせんせいがおしかえしてきくとぼいはへえさようで、それだものだからちかごろはよこはまへいってもかわれませんので、まことにおきのどくさまといいましたよ」「あはははそれがおちなんですか、こりゃおもしろい」としゅじんはいつになくおおきなこえでわらう。
ひざがゆれてわがはいはおちかかる。
しゅじんはそれにもとんじゃくなくわらう。
あんどれあ・でる・さるとにかかったのはじぶんいちにんでないということをしったのできゅうにゆかいになったものとみえる。
「それからににんでひょうへでると、どうだきみうまくいったろう、とちめんぼうをたねにつかったところがおもしろかろうとだいとくいなんです。
けいふくのいたりですとゆっておわかれしたようなもののじつはうまめしのじこくがのびたのでたいへんくうふくになってよわりましたよ」「それはごめいわくでしたろう」としゅじんははじめてどうじょうをひょうする。
これにはわがはいもいぞんはない。
しばらくはなしがとぎれてわがはいのいんこうをならすおとがしゅきゃくのみみにはいる。
とうふうくんはさめたくなったちゃをぐっとのみほして「じつはきょうまいりましたのは、しょうしょうせんせいにごがんがあってまいったので」とあらたまる。
「はあ、なにかごようで」としゅじんもまけずにすます。
「ごしょうちのとおり、ぶんがくびじゅつがすきなものですから……」「けっこうで」とあぶらをさす。
「どうしだけがよりましてせんだってからろうどくかいというのをそしきしまして、まいつきいちかいかいごうしてこのほうめんのけんきゅうをこれからつづけたいつもりで、すでにだいいちかいはきょねんのくれにひらいたくらいであります」「ちょっとうかがっておきますが、ろうどくかいというとなにかせっそうでもつけて、しかぶんしょうのるいをよむようにきこえますが、いったいどんなかぜにやるんです」「まあはじめはこじんのさくからはじめて、つい々はどうじんのそうさくなんかもやるつもりです」「こじんのさくというとはくらくてんのびわゆきのようなものででもあるんですか」「いいえ」「ぶそんのしゅんぷうばつつみきょくのしゅるいですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだってはちかまつのしんじゅうぶつをやりました」「ちかまつ?あのじょうるりのちかまつですか」ちかまつにににんはない。
ちかまつといえばぎきょくかのちかまつにごくっている。
それをききなおすしゅじんはよほどぐだとおもっていると、しゅじんはなににもわからずにわがはいのあたまをていねいになでている。
やぶにらみからほれられたとじにんしているにんげんもあるよのなかだからこのくらいのごびゅうはけっしておどろくにたらんとなでらるるがままにすましていた。
「ええ」とこたえてとうふうこはしゅじんのかおいろをうかがう。
「それじゃいちにんでろうどくするのですか、またはやくわりをきわめてやるんですか」「やくをきわめてかかごうでやってみました。
そのしゅいはなるべくさくちゅうのじんぶつにどうじょうをもってそのせいかくをはっきするのをだいいちとして、それにてまねやみぶりをそえます。
しろはなるべくそのじだいのひとをうつしだすのがおもで、ごじょうさんでもでっちでも、そのじんぶつがでてきたようにやるんです」「じゃ、まあしばいみたようなものじゃありませんか」「ええいしょうとかきわりがないくらいなものですな」「しつれいながらうまくいきますか」「まあだいいちかいとしてはせいこうしたほうだとおもいます」「それでこのまえやったとおっしゃるしんじゅうぶつというと」「その、せんどうがごきゃくをのせてよしはらへいくところなんで」「たいへんなまくをやりましたな」ときょうしだけにちょっとくびをかたむける。
はなからふきだしたひのでのけむりがみみをかすめてかおのよこでへめぐる。
「なあに、そんなにたいへんなこともないんです。
とうじょうのじんぶつはごきゃくと、せんどうと、おいらんとなかいとやりてとけんばんだけですから」ととうふうこはへいきなものである。
しゅじんはおいらんというなをきいてちょっとにがいかおをしたが、なかい、やりて、けんばんというじゅつごについてめいりょうのちしきがなかったとみえてまずしつもんをていしゅつした。
「なかいというのはしょうかのかひにあたるものですかな」「まだよくけんきゅうはしてみませんがなかいはちゃやのげじょで、やりてというのがじょへやのじょやくみたようなものだろうとおもいます」とうふうこはさっき、そのじんぶつがでてくるようにかりいろをつかうとゆったくせにやりてやなかいのせいかくをよくかいしておらんらしい。
「なるほどなかいはちゃやにれいぞくするもので、やりてはしょうかにきがするものですね。
つぎにけんばんというのはにんげんですかまたはいっていのばしょをさすのですか、もしにんげんとすればおとこですかおんなですか」「けんばんはなにでもおとこのにんげんだとおもいます」「なにをつかさどどっているんですかな」「さあそこまではまだしらべがとどいておりません。
そのうちしらべてみましょう」これでかかごうをやったひにはとんちんかんなものができるだろうとわがはいはしゅじんのかおをちょっとみあげた。
しゅじんはぞんがいまじめである。
「それでろうどくかはきみのほかにどんなひとがくわわったんですか」「いろいろおりました。
おいらんがほうがくしのけいくんでしたが、くちひげをはやして、おんなのあまったるいせりふをしかうのですからちょっとみょうでした。
それにそのおいらんがしゃくをおこすところがあるので……」「ろうどくでもしゃくをおこさなくっちゃ、いけないんですか」としゅじんはしんぱいそうにたずねる。
「ええとにかくひょうじょうがだいじですから」ととうふうこはどこまでもぶんげいかのきでいる。
「うまくしゃくがおこりましたか」としゅじんはけいくをはく。
「しゃくだけはだいいちかいには、ちとむりでした」ととうふうこもけいくをはく。
「ところできみはなにのやくわりでした」としゅじんがきく。
「わたししはせんどう」「へー、きみがせんどう」くんにしてせんどうがつとまるものならぼくにもけんばんくらいはやれるとゆったようなごきをもらす。
やがて「せんどうはむりでしたか」とごせじのないところをうちあける。
とうふうこはべつだんしゃくにさわったようすもない。
やはりちんちゃくなくちょうで「そのせんどうでせっかくのもよおしもりゅうとうだびにおわりました。
じつはかいじょうのとなりにじょがくせいがよんごにんげしゅくしていましてね、それがどうしてきいたものか、そのひはろうどくかいがあるということを、どこかでたんちしてかいじょうのまどかへきてぼうちょうしていたものとみえます。
わたししがせんどうのかりいろをつかって、ようやくちょうしづいてこれならだいじょうぶとおもってとくいにやっていると、……つまりみぶりがあまりすぎたのでしょう、いままで耐らえていたじょがくせいがいちどにわっとわらいだしたものですから、おどろきろいたこともおどろきろいたし、きまりがあくるいごともあくるいし、それでこしをおられてから、どうしてもごがつづけられないので、とうとうそれかぎりでさんかいしました」だいいちかいとしてはせいこうだとしょうするろうどくかいがこれでは、しっぱいはどんなものだろうとそうぞうするとわらわずにはいられない。
おぼえずのんどのどぼとけがごろごろなる。
しゅじんはいよいよやわらかにあたまをなでてくれる。
ひとをわらってかわいがられるのはありがたいが、いささかぶきみなところもある。
「それはとんだことで」としゅじんはしょうがつそうそうちょうしをのべている。
「だいにかいからは、もっとふんぱつしてせいだいにやるつもりなので、きょうでましたのもまったくそのためで、じつはせんせいにもひとつごにゅうかいのうえごじんりょくをあおぎたいので」「ぼくにはとてもしゃくなんかおこせませんよ」としょうきょくてきのしゅじんはすぐにことわりかける。
「いえ、しゃくなどはおこしていただかんでもよろしいので、ここにさんじょいんのめいぼが」といいながらむらさきのふろしきからだいじそうにこぎくばんのちょうめんをだす。
「これへどうかごしょめいのうえごなついんをねがいたいので」とちょうめんをしゅじんのひざのまえへひらいたままおく。
みるとげんこんちめいなぶんがくはかせ、ぶんがくしれんちゅうのながぎょうぎよくぜいそろいをしている。
「はあさんせいいんにならんこともありませんが、どんなぎむがあるのですか」とかきせんせいはかけねんのからだにみえる。
「ぎむともうしてべつだんぜひねがうこともないくらいで、ただごなまえだけをごきにゅうくださってさんせいのいさえおあらわしひくだればそれでけっこうです」「そんならはいいります」とぎむのかからぬことをしるやいなやしゅじんはきゅうにきがるになる。
せきにんさえないということがわかっておればむほんのれんばんじょうへでもなをかきいれますというかおづけをする。
かのこうちめいのがくしゃがなまえをつらねているなかにせいめいだけでもにゅうせきさせるのは、いままでこんなことにであったことのないしゅじんにとってはむじょうのこうえいであるからへんじのぜいのあるのもむりはない。
「ちょっとしっけい」としゅじんはしょさいへしるしをとりにはいいる。
わがはいはぼたりとたたみのうえへおちる。
とうふうこはかしさらのなかのかすてらをつまんでいちくちにほおばる。
もごもごしばらくはくるしそうである。
わがはいはけさのぞうにじけんをちょっとおもいだす。
しゅじんがしょさいからいんぎょうをもってでてきたときは、とうふうこのいのなかにかすてらがおちついたときであった。
しゅじんはかしさらのかすてらがいっさいたりなくなったことにはきがつかぬらしい。
もしきがつくとすればだいいちにうたがわれるものはわがはいであろう。
とうふうこがかえってから、しゅじんがしょさいにはいってつくえのうえをみると、いつのまにか迷亭せんせいのてがみがきている。
「しんねんのぎょけいめでたさるおさめこう。
……」
いつになくしゅつがまじめだとしゅじんがおもう。
迷亭せんせいのてがみにまじめなのはほとんどないので、このかんなどは「其後べつにこいきせるふじんもむこれ、いずほうよりつやしょもまいらず、まずまずぶじにしょうこうまかりありこうかん、乍憚ごきゅうしんかひしたこう」というのがきたくらいである。
それにくらべるとこのねんしじょうはれいがいにもせけんてきである。
「いっすんさんどうつかまつりどそうろえども、たいけいのしょうきょくしゅぎにはんして、できえるかぎりせっきょくてきほうしんをもって、此せんこみぞうのしんねんをむかいうるけいかくこ、まいにちまいにちめのめぐるほどのたぼう、ごすいさつねがいじょうこう……」
なるほどあのおとこのことだからしょうがつはあそびめぐるのに忙がしいにちがいないと、しゅじんははらのうちで迷亭くんにどういする。
「きのうはいっこくのひまを偸み、とうふうこにとちめんぼーのごちそうをいたさんとぞんじこうしょ、あいにくざいりょうふっていのためめ其意をはたさず、いかんせんまんにそんこう。
……」
そろそろれいのとおりになってきたとしゅじんはむごんでびしょうする。
「あしたはぼうだんしゃくのかるたかい、みょうごにちはしんびがくきょうかいのしんねんえんかい、其明びはとりぶきょうじゅかんげいかい、其又あしたは……」
うるさいなと、しゅじんはよみとばす。
「みぎのごとくようきょくかい、はいくかい、たんかかい、しんたいしかいとう、かいのれんぱつにてとうぶんのまは、のべつまくなしにしゅっきんいたしこうためめ、ふとく已賀じょうをもってはいすうのれいにやすえこうだんふあくごゆうじょひしたどこう。
……」
べつだんくるにもおよばんさと、しゅじんはてがみにへんじをする。
「こんどごこうらいのふしはひさしぶりにてばんさんでもきょうしたびこころえにござこう。
かんくりやなにのちんみもむのそうろえども、せめてはとちめんぼーでもとただいまよりこころかけいそうろう。
……」
まだとちめんぼーをふりまわしている。
しっけいなとしゅじんはちょっとむっとする。
「しかしとちめんぼーはちかごろざいりょうふっていのためめ、ことによるとまにあいけんこうもはかりがたきにつき、其節はくじゃくのしたでもごふうみにいれかさるこう。
……」
りょうてんびんをかけたなとしゅじんは、あとがよみたくなる。
「ごしょうちのとおりくじゃくいちわにつき、したにくのぶんりょうはこゆびのなかばにもたらぬほどこけんたんなるたいけいのい嚢をみたすためには……」
うそをつけとしゅじんはうちやったようにいう。
「ぜひどもにさんじゅうわのくじゃくをほかくいたさざるからずとそんこう。
しかるところくじゃくはどうぶつえん、あさくさはなやしきとうには、ちらほらみうけそうろえども、ふつうのとりや抔にはいっこうみあたりふさる、くしん此事にござこう。
……」
ひとりでかってにくしんしているのじゃないかとしゅじんはごうもかんしゃのいをひょうしない。
「此くじゃくのしたのりょうりはおうせきらうまぜんせいのみぎりり、いちじひじょうにりゅうこういたしこうものにて、ごうしゃふりゅうのきょくどとへいぜいよりひそかにしょくしをうごかしいそうろうしだいごりょうさつかひしたこう。
……」
なにがごりょうさつだ、ばかなとしゅじんはすこぶるれいたんである。
「ふってじゅうろくななせいきのころまではぜんおうをつうじてくじゃくはえんせきにかくべからざるこうあじとあいないそうろう。
れすたーはくがえりざべすじょすめらぎをけにるうぉーすにしょうたいいたしこうぶしもたしかくじゃくをしよういたしこうさまきおく致候。
ゆうめいなるれんぶらんとがえがきこうきょうえんのずにもくじゃくがおをひろげたる儘卓じょうによこわりおりこう……」
くじゃくのりょうりしをかくくらいなら、そんなにたぼうでもなさそうだとふへいをこぼす。
「とにかくちかごろのごとくごちそうのたべつづけにては、さすがのしょうせいもとおからぬうちにたいけいのごとくいじゃくとあいなるはひつじょう……」
たいけいのごとくはよけいだ。
なにもぼくをいじゃくのひょうじゅんにしなくてもすむとしゅじんはつぶやいた。
「れきしかのせつによればらうまじんはひににどさんどもえんかいをひらきこうよし。
ひににどもさんどもほうじょうのしょく饌につきそうろえばいかがなるけんいのひとにてもしょうかきのうにふちょうをかもすべく、したがってしぜんはたいけいのごとく……」
またたいけいのごとくか、しっけいな。
「しかるにぜいたくとえいせいとをりょうりつせしめんとけんきゅうをつくしたるかれらはふそうとうにたりょうのじみをむさぼるとどうじにいちょうをじょうたいにほじするのひつようをみとめ、ここにいちのひほうをあんしゅついたしこう……」
はてねとしゅじんはきゅうにねっしんになる。
「かれらはしょくごかならずにゅうよく致候。
にゅうよくごいちしゅのほうほうによりてよくまえにえんくだせるものをことごとくおうとし、いないをそうじいたしこう。
いないかくせいのこうをそうしたるのちまたしょくたくにつき、あくまでちんみをかぜよし、かぜよしりょうればまたゆにはいりてこれをとしゅつ致候。
かくのごとくすればこうぶつはむさぼぼりしだいむさぼりこうもごうもないぞうのしょきかんにしょうがいをしょうぜず、いっきょりょうとくとは此等のことをかさるかとぐこう致候……」
なるほどいっきょりょうとくにそういない。
しゅじんはうらやましそうなかおをする。
「にじゅうせいきのきょうこうつうのひんぱん、えんかいのぞうかはもうすまでもなく、ぐんこくたじせいろのだいにねんともあいなこうおりがら、われじんせんしょうこくのこくみんは、ぜひどもらうまじんに傚って此にゅうよくおうとのじゅつをけんきゅうせざるべからざるきかいにとうちゃくいたしこうごととじしん致候。
ひだりもなくばせつかくのだいこくみんもちかきしょうらいに於てことごとくたいけいのごとくいびょうかんじゃとあいなることとひそかにしんつうまかりありこう……」
またたいけいのごとくか、しゃくにさわるおとこだとしゅじんがおもう。
「此際われじんせいようのじじょうにつうずるものがこしでんせつをこうきゅうし、すでにはいぜつせるひほうをはっけんし、これをめいじのしゃかいにおうよういたしそうろわばところいいかをみもえにふせぐのくどくにもあいなりへいそいつらくを擅にいたしこうごおんかえもあいたちかさるとそんこう……」
なんだかみょうだなとくびをひねる。
「よて此間ちゅうよりぎぼん、もんせん、すみすひとししょかのちょじゅつをしょうりょういたしいそうろえどもいまだにはっけんのたんしょをもみいだしえざるはざんねんのいたりにそんこう。
しかしごぞんじのごとくしょうせいはいちどおもいたちこうごとはせいこうするまではけっしてちゅうぜつつかまつらざるせいしつにそうろえばおうとかたをさいこういたしこうもとおからぬうちとしんじおりこうしだい。
みぎははっけんしだいごほうどうかつかまつこうにつき、さようごしょうちかひしたこう。
就てはさきにさるじょうこうとちめんぼーおよびくじゃくのしたのごちそうもかあいなはみぎはっけんごにいたしたび、ひだりすればしょうせいのつごうはもちろん、すでにいじゃくになやみおらるるたいけいのためにもごべんぎかとそんこうそうそうふび」
なんだとうとうかつがれたのか、あまりかきかたがまじめだものだからついしまいまでほんきにしてよんでいた。
しんねんそうそうこんないたずらをやる迷亭はよっぽどひまじんだなあとしゅじんはわらいながらゆった。
それからよんごにちはべつだんのこともなくすぎさった。
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「ほんにねえ」はとうていわがはいのうちなどできかれることばではない。
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かぜをひくと、どなたでもごせきがでますからね……」
てんしょういんさまのなんとかのなんとかのげじょだけにばかていねいなことばをつかう。
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げじょはだいにかんどうしている。
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げじょはこくじのひみつでもかたるときのようにだいとくいである。
「わるいともだち?」「ええあのおもてどおりのきょうしのところにいるうすぎたないおねこでございますよ」「きょうしというのは、あのまいあさぶさほうなこえをだすひとかえ」「ええかおをあらうたんびに鵝鳥がしめころされるようなこえをだすひとでござんす」
鵝鳥がしめころされるようなこえはうまいけいようである。
わがはいのしゅじんはまいあさぶろじょうでがんそうをやるとき、ようじでいんこうをつっついてみょうなこえをぶえんりょにだすくせがある。
きげんのわるいときはやけにがあがあやる、きげんのよいときはげんきづいてなおがあがあやる。
つまりきげんのいいときもわるいときもやすみなくぜいよくがあがあやる。
さいくんのはなしではここへひっこすまえまではこんなくせはなかったそうだが、あるときふとやりだしてからきょうまでいちにちもやめたことがないという。
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ごいしんまえはちゅうかんでもぞうりとりでもそうおうのさほうはこころえたもので、やしきまちなどで、あんなかおのあらいかたをするものはいちにんもおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」
げじょはむあんにかんぷくしては、むあんにねえをしようする。
「あんなしゅじんをもっているねこだから、どうせのらねこさ、こんどきたらすこしたたいておやり」「たたいてやりますとも、さんもうのびょうきになったのもまったくあいつのおかげにそういございませんもの、きっと讐をとってやります」
とんだえんざいをこうむったものだ。
こいつはめったにちかかよれないとさんもうこにはとうとうあわずにかえった。
かえってみるとしゅじんはしょさいのなかでなにかちんぎんのからだでふでをとっている。
にげんきんのごししょうさんのところできいたひょうばんをはなしたら、さぞおこるだろうが、しらぬがほとけとやらで、うんうんいいながらしんせいなしじんになりすましている。
ところへとうぶんたぼうでいかれないとゆって、わざわざねんしじょうをよこした迷亭くんがひょうぜんとやってくる。
「なにかしんたいしでもつくっているのかね。
おもしろいのができたらみせたまえ」という。
「うん、ちょっとうまいぶんしょうだとおもったからいまほんやくしてみようとおもってね」としゅじんはおもたそうにくちをひらく。
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ぜんたいどこにあったのか」ととう。
「だいにどくほん」としゅじんはおちつきはらってこたえる。
「だいにどくほん?だいにどくほんがどうしたんだ」「ぼくのほんやくしているめいぶんというのはだいにどくほんのなかにあるということさ」「じょうだんじゃない。
くじゃくのしたの讐をきわどいところでうとうというすんぽうなんだろう」「ぼくはきみのようなほらふきとはちがうさ」とくちひげをひねる。
たいぜんたるものだ。
「むかししあるひとがさんように、せんせいちかごろめいぶんはござらぬかといったら、さんようがまごのかいたしゃっきんのさいそくじょうをしめしてきんらいのめいぶんはまずこれでしょうとゆったというはなしがあるから、きみのしんびめもぞんがいたしかかもしれん。
どれよんでみたまえ、ぼくがひひょうしてやるから」と迷亭せんせいはしんびめのほんけのようなことをいう。
しゅじんはぜんぼうずがだい燈国しのいかいをよむようなこえをだしてよみはじめる。
「きょじん、いんりょく」「なんだいそのきょじんいんりょくというのは」「きょじんいんりょくというだいさ」「みょうなだいだな、ぼくにはいみがわからんね」「いんりょくというなをもっているきょじんというつもりさ」「すこしむりなつもりだがひょうだいだからまずまけておくとしよう。
それからそうそうほんぶんをよむさ、きみはこえがよいからなかなかおもしろい」「ざつぜかえしてはいかんよ」と予じめねんをおしてまたよみはじめる。
けーとはまどからがいめんをながめる。
しょうにがたまをなげてあそんでいる。
かれらはたかくたまをくうちゅうになげうつ。
たまはうえへうえへとのぼる。
しばらくするとおちてくる。
かれらはまたたまをたかくなげうつ。
ふたたびさんど。
なげうつたびにたまはおちてくる。
なぜおちるのか、なぜうえへうえへとのみのぼらぬかとけーとがきく。
「きょじんがちちゅうにすむゆえに」とははがこたえる。
「かれはきょじんいんりょくである。
かれはつよい。
かれはばんぶつをおのれれのほうへとひく。
かれはかおくをちじょうにひく。
ひかねばとんでしまう。
しょうにもとんでしまう。
はがおちるのをみたろう。
あれはきょじんいんりょくがよぶのである。
ほんをおとすことがあろう。
きょじんいんりょくがこいというからである。
たまがそらにあがる。
きょじんいんりょくはよぶ。
よぶとおちてくる」
「それぎりかい」「むむ、あまいじゃないか」「いやこれはおそれいった。
とんだところでとちめんぼーのごへんれいにあずかった」「ごへんれいでもなんでもないさ、じっさいうまいからやくしてみたのさ、きみはそうおもわんかね」ときんぶちのめがねのおくをみる。
「どうもおどろきろいたね。
くんにしてこのぎりょうあらんとは、まったく此度というこんどはかつがれたよ、こうさんこうさん」といちにんでしょうちしていちにんでちょうしたる。
しゅじんにはいっこうつうじない。
「なにもきみをこうさんさせるかんがえはないさ。
ただおもしろいぶんしょうだとおもったからやくしてみたばかりさ」「いやじつにおもしろい。
そうこなくっちゃほんものでない。
すごいものだ。
きょうしゅくだ」「そんなにきょうしゅくするにはおよばん。
ぼくもちかごろはすいさいがをやめたから、そのかわりにぶんしょうでもやろうとおもってね」「どうしてえんきんむさべつくろしろびょうどうのすいさいがのひじゃない。
かんぷくのいたりだよ」「そうほめてくれるとぼくものりきになる」としゅじんはあくまでもかんちがいをしている。
ところへかんげつくんがせんじつはしつれいしましたとはいいってくる。
「いやしっけい。
こんたいへんなめいぶんをはいちょうしてとちめんぼーのぼうこんをたいじられたところで」と迷亭せんせいはわけのわからぬことをほのめかす。
「はあ、そうですか」とこれもわけのわからぬあいさつをする。
しゅじんだけはひだりのみうかれたけしきもない。
「せんじつはきみのしょうかいでおちとうふうというひとがきたよ」「ああのぼりましたか、あのおちとうふうというおとこはいたってしょうじきなおとこですがすこしかわっているところがあるので、あるいはごめいわくかとおもいましたが、ぜひしょうかいしてくれというものですから……」「べつにめいわくのこともないがね……」「こちらへのぼってもじぶんのせいめいのことについてなにかべんじていきゃしませんか」「いいえ、そんなはなしもなかったようだ」「そうですか、どこへいってもしょたいめんのひとにはじぶんのなまえのこうしゃくをするのがくせでしてね」「どんなこうしゃくをするんだい」とことあれかしとまちかまえた迷亭くんはくちをいれる。
「あのとうふうというのをおとでよまれるとたいへんきにするので」「はてね」と迷亭せんせいはきむからかわのたばこいりからたばこをつまみだす。
「わたししのなはおちとうふうではありません、おちこちですとかならずことわりますよ」「みょうだね」とくもいをはらのそこまでのみこむ。
「それがまったくぶんがくねつからきたので、こちとよむとえんきんというせいごになる、のみならずそのせいめいがいんをふんでいるというのがとくいなんです。
それだからとうふうをおとでよむとぼくがせっかくのくしんをひとがかってくれないといってふへいをいうのです」「こりゃなるほどかわってる」と迷亭せんせいはずにのってはらのそこからくもいをはなのあなまではきかえす。
とちゅうでけむりがとまよいをしていんこうのでぐちへひきかかる。
せんせいはきせるをにぎってごほんごほんとむせびかえる。
「せんじつきたときはろうどくかいでせんどうになってじょがくせいにわらわれたといっていたよ」としゅじんはわらいながらいう。
「うむそれそれ」と迷亭せんせいがきせるでひざがしらをたたく。
わがはいはけん呑になったからすこしはたをはなれる。
「そのろうどくかいさ。
せんだってとちめんぼーをごちそうしたときにね。
そのはなしがでたよ。
なにでもだいにかいにはちめいのぶんしをしょうたいしてたいかいをやるつもりだから、せんせいにもぜひごりんせきをねがいたいって。
それからぼくがこんどもちかまつのせわものをやるつもりかいときくと、いえこのつぎはずっとあたらしいものをえらんできんいろやしゃにしましたというから、きみにゃなにのやくがあたってるかときいたらわたしはおみやですといったのさ。
とうふうのごみやはおもしろかろう。
ぼくはぜひしゅっせきしてかっさいしようとおもってるよ」「おもしろいでしょう」とかんげつくんがみょうなわらいかたをする。
「しかしあのおとこはどこまでもせいじつでけいはくなところがないからよい。
迷亭などとはだいちがいだ」としゅじんはあんどれあ・でる・さるととくじゃくのしたととちめんぼーのふくしゅうをいちどにとる。
迷亭くんはきにもとめないようすで「どうせぼくなどはぎょうとくのまないたというかくだからなあ」とわらう。
「まずそんなところだろう」としゅじんがいう。
じつはぎょうとくのまないたというかたりをしゅじんはほぐさないのであるが、さすがえいねんきょうしをしてえびすまかしつけているものだから、こんなときにはきょうじょうのけいけんをしゃこうじょうにもおうようするのである。
「ぎょうとくのまないたというのはなにのことですか」とかんげつがしんそつにきく。
しゅじんはゆかのほうをみて「あのすいせんはくれにぼくがふろのかえりがけにかってきてさしたのだが、よくもつじゃないか」とぎょうとくのまないたをむりにねじふせる。
「くれといえば、きょねんのくれにぼくはじつにふしぎなけいけんをしたよ」と迷亭がきせるをだいかぐらのごとくゆびのとがでめぐわす。
「どんなけいけんか、きかしだまえ」としゅじんはぎょうとくのまないたをとおくのちにみすてたきで、ほっといきをつく。
迷亭せんせいのふしぎなけいけんというのをきくとひだりのごとくである。
「たしかくれのにじゅうななにちときおくしているがね。
れいのとうふうからさんどうのうえぜひぶんげいじょうのごこうわをうかがいたいからございしゅくをねがうというさききふれがあったので、あさからこころまちにまっているとせんせいなかなかこないやね。
ひるめしをくってすとーぶのまえでばりー・ぺーんのこっけいぶつをよんでいるところへしずおかのははからてがみがきたからみると、としよりだけにいつまでもぼくをしょうきょうのようにおもってね。
かんちゅうはやかんがいしゅつをするなとか、れいすいよくもいいがすとーぶをたいてしつを煖かにしてやらないとかぜをひくとかいろいろのちゅういがあるのさ。
なるほどおやはありがたいものだ、たにんではとてもこうはいかないと、のんきなぼくもそのときだけはだいにかんどうした。
それにつけても、こんなにのらくらしていてはもったいない。
なにかだいちょじゅつでもしてかめいをあげなくてはならん。
ははのいきているうちにてんかをしてめいじのぶんだんに迷亭せんせいあるをしらしめたいというきになった。
それからなおよんでいくとごぜんなんぞはじつにしあわせしゃだ。
ろしあとせんそうがはじまってわかいひとたちはたいへんなしんくをしておくにのために働らいているのにせっきしわすでもおしょうがつのようにきらくにあそんでいるとかいてある。
――ぼくはこれでもははのおもってるようにあそんじゃいないやね――そのあとへ以てきて、ぼくのしょうがっこうじだいのほうゆうでこんどのせんそうにでてしんだりふしょうしたもののなまえがれっきょしてあるのさ。
そのなまえをいちいちよんだときにはなんだかよのなかがあじけなくなってにんげんもつまらないというきがおこったよ。
いちばんしまいにね。
わたししもとるとしにそうろえばしょしゅんのごぞうにをいわいこうもこんどかぎりかと……なんだかこころぼそいことがかいてあるんで、なおのこときがくさくさしてしまってはやくとうふうがくればよいとおもったが、せんせいどうしてもこない。
そのうちとうとうばんめしになったから、ははへへんじでもかこうとおもってちょいとじゅうにさんこうかいた。
ははのてがみはろくしゃくいじょうもあるのだがぼくにはとてもそんなげいはできんから、いつでもじゅうこうないがいでごめんこうむることにきわめてあるのさ。
するといちにちうごかずにおったものだから、いのぐあいがみょうでくるしい。
とうふうがきたらまたせておけというきになって、ゆうびんをいれながらさんぽにでかけたとおもいたまえ。
いつになくふじみまちのほうへはあしがむかないでどてさんばんまちのほうへわがれしらずでてしまった。
ちょうどそのばんはすこしくもって、からかぜがごほりのむかうからふきつける、ひじょうにさむい。
かぐらざかのほうからきしゃがひゅーとなってどてかをとおりすぎる。
たいへんさびしいかんじがする。
くれ、せんし、ろうすい、むじょうじんそくなどというやつがあたまのなかをぐるぐる馳けめぐる。
よくひとがくびを縊るというがこんなときにふとさそわれてしぬきになるのじゃないかとおもいだす。
ちょいとくびをあげてどてのうえをみると、いつのまにかれいのまつのましたにきているのさ」
「れいのまつた、なにだい」としゅじんがだんくをなげいれる。
「くびかかのまつさ」と迷亭はりょうをちぢめる。
「くびかかのまつはおおとりのだいでしょう」かんげつがはもんをひろげる。
「おおとりのだいのはかねかかのまつで、どてさんばんまちのはくびかかのまつさ。
なぜこういうながついたかというと、むかししからのいいつたえでだれでもこのまつのしたへくるとくびが縊りたくなる。
どてのうえにまつはなんじゅうほんとなくあるが、そらくびくくりだときてみるとかならずこのまつへぶらさがっている。
としににさんかえはきっとぶらさがっている。
どうしてもたのまつではしぬきにならん。
みると、うまいぐあいにえだがおうらいのほうへよこにでている。
ああよいえだぶりだ。
あのままにしておくのはおしいものだ。
どうかしてあすこのところへにんげんをさげてみたい、だれかこないかしらと、しへんをみわたすとあいにくだれもこない。
しかたがない、じぶんでさがろうかしらん。
いやいやじぶんがさがってはいのちがない、あぶないからよそう。
しかしむかしのまれ臘人はえんかいのせきでくびくくりのまねをしてよきょうをそえたというはなしがある。
いちにんがたいのうえへのぼってなわのむすびめへくびをいれるとたんにたのものがだいをけかえす。
くびをいれたとうにんはだいをひかれるとどうじになわをゆるめてとびおりるというしゅこうである。
はたしてそれがじじつならべつだんおそれるるにもおよばん、ぼくもひとつこころみようとえだへてをかけてみるとよいぐあいにしわる。
しわりあんばいがじつにびてきである。
くびがかかってふわふわするところをそうぞうしてみるとうれしくてたまらん。
ぜひやることにしようとおもったが、もしとうふうがきてまっているときのどくだとかんがえだした。
それではまずとうふうにあってやくそくどおりはなしをして、それからでなおそうというきになってついにうちへかえったのさ」
「それでしがさかえたのかい」としゅじんがきく。
「おもしろいですな」とかんげつがにやにやしながらいう。
「うちへかえってみるととうふうはきていない。
しかしきょうはむよりどころしょさしつかえがあってでられぬ、いずれえいじつごめんごをきすというはしがきがあったので、やっとあんしんして、これならこころおきなくくびがくびれるうれしいとおもった。
でさっそくげたをひきかけて、いそぎあしでもとのところへひきかえしてみる……」とゆってしゅじんとかんげつのかおをみてすましている。
「みるとどうしたんだい」としゅじんはすこしじれる。
「いよいよかきょうにはいりますね」とかんげつははおりのひもをひねくる。
「みると、もうだれかきてさきへぶらさがっている。
たったひとあしちがいでねえきみ、ざんねんなことをしたよ。
かんがえるとなんでもそのときはしにがみにとりつかれたんだね。
ぜーむすなどにいわせるとふくいしきかのゆうめいかいとぼくがそんざいしているげんじつかいがいっしゅのいんがほうによってかたみにかんおうしたんだろう。
じつにふしぎなことがあるものじゃないか」迷亭はすましかえっている。
しゅじんはまたやられたとおもいながらなにもいわずにくうやもちをほおばってくちをもごもごいわしている。
かんげつはひばちのはいをていねいにかきならして、俯向いてにやにやわらっていたが、やがてくちをひらく。
きわめてしずかなちょうしである。
「なるほどうかがってみるとふしぎなことでちょっとありそうにもおもわれませんが、わたしなどはじぶんでやはりにたようなけいけんをついちかごろしたものですから、すこしもうたぐがうきになりません」
「おやきみもくびを縊りたくなったのかい」
「いえわたしのはくびじゃないんで。
これもちょうどあければさくねんのくれのことでしかもせんせいとどうじつどうこくくらいにおこったできごとですからなおさらふしぎにおもわれます」
「こりゃおもしろい」と迷亭もくうやもちをほおばる。
「そのひはむこうじまのちじんのいえでぼうねんかいけんがっそうかいがありまして、わたしもそれへゔぁいおりんをたずさえていきました。
じゅうごろくにんれいじょうやられいふじんがたかってなかなかせいかいで、きんらいのかいじとおもうくらいにばんじがととのっていました。
ばんさんもすみがっそうもすんでしほうのはなしがでてじこくもおおいたおそくなったから、もういとまごいをしてかえろうかとおもっていますと、ぼうはかせのふじんがわたしのそばへきてあなたは○れいしさんのごびょうきをごしょうちですかとこごえでききますので、じつはそのりょうさんにちまえにあったときはへいじょうのとおりどこもわるいようにはみうけませんでしたから、わたしもおどろきろいてくわしくようすをきいてみますと、わたししのあったそのばんからきゅうにはつねつして、いろいろな譫語をたえまなくくちばしるそうで、それだけならむべいですがその譫語のうちにわたしのながときどきでてくるというのです」
しゅじんはむろん、迷亭せんせいも「おやすくないね」などというつきなみはいわず、せいしゅくにきんちょうしている。
「いしゃをよんでみてもらうと、なんだかびょうめいはわからんが、なにしろねつがげきしいのでのうをおかしているから、もしすいみんざいがおもうようにこうをそうしないときけんであるというしんだんだそうでわたしはそれをきくやいなやいちしゅいやなかんじがおこったのです。
ちょうどゆめでうなされるときのようなおもくるしいかんじでしゅういのくうきがきゅうにこけいたいになってしほうからわがみをしめつけるごとくおもわれました。
かえりみちにもそのことばかりがあたまのなかにあってくるしくてたまらない。
あのきれいな、あのかいかつなあのけんこうなれいれいしさんが……」
「ちょっとしっけいだがまってくれたまえ。
さっきからうかがっていると○れいしさんというのがにかえばかりきこえるようだが、もしさしつかえがなければうけたまわわりたいね、きみ」としゅじんをかえりみると、しゅじんも「うむ」となまへんじをする。
「いやそれだけはとうにんのめいわくになるかもしれませんからはいしましょう」
「すべて曖々しかとして昧々しかたるかたでいくつもりかね」
「れいしょうなさってはいけません、ごくまじめなはなしなんですから……とにかくあのふじんがきゅうにそんなびょうきになったことをかんがえると、じつにひからくようのかんがいでむねがいちはいになって、そうしんのかっきがいちどにすとらいきをおこしたようにげんきがにわかにめいってしまいまして、ただ蹌々として踉々というかたちちであづまきょうへきかかったのです。
らんかんに倚ってしたをみるとまんちょうかかんちょうかわかりませんが、くろいみずがかたまってただうごいているようにみえます。
はなかわどのほうからじんりきしゃがいちだい馳けてきてはしのうえをとおりました。
そのちょうちんのひをみおくっていると、だんだんしょうくなってさっぽろびーるのところできえました。
わたしはまたみずをみる。
するとはるかのかわかみのほうでわたしのなをよぶこえがきこえるのです。
はてないまじぶんじんによばれるわけはないがだれだろうとみずのめんをすかしてみましたがくらくてなににもわかりません。
きのせいにちがいないそうそうかえろうとおもっていっそくにそくあるきだすと、またかすかなこえでとおくからわたしのなをよぶのです。
わたしはまたたちとまってみみをたててききました。
さんどめによばれたときにはらんかんにつかまっていながらひざがしらががくがく悸えだしたのです。
そのこえはとおくのほうか、かわのそこからでるようですがまぎれもない○れいしのこえなんでしょう。
わたしはおぼえず「はーい」とへんじをしたのです。
そのへんじがおおきかったものですからしずかなみずにひびいて、じぶんでじぶんのこえにおどろかされて、はっとしゅういをみわたしました。
ひともいぬもつきもなににもみえません。
そのときにわたしはこの「よる」のなかにまきこまれて、あのこえのでるところへいきたいというきがむらむらとおこったのです。
○れいしのこえがまたくるしそうに、うったえるように、救をもとめるようにわたしのみみをさしとおしたので、こんどは「こんじかにいきます」とこたえてらんかんからはんしんをだしてくろいみずをながめました。
どうもわたしをよぶこえがなみのしたからむりにもれてくるようにおもわれましてね。
このみずのもとだなとおもいながらわたしはとうとうらんかんのうえにのりましたよ。
こんどよんだらとびこもうとけっしんしてりゅうをみつめているとまたあわれなこえがいとのようにういてくる。
ここだとおもってちからをこめていったんとびあがっておいて、そしてこいしかなにぞのようにみれんなくおちてしまいました」
「とうとうとびこんだのかい」としゅじんがめをぱちつかせてとう。
「そこまでいこうとはおもわなかった」と迷亭がじぶんのはなのあたまをちょいとつまむ。
「とびこんだのちはきがとおくなって、しばらくはむちゅうでした。
やがてめがさめてみるとさむくはあるが、どこもぬれたところもなにもない、みずをのんだようなかんじもしない。
たしかにとびこんだはずだがじつにふしぎだ。
こりゃへんだときがついてそこいらをみわたすとおどろきましたね。
みずのなかへとびこんだつもりでいたところが、ついまちがってはしのまんなかへとびおりたので、そのときはじつにざんねんでした。
まえとうしろのま違だけであのこえのでるところへいくことができなかったのです」かんげつはにやにやわらいながられいのごとくはおりのひもをにやっかいにしている。
「ははははこれはおもしろい。
ぼくのけいけんとよくにているところがきだ。
やはりぜーむすきょうじゅのざいりょうになるね。
にんげんのかんおうというだいでしゃせいぶんにしたらきっとぶんだんをおどろかすよ。
……そしてその○れいしさんのびょうきはどうなったかね」と迷亭せんせいがついきゅうする。
「にさんにちまえねんしにいきましたら、もんのうちでげじょとはねをついていましたからびょうきはぜんかいしたものとみえます」
しゅじんはさいぜんからちんしのからだであったが、このときようやくくちをひらいて、「ぼくにもある」とまけぬきをだす。
「あるって、なにがあるんだい」迷亭のがんちゅうにしゅじんなどはむろんない。
「ぼくのもきょねんのくれのことだ」
「みんなきょねんのくれはあんごうでみょうですな」とかんげつがわらう。
かけたまえばのうちにくうやもちがついている。
「やはりどうじつどうこくじゃないか」と迷亭がまぜかえす。
「いやびはちがうようだ。
なにでもにじゅうにちごろだよ。
さいくんがおせいぼのかわりにせっつだいじょうをきかしてくれろというから、つれていってやらんこともないがきょうのかたりものはなにだときいたら、さいくんがしんぶんをさんこうしてうなぎだにだというのさ。
うなぎだにはきらいだからきょうはよそうとそのひはやめにした。
よくじつになるとさいくんがまたしんぶんをもってきてきょうはほりかわだからいいでしょうという。
ほりかわはしゃみせんものでにぎやかなばかりでみがないからよそうというと、さいくんはふへいなかおをしてひきさがった。
そのよくじつになるとさいくんがいうにはきょうはさんじゅうさんけんどうです、わたしはぜひせっつのさんじゅうさんけんどうがききたい。
あなたはさんじゅうさんけんどうもごきらいかしらないが、わたしにきかせるのだからいっしょにいってくだすってもむべいでしょうとてつめのだんぱんをする。
ごぜんがそんなにいきたいならいってもむべろしい、しかしいっせいちだいというのでたいへんなおおいりだからとうてい突かけにいったってはいいれるきづかいはない。
がんらいああいうばしょへいくにはちゃやというものがあってそれとこうしょうしてそうとうのせきをよやくするのがせいとうのてつづきだから、それをふまないでつねただしをだっしたことをするのはよくない、ざんねんだがきょうはやめようというと、さいくんはすごいめづけをして、わたしはおんなですからそんなむずかしいてつづきなんかしりませんが、おおはらのおははあさんも、すずきのきみよさんもせいとうのてつづきをふまないでりっぱにきいてきたんですから、いくらあなたがきょうしだからって、そうてすうのかかるけんぶつをしないでもすみましょう、あなたはあんまりだとなくようなこえをだす。
それじゃだめでもまあいくことにしよう。
ばんめしをくってでんしゃでいこうとこうさんをすると、いくならよんじまでにむこうへつくようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんときゅうにぜいがいい。
なぜよんじまでにいかなくてはだめなんだとききかえすと、そのくらいはやくいってばしょをとらなくちゃはいいれないからですとすずきのきみよさんからおしえられたとおりをのべる。
それじゃよんじをよぎればもうだめなんだねとねんをおしてみたら、ええだめですともとこたえる。
するときみふしぎなことにはそのときからきゅうにおかんがしだしてね」
「おくさんがですか」とかんげつがきく。
「なにさいくんはぴんぴんしていらあね。
ぼくがさ。
なんだかあなのあいたふうせんだまのようにいちどにいしゅくするかんじがおこるとおもうと、もうめがぐらぐらしてうごけなくなった」
「きゅうびょうだね」と迷亭がちゅうしゃくをくわえる。
「ああこまったことになった。
さいくんがとしにいちどのねがいだからぜひかなえてやりたい。
へいぜいしかりつけたり、くちをきかなかったり、しんじょうのくろうをさせたり、しょうきょうのせわをさせたりするばかりでなにひとつ洒掃しんすいのろうにむくいたことはない。
きょうはさいわいじかんもある、のうちゅうにはよんごまいのとぶつもある。
つれていけばいかれる。
さいくんもいきたいだろう、ぼくもつれていってやりたい。
ぜひつれていってやりたいがこうおかんがしてめがくらんではでんしゃへのるどころか、くつだっへおりることもできない。
ああきのどくだきのどくだとおもうとなおおかんがしてなおめがくらんでくる。
はやくいしゃにみてもらってふくやくでもしたらよんじまえにはぜんかいするだろうと、それからさいくんとそうだんをしてあまぎいがくしをむかいにやるとあいにくさくやがとうばんでまだだいがくからかえらない。
にじごろにはごかえりになりますから、かえりしだいすぐあげますというへんじである。
こまったなあ、こんきょうにんすいでものめばよんじまえにはきっと癒るにきょくっているんだが、うんのわるいときにはなにごともおもうようにいかんもので、たまさかさいくんのよろこぶえがおをみてらくもうというよさんも、がらりとはずれそうになってくる。
さいくんはうらめしいかおづけをして、とうていいらっしゃれませんかときく。
いくよかならずいくよ。
よんじまでにはきっとなおってみせるからあんしんしているがいい。
はやくかおでもあらってきものでもきかえてまっているがいい、とくちではゆったようなもののきょうちゅうはむげんのかんがいである。
おかんはますますげきしくなる、めはいよいよぐらぐらする。
もしやよんじまでにぜんかいしてやくそくをりこうすることができなかったら、きのせまいおんなのことだからなにをするかもしれない。
なさけないしぎになってきた。
どうしたらよかろう。
まんいちのことをかんがえるといまのうちにういてんぺんのり、しょうじゃひつめつのみちをとききかして、もしものへんがおこったときとりみださないくらいのかくごをさせるのも、おっとのつまにたいするぎむではあるまいかとかんがえだした。
ぼくははやかにさいくんをしょさいへよんだよ。
よんでごぜんはおんなだけれども many a slip 'twixt the cup and the lip というせいようのことわざくらいはこころえているだろうときくと、そんなよこもじなんかだれがしるもんですか、あなたはひとがえいごをしらないのをごぞんじのくせにわざとえいごをつかってひとにからかうのだから、よろしゅうございます、どうせえいごなんかはできないんですから、そんなにえいごがごすきなら、なぜ耶蘇がっこうのそつぎょうせいかなんかをおもらいなさらなかったんです。
あなたくらいれいこくなひとはありはしないとひじょうなけんまくなんで、ぼくもせっかくのけいかくのこしをおられてしまった。
くんとうにもべんかいするがぼくのえいごはけっしてあくいでつかったわけじゃない。
まったくつまをあいするしじょうからでたので、それをつまのようにかいしゃくされてはぼくもたつせがない。
それにさっきからのおかんとめまいですこしのうがみだれていたところへもってきて、はやくういてんぺん、しょうじゃひつめつのりをのみこませようとすこしせきこんだものだから、ついさいくんのえいごをしらないということをわすれて、なにのきもつかずにつかってしまったわけさ。
かんがえるとこれはぼくがあくるい、まったくておちであった。
このしっぱいでおかんはますますつよくなる。
めはいよいよぐらぐらする。
さいくんはめいぜられたとおりふろじょうへいってりょうはだをぬいでごけしょうをして、たんすからきものをだしてちゃくかえる。
もういつでもでかけられますというふぜいでまちかまえている。
ぼくはきがきでない。
はやくあまぎきみがきてくれればよいがとおもってとけいをみるともうさんじだ。
よんじにはもういちじかんしかない。
「そろそろでかけましょうか」とさいくんがしょさいのひらきどをあけてかおをだす。
じぶんのつまをほめるのはおかしいようであるが、ぼくはこのときほどさいくんをうつくしいとおもったことはなかった。
もろはだをぬいでせっけんでみがきあげたひふがぴかついてくろちりめんのはおりとはんえいしている。
そのかおがせっけんとせっつだいじょうをきこうというきぼうとのふたつで、ゆうけいむけいのりょうほうめんからてるやいてみえる。
どうしてもそのきぼうをまんぞくさせてでかけてやろうというきになる。
それじゃふんぱつしていこうかな、といちぷくふかしているとようやくあまぎせんせいがきた。
うまいちゅうもんどおりにいった。
がようだいをはなすと、あまぎせんせいはぼくのしたをながめて、てをにぎって、むねをたたいてせをなでて、まぶちをひっくりかえして、ずがいこつをさすって、しばらくかんがえこんでいる。
「どうもすこしけん呑のようなきがしまして」とぼくがいうと、せんせいはおちついて、「いえかくべつのこともございますまい」という。
「あのちょっとくらいがいしゅついたしてもさしつかえはございますまいね」とさいくんがきく。
「さよう」とせんせいはまたかんがえこむ。
「ごきぶんさえおわるくなければ……」「きぶんはわるいですよ」とぼくがいう。
「じゃともかくもとんぷくとみずぐすりをあげますから」「へえどうか、なんだかちと、あぶないようになりそうですな」「いやけっしてごしんぱいになるほどのことじゃございません、しんけいをごおこしになるといけませんよ」とせんせいがかえる。
さんじはさんじゅうふんすぎた。
げじょをくすりとりにやる。
さいくんのげんめいで馳けだしていって、馳けだしてかえってくる。
よんじじゅうごふんまえである。
よんじにはまだじゅうごふんある。
するとよんじじゅうごふんまえごろから、いままでなにともなかったのに、きゅうに嘔気を催おしてきた。
さいくんはみずぐすりをちゃわんへそそいでぼくのまえへおいてくれたから、ちゃわんをとりあげてのもうとすると、いのなかからげーというものがとっかんしてでてくる。
やむをえずちゃわんをしたへおく。
さいくんは「はやくごのみになったらむべいでしょう」と逼る。
はやくのんではやくでかけなくてはぎりがわるい。
おもいきってのんでしまおうとまたちゃわんをくちびるへつけるとまたげーがしゅうねんぶかくぼうがいをする。
のもうとしてはちゃわんをおき、のもうとしてはちゃわんをおいているとちゃのまのはしらどけいがちんちんちんちんとよんじをうった。
さあよんじだぐずぐずしてはおられんとちゃわんをまたとりあげると、ふしぎだねえきみ、じつにふしぎとはこのことだろう、よんじのおととともにはきけがすっかりとまってみずぐすりがなにのくなしにのめたよ。
それからよんじじゅうふんごろになると、あまぎせんせいのめいいということもはじめてりかいすることができたんだが、せなかがぞくぞくするのも、めがぐらぐらするのもゆめのようにきえて、とうぶんたつこともできまいとおもったびょうきがたちまちぜんかいしたのはうれしかった」
「それからかぶきざへいっしょにいったのかい」と迷亭がようりょうをえんというかおづけをしてきく。
「いきたかったがよんじをすぎちゃ、はいいれないというさいくんのいけんなんだからしかたがない、やめにしたさ。
もうじゅうごふんばかりはやくあまぎせんせいがきてくれたらぼくのぎりもたつし、つまもまんぞくしたろうに、わずかじゅうごぶんのさでね、じつにざんねんなことをした。
かんがえだすとあぶないところだったといまでもおもうのさ」
かたりりょうったしゅじんはようやくじぶんのぎむをすましたようなかぜをする。
これでりょうにんにたいしてかおがたつというきかもしれん。
かんげつはれいのごとくかけたはをだしてわらいながら「それはざんねんでしたな」という。
迷亭はとぼけたかおをして「きみのようなしんせつなおっとをもったさいくんはじつにしあわせだな」とひとりごとのようにいう。
しょうじのかげでえへんというさいくんのせきばらいがきこえる。
わがはいはおとなしくさんにんのはなしをじゅんばんにきいていたがおかしくもかなしくもなかった。
にんげんというものはじかんをつぶすためにしいてくちをうんどうさせて、おかしくもないことをわらったり、おもしろくもないことをうれしがったりするほかにのうもないものだとおもった。
わがはいのしゅじんのわがままでへんきょうなことはまえからしょうちしていたが、へいじょうはことばすうをつかわないのでなんだかりょうかいしかねるてんがあるようにおもわれていた。
そのりょうかいしかねるてんにすこしはこわしいというかんじもあったが、いまのはなしをきいてからきゅうにけいべつしたくなった。
かれはなぜりょうにんのはなしをちんもくしてきいていられないのだろう。
まけぬきになってぐにもつかぬだべんをろうすればなにのしょとくがあるだろう。
えぴくてたすにそんなことをしろとかいてあるのかしらん。
ようするにしゅじんもかんげつも迷亭もたいへいのいつみんで、かれらはへちまのごとくかぜにふかれてちょうぜんとすましきっているようなものの、そのじつはやはりしゃばけもありよくきもある。
きょうそうのねん、かとうかとうのこころはかれらがにちじょうのだんしょうちゅうにもちらちらとほのめいて、いちほすすめばかれらがへいじょうばとうしているぞっこつどもとひとつあなのどうぶつになるのはねこよりみてきのどくのいたりである。
ただそのげんごどうさがふつうのはんかつうのごとく、ぶんぎりがたのいやみをおびてないのはいささかのとりどくでもあろう。
こうかんがえるときゅうにさんにんのだんわがおもしろくなくなったので、みけこのようすでもみてこようかとにげんきんのごししょうさんのにわぐちへめぐる。
かどまつちゅうもくかざりはすでにとりはらわれてしょうがつもはややじゅうにちとなったが、うららかなしゅんじつはいちながれのくももみえぬふかきそらよりしかいてんかをいちどにてらして、じゅうつぼにたらぬにわのめんもがんじつのしょこうをうけたときより鮮かなかっきをていしている。
椽側にざぶとんがひとつあってひとかげもみえず、しょうじもたてきってあるのはごししょうさんはゆにでもおこなったのかしらん。
ごししょうさんはるすでもかまわんが、みけこはすこしはむべいかたか、それがきがかりである。
ひっそりしてひとのきあいもしないから、どろあしのまま椽側へのぼってざぶとんのまんなかへねてんろんでみるといいこころもちだ。
ついうとうととして、みけこのこともわすれてうたたねをしていると、きゅうにしょうじのうちでひとごえがする。
「ごくろうだった。
できたかえ」ごししょうさんはやはりるすではなかったのだ。
「はいおそくなりまして、ぶっしやへまいりましたらちょうどできのぼったところだともうしまして」「どれおみせなさい。
ああきれいにできた、これでさんもうもうかばれましょう。
きんははげることはあるまいね」「ええねんをおしましたらじょうとうをつかったからこれならにんげんのいはいよりももつともうしておりました。
……それからねこほまれしんにょのほまれのじはくずしたほうがかっこうがいいからすこし劃をやすえたともうしました」「どれどれさっそくごぶつだんへあげてごせんこうでもあげましょう」
みけこは、どうかしたのかな、なんだかようすがへんだとふとんのうえへたちのぼる。
ちーんなむねこほまれしんにょ、なむあみだぶつなむあみだぶつとごししょうさんのこえがする。
「ごぜんもえこうをしておやりなさい」
ちーんなむねこほまれしんにょなむあみだぶつなむあみだぶつとこんどはげじょのこえがする。
わがはいはきゅうにどうきがしてきた。
ざぶとんのうえにたったまま、きぼりのねこのようにめもうごかさない。
「ほんとにざんねんなことをいたしましたね。
はじめはちょいとかぜをひいたんでございましょうがねえ」「あまぎさんがくすりでもくださると、よかったかもしれないよ」「いったいあのあまぎさんがわるうございますよ、あんまりさんもうをばかにしかぎまさあね」「そうひとさまのことをわるくいうものではない。
これもじゅみょうだから」
みけこもあまぎせんせいにしんさつしてもらったものとみえる。
「つまるところおもてどおりのきょうしのうちののらねこがむあんにさそいだしたからだと、わたしはおもうよ」「ええあのちくしょうがさんもうのかたきでございますよ」
すこしべんかいしたかったが、ここががまんのしどころとつばをのんできいている。
はなしはしばしとぎれる。
「よのなかはじゆうにならんものでのう。
みけのようなきりょうよしははやじにをするし。
ぶきりょうなのらねこはたっしゃでいたずらをしているし……」「そのとおりでございますよ。
みけのようなかわいらしいねこはかねとたいこでさがしてあるいたって、ににんとはおりませんからね」
にひきというかわりににたりといった。
げじょのかんがえではねことにんげんとはどうしゅぞくものとおもっているらしい。
そういえばこのげじょのかおはわれとうねこぞくとはなはだるいじしている。
「できるものならさんもうのかわりに……」「あのきょうしのところののらがしぬとおあつらえどおりにまいったんでございますがねえ」
おあつらえどおりになっては、ちとこまる。
しぬということはどんなものか、まだけいけんしたことがないからすきともきらいともいえないが、せんじつあまりさむいのでひけしつぼのなかへもぐりこんでいたら、げじょがわがはいがいるのもしらんでうえからふたをしたことがあった。
そのときのくるしさはかんがえてもおそれしくなるほどであった。
はくくんのせつめいによるとあのくるしみがいますこしつづくとしぬのであるそうだ。
みけこのみがわりになるのならくじょうもないが、あのくるしみをうけなくてはしぬことができないのなら、だれのためでもしにたくはない。
「しかしねこでもぼうさんのごけいをよんでもらったり、かいみょうをこしらえてもらったのだからこころのこりはあるまい」「そうでございますとも、まったくかほうものでございますよ。
ただよくをいうとあのぼうさんのごけいがあまりけいしょうだったようでございますね」「すこしたんかすぎたようだったから、たいへんおはやうございますねとおたずねをしたら、げっけいじさんは、ええききめのあるところをちょいとやっておきました、なにねこだからあのくらいでじゅうぶんじょうどへいかれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあののらなんかは……」
わがはいはなまえはないとしばしばことわっておくのに、このげじょはのらのらとわがはいをよぶ。
しっけいなやっこだ。
「つみがふかいんですから、いくらありがたいごけいだってうかばれることはございませんよ」
わがはいはそのごのらがなんひゃくへんくりかえされたかをしらぬ。
わがはいはこのさいげんなきだんわをちゅうとでききすてて、ふとんをすべりおちて椽側からとびおりたとき、はちまんはちせんはちひゃくはちじゅうほんのもうはつをいちどにたててみぶるいをした。
そのごにげんきんのごししょうさんのきんじょへはよりついたことがない。
いまごろはごししょうさんじしんがげっけいじさんからけいしょうなごえこうをうけているだろう。
ちかごろはがいしゅつするゆうきもない。
なんだかせけんが慵うくかんぜらるる。
しゅじんにおとらぬほどのむせいねことなった。
しゅじんがしょさいにのみとじこもっているのをひとがしつれんだしつれんだとひょうするのもむりはないとおもうようになった。
ねずみはまだとったことがないので、いちじはごさんからほうちくろんさえていしゅつされたこともあったが、しゅじんはわがはいのふつういっぱんのねこでないということをしっているものだからわがはいはやはりのらくらしてこのいえにきがしている。
このてんについてはふかくしゅじんのおんをかんしゃするとどうじにそのかつがんにたいしてけいふくのいをひょうするにちゅうちょしないつもりである。
ごさんがわがはいをしらずしてぎゃくたいをするのはべつにはらもたたない。
いまにひだりじんごろうがでてきて、わがはいのしょうぞうをろうもんのはしらにきざみ、にっぽんのすたんらんがこのんでわがはいのにがおをかんゔぁすのうえにえがくようになったら、かれらどん瞎漢ははじめてじこのふめいをはずるであろう。
さん
みけこはしぬ。
くろはあいてにならず、いささかせきばくのかんはあるが、さいわいにんげんにちきができたのでさほどたいくつともおもわぬ。
せんだってはしゅじんのもとへわがはいのしゃしんをおくってくれとてがみでいらいしたおとこがある。
このかんはおかやまのめいさんきびだんごをわざわざわがはいのなあてでとどけてくれたひとがある。
だんだんにんげんからどうじょうをよせらるるにしたがって、おのれがねこであることはようやくぼうきゃくしてくる。
ねこよりはいつのまにかにんげんのほうへせっきんしてきたようなこころもちになって、どうぞくをきゅうごうしてにほんあしのせんせいとしゆうをけっしようなどというりょうみはさっこんのところもうとうない。
それのみかおりおりはわがはいもまたにんげんせかいのいちにんだとおもうおりさえあるくらいにしんかしたのはたのもしい。
あえてどうぞくをけいべつするしだいではない。
ただせいじょうのちかきところにむかっていっしんのやすきをおくはぜいのしからしむるところで、これをへんしんとか、けいはくとか、うらぎりとかひょうせられてはちとめいわくする。
かようなげんごをろうしてひとをばりするものにかぎってゆうずうのきかぬびんぼうしょうのおとこがおおいようだ。
こうねこのしゅうへきをだっかしてみるとさんもうこやくろのことばかりにやっかいにしているわけにはいかん。
やはりにんげんどうとうのきぐらいでかれらのしそう、げんこうをひょう隲したくなる。
これもむりはあるまい。
ただそのくらいなけんしきをゆうしているわがはいをやはりいっぱんねこじのけのはえたものくらいにおもって、しゅじんがわがはいにひとことのあいさつもなく、きびだんごをわがものがおにくいつくしたのはざんねんのしだいである。
しゃしんもまだとっておくらぬようすだ。
これもふへいといえばふへいだが、しゅじんはしゅじん、わがはいはわがはいで、そうごのけんかいがしぜんことなるのはいたしかたもあるまい。
わがはいはどこまでもにんげんになりすましているのだから、こうさいをせぬねこのどうさは、どうしてもちょいとふでにのぼりにくい。
迷亭、かんげつしょせんせいのひょうばんだけでごめんこうむることにいたそう。
きょうはうえてんきのにちようなので、しゅじんはのそのそしょさいからでてきて、わがはいのはたへひっけんとげんこうようしをならべてはら這になって、しきりになにかうなっている。
おおかたそうこうをかきおろすじょびらきとしてみょうなこえをはっするのだろうとちゅうもくしていると、ややしばらくしてふでぶとに「こういち※」とかいた。
はてなしになるか、はいくになるか、こういち※とは、しゅじんにしてはすこししゃれすぎているがとおもうまもなく、かれはこういち※をかきはなしにして、あらたにくだりをあらためて「さっきからてんねんこじのことをかこうとかんがえている」とふでをはしらせた。
ふではそれだけではたととまったぎりうごかない。
しゅじんはふでをもってくびをひねったがべつだんめいあんもないものとみえてふでのほを甞めだした。
くちびるがまっくろになったとみていると、こんどはそのしたへちょいとまるをかいた。
まるのなかへてんをふたつうってめをつける。
まんなかへこばなのひらいたはなをかいて、まいちもんじにくちをよこへひっぱった、これではぶんしょうでもはいくでもない。
しゅじんもじぶんであいそがつきたとみえて、そこそこにかおをぬりけしてしまった。
しゅじんはまたくだりをあらためる。
かれのこうによるとくだりさえあらためればしかさんかかたりかろくかなにかになるだろうとただあてもなくかんがえているらしい。
やがて「てんねんこじはくうかんをけんきゅうし、ろんごをよみ、しょういもをくい、はなしるをたらすひとである」とげんぶんいっちたいでいっきかせいにかきながした、なんとなくごたごたしたぶんしょうである。
それからしゅじんはこれをえんりょなくろうどくして、いつになく「ははははおもしろい」とわらったが「はなしるをたらすのは、ちとこくだからけそう」とそのくだけへぼうをひく。
いちほんですむところをにほんびきさんほんひき、きれいなへいこうせんをえがく、せんがほかのくだりまではみだしてもかまわずひいている。
せんがはちほんならんでもあとのくができないとみえて、こんどはふでをすててひげをひねってみる。
ぶんしょうをひげからひねりだしてごらんにいれますというけんまくでもうれつにひねってはねじあげ、ねじおろしているところへ、ちゃのまからさいくんがでてきてぴたりとしゅじんのはなのさきへすわわる。
「あなたちょっと」とよぶ。
「なんだ」としゅじんはすいちゅうでどらをたたくようなこえをだす。
へんじがきにいらないとみえてさいくんはまた「あなたちょっと」とでなおす。
「なんだよ」とこんどははなのあなへおやゆびとひとさしゆびをいれてはなげをぐっとぬく。
「こんげつはちっとたりませんが……」「たりんはずはない、いしゃへもやくれいはすましたし、ほんやへもせんげつはらったじゃないか。
こんげつはあまらなければならん」とすましてぬきとったはなげをてんかのきかんのごとくながめている。
「それでもあなたがごはんをめしのぼらんでめん麭をおたべになったり、じゃむをおなめになるものですから」「がんらいじゃむはいくかんなめたのかい」「こんげつはやっつはいりましたよ」「やっつ?そんなになめたおぼえはない」「あなたばかりじゃありません、こどももなめます」「いくらなめたってごろくえんくらいなものだ」としゅじんはへいきなかおではなげをいちほんいちほんていねいにげんこうしのうえへうえつける。
にくがついているのでぴんとはりをたてたごとくにたつ。
しゅじんはおもわぬはっけんをしてかんじいったからだで、ふっとふいてみる。
ねんちゃくりょくがつよいのでけっしてとばない。
「いやにがんこだな」としゅじんはいっしょうけんめいにふく。
「じゃむばかりじゃないんです、ほかにかわなけりゃ、ならないものもあります」とさいくんはだいにふへいなけしきをりょうほおにみなぎらす。
「あるかもしれないさ」としゅじんはまたゆびをつっこんでぐいとはなげをぬく。
あかいのや、くろいのや、しゅじゅのいろが交るなかにいちほんまっしろなのがある。
だいにおどろいたようすであなのひらくほどながめていたしゅじんはゆびのまたへはさんだまま、そのはなげをさいくんのかおのまえへだす。
「あら、いやだ」とさいくんはかおをしかめて、しゅじんのてをつきもどす。
「ちょっとみろ、はなげのはくはつだ」としゅじんはだいにかんどうしたようすである。
さすがのさいくんもわらいながらちゃのまへはいいる。
けいざいもんだいはだんねんしたらしい。
しゅじんはまたてんねんこじにとりかかる。
はなげでさいくんをおっぱらったしゅじんは、まずこれであんしんといわぬばかりにはなげをぬいてはげんこうをかこうとあせるからだであるがなかなかふではうごかない。
「しょういもをくうもだそくだ、かつあいしよう」とついにこのくもまっさつする。
「こういち※」にぼうてん]もあまりとうとつだからやめろ」と惜気もなくひっちゅうする。
あますところは「てんねんこじはくうかんをけんきゅうしろんごをよむひとである」といういっくになってしまった。
しゅじんはこれではなんだかかんたんすぎるようだなとかんがえていたが、ええめんどうくさい、ぶんしょうはごはいしにして、めいだけにしろと、ふでをじゅうもんじにふるってげんこうしのうえへへたなぶんじんがのらんをぜいよくかく。
せっかくのくしんもいちじのこらずらくだいとなった。
それからうらをかえして「くうかんにうまれ、くうかんをきわめ、くうかんにしす。
そらたりかんたりてんねんこじ噫」といみふめいなかたりをつらねているところへれいのごとく迷亭がはいいってくる。
迷亭はひとのいえもじぶんのいえもおなじものとこころえているのかあんないもこわず、ずかずかのぼってくる、のみならずときにはかってぐちからひょうぜんとまいこむこともある、しんぱい、えんりょ、きけん、くろう、をうまれるときどこかへふりおとしたおとこである。
「またきょじんいんりょくかね」とたったまましゅじんにきく。
「そう、いつでもきょじんいんりょくばかりかいてはおらんさ。
てんねんこじのはかめいをせんしているところなんだ」とおおげさなことをいう。
「てんねんこじというなあやはりぐうぜんどうじのようなかいみょうかね」と迷亭はふあいへんでたらめをいう。
「ぐうぜんどうじというのもあるのかい」「なにありゃしないがまずそのけんとうだろうとおもっていらあね」「ぐうぜんどうじというのはぼくのしったものじゃないようだがてんねんこじというのは、きみのしってるおとこだぜ」「いったいだれがてんねんこじなんてなをつけてすましているんだい」「れいの曾呂さきのことだ。
そつぎょうしてだいがくいんへはいいってくうかんろんというだいもくでけんきゅうしていたが、あまりべんきょうしすぎてふくまくえんでしんでしまった。
曾呂さきはあれでもぼくのしんゆうなんだからな」「しんゆうでもいいさ、けっしてわるいとうんやしない。
しかしその曾呂さきをてんねんこじにへんかさせたのはいったいだれのしょさだい」「ぼくさ、ぼくがつけてやったんだ。
がんらいぼうずのつけるかいみょうほどぞくなものはないからな」とてんねんこじはよほどみやびななのようにじまんする。
迷亭はわらいながら「まあそのぼひめいというやっこをみせたまえ」とげんこうをとりあげて「なんだ……くうかんにうまれ、くうかんをきわめ、くうかんにしす。
そらたりかんたりてんねんこじ噫」とおおきなこえでよみのぼる。
「なるほどこりゃあよい、てんねんこじそうとうのところだ」しゅじんはうれしそうに「よいだろう」という。
「このはかめいをたくあんせきへほりつけてほんどうのうらてへりきいしのようにほうりだしておくんだね。
みやびでいいや、てんねんこじもうかばれるわけだ」「ぼくもそうしようとおもっているのさ」としゅじんはしごくまじめにこたえたが「ぼくあちょっとしっけいするよ、じきかえるからねこにでもからかっていてくれたまえ」と迷亭のへんじもまたずかぜしかとでていく。
はからずも迷亭せんせいのせったいかかりをめいぜられてぶあいそうなかおもしていられないから、にゃーにゃーとあいきょうをふりまいてひざのうえへはいのぼってみた。
すると迷亭は「いよーおおいたふとったな、どれ」とぶさほうにもわがはいのえりがみをつかんでちゅうへつるす。
「あとあしをこうぶらさげては、ねずみはとれそうもない、……どうですおくさんこのねこはねずみをとりますかね」とわがはいばかりではふそくだとみえて、となりのしつのさいくんにはなしかける。
「ねずみどころじゃございません。
ごぞうにをたべておどりをおどるんですもの」とさいくんはとんだところできゅうあくをあばく。
わがはいはちゅうのりをしながらもしょうしょうきまりがわるかった。
迷亭はまだわがはいをおろしてくれない。
「なるほどおどりでもおどりそうなかおだ。
おくさんこのねこはゆだんのならないそうごうですぜ。
むかししのくさぞうしにあるねこまたににていますよ」とかってなことをいいながら、しきりにさいくんにはなしかける。
さいくんはめいわくそうにはりしごとのてをやめてざしきへでてくる。
「どうもごたいくつさま、もうかえりましょう」とちゃをそそぎやすえて迷亭のまえへだす。
「どこへいったんですかね」「どこへまいるにもことわっていったことのないおとこですからわかりかねますが、おおかたごいしゃへでもおこなったんでしょう」「あまぎさんですか、あまぎさんもあんなびょうにんにつかまっちゃさいなんですな」「へえ」とさいくんはあいさつのしようもないとみえてかんたんなこたえをする。
迷亭はいっこうとんじゃくしない。
「ちかごろはどうです、すこしはいのかげんがあたいんですか」「あたいかわるいかとみとわかりません、いくらあまぎさんにかかったって、あんなにじゃむばかり甞めてはいびょうのなおるわけがないとおもいます」とさいくんはせんこくのふへいをあんに迷亭にもらす。
「そんなにじゃむを甞めるんですかまるでしょうきょうのようですね」「じゃむばかりじゃないんで、このころはいびょうのくすりだとかゆってだいこんおろししをむあんに甞めますので……」「おどろきろいたな」と迷亭はかんたんする。
「なにでもだいこんおろしのなかにはじやすたーぜがあるとかいうはなしをしんぶんでよんでからです」「なるほどそれでじゃむのそんがいをつぐなおうというしゅこうですな。
なかなかかんがえていらあはははは」と迷亭はさいくんの訴をきいてだいにゆかいなけしきである。
「このかんなどはあかんぼうにまで甞めさせまして……」「じゃむをですか」「いいえだいこんおろしを……あなた。
ぼうやごとうさまがうまいものをやるからおいでてって、――たまにしょうきょうをかわいがってくれるかとおもうとそんなばかなことばかりするんです。
にさんにちまえにはなかのむすめをだいてたんすのうえへあげましてね……」「どういうしゅこうがありました」と迷亭はなにをきいてもしゅこうずくめにかいしゃくする。
「なにしゅこうもなにもありゃしません、ただそのうえからとびおりてみろというんですわ、みっつやよっつのおんなのこですもの、そんなごてんばばなことができるはずがないです」「なるほどこりゃしゅこうがなさすぎましたね。
しかしあれではらのうちはどくのないぜんにんですよ」「あのうえはらのうちにどくがあっちゃ、からしぼうはできませんわ」とさいくんはだいにきえんをあげる。
「まあそんなにふへいをいわんでもよいでさあ。
こうやってふそくなくそのひそのひがくらしていかれればうえのぶんですよ。
くさやくんなどはどうらくはせず、ふくそうにもかまわず、じみにせたいむきにできのぼったひとでさあ」と迷亭はえにないせっきょうをようきなちょうしでやっている。
「ところがあなただいちがいで……」「なにかうちうちでやりますかね。
ゆだんのならないよのなかだからね」とひょうぜんとふわふわしたへんじをする。
「ほかのどうらくはないですが、むあんによみもしないほんばかりかいましてね。
それもよいかげんにみはからってかってくれるとよいんですけれど、かってにまるぜんへいっちゃなんさつでもとってきて、げつまつになるとしらんかおをしているんですもの、きょねんのくれなんか、つきづきのがたまってたいへんこまりました」「なあにしょもつなんかとってくるだけとってきてかまわんですよ。
はらいをとりにきたらいまにやるいまにやるとゆっていりゃかえってしまいまさあ」「それでも、そういつまでもひっぱるわけにもまいりませんから」とさいくんはぶぜんとしている。
「それじゃ、わけをはなしてしょせきひをさくげんさせるさ」「どうして、そんなげんをゆったって、なかなかきくものですか、このかんなどはきさまはがくしゃのつまにもにあわん、ごうもしょせきのかちをかいしておらん、むかししらうまにこういうはなしがある。
こうがくのためきいておけというんです」「そりゃおもしろい、どんなはなしですか」迷亭はのきになる。
さいくんにどうじょうをあらわしているというよりむしろこうきしんにかられている。
「なにんでもむかししらうまにたるきんとかいうおうさまがあって……」「たるきん?たるきんはちとみょうですぜ」「わたしはとうじんのななんかむずかしくておぼえられませんわ。
なにでもななだいめなんだそうです」「なるほどななだいめたるきんはみょうですな。
ふんそのななだいめたるきんがどうかしましたかい」「あら、あなたまでひやかしてはたつせがありませんわ。
しっていらっしゃるならおしえてくださればいいじゃありませんか、ひとのわるい」と、さいくんは迷亭へくってかかる。
「なにひやかすなんて、そんなひとのわるいことをするぼくじゃない。
ただななだいめたるきんはふってるとおもってね……ええおまちなさいよらばのななだいめのおうさまですね、こうっとたしかにはおぼえていないがたーくいん・ぜ・ぷらうどのことでしょう。
まあだれでもいい、そのおうさまがどうしました」「そのおうさまのところへいちにんのおんながほんをきゅうさつもってきてかってくれないかとゆったんだそうです」「なるほど」「おうさまがいくらならうるといってきいたらたいへんなたかいことをいうんですって、あまりたかいもんだからすこしまけないかというとそのおんながいきなりきゅうさつのうちのさんさつをひにくべてたいてしまったそうです」「おしいことをしましたな」「そのほんのうちにはよげんかなにかほかでみられないことがかいてあるんですって」「へえー」「おうさまはきゅうさつがろくさつになったからすこしはあたいもへったろうとおもってろくさつでいくらだときくと、やはりもとのとおりいちぶんもひかないそうです、それはらんぼうだというと、そのおんなはまたさんさつをとってひにくべたそうです。
おうさまはまだみれんがあったとみえて、あまったさんさつをいくらでうるときくと、やはりきゅうさつぶんのねだんをくれというそうです。
きゅうさつがろくさつになり、ろくさつがさんさつになってもだいかは、もとのとおりいちりんもひかない、それをひかせようとすると、のこってるさんさつもひにくべるかもしれないので、おうさまはとうとうたかいごきんをだしてたけあまりのさんさつをかったんですって……どうだこのはなしですこしはしょもつのありがたみがわかったろう、どうだとちからみむのですけれど、わたしにゃなにがありがたいんだか、まあわかりませんね」とさいくんはいっかのけんしきをたてて迷亭のへんとうを促がす。
さすがの迷亭もしょうしょうきゅうしたとみえて、たもとからはんけちをだしてわがはいをじゃらしていたが「しかしおくさん」ときゅうになにかかんがえついたようにおおきなこえをだす。
「あんなにほんをかってやたらにつめこむものだからひとからすこしはがくしゃだとかなんとかいわれるんですよ。
このかんあるぶんがくざっしをみたらくさやくんのひょうがでていましたよ」「ほんとに?」とさいくんはむきなおる。
しゅじんのひょうばんがきにかかるのは、やはりふうふとみえる。
「なんとかいてあったんです」「なあににさんこうばかりですがね。
くさやくんのぶんはこううんりゅうすいのごとしとありましたよ」さいくんはすこしにこにこして「それぎりですか」「そのつぎにね――でずるかとおもえばたちまちきえ、ゆいてはながえにかえるを忘るとありましたよ」さいくんはみょうなかおをして「しょうめたんでしょうか」とこころもとないちょうしである。
「まあしょうめたほうでしょうな」と迷亭はすましてはんけちをわがはいのめのまえにぶらさげる。
「しょもつはしょうがいどうぐでしかたもござんすまいが、よっぽどへんくつでしてねえ」迷亭はまたべっとのほうめんからきたなとおもって「へんくつはしょうしょうへんくつですね、がくもんをするものはどうせあんなですよ」とちょうしをあわせるようなべんごをするようなふそくふりのみょうこたえをする。
「せんだってなどはがっこうからかえってすぐわきへでるのにきものをきかえるのがめんどうだものですから、あなたがいとうもぬがないで、つくえへこしをかけてごはんをたべるのです。
ごぜんをこたつろのうえへのせまして――わたしはごひつをかかえてすわっておりましたがおかしくって……」「なんだかはいからのくびじっけんのようですな。
しかしそんなところがにがさやくんのくさやくんたるところで――とにかくつきなみでない」とせつないほめかたをする。
「つきなみかつきなみでないかおんなにはわかりませんが、なんぼなにでも、あまりらんぼうですわ」「しかしつきなみよりよいですよ」とむあんにかせいするとさいくんはふまんなようすで「いったい、つきなみつきなみとみなさんが、よくおっしゃいますが、どんなのがつきなみなんです」とひらきなおってつきなみのていぎをしつもんする、「つきなみですか、つきなみというと――さようちとせつめいしにくいのですが……」「そんなあいまいなものならつきなみだってよさそうなものじゃありませんか」とさいくんはにょにんいちりゅうのろんりほうでつめよせる。
「あいまいじゃありませんよ、ちゃんとわかっています、ただせつめいしにくいだけのことでさあ」「なにでもじぶんのきらいなことをつきなみというんでしょう」とさいくんはわがしらずうがったことをいう。
迷亭もこうなるとなんとかつきなみのしょちをつけなければならぬしぎとなる。
「おくさん、つきなみというのはね、まずとしはにはちかにきゅうからぬといわずかたらずものおもいのまにねころんでいて、このひやてんきせいろうとくるとかならずいっぴょうをたずさえてぼくつつみにあそぶれんちゅうをいうんです」「そんなれんちゅうがあるでしょうか」とさいくんはわからんものだからこうかげんなあいさつをする。
「なんだかごたごたしてわたしにはわかりませんわ」とついにわがをおる。
「それじゃばきんのどうへめじょお・ぺんでにすのくびをつけていちにねんおうしゅうのくうきでつつんでおくんですね」「そうするとつきなみができるでしょうか」迷亭はへんじをしないでわらっている。
「なにそんなてすうのかかることをしないでもできます。
ちゅうがっこうのせいとにしらきやのばんがしらをくわえてにでわれるとりっぱなつきなみができのぼります」「そうでしょうか」とさいくんはくびをひねったままなっとくしかねたというふぜいにみえる。
「きみまだいるのか」としゅじんはいつのまにやらかえってきて迷亭のはたへすわわる。
「まだいるのかはちとこくだな、すぐかえるからまっていたまえといったじゃないか」「ばんじあれなんですもの」とさいくんは迷亭をかえりみる。
「いまくんのるすちゅうにきみのいつわをのこらずきいてしまったぜ」「おんなはとかくたべんでいかん、にんげんもこのねこくらいちんもくをまもるといいがな」としゅじんはわがはいのあたまをなでてくれる。
「きみはあかんぼうにだいこんおろししを甞めさしたそうだな」「ふむ」としゅじんはわらったが「あかんぼうでもちかごろのあかんぼうはなかなかりこうだぜ。
それいらい、ぼうやつらいのはどこときくときっとしたをだすからみょうだ」「まるでいぬにげいをしこむきでいるからざんこくだ。
ときにかんげつはもうきそうなものだな」「かんげつがくるのかい」としゅじんはふしんなかおをする。
「きたるんだ。
ごごいちじまでにくさやのいえへこいとはしがきをだしておいたから」「ひとのつごうもきかんでかってなことをするおとこだ。
かんげつをよんでなにをするんだい」「なあにきょうのはこっちのしゅこうじゃないかんげつせんせいじしんのようきゅうさ。
せんせいなにでもりがくきょうかいでえんぜつをするとかいうのでね。
そのけいこをやるからぼくにきいてくれというから、そりゃちょうどいいくさやにもきかしてやろうというのでね。
そこできみのいえへよぶことにしておいたのさ――なあにきみはひまじんだからちょうどいいやね――さしつかえなんぞあるおとこじゃない、きくがいいさ」と迷亭はひとりでのみこんでいる。
「ぶつりがくのえんぜつなんかぼくにゃわからん」としゅじんはしょうしょう迷亭のせんだんをいきどおったもののごとくにいう。
「ところがそのもんだいがまぐねつけられたのっずるについてなどというかんそうむみなものじゃないんだ。
くびくくりのりきがくというだつぞくちょうぼんなえんだいなのだからけいちょうするかちがあるさ」「きみはくびを縊りそんくなったおとこだからけいちょうするがよいがぼくなんざあ……」「かぶきざでおかんがするくらいのにんげんだからきかれないというけつろんはでそうもないぜ」とれいのごとくかるくちをたたく。
さいくんはほほとわらってしゅじんをかえりみながらつぎのまへしりぞく。
しゅじんはむごんのままわがはいのあたまをなでる。
このときのみはひじょうにていねいななでかたであった。
それからやくななふんくらいするとちゅうもんどおりかんげつくんがくる。
きょうはばんに演舌をするというのでれいになくりっぱなふろっくをきて、せんたくしだてのしろえりをそびやかして、おとこぶりをにわりかたあげて、「すこしおくれまして」とおちつきはらって、あいさつをする。
「さっきからににんでだいまちにまったところなんだ。
さっそくねがおう、なあきみ」としゅじんをみる。
しゅじんもやむをえず「うむ」となまへんじをする。
かんげつくんはいそがない。
「こっぷへみずをいっぱいちょうだいしましょう」という。
「いよーほんしきにやるのかつぎにははくしゅのせいきゅうとおいでなさるだろう」と迷亭はひとりでさわぎたてる。
かんげつくんはうちかくしからそうこうをとりだしてじょろに「けいこですから、ごえんりょなくごひひょうをねがいます」とぜん置をして、いよいよ演舌のごさらいをはじめる。
「ざいにんをしぼつみのけいにしょするということはおもにあんぐろさくそんみんぞくかんにおこなわれたほうほうでありまして、それよりこだいにさかのぼってかんがえますとくびくくりはおもにじさつのほうほうとしておこなわれたものであります。
なおふとしひとなかにあってはざいにんをいしをほうげつけてころすしゅうかんであったそうでございます。
きゅうやくぜんしょをけんきゅうしてみますといわゆるはんぎんぐなるかたりはざいにんのしたいをつるしてやじゅうまたはにくしょくとりのえじきとするいぎとみとめられます。
へろどたすのせつにしたがってみますとなおふとしじんはえじぷとをさるいぜんからやちゅうしがいをさらされることをいたくいみきらったようにおもわれます。
えじぷとじんはざいにんのくびをきってどうだけをじゅうじかにくぎづけにしてよなかさらしぶつにしたそうでございます。
なみ斯人は……」「かんげつくんくびくくりとえんがだんだんとおくなるようだがだいじょうぶかい」と迷亭がくちをいれる。
「これからほんろんにはいいるところですから、しょうしょうごからしぼうをねがいます。
……さてなみ斯人はどうかともうしますとこれもやはりしょけいにははりつけをもちいたようでございます。
ただしいきているうちにはりつけにいたしたものか、しんでからくぎをうったものかそのあたりはちとわかりかねます……」「そんなことはわからんでもいいさ」としゅじんはたいくつそうにあくびをする。
「まだいろいろおはなしいたしたいこともございますが、ごめいわくであらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうのほうがききいいよ、ねえにがさやくん」とまた迷亭がとがめりつをするとしゅじんは「どっちでもおなじことだ」ときのないへんじをする。
「さていよいよほんだいにはいりましてべんじます」「べんじますなんかこうしゃくしのうんいぐさだ。
演舌かはもっとじょうひんなことばをつかってもらいたいね」と迷亭せんせいまたまぜかえす。
「べんじますがげひんならなにとゆったらいいでしょう」とかんげつくんはしょうしょうむっとしたちょうしでといかける。
「迷亭のはきいているのか、まぜかえしているのかはんぜんしない。
かんげつくんそんなわたるじばにかまわず、さっさとやるがよい」としゅじんはなるべくはやくなんかんをきりぬけようとする。
「むっとしてべんじましたるやなぎかな、かね」と迷亭はあいかわらずひょうぜんたることをいう。
かんげつはおもわずふきだす。
「しんにしょけいとしてこうさつをもちいましたのは、わたしのしらべましたけっかによりますると、おでぃせーのにじゅうにかんめにでております。
すなわちかれのてれまかすがぺねろぴーのじゅうににんのじじょをこうさつするというじょうりでございます。
まれ臘語でほんぶんをろうどくしてもよろしゅうございますが、ちとてらうようなきみにもなりますからやめにいたします。
よんひゃくろくじゅうごこうから、よんひゃくななじゅうさんこうをごらんになるとわかります」「まれ臘語うんぬんはよしたほうがいい、さもまれ臘語ができますといわんばかりだ、ねえにがさやくん」「それはぼくもさんせいだ、そんなものほしそうなことはいわんほうがおくゆかしくてよい」としゅじんはいつになくただちに迷亭にかたんする。
りょうにんはごうもまれ臘語がよめないのである。
「それではこのりょうさんくはこんばんぬくことにいたしましてつぎをべんじ――ええもうしあげます。
このこうさつをいまからそうぞうしてみますと、これをしっこうするにふたつのほうほうがあります。
だいいちは、かれのてれまかすがゆーみあすおよびふ※りーしゃすの援を藉りてなわのいったんをはしらへくくりつけます。
そしてそのなわのところどころへむすびめをあなにあけてこのあなへおんなのあたまをひとつずついれておいて、かたほうのはじをぐいとひっぱってつりしあげたものとみるのです」「つまりせいようせんたくやのしゃつのようにおんながぶらくだったとみればよいんだろう」「そのとおりで、それからだいにはなわのいったんをまえのごとくはしらへくくりつけてたのいったんもはじめからてんじょうへたかくつるのです。
そしてそのたかいなわからなんほんかべつのなわをさげて、それにむすびめのわになったのをつけておんなの頸をいれておいて、いざというときにおんなのあしだいをとりはずすというしゅこうなのです」「たとえていうとなわのれんのさきへちょうちんだまをつりしたようなけしきとおもえばま違はあるまい」「ちょうちんだまというたまはみたことがないからなんとももうされませんが、もしあるとすればそのあたりのところかとおもいます。
――それでこれからりきがくてきにだいいちのばあいはとうていせいりつすべきものでないということをしょうこだててごらんにいれます」「おもしろいな」と迷亭がいうと「うんおもしろい」としゅじんもいっちする。
「まずおんながどうきょりにつられるとかていします。
またいちばんちめんにちかいににんのおんなのくびとくびをつないでいるなわはほりぞんたるとかていします。
そこであるふぁいちαに……あるふぁろくをなわがちへいせんとかたちづくるかくどとし、てぃーいちてぃー2……てぃーろくをなわのかくぶがうけるちからとみ做し、てぃーなな=えっくすはなわのもっともひくいぶぶんのうけるちからとします。
だぶりゅーはもちろんおんなのたいじゅうとごしょうちください。
どうですごわかりになりましたか」
迷亭としゅじんはかおをみあわせて「たいていわかった」という。
ただしこのたいていというどあいはりょうにんがかってにつくったのだからたにんのばあいにはおうようができないかもしれない。
「さてたかくがたにかんするごぞんじのへいきんせいりろんによりますと、したのごとくじゅうにのほうていしきがたちます。
T1cosあるふぁ1=T2cosあるふぁ2…… (1) T2cosあるふぁ2=T3cosあるふぁ3…… (2) ……]」「ほうていしきはそのくらいでたくさんだろう」としゅじんはらんぼうなことをいう。
「じつはこのしきがえんぜつのしゅのうなんですが」とかんげつくんははなはだのこりおしきにみえる。
「それじゃしゅのうだけはおってうかがうことにしようじゃないか」と迷亭もしょうしょうきょうしゅくのからだにみうけられる。
「このしきをりゃくしてしまうとせっかくのりきがくてきけんきゅうがまるでだめになるのですが……」「なにそんなえんりょはいらんから、ずんずんりゃくすさ……」としゅじんはへいきでいう。
「それではおおせにしたがって、むりですがりゃくしましょう」「それがよかろう」と迷亭がみょうなところでてをぱちぱちとたたく。
「それからえいこくへうつってろんじますと、べおうるふのなかにこうしゅかすなわちがるがともうすじがみえますからしぼつみのけいはこのじだいからおこなわれたものに違ないとおもわれます。
ぶらくすとーんのせつによるともししぼつみにしょせられるざいにんが、まんいちなわのぐあいでしにきれぬときはさいどどうようのけいばつを受くべきものだとしてありますが、みょうなことにはぴやーす・ぷろーまんのなかにはたとえきょうかんでもにどしめるほうはないというくがあるのです。
まあどっちがほんとうかしりませんが、わるくするといちどでしねないことがおうおうじつれいにあるので。
せんななひゃくはちじゅうろくねんにゆうめいなふ※つ・ぜらるどというあっかんをしめたことがありました。
ところがみょうなはずみでいちどめにはだいからとびおりるときになわがきれてしまったのです。
またやりなおすとこんどはなわがながすぎてあしがじめんへついたのでやはりしねなかったのです。
とうとうさんかえめにけんぶつにんがてつだっておうじょうさしたというはなしです」「やれやれ」と迷亭はこんなところへくるときゅうにげんきがでる。
「ほんとうにしにそんいだな」としゅじんまでうかれだす。
「まだおもしろいことがありますくびを縊るとせがいっすんばかりのびるそうです。
これはたしかにいしゃがはかってみたのだからま違はありません」「それはしんくふうだね、どうだいくさやなどはちとつってもらっちゃあ、ちょっとのびたらにんげんなみになるかもしれないぜ」と迷亭がしゅじんのほうをむくと、しゅじんはあんがいまじめで「かんげつくん、いっすんくらいせがのびていきかえることがあるだろうか」ときく。
「それはだめにきょくっています。
つられてせきずいがのびるからなんで、はやくいうとせがのびるというよりこわれるんですからね」「それじゃ、まあとめよう」としゅじんはだんねんする。
えんぜつのつづきは、まだなかなかながくあってかんげつくんはくびくくりのせいりさようにまでろんきゅうするはずでいたが、迷亭がむあんにふうらいぼうのようなちんごをはさむのと、しゅじんがときどきえんりょなくあくびをするので、ついにちゅうとでやめてかえってしまった。
そのばんはかんげつくんがいかなるたいどで、いかなるゆうべんをふったかえんぽうでおこったできごとのことだからわがはいにはしれようやくがない。
にさんにちはこともなくすぎたが、あるるひのごごにじごろまた迷亭せんせいはれいのごとくくうくうとしてぐうぜんどうじのごとくまいこんできた。
ざにつくと、いきなり「きみ、おちとうふうのたかなわじけんをきいたかい」とりょじゅんかんらくのごうがいをしらせにきたほどのぜいをしめす。
「しらん、ちかごろはあわんから」としゅじんはへいぜいのとおりいんきである。
「きょうはそのとうふうこのしっさくものがたりをごほうどうにおよぼうとおもっていそがしいところをわざわざきたんだよ」「またそんなぎょうさんなことをいう、きみはぜんたいふらちなおとこだ」「はははははふらちといわんよりむしろむらちのほうだろう。
それだけはちょっとくべつしておいてもらわんとめいよにかんけいするからな」「おんなしことだ」としゅじんはうそぶいている。
じゅんぜんたるてんねんこじのさいらいだ。
「このまえのにちようにとうふうこがたかなわせんがくじにいったんだそうだ。
このさむいのによせばいいのに――だいいちいまどきせんがくじなどへまいるのはさもとうきょうをしらない、いなかしゃのようじゃないか」「それはとうふうのかってさ。
きみがそれをとめるけんりはない」「なるほどけんりはまさにない。
けんりはどうでもいいが、あのてらないにぎしいぶつほぞんかいというみせものがあるだろう。
きみしってるか」「うんにゃ」「しらない?だってせんがくじへいったことはあるだろう」「いいや」「ない?こりゃおどろきろいた。
どうりでたいへんとうふうをべんごするとおもった。
えどっこがせんがくじをしらないのはなさけない」「しらなくてもきょうしはつとまるからな」としゅじんはいよいよてんねんこじになる。
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それをわざわざほうちにくるきみのほうがよっぽどおもしろいぜ」としゅじんはまきたばこのはいをひおけのなかへはたきおとす。
おりがらこうしどのべるがとびのぼるほどなって「ごめんなさい」とするどどいおんなのこえがする。
迷亭としゅじんはおもわずかおをみあわせてちんもくする。
しゅじんのうちへおんなきゃくはけうだなとみていると、かのするどどいこえのしょゆうぬしはちりめんのにまいがさねをたたみへなすりつけながらはいいってくる。
としはよんじゅうのうえをすこしこしたくらいだろう。
ぬけのぼったはえぎわからまえがみがていぼうこうじのようにたかくそびえて、すくなくともかおのながさのにぶんのいちだけてんにむかってせりだしている。
めがきりどおしのさかくらいなこうばいで、ちょくせんにつるしあげられてさゆうにたいりつする。
ちょくせんとはくじらよりほそいというけいようである。
はなだけはむあんにおおきい。
ひとのはなをぬすんできてかおのまんなかへすえつけたようにみえる。
さんつぼほどのしょうにわへしょうこんしゃのいしとうかごをうつしたときのごとく、ひとりではばをきかしているが、なんとなくおちつかない。
そのはなはいわゆるかぎはなで、ひとどはせいいっぱいたかくなってみたが、これではあんまりだとちゅうとからけんそんして、さきのほうへいくと、はじめのぜいににずたれかかって、したにあるくちびるをのぞきこんでいる。
かくちょるしいはなだから、このおんながものをいうときはくちがものをいうといわんより、はながくちをきいているとしかおもわれない。
わがはいはこのいだいなるはなにけいいをひょうするため、いらいはこのおんなをしょうしてはなこはなことよぶつもりである。
はなこはまずしょたいめんのあいさつをおわって「どうもけっこうなごじゅうきょですこと」とざしきちゅうをねめめぐわす。
しゅじんは「うそをつけ」とはらのうちでいったまま、ぷかぷかたばこをふかす。
迷亭はてんじょうをみながら「きみ、ありゃあめもりか、いたのもくめか、みょうなもようがでているぜ」とあんにしゅじんを促がす。
「むろんあめのもりさ」としゅじんがこたえると「けっこうだなあ」と迷亭がすましていう。
はなこはしゃこうをしらぬひとたちだとはらのうちでいきどおる。
しばらくはさんにんていざのままむごんである。
「ちとうかがいたいことがあって、まいったんですが」とはなこはふたたびはなしのくちをきる。
「はあ」としゅじんがきわめてれいたんにうける。
これではならぬとはなこは、「じつはわたしはついごきんじょで――あのむこうよこちょうのかどやしきなんですが」「あのおおきなせいようかんのくらのあるうちですか、どうりであすこにはかねだというひょうさつがでていますな」としゅじんはようやくかねだのせいようかんと、かねだのくらをにんしきしたようだがかねだふじんにたいするそんけいのどあいはまえとどうようである。
「じつはやどがでまして、ごはなしをうかがうんですがかいしゃのほうがたいへん忙がしいもんですから」とこんどはすこしきいたろうというめづけをする。
しゅじんはいっこうどうじない。
はなこのせんこくからのことばづかいがしょたいめんのおんなとしてはあまりそんざいすぎるのですでにふへいなのである。
「かいしゃでもひとつじゃないんです、ふたつもみっつもかねているんです。
それにどのかいしゃでもじゅうやくなんで――たぶんごぞんじでしょうが」これでもおそれいらぬかというかおづけをする。
がんらいここのしゅじんははかせとかだいがくきょうじゅとかいうとひじょうにきょうしゅくするおとこであるが、みょうなことにはじつぎょうかにたいするそんけいのたびはきわめてひくい。
じつぎょうかよりもちゅうがっこうのせんせいのほうがえらいとしんじている。
よししんじておらんでも、ゆうずうのきかぬせいしつとして、とうていじつぎょうか、きんまんかのおんこをこうむることはさとしたばないとたいらめている。
いくらせんぽうがせいりょくかでも、ざいさんかでも、じぶんがせわになるみこみのないとおもいきったひとのりがいにはきわめてむとんじゃくである。
それだからがくしゃしゃかいをのぞいてたのほうめんのことにはきわめてまが濶で、ことにじつぎょうかいなどでは、どこに、だれがなにをしているかいっこうしらん。
しってもそんけいいふくのねんはごうもおこらんのである。
はなこのほうではあめがしたのいちぐうにこんなへんじんがやはりにっこうにてらされてせいかつしていようとはゆめにもしらない。
いままでよのなかのにんげんにもだいぶせっしてみたが、かねだのつまですとなのって、きゅうにとりあつかいのかわらないばあいはない、どこのかいへでても、どんなみぶんのたかいひとのまえでもりっぱにかねだふじんでとおしていかれる、いわんやこんないぶりかえったろうしょせいにおいてをやで、わたしのいえはむかうよこちょうのかどやしきですとさえいえばしょくぎょうなどはきかぬさきからおどろくだろうとよきしていたのである。
「かねだってひとをしってるか」としゅじんはむぞうさに迷亭にきく。
「しってるとも、かねださんはぼくのおじのともだちだ。
このかんなんざえんゆうかいへおいでになった」と迷亭はまじめなへんじをする。
「へえ、きみのおじさんてえなだれだい」「まきやまだんしゃくさ」と迷亭はいよいよまじめである。
しゅじんがなにかいおうとしていわぬさきに、はなこはきゅうにむきなおって迷亭のほうをみる。
迷亭はおおしまつむぎにこわたりさらさかなにかかさねてすましている。
「おや、あなたがまきやまさまの――なんでいらっしゃいますか、ちっともぞんじませんで、はなはだしつれいをいたしました。
まきやまさまにはしじゅうごせわになると、やどでことごとくごうわさをいたしております」ときゅうにていねいなことばしをして、おまけにごじぎまでする、迷亭は「へええなに、はははは」とわらっている。
しゅじんはあっけにとられてむごんでににんをみている。
「たしかむすめのえんぺんのことにつきましてもいろいろまきやまさまへごしんぱいをねがいましたそうで……」「へえー、そうですか」とこればかりは迷亭にもちととうとつすぎたとみえてちょっとたまげたようなこえをだす。
「じつはかたがたからくれくれともうしこみはございますが、こちらのみぶんもあるものでございますから、めったなところへもかたづけられませんので……」「ごもっともで」と迷亭はようやくあんしんする。
「それについて、あなたにうかがおうとおもってあがったんですがね」とはなこはしゅじんのほうをみてきゅうにそんざいなことばにかえる。
「あなたのところへみずしまかんげつというおとこがたびたびあがるそうですが、あのひとはぜんたいどんなかぜなひとでしょう」「かんげつのことをきいて、なににするんです」としゅじんはにがにがしくいう。
「やはりごれいじょうのごこんぎじょうのかんけいで、かんげつくんのせいこうのいちむらをごしょうちになりたいというわけでしょう」と迷亭がきてんをきかす。
「それがうかがえればたいへんつごうがよろしいのでございますが……」「それじゃ、ごれいじょうをかんげつにおやりになりたいとおっしゃるんで」「やりたいなんてえんじゃないんです」とはなこはきゅうにしゅじんをまいらせる。
「ほかにもだんだんくちがあるんですから、むりにもらっていただかないだってこまりゃしません」「それじゃかんげつのことなんかきかんでもよいでしょう」としゅじんもやっきとなる。
「しかしおかくしなさるわけもないでしょう」とはなこもしょうしょうけんかごしになる。
迷亭はそうほうのまにすわって、ぎんきせるをぐんばいうちわのようにもって、こころのうらではっけよいやよいやとどなっている。
「じゃあかんげつのほうでぜひもらいたいとでもゆったのですか」としゅじんがしょうめんからてっぽうをくわせる。
「もらいたいとゆったんじゃないんですけれども……」「もらいたいだろうとおもっていらっしゃるんですか」としゅじんはこのふじんてっぽうにかぎるとさとったらしい。
「はなしはそんなにはこんでるんじゃありませんが――かんげつさんだってまんざらうれしくないこともないでしょう」とどひょうぎわでもちなおす。
「かんげつがなにかそのごれいじょうにれんちゃくしたというようなことでもありますか」あるならゆってみろというけんまくでしゅじんはそりかえる。
「まあ、そんなけんとうでしょうね」こんどはしゅじんのてっぽうがすこしもこうをそうしない。
いままでおもしろきにぎょうじきどりでけんぶつしていた迷亭もはなこのひとことにこうきしんをちょうはつされたものとみえて、きせるをおいてまえへのりだす。
「かんげつがごじょうさんにつけぶみでもしたんですか、こりゃゆかいだ、しんねんになっていつわがまたひとつふえてはなしのこうざいりょうになる」といちにんでよろこんでいる。
「つけぶみじゃないんです、もっとはげしいんでさあ、ごににんともごしょうちじゃありませんか」とはなこはおつにからまってくる。
「きみしってるか」としゅじんはきつねつきのようなかおをして迷亭にきく。
迷亭もばかきたちょうしで「ぼくはしらん、しっていりゃきみだ」とつまらんところでけんそんする。
「いえごりょうにんどもごぞんじのことですよ」とはなこだけだいとくいである。
「へえー」とごりょうにんはいちどにかんじいる。
「ごわすれになったらわたししからごはなしをしましょう。
きょねんのくれむこうじまのあべさんのごやしきでえんそうかいがあってかんげつさんもでかけたじゃありませんか、そのばんがえりにあづまばしでなにかあったでしょう――くわしいことはいいますまい、とうにんのごめいわくになるかもしれませんから――あれだけのしょうこがありゃじゅうぶんだとおもいますが、どんなものでしょう」とこんごうせきいりのゆびたまきのはまったゆびを、ひざのうえへ併べて、つんといずまいをなおす。
いだいなるはながますますいさいをはなって、迷亭もしゅじんもあれどもむきがごときありさまである。
しゅじんはむろん、さすがの迷亭もこのふい撃にはきもをぬかれたものとみえて、しばらくはぼうぜんとしておこりのおちたびょうにんのようにすわっていたが、きょうがくのたががゆるんでだんだんもちまえのほんたいにふくするとともに、こっけいというかんじがいちどにとっかんしてくる。
りょうにんはもうしあわせたごとく「ははははは」とわらいくずれる。
はなこばかりはすこしあてがはずれて、このさいわらうのははなはだしつれいだとりょうにんをにらみつける。
「あれがごじょうさんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃるとおりだ、ねえにがさやくん、まったくかんげつはおじょうさんをこいってるにそういないね……もうかくしたってしようがないからはくじょうしようじゃないか」「うふん」としゅじんはゆったままである。
「ほんとうにおかくしなさってもいけませんよ、ちゃんとたねはのぼってるんですからね」とはなこはまたとくいになる。
「こうなりゃしかたがない。
なにでもかんげつくんにかんするじじつはごさんこうのためにちんじゅつするさ、おいくさやくん、きみがしゅじんだのに、そう、にやにやわらっていてはらちがあかんじゃないか、じつにひみつというものはおそろしいものだねえ。
いくらかくしても、どこからかろけんするからな。
――しかしふしぎといえばふしぎですねえ、かねだのおくさん、どうしてこのひみつをごたんちになったんです、じつにおどろきろきますな」と迷亭はいちにんでちょうしたる。
「わたししのほうだって、ぬかりはありませんやね」とはなこはしたりがおをする。
「あんまり、ぬかりがなさすぎるようですぜ。
いったいだれにおききになったんです」「じきこのうらにいるくるまやのかみさんからです」「あのくろねこのいるくるまやですか」としゅじんはめをまるくする。
「ええ、かんげつさんのことじゃ、よっぽどつかいましたよ。
かんげつさんが、ここへくるたびに、どんなはなしをするかとおもってくるまやのかみさんをたのんでいちいちしらせてもらうんです」「そりゃ苛い」としゅじんはおおきなこえをだす。
「なあに、あなたがなにをなさろうとおっしゃろうと、それにかまってるんじゃないんです。
かんげつさんのことだけですよ」「かんげつのことだって、だれのことだって――ぜんたいあのくるまやのかみさんはきにくわんやつだ」としゅじんはいちにんおこりだす。
「しかしあなたのかきねのそとへきてたっているのはむこうのかってじゃありませんか、はなしがきこえてわるけりゃもっとちいさいこえでなさるか、もっとおおきなうちへおはいいんなさるがいいでしょう」とはなこはすこしもせきめんしたようすがない。
「くるまやばかりじゃありません。
しんどうのにげんきんのししょうからもおおいたいろいろなことをきいています」「かんげつのことをですか」「かんげつさんばかりのことじゃありません」とすこしすごいことをいう。
しゅじんはおそれいるかとおもうと「あのししょうはいやにじょうひんぶってじぶんだけにんげんらしいかおをしている、ばかやろうです」「はばかりさま、おんなですよ。
やろうはみかどちがいです」とはなこのことばづかいはますますごさとをあらわしてくる。
これではまるでけんかをしにきたようなものであるが、そこへいくと迷亭はやはり迷亭でこのだんぱんをおもしろそうにきいている。
てつ枴仙じんがしゃものけあいをみるようなかおをしてへいきできいている。
わるぐちのこうかんではとうていはなこのてきでないとじかくしたしゅじんは、しばらくちんもくをまもるのやむをえざるにいたらしめられていたが、ようやくおもいついたか「あなたはかんげつのほうからごじょうさんにれんちゃくしたようにばかりおっしゃるが、わたしのきいたんじゃ、すこしちがいますぜ、ねえ迷亭くん」と迷亭のすくいをもとめる。
「うん、あのときのはなしじゃごじょうさんのほうが、はじめびょうきになって――なんだか譫語をいったようにきいたね」「なにそんなことはありません」とかねだふじんははんぜんたるちょくせんりゅうのことばづかいをする。
「それでもかんげつはたしかに○○はかせのふじんからきいたとゆっていましたぜ」「それがこっちのてなんでさあ、○○はかせのおくさんをたのんでかんげつさんのきをひいてみたんでさあね」「○○のおくさんは、それをしょうちでひきうけたんですか」「ええ。
ひきうけてもらうたって、ただじゃできませんやね、それやこれやでいろいろものをつかっているんですから」「ぜひかんげつくんのことをねほりりはほりりおききにならなくっちゃごかえりにならないというけっしんですかね」と迷亭もすこしきもちをわるくしたとみえて、いつになくてさわりのあらいことばをつかう。
「いいやきみ、はなしたってそんのいくことじゃなし、はなそうじゃないかにがさやくん――おくさん、わたしでもくさやでもかんげつくんにかんするじじつでさしつかえのないことは、みんなはなしますからね、――そう、じゅんをたててだんだんきいてくださるとつごうがいいですね」
はなこはようやくなっとくしてそろそろしつもんをていしゅつする。
いちじあらだてたことばづかいも迷亭にたいしてはまたもとのごとくていねいになる。
「かんげつさんもりがくしだそうですが、ぜんたいどんなことをせんもんにしているのでございます」「だいがくいんではちきゅうのじきのけんきゅうをやっています」としゅじんがまじめにこたえる。
ふこうにしてそのいみがはなこにはわからんものだから「へえー」とはゆったがけげんなかおをしている。
「それをべんきょうするとはかせになれましょうか」ときく。
「はかせにならなければやれないとおっしゃるんですか」としゅじんはふゆかいそうにたずねる。
「ええ。
ただのがくしじゃね、いくらでもありますからね」とはなこはへいきでこたえる。
しゅじんは迷亭をみていよいよいやなかおをする。
「はかせになるかならんかはぼくとうもほしょうすることができんから、ほかのことをきいていただくことにしよう」と迷亭もあまりよいきげんではない。
「ちかごろでもそのちきゅうの――なにかをべんきょうしているんでございましょうか」「にさんにちまえはくびくくりのりきがくというけんきゅうのけっかをりがくきょうかいでえんぜつしました」としゅじんはなにのきもつかずにいう。
「おやいやだ、くびくくりだなんて、よっぽどへんじんですねえ。
そんなくびくくりやなにかやってたんじゃ、とてもはかせにはなれますまいね」「ほんにんがくびを縊っちゃあむずかしいですが、くびくくりのりきがくならなれないともかぎらんです」「そうでしょうか」とこんどはしゅじんのほうをみてかおいろをうかがう。
かなしいことにりきがくといういみがわからんのでおちつきかねている。
しかしこれしきのことをたずねてはかねだふじんのめんぼくにかんするとおもってか、ただあいてのかおいろではっけをたててみる。
しゅじんのかおはしぶい。
「そのほかになにか、わかりやすいものをべんきょうしておりますまいか」「そうですな、せんだってどんぐりのすたびりちーをろんじてあわせててんたいのうんこうにおよぶというろんぶんをかいたことがあります」「どんぐりなんぞでもだいがっこうでべんきょうするものでしょうか」「さあぼくもしろうとだからよくわからんが、なにしろ、かんげつくんがやるくらいなんだから、けんきゅうするかちがあるとみえますな」と迷亭はすましてひやかす。
はなこはがくもんじょうのしつもんはてにあわんとだんねんしたものとみえて、こんどはわだいをてんずる。
「ごはなしはちがいますが――このごしょうがつにしいたけをたべてまえばをにまいおったそうじゃございませんか」「ええそのかけたところにくうやもちがくっついていましてね」と迷亭はこのしつもんこそわれなわばりないだときゅうにうかれだす。
「いろけのないひとじゃございませんか、なにだってようじをつかわないんでしょう」「こんどあったらちゅういしておきましょう」としゅじんがくすくすわらう。
「しいたけではがかけるくらいじゃ、よほどはのせいがわるいとおもわれますが、いかがなものでしょう」「よいとはいわれますまいな――ねえ迷亭」「よいことはないがちょっとあいきょうがあるよ。
あれぎり、まだはめないところがみょうだ。
いまだにくうやもち引掛しょになってるなあきかんだぜ」「はをはめるこづかいがないのでかけなりにしておくんですか、またはものずきでかけなりにしておくんでしょうか」「なにもながくまえばけつなるをなのるわけでもないでしょうからごあんしんなさいよ」と迷亭のきげんはだんだんかいふくしてくる。
はなこはまたもんだいをあらためる。
「なにかごたくにてがみかなんぞとうにんのかいたものでもございますならちょっとはいけんしたいもんでございますが」「はしがきならたくさんあります、ごらんなさい」としゅじんはしょさいからさんよんじゅうまいもってくる。
「そんなにたくさんはいけんしないでも――そのうちのにさんまいだけ……」「どれどれぼくがよいのをせんってやろう」と迷亭せんせいは「これなざあおもしろいでしょう」といちまいのえはがきをだす。
「おやえもかくんでございますか、なかなかきようですね、どれはいけんしましょう」とながめていたが「あらいやだ、たぬきだよ。
なにだってせんりにせんってたぬきなんぞかくんでしょうね――それでもたぬきとみえるからふしぎだよ」とすこしかんしんする。
「そのもんくをよんでごらんなさい」としゅじんがわらいながらいう。
はなこはげじょがしんぶんをよむようによみだす。
「きゅうれきのとしのよる、やまのたぬきがえんゆうかいをやってさかりにぶとうします。
そのうたにいわく、こいさ、としのよるで、おんやまふびもこまいぞ。
すっぽこぽんのぽん」「なにですこりゃ、ひとをばかにしているじゃございませんか」とはなこはふへいのからだである。
「このてんにょはおきにいりませんか」と迷亭がまたいちまいだす。
みるとてんにょがはごろもをきてびわをひいている。
「このてんにょのはながすこしちいさすぎるようですが」「なに、それがひとなみですよ、はなよりもんくをよんでごらんなさい」もんくにはこうある。
「むかししあるところにいちにんのてんもんがくしゃがありました。
あるよるいつものようにたかいだいにのぼって、いっしんにほしをみていますと、そらにうつくしいてんにょがあらわれ、このよではきかれぬほどのびみょうなおんがくをそうしだしたので、てんもんがくしゃはみにしむさむさもわすれてききほれてしまいました。
あさみるとそのてんもんがくしゃのしがいにしもがまっしろにふっていました。
これはほんとうのはなしだと、あのうそつきのじいやがもうしました」「なにのことですこりゃ、いみもなにもないじゃありませんか、これでもりがくしでとおるんですかね。
ちっとぶんげいくらぶでもよんだらよさそうなものですがねえ」とかんげつくんさんざんにやられる。
迷亭はおもしろはんぶんに「こりゃどうです」とさんまいめをだす。
こんどはかっぱんでほかかふねがいんさつしてあって、れいのごとくそのしたになにかかきちらしてある。
「よべのとまりのじゅうろくしょうじょろう、おやがないとて、ありそのちどり、さよのねさとしのちどりにないた、おやはふなのりはのそこ」「うまいのねえ、かんしんだこと、はなせるじゃありませんか」「はなせますかな」「ええこれならしゃみせんにのりますよ」「しゃみせんにのりゃほんものだ。
こりゃいかがです」と迷亭はむあんにだす。
「いえ、もうこれだけはいけんすれば、ほかのはたくさんで、そんなにやぼでないんだということはわかりましたから」といちにんでがてんしている。
はなこはこれでかんげつにかんするたいていのしつもんをそつえたものとみえて、「これははなはだしつれいをいたしました。
どうかわたしのまいったことはかんげつさんへはうちうちにねがいます」とえてかってなようきゅうをする。
かんげつのことはなにでもきかなければならないが、じぶんのほうのことはいっさいかんげつへしらしてはならないというほうしんとみえる。
迷亭もしゅじんも「はあ」ときのないへんじをすると「いずれそのうちおれいはいたしますから」とねんをいれていいながらたつ。
みおくりにでたりょうにんがせきへかえるやいなや迷亭が「ありゃなにだい」というとしゅじんも「ありゃなにだい」とそうほうからおなじといをかける。
おくのへやでさいくんが怺えきれなかったとみえてくつくつわらうこえがきこえる。
迷亭はおおきなこえをだして「おくさんおくさん、つきなみのひょうほんがきましたぜ。
つきなみもあのくらいになるとなかなかふっていますなあ。
さあえんりょはいらんから、ぞんぶんおわらいなさい」
しゅじんはふまんなこうきで「だいいっきにくわんかおだ」とあくらしそうにいうと、迷亭はすぐひきうけて「はながかおのちゅうおうにじんどっておつにかまえているなあ」とあとをつける。
「しかもまがっていらあ」「すこしねこぜだね。
ねこぜのはなは、ちときばつすぎる」とおもしろそうにわらう。
「おっとを剋するかおだ」としゅじんはなおくやしそうである。
「じゅうきゅうせいきでうれのこって、にじゅうせいきでみせさらしにあうというそうだ」と迷亭はみょうなことばかりいう。
ところへさいくんがおくのまからでてきて、おんなだけに「あんまりわるぐちをおっしゃると、またくるまやのかみさんにいつけられますよ」とちゅういする。
「すこしいつけるほうがくすりですよ、おくさん」「しかしかおのざんそなどをなさるのは、あまりかとうですわ、だれだってこのんであんなはなをもってるわけでもありませんから――それにあいてがふじんですからね、あんまり苛いわ」とはなこのはなをべんごすると、どうじにじぶんのようぼうもかんせつにべんごしておく。
「なにひどいものか、あんなのはふじんじゃない、ぐじんだ、ねえ迷亭くん」「ぐじんかもしれんが、なかなかえらしゃだ、おおいたびきかかれたじゃないか」「ぜんたいきょうしをなんとこころえているんだろう」「うらのくるまやくらいにこころえているのさ。
ああいうじんぶつにそんけいされるにははかせになるにかぎるよ、いったいはかせになっておかんのがきみのふりょうけんさ、ねえおくさん、そうでしょう」と迷亭はわらいながらさいくんをかえりみる。
「はかせなんてとうていだめですよ」としゅじんはさいくんにまでみはなされる。
「これでもいまになるかもしれん、けいべつするな。
きさまなぞはしるまいがむかししあいそくらちすというひとはきゅうじゅうよんさいでだいちょじゅつをした。
そふぉくりすがけっさくをだしててんかをおどろかしたのは、ほとんどひゃくさいのこうれいだった。
しもにじすははちじゅうでみょうしをつくった。
おれだって……」「ばかばかしいわ、あなたのようないびょうでそんなにながくいきられるものですか」とさいくんはちゃんとしゅじんのじゅみょうをよさんしている。
「しっけいな、――あまぎさんへいってきいてみろ――がんらいごぜんがこんなしわくちゃなくろもめんのはおりや、つぎだらけのきものをきせておくから、あんなおんなにばかにされるんだ。
あしたから迷亭のきているようなやつをきるからだしておけ」「だしておけって、あんなりっぱなおめしはござんせんわ。
かねだのおくさんが迷亭さんにていねいになったのは、おじさんのなまえをきいてからですよ。
きもののとがじゃございません」とさいくんうまくせきにんを逃がれる。
しゅじんはおじさんということばをきいてきゅうにおもいだしたように「きみにおじがあるということは、きょうはじめてきいた。
いままでついにうわさをしたことがないじゃないか、ほんとうにあるのかい」と迷亭にきく。
迷亭はまってたといわぬばかりに「うんそのおじさ、そのおじがばかに頑物でねえ――やはりそのじゅうきゅうせいきかられんめんときょうまでいきのびているんだがね」としゅじんふうふをはんはんにみる。
「おほほほほほおもしろいことばかりおっしゃって、どこにいきていらっしゃるんです」「しずおかにいきてますがね、それがただいきてるんじゃないです。
あたまにちょんまげをいただいていきてるんだからきょうしゅくしまさあ。
ぼうしをかぶれってえと、おれはこのとしになるが、まだぼうしをこうむるほどさむさをかんじたことはないといばってるんです――さむいから、もっとねていらっしゃいというと、にんげんはよんじかんねればじゅうぶんだ。
よんじかんいじょうねるのはぜいたくのさただってあさくらいうちからおきてくるんです。
それでね、おれもすいみんじかんをよんじかんにちぢめるには、えいねんしゅうぎょうをしたもんだ、わかいうちはどうしてもねむたくていかなんだが、ちかごろにいたってはじめてずいしょにんいの庶境にはいってはなはだうれしいとじまんするんです。
ろくじゅうななになってねられなくなるなああたりまえでさあ。
しゅうぎょうもへちまもはいったものじゃないのにとうにんはまったくこっきのちからでせいこうしたとおもってるんですからね。
それでがいしゅつするときには、きっとてっせんをもってでるんですがね」「なににするんだい」「なににするんだかわからない、ただもってでるんだね。
まあすてっきのかわりくらいにかんがえてるかもしれんよ。
ところがせんだってみょうなことがありましてね」とこんどはさいくんのほうへはなしかける。
「へえー」とさいくんがさしごうのないへんじをする。
「此年のはるとつぜんてがみをよこしてやまたかぼうしとふろっくこーとをしきゅうおくれというんです。
ちょっとおどろきろいたから、ゆうびんでといかえしたところがろうじんじしんがきるというへんじがきました。
にじゅうさんにちにしずおかでしゅくしょうかいがあるからそれまでにまにあうように、しきゅうちょうたつしろというめいれいなんです。
ところがおかしいのはめいれいちゅうにこうあるんです。
ぼうしはいいかげんなおおきさのをかってくれ、ようふくもすんぽうをみはからってだいまるへちゅうもんしてくれ……」「ちかごろはだいまるでもようふくをしたてるのかい」「なあに、せんせい、しらきやとまちがえたんだあね」「すんぽうをみはかってくれたってむりじゃないか」「そこがおじのおじたるところさ」「どうした?」「しかたがないからみはからっておくってやった」「きみもらんぼうだな。
それでまにあったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。
くにのしんぶんをみたら、とうじつまきやまおうはちんらしくふろっくこーとにて、れいのてっせんをもち……」「てっせんだけははなさなかったとみえるね」「うんしんだらかんのなかへてっせんだけはいれてやろうとおもっているよ」「それでもぼうしもようふくも、うまいぐあいにきられてよかった」「ところがおおま違さ。
ぼくもぶじにいってありがたいとおもってると、しばらくしてくにからこづつみがとどいたから、なにかれいでもくれたこととおもってあけてみたられいのやまたかぼうしさ、てがみがそえてあってね、せっかくおもとめひしたそうろえどもしょうしょうおおきくこうかん、ぼうしやへおつかわしのうえ、おちぢめひしたどこう。
ちぢめちんはこがわせにて此方よりおおくかさるじょうこうとあるのさ」「なるほどまが濶だな」としゅじんはおのれれよりまが濶なもののてんかにあることをはっけんしてだいにまんぞくのからだにみえる。
やがて「それから、どうした」ときく。
「どうするったってしかたがないからぼくがちょうだいしてこうむっていらあ」「あのぼうしかあ」としゅじんがにやにやわらう。
「そのほうがだんしゃくでいらっしゃるんですか」とさいくんがふしぎそうにたずねる。
「だれがです」「そのてっせんのおじさまが」「なあにかんがくしゃでさあ、わかいときせいどうでしゅしがくか、なにかにこりかたまったものだから、でんきとうのしたでうやうやしくちょんまげをいただいているんです。
しかたがありません」とやたらに顋をなでまわす。
「それでもきみは、さっきのおんなにまきやまだんしゃくとゆったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、わたしもちゃのまできいておりました」とさいくんもこれだけはしゅじんのいけんにどういする。
「そうでしたかなあははははは」と迷亭はわけもなくわらう。
「そりゃうそですよ。
ぼくにだんしゃくのおじがありゃ、いまごろはきょくちょうくらいになっていまさあ」とへいきなものである。
「なんだかへんだとおもった」としゅじんはうれしそうな、しんぱいそうなかおづけをする。
「あらまあ、よくまじめであんなうそがつけますねえ。
あなたもよっぽどほらがごじょうずでいらっしゃること」とさいくんはひじょうにかんしんする。
「ぼくより、あのおんなのほうがうえわてでさあ」「あなただってごまけなさるきづかいはありません」「しかしおくさん、ぼくのほらはたんなるほらですよ。
あのおんなのは、みんなこんたんがあって、いわくつきのうそですぜ。
たちがわるいです。
さるちえからわりだしたじゅっすうと、てんらいのこっけいしゅみとこんどうされちゃ、こめでぃーのかみさまもかつがんのしなきをたんぜざるをえざるわけにたちいたりますからな」しゅじんは俯目になって「どうだか」という。
さいくんはわらいながら「おなじことですわ」という。
わがはいはいままでむかうよこちょうへあしをふみこんだことはない。
かどやしきのかねだとは、どんなかまえかみたことはむろんない。
きいたことさえいまがはじめてである。
しゅじんのいえでじつぎょうかがわとうにのぼったことはいちかえもないので、しゅじんのめしをくうわがはいまでがこのほうめんにはたんにむかんけいなるのみならず、はなはだれいたんであった。
しかるにせんこくはからずもはなこのほうもんをうけて、よそながらそのだんわをはいちょうし、そのれいじょうのつやびをそうぞうし、またそのふうき、けんせいをおもいうかべてみると、ねこながらあんかんとして椽側にねころんでいられなくなった。
しかのみならずわがはいはかんげつくんにたいしてはなはだどうじょうのいたりにこたえん。
せんぽうでははかせのおくさんやら、くるまやのかみさんやら、にげんきんのてんしょういんまでばいしゅうしてしらぬまに、まえばのかけたのさえたんていしているのに、かんげつくんのほうではただにやにやしてはおりのひもばかりきにしているのは、いかにそつぎょうしたてのりがくしにせよ、あまりのうがなさすぎる。
といって、ああいういだいなはなをかおのなかにあんちしているおんなのことだから、めったなものではよりつけるわけのものではない。
こういうじけんにかんしてはしゅじんはむしろむとんじゃくでかつあまりにせんがなさすぎる。
迷亭はぜににふじゆうはしないが、あんなぐうぜんどうじだから、かんげつに援けをあたえるべんぎは尠かろう。
してみるとかわいそうなのはくびくくりのりきがくをえんぜつするせんせいばかりとなる。
わがはいでもふんぱつして、てきじょうへのりこんでそのどうせいをていさつしてやらなくては、あまりふこうへいである。
わがはいはねこだけれど、えぴくてたすをよんでつくえのうえへたたきつけるくらいながくしゃのいえにきぐうするねこで、せけんいっぱんの痴猫、ぐねことはすこしくせんをことにしている。
このぼうけんをあえてするくらいのぎきょうしんはかたよりしっぽのさきにたたみこんである。
なにもかんげつくんにおんになったというわけもないが、これはただにこじんのためにするけっきそうきょうのさたではない。
おおきくいえばこうへいをこのみちゅうようをあいするてんいをげんじつにするてんはれなびきょだ。
ひとのきょだくをけいずしてあづまばしじけんなどをいたるしょにふりまわりわすいじょうは、ひとののきしたにいぬをしのばして、そのほうどうをとくとくとしてあうひとにふいちょうするいじょうは、しゃふ、ばてい、ぶらいかん、ごろつきしょせい、ひやといばば、さんば、妖婆、あんま、とみばにいたるまでをしようしてこっかゆうようのざいにはんをおよぼしてかえりみざるいじょうは――ねこにもかくごがある。
さいわいてんきもよい、しもかいはしょうしょうへいこうするがみちのためにはいちめいもすてる。
あしのうらへどろがついて、椽側へうめのはなのしるしをおすくらいなことは、ただごさんのめいわくにはなるかしれんが、わがはいのくつうとはもうされない。
よくじつともいわずこれからでかけようとゆうもうしょうじんのだいけっしんをおこしてだいどころまでとんででたが「まてよ」とかんがえた。
わがはいはねことしてしんかのきょくどにたっしているのみならず、のうりょくのはったつにおいてはあえてちゅうがくのさんねんせいにおとらざるつもりであるが、かなしいかないんこうのこうぞうだけはどこまでもねこなのでにんげんのげんごがじょうぜつれない。
よししゅびよくかねだていへしのびこんで、じゅうぶんてきのじょうせいをみとどけたところで、かんじんのかんげつくんにおしえてやるわけにいかない。
しゅじんにも迷亭せんせいにもはなせない。
はなせないとすればどちゅうにあるこんごうせきのひをうけてひからぬとおなじことで、せっかくのちしきもむようのちょうぶつとなる。
これはぐだ、やめようかしらんとのぼりぐちでたたずんでみた。
しかしいちどおもいたったことをちゅうとでやめるのは、はくうがくるかとまっているときくろくもどもりんごくへとおりすぎたように、なんとなくのこりおしい。
それもひがこっちにあればかくべつだが、いわゆるせいぎのため、じんどうのためなら、たといむだしをやるまでもすすむのが、ぎむをしるだんじのほんかいであろう。
むだぼねをおり、むだあしをけがすくらいはねことしててきとうのところである。
ねことうまれたいんがでかんげつ、迷亭、くさやしょせんせいとさんすんのぜっとうにそうごのしそうをこうかんするわざ倆はないが、ねこだけにしのびのじゅつはしょせんせいよりたっしゃである。
たにんのできぬことをじょうじゅするのはそれじしんにおいてゆかいである。
われいち箇でも、かねだのうちまくをしるのは、だれもしらぬよりゆかいである。
ひとにつげられんでもひとにしられているなというじかくをかれらにあずかうるだけがゆかいである。
こんなにゆかいがぞくぞくでてきてはいかずにはいられない。
やはりいくことにいたそう。
むこうよこちょうへきてみると、きいたとおりのせいようかんがかどちめんをわれぶつがおにせんりょうしている。
このしゅじんもこのせいようかんのごとくごうまんにかまえているんだろうと、もんをはいいってそのけんちくをながめてみたがただじんをいあつしようと、にかいづくりがむいみにつったっているほかになんらののうもないこうぞうであった。
迷亭のいわゆるつきなみとはこれであろうか。
げんかんをみぎにみて、うえこみのなかをとおりぬけて、かってぐちへめぐる。
さすがにかってはひろい、くさやせんせいのだいどころのじゅうばいはたしかにある。
せんだってにっぽんしんぶんにくわしくかいてあったおおくまはくのかってにもおとるまいとおもうくらいせいぜんとぴかぴかしている。
「もはんかってだな」とはいいりこむ。
みるとしっくいでたたきあげたにつぼほどのどまに、れいのくるまやのかみさんがたちながら、ごはんたきとしゃふをあいてにしきりになにかべんじている。
こいつはけんのんだとみずおけのうらへかくれる。
「あのきょうしあ、うちのだんなのなをしらないのかね」とめし焚がいう。
「しらねえことがあるもんか、このかいわいでかねださんのごやしきをしらなけりゃめもみみもねえかたわだあな」これはかかえしゃふのこえである。
「なんともいえないよ。
あのきょうしときたら、ほんよりほかになににもしらないへんじんなんだからねえ。
だんなのことをすこしでもしってりゃおそれるかもしれないが、だめだよ、じぶんのしょうきょうのとしさえしらないんだもの」とかみさんがいう。
「かねださんでもおそれねえかな、やっかいなとうへんぼくだ。
構あことあねえ、みんなでいかくかしてやろうじゃねえか」「それがよいよ。
おくさまのはながおおきすぎるの、かおがきにくわないのって――そりゃあひどいことをいうんだよ。
じぶんのめんあいまどしょうのたぬきみたようなくせに――あれでいちにんまえだとおもっているんだからやれきれないじゃないか」「かおばかりじゃない、てぬぐいをさげてゆにいくところからして、いやにこうまんちきじゃないか。
じぶんくらいえらいものはないつもりでいるんだよ」とくさやせんせいはめし焚にもだいにふじんぼうである。
「なにでもたいせいであいつのかきねのはたへいってわるぐちをさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっとおそれいるよ」「しかしこっちのすがたをみせちゃあおもしろくねえから、こえだけきかして、べんきょうのじゃまをしたうえに、できるだけじらしてやれって、さっきおくさまがいいつけておいでなすったぜ」「そりゃわかっているよ」とかみさんはわるぐちのさんぶんのいちをひきうけるといういみをしめす。
なるほどこのてあいがにがさやせんせいをひやかしにくるなとさんにんのよこを、そっととおりぬけておくへはいいる。
ねこのあしはあれどもむきがごとし、どこをあるいてもぶきようなおとのしたためしがない。
そらをふむがごとく、くもをいくがごとく、すいちゅうにかおるをうつがごとく、ほらうらに瑟をこするがごとく、だいごのみょうみを甞めてげんせんのほかにひやだんをじちするがごとし。
つきなみなせいようかんもなく、もはんかってもなく、くるまやのかみさんも、ごんすけも、めし焚も、ごじょうさまも、なかばたらきも、はなこふじんも、ふじんのだんなさまもない。
いきたいところへいってききたいはなしをきいて、したをだししっぽを掉って、ひげをぴんとたててゆうゆうとかえるのみである。
ことにわがはいはこのみちにかけてはにっぽんいちのかんのうである。
くさぞうしにあるねこまたのけつみゃくをうけておりはせぬかとみずからうたがうくらいである。
ひきがえるのがくにはやこうのめいたまがあるというが、わがはいのしっぽにはじんぎしゃっきょうこいむじょうはむろんのこと、まんてんかのにんげんをばかにするいっかそうでんのみょうやくがつめこんである。
かねだかのろうかをひとのしらぬまにおうこうするくらいは、におうさまがところてんをふみつぶすよりもよういである。
このときわがはいはわがながら、わがりきりょうにかんぷくして、これもふだんだいじにするしっぽのおかげだなときがついてみるとただおかれない。
わがはいのそんけいするしっぽだいみょうじんをれいはいしてにゃんうんちょうきゅうをいのらばやと、ちょっとていとうしてみたが、どうもすこしけんとうがちがうようである。
なるべくしっぽのほうをみてさんはいしなければならん。
しっぽのほうをみようとしんたいをまわすとしっぽもしぜんとめぐる。
おいつこうとおもってくびをねじると、しっぽもおなじかんかくをとって、さきへ馳けだす。
なるほどてんちげんこうをさんすんうらにおさめるほどのれいぶつだけあって、とうていわがはいのてにあわない、しっぽをたまきることななどびはんにしてくたびれたからやめにした。
しょうしょうめがくらむ。
どこにいるのだかちょっとほうがくがわからなくなる。
かまうものかとめちゃくちゃにあるきめぐる。
しょうじのうらではなこのこえがする。
ここだとたちとまって、さゆうのみみをはすにきって、いきをこらす。
「びんぼうきょうしのくせになまいきじゃありませんか」とれいのかなきりごえをふりたてる。
「うん、なまいきなやっこだ、ちとこらしめのためにいじめてやろう。
あのがっこうにゃくにのものもいるからな」「だれがいるの?」「つきぴんすけやふくちきしゃごがいるから、たのんでからかわしてやろう」わがはいはかねだくんのしょうごくはわからんが、みょうななまえのにんげんばかりそろったところだとしょうしょうおどろいた。
かねだくんはなおかたりをついで、「あいつはえいごのきょうしかい」ときく。
「はあ、くるまやのかみさんのはなしではえいごのりーどるかなにかせんもんにおしえるんだっていいます」「どうせろくなきょうしじゃあるめえ」あるめえにも尠なからずかんしんした。
「このかんぴんすけにあったら、わたしのがっこうにゃみょうなやつがおります。
せいとからせんせいばんちゃはえいごでなにといいますときかれて、ばんちゃは Savage tea であるとまじめにこたえたんで、きょういんかんのものわらいとなっています、どうもあんなきょういんがあるから、ほかのものの、めいわくになってこまりますとゆったが、おおかたあいつのことだぜ」「あいつにきょくっていまさあ、そんなことをいいそうなつらがまえですよ、いやにひげなんかはやして」「あやしからんやつだ」ひげをはやしてあやしからなければねこなどはいっぴきだってかいしかりようがない。
「それにあの迷亭とか、へべれけとかいうやつは、まあなにてえ、とんきょうな跳かえりなんでしょう、おじのまきやまだんしゃくだなんて、あんなかおにだんしゃくのおじなんざ、あるはずがないとおもったんですもの」「ごぜんがどこのうまのほねだかわからんもののいうことをしんにうけるのもわるい」「わるいって、あんまりひとをばかにしすぎるじゃありませんか」とたいへんざんねんそうである。
ふしぎなことにはかんげつくんのことはいちごんはんくもでない。
わがはいのしのんでくるまえにひょうばんきはすんだものか、またはすでにらくだいとことがごくってねんとうにないものか、そのあたりはけねんもあるがしかたがない。
しばらくたたずんでいるとろうかをへだててむこうのざしきでべるのおとがする。
そらあすこにもなにかことがある。
おくれぬさきに、とそのほうがくへふをむける。
きてみるとおんながひとりでなにかおおごえではなしている。
そのこえがはなことよくにているところをもっておすと、これがすなわちとうけのれいじょうかんげつくんをしてみすいじゅすいをあえてせしめたるしろものだろう。
惜哉しょうじごしでたまのごすがたをはいすることができない。
したがってかおのまんなかにおおきなはなをまつりこんでいるか、どうだかうけあえない。
しかしだんわのもようからはないきのあらいところなどをそうごうしてかんがえてみると、まんざらひとのちゅういをひかぬ獅鼻ともおもわれない。
おんなはしきりにちょうしたっているがあいてのこえがすこしもきこえないのは、うわさにきくでんわというものであろう。
「ごぜんはやまとかい。
あしたね、いくんだからね、うずらのさんをとっておいておくれ、いいかえ――わかったかい――なにわからない?おやいやだ。
うずらのさんをとるんだよ。
――なんだって、――とれない?とれないはずはない、とるんだよ――へへへへへごじょうだんをだって――なにがごじょうだんなんだよ――いやにひとをおひゃらかすよ。
ぜんたいごぜんはだれだい。
ちょうきちだ?ちょうきちなんぞじゃわけがわからない。
おかみさんにでんわぐちへしゅつろってごいいな――なに?わたししでなにでもべんじます?――おまえはしっけいだよ。
そばめしをだれだかしってるのかい。
かねだだよ。
――へへへへへよくぞんじておりますだって。
ほんとにばかだよこのひとあ。
――かねだだってえばさ。
――なに?――まいどごひいきにあずかりましてありがとうございます?――なにがありがたいんだね。
おんれいなんかききたかあないやね――おやまたわらってるよ。
おまえはよっぽどぐぶつだね。
――おおせのとおりだって?――あんまりひとをばかにするとでんわをきってしまうよ。
いいのかい。
こまらないのかよ――だまってちゃわからないじゃないか、なんとかごいいなさいな」でんわはちょうきちのほうからきったものかなにのへんじもないらしい。
れいじょうはかんしゃくをおこしてやけにべるをじゃらじゃらとまわす。
あしもとでちんがおどろきろいてきゅうにほえだす。
これはまが濶にできないと、きゅうにとびおりて椽のしたへもぐりこむ。
おりがらろうかをちかくあしおとがしてしょうじをあけるおとがする。
だれかきたなといっしょうけんめいにきいていると「ごじょうさま、だんなさまとおくさまがよんでいらっしゃいます」とこまづかいらしいこえがする。
「しらないよ」とれいじょうはけんつくをくわせる。
「ちょっとようがあるからじょうをよんでこいとおっしゃいました」「うるさいね、しらないてば」とれいじょうはだいにのけんつくをくわせる。
「……みずしまかんげつさんのことでごようがあるんだそうでございます」とこまづかいはきをきかしてきげんをなおそうとする。
「かんげつでも、すいげつでもしらないんだよ――だいきらいだわ、へちまがとまよいをしたようなかおをして」だいさんのけんつくは、あわれなるかんげつくんが、るすちゅうにちょうだいする。
「おやごぜんいつそくはつにゆったの」こまづかいはほっとひといきついて「きょう」となるべくたんかんなあいさつをする。
「なまいきだねえ、こまづかいのくせに」とだいよんのけんつくをべつほうめんからくわす。
「そうしてあたらしいはんえりをかけたじゃないか」「へえ、せんだってごじょうさまからいただきましたので、けっこうすぎてもったいないとおもってこうりのなかへしまっておきましたが、いままでのがあまりよごれましたからかけやすえました」「いつ、そんなものをあげたことがあるの」「このごしょうがつ、しらきやへいらっしゃいまして、おもとめあそばしたので――うぐいすちゃへすもうのばんふをそめだしたのでございます。
そばめしにはじみすぎていやだからごぜんにあげようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。
よくにあうのね。
にくらしいわ」「おそれいります」「ほめたんじゃない。
にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによくにあうものをなぜだまってもらったんだい」「へえ」「ごぜんにさえ、そのくらいにあうなら、そばめしにだっておかしいことあないだろうじゃないか」「きっとよくごにあいあそばします」「にあうのがわかってるくせになぜだまっているんだい。
そうしてすましてかけているんだよ、ひとのわるい」けんつくはとめどもなくれんぱつされる。
このさき、こときょくはどうはってんするかときんちょうしているとき、むこうのざしきで「とみこや、とみこや」とおおきなこえでかねだくんがれいじょうをよぶ。
れいじょうはやむをえず「はい」とでんわしつをでていく。
わがはいよりすこしおおきなちんがかおのちゅうしんにめとくちをひきあつめたようなめんをしてついていく。
わがはいはれいのしのびあしでふたたびかってからおうらいへでて、いそいでしゅじんのいえにかえる。
たんけんはまずじゅうにぶんのせいせきである。
かえってみると、きれいないえからきゅうにきたなないところへうつったので、なんだかひあたりのよいやまのうえからすすきくろいどうくつのなかへはいりこんだようなこころもちがする。
たんけんちゅうは、ほかのことにきをうばわれてへやのそうしょく、ふすま、しょうじのぐあいなどにはめもとまらなかったが、わがじゅうきょのかとうなるをかんずるとどうじにかれのいわゆるつきなみがこいしくなる。
きょうしよりもやはりじつぎょうかがえらいようにおもわれる。
わがはいもすこしへんだとおもって、れいのしっぽにうかがいをたててみたら、そのとおりそのとおりとしっぽのさきからごたくせんがあった。
ざしきへはいいってみるとおどろいたのは迷亭せんせいまだかえらない、まきたばこのすいがらをはちのすのごとくひばちのなかへつきたてて、だいこざでなにかはなしたてている。
いつのまにかかんげつくんさえきている。
しゅじんはてまくらをしててんじょうのあめもをよねんもなくながめている。
あいかわらずたいへいのいつみんのかいごうである。
「かんげつくん、きみのことを譫語にまでいったふじんのなは、とうじひみつであったようだが、もうはなしてもよかろう」と迷亭がからかいだす。
「おはなしをしても、わたしだけにかんすることならさしつかえないんですが、せんぽうのめいわくになることですから」「まだだめかなあ」「それに○○はかせふじんにやくそくをしてしまったもんですから」「たごんをしないというやくそくかね」「ええ」とかんげつくんはれいのごとくはおりのひもをひねくる。
そのひもはばいひんにあるまじきむらさきいろである。
「そのひものいろは、ちとてんぽうちょうだな」としゅじんがねながらいう。
しゅじんはかねだじけんなどにはむとんじゃくである。
「そうさ、とうていにちろせんそうじだいのものではないな。
じんがさにたちあおいのもんのついたぶっさきはおりでもきなくっちゃおさまりのつかないひもだ。
おだのぶなががむこいりをするときあたまのかみをちゃせんにゆったというがそのふしもちいたのは、たしかそんなひもだよ」と迷亭のもんくはあいかわらずながい。
「じっさいこれはじいがちょうしゅうせいばつのときにもちいたのです」とかんげつくんはまじめである。
「もういいかげんにはくぶつかんへでもけんのうしてはどうだ。
くびくくりのりきがくのえんじゃ、りがくしみずしまかんげつくんともあろうものが、うれのこりのはたもとのようなしゅつでりつをするのはちとたいめんにかんするわけだから」「ごちゅうこくのとおりにいたしてもいいのですが、このひもがたいへんよくにあうとゆってくれるひともありますので――」「だれだい、そんなしゅみのないことをいうのは」としゅじんはねがえりをうちながらおおきなこえをだす。
「それはごぞんじのほうなんじゃないんで――」「ごぞんじでなくてもいいや、いったいだれだい」「さるじょせいなんです」「はははははよほどちゃじんだなあ、あててみようか、やはりすみだがわのそこからきみのなをよんだおんななんだろう、そのはおりをきてもう一返御駄仏をきめこんじゃどうだい」と迷亭がよこごうからとびだす。
「へへへへへもうすいていからよんではおりません。
ここからいぬいのほうがくにあたるせいじょうなせかいで……」「あんまりせいじょうでもなさそうだ、どくどくしいはなだぜ」「へえ?」とかんげつはふしんなかおをする。
「むこうよこちょうのはながさっきおしかけてきたんだよ、ここへ、じつにぼくとうににんはおどろいたよ、ねえにがさやくん」「うむ」としゅじんはねながらちゃをのむ。
「はなってだれのことです」「きみのしんあいなるくおんのじょせいのごぼどうさまだ」「へえー」「かねだのつまというおんながきみのことをききにきたよ」としゅじんがまじめにせつめいしてやる。
おどろくか、うれしがるか、はずかしがるかとかんげつくんのようすをうかがってみるとべつだんのこともない。
れいのとおりしずかなちょうしで「どうかわたしに、あのむすめをもらってくれといういらいなんでしょう」と、またむらさきのひもをひねくる。
「ところがだい違さ。
そのごぼどうなるものがいだいなるはなのしょゆうぬしでね……」迷亭がなかばいいかけると、しゅじんが「おいくん、ぼくはさっきから、あのはなについて俳体しをかんがえているんだがね」ときにたけをついだようなことをいう。
となりのしつでさいくんがくすくすわらいだす。
「ずいぶんきみものんきだなあできたのかい」「すこしできた。
だいいっくがこのかおにはなまつりというのだ」「それから?」「つぎがこのはなにみきそなえというのさ」「つぎのくは?」「まだそれぎりしかできておらん」「おもしろいですな」とかんげつくんがにやにやわらう。
「つぎへあなふたつかすかなりとつけちゃどうだ」と迷亭はすぐできる。
するとかんげつが「おくふかくけもみえずはいけますまいか」とおのおのでたらめをならべていると、かきねにちかく、おうらいで「いまどしょうのたぬきいまどしょうのたぬき」とよんごにんわいわいいうこえがする。
しゅじんも迷亭もちょっとおどろきろいてひょうのほうを、かきのひまからすかしてみると「わははははは」とわらうこえがしてとおくへちるあしのおとがする。
「いまどしょうのたぬきというななにだい」と迷亭がふしぎそうにしゅじんにきく。
「なんだかわからん」としゅじんがこたえる。
「なかなかふっていますな」とかんげつくんがひひょうをくわえる。
迷亭はなにをおもいだしたかきゅうにたちのぼって「わがはいはねんらいびがくじょうのけんちからこのはなについてけんきゅうしたことがございますから、そのいちむらをひれきして、ごりょうくんのせいちょうをわずらわしたいとおもいます」と演舌のまねをやる。
しゅじんはあまりのとつぜんにぼんやりしてむごんのまま迷亭をみている。
かんげつは「ぜひうけたまわりたいものです」とこごえでいう。
「いろいろしらべてみましたがはなのきげんはどうも確とわかりません。
だいいちのふしんは、もしこれをじつようじょうのどうぐとかていすればあながふたつでたくさんである。
なにもこんなにおうふうにまんなかからつきだしてみるひつようがないのである。
ところがどうしてだんだんごらんのごとくかようにせりだしてまいったか」とじぶんのはなをつまんでみせる。
「あんまりせりだしてもおらんじゃないか」としゅじんはごせじのないところをいう。
「とにかくひっこんではおりませんからな。
ただにこのあなが併んでいるじょうたいとこんどうなすっては、ごかいをしょうずるにいたるかもはかられませんから、あらかじめごちゅういをしておきます。
――でぐけんによりますとはなのはったつはわれ々にんげんがはなしるをかむともうすびさいなるこういのけっかがしぜんとちくせきしてかくちょめいなるげんしょうをていしゅつしたものでございます」「佯りのないぐけんだ」とまたしゅじんがすんぴょうをそうにゅうする。
「ごしょうちのとおりはなしるをかむときは、ぜひはなをつまみます、はなをつまんで、ことにこのきょくぶだけにしげきをあたえますと、しんかろんのだいげんそくによって、このきょくぶはこのしげきにおうずるがためたにひれいしてふそうとうなはったつをいたします。
かわもしぜんかたくなります、にくもしだいにかたくなります。
ついにこってほねとなります」「それはすこし――そうじゆうににくがほねにいっそくひにへんかはできますまい」とりがくしだけあってかんげつくんがこうぎをもうしこむ。
迷亭はなにくわぬかおでのべつづける。
「いやごふしんはごもっともですがろんよりしょうここのとおりぼねがあるからしかたがありません。
すでにほねができる。
ほねはできてもはなしるはでますな。
でればかまずにはいられません。
このさようでほねのさゆうがけずりとられてほそいたかいりゅうきとへんかしてまいります――じつにおそろしいさようです。
てんてきのいしをうがつがごとく、賓頭顱のあたまがじからこうみょうをはなつがごとく、ふしぎかおるふしぎしゅうの喩のごとく、かようにはなすじがかよってかたくなります」「それでもきみのなんぞ、ぶくぶくだぜ」「えんじゃじしんのきょくぶはかいまもるのおそれがありますから、わざとろんじません。
かのかねだのごぼどうのもたせらるるはなのごときは、もっともはったつせるもっともいだいなるてんかのちんぴんとしてごりょうくんにしょうかいしておきたいとおもいます」かんげつくんはおもわずひやややという。
「しかしものもきょくどにたっしますといかんにはそういございませんがなんとなくこわしくてちかづきがたいものであります。
あのびりょうなどはもとはれしいにはちがいございませんが、しょうしょうしゅんけんすぎるかとおもわれます。
こじんのうちにてもそくらちす、ごーるどすみすもしくはさっかれーのはななどはこうぞうのうえからいうとずいぶんもうしぶんはございましょうがそのもうしぶんのあるところにあいきょうがございます。
はなたかきがゆえにとうとからず、きなるがためにとうとしとはこのゆえでもございましょうか。
げせわにもはなよりだんごともうしますればびてきかちからもうしますとまず迷亭くらいのところがてきとうかとぞんじます」かんげつとしゅじんは「ふふふふ」とわらいだす。
迷亭じしんもゆかいそうにわらう。
「さてただいままでべんじましたのは――」「せんせいべんじましたはすこしこうしゃくしのようでげひんですから、よしていただきましょう」とかんげつくんはせんじつのふくしゅうをやる。
「さようしからばかおをあらってでなおしましょうかな。
――ええ――これからはなとかおのけんこうにひとことろんきゅうしたいとおもいます。
たにかんけいなくたんどくにはなろんをやりますと、かのごぼどうなどはどこへだしてもはずかしからぬはな――くらまやまでてんらんかいがあってもおそらくいっとうしょうだろうとおもわれるくらいなはなをしょゆうしていらせられますが、かなしいかなあれはめ、くち、そのたのしょせんせいとなんらのそうだんもなくできのぼったはなであります。
じゅりあす・しーざーのはなはたいしたものにそういございません。
しかししーざーのはなを鋏でちょんきって、とうけのねこのかおへあんちしたらどんなものでございましょうか。
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むろんとうけのねこのごとくれっとうではない。
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しょくん、このかおにしてこのはなありとたんぜざるをえんではありませんか」迷亭のことばがすこしとぎれるとたん、うらのほうで「まだはなのはなしをしているんだよ。
なにてえつよしつくはりだろう」というこえがきこえる。
「くるまやのかみさんだ」としゅじんが迷亭におしえてやる。
迷亭はまたやりそめる。
「はからざるうらてにあたって、あらたにいせいのぼうちょうしゃのあることをはっけんしたのはえんじゃのふかくめいよとおもうところであります。
ことにあててんたる嬌音をもって、かんそうなるこうえんにいちてんのつやみをそえられたのはじつにぼうがいのこうふくであります。
なるべくつうぞくてきにひきなおしてかじんしゅくじょのけんこにせかざらんことをきするわけでありますが、これからはしょうしょうりきがくじょうのもんだいにたちいりますので、ぜいごふじんかたにはごわかりにくいかもしれません、どうかごからしぼうをねがいます」かんげつくんはりきがくというかたりをきいてまたにやにやする。
「わたしのしょうこだてようとするのは、このはなとこのかおはとうていちょうわしない。
つぁいしんぐのおうごんりつをしっしているということなんで、それをげんかくにりきがくじょうのこうしきからえんえきしてごらんにいれようというのであります。
まずえいちをはなのたかさとします。
あるふぁははなとかおのへいめんのこうさよりしょうずるかくどであります。
だぶりゅーはむろんはなのじゅうりょうとごしょうちください。
どうですたいていおわかりになりましたか。
……」「わかるものか」としゅじんがいう。
「かんげつくんはどうだい」「わたしにもちとわかりかねますな」「そりゃこまったな。
くさやはとにかく、きみはりがくしだからわかるだろうとおもったのに。
このしきがえんぜつのしゅのうなんだからこれをりゃくしてはいままでやったかいがないのだが――まあしかたがない。
こうしきはりゃくしてけつろんだけはなそう」「けつろんがあるか」としゅじんがふしぎそうにきく。
「あたりまえさけつろんのない演舌は、でざーとのないせいようりょうりのようなものだ、――いいかりょうくんのうくききたまえ、これからがけつろんだぜ。
――さていじょうのこうしきにうぃるひょう、わいすまんしょかのせつをさんしゃくしてかんがえてみますと、せんてんてきけいたいのいでんはむろんのことゆるさねばなりません。
またこのけいたいについ陪しておこるしんいてきじょうきょうは、たといこうてんせいはいでんするものにあらずとのゆうりょくなるせつあるにもかんせず、あるていどまではひつぜんのけっかとみとめねばなりません。
したがってかくのごとくみぶんにふにあいなるはなのもちぬしのうんだこには、そのはなにもなにかいじょうがあることとさっせられます。
かんげつくんなどは、まだとしがおわかいからかねだれいじょうのはなのこうぞうにおいてとくべつのいじょうをみとめられんかもしれませんが、かかるいでんはせんぷくきのながいものでありますから、いつなんじきこうのげきへんとともに、きゅうにはったつしてごぼどうのそれのごとく、とっさのまにぼうちょうするかもしれません、それゆえにこのごこんぎは、迷亭のがくりてきろんしょうによりますと、いまのなかごだんねんになったほうがあんぜんかとおもわれます、これにはとうけのごしゅじんはむろんのこと、そこにねておらるるねこまたどのにもごいぞんはなかろうとぞんじます」しゅじんはようようおきかえって「そりゃむろんさ。
あんなもののむすめをだれがもらうものか。
かんげつくんもらっちゃいかんよ」とたいへんねっしんにしゅちょうする。
わがはいもいささかさんせいのいをひょうするためににゃーにゃーとにごえばかりないてみせる。
かんげつくんはべつだんさわいだようすもなく「せんせいかたのごいこうがそうなら、わたしはだんねんしてもいいんですが、もしとうにんがそれをきにしてびょうきにでもなったらつみですから――」「はははははつやざいというわけだ」しゅじんだけはだいにむきになって「そんなばかがあるものか、あいつのむすめならろくなものでないにきょくってらあ。
はじめてひとのうちへきておれをやりこめにかかったやつだ。
ごうまんなやっこだ」とひとりでぷんぷんする。
するとまたかきねのそばでさんよんにんが「わははははは」というこえがする。
いちにんが「こうまんちきなとうへんぼくだ」というといちにんが「もっとおおきないえへはいいりてえだろう」という。
またいちにんが「ごきのどくだが、いくらいばったってかげべんけいだ」とおおきなこえをする。
しゅじんは椽側へでてまけないようなこえで「やかましい、なんだわざわざそんなへいのしたへきて」とどなる。
「わはははははさゔぇじ・ちーだ、さゔぇじ・ちーだ」とくちぐちにののししる。
しゅじんはだいにげきりんのからだでとつぜんおこってすてっきをもって、おうらいへとびだす。
迷亭はてをはくって「おもしろい、やれやれ」という。
かんげつははおりのひもをよってにやにやする。
わがはいはしゅじんのあとをつけてかきのくずれからおうらいへでてみたら、まんなかにしゅじんがてもちぶさたにすてっきをついてたっている。
ひとどおりはいちにんもない、ちょっときつねにつままれたからだである。
よん
れいによってかねだていへしのびこむ。
れいによってとはいまさらかいしゃくするひつようもない。
しばしばをじじょうしたほどのどあいをしめすかたりである。
いちどやったことはにどやりたいもので、にどこころみたことはさんどこころみたいのはにんげんにのみかぎらるるこうきしんではない、ねこといえどもこのしんりてきとっけんをゆうしてこのせかいにうまれででたものとにんていしていただかねばならぬ。
さんどいじょうくりかえすときはじめてしゅうかんなるかたりをかんせられて、このこういがせいかつじょうのひつようとしんかするのもまたにんげんとそういはない。
なにのために、かくまであししげくかねだていへかようのかとふしんをおこすならそのまえにちょっとにんげんにはんもんしたいことがある。
なぜにんげんはくちからけむりをすいこんではなからはきだすのであるか、はらのたしにもちのみちのくすりにもならないものを、はじかしきもなく吐呑して憚からざるいじょうは、わがはいがかねだにしゅつにゅうするのを、あまりおおきなこえでとがめだてをしてもらいたくない。
かねだていはわがはいのたばこである。
しのびこむというとごへいがある、なんだかどろぼうかまおとこのようでききぐるしい。
わがはいがかねだていへいくのは、しょうたいこそうけないが、けっしてかつおのきりみをちょろまかしたり、めはながかおのちゅうしんにけいれんてきにみっちゃくしているちんくんなどとみつだんするためではない。
――なにたんてい?――もってのほかのことである。
およそよのなかになにが賤しいかぎょうだとゆってたんていとこうりかしほどかとうなしょくはないとおもっている。
なるほどかんげつくんのためにねこにあるまじきほどのぎきょうしんをおこして、いちどはかねだかのどうせいをよそながらうかがったことはあるが、それはただのいちへんで、そのごはけっしてねこのりょうしんにはずるようなろうれつなふるまいをいたしたことはない。
――そんなら、なぜしのびこむというようなうろんなもじをしようした?――さあ、それがすこぶるいみのあることだて。
がんらいわがはいのこうによるとおおぞらはばんぶつをおおうためだいちはばんぶつをのせるためにできている――いかにしつようなぎろんをこのむにんげんでもこのじじつをひていするわけにはいくまい。
さてこのおおぞらだいちをせいぞうするためにかれらじんるいはどのくらいのろうりょくをついやしているかというとしゃくすんのてでんもしておらぬではないか。
じぶんがせいぞうしておらぬものをじぶんのしょゆうときわめるほうはなかろう。
じぶんのしょゆうときわめてもさしつかえないがたのしゅつにゅうをきんずるりゆうはあるまい。
このぼうぼうたるだいちを、こざかしくもかきを囲らしぼうくいをたててぼうぼうしょゆうちなどとかくしかぎるのはあたかもかのそうてんになわばりして、このぶぶんはわがのてん、あのぶぶんはかれのてんととどけでるようなものだ。
もしとちをきりきざんでいちつぼいくらのしょゆうけんをばいばいするならわがとうがこきゅうするくうきをいちしゃくりっぽうにわってきりうりをしてもよいわけである。
くうきのきりうりができず、そらのなわばりがふとうならじめんのしゆうもふごうりではないか。
にょぜかんによりて、にょぜほうをしんじているわがはいはそれだからどこへでもはいいっていく。
もっともいきたくないところへはいかぬが、こころざすほうがくへはとうざいなんぼくのさべつははいらぬ、へいきなかおをして、のそのそとまいる。
かねだごときものにえんりょをするわけがない。
――しかしねこのかなしさはちからずくではとうていにんげんにはかなわない。
つよぜいはけんりなりとのかくげんさえあるこのうきよにそんざいするいじょうは、いかにこっちにどうりがあってもねこのぎろんはとおらない。
むりにとおそうとするとくるまやのくろのごとくふいにさかなやのてんびんぼうをくうおそれがある。
りはこっちにあるがけんりょくはむこうにあるというばあいに、りをまげていちもにもなくくつじゅうするか、またはけんりょくのめをかすめてわがりをつらぬくかといえば、わがはいはむろんこうしゃをえらぶのである。
てんびんぼうはさけざるべからざるがゆえに、しのばざるべからず。
ひとのやしきないへははいいりこんでさしつかえなきここまざるをえず。
このゆえにわがはいはかねだていへしのびこむのである。
しのびこむたびがかさなるにつけ、たんていをするきはないがしぜんかねだくんいっかのじじょうがみたくもないわがはいのめにえいじておぼえたくもないわがはいののうりにいんしょうをとめむるにいたるのはやむをえない。
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しょうきょうのじぶんけんかをして、がきだいしょうのために頸筋を捉まえられて、うんとせいいっぱいにどべいへおしつけられたときのかおがよんじゅうねんごのきょうまで、いんがをなしておりはせぬかとかいまるるくらいへいたんなかおである。
しごく穏かできけんのないかおにはそういないが、なんとなくへんかにとぼしい。
いくらおこってもたいらかながおである。
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ちかごろはかってぐちのよこをにわへとおりぬけて、つきやまのかげからむこうをみわたしてしょうじがたてきってものしずかであるなとみきわめがつくと、じょじょのぼりこむ。
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わるいことをしたさとしはないからなにもかくれることも、おそれることもないのだが、そこがにんげんというむほうものにあってはふうんとあきらめるよりしかたがないので、もしせけんがくまさかながのりばかりになったらいかなるせいとくのくんしもやはりわがはいのようなたいどにでずるであろう。
かねだくんはどうどうたるじつぎょうかであるからかたよりくまさかながのりのようにごしゃくさんすんをふりまわすきやはあるまいが、うけたまわるしょによればひとをひととおもわぬびょうきがあるそうである。
ひとをひととおもわないくらいならねこをねこともおもうまい。
してみればねこたるものはいかなるせいとくのねこでもかれのやしきないでけっしてゆだんはできぬわけである。
しかしそのゆだんのできぬところがわがはいにはちょっとおもしろいので、わがはいがかくまでにかねだかのもんをしゅつにゅうするのも、ただこのきけんがおかしてみたいばかりかもしれぬ。
それはおってとくとかんがえたうえ、ねこののうりをのこりなくかいぼうしえたときあらためてごふいちょうつかまつろう。
きょうはどんなもようだなと、れいのつきやまのしばふのうえにあごをおしつけてぜんめんをみわたすとじゅうごじょうのきゃくまをやよいのはるにあけはなって、なかにはかねだふうふといちにんのらいきゃくとのごはなしさいちゅうである。
あいにくはなこふじんのはながこっちをむいていけごしにわがはいのがくのうえをしょうめんからねめつけている。
はなににらまれたのはうまれてきょうがはじめてである。
かねだくんはさいわいよこがおをむけてきゃくとそうたいしているかられいのへいたんなぶぶんははんぶんかくれてみえぬが、そのかわりはなのざいしょがはんぜんしない。
ただごましおしょくのくちひげがいいかげんなところかららんざつにしげるなしているので、あのうえにあながふたつあるはずだとけつろんだけはくもなくできる。
しゅんぷうもああいうなめらかながおばかりふいていたらさだめてらくだろうと、ついでながらそうぞうをたくましゅうしてみた。
ごきゃくさんはさんにんのなかでいちばんふつうなようぼうをゆうしている。
ただしふつうなだけに、これぞととりたててしょうかいするにたるようなぞうさはひとつもない。
ふつうというとけっこうなようだが、ふつうのきょくへいぼんのどうにのぼり、いさおぞくのしつにはいったのはむしろびんぜんのいたりだ。
かかるむいみなめん構をゆうすべきしゅくめいをおびてめいじのしょうだいにうまれてきたのはだれだろう。
れいのごとく椽のしたまでいってそのだんわをうけたまわわらなくてはわからぬ。
「……それでつまがわざわざあのおとこのところまででかけていってようすをきいたんだがね……」とかねだくんはれいのごとくおうふうなことばしである。
おうふうではあるがごうもしゅんけんなところがない。
げんごもかれのがんめんのごとくへいばんむくいぬだいである。
「なるほどあのおとこがみずしまさんをおしえたことがございますので――なるほど、よいごおもいつきで――なるほど」となるほどずくめのはごきゃくさんである。
「ところがなんだかようりょうをえんので」
「ええにがさやじゃようりょうをえないわけで――あのおとこはわたしがいっしょにげしゅくをしているじぶんからじつににえきらない――そりゃおこまりでございましたろう」とごきゃくさんははなこふじんのほうをむく。
「こまるの、こまらないのってあなた、わたしゃこのとしになるまでひとのうちへいって、あんなふとりあつかいをうけたことはありゃしません」とはなこはれいによってはなあらしをふく。
「なにかぶれいなことでももうしましたか、むかししからがんこなしょうぶんで――なにしろじゅうねんいちにちのごとくりーどるせんもんのきょうしをしているのでもだいたいごわかりになりましょう」とごきゃくさんはからだよくちょうしをあわせている。
「いやおはなしにもならんくらいで、つまがなにかきくとまるでけんもほろろのあいさつだそうで……」
「それはあやしからんやくで――いったいすこしがくもんをしているととかくまんしんがきざすもので、そのうえびんぼうをするとまけおしみがでますから――いえよのなかにはずいぶんむほうなやつがおりますよ。
じぶんのはたらきのないのにゃきがつかないで、むあんにざいさんのあるものにくってかかるなんてえのが――まるでかれらのざいさんでもまきあげたようなきぶんですからおどろきますよ、あははは」とごきゃくさんはだいきょうえつのからだである。
「いや、まことにげんごどうだんで、ああいうのは必竟せけんみずのわがままからおこるのだから、ちっとこらしめのためにいじめてやるがよかろうとおもって、すこしあたってやったよ」
「なるほどそれではだいぶこたえましたろう、まったくほんにんのためにもなることですから」とごきゃくさんはいかなるあたりかたかうけたまわらぬさきからすでにかねだくんにどういしている。
「ところがすずきさん、まあなんてがんこなおとこなんでしょう。
がっこうへでてもふくちさんや、つきさんにはくちもきかないんだそうです。
おそれいってだまっているのかとおもったらこのかんはつみもない、たくのしょせいをすてっきをもっておっかけたってんです――さんじゅうめんさげて、よく、まあ、そんなばかなまねができたもんじゃありませんか、まったくやけですこしきがへんになってるんですよ」
「へえどうしてまたそんならんぼうなことをやったんで……」とこれには、さすがのごきゃくさんもすこしふしんをおこしたとみえる。
「なあに、ただあのおとこのまえをなんとかゆってとおったんだそうです、すると、いきなり、すてっきをもってはだしあしでとびだしてきたんだそうです。
よしんば、ちっとやそっと、なにかゆったってしょうきょうじゃありませんか、ひげめんのだいそうのくせにしかもきょうしじゃありませんか」
「さようきょうしですからな」とごきゃくさんがいうと、かねだくんも「きょうしだからな」という。
きょうしたるいじょうはいかなるぶじょくをうけてももくぞうのようにおとなしくしておらねばならぬとはこのさんにんのきせずしていっちしたろんてんとみえる。
「それに、あの迷亭っておとこはよっぽどなよいこうじんですね。
やくにもたたないうそはっぴゃくをならべたてて。
わたしゃあんなへんてこなひとにゃはじめてあいましたよ」
「ああ迷亭ですか、あいかわらずほらをふくとみえますね。
やはりにがさやのところでおあいになったんですか。
あれにかかっちゃたまりません。
あれもむかししじすいのなかまでしたがあんまりひとをばかにするものですからのうくけんかをしましたよ」
「だれだっていかりまさあね、あんなじゃ。
そりゃうそをつくのもむべうござんしょうさ、ね、ぎりがあくるいとか、ばつをあわせなくっちゃあならないとか――そんなときにはだれしもこころにないことをいうもんでさあ。
しかしあのおとこのははかなくってすむのにやたらにはくんだからしまつにりょうえないじゃありませんか。
なにがほしくって、あんなでたらめを――よくまあ、しらじらしくうんえるとおもいますよ」
「ごもっともで、まったくどうらくからくるうそだからこまります」
「せっかくあなたまじめにききにいったみずしまのこともめちゃめちゃになってしまいました。
わたしゃごうふくでいまいましくって――それでもぎりはぎりでさあ、ひとのうちへものをききにいってしらんかおのはんべえもあんまりですから、あとでしゃふにびーるをいちだーすもたせてやったんです。
ところがあなたどうでしょう。
こんなものをうけとるりゆうがない、もってかえれっていうんだそうで。
いえおれいだから、どうかおとりくださいってしゃふがゆったら――あくくいじゃあありませんか、おれはじゃむはまいにちなめるがびーるのようなにがいものはのんだことがないって、ふいとおくへはいいってしまったって――いいぐさにことをかいて、まあどうでしょう、しつれいじゃありませんか」
「そりゃ、ひどい」とごきゃくさんもこんどはほんきに苛いとかんじたらしい。
「そこできょうわざわざきみをまねいたのだがね」としばらくとぎれてかねだくんのこえがきこえる。
「そんなばかしゃはかげから、からかってさえいればすむようなものの、しょうしょうそれでもこまることがあるじゃて……」とまぐろのさしみをくうときのごとくはげあたまをぴちゃぴちゃたたく。
もっともわがはいは椽のしたにいるからじっさいたたいたかたたかないかみえようはずがないが、このはげあたまのおとはきんらいおおいた聞なれている。
びくにがもくぎょのおとをききわけるごとく、椽のしたからでもおとさえたしかであればすぐはげあたまだなとしゅっしょをかんていすることができる。
「そこでちょっときみをわずらわしたいとおもってな……」
「わたしにできますことならなんでもおえんりょなくどうか――こんどとうきょうきんむということになりましたのもまったくいろいろごしんぱいをかけたけっかにほかならんわけでありますから」とごきゃくさんはかいよくかねだくんのいらいをしょうだくする。
このくちょうでみるとこのごきゃくさんはやはりかねだくんのせわになるひととみえる。
いやだんだんじけんがおもしろくはってんしてくるな、きょうはあまりてんきがむべいので、くるきもなしにきたのであるが、こういうこうざいりょうをえようとはまったくおもいかけなんだ。
ごひがんにおてらまいりをしてぐうぜんほうじょうでぼたもちのごちそうになるようなものだ。
かねだくんはどんなことをきゃくじんにいらいするかなと、椽のしたからみみをすましてきいている。
「あのにがさやというへんぶつが、どういうわけかみずしまにいれちえをするので、あのかねだのむすめをもらってはいかんなどとほのめかすそうだ――なあはなこそうだな」
「ほのめかすどころじゃないんです。
あんなやつのむすめをもらうばかがどこのくににあるものか、かんげつくんけっしてもらっちゃいかんよっていうんです」
「あんなやつとはなにだしっけいな、そんならんぼうなことをゆったのか」
「ゆったどころじゃありません、ちゃんとくるまやのかみさんがしらせにきてくれたんです」
「すずきくんどうだい、ご聞のとおりのしだいさ、ずいぶんやっかいだろうが?」
「こまりますね、ほかのこととちがって、こういうことにはたにんがみだりにようかいするべきはずのものではありませんからな。
そのくらいなことはいかなにがさやでもこころえているはずですが。
いったいどうしたわけなんでしょう」
「それでの、きみはがくせいじだいからくさやとどうしゅくをしていて、いまはとにかく、むかしはしんみつなあいだがらであったそうだからごいらいするのだが、きみとうにんにあってな、よくりがいをさとしてみてくれんか。
なにかおこっているかもしれんが、おこるのはむかいがあくるいからで、せんぽうがおとなしくしてさえいればいっしんじょうのべんぎもじゅうぶんはかってやるし、きにさわわるようなこともやめてやる。
しかしむかいがむかいならこっちもこっちというきになるからな――つまりそんなわがをはるのはとうにんのそんだからな」
「ええまったくおっしゃるとおりぐなていこうをするのはほんにんのそんになるばかりでなにのえきもないことですから、よくもうしきけましょう」
「それからむすめはいろいろともうしこもあることだから、かならずみずしまにやるときわめるわけにもいかんが、だんだんきいてみるとがくもんもじんぶつもわるくもないようだから、もしとうにんがべんきょうしてちかいうちにはかせにでもなったらあるいはもらうことができるかもしれんくらいはそれとなくほのめかしてもかまわん」
「そうゆってやったらとうにんもはげみになってべんきょうすることでしょう。
よろしゅうございます」
「それから、あのみょうなことだが――みずしまにもにあわんことだとおもうが、あのへんぶつのくさやをせんせいせんせいとゆってくさやのいうことはたいていきくようすだからこまる。
なにそりゃなにもみずしまにかぎるわけではむろんないのだからくさやがなにとゆってじゃまをしようと、わしのほうはべつにさしつかえもせんが……」
「みずしまさんがかわいそうですからね」とはなこふじんがくちをだす。
「みずしまというひとにはあったこともございませんが、とにかくこちらとごえんぐみができればしょうがいのこうふくで、ほんにんはむろんいぞんはないのでしょう」
「ええみずしまさんはもらいたがっているんですが、くさやだの迷亭だのってかわりものがなにだとか、かんだとかいうものですから」
「そりゃ、よくないことで、そうとうのきょういくのあるものにもにあわんしょさですな。
よくわたしがにがさやのところへまいってだんじましょう」
「ああ、どうか、ごめんどうでも、ひとつねがいたい。
それからじつはみずしまのこともくさやがいちばんくわしいのだがせんだってつまがおこなったときはいまのしまつでろくろくきくこともできなかったわけだから、くんからいまいちおうほんにんのせいこうがくさいとうをよくきいてもらいたいて」
「かしこまりました。
きょうはどようですからこれからまわったら、もうかえっておりましょう。
ちかごろはどこにすんでおりますかしらん」
「ここのまえをみぎへつきあたって、ひだりへいちちょうばかりいくとくずれかかったくろへいのあるうちです」とはなこがおしえる。
「それじゃ、ついきんじょですな。
わけはありません。
かえりにちょっとよってみましょう。
なあに、だいたいわかりましょうひょうさつをみれば」
「ひょうさつはあるときと、ないときとありますよ。
めいしをご饌粒でもんへはりつけるのでしょう。
あめがふるとはがれてしまいましょう。
するとごてんきのひにまたはりつけるのです。
だからひょうさつはとうにゃなりませんよ。
あんなめんどうくさいことをするよりせめてきふだでもかけたらよさそうなもんですがねえ。
ほんとうにどこまでもきのしれないひとですよ」
「どうもおどろきますな。
しかしくずれたくろへいのうちときいたらたいがいわかるでしょう」
「ええあんなきたなないうちはちょうないにいちけんしかないから、すぐわかりますよ。
あ、そうそうそれでわからなければ、よいことがある。
なにでもやねにくさがはえたうちをさがしていけばまちがっこありませんよ」
「よほどとくしょくのあるいえですなあはははは」
すずきくんがごこうらいになるまえにかえらないと、すこしつごうがわるい。
だんわもこれだけきけばだいじょうぶだくさんである。
椽のしたをつたわってせっちんをにしへまわってつきやまのかげからおうらいへでて、いそぎあしでやねにくさのはえているうちへかえってきてなにくわぬかおをしてざしきの椽へめぐる。
しゅじんは椽側へしろもうふをしいて、はら這になってうららかなしゅんじつにこうらをほしている。
たいようのこうせんはぞんがいこうへいなものでやねにぺんぺんぐさのもくひょうのある陋屋でも、かねだくんのきゃくまのごとくようきにあたたかそうであるが、きのどくなことにはもうふだけがはるらしくない。
せいぞうもとではしろのつもりでおりだして、とうぶつやでもしろのきでうりさばいたのみならず、しゅじんもしろというちゅうもんでかってきたのであるが――なにしろじゅうにさんねんいぜんのことだからしろのじだいはとくにとおりこしてただいまはこはいいろなるへんしょくのじきにそうぐうしつつある。
このじきをけいかしてたのあんこくしょくにばけるまでもうふのいのちがつづくかどうだかは、ぎもんである。
いまでもすでにまんへんなくすりきれて、たてよこのすじはめいかによまれるくらいだから、もうふとしょうするのはもはやせんじょうのさたであって、けのじははぶいてたんにっととでももうすのがてきとうである。
しかししゅじんのかんがえではいちねんもち、にねんもち、ごねんもちじゅうねんもったいじょうはしょうがいもたねばならぬとおもっているらしい。
ずいぶんのんきなことである。
さてそのいんねんのあるもうふのうえへまえもうすとおりはら這になってなにをしているかとおもうとりょうてででばった顋をささえて、みぎてのゆびのまたにまきたばこをはさんでいる。
ただそれだけである。
もっともかれがふけだらけのあたまのうらにはうちゅうのだいしんりがひのくるまのごとくかいてんしつつあるかもしれないが、がいぶからはいけんしたところでは、そんなこととはゆめにもおもえない。
たばこのひはだんだんすいくちのほうへ逼って、いっすんばかりもえつくしたはいのぼうがぱたりともうふのうえにおつるのもかまわずしゅじんはいっしょうけんめいにたばこからたちのぼるけむりのぎょうまつをみつめている。
そのけむりはしゅんぷうにうきつしずみつ、ながれるわをいくえにもえがいて、むらさきふかきさいくんのせんぱつのこんぽんへふきよせつつある。
――おや、さいくんのことをはなしておくはずだった。
わすれていた。
さいくんはしゅじんにしりをむけて――なにしつれいなさいくんだ?べつにしつれいなことはないさ。
れいもひれいもそうごのかいしゃくしだいでどうでもなることだ。
しゅじんはへいきでさいくんのしりのところへほおづえをつき、さいくんはへいきでしゅじんのかおのさきへそうごんなるしりをすえたまでのことでぶれいもへちまもないのである。
ごりょうにんはけっこんごいちかねんもたたぬまにれいぎさほうなどときゅうくつなきょうぐうをだっきゃくせられたちょうぜんてきふうふである。
――さてかくのごとくしゅじんにしりをむけたさいくんはどういうりょうけんか、きょうのてんきにじょうじて、しゃくにあまるみどりのくろかみを、ふすまのりとなまたまごでごしごしせんたくせられたものとみえてくせのないやっこを、みよがしにかたからせへふりかけて、むごんのまましょうきょうのそでなしをねっしんにぬっている。
じつはそのせんぱつをかわかすためにとうちりめんのふとんとはりばこを椽側へだして、うやうやしくしゅじんにしりをむけたのである。
あるいはしゅじんのほうでしりのあるけんとうへかおをもってきたのかもしれない。
そこでせんこくおはなしをしたたばこのけむりが、ゆたかになびくくろかみのまにながれながれて、ときならぬかげろうのもえるところをしゅじんはよねんもなくながめている。
しかしながらけむりはかたよりいっしょにとままるものではない、そのせいしつとしてうえへうえへとたちのぼるのだからしゅじんのめもこのけむりのかみけともつれあうきかんをおちなくみようとすれば、ぜひどもめをうごかさなければならない。
しゅじんはまずこしのあたりからかんさつをはじめてじょじょとせなかをつたって、かたから頸筋にかかったが、それをとおりすぎてようようのうてんにたっしたとき、おぼえずあっとおどろいた。
――しゅじんがかいろうどうけつをちぎったふじんののうてんのまんなかにはまんまるなおおきなかぶろがある。
しかもそのかぶろがあたたかいにっこうをはんしゃして、いまやときをとくがおにかがやいている。
おもわざるあたりにこのふしぎなだいはっけんをなしたときのしゅじんのめはまばゆゆいなかにじゅうぶんのおどろきをしめして、はげしいこうせんでどうこうのひらくのもかまわずいっしんふらんにみつめている。
しゅじんがこのかぶろをみたとき、だいいちかれののうりにうかんだのはかのいえでんらいのぶつだんにいくよとなくかざりつけられたるごとうみょうさらである。
かれのいっかはしんしゅうで、しんしゅうではぶつだんにみぶんふそうおうなきんをかけるのがこれいである。
しゅじんはようしょうのときそのいえのくらのなかに、うすぐらくかざりつけられたるきんぱくあつきずしがあって、そのずしのなかにはいつでもしんちゅうのとうみょうさらがぶらくだって、そのとうみょうさらにはひるでもぼんやりしたあかりがついていたことをきおくしている。
しゅういがくらいなかにこのとうみょうさらがひかくてきめいりょうにてるやいていたのでしょうきょうしんにこのあかりをなんへんとなくみたときのいんしょうがさいくんのかぶろによびおこされてとつぜんとびだしたものであろう。
とうみょうさらはいちふんたたぬまにきえた。
このたびはかんのんさまのはとのことをおもいだす。
かんのんさまのはととさいくんのかぶろとはなんらのかんけいもないようであるが、しゅじんのあたまではふたつのまにみっせつなれんそうがある。
おなじくしょうきょうのじぶんにあさくさへいくとかならずはとにまめをかってやった。
まめはいちさらがぶんきゅうふたつで、あかいどきへはいいっていた。
そのどきが、いろといいだいさといいこのかぶろによくにている。
「なるほどにているな」としゅじんが、さもかんしんしたらしくいうと「なにがです」とさいくんはみむきもしない。
「なにだって、ごぜんのあたまにゃおおきなかぶろがあるぜ。
しってるか」
「ええ」とさいくんはいぜんとしてしごとのてをやめずにこたえる。
べつだんろけんをおそれたようすもない。
ちょうぜんたるもはんさいくんである。
「よめにくるときからあるのか、けっこんごあらたにできたのか」としゅじんがきく。
もしよめにくるまえからはげているなら欺されたのであるとくちへはださないがこころのなかでおもう。
「いつできたんだかおぼえちゃいませんわ、かぶろなんざどうだってむべいじゃありませんか」とだいにさとったものである。
「どうだってむべいって、じぶんのあたまじゃないか」としゅじんはしょうしょうどきをおびている。
「じぶんのあたまだから、どうだってむべいんだわ」とゆったが、さすがすこしはきになるとみえて、みぎのてをあたまにのせて、くるくるかぶろをなでてみる。
「おやおおいたおおきくなったこと、こんなじゃないとおもっていた」といったところをもってみると、としにあわしてかぶろがあまりおおきすぎるということをようやくじかくしたらしい。
「おんなはまげにゆうと、ここがつれますからだれでもはげるんですわ」とすこしくべんごしだす。
「そんなそくどで、みんなはげたら、よんじゅうくらいになれば、からやかんばかりできなければならん。
そりゃびょうきにちがいない。
でんせんするかもしれん、いまのうちはやくあまぎさんにみてもらえ」としゅじんはしきりにじぶんのあたまをなでまわしてみる。
「そんなにひとのことをおっしゃるが、あなただってはなのあなへはくはつがはえてるじゃありませんか。
かぶろがでんせんするならはくはつだってでんせんしますわ」とさいくんしょうしょうぷりぷりする。
「はなのなかのはくはつはみえんからがいはないが、のうてんが――ことにわかいおんなののうてんがそんなにはげちゃみぐるしい。
ふぐだ」
「ふぐなら、なぜごもらいになったのです。
ごじぶんがすきでもらっておいてふぐだなんて……」
「しらなかったからさ。
まったくきょうまでしらなかったんだ。
そんなにいばるなら、なぜよめにくるときあたまをみせなかったんだ」
「ばかなことを!どこのくににあたまのしけんをしてきゅうだいしたらよめにくるなんて、ものがあるもんですか」
「かぶろはまあがまんもするが、ごぜんはそむいがひとなみはずれてひくい。
はなはだみぐるしくていかん」
「そむいはみればすぐわかるじゃありませんか、せのひくいのはさいしょからしょうちでごもらいになったんじゃありませんか」
「それはしょうちさ、しょうちにはそういないがまだのびるかとおもったからもらったのさ」
「にじゅうにもなってそむいがのびるなんて――あなたもよっぽどじんをばかになさるのね」とさいくんはそでなしをほうりだしてしゅじんのほうにねじむく。
へんとうしだいではそのぶんにはすまさんというけんまくである。
「にじゅうになったってそむいがのびてならんというほうはあるまい。
よめにきてからじようぶんでもくわしたら、すこしはのびるみこみがあるとおもったんだ」とまじめなかおをしてみょうなりくつをのべているとかどぐちのべるがぜいよくなりたててたのむというおおきなこえがする。
いよいよすずきくんがぺんぺんぐさをもくてきにくさやせんせいのがりょう窟をたずねあてたとみえる。
さいくんはけんかをごじつにゆずって、そうこうはりばことそでなしをかかえてちゃのまへにげこむ。
しゅじんはねずみいろのもうふをまるめてしょさいへなげこむ。
やがてげじょがもってきためいしをみて、しゅじんはちょっとおどろきろいたようなかおづけであったが、こちらへごとおしもうしてといいすてて、めいしをにぎったままこうかへはいいった。
なにのためにこうかへきゅうにはいいったかいっこうようりょうをえん、なにのためにすずきとうじゅうろうくんのめいしをこうかまでもっていったのかなおさらせつめいにくるしむ。
とにかくめいわくなのはくさいところへずいこうをめいぜられためいしくんである。
げじょがさらさのざぶとんをゆかのまえへなおして、どうぞこれへとひきさがった、あとで、すずきくんはいちおうしつないをみまわわす。
ゆかにかけたはなひらきばんこくはるとあるき菴のにせものや、きょうせいのやすせいじにいけたひがんざくらなどをいちいちじゅんばんにてんけんしたあとで、ふとげじょのすすめたふとんのうえをみるといつのまにかいっぴきのねこがすましてすわっている。
もうすまでもなくそれはかくもうすわがはいである。
このときすずきくんのむねのうちにちょっとのまかおいろにもでぬほどのふうはがおこった。
このふとんはうたがいもなくすずきくんのためにしかれたものである。
じぶんのためにしかれたふとんのうえにじぶんがのらぬさきから、ことわりもなくみょうなどうぶつがへいぜんとそんきょしている。
これがすずきくんのこころのへいきんをやぶるだいいちのじょうけんである。
もしこのふとんがすすめられたまま、あるじなくしてしゅんぷうのふくにまかせてあったなら、すずきくんはわざとけんそんのいをあらわして、しゅじんがさあどうぞというまではかたいたたみのうえでがまんしていたかもしれない。
しかしそうばんじぶんのしょゆうすべきふとんのうえにあいさつもなくのったものはだれであろう。
にんげんならゆずることもあろうがねことはあやしからん。
のりてがねこであるというのがいちだんとふゆかいをかんぜしめる。
これがすずきくんのこころのへいきんをやぶるだいにのじょうけんである。
さいごにそのねこのたいどがもっともしゃくにさわる。
すこしはきのどくそうにでもしていることか、のるけんりもないふとんのうえに、ごうぜんとかまえて、まるいぶあいきょうなめをぱちつかせて、ごぜんはだれだいといわぬばかりにすずきくんのかおをみつめている。
これがへいきんをはかいするだいさんのじょうけんである。
これほどふへいがあるなら、わがはいの頸ねっこをとらえてひきずりおろしたらむべさそうなものだが、すずきくんはだまってみている。
どうどうたるにんげんがねこにおそれててだしをせぬということはあろうはずがないのに、なぜはやくわがはいをしょぶんしてじぶんのふへいをもらさないかというと、これはまったくすずきくんがいちこのにんげんとしてじこのたいめんをいじするじちょうしんのゆえであるとさっせらるる。
もしわんりょくにうったえたならさんしゃくのどうじもわがはいをじゆうにじょうげしえるであろうが、たいめんをおもんずるてんよりかんがえるといかにかねだくんのここうたるすずきとうじゅうろうそのひともこのにしゃくしほうのまんなかにちんざましますねこだいみょうじんをいかがともすることができぬのである。
いかにひとのみていぬばしょでも、ねことざせきあらそいをしたとあってはいささかにんげんのいげんにかんする。
まじめにねこをあいてにしてきょくちょくをあらそうのはいかにもだいにんきない。
こっけいである。
このふめいよをさけるためにはたしょうのふべんはしのばねばならぬ。
しかししのばねばならぬだけそれだけねこにたいするぞうおのねんはますわけであるから、すずきくんはときどきわがはいのかおをみてはにがいかおをする。
わがはいはすずきくんのふへいなかおをはいけんするのがおもしろいからこっけいのねんをおさえてなるべくなにくわぬかおをしている。
わがはいとすずきくんのまに、かくのごときむごんげきがおこなわれつつあるまにしゅじんはえもんをつくろってこうかからでてきて「やあ」とせきについたが、てにもっていためいしのかげさえみえぬところをもってみると、すずきとうじゅうろうくんのなまえはくさいところへむきとけいにしょせられたものとみえる。
めいしこそとんだわざわいうんにさいかいしたものだとおもうまもなく、しゅじんはこのやろうとわがはいのえりがみをつかんでえいとばかりに椽側へ擲きつけた。
「さあしきたまえ。
ちんらしいな。
いつとうきょうへでてきた」としゅじんはきゅうゆうにむかってふとんをすすめる。
すずきくんはちょっとこれをうらがえしたうえで、それへすわる。
「ついまだ忙がしいものだからほうちもしなかったが、じつはこのかんからとうきょうのほんしゃのほうへかえるようになってね……」
「それはけっこうだ、おおいたながくあわなかったな。
きみがいなかへいってから、はじめてじゃないか」
「うん、もうじゅうねんちかくになるね。
なにそのごじ々とうきょうへはでてくることもあるんだが、ついようじがおおいもんだから、いつでもしっけいするようなわけさ。
あくるくおもってくれたもうな。
かいしゃのほうはきみのしょくぎょうとはちがってずいぶん忙がしいんだから」
「じゅうねんたつうちにはだいぶちがうもんだな」としゅじんはすずきくんをみあげたりみおろしたりしている。
すずきくんはあたまをびれいにわけて、えいこくしたてのとうぃーどをきて、はでなえりかざりをして、むねにきむくさりりさえぴかつかせているていさい、どうしてもにがさやくんのきゅうゆうとはおもえない。
「うん、こんなものまでぶらさげなくちゃ、ならんようになってね」とすずきくんはしきりにきむくさりりをきにしてみせる。
「そりゃほんものかい」としゅじんはぶさほうなしつもんをかける。
「じゅうはちきんだよ」とすずきくんはわらいながらこたえたが「きみもおおいたねんをとったね。
たしかしょうきょうがあるはずだったがいちにんかい」
「いいや」
「ににん?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃさんにんか」
「うんさんにんある。
このさきいくにんできるかわからん」
「あいかわらずきらくなことをゆってるぜ。
いちばんおおきいのはいくつになるかね、もうよっぽどだろう」
「うん、いくつかのうくしらんがおおかたむっつか、ななつかだろう」
「はははきょうしはのんきでいいな。
ぼくもきょういんにでもなればよかった」
「なってみろ、さんにちでいやになるから」
「そうかな、なんだかじょうひんで、きらくで、かんかがあって、すきなべんきょうができて、よさそうじゃないか。
じつぎょうかもわるくもないがわれわれのうちはだめだ。
じつぎょうかになるならずっとうえにならなくっちゃいかん。
したのほうになるとやはりつまらんごせじをふりまいたり、こうかんちょこをいただきにでたりずいぶんぐなもんだよ」
「ぼくはじつぎょうかはがっこうじだいからだいいやだ。
きんさえとれればなにでもする、むかしでいえばもとちょうにんだからな」とじつぎょうかをまえにひかえてたいへいらくをならべる。
「まさか――そうばかりもいえんがね、すこしはげひんなところもあるのさ、とにかくきんとじょうしをするかくごでなければやりとおせないから――ところがそのきんというやつがくせもので、――いまもあるじつぎょうかのところへいってきいてきたんだが、きんをつくるにもさんかくじゅつをつかわなくちゃいけないというのさ――ぎりをかく、にんじょうをかく、はじをかくこれでさんかくになるそうだおもしろいじゃないかあはははは」
「だれだそんなばかは」
「ばかじゃない、なかなかりこうなおとこなんだよ、じつぎょうかいでちょっとゆうめいだがね、きみしらんかしら、ついこのさきのよこちょうにいるんだが」
「かねだか?なにんだあんなやっこ」
「たいへんおこってるね。
なあに、そりゃ、ほんのじょうだんだろうがね、そのくらいにせんときんはたまらんという喩さ。
きみのようにそうまじめにかいしゃくしちゃこまる」
「さんかくじゅつはじょうだんでもいいが、あすこのにょうぼうのはなはなんだ。
きみおこなったんならみてきたろう、あのはなを」
「さいくんか、さいくんはなかなかさばけたひとだ」
「はなだよ、おおきなはなのことをゆってるんだ。
せんだってぼくはあのはなについて俳体しをつくったがね」
「なにだい俳体しというのは」
「俳体しをしらないのか、きみもずいぶんじせいにくらいな」
「ああぼくのように忙がしいとぶんがくなどはとうていだめさ。
それにいぜんからあまりすうきでないほうだから」
「きみしゃーれまんのはなのかっこうをしってるか」
「あははははずいぶんきらくだな。
しらんよ」
「えるりんとんはぶかのものからはな々といみょうをつけられていた。
きみしってるか」
「はなのことばかりきにして、どうしたんだい。
よいじゃないかはななんかまるくてもとがんがってても」
「けっしてそうでない。
きみぱすかるのことをしってるか」
「またしってるかか、まるでしけんをうけにきたようなものだ。
ぱすかるがどうしたんだい」
「ぱすかるがこんなことをゆっている」
「どんなことを」
「もしくれおぱとらのはながすこしたんかかったならばせかいのひょうめんにだいへんかをきたしたろうと」
「なるほど」
「それだからきみのようにそうむぞうさにはなをばかにしてはいかん」
「まあいいさ、これからだいじにするから。
そりゃそうとして、きょうきたのは、すこしきみにようじがあってきたんだがね――あのもときみのおしえたとかいう、みずしま――ええみずしまええちょっとおもいだせない。
――そらきみのところへしじゅうくるというじゃないか」
「かんげつか」
「そうそうかんげつかんげつ。
あのひとのことについてちょっとききたいことがあってきたんだがね」
「けっこんじけんじゃないか」
「まあたしょうそれにるいじのことさ。
きょうかねだへいったら……」
「このまはながじぶんできた」
「そうか。
そうだって、さいくんもそうゆっていたよ。
くさやさんに、よくうかがおうとおもってのぼったら、あいにく迷亭がきていてちゃちゃをいれてなにがなんだかわからなくしてしまったって」
「あんなはなをつけてくるからあくるいや」
「いえきみのことをいうんじゃないよ。
あの迷亭くんがおったもんだから、そうたちいったことをきくわけにもいかなかったのでざんねんだったから、もういっぺんぼくにいってよくきいてきてくれないかってたのまれたものだからね。
ぼくもいままでこんなせわはしたことはないが、もしとうにんどうしがいややでないならなかへたってまとめるのも、けっしてわるいことはないからね――それでやってきたのさ」
「ごくろうさま」としゅじんはれいたんにこたえたが、はらのうちではとうにんどうしというかたりをきいて、どういうわけかわからんが、ちょっとこころをうごかしたのである。
むしあついなつのよるにいちるのれいふうがそでぐちをもぐったようなきぶんになる。
がんらいこのしゅじんはぶっきらぼうの、がんここうたくけしをむねとしてせいぞうされたおとこであるが、さればとゆってれいこくふにんじょうなぶんめいのさんぶつとはじからそのせんをことにしている。
かれがなぞというと、むかっぱらをたててぷんぷんするのでも這裏のしょうそくはえとくできる。
せんじつはなとけんかをしたのははながきにくわぬからではなのむすめにはなにのつみもないはなしである。
じつぎょうかはきらいだから、じつぎょうかのかたわれなるかねだぼうもいやにそういないがこれもむすめそのひととはぼっこうしょうのさたといわねばならぬ。
むすめにはおんもうらみもなくて、かんげつはじぶんがみのおとうとよりもあいしているもんかせいである。
もしすずきくんのいうごとく、とうにんどうしがすいたなかなら、かんせつにもこれをぼうがいするのはくんしのなすべきしょさでない。
――くさやせんせいはこれでもじぶんをくんしとおもっている。
――もしとうにんどうしがすいているなら――しかしそれがもんだいである。
このじけんにたいしてじこのたいどをあらためるには、まずそのしんそうから確めなければならん。
「きみそのむすめはかんげつのところへきたがってるのか。
かねだやはなはどうでもかまわんが、むすめじしんのいこうはどうなんだ」
「そりゃ、その――なにだね――なにでも――え、きたがってるんだろうじゃないか」すずきくんのあいさつはしょうしょうあいまいである。
じつはかんげつくんのことだけきいてふくめいさえすればいいつもりで、ごじょうさんのいこうまではたしかめてこなかったのである。
したがってえんてんかつだつのすずきくんもちょっとろうばいのきみにみえる。
「だろうたはんぜんしないことばだ」としゅじんはなにごとによらず、しょうめんから、どやしつけないときがすまない。
「いや、これゃちょっとぼくのいいようがわるかった。
れいじょうのほうでもたしかにいがあるんだよ。
いえまったくだよ――え?――さいくんがぼくにそうゆったよ。
なにでもときどきはかんげつくんのわるぐちをいうこともあるそうだがね」
「あのむすめがか」
「ああ」
「あやしからんやつだ、わるぐちをいうなんて。
だいいちそれじゃかんげつにいがないんじゃないか」
「そこがさ、よのなかはみょうなもので、じぶんのよいているひとのわるぐちなどはことさらゆってみることもあるからね」
「そんなぐなやつがどこのくににいるものか」としゅじんはかようなにんじょうのきびにたちいったことをいわれてもとみとかんじがない。
「そのぐなやつがずいぶんよのなかにゃあるからしかたがない。
げんにかねだのさいくんもそうかいしゃくしているのさ。
とまどいをしたへちまのようだなんて、ときどきかんげつさんのわるぐちをいいますから、よっぽどこころのなかではおもってるにそういありませんと」
しゅじんはこのふかしぎなかいしゃくをきいて、あまりおもいかけないものだから、めをまるくして、へんとうもせず、すずきくんのかおを、だいどうえきしゃのように眤とみつめている。
すずきくんはこいつ、このようすでは、ことによるとやりそこなうなとかんづいたとみえて、しゅじんにもはんだんのできそうなほうめんへとわとうをうつす。
「きみかんがえてもわかるじゃないか、あれだけのざいさんがあってあれだけのきりょうなら、どこへだってそうおうのいえへやれるだろうじゃないか。
かんげつだってえらいかもしれんがみぶんからうんや――いやみぶんとゆっちゃしつれいかもしれない。
――ざいさんというてんからうんや、まあ、だれがみたってつりあわんのだからね。
それをぼくがわざわざしゅっちょうするくらいりょうしんがきをもんでるのはほんにんがかんげつくんにいがあるからのことじゃあないか」とすずきくんはなかなかうまいりくつをつけてせつめいをあたえる。
こんどはしゅじんにもなっとくができたらしいのでようやくあんしんしたが、こんなところにまごまごしているとまたとっかんをくうきけんがあるから、はやくはなしのふをすすめて、いっこくもはやくしめいをかんうするほうがばんぜんのさくとこころづいた。
「それでね。
いまいうとおりのわけであるから、せんぽうでいうにはなにもきんせんやざいさんはいらんからそのかわりとうにんにふぞくしたしかくがほしい――しかくというと、まあかたがきだね、――はかせになったらやってもいいなんていばってるしだいじゃない――ごかいしちゃいかん。
せんだってさいくんのきたときは迷亭くんがいてみょうなことばかりいうものだから――いえきみがわるいのじゃない。
さいくんもきみのことをごせじのないしょうじきないいほうだとしょうめていたよ。
まったく迷亭くんがわるかったんだろう。
――それでさほんにんがはかせにでもなってくれればせんぽうでもせけんへたいしてかたみがひろい、めんぼくがあるというんだがね、どうだろう、ちかぢかのうちみずしまくんははかせろんぶんでもていしゅつして、はかせのがくいをうけるようなはこびにはいくまいか。
なあに――かねだだけならはかせもがくしもいらんのさ、ただせけんというものがあるとね、そうてがるにもいかんからな」
こういわれてみると、せんぽうではかせをせいきゅうするのも、あながちむりでもないようにおもわれてくる。
むりではないようにおもわれてくれば、すずきくんのいらいどおりにしてやりたくなる。
しゅじんをいかすのもころすのもすずきくんのいのままである。
なるほどしゅじんはたんじゅんでしょうじきなおとこだ。
「それじゃ、こんどかんげつがきたら、はかせろんぶんをかくようにぼくからすすめてみよう。
しかしとうにんがかねだのむすめをもらうつもりかどうだか、それからまずといただしてみなくちゃいかんからな」
「といただすなんて、きみそんなかくばったことをしてものがまとまるものじゃない。
やっぱりふつうのだんわのさいにそれとなくきをひいてみるのがいちばんちかみちだよ」
「きをひいてみる?」
「うん、きをひくというとごへいがあるかもしれん。
――なにきをひかんでもね。
はなしをしているとしぜんわかるもんだよ」
「きみにゃわかるかもしれんが、ぼくにゃはんぜんときかんことはわからん」
「わからなけりゃ、まあよいさ。
しかし迷亭くんみたようによけいなちゃちゃをいれてうち壊わすのはよくないとおもう。
たとえすすめないまでも、こんなことはほんにんのずいいにすべきはずのものだからね。
こんどかんげつくんがきたらなるべくどうかじゃまをしないようにしてくれたまえ。
――いえきみのことじゃない、あの迷亭くんのことさ。
あのおとこのくちにかかるととうていたすかりっこないんだから」としゅじんのだいりに迷亭のわるぐちをきいていると、うわさをすればかげの喩にもれず迷亭せんせいれいのごとくかってぐちからひょうぜんとしゅんぷうにじょうじてまいこんでくる。
「いやーちんきゃくだね。
ぼくのような狎客になるとくさやはとかくそりゃくにしたがっていかん。
なにでもくさやのうちへはじゅうねんにいちへんくらいくるにかぎる。
このかしはいつもよりじょうとうじゃないか」とふじむらのようかんをむぞうさにほおばる。
すずきくんはもじもじしている。
しゅじんはにやにやしている。
迷亭はくちをもがもがさしている。
わがはいはこのしゅんじのこうけいを椽側からはいけんしてむごんげきというものはゆうにせいりつしえるとおもった。
ぜんけでむごんのもんどうをやるのがいしんでんしんであるなら、このむごんのしばいもあかにいしんでんしんのまくである。
すこぶるみじかかいけれどもすこぶるするどどいまくである。
「きみはいっしょうたびがらすかとおもってたら、いつのまにかまいもどったね。
ちょうせいはしたいもんだな。
どんなぎょうこうにまわりあわんともかぎらんからね」と迷亭はすずきくんにたいしてもしゅじんにたいするごとくごうもえんりょということをしらぬ。
いかにじすいのなかまでもじゅうねんもあわなければ、なんとなくきのおけるものだが迷亭くんにかぎって、そんなもとふもみえぬのは、えらいのだかばかなのかちょっとけんとうがつかぬ。
「かわいそうに、そんなにばかにしたものでもない」とすずきくんはあたらずさわらずのへんじはしたが、なんとなくおちつきかねて、れいのきんくさりをしんけいてきにいじっている。
「きみでんきてつどうへのったか」としゅじんはとつぜんすずきくんにたいしてきもんをはっする。
「きょうはしょくんからひやかされにきたようなものだ。
なんぼいなかものだって――これでもまちてつをろくじゅうかぶもってるよ」
「そりゃばかにできないな。
ぼくははちひゃくはちじゅうはちかぶはんもっていたが、おしいことにおおかたちゅうがくってしまって、いまじゃはんかぶばかりしかない。
もうすこしはやくきみがとうきょうへでてくれば、むしのくわないところをじゅうかぶばかりやるところだったがおしいことをした」
「あいかわらずくちがあくるい。
しかしじょうだんはじょうだんとして、ああいうかぶはもっててそんはないよ、ねんねんたかくなるばかりだから」
「そうだたとえはんかぶだってせんねんももってるうちにゃくらがみっつくらいたつからな。
きみもぼくもそのあたりにぬかりはないとうせいのさいしだが、そこへいくとくさやなどはあわれなものだ。
かぶといえばだいこんのきょうだいぶんくらいにかんがえているんだから」とまたようかんをつまんでしゅじんのほうをみると、しゅじんも迷亭のくいけがでんせんしておのずからかしさらのほうへてがでる。
よのなかではばんじせっきょくてきのものがひとからまねらるるけんりをゆうしている。
「かぶなどはどうでもかまわんが、ぼくは曾呂さきにいちどでいいからでんしゃへのらしてやりたかった」としゅじんはくいかけたようかんのはこんを撫然としてながめる。
「曾呂さきがでんしゃへのったら、のるたんびにしながわまでいってしまうは、それよりやっぱりてんねんこじでたくあんせきへほりつけられてるほうがぶじでいい」
「曾呂さきといえばしんだそうだな。
きのどくだねえ、いいあたまのおとこだったがおしいことをした」とすずきくんがいうと、迷亭はただちにひきうけて
「あたまはよかったが、めしをたくことはいちばんへただったぜ。
曾呂さきのとうばんのときには、ぼくあいつでもがいしゅつをしてそばでしのいでいた」
「ほんとに曾呂さきのたいためしはこげくさくってこころがあってぼくもよわった。
ごまけにごさいにかならずとうふをなまでくわせるんだから、つめたくてくわれやせん」とすずきくんもじゅうねんまえのふへいをきおくのそこからよびおこす。
「くさやはあのじだいから曾呂さきのしんゆうでまいばんいっしょにしるこをくいにでたが、そのたたりでいまじゃまんせいいじゃくになってくるしんでいるんだ。
みをいうとくさやのほうがしるこのかずをよけいくってるから曾呂さきよりさきへしんでむべいやくなんだ」
「そんなろんりがどこのくににあるものか。
おれのしるこよりきみはうんどうとごうして、まいばんしないをもってうらのたまごとうばへでて、せきとうをたたいてるところをぼうずにみつかってけんつくをくったじゃないか」としゅじんもまけぬきになって迷亭のきゅうあくを曝く。
「あはははそうそうぼうずがふつさまのあたまをたたいてはあんみんのぼうがいになるからよしてくれっていったっけ。
しかしぼくのはしないだが、このすずきしょうぐんのはて暴だぜ。
せきとうとすもうをとってだいしょうさんこばかりころがしてしまったんだから」
「あのときのぼうずのいかりかたはじつにはげしかった。
ぜひもとのようにおこせというからにんそくをやとうまでまってくれとゆったらにんそくじゃいかんざんげのいをひょうするためにあなたがじしんでおこさなくてはふつのいにそむくというんだからね」
「そのときのきみのふうさいはなかったぜ、かなきんのしゃつにえっちゅうふんどしであめあがりのみずたまりのなかでうんうんうなって……」
「それをきみがすましたかおでしゃせいするんだから苛い。
ぼくはあまりはらをたてたことのないおとこだが、あのときばかりはしっけいだとこころからおもったよ。
あのときのきみのげんくさをまだおぼえているがきみはしってるか」
「じゅうねんまえのげんくさなんかだれがおぼえているものか、しかしあのせきとうにきいずみいんどのきつるだいこじやすながごねんたつしょうがつとほってあったのだけはいまだにきおくしている。
あのせきとうはこがにできていたよ。
ひきこすときにぬすんでいきたかったくらいだ。
じつにびがくじょうのげんりにかなって、ごしっくしゅみなせきとうだった」と迷亭はまたいいかげんなびがくをふりまわす。
「そりゃいいが、きみのげんくさがさ。
こうだぜ――わがはいはびがくをせんこうするつもりだからてんちかんのおもしろいできごとはなるべくしゃせいしておいてしょうらいのさんこうにきょうさなければならん、きのどくだの、かわいそうだのというしじょうはがくもんにちゅうじつなるわがはいごときもののくちにすべきところでないとへいきでいうのだろう。
ぼくもあんまりなふにんじょうなおとこだとおもったからどろだらけのてできみのしゃせいじょうをひきさいてしまった」
「ぼくのゆうぼうながさいがとんざしていっこうふわなくなったのもまったくあのときからだ。
くんにきほうをおられたのだね。
ぼくはきみに恨がある」
「ばかにしちゃいけない。
こっちがうらめしいくらいだ」
「迷亭はあのじぶんからほら吹だったな」としゅじんはようかんをくいりょうってふたたびににんのはなしのなかにわりこんでくる。
「やくそくなんかりこうしたことがない。
それできつもんをうけるとけっしてわびたことがないなんとかかとかいう。
あのてらのけいだいにさるすべりがさいていたじぶん、このさるすべりがちるまでにびがくげんろんというちょじゅつをするというから、だめだ、とうていできるきやはないとゆったのさ。
すると迷亭のこたえにぼくはこうみえてもみかけによらぬいしのつよいおとこである、そんなにうたがうならとをしようというからぼくはまじめにうけてなにでもかんだのせいようりょうりをおごりっこかなにかにきわめた。
きっとしょもつなんかかくきやはないとおもったからとをしたようなもののないしんはしょうしょうおそろしかった。
ぼくにせいようりょうりなんかおごるきんはないんだからな。
ところがせんせいいちこうこうをおこすけしきがない。
ななにちたってもにじゅうにちたってもいちまいもかかない。
いよいよさるすべりがちっていちりんのはなもなくなってもとうにんへいきでいるから、いよいよせいようりょうりにありついたなとおもってけいやくりこうを逼ると迷亭すましてとりあわない」
「またなんとかりくつをつけたのかね」とすずきくんがそうのてをいれる。
「うん、じつにずうずうしいおとこだ。
わがはいはほかにのうはないがいしだけはけっしてきみかたにまけはせんとつよしじょうをはるのさ」
「いちまいもかかんのにか」とこんどは迷亭くんじしんがしつもんをする。
「むろんさ、そのとききみはこうゆったぜ。
わがはいはいしのいちてんにおいてはあえてなんにんにもいちほもゆずらん。
しかしざんねんなことにはきおくがひといちばいない。
びがくげんろんをしるわそうとするいしはじゅうぶんあったのだがそのいしをきみにはっぴょうしたよくじつからわすれてしまった。
それだからさるすべりのちるまでにちょしょができなかったのはきおくのつみでいしのつみではない。
いしのつみでないいじょうはせいようりょうりなどをおごるりゆうがないといばっているのさ」
「なるほど迷亭くんいちりゅうのとくしょくをはっきしておもしろい」とすずきくんはなぜだかおもしろがっている。
迷亭のおらぬときのごきとはよほどちがっている。
これがりこうなひとのとくしょくかもしれない。
「なにがおもしろいものか」としゅじんはいまでもおこっているようすである。
「それはごきのどくさま、それだからそのうまあわせをするためにくじゃくのしたなんかをきんとたいこでさがしているじゃないか。
まあそうおこらずにまっているさ。
しかしちょしょといえばきみ、きょうはいちだいちんほうを齎らしてきたんだよ」
「きみはくるたびにちんほうを齎らすおとこだからゆだんができん」
「ところがきょうのちんほうはしんのちんほうさ。
しょうふだづけいちりんもひけなしのちんほうさ。
きみかんげつがはかせろんぶんのこうをおこしたのをしっているか。
かんげつはあんなみょうにけんしきばったおとこだからはかせろんぶんなんてむしゅみなろうりょくはやるまいとおもったら、あれでやっぱりいろけがあるからおかしいじゃないか。
きみあのはなにぜひつうちしてやるがいい、このころはどんぐりはかせのゆめでもみているかもしれない」
すずきくんはかんげつのなをきいて、はなしてはいけぬはなしてはいけぬと顋とめでしゅじんにあいずする。
しゅじんにはいっこういみがつうじない。
さっきすずきくんにあってせっぽうをうけたときはかねだのむすめのことばかりがきのどくになったが、こん迷亭からはな々といわれるとまたせんじつけんかをしたことをおもいだす。
おもいだすとこっけいでもあり、またしょうしょうはわるらしくもなる。
しかしかんげつがはかせろんぶんをくさしかけたのはなによりのごみやげで、こればかりは迷亭せんせいじさんのごとくまずまずきんらいのちんほうである。
ただにちんほうのみならず、うれしいこころよよいちんほうである。
かねだのむすめをもらおうがもらいうまいがそんなことはまずどうでもよい。
とにかくかんげつのはかせになるのはけっこうである。
じぶんのようにできそんいのもくぞうはぶっしやのすみでむしがくうまでしらきのままくすぶっていてもいかんはないが、これはうまくしあがったとおもうちょうこくにはいちにちもはやくはくをぬってやりたい。
「ほんとうにろんぶんをかきかけたのか」とすずきくんのあいずはそっちのけにして、ねっしんにきく。
「よくひとのいうことをうたぐぐるおとこだ。
――もっとももんだいはどんぐりだかくびくくりのりきがくだか確とわからんがね。
とにかくかんげつのことだからはなのきょうしゅくするようなものにちがいない」
さっきから迷亭がはな々とぶえんりょにいうのをきくたんびにすずきくんはふあんのようすをする。
迷亭はすこしもきがつかないからへいきなものである。
「そのごはなについてまたけんきゅうをしたが、このころとりすとらむ・しゃんでーのなかにはなろんがあるのをはっけんした。
かねだのはななどもすたーんにみせたらよいざいりょうになったろうにざんねんなことだ。
はなめいをせんざいにたれるしかくはじゅうぶんありながら、あのままでくちはてつるとはふびんせんまんだ。
こんどここへきたらびがくじょうのさんこうのためにしゃせいしてやろう」とあいかわらずくちからでまかせにちょうしたりたてる。
「しかしあのむすめはかんげつのところへきたいのだそうだ」としゅじんがこんすずきくんからきいたとおりをのべると、すずきくんはこれはめいわくだというかおづけをしてしきりにしゅじんにめくばせをするが、しゅじんはふどうたいのごとくいっこうでんきにかんせんしない。
「ちょっとおつだな、あんなもののこでもこいをするところが、しかしたいしたこいじゃなかろう、おおかたはなこいくらいなところだぜ」
「はなこいでもかんげつがもらえばいいが」
「もらえばいいがって、きみはせんじつだいはんたいだったじゃないか。
きょうはいやになんかしているぜ」
「なんかはせん、ぼくはけっしてなんかはせんしかし……」
「しかしどうかしたんだろう。
ねえすずき、きみもじつぎょうかのまっせきをけがすいちにんだからさんこうのためにいってきかせるがね。
あのかねだぼうなるものさ。
あのぼうなるもののそくじょなどをてんかのしゅうさいみずしまかんげつのれいふじんとあがめまつるのは、しょうしょうちょうちんとつりがねというしだいで、われわれほうゆうたるしゃがひや々もっかするわけにいかんことだとおもうんだが、たといじつぎょうかのきみでもこれにはいぞんはあるまい」
「あいかわらずげんきがいいね。
けっこうだ。
きみはじゅうねんまえとようすがすこしもかわっていないからえらい」とすずきくんはやなぎにうけて、ごまかそうとする。
「えらいとほめるなら、もうすこしはくがくなところをごめにかけるがね。
むかししのまれ臘人はひじょうにたいいくをおもんじたものであらゆるきょうぎにきちょうなるけんしょうをだしてひゃっぽうしょうれいのさくをこうじたものだ。
しかるにふしぎなことにはがくしゃのちしきにたいしてのみはなんらのほうびもあたえたというきろくがなかったので、きょうまでじつはだいにあやしんでいたところさ」
「なるほどすこしみょうだね」とすずきくんはどこまでもちょうしをあわせる。
「しかるについりょうさんにちまえにいたって、びがくけんきゅうのさいふとそのりゆうをはっけんしたのでたねんのぎだんはいちどにひょうかい。
うるしおけをぬくがごとくつうかいなるさとりをえて歓天きちのしきょうにたっしたのさ」
あまり迷亭のことばがぎょうさんなので、さすがごじょうずもののすずきくんも、こりゃてにあわないというかおづけをする。
しゅじんはまたはじまったなといわぬばかりに、ぞうげのはしでかしさらのえんをかんかんたたいて俯つむいている。
迷亭だけはだいとくいでべんじつづける。
「そこでこのむじゅんなるげんしょうのせつめいをめいきして、あんこくのふちからわれじんのうたぐをせんざいのしたにすくいだしてくれたものはだれだとおもう。
がくもんあっていらいのがくしゃとしょうせらるるかれのまれ臘のてつじん、しょうようはのがんそありすとーとるそのひとである。
かれのせつめいにいわくさ――おいかしさらなどをたたかんできんちょうしていなくちゃいかん。
――かれらまれ臘人がきょうぎにおいてえるところのしょうよはかれらがえんずるぎげいそのものよりきちょうなものである。
それゆえにほうびにもなり、しょうれいのぐともなる。
しかしちしきそのものにいたってはどうである。
もしちしきにたいするほうしゅうとしてなにぶつをかあたえんとするならばちしきいじょうのかちあるものをあたえざるべからず。
しかしちしきいじょうのちんぽうがよのなかにあろうか。
むろんあるはずがない。
へたなものをやればちしきのいげんをそんするわけになるばかりだ。
かれらはちしきにたいしてせんりょうばこをおりむぱすのやまほどつみ、くりーさすのとみをかたむけつくしてもそうとうのほうしゅうをあたえんとしたのであるが、いかにかんがえてもとうていつりあうはずがないということをみやぶして、それよりいらいというものはきれいさっぱりなににもやらないことにしてしまった。
こうはくあおぜにがちしきのひってきでないことはこれでじゅうぶんりかいできるだろう。
さてこのげんりをふくようしたうえでじじもんだいにのぞんでみるがいい。
かねだぼうはなにだいしへいにめはなをつけただけのにんげんじゃないか、きけいなるかたりをもってけいようするならばかれはいちこのかつどうしへいによぎんのである。
かつどうしへいのむすめならかつどうきってくらいなところだろう。
ひるがえってかんげつくんはいかとみればどうだ。
辱けなくもがくもんさいこうのふをだいいちいにそつぎょうしてごうもけんたいのねんなくちょうしゅうせいばつじだいのはおりのひもをぶらさげて、にちやどんぐりのすたびりちーをけんきゅうし、それでもなおまんぞくするようすもなく、ちかぢかのちゅうろーど・けるゔぃんをあっとうするほどなだいろんぶんをはっぴょうしようとしつつあるではないか。
たまたまあづまきょうをとおりかかってみなげのげいをしそんじたことはあるが、これもねっせいなるせいねんにありがちのほっさてきしょいでごうもかれがちしきのとんやたるにわずらいをおよぼすほどのできごとではない。
迷亭いちりゅうの喩をもってかんげつくんをひょうすればかれはかつどうとしょかんである。
ちしきをもってつくねあげたるにじゅうはち珊のだんがんである。
このだんがんがいちたびじきをえてがっかいにばくはつするなら、――もしばくはつしてみたまえ――ばくはつするだろう――」迷亭はここにいたって迷亭いちりゅうとじしょうするけいようしがおもうようにでてこないのでぞくにいうりゅうとうだびのかんにたしょうひるんでみえたがたちまち「かつどうきってなどはなんせんまんまいあったってこななみじんになってしまうさ。
それだからかんげつには、あんなつりあわないじょせいはだめだ。
ぼくがふしょうちだ、ひゃくじゅうのなかでもっともそうめいなるだいぞうと、もっともどんらんなるしょうぶたとけっこんするようなものだ。
そうだろうにがさやくん」とゆってしりぞけると、しゅじんはまただまってかしさらをはたきだす。
すずきくんはすこしへこんだきみで
「そんなこともなかろう」とじゅつなげにこたえる。
さっきまで迷亭のわるぐちをずいぶんついたあげくここでむくらなことをいうと、しゅじんのようなむほうものはどんなことをすっぱぬくかしれない。
なるべくここはこうかげんに迷亭のえいほうをあしらってぶじにきりぬけるのがじょうふんべつなのである。
すずきくんはりこうしゃである。
いらざるていこうはさけらるるだけさけるのがとうせいで、むようのこうろんはほうけんじだいのいぶつとこころえている。
じんせいのもくてきはこうぜつではないじっこうにある。
じこのおもいどおりにちゃくちゃくじけんがしんちょくすれば、それでじんせいのもくてきはたっせられたのである。
くろうとしんぱいとそうろんとがなくてじけんがしんちょくすればじんせいのもくてきはごくらくりゅうにたっせられるのである。
すずきくんはそつぎょうごこのごくらくしゅぎによってせいこうし、このごくらくしゅぎによってきむとけいをぶらさげ、このごくらくしゅぎでかねだふうふのいらいをうけ、おなじくこのごくらくしゅぎでまんまとしゅびよくにがさやくんをときおとしてとうがいじけんがじゅっちゅうはっくまでじょうじゅしたところへ、迷亭なるつねただしをもってりっすべからざる、ふつうのにんげんいがいのしんりさようをゆうするかとかいまるるふうらいぼうがとびこんできたのでしょうしょうそのとつぜんなるにめんくっているところである。
ごくらくしゅぎをはつめいしたものはめいじのしんしで、ごくらくしゅぎをじっこうするものはすずきとうじゅうろうくんで、いまこのごくらくしゅぎでこんきゃくしつつあるものもまたすずきとうじゅうろうくんである。
「きみはなににもしらんからそうでもなかろうなどとすましかえって、れいになくことば寡なにじょうひんにひかえこむが、せんだってあのはなのあるじがきたときのようすをみたらいかにじつぎょうか贔負のそんこうでもへきえきするにごくってるよ、ねえにがさやくん、きみだいにふんとうしたじゃないか」
「それでもきみよりぼくのほうがひょうばんがいいそうだ」
「あはははなかなかじしんがつよいおとこだ。
それでなくてはさゔぇじ・ちーなんてせいとやきょうしにからかわれてすましてがっこうへでちゃいられんわけだ。
ぼくもいしはけっしてひとにおとらんつもりだが、そんなにずぶとくはできんけいふくのいたりだ」
「せいとやきょうしがしょうしょうぐずぐずいったってなにがおそろしいものか、さんとぶーゔはここんどっぽのひょうろんかであるがぱりだいがくでこうぎをしたときはひじょうにふひょうばんで、かれはがくせいのこうげきにおうずるためがいしゅつのさいかならずひしゅをそでのしたにもってぼうぎょのぐとなしたことがある。
ぶるぬちぇるがやはりぱりのだいがくでぞらのしょうせつをこうげきしたときは……」
「だってきみゃだいがくのきょうしでもなにでもないじゃないか。
こうがりーどるのせんせいでそんなおおやをれいにひくのはじゃこがくじらをもってみずからたとえるようなもんだ、そんなことをいうとなおからかわれるぜ」
「だまっていろ。
さんとぶーゔだっておれだっておなじくらいながくしゃだ」
「たいへんなけんしきだな。
しかしかいけんをもってふいくだけはあぶないからまねないほうがいいよ。
だいがくのきょうしがかいけんならりーどるのきょうしはまあこがたなくらいなところだな。
しかしそれにしてもはものはけんのんだからなかみせへいっておもちゃのくうきじゅうをかってきてせおってあるくがよかろう。
あいきょうがあっていい。
ねえすずきくん」というとすずきくんはようやくはなしがかねだじけんをはなれたのでほっとひといきつきながら
「あいかわらずむじゃきでゆかいだ。
じゅうねんふりではじめてきみとうにあったんでなんだかきゅうくつなろじからひろいのはらへでたようなきもちがする。
どうもわれわれなかまのだんわはすこしもゆだんがならなくてね。
なにをいうにもきをおかなくちゃならんからしんぱいできゅうくつでじつにくるしいよ。
はなしはつみがないのがいいね。
そしてむかししのしょせいじだいのともだちとはなすのがいちばんえんりょがなくっていい。
ああきょうははからず迷亭くんにあってゆかいだった。
ぼくはちとようじがあるからこれでしっけいする」とすずきくんがたちかけると、迷亭も「ぼくもいこう、ぼくはこれからにほんばしのえんげいきょうふうかいにいかなくっちゃならんから、そこまでいっしょにいこう」「そりゃちょうどいいひさしぶりでいっしょにさんぽしよう」とりょうくんはてをたずさえてかえる。
にじゅうよんじかんのできごとをもれなくかいて、もれなくよむにはすくなくもにじゅうよんじかんかかるだろう、いくらしゃせいぶんをこすいするわがはいでもこれはとうていねこのくわだておよぶべからざるげいとうとじはくせざるをえない。
したがっていかにわがはいのしゅじんが、にろくじちゅうせいさいなるびょうしゃにあたいするきげんきこうをろうするにもせきらずちくいちこれをどくしゃにほうちするののうりょくとこんきのないのははなはだいかんである。
いかんではあるがやむをえない。
きゅうようはねこといえどもひつようである。
すずきくんと迷亭きみのかえったあとはこがらしのはたとふきいきんで、しんしんとふるゆきのよるのごとくしずかになった。
しゅじんはれいのごとくしょさいへひきこもる。
しょうきょうはろくじょうのまへまくらをならべてねる。
いっけんはんのふすまをへだててみなみむこうのしつにはさいくんがかぞえどしみっつになる、めんこさんとそえじしてよこになる。
はなぐもりにくれをいそいだひはとくおちて、ひょうをとおるこまげたのおとさえてにとるようにちゃのまへひびく。
となりまちのげしゅくでみんてきをふくのがたえたりつづいたりしてねむいみみそこにおりおりにぶいしげきをあたえる。
がいめんはおおかたおぼろであろう。
ばんさんにはんぺんのにじるであわびかいをからにしたはらではどうしてもきゅうようがひつようである。
ほのかにうけたまわわればせけんにはねこのこいとかしょうするはいかいしゅみのげんしょうがあって、はるさきはちょうないのどうぞくどものゆめやすからぬまでうかれふるくよるもあるとかいうが、わがはいはまだかかるしんてきへんかに遭逢したことはない。
そもそもこいはうちゅうてきのかつりょくである。
うえはざいてんのかみじゅぴたーよりしたはどちゅうになくみみず、おけらにいたるまでこのみちにかけてうきみをやつすのがばんぶつのならいであるから、わがはいどもがおぼろうれしと、ぶっそうなふりゅうきをだすのもむりのないはなしである。
かいこすればかくいうわがはいもさんもうこにおもいこがれたこともある。
さんかくしゅぎのちょうほんかねだくんのれいじょうあべがわのとみこさえかんげつくんにれんぼしたといううわさである。
それだからせんきんのしゅんしょうをこころもそらにまんてんかのめすねこゆうねこがくるいめぐるのをぼんのうの迷のとけいべつするねんはもうとうないのであるが、いかんせんさそわれてもそんなこころがでないからしかたがない。
わがはいめしたのじょうたいはただきゅうようをほっするのみである。
こうねむくてはこいもできぬ。
のそのそとしょうきょうのふとんのすそへまわってここちこころよくねむる。
……
ふとめをひらいてみるとしゅじんはいつのまにかしょさいからしんしつへきてさいくんのとなりにのべてあるふとんのなかにいつのまにかもぐりこんでいる。
しゅじんのくせとしてねるときはかならずよこもじのこもとをしょさいからたずさえてくる。
しかしよこになってこのほんをにぺーじとつづけてよんだことはない。
あるときはもってきてまくらもとへおいたなり、まるでてをふれぬことさえある。
いっこうもよまぬくらいならわざわざさげてくるひつようもなさそうなものだが、そこがしゅじんのしゅじんたるところでいくらさいくんがわらっても、よせとゆっても、けっしてしょうちしない。
まいよよまないほんをごくろうせんまんにもしんしつまではこんでくる。
あるときはよくはってさんよんさつもかかえてくる。
せんだってじゅうはまいばんうぇぶすたーのだいじてんさえかかえてきたくらいである。
おもうにこれはしゅじんのびょうきでぜいたくなひとがたつふみどうになるまつかぜのおとをきかないとねつかれないごとく、しゅじんもしょもつをまくらもとにおかないとねむれないのであろう、してみるとしゅじんにとってはしょもつはよむものではないねむりをさそうきかいである。
かっぱんのすいみんざいである。
こんやもなにかあるだろうとのぞいてみると、あかいうすいほんがしゅじんのくちひげのさきにつかえるくらいなちいにはんぶんひらかれてころがっている。
しゅじんのひだりのてのぼしがほんのまにはさまったままであるところからおすときとくにもこんやはごろくこうよんだものらしい。
あかいほんとならんでれいのごとくにっけるのたもととけいがはるににあわぬさむきいろをはなっている。
さいくんはちちのみじをいちしゃくばかりさきへほうりだしてくちをひらいていびきをかいてまくらをはずしている。
およそにんげんにおいてなにがみぐるしいとゆってくちをあけてねるほどのふていさいはあるまいとおもう。
ねこなどはしょうがいこんなはじをかいたことがない。
がんらいぐちはおとをだすためはなはくうきを吐呑するためのどうぐである。
もっともきたのかたへいくとにんげんがぶしょうになってなるべくくちをあくまいとけんやくをするけっかはなでげんごをつかうようなずーずーもあるが、はなをへいそくしてくちばかりでこきゅうのようをべんじているのはずーずーよりもみともないとおもう。
だいいちてんじょうからねずみのくそでもおちたとききけんである。
しょうきょうのほうはとみるとこれもおやにおとらぬていたらくでねそべっている。
あねのとんこは、あねのけんりはこんなものだといわぬばかりにうんとみぎのてをのばしていもうとのみみのうえへのせている。
いもうとのすんこはそのふくしゅうにあねのはらのうえにかたあしをあげて踏そりかえっている。
そうほうどもねたときのしせいよりきゅうじゅうどはたしかにかいてんしている。
しかもこのふしぜんなるしせいをいじしつつりょうにんともふへいもいわずおとなしくじゅくすいしている。
さすがにはるのともしびはかくべつである。
てんしんらんまんながらぶふうりゅうきわまるこのこうけいのうらにりょうやをおしめとばかりゆかしげにてるやいてみえる。
もうなんじだろうとしつのなかをみまわすとしりんはしんとしてただきこえるものははしらどけいとさいくんのいびきとえんぽうでげじょのはぎしりをするおとのみである。
このげじょはひとからはぎしりをするといわれるといつでもこれをひていするおんなである。
わたしはうまれてからきょうにいたるまではぎしりをしたさとしはございませんとごうじょうをはってけっしてなおしましょうともごきのどくでございますともいわず、ただそんなさとしはございませんとしゅちょうする。
なるほどねていてするげいだからさとしはないに違ない。
しかしじじつはさとしがなくてもそんざいすることがあるからこまる。
よのなかにはわるいことをしておりながら、じぶんはどこまでもぜんにんだとかんがえているものがある。
これはじぶんがつみがないとじしんしているのだからむじゃきでけっこうではあるが、ひとのこまるじじつはいかにむじゃきでもめっきゃくするわけにはいかぬ。
こういうしんししゅくじょはこのげじょのけいとうにぞくするのだとおもう。
――よるはだいぶふけたようだ。
だいどころのあまどにとんとんとにかえばかりかるくあたったものがある。
はてないまごろじんのくるはずがない。
おおかたれいのねずみだろう、ねずみならとらんことにきわめているからかってにあばれるがよろしい。
――またとんとんとあたる。
どうもねずみらしくない。
ねずみとしてもたいへんようじんぶかいねずみである。
しゅじんのうちのねずみは、しゅじんのでるがっこうのせいとのごとくひなかでもよなかでもらんぼうろうぜきのねりおさむによねんなく、びんぜんなるしゅじんのゆめをおどろきやぶするのをてんしょくのごとくこころえているれんちゅうだから、かくのごとくえんりょするわけがない。
いまのはたしかにねずみではない。
せんだってなどはしゅじんのしんしつにまでちんにゅうしてたかからぬしゅじんのはなのあたまを囓んでがいかをそうしてひきあげたくらいのねずみにしてはあまりおくびょうすぎる。
けっしてねずみではない。
こんどはぎーとあまどをしたからうえへもちあげるおとがする、どうじにこししょうじをできるだけゆるやかに、みぞにそうてすべらせる。
いよいよねずみではない。
にんげんだ。
このしんやににんげんがあんないもこわずとしめをそとずしてごこうらいになるとすれば迷亭せんせいやすずきくんではないにごくっている。
ごこうみょうだけはかねてうけたまわわっているどろぼうかげしではないかしらん。
いよいよかげしとすればはやくそんがんをはいしたいものだ。
かげしはいまやかってのうえにおおいなるどろあしをあげてにそくばかりすすんだもようである。
さんそくめとおもうころあげいたにけいてか、がたりとよるにひびくようなおとをたてた。
わがはいのせなかのけがくつはけでぎゃくにこすすられたようなこころもちがする。
しばらくはあしおともしない。
さいくんをみるといまだくちをあいてたいへいのくうきをむちゅうに吐呑している。
しゅじんはあかいほんにぼしをはさまれたゆめでもみているのだろう。
やがてだいどころでまちをこするおとがきこえる。
かげしでもわがはいほどやいんにめはきかぬとみえる。
かってがわるくてさだめしふつごうだろう。
このときわがはいはそんきょまりながらかんがえた。
かげしはかってからちゃのまのほうめんへむけてしゅつげんするのであろうか、またはひだりへおれげんかんをつうかしてしょさいへとぬけるであろうか。
――あしおとはふすまのおととともに椽側へでた。
かげしはいよいよしょさいへはいいった。
それぎりおんもさたもない。
わがはいはこのかんにはやくしゅじんふうふをおこしてやりたいものだとようやくきがついたが、さてどうしたらおきるやら、いっこうようりょうをえんこうのみがあたまのなかにすいしゃのぜいでかいてんするのみで、なんらのふんべつもでない。
ふとんのすそを啣えてふってみたらとおもって、にさんどやってみたがすこしもこうようがない。
つめたいはなをほおになすりつけたらとおもって、しゅじんのかおのさきへもっていったら、しゅじんはねむったまま、てをうんとのばして、わがはいのはなづらをいなやというほどつきとばした。
はなはねこにとってもきゅうしょである。
いたむことおびただしい。
此度はしかたがないからにゃーにゃーとにかえばかりないておこそうとしたが、どういうものかこのときばかりはいんこうにものが痞えておもうようなこえがでない。
やっとのおもいでしぶりながらひくいやっこをしょうしょうだすとおどろいた。
かんじんのしゅじんはさめるけしきもないのにとつぜんかげしのあしおとがしだした。
みちりみちりと椽側をつたってちかづいてくる。
いよいよきたな、こうなってはもうだめだとたいらめて、ふすまとやなぎごうりのまにしばしのまみをしのばせてどうせいを窺がう。
かげしのあしおとはしんしつのしょうじのまえへきてぴたりと已む。
わがはいはいきをこらして、このつぎはなにをするだろうといっしょうけんめいになる。
あとでかんがえたがねずみをとるときは、こんなきぶんになればわけはないのだ、たましいがりょうほうのめからとびだしそうなぜいである。
かげしのおかげでにどとないさとるをひらいたのはじつにありがたい。
たちまちしょうじの桟のみっつめがあめにぬれたようにまんなかだけいろがかわる。
それをとおしてうすべになものがだんだんこくうつったとおもうと、かみはいつかやぶれて、あかいしたがぺろりとみえた。
したはしばしのまにくらいなかにきえる。
いれかわってなんだかおそれしくひかるものがひとつ、やぶれたあなのむこうがわにあらわれる。
うたがいもなくかげしのめである。
みょうなことにはそのめが、へやのなかにあるなにぶつをもみないで、ただやなぎごうりののちにかくれていたわがはいのみをみつめているようにかんぜられた。
いちふんにもたらぬまではあったが、こうにらまれてはじゅみょうがちぢまるとおもったくらいである。
もうがまんできんからこうりのかげからとびでそうとけっしんしたとき、しんしつのしょうじがすーとあいてまちかねたかげしがついにがんぜんにあらわれた。
わがはいはじょじゅつのじゅんじょとして、ふじのちんきゃくなるどろぼうかげしそのひとをこのさいしょくんにごしょうかいするのえいよをゆうするわけであるが、そのまえちょっとひけんをかいちんしてごこうおもんばかをわずらわしたいことがある。
こだいのかみはぜんちぜんのうとあがめられている。
ことにやそきょうのかみはにじゅうせいきのきょうまでもこのぜんちぜんのうのめんをこうむっている。
しかしぞくじんのこううるぜんちぜんのうは、ときによるとむさとしむのうともかいしゃくができる。
こういうのはめいかにぱらどっくすである。
しかるにこのぱらどっくすをどうはしたものはてんちかいびゃくいらいわがはいのみであろうとかんがえると、じぶんながらまんさらなねこでもないというきょえいしんもでるから、ぜひどもここにそのりゆうをもうしあげて、ねこもばかにできないということを、こうまんなるにんげんしょくんののうりにたたきこみたいとかんがえる。
てんちばんゆうはかみがつくったそうな、してみればにんげんもかみのごせいさくであろう。
げんにせいしょとかいうものにはそのとおりとめいきしてあるそうだ。
さてこのにんげんについて、にんげんじしんがすうせんねんらいのかんさつをつんで、だいにげんみょうふしぎがるとどうじに、ますますかみのぜんちぜんのうをしょうにんするようにかたむいたじじつがある。
それはそとでもない、にんげんもかようにうじゃうじゃいるがおなじかおをしているものはせかいじゅうにいちにんもいない。
かおのどうぐはむろんごくっている、だいさもたいがいはにたりよったりである。
かんげんすればかれらはみなおなじざいりょうからつくりあげられている、おなじざいりょうでできているにもせきらずいちにんもおなじけっかにできのぼっておらん。
よくまああれだけのかんたんなざいりょうでかくまでいようなかおをおもいついたものだとおもうと、せいぞうかのぎりょうにかんぷくせざるをえない。
よほどどくそうてきなそうぞうりょくがないとこんなへんかはできんのである。
いちだいのがこうがせいりょくをしょうもうしてへんかをもとめたかおでもじゅうにさんしゅいがいにでることができんのをもっておせば、にんげんのせいぞうをいってで受おったかみのてぎわはかくべつなものだときょうたんせざるをえない。
とうていにんげんしゃかいにおいてもくげきしえざるそこのぎりょうであるから、これをぜんのうてきぎりょうとゆってもさしつかえないだろう。
にんげんはこのてんにおいてだいにかみにおそれいっているようである、なるほどにんげんのかんさつてんからいえばもっともなおそれいりかたである。
しかしねこのたちばからいうとどういつのじじつがかえってかみのむのうりょくをしょうめいしているともかいしゃくができる。
もしぜんぜんむのうでなくともにんげんいじょうののうりょくはけっしてないものであるとだんていができるだろうとおもう。
かみがにんげんのかずだけそれだけおおくのかおをせいぞうしたというが、とうしょからきょうちゅうにせいさんがあってかほどのへんかをしめしたものか、またはねこもしゃくしもおなじかおにつくろうとおもってやりかけてみたが、とうていうまくいかなくてできるのもできるのもつくりそこねてこのらんざつなじょうたいにおちいったものか、わからんではないか。
かれらがんめんのこうぞうはかみのせいこうのきのねんとみらるるとどうじにしっぱいのあと迹ともはんぜらるるではないか。
ぜんのうともいえようが、むのうとひょうしたってさしつかえはない。
かれらにんげんのめはへいめんのうえにふたつならんでいるのでさゆうをいちじにみることができんからじぶつのはんめんだけしかしせんないにはいいらんのはきのどくなしだいである。
たちばをかえてみればこのくらいたんじゅんなじじつはかれらのしゃかいににちやかんだんなくおこりつつあるのだが、ほんにんぎゃくせあがって、かみにのまれているからさとりようがない。
せいさくのうえにへんかをあらわすのがこんなんであるならば、そのうえにてっとうてつびのかたぎ傚をしめすのもどうようにこんなんである。
らふぁえるにすんぶんちがわぬせいぼのぞうをにまいかけとちゅうもんするのは、ぜんぜんによらぬまどんなをそうふくみせろと逼るとおなじく、らふぁえるにとってはめいわくであろう、いなおなじものをにまいかくほうがかえってこんなんかもしれぬ。
こうぼうだいしにむかってきのうかいたとおりのひっぽうでくうかいとねがいますというほうがまるでしょたいをかえてとちゅうもんされるよりもくるしいかもわからん。
にんげんのよううるこくごはぜんぜんも傚しゅぎででんしゅうするものである。
かれらにんげんがははから、おんばから、たにんからじつようじょうのげんごをならうときには、ただきいたとおりをくりかえすよりほかにもうとうのやしんはないのである。
できるだけののうりょくでひとまねをするのである。
かようにひとまねからせいりつするこくごがじゅうねんにじゅうねんとたつうち、はつおんにしぜんとへんかをしょうじてくるのは、かれらにかんぜんなるも傚ののうりょくがないということをしょうめいしている。
じゅんすいのかたぎ傚はかくのごとくしなんなものである。
したがってかみがかれらにんげんをくべつのできぬよう、しっかいやきいんのごかめのごとくつくりえたならばますますかみのぜんのうをひょうめいしえるもので、どうじにきょうのごとくかってしだいなかおをてんじつに曝らさして、めまぐるしきまでにへんかをしょうぜしめたのはかえってそのむのうりょくをすいちしえるのぐともなりえるのである。
わがはいはなにのひつようがあってこんなぎろんをしたかわすれてしまった。
ほんをぼうきゃくするのはにんげんにさえありがちのことであるからねこにはとうぜんのことさとおおめにみてもらいたい。
とにかくわがはいはしんしつのしょうじをあけてしきいのうえにぬっとあらわれたどろぼうかげしをべっけんしたとき、いじょうのかんそうがしぜんときょうちゅうにわきででたのである。
なぜわいた?――なぜというしつもんがでれば、いまいちおうかんがえなおしてみなければならん。
――ええと、そのわけはこうである。
わがはいのがんぜんにゆうぜんとあらわれたかげしのかおをみるとそのかおが――へいじょうしんのせいさくについてそのできさかえをあるいはむのうのけっかではあるまいかとうたがっていたのに、それをいちじにうちけすにたるほどなとくちょうをゆうしていたからである。
とくちょうとはほかではない。
かれのびもくがわがしんあいなるこうだんしみずしまかんげつくんにうりふたつであるというじじつである。
わがはいはむろんどろぼうにおおくのちきはもたぬが、そのこういのらんぼうなところからへいじょうそうぞうしてわたしかにきょうちゅうにえがいていたかおはないでもない。
こばなのさゆうにてんかいした、いっせんどうかくらいのめをつけた、いがぐりあたまにきまっているとじぶんでかってにきわめたのであるが、みるとかんがえるとはてんちのそうい、そうぞうはけっして逞くするものではない。
このかげしはせのすらりとした、いろのあさぐろいいちのじまゆの、いきでりっぱなどろぼうである。
としはにじゅうろくななさいでもあろう、それすらかんげつくんのしゃせいである。
かみもこんなにたかおをにこせいぞうしえるてぎわがあるとすれば、けっしてむのうをもってもくするわけにはいかぬ。
いやじっさいのことをいうとかんげつくんじしんがきがへんになってしんやにとびだしてきたのではあるまいかと、はっとおもったくらいよくにている。
ただはなのしたにすすきくろくひげのめばえがうえつけてないのでさてはべつじんだときがついた。
かんげつくんはにがみばしったこうだんしで、かつどうこぎってと迷亭からしょうせられたる、かねだとみこじょうをゆうにきゅうしゅうするにたるほどなねんいれのせいさくぶつである。
しかしこのかげしもにんそうからかんさつするとそのふじんにたいするいんりょくじょうのさようにおいてけっしてかんげつくんにいちほもゆずらない。
もしかねだのれいじょうがかんげつくんのめづけやくちさきにまよったのなら、どうとうのねつどをもってこのどろぼうくんにもほれこまなくてはぎりがわるい。
ぎりはとにかく、ろんりにあわない。
ああいうさいきのある、なにでもはやわかりのするせいしつだからこのくらいのことはひとからきかんでもきっとわかるであろう。
してみるとかんげつくんのかわりにこのどろぼうをさしだしてもかならずまんしんのあいをささげてきんしつちょうわのみをあげらるるにそういない。
まんいちかんげつくんが迷亭などのせっぽうにうごかされて、このせんこのりょうえんがわれるとしても、このかげしがけんざいであるうちはだいじょうぶである。
わがはいはみらいのじけんのはってんをここまでよそうして、とみこじょうのために、やっとあんしんした。
このどろぼうくんがてんちのまにそんざいするのはとみこじょうのせいかつをこうふくならしむるいちだいようけんである。
かげしはこわきになにかかかえている。
みるとせんこくしゅじんがしょさいへほうりこんだこもうふである。
とうざんのはんてんに、ごなんどのはかたのおびをしりのうえにむすんで、なまっちろいはぎはひざからしもむきだしのままいまやかたあしをあげてたたみのうえへいれる。
せんこくからあかいほんにゆびをかまれたゆめをみていた、しゅじんはこのときねがえりをどうとうちながら「かんげつだ」とおおきなこえをだす。
かげしはもうふをおとして、だしたあしをきゅうにひきこます。
しょうじのかげにほそながいこうはぎがにほんたったままかすかにうごくのがみえる。
しゅじんはうーん、むにゃむにゃといいながられいのあかほんをつきとばして、くろいうでをひぜんやみのようにぼりぼりかく。
そのあとはしずまりかえって、まくらをはずしたなりねてしまう。
かんげつだとゆったのはまったくわがしらずのねごととみえる。
かげしはしばらく椽側にたったまましつないのどうせいをうかがっていたが、しゅじんふうふのじゅくすいしているのをみなしてまたかたあしをたたみのうえにいれる。
こんどはかんげつだというこえもきこえぬ。
やがてのこるかたあしもふみこむ。
いちほのはるとうでゆたかにてらされていたろくじょうのまは、かげしのかげにするどどくにふんせられてやなぎごうりのあたりからわがはいのあたまのうえをこえてかべのなかばがまっくろになる。
ふりむいてみるとかげしのかおのかげがちょうどかべのたかさのさんぶんのにのところにばくぜんとうごいている。
こうだんしもかげだけみると、やっつあたまのばけもののごとくまことにみょうなかっこうである。
かげしはさいくんのねがおをうえからのぞきこんでみたがなにのためかにやにやとわらった。
わらいかたまでがかんげつくんのもしゃであるにはわがはいもおどろいた。
さいくんのまくらもとにはよんすんかくのいちしゃくごろくすんばかりのくぎづけにしたはこがだいじそうにおいてある。
これはひぜんのくにはからつのじゅうにんたたらさんぺいくんがせんじつきせいしたときごみやげにもってきたやまのいもである。
やまのいもをまくらもとへかざってねるのはあまりれいのないはなしではあるがこのさいくんはにものにつかうさんぼんをようだんすへいれるくらいばしょのてきふてきというかんねんにとぼしいおんなであるから、さいくんにとれば、やまのいもはおろか、たくあんがしんしつにあってもへいきかもしれん。
しかしかみならぬかげしはそんなおんなとしろうはずがない。
かくまでていちょうにはだみにちかくおいてあるいじょうはたいせつなしなものであろうとかんていするのもむりはない。
かげしはちょっとやまのいものはこをあげてみたがそのおもさがかげしのよきとあわしておおいためかたがかかりそうなのですこぶるまんぞくのからだである。
いよいよやまのいもをぬすむなとおもったら、しかもこのこうだんしにしてやまのいもをぬすむなとおもったらきゅうにおかしくなった。
しかしめったにこえをたてるときけんであるからじっと怺えている。
やがてかげしはやまのいものはこをうやうやしくこもうふにくるみそめた。
なにかからげるものはないかとあたりをみまわす。
と、さいわいしゅじんがねるときにときすてたちりめんのへいいにしえたいがある。
かげしはやまのいものはこをこのおびでしっかりくくって、くもなくせなかへしょう。
あまりおんながすくていさいではない。
それからしょうきょうのちゃんちゃんをにまい、しゅじんのめりやすのももひきのなかへおしこむと、またのあたりがまるくふくれてあおだいしょうがかえるをのんだような――あるいはあおだいしょうのりんげつというほうがよくけいようしえるかもしれん。
とにかくへんなかっこうになった。
うそだとおもうならためしにやってみるがよろしい。
かげしはめりやすをぐるぐるくびったまきへまきつけた。
そのつぎはどうするかとおもうとしゅじんのつむぎのうわぎをだいふろしきのようにひろげてこれにさいくんのおびとしゅじんのはおりと繻絆とそのたあらゆるざつぶつをきれいにたたんでくるみこむ。
そのじゅくれんときようなやりくちにもちょっとかんしんした。
それからさいくんのおびあげとしごきとをぞくぎあわせてこのつつみをくくってかたてにさげる。
まだちょうだいするものはないかなと、あたりをみまわしていたが、しゅじんのあたまのさきに「あさひ」のふくろがあるのをみつけて、ちょっとたもとへなげこむ。
またそのふくろのなかからいちほんだしてらんぷにかざしてひをてんける。
むねまそうにふかくすってはきだしたけむりが、ちちしょくのほやをにょうってまだきえぬまに、かげしのあしおとは椽側をしだいにとおのいてきこえなくなった。
しゅじんふうふはいぜんとしてじゅくすいしている。
にんげんもぞんがいまが濶なものである。
わがはいはまたざんじのきゅうようをようする。
のべつにちょうしたっていてはしんたいがつづかない。
ぐっとねこんでめがさめたときはやよいのそらがほがらかにはれわたってかってぐちにしゅじんふうふがじゅんさとたいだんをしているときであった。
「それでは、ここからはいいってしんしつのほうへまわったんですな。
あなたかたはすいみんちゅうでいっこうきがつかなかったのですな」
「ええ」としゅじんはすこしきまりがわるそうである。
「それでとうなんにかかったのはなんじごろですか」とじゅんさはむりなことをきく。
じかんがわかるくらいならなににもぬすまれるひつようはないのである。
それにきがつかぬしゅじんふうふはしきりにこのしつもんにたいしてそうだんをしている。
「なんじごろかな」
「そうですね」とさいくんはかんがえる。
かんがえればわかるとおもっているらしい。
「あなたはゆうべなんじにごやすみになったんですか」
「おれのねたのはごぜんよりあとだ」
「ええわたししのふせったのは、あなたよりまえです」
「めがさめたのはなんじだったかな」
「ななじはんでしたろう」
「するととうぞくのはいいったのは、なんじごろになるかな」
「なんでもよるなかでしょう」
「やちゅうはわかりきっているが、なんじごろかというんだ」
「たしかなところはよくかんがえてみないとわかりませんわ」とさいくんはまだかんがえるつもりでいる。
じゅんさはただけいしきてきにきいたのであるから、いつはいいったところがいっこうつうようをかんじないのである。
うそでもなにでも、いいかげんなことをこたえてくれればむべいとおもっているのにしゅじんふうふがようりょうをえないもんどうをしているものだからしょうしょうじれたくなったとみえて
「それじゃとうなんのじこくはふめいなんですな」というと、しゅじんはれいのごときちょうしで
「まあ、そうですな」とこたえる。
じゅんさはわらいもせずに
「じゃあね、めいじさんじゅうはちねんなんつきなんにちとじまりをしてねたところがとうぞくが、どこそこのあまどをはずしてどこそこにしのびこんでしなものをなんてんぬすんでいったからみぎこくそ及候也というしょめんをおだしなさい。
とどけではないこくそです。
なあてはないほうがいい」
「しなものはいちいちかくんですか」
「ええはおりなんてんだいかいくらというかぜにひょうにしてだすんです。
――いやはいいってみたってしかたがない。
とられたあとなんだから」とへいきなことをゆってかえっていく。
しゅじんはひっけんをざしきのまんなかへもちだして、さいくんをまえによびつけて「これからとうなんこくそをかくから、とられたものをいちいちいえ。
さあいえ」とあたかもけんかでもするようなくちょうでいう。
「あらいやだ、さあいえだなんて、そんなけんぺいずくでだれがいうもんですか」とほそたいをまきつけたままどっかとこしをすえる。
「そのかぜはなんだ、しゅくばじょろうのできそんいみたようだ。
なぜおびをしめてでてくん」
「これであくるければかってください。
しゅくばじょろうでもなにでもとられりゃしかたがないじゃありませんか」
「おびまでとっていったのか、苛いやつだ。
それじゃおびからかきつけてやろう。
おびはどんなおびだ」
「どんなおびって、そんなになんほんもあるもんですか、くろしゅすとちりめんのはらあわせのおびです」
「くろしゅすとちりめんのはらあわせのおびひとすじ――あたいはいくらくらいだ」
「ろくえんくらいでしょう」
「なまいきにたかいおびをしめてるな。
こんどからいちえんごじゅうせんくらいのにしておけ」
「そんなおびがあるものですか。
それだからあなたはふにんじょうだというんです。
にょうぼうなんどは、どんなきたなないかぜをしていても、じぶんさいむべけりゃ、かまわないんでしょう」
「まあいいや、それからなにだ」
「いとおりのはおりです、あれはこうののおばさんのかたちみにもらったんで、おなじいとおりでもいまのいとおりとは、たちがちがいます」
「そんなこうしゃくはきかんでもいい。
ねだんはいくらだ」
「じゅうごえん」
「じゅうごえんのはおりをきるなんてみぶんふそうとうだ」
「いいじゃありませんか、あなたにかっていただきゃあしまいし」
「そのつぎはなにだ」
「くろたびがいっそく」
「ごぜんのか」
「あなたんでさあね。
だいかがにじゅうななせん」
「それから?」
「やまのいもがいちはこ」
「やまのいもまでもっていったのか。
にてくうつもりか、とろろじるにするつもりか」
「どうするつもりかしりません。
どろぼうのところへいってきいていらっしゃい」
「いくらするか」
「やまのいものねだんまではしりません」
「そんならじゅうにえんごじゅうせんくらいにしておこう」
「ばかばかしいじゃありませんか、いくらからつからほってきたってやまのいもがじゅうにえんごじゅうせんしてたまるもんですか」
「しかしごぜんはしらんというじゃないか」
「しりませんわ、しりませんがじゅうにえんごじゅうせんなんてほうがいですもの」
「しらんけれどもじゅうにえんごじゅうせんはほうがいだとはなにだ。
まるでろんりにあわん。
それだからきさまはおたんちん・ぱれおろがすだというんだ」
「なんですって」
「おたんちん・ぱれおろがすだよ」
「なんですそのおたんちん・ぱれおろがすっていうのは」
「なにでもいい。
それからあとは――おれのきものはいっこうでてくんじゃないか」
「あとはなにでもむべうござんす。
おたんちん・ぱれおろがすのいみをきかしてちょうだい」
「いみもなににもあるもんか」
「おしえてくだすってもいいじゃありませんか、あなたはよっぽどわたしをばかにしていらっしゃるのね。
きっとひとがえいごをしらないとおもってわるぐちをおっしゃったんだよ」
「ぐなことをいわんで、はやくあとをいうがよい。
はやくこくそをせんとしなものがかえらんぞ」
「どうせいまからこくそをしたってまにあいやしません。
それよりか、おたんちん・ぱれおろがすをおしえてちょうだい」
「うるさいおんなだな、いみもなににもないというに」
「そんなら、しなもののほうもあとはありません」
「がんぐだな。
それではかってにするがいい。
おれはもうとうなんこくそをかいてやらんから」
「わたしもしなかずをおしえてあげません。
こくそはあなたがごじぶんでなさるんですから、わたしはかいていただかないでもこまりません」
「それじゃはいそう」としゅじんはれいのごとくふいとたってしょさいへはいいる。
さいくんはちゃのまへひきさがってはりばこのまえへすわる。
りょうにんどもじゅうふんかんばかりはなににもせずにだまってしょうじをねめつけている。
ところへいせいよくげんかんをあけて、やまのいものきぞうしゃたたらさんぺいくんがのぼってくる。
たたらさんぺいくんはもとこのいえのしょせいであったがいまではほうかだいがくをそつぎょうしてあるかいしゃのこうざんぶにやとわれている。
これもじつぎょうかのめむで、すずきとうじゅうろうくんのこうしんせいである。
さんぺいくんはいぜんのかんけいからときどききゅうせんせいのくさいおりをほうもんしてにちようなどにはいちにちあそんでかえるくらい、このかぞくとはえんりょのないあいだがらである。
「おくさん。
よかてんきでござります」とからつなまりかなにかでさいくんのまえにずぼんのままたてひざをつく。
「おやたたらさん」
「せんせいはどこぞでなすったか」
「いいえしょさいにいます」
「おくさん、せんせいのごとべんきょうしなさるとどくですばい。
たまのにちようだもの、あなた」
「わたしにいってもだめだから、あなたがせんせいにそうおっしゃい」
「そればってんが……」といいかけたさんぺいくんはざしきちゅうをみまわわして「きょうはごじょうさんもみえんな」とはんぶんさいくんにきいているやいなやつぎのまからとんことすんこが馳けだしてくる。
「たたらさん、きょうはごすしをもってきて?」とあねのとんこはせんじつのやくそくをおぼえていて、さんぺいくんのかおをみるやいなやさいそくする。
たたらくんはあたまをかきながら
「ようおぼえているのう、このつぎはきっともってきます。
きょうはわすれた」とはくじょうする。
「いやーだ」とあねがいうといもうともすぐまねをして「いやーだ」とつける。
さいくんはようやくごきげんがなおってしょうしょうえがおになる。
「すしはもってくんが、やまのいもはあげたろう。
ごじょうさん喰べなさったか」
「やまのいもってなあに?」とあねがきくといもうとがこんどもまたまねをして「やまのいもってなあに?」とさんぺいくんにたずねる。
「まだくいなさらんか、はやくごははあさんににてごもらい。
からつのやまのいもはとうきょうのとはちがってうまかあ」とさんぺいくんがくにじまんをすると、さいくんはようやくきがついて
「たたらさんせんだってはごしんせつにたくさんありがとう」
「どうです、喰べてみなすったか、おれんようにはこをあつらえらえてかたくつめてきたから、ながいままでありましたろう」
「ところがせっかくしたすったやまのいもをゆうべどろぼうにとられてしまって」
「ぬすとうが?ばかなやっこですなあ。
そげんやまのいものすきなおとこがおりますか?」とさんぺいくんだいにかんしんしている。
「ごははあさま、ゆうべどろぼうがはいいったの?」とあねがたずねる。
「ええ」とさいくんはかるくこたえる。
「どろぼうがはいいって――そうして――どろぼうがはいいって――どんなかおをしてはいいったの?」とこんどはいもうとがきく。
このきもんにはさいくんもなんとこたえてよいかわからんので
「こわいかおをしてはいいりました」とへんじをしてたたらくんのほうをみる。
「こわいかおってたたらさんみたようなかおなの」とあねがきのどくそうにもなく、おしかえしてきく。
「なにですね。
そんなしつれいなことを」
「ははははわたしのかおはそんなにこわいですか。
こまったな」とあたまをかく。
たたらくんのあたまのこうぶにはちょっけいいちすんばかりのかぶろがある。
いちかげつまえからできだしていしゃにみてもらったが、まだよういに癒りそうもない。
このかぶろをだいいちばんにみつけたのはあねのとんこである。
「あらたたらさんのあたまはごははさまのようにひかりかってよ」
「だまっていらっしゃいというのに」
「ごははあさまゆうべのどろぼうのあたまもひかりかってて」とこれはいもうとのしつもんである。
さいくんとたたらくんとはおもわずふきだしたが、あまりわずらわしくてはなしもなにもできぬので「さあさあごぜんさんたちはすこしごにわへでておあそびなさい。
いまにごははあさまがよいごかしをあげるから」とさいくんはようやくこどもをおいやって
「たたらさんのあたまはどうしたの」とまじめにきいてみる。
「むしがくいました。
なかなか癒りません。
おくさんもあんなさるか」
「やだわ、むしがくうなんて、そりゃまげでつるところはおんなだからすこしははげますさ」
「かぶろはみんなばくてりやですばい」
「わたしのはばくてりやじゃありません」
「そりゃおくさんいじっぱりたい」
「なにでもばくてりやじゃありません。
しかしえいごでかぶろのことをなんとかいうでしょう」
「かぶろはぼーるどとかいいます」
「いいえ、それじゃないの、もっとながいながあるでしょう」
「せんせいにきいたら、すぐわかりましょう」
「せんせいはどうしてもおしえてくださらないから、あなたにきくんです」
「わたしはぼーるどよりしりませんが。
ながかって、どげんですか」
「おたんちん・ぱれおろがすというんです。
おたんちんというのがかぶろというじで、ぱれおろがすがあたまなんでしょう」
「そうかもしれませんたい。
いまにせんせいのしょさいへいってうぇぶすたーをひいてしらべてあげましょう。
しかしせんせいもよほどかわっていなさいますな。
このてんきのよいのに、うちにじっとして――おくさん、あれじゃいびょうは癒りませんな。
ちとうえのへでもはなみにでかけなさるごとすすめなさい」
「あなたがつれだしてください。
せんせいはおんなのいうことはけっしてきかないひとですから」
「このころでもじゃむをなめなさるか」
「ええあいかわらずです」
「せんだって、せんせいこぼしていなさいました。
どうもつまがおれのじゃむのなめかたがはげしいとゆってこまるが、おれはそんなになめるつもりはない。
なにかかんじょうちがいだろうといいなさるから、そりゃごじょうさんやおくさんがいっしょになめなさるに違ない――」
「いやなたたらさんだ、なにだってそんなことをいうんです」
「しかしおくさんだってなめそうなかおをしていなさるばい」
「かおでそんなことがどうしてわかります」
「わからんばってんが――それじゃおくさんすこしもなめなさらんか」
「そりゃすこしはなめますさ。
なめたってすいじゃありませんか。
うちのものだもの」
「ははははそうだろうとおもった――しかしほんのこと、どろぼうはとんださいなんでしたな。
やまのいもばかりもってくだりたのですか」
「やまのいもばかりならこまりゃしませんが、ふだんぎをみんなとっていきました」
「さっそくこまりますか。
またしゃっきんをしなければならんですか。
このねこがいぬならよかったに――おしいことをしたなあ。
おくさんけんのだいかやつをぜひいちちょうかいなさい。
――ねこはだめですばい、めしをくうばかりで――ちっとはねずみでもとりますか」
「いちひきもとったことはありません。
ほんとうにおうちゃくなず々ずうずうしいねこですよ」
「いやそりゃ、どうもこうもならん。
そうそうすてなさい。
わたしがもらっていってにてくおうかしらん」
「あら、たたらさんはねこをたべるの」
「くいました。
ねこはうまうござります」
「ずいぶんごうけつね」
かとうなしょせいのうちにはねこをくうようなやばんじんがあるよしはかねてでんぶんしたが、わがはいがへいぜいけんこを辱うするたたらくんそのひともまたこのどうるいならんとはいまがいままでゆめにもしらなかった。
いわんやどうくんはすでにしょせいではない、そつぎょうのひはあさきにもかかわらずどうどうたるいちこのほうがくしで、むっついぶっさんかいしゃのやくいんであるのだからわがはいのきょうがくもまたいちととおりではない。
ひとをみたらどろぼうとおもえというかくげんはかんげつだいにせいのこういによってすでにしょうこだてられたが、ひとをみたらねこぐいとおもえとはわがはいもたたらくんのおかげによってはじめてかんとくしたしんりである。
よにすめばことをしる、ことをしるはうれしいがひにひにきけんがおおくて、ひにひにゆだんがならなくなる。
こうかつになるのもひれつになるのもひょうりにまいあわせのごしんふくをつけるのもみなごとをしるのけっかであって、ことをしるのはとしをとるのつみである。
ろうじんにろくなものがいないのはこのりだな、わがはいなどもあるいはいまのうちにたたらくんのなべのなかでたまねぎとともにじょうぶつするほうがとくさくかもしれんとかんがえてすみのほうにちいさくなっていると、さいぜんさいくんとけんかをしていったんしょさいへひきあげたしゅじんは、たたらくんのこえをききつけて、のそのそちゃのまへでてくる。
「せんせいどろぼうにあいなさったそうですな。
なんちゅぐなことです」とへきとういちばんにやりこめる。
「はいいるやつがぐなんだ」としゅじんはどこまでもけんじんをもってじにんしている。
「はいいるほうもぐだばってんが、とられたほうもあまりけんこくはなかごたる」
「なににもとられるもののないたたらさんのようなのがいちばんけんこいんでしょう」とさいくんが此度はりょうじんのかたをもつ。
「しかしいちばんぐなのはこのねこですばい。
ほんにまあ、どういうりょうけんじゃろう。
ねずみはとらずどろぼうがきてもしらんかおをしている。
――せんせいこのねこをわたしにくんなさらんか。
こうしておいたっちゃなにのやくにもたちませんばい」
「やってもよい。
なににするんだ」
「にて喰べます」
しゅじんはもうれつなるこのひとことをきいて、うふときみのわるいいじゃくせいのえみをもらしたが、べつだんのへんじもしないので、たたらくんもぜひくいたいともいわなかったのはわがはいにとってぼうがいのこうふくである。
しゅじんはやがてわとうをてんじて、
「ねこはどうでもよいが、きものをとられたのでさむくていかん」とだいにしょうちんのからだである。
なるほどさむいはずである。
きのうまではめんいりをにまいかさねていたのにきょうはあわせにはんそでのしゃつだけで、あさからうんどうもせず枯坐したぎりであるから、ふじゅうぶんなけつえきはことごとくいのためにはたらいててあしのほうへはすこしもじゅんかいしてこない。
「せんせいきょうしなどをしておったちゃとうていあかんですばい。
ちょっとどろぼうにあっても、すぐこまる――いちちょういまからこうをかえてじつぎょうかにでもなんなさらんか」
「せんせいはじつぎょうかはいやだから、そんなことをいったってだめよ」
とさいくんがはたからたたらくんにへんじをする。
さいくんはむろんじつぎょうかになってもらいたいのである。
「せんせいがっこうをそつぎょうしてなんねんになんなさるか」
「ことしできゅうねんめでしょう」とさいくんはしゅじんをかえりみる。
しゅじんはそうだとも、そうでないともいわない。
「きゅうねんたってもげっきゅうはあがらず。
いくらべんきょうしてもひとはほめちゃくれず、ろうくんどくせきばくですたい」とちゅうがくじだいでおぼえたしのくをさいくんのためにろうぎんすると、さいくんはちょっとわかりかねたものだからへんじをしない。
「きょうしはむろんいやだが、じつぎょうかはなおきらいだ」としゅじんはなにがすきだかこころのうらでかんがえているらしい。
「せんせいはなにでもいやなんだから……」
「いやでないのはおくさんだけですか」とたたらくんがらににあわぬじょうだんをいう。
「いちばんいやだ」しゅじんのへんじはもっともかんめいである。
さいくんはよこをむいてちょっとすましたがふたたびしゅじんのほうをみて、
「いきていらっしゃるのもごいやなんでしょう」とじゅうぶんしゅじんをへこましたつもりでいう。
「あまりよいてはおらん」とぞんがいのんきなへんじをする。
これではてのつけようがない。
「せんせいちっとかっぱつにさんぽでもしなさらんと、からだをこわしてしまいますばい。
――そうしてじつぎょうかになんなさい。
きんなんかもうけるのは、ほんにぞうさくもないことでござります」
「すこしももうけもせんくせに」
「まだあなた、きょねんやっとかいしゃへはいいったばかりですもの。
それでもせんせいよりちょちくがあります」
「どのくらいちょちくしたの?」とさいくんはねっしんにきく。
「もうごじゅうえんになります」
「いったいあなたのげっきゅうはどのくらいなの」これもさいくんのしつもんである。
「さんじゅうえんですたい。
そのうちをまいつきごえんあてかいしゃのほうであずかってつんでおいて、いざというときにやります。
――おくさんこづかいぜにでそとぼりせんのかぶをすこしかいなさらんか、いまからさんよんかげつするとばいになります。
ほんにすこしきんさえあれば、すぐにばいにでもさんばいにでもなります」
「そんなごきんがあればどろぼうにあったってこまりゃしないわ」
「それだからじつぎょうかにかぎるというんです。
せんせいもほうかでもやってかいしゃかぎんこうへでもでなされば、いまごろはつきにさんよんひゃくえんのしゅうにゅうはありますのに、おしいことでござんしたな。
――せんせいあのすずきとうじゅうろうというこうがくしをしってなさるか」
「うんきのうきた」
「そうでござんすか、せんだってあるえんかいであいましたときせんせいのごはなしをしたら、そうかきみはくさやくんのところのしょせいをしていたのか、ぼくもくさやくんとはむかししこいしかわのてらでいっしょにじすいをしておったことがある、こんどおこなったらよろしくいうてくれ、ぼくもそのうちたずねるからとゆっていました」
「ちかごろとうきょうへきたそうだな」
「ええいままできゅうしゅうのたんこうにおりましたが、こないだとうきょうつめになりました。
なかなかうまいです。
わたしなぞにでもほうゆうのようにはなします。
――せんせいあのおとこがいくらもらってるとおもいなさる」
「しらん」
「げっきゅうがにひゃくごじゅうえんでぼんくれにはいとうがつきますから、なにでもへいきんよんごひゃくえんになりますばい。
あげなおとこが、よかしことっておるのに、せんせいはりーだーせんもんでじゅうねんいちきつね裘じゃばかきておりますなあ」
「じっさいばかきているな」としゅじんのようなちょうぜんしゅぎのひとでもきんせんのかんねんはふつうのにんげんとことなるところはない。
いなこんきゅうするだけにひといちばいきんがほしいのかもしれない。
たたらくんはじゅうぶんじつぎょうかのりえきをふいちょうしてもういうことがなくなったものだから
「おくさん、せんせいのところへみずしまかんげつというひとがきますか」
「ええ、よくいらっしゃいます」
「どげんなじんぶつですか」
「たいへんがくもんのできるほうだそうです」
「こうだんしですか」
「ほほほほたたらさんくらいなものでしょう」
「そうですか、わたしくらいなものですか」とたたらくんまじめである。
「どうしてかんげつのなをしっているのかい」としゅじんがきく。
「せんだってあるるひとからたのまれました。
そんなことをきくだけのかちのあるじんぶつでしょうか」たたらくんはきかぬさきからすでにかんげついじょうにかまえている。
「きみよりよほどえらいおとこだ」
「そうでございますか、わたしよりえらいですか」とわらいもせずいかりもせぬ。
これがたたらくんのとくしょくである。
「ちかぢかはかせになりますか」
「こんろんぶんをかいてるそうだ」
「やっぱりばかですな。
はかせろんぶんをかくなんて、もうすこしはなせるじんぶつかとおもったら」
「あいかわらず、えらいけんしきですね」とさいくんがわらいながらいう。
「はかせになったら、だれとかのむすめをやるとかやらんとかいうていましたから、そんなばかがあろうか、むすめをもらうためにはかせになるなんて、そんなじんぶつにくれるよりぼくにくれるほうがよほどましだとゆってやりました」
「だれに」
「わたしにみずしまのことをきいてくれとたのんだおとこです」
「すずきじゃないか」
「いいえ、あのひとにゃ、まだそんなことはいいきりません。
むこうはおおとですから」
「たたらさんはかげべんけいね。
うちへなんぞきちゃたいへんいばってもすずきさんなどのまえへでるとちいさくなってるんでしょう」
「ええ。
そうせんと、あぶないです」
「たたら、さんぽをしようか」ととつぜんしゅじんがいう。
せんこくからあわせいちまいであまりさむいのですこしうんどうでもしたらあたたかになるだろうというこうからしゅじんはこのせんれいのないどうぎをていしゅつしたのである。
ゆきあたりばったりのたたらくんはむろんしゅんじゅんするわけがない。
「いきましょう。
うえのにしますか。
いもざかへいってだんごをくいましょうか。
せんせいあすこのだんごをくったことがありますか。
おくさんいちかえいってくってごらん。
やわらかくてやすいです。
さけものませます」とれいによってちつじょのないだべんをふるってるうちにしゅじんはもうぼうしをこうむってくつだっへおりる。
わがはいはまたしょうしょうきゅうようをようする。
しゅじんとたたらくんがうえのこうえんでどんなまねをして、いもざかでだんごをいくさらくったかそのあたりのいつじはたんていのひつようもなし、またびこうするゆうきもないからずっとりゃくしてそのかんきゅうようせんければならん。
きゅうようはばんぶつのみんてんからようきゅうしてしかるべきけんりである。
このよにせいそくすべきぎむをゆうしてしゅんどうするものは、せいそくのぎむをはたすためにきゅうようをえねばならぬ。
もしかみありてなんじははたらくためにうまれたりねるためにうまれたるにひずといわばわがはいはこれにこたえていわん、わがはいはおおせのごとくはたらくためにうまれたりゆえにはたらくためにきゅうようをこうと。
しゅじんのごとくきかいにふへいをふきこんだまでのぼっきょうかんですら、ときどきはにちよういがいにじべんきゅうようをやるではないか。
たかんたこんにしてにちやしんしんをろうするわがはいごときものはたとえねこといえどもしゅじんいじょうにきゅうようをようするはもちろんのことである。
ただせんこくたたらくんがわがはいをめしてきゅうよういがいになんらののうもないぜいぶつのごとくにののしったのはしょうしょうきがかりである。
とかくぶっしょうにのみしえきせらるるぞくじんは、ごかんのしげきいがいになんらのかつどうもないので、たをひょうかするのでもけいがいいがいにわたるらんのはやっかいである。
なにでもしりでもはしょって、あせでもださないと働らいていないようにかんがえている。
だるまというぼうさんはあしのくさるまでざぜんをしてすましていたというが、たとえかべのひまからつたがはいこんでだいしのめぐちをふさぐまでうごかないにしろ、ねているんでもしんでいるんでもない。
あたまのなかはつねにかつどうして、くるわしかむひじりなどとおつなりくつをかんがえこんでいる。
じゅかにもせいざのくふうというのがあるそうだ。
これだっていっしつのなかにへいきょしてあんかんといざりのしゅぎょうをするのではない。
のうちゅうのかつりょくはひといちばいおきにもえている。
ただがいけんじょうはしごくちんせいたん粛のたいであるから、てんかのぼんがんはこれらのちしききょしょうをもってこんすいかしのいさおじんとみ做してむようのちょうぶつとかごくつぶしとかはいらざるひぼうのこえをたてるのである。
これらのぼんがんはみながたをみてこころをみざるふぐなるしかくをゆうしてうまれついたもので、――しかもかれのたたらさんぺいくんのごときはかたちをみてこころをみざるだいいちりゅうのじんぶつであるから、このさんぺいくんがわがはいをめしていぬい屎※どうとうにこころえるのももっともだが、うらむらくはすこしくここんのしょせきをよんで、ややじぶつのしんそうをかいしえたるしゅじんまでが、せんばくなるさんぺいくんにいちもにもなくどういして、ねこなべにこしょうをはさむけしきのないことである。
しかしいちほしりぞいてかんがえてみると、かくまでにかれらがわがはいをけいべつするのも、あながちむりではない。
おおごえはりじにはいらず、ようしゅんしろゆきのしにはわするものすくなしの喩もふるいむかしからあることだ。
けいたいいがいのかつどうをみるあたわざるものにむかっておのれれいのこうきをみよとつよゆるは、ぼうずにかみをゆえと逼るがごとく、まぐろにえんぜつをしてみろというがごとく、でんてつにだっせんをようきゅうするがごとく、しゅじんにじしょくをかんこくするごとく、さんぺいにきんのことをかんがえるなというがごときものである。
必竟むりなちゅうもんにすぎん。
しかしながらねこといえどもしゃかいてきどうぶつである。
しゃかいてきどうぶつであるいじょうはいかにたかくみずからしるべ置するとも、あるるていどまではしゃかいとちょうわしていかねばならん。
しゅじんやさいくんやないしごさん、さんぺいれんがわがはいをわがはいそうとうにひょうかしてくれんのはざんねんながらいたしかたがないとして、ふめいのけっかかわをはいでしゃみせんやにうりとばし、にくをきざんでたたらくんのぜんにうえすようなむふんべつをやられてはゆゆしきだいじである。
わがはいはあたまをもってかつどうすべきてんめいをうけてこのしゃばにしゅつげんしたほどのここんらいのねこであれば、ひじょうにだいじなしんたいである。
せんきんのこはどう陲にざせずとのことわざもあることなれば、このんでちょうまいをむねとして、とらにわれみのきけんをもとむるのはたんにじこのわざわいなるのみならず、またおおいにてんいにそむくわけである。
もうこもどうぶつえんにはいればくそぶたのとなりにきょをしめ、おおとりかりもとりやになまとりこらるればひなにわとりとまないたをおなじゅうす。
いさおじんとそうごするいじょうはくだっていさおねことかせざるべからず。
いさおねこたらんとすればねずみをとらざるべからず。
――わがはいはとうとうねずみをとることにきわめた。
せんだってじゅうからにっぽんはろしあとだいせんそうをしているそうだ。
わがはいはにっぽんのねこだからむろんにっぽん贔負である。
できえべくんばこんせいねこりょだんをそしきしてろしあへいをひっかいてやりたいとおもうくらいである。
かくまでにげんきおうせいなわがはいのことであるからねずみのいっぴきやに疋はとろうとするいしさえあれば、ねていてもわけなくとれる。
むかししあるひととうじゆうめいなぜんじにむかって、どうしたらさとれましょうときいたら、ねこがねずみを覘うようにさしゃれとこたえたそうだ。
ねこがねずみをとるようにとは、かくさえすればそとずれっこはござらぬといういみである。
おんなさかしゅうしてということわざはあるがねこさかしゅうしてねずみとりそんうというかくげんはまだないはずだ。
してみればいかにけんこいわがはいのごときものでもねずみのとれんはずはあるまい。
とれんはずはあるまいどころかとりそんうはずはあるまい。
いままでとらんのは、とりたくないからのことさ。
はるのひはきのうのごとくくれて、おりおりのかぜにさそわるるはなふぶきがだいどころのこししょうじのやぶれからとびこんでておけのなかにうかぶかげが、うすぐらきかってようのらんぷのひかりにしろくみえる。
こんやこそおおてがらをして、うちじゅうおどろかしてやろうとけっしんしたわがはいは、あらかじめせんじょうをみまわってちけいをのみこんでおくひつようがある。
せんとうせんはもちろんあまりひろかろうはずがない。
たたみすうにしたらよんじょうしきもあろうか、そのいちじょうをしきってはんぶんはながし、はんぶんはさかややおやのごようをきくどまである。
へっついはびんぼうかってににあわぬりっぱなものであかのどうつぼがぴかぴかして、うしろははめいたのまをにしゃくのこしてわがはいのあわびかいのしょざいちである。
ちゃのまにちかきろくしゃくはぜんわんさらこばちをいれるとだなとなってせまきだいどころをいとどせまくしきって、よこにさしだすむきだしのたなとすれすれのたかさになっている。
そのしたにすりはちがあおむけにおかれて、すりはちのなかにはしょうおけのしりがわがはいのほうをむいている。
だいこんおろしし、すりおぎがならんでかけてあるかたわらにひけしつぼだけがしょうぜんとひかえている。
まっくろになったたるきのこうさしたまんなかからいちほんのじざいをおろして、さきへはひらたいおおきなかごをかける。
そのかごがときどきかぜにゆれておうようにうごいている。
このかごはなにのためにつるすのか、このいえへきたてにはいっこうようりょうをえなかったが、ねこのてのとどかぬためわざとしょくもつをここへいれるということをしってから、にんげんのいじのわるいことをしみじみかんじた。
これからさくせんけいかくだ。
どこでねずみとせんそうするかといえばむろんねずみのでるところでなければならぬ。
いかにこっちにべんぎなちけいだからとゆっていちにんでまちかまえていてはてんでせんそうにならん。
ここにおいてかねずみのでぐちをけんきゅうするひつようがしょうずる。
どのほうめんからくるかなとだいどころのまんなかにたってしほうをみまわわす。
なんだかとうごうたいしょうのようなこころもちがする。
げじょはさっきゆにいってもどってくん。
しょうきょうはとくにねている。
しゅじんはいもざかのだんごをくってかえってきてあいかわらずしょさいにひきこもっている。
さいくんは――さいくんはなにをしているかしらない。
おおかたいねむりをしてやまいものゆめでもみているのだろう。
ときどきもんぜんをじんりきがとおるが、とおりすぎたのちはいちだんとさびしい。
わがけっしんといい、わがいきといいだいどころのこうけいといい、しへんのせきばくといい、ぜんたいのかんじがことごとくひそうである。
どうしてもねこちゅうのとうごうたいしょうとしかおもわれない。
こういうきょうかいにはいるとものすごいうちにいっしゅのゆかいをおぼえるのはだれしもおなじことであるが、わがはいはこのゆかいのそこにいちだいしんぱいがよこわっているのをはっけんした。
ねずみとせんそうをするのはかくごのまえだからなに疋来てもきょうくはないが、でてくるほうめんがめいりょうでないのはふつごうである。
しゅうみつなるかんさつからえたざいりょうをそうごうしてみるとそぞくのいっしゅつするのにはみっつのこうろがある。
かれれらがもしどぶねずみであるならばどかんをそうてながしから、へっついのうらてへめぐるにそういない。
そのときはひけしつぼのかげにかくれて、かえりみちをたってやる。
あるいはみぞへゆをぬくしっくいのあなよりふろじょうをうかいしてかってへふいにとびだすかもしれない。
そうしたらかまのふたのうえにじんどってめのしたにきたときうえからとびおりていちつかみにする。
それからとまたあたりをみまわすととだなのとのみぎのしたすみがはんつきがたにくいやぶられて、かれらのしゅつにゅうにびんなるかのうたぐがある。
はなをつけてにおいでみるとしょうしょうねずみくさい。
もしここからとっかんしてでたら、はしらをたてにやりすごしておいて、よこごうからあっとつめをかける。
もしてんじょうからきたらとうえをあおぐとまっくろなすすがらんぷのひかりでてるやいて、じごくをうらがえしにつるしたごとくちょっとわがはいのてぎわではのぼることも、くだることもできん。
まさかあんなたかいところからおちてくることもなかろうからとこのほうめんだけはけいかいをとくことにする。
それにしてもさんぽうからこうげきされるけねんがある。
ひとくちならかためでもたいじしてみせる。
にくちならどうにか、こうにかやってのけるじしんがある。
しかしさんくちとなるといかにほんのうてきにねずみをとるべくよきせらるるわがはいもてのつけようがない。
さればとゆってくるまやのくろごときものをじょせいにたのんでくるのもわがはいのいげんにかんする。
どうしたらよかろう。
どうしたらよかろうとかんがえてよいちえがでないときは、そんなことはおこるきやはないときめるのがいちばんあんしんをえるちかみちである。
またほうのつかないものはおこらないとかんがえたくなるものである。
まずせけんをみわたしてみたまえ。
きのうもらったはなよめもきょうしなんともかぎらんではないか、しかしむこどのはたまつばきちよもやちよもなど、おめでたいことをならべてしんぱいらしいかおもせんではないか。
しんぱいせんのは、しんぱいするかちがないからではない。
いくらしんぱいしたってほうがつかんからである。
わがはいのばあいでもさんめんこうげきはかならずおこらぬとだんげんすべきそうとうのろんきょはないのであるが、おこらぬとするほうがあんしんをえるにべんりである。
あんしんはばんぶつにひつようである。
わがはいもあんしんをほっする。
よってさんめんこうげきはおこらぬときわめる。
それでもまだしんぱいがとれぬから、どういうものかとだんだんかんがえてみるとようやくわかった。
さんこのけいりゃくのうちいずれをえらんだのがもっともとくさくであるかのもんだいにたいして、みずからめいりょうなるとうべんをえるにくるしむからのはんもんである。
とだなからでるときにはわがはいこれにおうずるさくがある、ふろじょうからあらわれるときはこれにたいするけいがある、またながしからはいのぼるときはこれをむかいうるせいさんもあるが、そのうちどれかひとつにきわめねばならぬとなるとだいにとうわくする。
とうごうたいしょうはばるちっくかんたいがつしまかいきょうをとおるか、つがるかいきょうへでるか、あるいはとおくそうやかいきょうをめぐるかについてだいにしんぱいされたそうだが、いまわがはいがわがはいじしんのきょうぐうからそうぞうしてみて、ごこんきゃくのだんじつにごさっしもうす。
わがはいはぜんたいのじょうきょうにおいてとうごうかっかににているのみならず、このかくだんなるちいにおいてもまたとうごうかっかとよくくしんをおなじゅうするしゃである。
わがはいがかくむちゅうになってちぼうをめぐらしていると、とつぜんやぶれたこししょうじがひらいてごさんのかおがぬうとでる。
かおだけでるというのは、てあしがないというわけではない。
ほかのぶぶんはよめでよくみえんのに、かおだけがしるるしくつよいいろをしてはんぜんひとみそこにおつるからである。
ごさんはそのへいじょうよりあかきほおをますますあかくしてせんとうからかえったついでに、さくやにこりてか、はやくからかってのとしめをする。
しょさいでしゅじんがおれのすてっきをまくらもとへだしておけというこえがきこえる。
なにのためにちんとうにすてっきをかざるのかわがはいにはわからなかった。
まさかえきすいのそうしをきどって、りゅうなをきこうというすいきょうでもあるまい。
きのうはやまのいも、きょうはすてっき、あしたはなにになるだろう。
よるはまだあさいねずみはなかなかでそうにない。
わがはいはたいせんのまえにいちときゅうようをようする。
しゅじんのかってにはひきまどがない。
ざしきなららんまというようなところがはばいちしゃくほどきりぬかれてなつふゆふきとおしにひきまどのだいりをつとめている。
おしきもなくちるひがんざくらをさそうて、さっとふきこむかぜにおどろきろいてめをさますと、おぼろづきさえいつのまにさしてか、かまどのかげはななめにあげいたのうえにかかる。
ねすごしはせぬかとにさんどみみをふってかないのようすをうかがうと、しんとしてさくやのごとくはしらどけいのおとのみきこえる。
もうねずみのでるじぶんだ。
どこからでるだろう。
とだなのなかでことこととおとがしだす。
こざらのえんをあしでおさえて、なかをあらしているらしい。
ここからでるわいとあなのよこへすくんでまっている。
なかなかでてくるけしきはない。
さらのおとはやがてやんだがこんどはどんぶりかなにかにかかったらしい、おもいおとがときどきごとごととする。
しかもとをへだててすぐむこうがわでやっている、わがはいのはなづらときょりにしたらさんずんもはなれておらん。
ときどきはちょろちょろとあなのくちまであしおとがちかよるが、またとおのいていちひきもかおをだすものはない。
といちまいむこうにげんざいてきがぼうこうをたくましくしているのに、わがはいはじっとあなのでぐちでまっておらねばならんずいぶんきのながいはなしだ。
ねずみはりょじゅんわんのなかでもりにぶとうかいを催うしている。
せめてわがはいのはいいれるだけごさんがこのとをあけておけばよいのに、きのきかぬやまだしだ。
こんどはへっついのかげでわがはいのあわびかいがことりとなる。
てきはこのほうめんへもきたなと、そーっとしのびあしでちかよるとておけのまからしっぽがちらとみえたぎりながしのしたへかくれてしまった。
しばらくするとふろじょうでうがいちゃわんがかなだらいにかちりとあたる。
こんどはこうほうだとふりむくとたんに、ごすんちかくあるだいなやつがひらりとはみがきのふくろをおとして椽のしたへ馳けこむ。
にがすものかとつづいてとびおりたらもうかげもすがたもみえぬ。
ねずみをとるのはおもったよりむずかしいものである。
わがはいはせんてんてきねずみをとるのうりょくがないのかしらん。
わがはいがふろじょうへめぐると、てきはとだなから馳けだし、とだなをけいかいするとながしからとびのぼり、だいどころのまんなかにがんばっているとさんほうめんどもしょうしょうずつさわぎたてる。
こしゃくといおうか、ひきょうといおうかとうていかれらはくんしのてきでない。
わがはいはじゅうごろくかいはあちら、こちらときをつからししんをろうらしてほんそうどりょくしてみたがついにいちどもせいこうしない。
ざんねんではあるがかかるこどもをてきにしてはいかなるとうごうたいしょうも施こすべきさくがない。
はじめはゆうきもありてきがいしんもありひそうというすうこうなびかんさえあったがついにはめんどうとばかきているのとねむいのとつかれたのでだいどころのまんなかへすわったなりうごかないことになった。
しかしうごかんでもはっぽうにらみをきめこんでいればてきはこどもだからたいしたことはできんのである。
めざすてきとおもったやつが、ぞんがいけちなやろうだと、せんそうがめいよだというかんじがきえてわるくいというねんだけのこる。
わるくいというねんをとおりすごすとはりごうがぬけてぼーとする。
ぼーとしたあとはかってにしろ、どうせきのきいたことはできないのだからとけいべつのきょくねむたくなる。
わがはいはいじょうのけいろをたどって、ついにねむくなった。
わがはいはねむる。
きゅうようはてきちゅうにあってもひつようである。
よこむこうにひさしをむいてひらいたひきまどから、またはなふぶきをいちかたまりりなげこんで、はげしきかぜのわれを遶るとおもえば、とだなのくちからだんがんのごとくとびだしたものが、避くるまもあらばこそ、かぜをきってわがはいのひだりのみみへくいつく。
これにつづくくろいかげはうしろにめぐるかとおもうまもなくわがはいのしっぽへぶらさがる。
まばたくまのできごとである。
わがはいはなにのもくてきもなくきかいてきに跳のぼる。
まんしんのちからをけあなにこめてこのかいぶつをふりおとそうとする。
みみにくいさがったのはちゅうしんをうしなってだらりとわがよこがおにかかる。
ごむかんのごときやわらかきしっぽのさきがおもいかかなくわがはいのくちにはいいる。
屈竟のてがかりに、くだけよとばかりおを啣えながらさゆうにふると、おのみはまえばのまにのこってどうたいはこしんぶんではったかべにあたって、あげいたのうえにはねかえる。
おきあがるところをすきまなくのしかかれば、まりをけたるごとく、わがはいのはなづらをかすめてつりだんのえんにあしをちぢめてたつ。
かれはたなのうえからわがはいをみおろす、わがはいはいたのまからかれをみあぐる。
きょりはごしゃく。
そのなかにつきのひかりが、おおはばのおびをそらにはるごとくよこにさしこむ。
わがはいはまえあしにちからをこめて、やっとばかりたなのうえにとびあがろうとした。
まえあしだけはしゅびよくたなのえんにかかったがあとあしはちゅうにもがいている。
しっぽにはさいぜんのくろいものが、しぬともはなれるまじきぜいでくいくだっている。
わがはいはあやうい。
まえあしをかけやすえてあしかかりをふかくしようとする。
かけやすえるたびにしっぽのおもみであさくなる。
にさんふんすべればおちねばならぬ。
わがはいはいよいよあやうい。
たないたをつめでかきむしるおとががりがりときこえる。
これではならぬとひだりのまえあしをぬきやすえるひょうしに、つめをみごとにかけそんじたのでわがはいはみぎのつめいちほんでたなからぶらくだった。
じぶんとしっぽにくいつくもののおもみでわがはいのからだがぎりぎりとまわりわる。
このときまでみうごきもせずに覘いをつけていたたなのうえのかいぶつは、ここぞとわがはいのがくをめかけてたなのうえからいしをとうぐるがごとくとびおりる。
わがはいのつめはいちるのかかりをうしなう。
みっつのかたまりまりがひとつとなってつきのひかりをたてにきってしたへおちる。
つぎのだんにのせてあったすりはちと、すりはちのなかのしょうおけとじゃむのそらかんがおなじくいちかたまりとなって、したにあるひけしつぼをさそって、はんぶんはみずがめのなか、はんぶんはいたのまのうえへころがりだす。
すべてがしんやにただならぬものおとをたててしにものぐるいのわがはいのたましいをさえさむからしめた。
「どろぼう!」としゅじんはどうまごえをはりあげてしんしつからとびだしてくる。
みるとかたてにはらんぷをさげ、かたてにはすてっきをもって、ねぼけめよりはみぶんそうおうのけいけいたるひかりをはなっている。
わがはいはあわびかいのはたにおとなしくしてつくばいうずくまる。
に疋のかいぶつはとだなのなかへすがたをかくす。
しゅじんはてもちぶさたに「なんだだれだ、おおきなおとをさせたのは」とどきをおびてあいてもいないのにきいている。
つきがにしにかたむいたので、しろいひかりのいったいははんせつほどにほそくなった。
ろく
こうあつくてはねこといえどもやりきれない。
かわをぬいで、にくをぬいでほねだけですずみたいものだとえいよしとしのしどにー・すみすとかいうひとがくるしがったというはなしがあるが、たといほねだけにならなくともよいから、せめてこのあわはいいろのむらいりのけころもだけはちょっとあらいはりでもするか、もしくはとうぶんのなかしつにでもいれたいようなきがする。
にんげんからみたらねこなどはとしがねんじゅうおなじかおをして、しゅんかしゅうとういちまいかんばんでおしとおす、いたってたんじゅんなぶじなぜにのかからないしょうがいをおくっているようにおもわれるかもしれないが、いくらねこだってそうおうにあつささむさのかんじはある。
たまにはぎょうずいのいちどくらいあびたくないこともないが、なにしろこのけころものうえからゆをつかったひにはかわかすのがよういなことでないからあせくさいのをがまんしてこのとしになるまでせんとうののれんをもぐったことはない。
おりおりはうちわでもつかってみようというきもおこらんではないが、とにかくにぎることができないのだからしかたがない。
それをおもうとにんげんはぜいたくなものだ。
なまでくってしかるべきものをわざわざにてみたり、やいてみたり、すにつけてみたり、みそをつけてみたりこのんでよけいなてすうをかけておかたみにきょうえつしている。
きものだってそうだ。
ねこのようにいちねんじゅうおなじものをきとおせというのは、ふかんぜんにうまれついたかれらにとって、ちとむりかもしれんが、なにもあんなにざったなものをひふのうえへのせてくらさなくてものことだ。
ひつじのごやっかいになったり、かいこのごせわになったり、めんはたけのごなさけさえうけるにいたってはぜいたくはむのうのけっかだとだんげんしてもよいくらいだ。
いしょくはまずおおめにみてかんべんするとしたところで、せいぞんじょうちょくせつのりがいもないところまでこのちょうしでおしていくのはごうもがてんがいかぬ。
だいいちとうのけなどというものはしぜんにはえるものだから、はなっておくほうがもっともかんべんでとうにんのためになるだろうとおもうのに、かれらははいらぬさんだんをしてしゅじゅざったなかっこうをこしらえてとくいである。
ぼうずとかじしょうするものはいつみてもあたまをあおくしている。
あついとそのうえへひがさをかぶる。
さむいとずきんでつつむ。
これではなにのためにあおいものをだしているのかしゅいがたたんではないか。
そうかとおもうとくしとかしょうするむいみなのこさまのどうぐをもちいてあたまのけをさゆうにとうぶんしてうれしがってるのもある。
とうぶんにしないとななふんさんぶんのわりあいでずがいこつのうえへじんいてきのくかくをたてる。
なかにはこのしきりがつむじをとおりすごしてうしろまではみだしているのがある。
まるでがんぞうのばしょうはのようだ。
そのつぎにはのうてんをたいらにかってさゆうはまっすぐにきりおとす。
まるいあたまへしかくなわくをはめているから、うえきやをいれたすぎかきねのしゃせいとしかうけとれない。
このほかごふんかり、さんふんかり、いちふんかりさえあるというはなしだから、しまいにはあたまのうらまでかりこんでまいなすいちふんかり、まいなすさんふんかりなどというしんきなやつがりゅうこうするかもしれない。
とにかくそんなにうきみをやつしてどうするつもりかわからん。
だいいち、あしがよんほんあるのににほんしかつかわないというのからぜいたくだ。
よんほんであるけばそれだけはかもいくわけだのに、いつでもにほんですまして、のこるにほんはとうらいのぼうだらのようにてもちぶさたにぶらさげているのはばかばかしい。
これでみるとにんげんはよほどねこより閑なものでたいくつのあまりかようないたずらをこうあんしてらくんでいるものとさっせられる。
ただおかしいのはこのひまじんがよるとさわわるとたぼうだたぼうだとふれまわりわるのみならず、そのかおいろがいかにもたぼうらしい、わるくするとたぼうにくいころされはしまいかとおもわれるほどこせついている。
かれらのあるものはわがはいをみてときどきあんなになったらきらくでよかろうなどというが、きらくでよければなるがよい。
そんなにこせこせしてくれとだれもたのんだわけでもなかろう。
じぶんでかってなようじをてにおえぬほどせいぞうしてくるしいくるしいというのはじぶんでひをかんかんおこしてあついあついというようなものだ。
ねこだってあたまのかりかたをにじゅうとおりもかんがえだすひには、こうきらくにしてはおられんさ。
きらくになりたければわがはいのようになつでももうころもをきてとおされるだけのしゅうぎょうをするがよろしい。
――とはいうもののしょうしょうあつい。
けころもではまったくねつつすぎる。
これではいちてせんばいのひるねもできない。
なにかないかな、ながらくにんげんしゃかいのかんさつをおこたったから、きょうはひさしぶりでかれらがよいきょうにあくせくするようすをはいけんしようかとかんがえてみたが、あいにくしゅじんはこのてんにかんしてすこぶるねこにちかいしょうぶんである。
ひるねはわがはいにおとらぬくらいやるし、ことにしょちゅうきゅうかごになってからはなにひとつにんげんらしいしごとをせんので、いくらかんさつをしてもいっこうかんさつするちょうごうがない。
こんなときに迷亭でもくるといじゃくせいのひふもいくぶんかはんのうをていして、しばらくでもねこにとおざかるだろうに、せんせいもうきてもよいときだとおもっていると、だれともしらずふろじょうでざあざあすいをあびるものがある。
みずをあびるおとばかりではない、おりおりおおきなこえでそうのてをいれている。
「いやけっこう」「どうもよいこころもちだ」「もういちはい」などとかちゅうにひびきわたるようなこえをだす。
しゅじんのうちへきてこんなおおきなこえと、こんなぶさほうなまねをやるものはほかにはない。
迷亭にごくっている。
いよいよきたな、これできょうはんにちはつぶせるとおもっていると、せんせいあせをふいてかたをいれてれいのごとくざしきまでずかずかのぼってきて「おくさん、くさやくんはどうしました」とよばわりながらぼうしをたたみのうえへほうりだす。
さいくんはとなりざしきではりばこのがわへつっぷしてよいこころもちにねているさいちゅうにわんわんとなんだかこまくへこたえるほどのひびきがしたのではっとおどろきろいて、さめぬめをわざと※ってざしきへでてくると迷亭がさつまじょうふをきてかってなところへじんどってしきりにおうぎづかいをしている。
「おやいらしゃいまし」とゆったがしょうしょうろうばいのきみで「ちっともぞんじませんでした」とはなのあたまへあせをかいたままごじぎをする。
「いえ、いまきたばかりなんですよ。
こんふろじょうでごさんにみずをかけてもらってね。
ようやくいきかえったところで――どうもあついじゃありませんか」「このりょうさんにちは、ただじっとしておりましてもあせがでるくらいで、たいへんおあつうございます。
――でもごかわりもございませんで」とさいくんはいぜんとしてはなのあせをとらない。
「ええありがとう。
なにあついくらいでそんなにかわりゃしませんや。
しかしこのあつさはべつものですよ。
どうもからだがだるくってね」「わたししなども、ついにひるねなどをいたしたことがないんでございますが、こうあついとつい――」「やりますかね。
よいですよ。
ひるねられて、よるねられりゃ、こんなけっこうなことはないでさあ」とあいかわらずのんきなことをならべてみたがそれだけではふそくとみえて「わたしなんざ、ねたくない、しつでね。
くさやくんなどのようにくるたんびにねているひとをみるとともしいですよ。
もっともいじゃくにこのあつさはこたえるからね。
じょうぶなひとでもきょうなんかはくびをかたのうえにのせてるのがしさぎでさあ。
さればとゆってのってるいじょうはもぎとるわけにもいかずね」と迷亭くんいつになくくびのしょちにきゅうしている。
「おくさんなんざくびのうえへまだのっけておくものがあるんだから、すわっちゃいられないはずだ。
まげのおもみだけでもよこになりたくなりますよ」というとさいくんはいままでねていたのがまげのかっこうからろけんしたとおもって「ほほほぐちのわるい」といいながらあたまをいじってみる。
迷亭はそんなことにはとんじゃくなく「おくさん、きのうはね、やねのうえでたまごのふらいをしてみましたよ」とみょうなことをいう。
「ふらいをどうなさったんでございます」「やねのかわらがあまりみごとにやけていましたから、ただおくのももったいないとおもってね。
ばたをとかしてたまごをおとしたんでさあ」「あらまあ」「ところがやっぱりてんじつはおもうようにいきませんや。
なかなかはんじゅくにならないから、したへおりてしんぶんをよんでいるときゃくがきたもんだからついわすれてしまって、けさになってきゅうにおもいだして、もうだいじょうぶだろうとのぼってみたらね」「どうなっておりました」「はんじゅくどころか、すっかりながれてしまいました」「おやおや」とさいくんははちのじをよせながらかんたんした。
「しかしどようちゅうあんなにすずしくって、いまごろからあつくなるのはふしぎですね」「ほんとでございますよ。
せんだってじゅうはたんころもではさむいくらいでございましたのに、おとといからきゅうにあつくなりましてね」「かにならよこにはうところだがことしのきこうはあとびさりをするんですよ。
倒行してぎゃくほどこすまたかならずやというようなことをいっているかもしれない」「なんでござんす、それは」「いえ、なにでもないのです。
どうもこのきこうのぎゃくもどりをするところはまるではーきゅりすのうしですよ」とずにのっていよいよへんちきりんなことをいうと、おおせるかなさいくんはわからない。
しかしさいぜんの倒行してぎゃくほどこすでしょうしょうこりているから、こんどはただ「へえー」とゆったのみでといかえさなかった。
これをといかえされないと迷亭はせっかくもちだしたかいがない。
「おくさん、はーきゅりすのうしをごぞんじですか」「そんなうしはぞんじませんわ」「ごぞんじないですか、ちょっとこうしゃくをしましょうか」というとさいくんもそれにはおよびませんともいいかねたものだから「ええ」とゆった。
「むかししはーきゅりすがうしをひっぱってきたんです」「そのはーきゅりすというのはうしかいででもござんすか」「うしかいじゃありませんよ。
うしかいやいろはのていしゅじゃありません。
そのふしはまれ臘にまだぎゅうにくやがいちけんもないじぶんのことですからね」「あらまれ臘のおはなししなの?そんなら、そうおっしゃればいいのに」とさいくんはまれ臘というこくめいだけはこころえている。
「だってはーきゅりすじゃありませんか」「はーきゅりすならまれ臘なんですか」「ええはーきゅりすはまれ臘のえいゆうでさあ」「どうりで、しらないとおもいました。
それでそのおとこがどうしたんで――」「そのおとこがねおくさんみたようにねむくなってぐうぐうねている――」「あらいやだ」「ねているまに、ゔぁるかんのこがきましてね」「ゔぁるかんてなにです」「ゔぁるかんはたんややですよ。
このたんややのせがれがそのうしをぬすんだんでさあ。
ところがね。
うしのしっぽをもってぐいぐいひいていったもんだからはーきゅりすがめをさましてうしやーいうしやーいとたずねてあるいてもわからないんです。
わからないはずでさあ。
うしのあしあとをつけたってまえのほうへあるかしてつれていったんじゃありませんもの、うしろへうしろへとひきずっていったんですからね。
かじやのせがれにしてはだいできですよ」と迷亭せんせいはすでにてんきのはなしはわすれている。
「ときにごしゅじんはどうしました。
あいかわらずごすいですかね。
ごすいも支那じんのしにでてくるとふうりゅうだが、くさやくんのようににっかとしてやるのはしょうしょうぞくきがありますね。
なにのことあないまいにちすこしずつしんでみるようなものですぜ、おくさんごてすうだがちょっとおこしていらっしゃい」とさいそくするとさいくんはどうかんとみえて「ええ、ほんとにあれではこまります。
だいいちあなた、からだがわるるくなるばかりですから。
こんごはんをいただいたばかりだのに」とたちかけると迷亭せんせいは「おくさん、ごはんとうんやあ、ぼくはまだごはんをいただかないんですがね」とへいきなかおをしてききもせぬことをふいちょうする。
「おやまあ、じぶんどきだのにちっともきがつきませんで――それじゃなにもございませんがごちゃづけでも」「いえごちゃづけなんかちょうだいしなくってもよいですよ」「それでも、あなた、どうせごくちにあうようなものはございませんが」とさいくんしょうしょういやみをならべる。
迷亭はさとったもので「いえごちゃづけでもごゆづけでもごめんこうむるんです。
こんとちゅうでごちそうをあつらえらえてきましたから、そいつをひとつここでいただきますよ」ととうていしろうとにはできそうもないことをのべる。
さいくんはたったひとこと「まあ!」とゆったがそのまあのなかにはおどろきろいたまあと、きをわるるくしたまあと、てすうがはぶけてありがたいというまあががっぺいしている。
ところへしゅじんが、いつになくあまりやかましいので、ねつきかかったねむりをさかにしごかれたようなこころもちで、ふらふらとしょさいからでてくる。
「あいかわらずやかましいおとこだ。
せっかくよいこころもちにねようとしたところを」とあくび交りにぶっちょうづらをする。
「いやごめざめかね。
おおとりねむりをおどろかしまつってはなはだあいすまん。
しかしたまにはよかろう。
さあすわりたまえ」とどっちがきゃくだかわからぬあいさつをする。
しゅじんはむごんのままざについてよせぎざいくのまきたばこいりから「あさひ」をいちほんだしてすぱすぱすいはじめたが、ふとむかいのすみにころがっている迷亭のぼうしにめをつけて「きみぼうしをかったね」とゆった。
迷亭はすぐさま「どうだい」とじまんらしくしゅじんとさいくんのまえにさしだす。
「まあきれいだこと。
たいへんめがこまかくってやわらかいんですね」とさいくんはしきりになでめぐわす。
「おくさんこのぼうしはちょうほうですよ、どうでもいうことをききますからね」とげんこつをかためてぱなまのよこっはらをぽかりとはりつけると、なるほどいのごとくこぶしほどなあながあいた。
さいくんが「へえ」とおどろくまもなく、このたびはげんこつをうらがわへいれてうんと突っはるとかまのあたまがぽかりととがんがる。
つぎにはぼうしをとってつばとつばとをりょうがわからおしつぶしてみせる。
つぶれたぼうしはめんぼうでのばしたそばのようにひらたくなる。
それをかたわからむしろでもまくごとくぐるぐるたたむ。
「どうですこのとおり」とまるめたぼうしをかいちゅうへいれてみせる。
「ふしぎですことねえ」とさいくんはきてんときしょういちのてじなでもけんぶつしているようにかんたんすると、迷亭もそのきになったものとみえて、みぎからかいちゅうにおさめたぼうしをわざとひだりのそでぐちからひっぱりだして「どこにもきずはありません」ともとのごとくになおして、ひとさしゆびのさきへかまのそこをのせてくるくるとまわす。
もうやすめるかとおもったらさいごにぽんとうしろへほうげてそのうえへどうっさりとしりもちをついた。
「きみだいじょうぶかい」としゅじんさえけねんらしいかおをする。
さいくんはむろんのことしんぱいそうに「せっかくみごとなぼうしをもし壊わしでもしちゃあたいへんですから、もうよいかげんになすったらむべうござんしょう」とちゅういをする。
とくいなのはもちぬしだけで「ところが壊われないからみょうでしょう」と、くちゃくちゃになったのをしりのしたからとりだしてそのままあたまへのせると、ふしぎなことには、あたまのかっこうにたちまちかいふくする。
「じつにじょうぶなぼうしですことねえ、どうしたんでしょう」とさいくんがいよいよかんしんすると「なにどうもしたんじゃありません、もとからこういうぼうしなんです」と迷亭はぼうしをこうむったままさいくんにへんじをしている。
「あなたも、あんなぼうしをごがいになったら、いいでしょう」としばらくしてさいくんはしゅじんにすすめかけた。
「だってにがさやくんはりっぱなむぎわらのやっこをもってるじゃありませんか」「ところがあなた、せんだってしょうきょうがあれをふみつぶしてしまいまして」「おやおやそりゃおしいことをしましたね」「だからこんどはあなたのようなじょうぶできれいなのをかったらよかろうとおもいますんで」とさいくんはぱなまのあたいだんをしらないものだから「これになさいよ、ねえ、あなた」としきりにしゅじんにかんこくしている。
迷亭くんはこんどはみぎのたもとのなかからあかいけーすいりの鋏をとりだしてさいくんにみせる。
「おくさん、ぼうしはそのくらいにしてこの鋏をごらんなさい。
これがまたすこぶるちょうほうなやつで、これでじゅうよんとおりにつかえるんです」この鋏がでないとしゅじんはさいくんのためにぱなませめになるところであったが、こうにさいくんがおんなとしてもってうまれたこうきしんのために、このわざわいうんをめんかれたのは迷亭のきてんといわんよりむしろぎょうこうのしあわせだとわがはいはかんぱした。
「その鋏がどうしてじゅうよんとおりにつかえます」ときくやいなや迷亭くんはだいとくいなちょうしで「いまいち々せつめいしますからきいていらっしゃい。
いいですか。
ここにさんにちつきがたのかけめがありましょう、ここへはまきをいれてぷつりとぐちをきるんです。
それからこのねにちょとざいくがありましょう、これではりがねをぽつぽつやりますね。
つぎにはひらたくしてかみのうえへよこにおくとじょうぎのようをする。
またはのうらにはどもりがしてあるからものゆびのだいようもできる。
こちらのひょうにはやすりがついているこれでつめをすりまさあ。
ようがすか。
このさききをらせんびょうのあたまへさしこんでぎりぎりまわすとかなづちにもつかえる。
うんとつきこんでこじあけるとたいていのくぎづけのはこなんざあくもなくふたがとれる。
まった、こちらのはのさきはきりにできている。
ここんところはかきそんいのじをけずるばしょで、ばらばらにはなすと、ないふとなる。
いちばんしまいに――さあおくさん、このいちばんしまいがたいへんおもしろいんです、ここにはえのめだまくらいなおおきさのたまがありましょう、ちょっと、のぞいてごらんなさい」「いやですわまたきっとばかになさるんだから」「そうしんようがなくっちゃこまったね。
だが欺されたとおもって、ちょいとのぞいてごらんなさいな。
え?いやですか、ちょっとでいいから」と鋏をさいくんにわたす。
さいくんはさとしたばなげに鋏をとりあげて、れいのはえのめだまのところへじぶんのめだまをつけてしきりに覘をつけている。
「どうです」「なんだかまっくろですわ」「まっくろじゃいけませんね。
もすこししょうじのほうへむいて、そう鋏をねかさずに――そうそうそれならみえるでしょう」「おやまあしゃしんですねえ。
どうしてこんなちいさなしゃしんをはりつけたんでしょう」「そこがおもしろいところでさあ」とさいくんと迷亭はしきりにもんどうをしている。
さいぜんからだまっていたしゅじんはこのとききゅうにしゃしんがみたくなったものとみえて「おいおれにもちょっとらんせろ」というとさいくんは鋏をかおへおしつけたまま「じつにきれいですこと、らたいのびじんですね」とゆってなかなかはなさない。
「おいちょっとおみせというのに」「まあまっていらっしゃいよ。
びくしいかみですね。
こしまでありますよ。
すこしあおむいておそろしいせのたかいおんなだこと、しかしびじんですね」「おいおみせとゆったら、たいていにしてみせるがいい」としゅじんはだいにせきこんでさいくんにくってかかる。
「へえごまちとおさま、たんとごらんあそばせ」とさいくんが鋏をしゅじんにわたすときに、かってからごさんがごきゃくさまのごあつらえがまいりましたと、にこのざるそばをざしきへもってくる。
「おくさんこれがぼくのじべんのごちそうですよ。
ちょっとごめんこうむって、ここでぱくつくことにいたしますから」とていねいにごじぎをする。
まじめなようなふざけたようなどうさだからさいくんもおうたいにきゅうしたとみえて「さあどうぞ」とかるくへんじをしたぎりはいけんしている。
しゅじんはようやくしゃしんからめをはなして「きみこのあついのにそばはどくだぜ」とゆった。
「なあにだいじょうぶ、すきなものはめったにあたるもんじゃない」と蒸籠のふたをとる。
「うちたてはありがたいな。
そばののびたのと、にんげんのまがぬけたのはゆらいたのもしくないもんだよ」とやくみをつゆのなかへいれてむちゃくちゃにかきめぐわす。
「きみそんなにわさびをいれるとからしらいぜ」としゅじんはしんぱいそうにちゅういした。
「そばはつゆとわさびでくうもんだあね。
きみはそばがきらいなんだろう」「ぼくはうどんがすきだ」「うどんはまごがくうもんだ。
そばのあじをかいしないひとほどきのどくなことはない」といいながらすぎはしをむざとつきこんでできるだけおおくのぶんりょうをにすんばかりのたかさにしゃくいあげた。
「おくさんそばをくうにもいろいろりゅうぎがありますがね。
しょしんのものにかぎって、むあんにつゆをつけて、そうしてくちのうちでくちゃくちゃやっていますね。
あれじゃそばのあじはないですよ。
なにでも、こう、いちとしゃくいにひっかけてね」といいつつはしをあげると、ながいやつがせいぞろいをしていちしゃくばかりくうちゅうにつるしあげられる。
迷亭せんせいもうよかろうとおもってしたをみると、まだじゅうにさんほんのおが蒸籠のそこをはなれないですたれのうえにてんめんしている。
「こいつはながいな、どうですおくさん、このながさかげんは」とまたおくさんにそうのてをようきゅうする。
おくさんは「ながいものでございますね」とさもかんしんしたらしいへんじをする。
「このながいやっこへつゆをさんふんいちつけて、ひとくちにのんでしまうんだね。
かんじゃいけない。
かんじゃそばのあじがなくなる。
つるつるといんこうをすべりこむところがねうちだよ」とおもいきってはしをたかくあげるとそばはようやくのことでちをはなれた。
ひだりてにうけるちゃわんのなかへ、はしをすこしずつおとして、しっぽのさきからだんだんにひたすと、あーきみじすのりろんによって、そばのひたったぶんりょうだけつゆのかさがましてくる。
ところがちゃわんのなかにはもとからつゆがはちふんめはいいっているから、迷亭のはしにかかったそばのしはんぶんもひたらないさきにちゃわんはつゆでいちはいになってしまった。
迷亭のはしはちゃわんをさるごすんのうえにいたってぴたりととまったきりしばらくうごかない。
うごかないのもむりはない。
すこしでもおろせばつゆがあふれるばかりである。
迷亭もここにいたってすこし※躇のからだであったが、たちまちだっとのぜいをもって、くちをはしのほうへもっていったなとおもうまもなく、つるつるちゅうとおんがしてのんどのどぶえがいちにどじょうかへむりにうごいたらはしのさきのそばはきえてなくなっておった。
みると迷亭くんのりょうめからなみだのようなものがいちにてきめしりからほおへながれだした。
わさびがきいたものか、のみこむのにほねがおれたものかこれはいまだにはんぜんしない。
「かんしんだなあ。
よくそんなにいちどきにのみこめたものだ」としゅじんがけいふくすると「ごみごとですことねえ」とさいくんも迷亭のてぎわをげきしょうした。
迷亭はなににもいわないではしをおいてむねをにさんどたたいたが「おくさんざるはたいていさんくちはんかよんくちでくうんですね。
それよりてすうをかけちゃうまくくえませんよ」とはんけちでくちをふいてちょっとひといきいれている。
ところへかんげつくんが、どういうりょうけんかこのあついのにごくろうにもふゆぼうをこうむってりょうあしをほこりだらけにしてやってくる。
「いやこうだんしのごにゅうらいだが、くいかけたものだからちょっとしっけいしますよ」と迷亭くんはしゅうじんたまきざのうらにあっておくめんもなくのこった蒸籠をたいらげる。
こんどはせんこくのようにめざましいしょくかたもしなかったかわりに、はんけちをつかって、ちゅうとでいきをいれるというふていさいもなく、蒸籠ふたつをやす々とやってのけたのはけっこうだった。
「かんげつくんはかせろんぶんはもうだっこうするのかね」としゅじんがきくと迷亭もそのごから「かねだれいじょうがおまちかねだからそうそうていしゅつしたまえ」という。
かんげつくんはれいのごとくすすきぎみのわるいえみをもらして「つみですからなるべくはやくだしてあんしんさせてやりたいのですが、なにしろもんだいがもんだいで、よほどろうりょくのはいるけんきゅうをようするのですから」とほんきのさたともおもわれないことをほんきのさたらしくいう。
「そうさもんだいがもんだいだから、そうはなのいうとおりにもならないね。
もっともあのはなならじゅうぶんはないきをうかがうだけのかちはあるがね」と迷亭もかんげつりゅうなあいさつをする。
ひかくてきにまじめなのはしゅじんである。
「きみのろんぶんのもんだいはなんとかゆったっけな」「かえるのがんきゅうのでんどうさようにたいするむらさきがいこうせんのえいきょうというのです」「そりゃきだね。
さすがはかんげつせんせいだ、かえるのがんきゅうはふってるよ。
どうだろうにがさやくん、ろんぶんだっこうまえにそのもんだいだけでもかねだかへほうちしておいては」しゅじんは迷亭のいうことにはとりあわないで「きみそんなことがほねのおれるけんきゅうかね」とかんげつくんにきく。
「ええ、なかなかふくざつなもんだいです、だいいちかえるのがんきゅうのれんずのこうぞうがそんなたんかんなものでありませんからね。
それでいろいろじっけんもしなくちゃなりませんがまずまるいがらすのたまをこしらえてそれからやろうとおもっています」「がらすのたまなんかがらすやへいけばわけないじゃないか」「どうして――どうして」とかんげつせんせいしょうしょうそりみになる。
「がんらいえんとかちょくせんとかいうのはきかがくてきのもので、あのていぎにあったようなりそうてきなえんやちょくせんはげんじつせかいにはないもんです」「ないもんなら、はいしたらよかろう」と迷亭がくちをだす。
「それでまずじっけんじょうさしつかえないくらいなたまをつくってみようとおもいましてね。
せんだってからやりはじめたのです」「できたかい」としゅじんがわけのないようにきく。
「できるものですか」とかんげつくんがゆったが、これではしょうしょうむじゅんだときがついたとみえて「どうもむずかしいです。
だんだんすってすこしこっちがわのはんけいがながすぎるからとおもってそっちをこころもちおとすと、さあたいへんこんどはむこうがわがながくなる。
そいつをほねをおってようやくすりつぶしたかとおもうとぜんたいのかたちがいびつになるんです。
やっとのおもいでこのいびつをとるとまたちょっけいにくるいができます。
はじめはりんごほどなおおきさのものがだんだんちいさくなっていちごほどになります。
それでもこんきよくやっているとだいずほどになります。
だいずほどになってもまだかんぜんなえんはできませんよ。
わたしもずいぶんねっしんにすりましたが――このしょうがつからがらすだまをだいしょうろくこすりつぶしましたよ」とうそだかほんとうだかけんとうのつかぬところをちょうちょうとのべる。
「どこでそんなにすっているんだい」「やっぱりがっこうのじっけんしつです、あさすりはじめて、ひるめしのときちょっとやすんでそれからくらくなるまでするんですが、なかなからくじゃありません」「それじゃきみがちかごろ忙がしい忙がしいとゆってまいにちにちようでもがっこうへいくのはそのたまをすりにいくんだね」「まったくもっかのところはあさからばんまでたまばかりすっています」「たまづくりのはかせとなってはいりこみしは――というところだね。
しかしそのねっしんをきかせたら、いかなはなでもすこしはありがたがるだろう。
じつはせんじつぼくがあるようじがあってとしょかんへいってかえりにもんをでようとしたらぐうぜんろううめくんにであったのさ。
あのおとこがそつぎょうごとしょかんにあしがむくとはよほどふしぎなことだとおもってかんしんにべんきょうするねとゆったらせんせいみょうなかおをして、なにほんをよみにきたんじゃない、こんもんぜんをとおりかかったらちょっとしょうようがしたくなったからはいしゃくにたちよったんだとゆったんでだいえみをしたが、ろううめくんときみとははんたいのこうれいとしてしんせんこうむもとめにぜひいれたいよ」と迷亭くんれいのごとくながたらしいちゅうしゃくをつける。
しゅじんはすこしまじめになって「きみそうまいにちまいにちたまばかりすってるのもよかろうが、がんらいいつころできのぼるつもりかね」ときく。
「まあこのようすじゃじゅうねんくらいかかりそうです」とかんげつくんはしゅじんよりのんきにみうけられる。
「じゅうねんじゃ――もうすこしはやくすりあげたらよかろう」「じゅうねんじゃはやいほうです、ことによるとにじゅうねんくらいかかります」「そいつはたいへんだ、それじゃよういにはかせにゃなれないじゃないか」「ええいちにちもはやくなってあんしんさしてやりたいのですがとにかくたまをすりあげなくっちゃかんじんのじっけんができませんから……」
かんげつくんはちょっとくをきって「なに、そんなにごしんぱいにはおよびませんよ。
かねだでもわたしのたまばかりすってることはよくしょうちしています。
じつはにさんにちまえおこなったときにもよくじじょうをはなしてきました」としたりかおにのべたてる。
するといままでさんにんのだんわをわからぬながらけいちょうしていたさいくんが「それでもかねださんはかぞくちゅうのこらず、せんげつからおおいそへいっていらっしゃるじゃありませんか」とふしんそうにたずねる。
かんげつくんもこれにはすこしへきえきのからだであったが「そりゃみょうですな、どうしたんだろう」ととぼけている。
こういうときにちょうほうなのは迷亭くんで、はなしのとぎれたとき、きまりのわるいとき、ねむくなったとき、こまったとき、どんなときでもかならずよこごうからとびだしてくる。
「せんげつおおいそへいったものにりょうさんにちまえとうきょうであうなどはしんぴてきでいい。
いわゆるれいのこうかんだね。
そうしのじょうのせつなときにはよくそういうげんしょうがおこるものだ。
ちょっときくとゆめのようだが、ゆめにしてもげんじつよりたしかなゆめだ。
おくさんのようにべつにおもいもおもわれもしないにがさやくんのところへかたづいてしょうがいこいのなにぶつたるをおかいしにならんほうには、ごふしんももっともだが……」「あらなにをしょうこにそんなことをおっしゃるの。
ずいぶんけいべつなさるのね」とさいくんはちゅうとからふいに迷亭にきりつける。
「きみだってこいわずらいなんかしたことはなさそうじゃないか」としゅじんもしょうめんからさいくんにすけだちをする。
「そりゃぼくのえんぶんなどは、いくらあってもみんなななじゅうごにちいじょうけいかしているから、きみかたのきおくにはのこっていないかもしれないが――じつはこれでもしつれんのけっか、このとしになるまでどくしんでくらしているんだよ」といちじゅんれつざのかおをこうへいにみまわわす。
「ほほほほおもしろいこと」とゆったのはさいくんで、「ばかにしていらあ」とにわのほうをむいたのはしゅじんである。
ただかんげつくんだけは「どうかそのかいきゅうだんをこうがくのためにうかがいたいもので」とあいかわらずにやにやする。
「ぼくのもおおいたしんぴてきで、ここいずみやくもせんせいにはなしたらひじょうにうけるのだが、おしいことにせんせいはえいみんされたから、みのところはなすちょうごうもないんだが、せっかくだからうちあけるよ。
そのかわりしまいまできんちょうしなくっちゃいけないよ」とねんをおしていよいよほんぶんにとりかかる。
「かいこするといまをさること――ええと――なんねんまえだったかな――めんどうだからほぼじゅうごろくねんまえとしておこう」「じょうだんじゃない」としゅじんははなからふんといきをした。
「たいへんものおぼえがおわるいのね」とさいくんがひやかした。
かんげつくんだけはやくそくをまもってひとこともいわずに、はやくあとがききたいというかぜをする。
「なんでもあるとしのふゆのことだが、ぼくがえちごのくにはかまはらぐんたけのこたにをとおって、たこつぼとうげへかかって、これからいよいよあいづりょうへでようとするところだ」「みょうなところだな」としゅじんがまたじゃまをする。
「だまってきいていらっしゃいよ。
おもしろいから」とさいくんがせいする。
「ところがひはくれる、みちはわからず、はらはへる、しかたがないからとうげのまんなかにあるいっけんやをたたいて、これこれかようかようしかじかのしだいだから、どうかとめてくれというと、おやすいごようです、さあおあがんなさいとはだかろうそくをぼくのかおにさしつけたむすめのかおをみてぼくはぶるぶると悸えたがね。
ぼくはそのときからこいというくせもののまりょくをせつじつにじかくしたね」「おやいやだ。
そんなやまのなかにもうつくしいひとがあるんでしょうか」「やまだってうみだって、おくさん、そのむすめをひとめあなたにみせたいとおもうくらいですよ、ぶんきんのたかしまだにかみをゆいましてね」「へえー」とさいくんはあっけにとられている。
「はいいってみるとはちじょうのまんなかにおおきないろりがきってあって、そのまわりにむすめとむすめのじいさんとばあさんとぼくとよんにんすわったんですがね。
さぞごはらがおへりでしょうといいますから、なにでもよいからはやくくわせきゅうえとせいきゅうしたんです。
するとじいさんがせっかくのごきゃくさまだからへびめしでもたいてあげようというんです。
さあこれからがいよいよしつれんにとりかかるところだからしっかりしてききたまえ」「せんせいしっかりしてきくことはききますが、なんぼえちごのくにだってふゆ、へびがいやしますまい」「うん、そりゃいちおうもっともなしつもんだよ。
しかしこんなしてきなはなしになるとそうりくつにばかりこうでいしてはいられないからね。
きょうかのしょうせつにゃゆきのなかからかにがでてくるじゃないか」とゆったらかんげつくんは「なるほど」とゆったきりまたきんちょうのたいどにふくした。
「そのじぶんのぼくはずいぶんわるものぐいのたいちょうで、いなご、なめくじ、あかがえるなどはくいあきていたくらいなところだから、へびめしはおつだ。
さっそくごちそうになろうとじいさんにへんじをした。
そこでじいさんいろりのうえへなべをかけて、そのなかへこめをいれてぐずぐずにだしたものだね。
ふしぎなことにはそのなべのふたをみるとだいしょうじゅうこばかりのあながあいている。
そのあなからゆげがぷうぷうふくから、うまいくふうをしたものだ、いなかにしてはかんしんだとみていると、じいさんふとたって、どこかへでていったがしばらくすると、おおきなざるをこわきにだいこんでかえってきた。
なにげなくこれをいろりのはたへおいたから、そのなかをのぞいてみると――いたね。
ながいやつが、さむいもんだからおかたみにとぐろのまきくらをやってかたまりまっていましたね」「もうそんなおはなしははいしになさいよ。
いやらしい」とさいくんはまゆにはちのじをよせる。
「どうしてこれがしつれんのだいみなもといんになるんだからなかなかはいせませんや。
じいさんはやがてひだりてになべのふたをとって、みぎてにれいのかたまりまったながいやっこをむぞうさにつかまえて、いきなりなべのなかへほうりこんで、すぐうえからふたをしたが、さすがのぼくもそのときばかりははっといきのあなが塞ったかとおもったよ」「もうごやめになさいよ。
きみのあくるい」とさいくんしきりにこわがっている。
「もうすこしでしつれんになるからしばらくしんぼうしていらっしゃい。
するといちふんたつかたたないうちにふたのあなからかまくびがひょいとひとつでましたのにはおどろきろきましたよ。
やあでたなとおもうと、となりのあなからもまたひょいとかおをだした。
またでたよといううち、あちらからもでる。
こちらからもでる。
とうとうなべちゅうへびのめんだらけになってしまった」「なんで、そんなにくびをだすんだい」「なべのなかがあついから、くるしまぎれにはいだそうとするのさ。
やがてじいさんは、もうよかろう、ひっぱらっしとかなんとかいうと、ばあさんははあーとこたえる、むすめはあいとあいさつをして、な々にへびのあたまをもってぐいとひく。
にくはなべのなかにのこるが、ほねだけはきれいにはなれて、あたまをひくとともにながいのがおもしろいようにぬけだしてくる」「へびのほねぬきですね」とかんげつくんがわらいながらきくと「まったくのことぼね抜だ、きようなことをやるじゃないか。
それからふたをとって、しゃくしでもってめしとにくをやたらにかきまぜて、さあめしあがれときた」「くったのかい」としゅじんがれいたんにたずねると、さいくんはにがいかおをして「もうはいしになさいよ、むねがわるるくってごはんもなにもたべられやしない」とぐちをこぼす。
「おくさんはへびめしをめしあがらんから、そんなことをおっしゃるが、まあいちへんたべてごらんなさい、あのあじばかりはしょうがいわすれられませんぜ」「おお、いやだ、だれがたべるもんですか」「そこでじゅうぶんご饌もちょうだいし、さむさもわすれるし、むすめのかおもえんりょなくみるし、もうおもいおくことはないとかんがえていると、ごやすみなさいましというので、たびのろうれもあることだから、おっしゃにしたがって、ごろりとよこになると、すまんわけだがぜんごをぼうきゃくしてねてしまった」「それからどうなさいました」とこんどはさいくんのほうからさいそくする。
「それからみんちょうになってめをさましてからがしつれんでさあ」「どうかなさったんですか」「いえべつにどうもしやしませんがね。
あさおきてまきたばこをふかしながらうらのまどからみていると、むこうのかけいのはたで、やかんあたまがかおをあらっているんでさあ」「じいさんかばあさんか」としゅじんがきく。
「それがさ、ぼくにもしきべつしにくかったから、しばらくはいけんしていて、そのやかんがこちらをむくだんになっておどろきろいたね。
それがぼくのはつこいをしたさくやのむすめなんだもの」「だってむすめはしまだにゆっているとさっきゆったじゃないか」「ぜんやはしまださ、しかもみごとなしまださ。
ところがよくあさはがんやくかんさ」「ひとをばかにしていらあ」としゅじんはれいによっててんじょうのほうへしせんをそらす。
「ぼくもふしぎのごくないしんしょうしょうこわくなったから、なおよそながらようすをうかがっていると、やかんはようやくかおをあらいりょうって、はたえのいしのうえにおいてあったたかしまだのかつらをむぞうさにこうむって、すましてうちへはいいったんでなるほどとおもった。
なるほどとはおもったようなもののそのときから、とうとうしつれんのかかんなきうんめいをかこつみとなってしまった」「くだらないしつれんもあったもんだ。
ねえ、かんげつくん、それだから、しつれんでも、こんなにようきでげんきがいいんだよ」としゅじんがかんげつくんにむかって迷亭くんのしつれんをひょうすると、かんげつくんは「しかしそのむすめががんやくかんでなくってめでたくとうきょうへでもつれてごかえりになったら、せんせいはなおげんきかもしれませんよ、とにかくせっかくのむすめがかぶろであったのはせんしゅうのこんじですねえ。
それにしても、そんなわかいおんながどうして、もうがぬけてしまったんでしょう」「ぼくもそれについてはだんだんかんがえたんだがまったくへびめしをくいすぎたせいにそういないとおもう。
へびめしてえやつはのぼせるからね」「しかしあなたは、どこもなんともなくてけっこうでございましたね」「ぼくはかぶろにはならずにすんだが、そのかわりにこのとおりそのときからきんがんになりました」ときんぶちのめがねをとってはんけちでていねいにふいている。
しばらくしてしゅじんはおもいだしたように「ぜんたいどこがしんぴてきなんだい」とねんのためにきいてみる。
「あのかつらはどこでかったのか、ひろったのかどうかんがえてもいまだにわからないからそこがしんぴさ」と迷亭くんはまためがねをもとのごとくはなのうえへかける。
「まるではなししかのはなしをきくようでござんすね」とはさいくんのひひょうであった。
迷亭のだべんもこれでいちだんらくをつげたから、もうやめるかとおもいのほか、せんせいはさるぐつわでもはめられないうちはとうていだまっていることができぬせいとみえて、またつぎのようなことをしゃべりだした。
「ぼくのしつれんもにがいけいけんだが、あのときあのやかんをしらずにもらったがさいごしょうがいのめざわりになるんだから、よくかんがえないとけん呑だよ。
けっこんなんかは、いざというまぎわになって、とんだところにきずぐちがかくれているのをみいだすことがあるものだから。
かんげつくんなどもそんなにどうけいしたり※※したりひとりでむずかしがらないで、とくときをおちつけてたまをするがいいよ」といやにいけんめいたことをのべると、かんげつくんは「ええなるべくたまばかりすっていたいんですが、むかうでそうさせないんだからよわりきります」とわざとへきえきしたようなかおづけをする。
「そうさ、きみなどはせんぽうがさわぎたてるんだが、なかにはこっけいなのがあるよ。
あのとしょかんへしょうべんをしにきたろううめくんなどになるとすこぶるきだからね」「どんなことをしたんだい」としゅじんがちょうしづいてうけたまわわる。
「なあに、こういうわけさ。
せんせいそのむかししずおかのとうざいかんへとまったことがあるのさ。
――たったいちとばんだぜ――それでそのばんすぐにそこのげじょにけっこんをもうしこんだのさ。
ぼくもずいぶんのんきだが、まだあれほどにはしんかしない。
もっともそのじぶんには、あのやどやにごなつさんというゆうめいなべっぴんがいてろううめくんのざしきへでたのがちょうどそのごなつさんなのだからむりはないがね」「むりがないどころかきみのなんとかとうげとまるでおなじじゃないか」「すこしにているね、みをいうとぼくとろううめとはそんなにさいはないからな。
とにかく、そのごなつさんにけっこんをもうしこんで、まだへんじをきかないうちにみずうりがくいたくなったんだがね」「なにだって?」としゅじんがふしぎなかおをする。
しゅじんばかりではない、さいくんもかんげつももうしあわせたようにくびをひねってちょっとかんがえてみる。
迷亭はかまわずどんどんはなしをしんこうさせる。
「ごなつさんをよんでしずおかにみずうりはあるまいかときくと、ごなつさんが、なんぼしずおかだってみずうりくらいはありますよと、ごぼんにみずうりをやまもりにしてもってくる。
そこでろううめくんくったそうだ。
やまもりのみずうりをことごとくたいらげて、ごなつさんのへんじをまっていると、へんじのこないうちにはらがいたみだしてね、うーんうーんとうなったがすこしもききめがないからまたごなつさんをよんでこんどはしずおかにいしゃはあるまいかときいたら、ごなつさんがまた、なんぼしずおかだっていしゃくらいはありますよとゆって、てんちげんこうとかいうせんじぶんをぬすんだようななまえのどくとるをつれてきた。
よくあさになって、はらのいたみもおかげでとれてありがたいと、しゅったつするじゅうごふんまえにごなつさんをよんで、きのうもうしこんだけっこんじけんのだくひをたずねると、ごなつさんはわらいながらしずおかにはみずうりもあります、ごいしゃもありますがいちやづくりのごよめはありませんよとでていったきりかおをみせなかったそうだ。
それからろううめくんもぼくどうようしつれんになって、としょかんへはしょうべんをするほかこなくなったんだって、かんがえるとおんなはつみなものだよ」というとしゅじんがいつになくひきうけて「ほんとうにそうだ。
せんだってみゅっせのきゃくほんをよんだらそのうちのじんぶつがらばのしじんをいんようしてこんなことをゆっていた。
――はねよりかるいものはちりである。
ちりよりかるいものはかぜである。
かぜよりかるいものはおんなである。
おんなよりかるいものはむである。
――よくうがってるだろう。
おんななんかしかたがない」とみょうなところでちからみんでみせる。
これをうけたまわったさいくんはしょうちしない。
「おんなのかるいのがいけないとおっしゃるけれども、おとこのおもいんだってよいことはないでしょう」「おもいた、どんなことだ」「おもいというなおもいことですわ、あなたのようなのです」「おれがなんでおもい」「おもいじゃありませんか」とみょうなぎろんがはじまる。
迷亭はおもしろそうにきいていたが、やがてくちをひらいて「そうあかくなってかたみにべんなんこうげきをするところがふうふのしんそうというものかな。
どうもむかしのふうふなんてものはまるでむいみなものだったにちがいない」とひやかすのだかしょうめるのだかあいまいなことをいったが、それでやめておいてもよいことをまたれいのちょうしでぬの衍して、したのごとくのべられた。
「むかしはていしゅにくちへんとうなんかしたおんなは、いちにんもなかったんだっていうが、それならおしをにょうぼうにしているとおなじことでぼくなどはいっこうありがたくない。
やっぱりおくさんのようにあなたはおもいじゃありませんかとかなんとかいわれてみたいね。
おなじにょうぼうをもつくらいなら、たまにはけんかのひとつふたつしなくっちゃたいくつでしようがないからな。
ぼくのははなどときたら、おやじのまえへでてはいとへいでもちきっていたものだ。
そうしてにじゅうねんもいっしょになっているうちにてらまいりよりほかにそとへでたことがないというんだからなさけないじゃないか。
もっともおかげでせんぞだいだいのかいみょうはことごとくあんきしている。
だんじょかんのこうさいだってそうさ、ぼくのしょうきょうのじぶんなどはかんげつくんのようにいちゅうのひととがっそうをしたり、れいのこうかんをやってもうろうたいでであってみたりすることはとうていできなかった」「ごきのどくさまで」とかんげつくんがあたまをさげる。
「じつにごきのどくさ。
しかもそのじぶんのおんながかならずしもいまのおんなよりひんこうがいいとかぎらんからね。
おくさんちかごろはじょがくせいがだらくしたのなにだのとやかましくいいますがね。
なにむかしはこれよりはげしかったんですよ」「そうでしょうか」とさいくんはまじめである。
「そうですとも、でたらめじゃない、ちゃんとしょうこがあるからしかたがありませんや。
くさやくん、きみもおぼえているかもしれんがぼくとうのごろくさいのときまではおんなのこをとうなすのようにかごへいれててんびんぼうでかついでうってあるいたもんだ、ねえきみ」「ぼくはそんなことはおぼえておらん」「きみのくにじゃどうだかしらないが、しずおかじゃたしかにそうだった」「まさか」とさいくんがちいさいこえをだすと、「ほんとうですか」とかんげつくんがほんとうらしからぬようすできく。
「ほんとうさ。
げんにぼくのおやじがあたいをつけたことがある。
そのときぼくはなにでもむっつくらいだったろう。
おやじといっしょにあぶらまちからかよいまちへさんぽにでると、むこうからおおきなこえをしておんなのこはよしかな、おんなのこはよしかなとどなってくる。
ぼくとうがちょうどにちょうめのかくへくると、いせはじめというごふくやのまえでそのおとこにでっくわした。
いせげんというのはまぐちがじゅうけんでぞうがいつつとまえあってしずおかだいいちのごふくやだ。
こんどおこなったらみてきたまえ。
いまでもれきぜんとのこっている。
りっぱなうちだ。
そのばんがしらがじんべえとゆってね。
いつでもごふくろがさんにちまえになくなりましたというようなかおをしてちょうばのところへひかえている。
じんべえきみのとなりにははつさんというにじゅうよんごのわかいしゅがすわっているが、このはつさんがまたうんしょうりっしにきえしてさんななにじゅういちにちのまそばゆだけでとおしたというようなあおいかおをしている。
はつさんのとなりがちょうどんでこれはきのうかじでたきだされたかのごとくしゅうぜんとそろばんにみを凭している。
ちょうどんと併んで……」「きみはごふくやのはなしをするのか、ひとうりのはなしをするのか」「そうそうひとうりのはなしをやっていたんだっけ。
じつはこのいせげんについてもすこぶるきたんがあるんだが、それはかつあいしてきょうはひとうりだけにしておこう」「ひとうりもついでにやめるがいい」「どうしてこれがにじゅうせいきのきょうとめいじはつとしごろのじょしのひんせいのひかくについてだいなるさんこうになるざいりょうだから、そんなにたやすくやめられるものか――それでぼくがおやじといせげんのまえまでくると、れいのひとうりがおやじをみてだんなおんなのこのしまいぶつはどうです、やすくまけておくからかっておくんなさいといいながらてんびんぼうをおろしてあせをふいているのさ。
みるとかごのなかにはまえにいちにんうしろにいちにんりょうほうともにさいばかりのおんなのこがいれてある。
おやじはこのおとこにむかってやすければかってもいいが、もうこれぎりかいときくと、へえあいにくきょうはみんなうりつくしてたったふたつになっちまいました。
どっちでもすいからとっとくんなさいなとおんなのこをりょうてでもってとうなすかなにぞのようにおやじのはなのさきへだすと、おやじはぽんぽんとあたまをたたいてみて、ははあかなりなおとだとゆった。
それからいよいよだんぱんがはじまってさんざんかきったすえおやじが、かってもよいがしなはたしかだろうなときくと、ええまえのやっこはしじゅうみているからま違はありませんがねうしろににないでるほうは、なにしろめがないんですから、ことによるとひびがはいってるかもしれません。
こいつのほうならうけあえないかわりにあたいだんをひいておきますとゆった。
ぼくはこのもんどうをいまだにきおくしているんだがそのときしょうきょうしんにおんなというものはなるほどゆだんのならないものだとおもったよ。
――しかしめいじさんじゅうはちねんのきょうこんなばかなまねをしておんなのこをうってあるくものもなし、めをはなしてうしろへかついだほうはけん呑だなどということもきかないようだ。
だから、ぼくのこうではやはりたいせいぶんめいのおかげでおんなのひんこうもよほどしんぽしたものだろうとだんていするのだが、どうだろうかんげつくん」
かんげつくんはへんじをするまえにまずおうようなせき払をひとつしてみせたが、それからわざとおちついたひくいこえで、こんなかんさつをのべられた。
「このころのおんなはがっこうのいきかえりや、がっそうかいや、じぜんかいや、えんゆうかいで、ちょいとかってちょうだいな、あらおいや?などとじぶんでじぶんをうりにあるいていますから、そんなやおやのおあまりをやとって、おんなのこはよしか、なんてげひんなよたくはんばいをやるひつようはないですよ。
にんげんにどくりつしんがはったつしてくるとしぜんこんなかぜになるものです。
ろうじんなんぞはいらぬとりこしぐろうをしてなんとかかとかいいますが、じっさいをいうとこれがぶんめいのすうせいですから、わたしなどはだいによろこばしいげんしょうだと、ひそかにけいがのいをあらわしているのです。
かうほうだってあたまをたたいてしなものはたしかかなんてきくようなやぼはいちにんもいないんですからそのあたりはあんしんなものでさあ。
またこのふくざつなよのなかに、そんなてすうをするひにゃあ、さいげんがありませんからね。
ごじゅうになったってろくじゅうになったってていしゅをもつこともよめにいくこともできやしません」かんげつくんはにじゅうせいきのせいねんだけあって、だいにとうせいりゅうのこうをかいちんしておいて、しきしまのけむりをふうーと迷亭せんせいのかおのほうへふきつけた。
迷亭はしきしまのけむりくらいでへきえきするおとこではない。
「おおせのとおりほうこんのじょせいと、れいじょうなどはじそんじしんのねんからほねもにくもかわまでできていて、なにでもだんしにまけないところがけいふくのいたりだ。
ぼくのきんじょのじょがっこうのせいとなどときたらえらいものだぜ。
つつそでをはいててつぼうへぶらさがるからかんしんだ。
ぼくはにかいのまどからかれらのたいそうをもくげきするたんびにこだいまれ臘のふじんをついかいするよ」「またまれ臘か」としゅじんがれいしょうするようにいいはなつと「どうもよしなかんじのするものはたいていまれ臘からみなもとをはっしているからしかたがない。
びがくしゃとまれ臘とはとうていはなれられないやね。
――ことにあのいろのくろいじょがくせいがいっしんふらんにたいそうをしているところをはいけんすると、ぼくはいつでも Agnodice のいつわをおもいだすのさ」とものしりがおにしゃべりたてる。
「またむずかしいなまえがでてきましたね」とかんげつくんはいぜんとしてにやにやする。
「Agnodice はえらいおんなだよ、ぼくはじつにかんしんしたね。
とうじあてんのほうりつでおんながさんばをえいぎょうすることをきんじてあった。
ふべんなことさ。
Agnodice だってそのふべんをかんずるだろうじゃないか」「なんだい、その――なんとかいうのは」「おんなさ、おんなのなまえだよ。
このおんながつらつらかんがえるには、どうもおんながさんばになれないのはなさけない、ふべんきわまる。
どうかしてさんばになりたいもんだ、さんばになるくふうはあるまいかとさんにちさんばんしゅをこまぬいてかんがえこんだね。
ちょうどさんにちめのあかつきかたに、となりのいえであかんぼうがおぎゃあとないたこえをきいて、うんそうだとかつぜんたいごして、それからさっそくながいかみをきっておとこのきものをきて Hierophilus のこうぎをききにいった。
しゅびよくこうぎをききおわせて、もうだいじょうぶというところでもって、いよいよさんばをかいぎょうした。
ところが、おくさんはやりましたね。
あちらでもおぎゃあとうまれるこちらでもおぎゃあとうまれる。
それがみんな Agnodice のせわなんだからたいへんもうかった。
ところがにんげんばんじ塞翁のうま、ななころびやおき、よわりめにたたりめで、ついこのひみつがろけんにおよんでついにおかみのごはっとをやぶったというところで、おもきごしおきにおおせつけられそうになりました」「まるでこうしゃくみたようですこと」「なかなかうまいでしょう。
ところがあてんのうなつらがいちどうれんしょしてたんがんにおよんだから、ときのごぶぎょうもそうきではなをくくったようなあいさつもできず、ついにとうにんはむざいほうめん、これからはたといおんなたりともさんばえいぎょうかってたるべきことというごふれいさえでてめでたくらくちゃくをつげました」「よくいろいろなことをしっていらっしゃるのね、かんしんねえ」「ええたいがいのことはしっていますよ。
しらないのはじぶんのばかなことくらいなものです。
しかしそれもうすうすはしってます」「ほほほほおもしろいことばかり……」とさいくんしょうがたをくずしてわらっていると、こうしどのべるがあいかわらずつけたときとおなじようなおとをだしてなる。
「おやまたごきゃくさまだ」とさいくんはちゃのまへひきさがる。
さいくんといれちがいにざしきへはいいってきたものはだれかとおもったらごぞんじのおちとうふうくんであった。
ここへとうふうくんさえくれば、しゅじんのいえへしゅつにゅうするへんじんはことごとくもうらしつくしたとまでいかずとも、すくなくともわがはいのぶりょうをなぐさむるにたるほどのとうすうはごそろいになったといわねばならぬ。
これでふそくをゆってはもったいない。
うんわるるくほかのいえへかわれたがさいご、しょうがいにんげんちゅうにかかるせんせいかたがいちにんでもあろうとさえきがつかずにしんでしまうかもしれない。
こうにしてくさやせんせいもんかのねこじとなってあさゆうとらがわのまえにさむらいべるのでせんせいはむろんのこと迷亭、かんげつないしとうふうなどというひろいとうきょうにさえあまりれいのないいっきとうせんのごうけつれんのきょしどうさをねながらはいけんするのはわがはいにとってせんざいいちぐうのこうえいである。
おかげさまでこのあついのにけぶくろでつつまれているというなんぎもわすれて、おもしろくはんにちをしょうこうすることができるのはかんしゃのいたりである。
どうせこれだけあつまればただごとではすまない。
なにかもちあがるだろうとふすまのかげからつつしんではいけんする。
「どうもごぶさたをいたしました。
しばらく」とごじぎをするとうふうくんのかおをみると、せんじつのごとくやはりきれいにひかっている。
あたまだけでひょうするとなにかどんちょうやくしゃのようにもみえるが、しろいおぐらのはかまのごわごわするのをごくろうにもしかつめらしくはいているところはさかきばらけんきちのうちでしとしかおもえない。
したがってとうふうくんのしんたいでふつうのにんげんらしいところはかたからこしまでのまだけである。
「いやあついのに、よくごしゅつかけだね。
さあずっと、こっちへとおりたまえ」と迷亭せんせいはじぶんのいえらしいあいさつをする。
「せんせいにはおおいたひさしくごめにかかりません」「そうさ、たしかこのはるのろうどくかいぎりだったね。
ろうどくかいといえばちかごろはやはりごもりかね。
そのごおみやにゃなりませんか。
あれはうまかったよ。
ぼくはだいにはくしゅしたぜ、きみきがついてたかい」「ええおかげでおおきにゆうきがでまして、とうとうしまいまでこぎつけました」「こんどはいつごもよおしがありますか」としゅじんがくちをだす。
「ななはちりょうつきはやすんでくがつにはなにかにぎやかにやりたいとおもっております。
なにかおもしろいしゅこうはございますまいか」「さよう」としゅじんがきのないへんじをする。
「とうふうくんぼくのそうさくをひとつやらないか」とこんどはかんげつくんがあいてになる。
「きみのそうさくならおもしろいものだろうが、いったいなにかね」「きゃくほんさ」とかんげつくんがなるべくおしをつよくでると、あんのごとく、さんにんはちょっとどくけをぬかれて、もうしあわせたようにほんにんのかおをみる。
「きゃくほんはえらい。
きげきかいひげきかい」ととうふうくんがふをすすめると、かんげつせんせいなおすましかえって「なにきげきでもひげきでもないさ。
ちかごろはきゅうげきとかしんげきとかたいぶやかましいから、ぼくもひとつしんきじくをだして俳劇というのをつくってみたのさ」「俳劇たどんなものだい」「はいくしゅみのげきというのをつめて俳劇のにじにしたのさ」というとしゅじんも迷亭もたしょうけむりにまかれてひかえている。
「それでそのしゅこうというのは?」とききだしたのはやはりとうふうくんである。
「ねがはいくしゅみからくるのだから、あまりながたらしくって、どくあくなのはよくないとおもってひとまくぶつにしておいた」「なるほど」「まずどうぐだてからはなすが、これもごくかんたんなのがいい。
ぶたいのまんなかへおおきなやなぎをいちほんうえつけてね。
それからそのやなぎのみきからいちほんのえだをみぎのほうへぬっとださせて、そのえだへからすをいちわとまらせる」「からすがじっとしていればいいが」としゅじんがひとりごとのようにしんぱいした。
「なにわけはありません、からすのあしをいとでえだへしばりつけておくんです。
でそのしたへぎょうずいたらいをだしましてね。
びじんがよこむきになっててぬぐいをつかっているんです」「そいつはすこしでかだんだね。
だいいちだれがそのおんなになるんだい」と迷亭がきく。
「なにこれもすぐできます。
びじゅつがっこうのもでるをやとってくるんです」「そりゃけいしちょうがやかましくいいそうだな」としゅじんはまたしんぱいしている。
「だってこうぎょうさえしなければかまわんじゃありませんか。
そんなことをとやかくゆったひにゃがっこうでらたいがのしゃせいなんざできたっこありません」「しかしあれはけいこのためだから、ただみているのとはすこしちがうよ」「せんせいかたがそんなことをゆったひにはにっぽんもまだだめです。
かいがだって、えんげきだって、おんなじげいじゅつです」とかんげつくんおおいにきえんをふく。
「まあぎろんはいいが、それからどうするのだい」ととうふうくん、ことによると、やるりょうけんとみえてすじをききたがる。
「ところへかどうからはいじんたかはまきょしがすてっきをもって、しろいとうしんいりのぼうしをこうむって、すきやのはおりに、さつまひはくのしりはしょりのはんくつというこしらえででてくる。
きつけはりくぐんのごようたつみたようだけれどもはいじんだからなるべくゆうゆうとしてはらのうちではくあんによねんのないからだであるかなくっちゃいけない。
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そこできょしせんせいだいにはいみにかんどうしたというおもいいれがごじゅうびょうばかりあって、ぎょうずいのおんなにほれるからすかなとおおきなこえでいっくろうぎんするのをあいずに、ひょうしぎをいれてまくをひく。
――どうだろう、こういうしゅこうは。
おきにいりませんかね。
きみごみやになるよりきょしになるほうがよほどいいぜ」とうふうくんはなんだかものたらぬというかおづけで「あんまり、あっけないようだ。
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いままでひかくてきおとなしくしていた迷亭はそういつまでもだまっているようなおとこではない。
「たったそれだけで俳劇はすさまじいね。
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そんなつまらないものをやってみたまえ。
それこそうえだくんからわらわれるばかりだ。
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しつれいだがかんげつくんはやはりじっけんしつでたまをみがいてるほうがいい。
俳劇なんぞひゃくつくったってにひゃくつくったって、ぼうこくのおとじゃだめだ」かんげつくんはしょうしょういきどおとして、「そんなにしょうきょくてきでしょうか。
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よのひとににずあえかにみえたまう
とみこじょうにささぐ
とにこうにかいてある。
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うんじてくんずるこううらにきみの
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おおわが、ああわが、つらきこのよに
あまくえてしかあつきくちづけ
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やまとだましい!とすりがいう。
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えいこくでやまとだましいのえんぜつをする。
どいつでやまとだましいのしばいをする」
「なるほどこりゃてんねんこじいじょうのさくだ」とこんどは迷亭せんせいがそりかえってみせる。
「とうごうたいしょうがやまとだましいをあっている。
さかなやのぎんさんもやまとだましいをあっている。
さぎし、やまし、ひとごろしもやまとだましいをあっている」
「せんせいそこへかんげつもあっているとつけてください」
「やまとだましいはどんなものかときいたら、やまとだましいさとこたえていきすぎた。
ごろくけんおこなってからえへんというこえがきこえた」
「そのいっくはだいできだ。
きみはなかなかぶんさいがあるね。
それからつぎのくは」
「さんかくなものがやまとだましいか、しかくなものがやまとだましいか。
やまとだましいはなまえのしめすごとくたましいである。
たましいであるからつねにふらふらしている」
「せんせいだいぶおもしろうございますが、ちとやまとだましいがたかぎはしませんか」ととうふうくんがちゅういする。
「さんせい」とゆったのはむろん迷亭である。
「だれもくちにせぬものはないが、だれもみたものはない。
だれもきいたことはあるが、だれもあったものがない。
やまとだましいはそれてんぐのるいか」
しゅじんはいちゆい杳然というつもりでよみおわったが、さすがのめいぶんもあまりたんかすぎるのと、しゅいがどこにあるのかわかりかねるので、さんにんはまだあとがあることとおもってまっている。
いくらまっていても、うんとも、すんとも、いわないので、さいごにかんげつが「それぎりですか」ときくとしゅじんはかるく「うん」とこたえた。
うんはすこしきらくすぎる。
ふしぎなことに迷亭はこのめいぶんにたいして、いつものようにあまりだべんをふわなかったが、やがてむきなおって、「きみもたんぺんをあつめていちかんとして、そうしてだれかにささげてはどうだ」ときいた。
しゅじんはこともなげに「きみにささげてやろうか」ときくと迷亭は「まっぴらだ」とこたえたぎり、せんこくさいくんにみせびらかした鋏をちょきちょきいわしてつめをとっている。
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ぼくはあのれいじょうのまえへでると、なんとなくいっしゅのかんにうたれて、とうぶんのうちはしをつくってもうたをよんでもゆかいにきょうがのってでてくる。
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わがはいもかれらのへんかなきざつだんをしゅうじつきかねばならぬぎむもないから、しっけいしてにわへかまきりをさがしにでた。
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ばんはことによるといちあめかかるかもしれない。
なな
わがはいはちかごろうんどうをはじめた。
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さかなにとってけんちょであるいじょうはにんげんにとってもけんちょでなくてはならん。
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わがはいはいろいろかんがえた。
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うしろからふいにしょうきょうにとびつくこと、――これはすこぶるきょうみのあるうんどうのいちだがめったにやるとひどいめにあうから、たかだかつきにさんどくらいしかこころみない。
かみぶくろをあたまへかぶせらるること――これはくるしいばかりではなはだきょうみのとぼしいほうほうである。
ことににんげんのあいてがおらんとせいこうしないからだめ。
つぎにはしょもつのひょうしをつめでひきかくこと、――これはしゅじんにみつかるとかならずどやされるきけんがあるのみならず、わりあいにてさきのきようばかりでそうしんのきんにくがはたらかない。
これらはわがはいのいわゆるきゅうしきうんどうなるものである。
しんしきのうちにはなかなかきょうみのふかいのがある。
だいいちにかまきりかり。
――かまきりかりはねずみかりほどのだいうんどうでないかわりにそれほどのきけんがない。
なつのはんからあきのはじめへかけてやるゆうぎとしてはもっともじょうじょうのものだ。
そのほうほうをいうとまずにわへでて、いちひきのかまきりをさがしだす。
じこうがいいといちひきやにひきみつけだすのはぞうさもない。
さてみつけだしたかまきりくんのはたへはっとかぜをきって馳けていく。
するとすわこそというみ構をしてかまくびをふりあげる。
かまきりでもなかなかけなげなもので、あいてのりきりょうをしらんうちはていこうするつもりでいるからおもしろい。
ふりあげたかまくびをみぎのまえあしでちょっとまいる。
ふりあげたくびはやわらかいからぐにゃりよこへまがる。
このときのかまきりくんのひょうじょうがすこぶるきょうみをそえる。
おやというおもいいれがじゅうぶんある。
ところをいっそくとびにきみのうしろへまわってこんどははいめんからきみのはねをかるくひきかく。
あのはねはへいぜいだいじにたたんであるが、ひきかきかたがはげしいと、ぱっとみだれてなかからよしのがみのようなうすいろのしたぎがあらわれる。
きみはなつでもごくろうせんまんににまいがさねできのとにきわまっている。
このとききみのながいくびはかならずうしろにむきなおる。
あるときはむかってくるが、たいがいのばあいにはくびだけぬっとたててたっている。
こっちからてだしをするのをまちかまえてみえる。
せんぽうがいつまでもこのたいどでいてはうんどうにならんから、あまりながくなるとまたちょいといちほんまいる。
これだけまいるとがんしきのあるかまきりならかならずにげだす。
それをわがむしゃれにむかってくるのはよほどむきょういくなやばんてきかまきりである。
もしあいてがこのやばんなふるまいをやると、むかってきたところを覘いすまして、いやというほどはりつけてやる。
たいがいはにさんしゃくとばされるものである。
しかしてきがおとなしくはいめんにぜんしんすると、こっちはきのどくだからにわのたちきをにさんどひちょうのごとくまわってくる。
かまきりくんはまだごろくすんしかにげのびておらん。
もうわがはいのりきりょうをしったからてむかいをするゆうきはない。
ただうおうさおうへにげまどうのみである。
しかしわがはいもうおうさおうへおっかけるから、きみはしまいにはくるしがってはねをふっていちだいかつやくをこころみることがある。
がんらいかまきりのはねはかれのくびとちょうわして、すこぶるほそながくできあがったものだが、きいてみるとまったくそうしょくようだそうで、にんげんのえいご、ふつご、どいつごのごとくごうもじつようにはならん。
だからむようのちょうぶつをりようしていちだいかつやくをこころみたところがわがはいにたいしてあまりこうのうのありようやくがない。
なまえはかつやくだがじじつはじめんのうえをひきずってあるくというにすぎん。
こうなるとしょうしょうきのどくなかんはあるがうんどうのためだからしかたがない。
ごめんこうむってたちまちぜんめんへ馳けぬける。
きみはだせいできゅうかいてんができないからやはりやむをえずぜんしんしてくる。
そのはなをなぐりつける。
このときかまきりくんはかならずはねをひろげたまま仆れる。
そのうえをうんとまえあしでおさえてすこしくきゅうそくする。
それからまたほかす。
はなしておいてまたおさえる。
ななとりこななたてひろあきのぐんりゃくでせめつける。
やくさんじゅうふんこのじゅんじょをくりかえして、みうごきもできなくなったところをみすましてちょっとくちへ啣えてふってみる。
それからまたはきだす。
こんどはじめんのうえへねたぎりうごかないから、こっちのてでつっついて、そのぜいでとびあがるところをまたおさえつける。
これもいやになってから、さいごのしゅだんとしてむしゃむしゃくってしまう。
ついでだからかまきりをくったことのないひとにはなしておくが、かまきりはあまりうまいものではない。
そうしてじようぶんもぞんがいすくないようである。
かまきりかりについでせみとりといううんどうをやる。
たんにせみとゆったところがおなじものばかりではない。
にんげんにもあぶらやろう、みんみんやろう、おしいつくつくやろうがあるごとく、せみにもあぶらぜみ、みんみん、おしいつくつくがある。
あぶらぜみはしつこくていかん。
みんみんはおうふうでこまる。
ただとっておもしろいのはおしいつくつくである。
これはなつのすえにならないとでてこない。
やっつぐちのほころびからあきかぜがことわりなしにはだをなでてはっくしょかぜをひいたというころおきにおを掉りたててなく。
よくなくやつで、わがはいからみるとなくのとねこにとられるよりほかにてんしょくがないとおもわれるくらいだ。
あきのはつはこいつをとる。
これをしょうしてせみとりうんどうという。
ちょっとしょくんにはなしておくがいやしくもせみとなのつくいじょうは、じめんのうえにころがってはおらん。
じめんのうえにおちているものにはかならずありがついている。
わがはいのとるのはこのありのりょうぶんにねころんでいるやつではない。
たかいきのえだにとまって、おしいつくつくとないているれんちゅうをとらえるのである。
これもついでだからはくがくなるにんげんにききたいがあれはおしいつくつくとなくのか、つくつくおしいとなくのか、そのかいしゃくしだいによってはせみのけんきゅうじょうすくなからざるかんけいがあるとおもう。
にんげんのねこにまさるところはこんなところにそんするので、にんげんのみずからほこるてんもまたかようなてんにあるのだから、こんそくとうができないならよくかんがえておいたらよかろう。
もっともせみとりうんどうじょうはどっちにしてもさしつかえはない。
ただごえをしるべにきをのぼっていって、せんぽうがむちゅうになってないているところをうんととらえるばかりだ。
これはもっともかんりゃくなうんどうにみえてなかなかほねのおれるうんどうである。
わがはいはよんほんのあしをゆうしているからだいちをいくことにおいてはあえてたのどうぶつにはおとるとはおもわない。
すくなくともにほんとよんほんのすうがくてきちしきからはんだんしてみてにんげんにはまけないつもりである。
しかしきのぼりにいたってはおおいたわがはいよりこうしゃなやつがいる。
ほんしょくのさるはべつものとして、さるのまっそんたるにんげんにもなかなかあなどるべからざるてあいがいる。
がんらいがいんりょくにさからってのむりなじぎょうだからできなくてもべつだんのちじょくとはおもわんけれども、せみとりうんどうじょうにはすくなからざるふべんをあたえる。
こうにつめというりきがあるので、どうかこうかのぼりはするものの、はたでみるほどらくではござらん。
のみならずせみはとぶものである。
かまきりくんとちがっていちたびとんでしまったがさいご、せっかくのきのぼりも、きのぼらずとなにの択むところなしというひうんにさいかいすることがないともかぎらん。
さいごにときどきせみからしょうべんをかけられるきけんがある。
あのしょうべんがややともするとめを覘ってしょぐってくるようだ。
にげるのはしかたがないから、どうかしょうべんばかりはたれんようにいたしたい。
とぶまぎわに溺りをつかまつるのはいったいどういうしんりてきじょうたいのせいりてききかいにおよぼすえいきょうだろう。
やはりせつなさのあまりかしらん。
あるいはてきのふいにででて、ちょっとにげだすよゆうをつくるためのほうべんかしらん。
そうするといかのすみをはき、べらんめーのとげぶつをみせ、しゅじんがら甸語をろうするるいとおなじこうもくにはいるべきじこうとなる。
これもせみがくじょう忽かせにすべからざるもんだいである。
じゅうぶんけんきゅうすればこれだけでたしかにはかせろんぶんのかちはある。
それはよじだから、そのくらいにしてまたほんだいにかえる。
せみのもっともしゅうちゅうするのは――あつまりちゅうがおかしければしゅうごうだが、しゅうごうはちんぷだからやはりしゅうちゅうにする。
――せみのもっともしゅうちゅうするのはあおぎりである。
かんめいをあおぎりとごうするそうだ。
ところがこのあおぎりははがひじょうにおおい、しかもそのははみなうちわくらいなだいさであるから、かれらがなまいかさなるとえだがまるでみえないくらいしげっている。
これがはなはだせみとりうんどうのぼうがいになる。
こえはすれどもすがたはみえずというぞくようはとくにわがはいのためにつくったものではなかろうかとあやしまれるくらいである。
わがはいはしかたがないからただごえをしるべにいく。
したからいっけんばかりのところであおぎりはちゅうもんどおりにまたになっているから、ここでいちきゅうそくしてはうらからせみのしょざいちをたんていする。
もっともここまでくるうちに、がさがさとおとをたてて、とびだすきばやなれんちゅうがいる。
いちわとぶともういけない。
まねをするてんにおいてせみはにんげんにおとらぬくらいばかである。
あとからぞくぞくとびだす。
すすむ々にまたにとうちゃくするじぶんにはまんきさびとしてかたこえをとどめざることがある。
かつてここまでのぼってきて、どこをどうみまわわしても、みみをどうふってもせみきがないので、でなおすのもめんどうだからしばらくきゅうそくしようと、またのうえにじんどってだいにのきかいをまちあわせていたら、いつのまにかねむくなって、ついくろ甜郷うらにあそんだ。
おやとおもってめがさめたら、にまたのくろ甜郷うらからにわのしきいしのうえへどたりとおちていた。
しかしたいがいはのぼるたびにひとつはとってくる。
ただきょうみのうすいことにはきのうえでくちに啣えてしまわなくてはならん。
だからしたへもってきてはきだすときはおおかたしんでいる。
いくらじゃらしてもひっかいてもかくぜんたるてこたえがない。
せみとりのみょうみはじっとしのんでいっておしいきみがいっしょうけんめいにしっぽをのばしたりちぢましたりしているところを、わっとまえあしでおさえるときにある。
このときつくつくきみはひめいをあげて、うすいとうめいなはねをじゅうおうむじんにふう。
そのはやいこと、びじなることはごんごどうだん、じつにせみせかいのいちいかんである。
よはつくつくきみをおさえるたびにいつでも、つくつくきみにせいきゅうしてこのびじゅつてきえんげいをみせてもらう。
それがいやになるとごめんをこうむってくちのうちへほおばってしまう。
せみによるとくちのうちへはいいってまでえんげいをつづけているのがある。
せみとりのつぎにやるうんどうはまつすべりである。
これはながくかくひつようもないから、ちょっとのべておく。
まつすべりというとまつをすべるようにおもうかもしれんが、そうではないやはりきのぼりのいちしゅである。
ただせみとりはせみをとるためにのぼり、まつすべりは、のぼることをもくてきとしてのぼる。
これがりょうしゃのさである。
がんらいまつはときわにてさいみょうじのごちそうをしてからいらいきょうにいたるまで、いやにごつごつしている。
したがってまつのみきほどすべらないものはない。
てがかりのいいものはない。
あしかかりのいいものはない。
――かんげんすればつめかかりのいいものはない。
そのつめかかりのいいみきへいっきかせいに馳けのぼる。
馳けのぼっておいて馳けさがる。
馳けさがるにはにほうある。
いちはさかさになってあたまをじめんへむけておりてくる。
いちはのぼったままのしせいをくずさずにおをしたにしておりる。
にんげんにとうがどっちがむずかしいかしってるか。
にんげんのあさはかなりょうけんでは、どうせおりるのだからげこうに馳けおりるほうがらくだとおもうだろう。
それがまちがってる。
くんとうはよしつねがひよどりごえをおとしたことだけをこころえて、よしつねでさえしたをむいておりるのだからねこなんぞはむろんしたたむきでたくさんだとおもうのだろう。
そうけいべつするものではない。
ねこのつめはどっちへむいてはえているとおもう。
みんなうしろへおれている。
それだからとびぐちのようにものをかけてひきよせることはできるが、ぎゃくにおしだすちからはない。
いまわがはいがまつのきをぜいよく馳けのぼったとする。
するとわがはいはがんらいちじょうのものであるから、しぜんのけいこうからいえばわがはいがながくまつきの巓にとまるをもとさんにそういない、ただおけばかならずおちる。
しかしてばなしでおちては、あまりはやすぎる。
だからなんらかのしゅだんをもってこのしぜんのけいこうをいくぶんかゆるめなければならん。
これすなわちおりるのである。
おちるのとおりるのはたいへんな違のようだが、そのみおもったほどのことではない。
おちるのをおそくするとおりるので、おりるのをはやくするとおちることになる。
おちるとおりるのは、ちとりのさである。
わがはいはまつのきのうえからおちるのはいやだから、おちるのをゆるめておりなければならない。
すなわちあるものをもっておちるそくどにていこうしなければならん。
わがはいのつめはまえもうすとおりかいうしろむきであるから、もしあたまをうえにしてつめをたてればこのつめのちからはことごとく、おちるぜいにぎゃくってりようできるわけである。
したがっておちるがへんじておりるになる。
じつにみやすきどうりである。
しかるにまたみをぎゃくにしてよしつねりゅうにまつのきごしをやってみたまえ。
つめはあってもやくにはたたん。
ずるずるすべって、どこにもじぶんのからだりょうをもちこたえることはできなくなる。
ここにおいてかせっかくおりようとくわだてたものがへんかしておちることになる。
このとおりひよどりごえはむずかしい。
ねこのうちでこのげいができるものはおそらくわがはいのみであろう。
それだからわがはいはこのうんどうをしょうしてまつすべりというのである。
さいごにかきめぐりについていちげんする。
しゅじんのにわはたけがきをもってしかくにしきられている。
椽側とへいこうしているいっぺんははちきゅうけんもあろう。
さゆうはそうほうどもよんけんにすぎん。
いまわがはいのゆったかきめぐりといううんどうはこのかきのうえをおちないようにいっしゅうするのである。
これはやりそんうこともままあるが、しゅびよくいくとお慰になる。
ことにところどころにねをやいたまるたがたっているから、ちょっときゅうそくにべんぎがある。
きょうはできがよかったのであさからひるまでにさんかえやってみたが、やるたびにうまくなる。
うまくなるたびにおもしろくなる。
とうとうよんかえくりかえしたが、よんかえめにはんぶんほどめぐりかけたら、となりのやねからからすがさんわとんできて、いっけんばかりむこうにれつをただしてとまった。
これはすいさんなやっこだ。
ひとのうんどうの妨をする、ことにどこのからすだかせきもないぶんざいで、ひとのへいへとまるというほうがあるもんかとおもったから、とおるんだおいのぞきたまえとこえをかけた。
まっさきのからすはこっちをみてにやにやわらっている。
つぎのはしゅじんのにわをながめている。
さんわめはくちばしをかきねのたけでふいている。
なにかくってきたに違ない。
わがはいはへんとうをまつために、かれらにさんふんかんのゆうよをあたえて、かきのうえにたっていた。
からすはつうしょうをかんさえもんというそうだが、なるほどかんさえもんだ。
わがはいがいくらまっててもあいさつもしなければ、とびもしない。
わがはいはしかたがないから、そろそろあるきだした。
するとまっさきのかんさえもんがちょいとはねをひろげた。
やっとわがはいのいこうにおそれてにげるなとおもったら、みぎむこうからひだりむこうにしせいをかえただけである。
このやろう!じめんのうえならそのぶんにすておくのではないが、いかんせん、たださえほねのおれるどうちゅうに、かんさえもんなどをあいてにしているよゆうがない。
といってまたりつとまってさんわがたちのくのをまつのもいやだ。
だいいちそうまっていてはあしがつづかない。
せんぽうははねのあるみぶんであるから、こんなところへはとまりつけている。
したがってきにいればいつまでもとうりゅうするだろう。
こっちはこれでよんかえめだたださえおおいたろうれている。
いわんやつなわたりにもおとらざるげいとうけんうんどうをやるのだ。
なんらのしょうがいぶつがなくてさえおちんとはほしょうができんのに、こんなくろしょうぞくが、さんこもぜんとをさえぎってはよういならざるふつごうだ。
いよいよとなればみずからうんどうをちゅうししてかきねをおりるよりしかたがない。
めんどうだから、いっそさようつかまつろうか、てきはたいせいのことではあるし、ことにはあまりこのあたりにはみなれぬじんたいである。
くちくちばしがおつにとががってなんだかてんぐのけいしこのようだ。
どうせしつのいいやっこでないにはごくっている。
たいきゃくがあんぜんだろう、あまりふかいりをしてまんいちおちでもしたらなおさらちじょくだ。
とおもっているとひだりむこうをしたからすがあほうとゆった。
つぎのもまねをしてあほうとゆった。
さいごのやっこはごていやすしにもあほうあほとにごえさけんだ。
いかにおんこうなるわがはいでもこれはかんかできない。
だいいちじこのやしきないでからすともがらにぶじょくされたとあっては、わがはいのなまえにかかわる。
なまえはまだないからかかわりようがなかろうというならたいめんにかかわる。
けっしてたいきゃくはできない。
ことわざにもうごうのしゅうというからさんわだってぞんがいよわいかもしれない。
すすめるだけすすめとどきょうをすえて、のそのそあるきだす。
からすはしらんかおをしてなにかおかたみにはなしをしているようすだ。
いよいよかんしゃくにさわる。
かきねのはばがもうごろくすんもあったらひどいめにあわせてやるんだが、ざんねんなことにはいくらおこっても、のそのそとしかあるかれない。
ようやくのことせんぽうをさることやくごろくすんのきょりまできてもうひといきだとおもうと、かんさえもんはもうしあわせたように、いきなりはね搏をしていちにしゃくとびあがった。
そのかぜがとつぜんよのかおをふいたとき、はっとおもったら、ついふみがいずして、すとんとおちた。
これはしくじったとかきねのしたからみあげると、さんわどももとのところにとまってうえからくちばしをそろえてわがはいのかおをみくだしている。
ずぶといやっこだ。
ねめつけてやったがいっこうきかない。
せをまるくして、しょうしょううなったが、ますますだめだ。
ぞくじんにれいみょうなるしょうちょうしがわからぬごとく、わがはいがかれらにむかってしめすいかりのきごうもなんらのはんのうをていしゅつしない。
かんがえてみるとむりのないところだ。
わがはいはいままでかれらをねことしてとりあつかっていた。
それがあくるい。
ねこならこのくらいやればたしかにこたえるのだがあいにくあいてはからすだ。
からすのかんおおやけとあってみればいたしかたがない。
じつぎょうかがしゅじんくさやせんせいをあっとうしようとあせるごとく、さいぎょうにぎんせいのわがはいをしんていするがごとく、さいごうたかもりくんのどうぞうにかんおおやけがくそをひるようなものである。
きをみるにさとしなるわがはいはとうていだめとみてとったから、きれいさっぱりと椽側へひきあげた。
もうばんめしのじこくだ。
うんどうもいいがどをすごすといかぬもので、からだぜんたいがなんとなく緊りがない、ぐたぐたのかんがある。
のみならずまだあきのとりつきでうんどうちゅうにてりつけられたけごろもは、にしびをおもうぞんぶんきゅうしゅうしたとみえて、ほてってたまらない。
けあなからしみだすあせが、ながれればとおもうのにけのねにあぶらのようにねばりつく。
せなかがむずむずする。
あせでむずむずするのとのみがはってむずむずするのははんぜんとくべつができる。
くちのとどくところならかむこともできる、あしのたっするりょうぶんはひきかくこともこころえにあるが、せきずいのたてにかようまんなかときたらじぶんのおよぶきりでない。
こういうときにはにんげんをみかけてやたらにこすりつけるか、まつのきのかわでじゅうぶんまさつじゅつをおこなうか、にしゃそのいちをえらばんとふゆかいであんみんもできかねる。
にんげんはぐなものであるから、ねこなでごえで――ねこなでごえはにんげんのわがはいにたいしてだすこえだ。
わがはいをめやすにしてかんがえればねこなでごえではない、なでられごえである――よろしい、とにかくにんげんはぐなものであるからなでられごえでひざのはたへよっていくと、たいていのばあいにおいてかれもしくはかのじょをあいするものとごかいして、わがなすままにまかせるのみかおりおりはあたまさえなでてくれるものだ。
しかるにきんらいわがはいのけちゅうにのみとごうするいっしゅのきせいちゅうがはんしょくしたのでめったによりそうと、かならず頸筋をもってむこうへほうりだされる。
わずかにめにはいるかはいらぬか、とるにもたらぬむしのためにあいそをつかしたとみえる。
てをひるがえせばあめ、てをくつがえせばくもとはこのことだ。
こうがのみのせんびきやにせんびきでよくまあこんなにげんきんなまねができたものだ。
にんげんせかいをつうじておこなわれるあいのほうそくのだいいちじょうにはこうあるそうだ。
――じこのりえきになるまは、すべからくひとをあいすべし。
――にんげんのとりこががぜんひょうへんしたので、いくらかゆゆくてもじんりきをりようすることはできん。
だからだいにのほうほうによってまつがわまさつほうをやるよりほかにふんべつはない。
しからばちょっとこすってまいろうかとまた椽側からふりかけたが、いやこれもりがいしょうつぐなわぬぐさくだとこころづいた。
というのはほかでもない。
まつにはあぶらがある。
このあぶらたるすこぶるしゅうちゃくしんのつよいもので、もしいちたび、けのさきへくっつけようものなら、かみなりがなってもばるちっくかんたいがぜんめつしてもけっしてはなれない。
しかのみならずごほんのけへこびりつくがはやいか、じゅうほんにまんえんする。
じゅうほんやられたなときがつくと、もうさんじゅうほんひっかかっている。
わがはいはたんぱくをあいするちゃじんてきねこである。
こんな、しつこい、どくわるな、ねちねちした、しゅうねんぶかいやつはだいいやだ。
たといてんかのびねこといえどもごめんこうむる。
いわんやまつやににおいてをやだ。
くるまやのくろのりょうめからきたかぜにじょうじてながれるめくそとえらぶところなきみぶんをもって、このあわはいいろのけころもをだいなしにするとはあやしからん。
すこしはかんがえてみるがいい。
といったところできゃつなかなかかんがえるきやはない。
あのかわのあたりへいってせなかをつけるがはやいかかならずべたりとおいでになるにごくっている。
こんなむふんべつなとみ痴奇をあいてにしてはわがはいのかおにかかわるのみならず、ひいてわがはいのけなみにかんするわけだ。
いくら、むずむずしたってがまんするよりほかにいたしかたはあるまい。
しかしこのにほうほうどもじっこうできんとなるとはなはだこころぼそい。
いまにおいていちくふうしておかんとしまいにはむずむず、ねちねちのけっかびょうきにかかるかもしれない。
なにかふんべつはあるまいかなと、のちとあしをおってしあんしたが、ふとおもいだしたことがある。
うちのしゅじんはときどきてぬぐいとせっけんをもってひょうぜんといずれへかでていくことがある、さんよんじゅうふんしてかえったところをみるとかれのもうろうたるかおいろがすこしはかっきをおびて、はれやかにみえる。
しゅじんのようなきたなくるしいおとこにこのくらいなえいきょうをあたえるならわがはいにはもうすこしききめがあるにそういない。
わがはいはただでさえこのくらいなきりょうだから、これよりいろおとこになるひつようはないようなものの、まんいちびょうきにかかっていちさいなにがつきでようせつするようなことがあってはてんかのそうせいにたいしてもうしわけがない。
きいてみるとこれもにんげんのひまつぶしにあんしゅつしたせんとうなるものだそうだ。
どうせにんげんのつくったものだからろくなものでないにはごくっているがこのさいのことだからためしにはいいってみるのもよかろう。
やってみてこうけんがなければよすまでのことだ。
しかしにんげんがじこのためにせつびしたよくじょうへいるいのねこをいれるだけのひろしりょうがあるだろうか。
これがぎもんである。
しゅじんがすましてはいいるくらいのところだから、よもやわがはいをことわることもなかろうけれどもまんいちおきのどくさまをくうようなことがあってはがいぶんがわるい。
これはひとまずようすをみにいくにこしたことはない。
みたうえでこれならよいとあたりがついたら、てぬぐいを啣えてとびこんでみよう。
とここまでしあんをさだめたうえでのそのそとせんとうへでかけた。
よこちょうをひだりへおれるとむこうにたかいとよたけのようなものがきつりつしてさきからうすいけむりをはいている。
これすなわちせんとうである。
わがはいはそっとうらぐちからしのびこんだ。
うらぐちからしのびこむのをひきょうとかみれんとかいうが、あれはひょうからでなくてはほうもんすることができぬものがしっとはんぶんにはやしたてるくりごとである。
むかしからりこうなひとはうらぐちからふいをおそうことにきまっている。
しんしようせいかたのだいにかんだいいちしょうのごぺーじにそうでているそうだ。
そのつぎのぺーじにはうらぐちはしんしのいしょにしてじしんとくをえるのもんなりとあるくらいだ。
わがはいはにじゅうせいきのねこだからこのくらいのきょういくはある。
あんまりけいべつしてはいけない。
さてしのびこんでみると、ひだりのほうにまつをわってはちすんくらいにしたのがやまのようにつんであって、そのとなりにはせきたんがおかのようにもってある。
なぜまつたきぎがやまのようで、せきたんがおかのようかときくひとがあるかもしれないが、べつにいみもなにもない、ただちょっとやまとおかをつかいわけただけである。
にんげんもこめをくったり、とりをくったり、さかなをくったり、ししをくったりいろいろのわるものぐいをしつくしたあげくついにせきたんまでくうようにだらくしたのはふびんである。
いきあたりをみるといっけんほどのいりぐちがあけはなしになって、なかをのぞくとがんがらがんのがあんとものしずかである。
そのむこうがわでなにかしきりににんげんのこえがする。
いわゆるせんとうはこのこえのはっするあたりにそういないとだんていしたから、まつたきぎとせきたんのまにできてるたにあいをとおりぬけてひだりへまわって、ぜんしんするとみぎてにがらすまどがあって、そのそとにまるいしょうおけがさんかっけいすなわちぴらみっどのごとくつみかさねてある。
まるいものがさんかくにつまれるのはふほんいせんまんだろうと、ひそかにしょうおけしょくんのいをりょうとした。
しょうおけのみなみがわはよんごしゃくのまばんがあまって、あたかもわがはいをむかいうるもののごとくみえる。
いたのたかさはじめんをさるやくいちめーとるだからとびあがるにはおあつらえのじょうとうである。
よろしいといいながらひらりとみをおどらすといわゆるせんとうははなのさき、めのした、かおのまえにぶらついている。
てんかになにがおもしろいとゆって、いまだくわざるものをくい、いまだみざるものをみるほどのゆかいはない。
しょくんもうちのしゅじんのごとくいっしゅうさんどくらい、このせんとうかいにさんじゅうふんないしよんじゅうふんをくらすならいいが、もしわがはいのごとくふろというものをみたことがないなら、はやくみるがいい。
おやのしにめにあわなくてもいいから、これだけはぜひけんぶつするがいい。
せかいひろしといえどもこんなきかんはまたとあるまい。
なにがきかんだ?なにがきかんだってわがはいはこれをくちにするを憚かるほどのきかんだ。
このがらすまどのなかにうじゃうじゃ、があがあさわいでいるにんげんはことごとくらたいである。
たいわんのせいばんである。
にじゅうせいきのあだむである。
そもそもいしょうのれきしをひもとけば――ながいことだからこれはといふぇるすどれっくくんにゆずって、ひもとくだけはやめてやるが、――にんげんはまったくふくそうでもってるのだ。
じゅうはちせいきのころだいえいこくばすのおんせんじょうにおいてぼー・なっしがげんじゅうなきそくをせいていしたときなどはよくじょうないでだんじょどもかたからあしまできものでかくしたくらいである。
いまをさることろくじゅうねんまえこれもえいこくのさるとでずあんがっこうをせつりつしたことがある。
ずあんがっこうのことであるから、らたいが、らたいぞうのもしゃ、もけいをかいこんで、ここ、かしこにちんれつしたのはよかったが、いざかいこうしきをきょこうするいちだんになってとうきょくしゃをはじめがっこうのしょくいんがだいこんきゃくをしたことがある。
かいこうしきをやるとすれば、しのしゅくじょをしょうたいしなければならん。
ところがとうじのきふじんかたのこうによるとにんげんはふくそうのどうぶつである。
かわをきたさるのこぶんではないとおもっていた。
にんげんとしてきものをつけないのはぞうのはななきがごとく、がっこうのせいとなきがごとく、へいたいのゆうきなきがごとくまったくそのほんたいをしっしている。
いやしくもほんたいをしっしているいじょうはにんげんとしてはつうようしない、じゅうるいである。
たとえもしゃもけいにせよじゅうるいのにんげんとごするのはきじょのひんいをがいするわけである。
でありますからそばめとうはしゅっせきおことわりもうすといわれた。
そこでしょくいんどもははなせないれんちゅうだとはおもったが、なにしろおんなはとうざいりょうこくをつうじていちしゅのそうしょくひんである。
べい舂にもなれんしがんへいにもなれないが、かいこうしきにはかくべからざるかそうどうぐである。
というところからしかたがない、ごふくやへいってくろぬのをさんじゅうごたんはちふんななかってきてれいのじゅうるいのにんげんにことごとくきものをきせた。
しつれいがあってはならんとねんにねんをいれてかおまできものをきせた。
かようにしてようやくのこととどこおりなくしきをすましたというはなしがある。
そのくらいいふくはにんげんにとってたいせつなものである。
ちかごろはらたいがらたいがとゆってしきりにらたいをしゅちょうするせんせいもあるがあれはあやまっている。
うまれてからきょうにいたるまでいちにちもらたいになったことがないわがはいからみると、どうしてもまちがっている。
らたいはまれ臘、らばのいふうがぶんげいふっこうじだいのいんびのかぜにさそわれてからはやりだしたもので、まれ臘人や、らうまじんはへいじょうかららたいをみ做れていたのだから、これをもってふうきょうじょうのりがいのかんけいがあるなどとはごうもおもいおよばなかったのだろうがほくおうはさむいところだ。
にっぽんでさえはだかでどうちゅうがなるものかというくらいだからどいつやえいよしとしではだかになっておればしんでしまう。
しんでしまってはつまらないからきものをきる。
みんながきものをきればにんげんはふくそうのどうぶつになる。
いちたびふくそうのどうぶつとなったのちに、とつぜんらたいどうぶつにであえばにんげんとはみとめない、ししとおもう。
それだからおうしゅうじんことにほっぽうのおうしゅうじんはらたいが、らたいぞうをもってししとしてとりあつかっていいのである。
ねこにおとるししとにんていしていいのである。
うつくしい?うつくしくてもかまわんから、うつくしいししとみ做せばいいのである。
こういうとせいようふじんのれいふくをみたかというものもあるかもしれないが、ねこのことだからせいようふじんのれいふくをはいけんしたことはない。
きくところによるとかれらはむねをあらわし、かたをあらわし、うでをあらわしてこれをれいふくとしょうしているそうだ。
あやしからんことだ。
じゅうよんせいきごろまではかれらのいでたちはしかくこっけいではなかった、やはりふつうのにんげんのきるものをきておった。
それがなぜこんなかとうなけいじゅつしりゅうにてんかしてきたかはめんどうだからのべない。
しるひとぞしる、しらぬものはしらんかおをしておればよろしかろう。
れきしはとにかくかれらはかかるいようなかぜたいをしてやかんだけはとくとくたるにもかかわらずないしんはしょうしょうにんげんらしいところもあるとみえて、ひがでると、かたをすぼめる、むねをかくす、うでをつつむ、どこもかしこもことごとくみえなくしてしまうのみならず、あしのつめいちほんでもひとにみせるのをひじょうにちじょくとかんがえている。
これでかんがえてもかれらのれいふくなるものはいっしゅのとんちんかんてきさようによって、ばかとばかのそうだんからせいりつしたものだということがわかる。
それがくちおしければにちちゅうでもかたとむねとうでをだしていてみるがいい。
らたいしんじゃだってそのとおりだ。
それほどらたいがいいものならむすめをらたいにして、ついでにじぶんもはだかになってうえのこうえんをさんぽでもするがいい、できない?できないのではない、せいようじんがやらないから、じぶんもやらないのだろう。
げんにこのふごうりきわまるれいふくをきていばってていこくほてるなどへでかけるではないか。
そのいんねんをたずねるとなににもない。
ただせいようじんがきるから、きるというまでのことだろう。
せいようじんはつよいからむりでもばかきていてもまねなければやりきれないのだろう。
ながいものにはまかれろ、つよいものにはおれろ、おもいものにはおされろと、そうれろつくしではきがきかんではないか。
きがきかんでもしかたがないというならかんべんするから、あまりにっぽんじんをえらいものとおもってはいけない。
がくもんといえどもそのとおりだがこれはふくそうにかんけいがないことだからいかりゃくとする。
いふくはかくのごとくにんげんにもだいじなものである。
にんげんがいふくか、いふくがにんげんかというくらいじゅうようなじょうけんである。
にんげんのれきしはにくのれきしにあらず、ほねのれきしにあらず、ちのれきしにあらず、たんにいふくのれきしであるともうしたいくらいだ。
だからいふくをつけないにんげんをみるとにんげんらしいかんじがしない。
まるでばけものにかいこうしたようだ。
ばけものでもぜんたいがもうしあわせてばけものになれば、いわゆるばけものはきえてなくなるわけだからかまわんが、それではにんげんじしんがだいにこんきゃくすることになるばかりだ。
そのむかしししぜんはにんげんをびょうどうなるものにせいぞうしてよのなかにほうりだした。
だからどんなにんげんでもうまれるときはかならずせきらである。
もしにんげんのほんしょうがびょうどうにやすんずるものならば、よろしくこのあかはだかのままでせいちょうしてしかるべきだろう。
しかるにあかはだかのいちにんがいうにはこうだれもかれもおなじではべんきょうするかいがない。
ほねをおったけっかがみえぬ。
どうかして、おれはおれだだれがみてもおれだというところがめにつくようにしたい。
それについてはなにかひとがみてあっとたまげるものをからだにつけてみたい。
なにかくふうはあるまいかとじゅうねんかんかんがえてようやくさるまたをはつめいしてすぐさまこれをはいて、どうだおそれいったろうといばってそこいらをあるいた。
これがきょうのしゃふのせんぞである。
たんかんなるさるまたをはつめいするのにじゅうねんのちょうじつげつをついやしたのはいささかことなかんもあるが、それはきょうからこだいにさかのぼってみをもうまいのせかいにおいてだんていしたけつろんというもので、そのとうじにこれくらいなだいはつめいはなかったのである。
でかるとは「よはしこうす、ゆえによはそんざいす」というみつごにでもわかるようなしんりをかんがえだすのにじゅうなんねんかかかったそうだ。
すべてかんがえだすときにはほねのおれるものであるからさるまたのはつめいにじゅうねんをついやしたってしゃふのちえにはできすぎるといわねばなるまい。
さあさるまたができるとよのなかではばのきくのはしゃふばかりである。
あまりしゃふがさるまたをつけててんかのだいどうをわがぶつがおにおうこう濶歩するのをにくらしいとおもってまけんきのばけものがろくねんかんくふうしてはおりというむようのちょうぶつをはつめいした。
するとさるまたのせいりょくはとみにおとろえて、はおりぜんせいのじだいとなった。
やおや、きぐすりや、ごふくやはみなこのだいはつめいかのばつりゅうである。
さるまたき、はおりきののちにくるのがはかまきである。
これは、なんだはおりのくせにとかんしゃくをおこしたばけもののこうあんになったもので、むかしのぶしいまのかんいんなどはみなこのたねぞくである。
かようにばけものどもがわれもわれもとことをてらいしんをきそって、ついにはつばめのおにかたどった畸形までしゅつげんしたが、しりぞいてそのゆらいをあんずると、なにもむりやりに、でたらめに、ぐうぜんに、まんぜんにもちあがったじじつではけっしてない。
みなかちたいかちたいのゆうもうしんのこってさまざまのしんがたとなったもので、おれはてまえじゃないぞとふれてあるくかわりにこうむっているのである。
してみるとこのしんりからしていちだいはっけんができる。
それはほかでもない。
しぜんはしんくうをいむごとく、にんげんはびょうどうをきらうということだ。
すでにびょうどうをきらってやむをえずいふくをこつにくのごとくかようにつけまとうきょうにおいて、このほんしつのいちぶぶんたる、これとうをうちやって、もとのもくあみのこうへいじだいにかえるのはきょうじんのさたである。
よしきょうじんのめいしょうをあまんじてもかえることはとうていできない。
かえったれんちゅうをかいめいじんのめからみればばけものである。
たとえせかいなんおくまんのじんこうをあげてばけもののいきにひきずりおろしてこれならびょうどうだろう、みんながばけものだからはずかしいことはないとあんしんしてもやっぱりだめである。
せかいがばけものになったよくじつからまたばけもののきょうそうがはじまる。
きものをつけてきょうそうができなければばけものなりできょうそうをやる。
あかはだかはせきらでどこまでもさべつをたててくる。
このてんからみてもいふくはとうていぬぐことはできないものになっている。
しかるにいまわがはいががんかにみくだしたにんげんのいちだんたいは、このぬぐべからざるさるまたもはおりもないしはかまもことごとくたなのうえにあげて、ぶえんりょにもほんらいのきょうたいをしゅうもくかんしのうらにろしゅつしてたいら々しかとだんしょうをたてまにしている。
わがはいがせんこくいちだいきかんとゆったのはこのことである。
わがはいはぶんめいのしょくんしのためにここにつつしんでそのいっぱんをしょうかいするのさかえをゆうする。
なんだかごちゃごちゃしていてなににからきじゅつしていいかわからない。
ばけもののやることにはきりつがないからちつじょたったしょうめいをするのにほねがおれる。
まずゆぶねからのべよう。
ゆぶねだかなんだかわからないが、おおかたゆぶねというものだろうとおもうばかりである。
はばがさんしゃくくらい、ちょうはいっけんはんもあるか、それをふたつにしきってひとつにはしろいゆがはいいっている。
なにでもやくとうとかごうするのだそうで、せっかいをとかしこんだようないろににごっている。
もっともただにごっているのではない。
あぶらぎって、おもたきににごっている。
よくきくとくさってみえるのもふしぎはない、いちしゅうかんにいちどしかみずをやすえないのだそうだ。
そのとなりはふつういっぱんのゆのよしだがこれまたもってとうめい、瑩徹などとはちかってもうされない。
てんすいおけを攪きまぜたくらいのかちはそのいろのうえにおいてじゅうぶんあらわれている。
これからがばけもののきじゅつだ。
おおいたぼねがおれる。
てんすいおけのほうに、つったっているわかぞうがににんいる。
たったまま、むかいあってゆをざぶざぶはらのうえへかけている。
いいなぐさみだ。
そうほうどもしょくのくろいてんにおいてかんぜんするところなきまでにはったつしている。
このばけものはおおいた逞ましいなとみていると、やがていちにんがてぬぐいでむねのあたりをなでまわしながら「きむさん、どうも、ここがいたんでいけねえがなにだろう」ときくときむさんは「そりゃいさ、いていうやつはいのちをとるからね。
ようじんしねえとあぶないよ」とねっしんにちゅうこくをくわえる。
「だってこのひだりのほうだぜ」たひだりはいのほうをさす。
「そこがいだあな。
ひだりがいで、みぎがはいだよ」「そうかな、おらあまたいはここいらかとおもった」とこんどはこしのあたりをたたいてみせると、きむさんは「そりゃせんきだあね」とゆった。
ところへにじゅうごろくのうすいひげをはやしたおとこがどぶんととびこんだ。
すると、からだについていたせっけんがあかとともにうきあがる。
てつきのあるみずをすかしてみたときのようにきらきらとひかる。
そのとなりにあたまのはげたじいさんがごふんかりをとらえてなにかべんじている。
そうほうどもとうだけうかしているのみだ。
「いやこうとしをとってはだめさね。
にんげんもやきがまわっちゃわかいものにはかなわないよ。
しかしゆだけはいまでもあついのでないとこころもちがわるくてね」「だんななんかじょうぶなものですぜ。
そのくらいげんきがありゃけっこうだ」「げんきもないのさ。
ただびょうきをしないだけさ。
にんげんはわるいことさえしなけりゃあひゃくにじゅうまではいきるもんだからね」「へえ、そんなにいきるもんですか」「いきるともひゃくにじゅうまではうけあう。
ごいしんぜんうしごめにまがりぶちというはたもとがあって、そこにいたげなんはひゃくさんじゅうだったよ」「そいつは、よくいきたもんですね」「ああ、あんまりいきすぎてついじぶんのとしをわすれてね。
ひゃくまではおぼえていましたがそれからわすれてしまいましたとゆってたよ。
それでわしのしっていたのがひゃくさんじゅうのときだったが、それでしんだんじゃない。
それからどうなったかわからない。
ことによるとまだいきてるかもしれない」といいながらそうからのぼる。
ひげをはやしているおとこはうんものようなものをじぶんのまわりにまきちらしながらひとりでにやにやわらっていた。
いれかわってとびこんできたのはふつういっぱんのばけものとはちがってせなかにもようがをほりつけている。
いわみしげたろうがたちをふりかざして蟒をたいじるところのようだが、おしいことにいまだしゅんこうのきにたっせんので、蟒はどこにもみえない。
したがってしげたろうせんせいいささかひょうしぬけのきみにみえる。
とびこみながら「へらぼうにゆたかるいや」とゆった。
するとまたいちにんつづいてのりこんだのが「こりゃどうも……もうすこしあつくなくっちゃあ」とかおをしかめながらあついのをがまんするけしきともみえたが、しげたろうせんせいとかおをみあわせて「やあおやかた」とあいさつをする。
しげたろうは「やあ」とゆったが、やがて「みんさんはどうしたね」ときく。
「どうしたか、じゃんじゃんがすきだからね」「じゃんじゃんばかりじゃねえ……」「そうかい、あのおとこもはらのよくねえおとこだからね。
――どういうもんかひとにすかれねえ、――どういうものだか、――どうもひとがしんようしねえ。
しょくにんてえものは、あんなもんじゃねえが」「そうよ。
みんさんなんざあこしがひくいんじゃねえ、あたまがたかけえんだ。
それだからどうもしんようされねえんだね」「ほんとうによ。
あれでいちっぱしうでがあるつもりだから、――つまりじぶんのそんだあな」「しらかねまちにもふるいひとがなくなってね、いまじゃおけやのもとさんとれんがやのたいしょうとおやかたぐれえなしゃだあな。
こちとらあこうしてここでうまれたもんだが、みんさんなんざあ、どこからきたんだかわかりゃしねえ」「そうよ。
しかしよくあれだけになったよ」「うん。
どういうもんかひとにすかれねえ。
ひとがこうさいわねえからね」とてっとうてつびみんさんをこうげきする。
てんすいおけはこのくらいにして、しろいゆのほうをみるとこれはまたひじょうなおおいりで、ゆのなかにひとがはいいってるといわんよりひとのなかにゆがはいいってるというほうがてきとうである。
しかもかれらはすこぶるゆうゆうかんかんたるもので、せんこくからはいいるものはあるがでるものはいちにんもない。
こうはいいったうえに、いちしゅうかんもとめておいたらゆもよごれるはずだとかんしんしてなおよくそうのなかをみわたすと、ひだりのすみにおしつけられてくさやせんせいがまっかになってすくんでいる。
かわいそうにだれかろをあけてだしてやればいいのにとおもうのにだれもうごきそうにもしなければ、しゅじんもでようとするけしきもみせない。
ただじっとしてあかくなっているばかりである。
これはごくろうなことだ。
なるべくにせんごりんのゆせんをかつようしようというせいしんからして、かようにあかくなるのだろうが、はやくあがらんとゆげにあがるがとしゅおもいのわがはいはまどのたなからすくなからずしんぱいした。
するとしゅじんのいちけんおいてとなりにういてるおとこがはちのじをよせながら「これはちとききすぎるようだ、どうもせなかのほうからあついやつがじりじりわいてくる」とあんにれっせきのばけものにどうじょうをもとめた。
「なあにこれがちょうどいいかげんです。
やくとうはこのくらいでないとききません。
わたしのくになぞではこのばいもあついゆへはいいります」とじまんらしくときたてるものがある。
「いったいこのゆはなににきくんでしょう」とてぬぐいをたたんでおうとつあたまをかくしたおとこがいちどうにきいてみる。
「いろいろなものにききますよ。
なにでもいいてえんだからね。
ごうきだあね」とゆったのはやせたきうりのようないろとかたちとをかねえたるかおのしょゆうしゃである。
そんなにきくゆなら、もうすこしはじょうぶそうになれそうなものだ。
「くすりをいれだてより、さんにちめかよんにちめがちょうどいいようです。
きょうとうははいいりごろですよ」とものしりがおにのべたのをみると、ふくれかえったおとこである。
これはたぶんあかふとりだろう。
「のんでもききましょうか」とどこからかしらないがきいろいこえをだすものがある。
「ひえたのちなどはいっぱいのんでねると、きたいにしょうべんにおきないから、まあやってごらんなさい」とこたえたのは、どのかおからでたこえかわからない。
ゆぶねのほうはこれぐらいにしていたのまをみわたすと、いるわいるわえにもならないあだむがずらりとならんでかくかってしだいなしせいで、かってしだいなところをあらっている。
そのなかにもっともおどろきろくべきのはあおむけにねて、たかいあかりとをながめているのと、はらばいになって、みぞのなかをのぞきこんでいるりょうあだむである。
これはよほど閑なあだむとみえる。
ぼうずがいしかべをむいてしゃがんでいるとうしろから、こぼうずがしきりにかたをたたいている。
これはしていのかんけいじょうさんかいのだいりをつとめるのであろう。
ほんとうのさんかいもいる。
かぜをひいたとみえて、このあついのにちゃんちゃんをきて、こばんがたのおけからざあとだんなのかたへゆをあびせる。
みぎのあしをみるとおやゆびのまたにごろのあかすりをはさんでいる。
こちらのほうではしょうおけをよくはってみっつかかえこんだおとこが、となりのひとにせっけんをつかえつかえといいながらしきりにちょうだんぎをしている。
なにだろうときいてみるとこんなことをいっていた。
「てっぽうはがいこくからわたったもんだね。
むかしはきりあいばかりさ。
がいこくはひきょうだからね、それであんなものができたんだ。
どうも支那じゃねえようだ、やっぱりがいこくのようだ。
わとうないのときにゃなかったね。
わとうないはやはりせいわはじめしさ。
なんでもよしつねがえぞからまんしゅうへわたったときに、えぞのおとこでたいへんがくのできるひとがくっついていったてえはなしだね。
それでそのよしつねのむすこがだいめいをせめたんだがだいめいじゃこまるから、さんだいしょうぐんへしをよこしてさんせんにんのへいたいをかしてくれろというと、さんだいさまがそいつをとめておいてきさねえ。
――なんとかゆったっけ。
――なにでもなんとかいうしだ。
――それでそのしをにねんとめておいてしまいにながさきでじょろうをみせたんだがね。
そのじょろうにできたこがわとうないさ。
それからくにへかえってみるとだいめいはこくぞくにほろぼされていた。
……」なにをいうのかさっぱりわからない。
そのうしろににじゅうごろくのいんきなかおをしたおとこが、ぼんやりしてまたのところをしろいゆでしきりにたでている。
はれものかなにかでくるしんでいるとみえる。
そのよこにとしのころはじゅうななはちできみとかぼくとかなまいきなことをべらべらちょうしたってるのはこのきんじょのしょせいだろう。
そのまたつぎにみょうなせなかがみえる。
しりのなかからかんちくをおしこんだようにせぼねのふしがれきれきとでている。
そうしてそのさゆうにじゅうろくむさしににたるかたちがよんこずつぎょうぎよくならんでいる。
そのじゅうろくむさしがあかくただれてしゅういにうみをもっているのもある。
こうじゅんじゅんにかいてくると、かくことがおおすぎてとうていわがはいのてぎわにはそのいちむらさえけいようすることができん。
これはやっかいなことをやりはじめたものだとしょうしょうへきえきしているといりぐちのほうにあさぎゆうのきものをきたななじゅうばかりのぼうずがぬっとみわれた。
ぼうずはうやうやしくこれらのらたいのばけものにいちれいして「へい、どなたさまも、まいにちしょうかわらずありがとうぞんじます。
きょうはしょうしょうおさむうございますから、どうぞおゆるくり――どうぞしろいゆへでたりはいいったりして、ゆるりとおあったまりください。
――ばんがしらさんや、どうかゆかげんをよくみてあげてな」とよどみなくのべたてた。
ばんがしらさんは「おーい」とこたえた。
わとうないは「あいきょうものだね。
あれでなくてはしょうがいはできないよ」とだいにじいさんをげきしょうした。
わがはいはとつぜんこのことなじいさんにあってちょっとおどろきろいたからこっちのきじゅつはそのままにして、しばらくじいさんをせんもんにかんさつすることにした。
じいさんはやがてこんのぼりだてのよっつばかりのおとこのこをみて「ぼっちゃん、こちらへおいで」とてをだす。
しょうきょうはだいふくをふみつけたようなじいさんをみてたいへんだとおもったか、わーっとひめいをあげてなきだす。
じいさんはすこしくふほんいのきみで「いや、ごなきか、なに?じいさんがこわい?いや、これはこれは」とかんたんした。
しかたがないものだからたちまちきほうをてんじて、しょうきょうのおやにむかった。
「や、これはみなもとさん。
きょうはすこしさむいな。
ゆうべ、おうみやへはいいったどろぼうはなにというばかなやつじゃの。
あのとのもぐりのところをしかくにきりやぶっての。
そうしておまえの。
なにもとらずにくだりんだげな。
ごめぐりさんかよばんでもみえたものであろう」とだいにどろぼうのむぼうをびんしょうしたがまたいちにんを捉らまえて「はいはいおさむう。
あなたかたは、おわかいから、あまりおかんじにならんかの」とろうじんだけにただいちにんさむがっている。
しばらくはじいさんのほうへきをとられてたのばけもののことはまったくわすれていたのみならず、くるしそうにすくんでいたしゅじんさえきおくのなかからきえさったときとつぜんながしといたのまのちゅうかんでおおきなこえをだすものがある。
みるとまぎれもなきくさやせんせいである。
しゅじんのこえのずぬけておおいなるのと、そのにごってききくるしいのはきょうにはじまったことではないがばしょがばしょだけにわがはいはすくなからずおどろきろいた。
これはまさしくねっとうのなかにちょうじかんのあいだがまんをしてひたっておったためぎゃくじょうしたにそういないととっさのさいにわがはいはかんていをつけた。
それもたんにびょうきのしょいならとがむるごともないが、かれはぎゃくじょうしながらもじゅうぶんほんしんをゆうしているにそういないことは、なにのためにこのほうがいのどうまごえをだしたかをはなせばすぐわかる。
かれはとるにもたらぬなまいきしょせいをあいてにだいにんきもないけんかをはじめたのである。
「もっとさがれ、おれのしょうおけにゆがはいいっていかん」とどなるのはむろんしゅじんである。
ものはみようでどうでもなるものだから、このどごうをただぎゃくじょうのけっかとばかりはんだんするひつようはない。
まんにんのうちにいちにんくらいはたかやまひこくろうがさんぞくをしかしたようだくらいにかいしゃくしてくれるかもしれん。
とうにんじしんもそのつもりでやったしばいかもわからんが、あいてがさんぞくをもってみずからおらんいじょうはよきするけっかはでてこないにごくっている。
しょせいはうしろをふりかえって「ぼくはもとからここにいたのです」とおとなしくこたえた。
これはじんじょうのこたえで、ただそのちをさらぬことをしめしただけがしゅじんのおもいどおりにならんので、そのたいどといいげんごといい、さんぞくとしてののしりかえすべきほどのことでもないのは、いかにぎゃくじょうのきみのしゅじんでもわかっているはずだ。
しかししゅじんのどごうはしょせいのせきそのものがふへいなのではない、せんこくからこのりょうにんはしょうねんににあわず、いやにこうまんちきな、きいたかぜのことばかり併べていたので、しじゅうそれをきかされたしゅじんは、まったくこのてんにりっぷくしたものとみえる。
だからせんぽうでおとなしいあいさつをしてもだまっていたのまへあがりはせん。
こんどは「なんだばかやろう、ひとのおけへきたなないみずをぴちゃぴちゃはねかすやつがあるか」とかつしさった。
わがはいもこのこぞうをしょうしょうこころにくくおもっていたから、このときしんじゅうにはちょっとかいさいをよんだが、がっこうきょういんたるしゅじんのげんどうとしては穏かならぬこととおもうた。
がんらいしゅじんはあまりかたすぎていかん。
せきたんのたきからみたようにかさかさしてしかもいやにかたい。
むかしはんにばるがあるぷすさんをこえるときに、みちのまんなかにあたっておおきないわがあって、どうしてもぐんたいがつうこうじょうのふべんじゃまをする。
そこではんにばるはこのおおきないわへすをかけてひをたいて、やわらかにしておいて、それからのこでこのおおいわをかまぼこのようにきってとどこおりなくつうこうをしたそうだ。
しゅじんのごとくこんなききめのあるやくとうへにだるほどはいいってもすこしもこうのうのないおとこはやはりすをかけてひあぶりにするにかぎるとおもう。
しからずんば、こんなしょせいがなんひゃくにんでてきて、なんじゅうねんかかったってしゅじんのがんこは癒りっこない。
このゆぶねにういているもの、このながしにごろごろしているものはぶんめいのにんげんにひつようなふくそうをぬぎすてるばけもののだんたいであるから、むろんつねただしじょうどうをもってりっするわけにはいかん。
なにをしたってかまわない。
はいのところにいがじんどって、かずとうないがせいわはじめしになって、みんさんがふしんようでもよかろう。
しかしいちたびながしをでていたのまにあがれば、もうばけものではない。
ふつうのじんるいのせいそくするしゃばへでたのだ、ぶんめいにひつようなるきものをきるのだ。
したがってにんげんらしいこうどうをとらなければならんはずである。
こんしゅじんがふんでいるところはしきいである。
ながしといたのまのさかいにあるしきいのうえであって、とうにんはこれから歓言愉色、えんてんかつだつのせかいにぎゃくもどりをしようというまぎわである。
そのまぎわですらかくのごとくがんこであるなら、このがんこはほんにんにとってろうとしてぬくべからざるびょうきにそういない。
びょうきならよういにきょうせいすることはできまい。
このびょうきをいやすほうほうはぐこうによるとただひとつある。
こうちょうにいらいしてめんしょくしてもらうことすなわちこれなり。
めんしょくになればゆうずうのきかぬしゅじんのことだからきっとろとうにまようにごくってる。
ろとうにまようけっかはのたれしにをしなければならない。
かんげんするとめんしょくはしゅじんにとってしのえんいんになるのである。
しゅじんはこのんでびょうきをしてきこんでいるけれど、しぬのはだいいやである。
しなないていどにおいてびょうきといういっしゅのぜいたくがしていたいのである。
それだからそんなにびょうきをしているところすぞと嚇かせばおくびょうなるしゅじんのことだからびりびりと悸えあがるにそういない。
この悸えあがるときにびょうきはきれいにおちるだろうとおもう。
それでもおちなければそれまでのことさ。
いかにばかでもびょうきでもしゅじんにかわりはない。
いちめしくんおんをおもんずというしじんもあることだからねこだってしゅじんのみのうえをおもわないことはあるまい。
きのどくだというねんがむねいちはいになったため、ついそちらにきがとられて、ながしのほうのかんさつをおこたたっていると、とつぜんしろいゆぶねのほうめんにむかってくちぐちにののしるこえがきこえる。
ここにもけんかがおこったのかとふりむくと、せまいざくろぐちにいっすんのよちもないくらいにばけものがとりついて、けのあるはぎと、けのないまたといりみだれてうごいている。
おりからしょしゅうのひはくれるるになんなんとしてながしのうえはてんじょうまでいちめんのゆげがたてかごめる。
かのばけものの犇くさまがそのかんからもうろうとみえる。
あついあついというこえがわがはいのみみをぬきぬいてさゆうへぬけるようにあたまのなかでみだれあう。
そのこえにはきなのも、あおいのも、あかいのも、くろいのもあるがかたみにたたみなりかかっていちしゅめいじょうすべからざるおんきょうをよくじょうないにみなぎらす。
ただこんざつと迷乱とをけいようするにてきしたこえというのみで、ほかにはなにのやくにもたたないこえである。
わがはいはぼうぜんとしてこのこうけいにみいられたばかりたちすくんでいた。
やがてわーわーというこえがこんらんのきょくどにたっして、これよりはもういちほもすすめぬというてんまではりつめられたとき、とつぜんむちゃくちゃにおしよせおしかえしているぐんのなかからいちおおちょうかんがぬっとたちあがった。
かれのみのたけをみるとたのせんせいかたよりはたしかにさんすんくらいはたかい。
のみならずかおからひげがはえているのかひげのなかにかおがどうきょしているのかわからないあかつらをそりかえして、ひざかりにやぶれかねをつくようなこえをだして「うめろうめろ、あついあつい」とさけぶ。
このこえとこのかおばかりは、かのふんぷんともつれあうぐんしゅうのうえにたかくけっしゅつして、そのしゅんかんにはよくじょうぜんたいがこのおとこいちにんになったとおもわるるほどである。
ちょうじんだ。
にーちぇのいわゆるちょうじんだ。
まちゅうのだいおうだ。
ばけもののあたまやなだ。
とおもってみているとゆぶねのうしろでおーいとこたえたものがある。
おやとまたもそちらにひとみをそらすと、くら憺としてぶっしょくもできぬなかに、れいのちゃんちゃんすがたのさんかいがくだけよといちかたまりりのせきたんをかまどのなかになげいれるのがみえた。
かまどのふたをくぐって、このかたまりりがぱちぱちとなるときに、さんかいのはんめんがぱっとあかるくなる。
どうじにさんかいのうしろにあるれんがのかべがくらをとおしてもえるごとくひかった。
わがはいはしょうしょうものすごくなったからそうそうまどからとびおりていえにかえる。
かえりながらもかんがえた。
はおりをぬぎ、さるまたをぬぎ、はかまをぬいでびょうどうになろうとりきめるせきららのなかには、またせきららのごうけつがでてきてたのぐんしょうをあっとうしてしまう。
びょうどうはいくらはだかになったってえられるものではない。
かえってみるとてんかはたいへいなもので、しゅじんはゆあがりのかおをてらてらひからしてばんさんをくっている。
わがはいが椽側からあがるのをみて、のんきなねこだなあ、いまごろどこをあるいているんだろうとゆった。
ぜんのうえをみると、せんのないくせににさんひんごさいをならべている。
そのうちにさかなのやいたのがいっぴきある。
これはなんとしょうするさかなかしらんが、なんでもきのうあたりごだいばきんぺんでやられたにそういない。
さかなはじょうぶなものだとせつめいしておいたが、いくらじょうぶでもこうやかれたりにられたりしてはたまらん。
たびょうにしてざん喘をたもつほうがよほどけっこうだ。
こうかんがえてぜんのはたにすわって、ひまがあったらなにかちょうだいしようと、みるごとくみざるごとくよそおっていた。
こんなよそおいかたをしらないものはとうていうまいさかなはくえないとあきらめなければいけない。
しゅじんはさかなをちょっとつっついたが、うまくないというかおづけをしてはしをおいた。
しょうめんにひかえたるさいくんはこれまたむごんのままはしのじょうげにうんどうするようす、しゅじんのりょうあごのりごうひらき闔のぐあいをねっしんにけんきゅうしている。
「おい、そのねこのあたまをちょっとなぐってみろ」としゅじんはとつぜんさいくんにせいきゅうした。
「なぐてば、どうするんですか」
「どうしてもいいからちょっとなぐってみろ」
こうですかとさいくんはひらてでわがはいのあたまをちょっとたたく。
いたくもなんともない。
「なかんじゃないか」
「ええ」
「もういちかえやってみろ」
「なにかえやったっておなじことじゃありませんか」とさいくんまたひらてでぽかとまいる。
やはりなにともないから、じっとしていた。
しかしそのなにのためたるやはちりょふかきわがはいにはとみとりょうかいしがたい。
これがりょうかいできれば、どうかこうかほうほうもあろうがただなぐってみろだから、なぐつさいくんもこまるし、なぐたれるわがはいもこまる。
しゅじんはにどまでおもいどおりにならんので、しょうしょうじれぎみで「おい、ちょっとなくようにぶってみろ」とゆった。
さいくんはめんどうなかおづけで「なかしてなにになさるんですか」とといながら、またぴしゃりとおいでになった。
こうせんぽうのもくてきがわかればわけはない、ないてさえやればしゅじんをまんぞくさせることはできるのだ。
しゅじんはかくのごとくぐぶつだからいやになる。
なかせるためなら、ためとはやくいえばにかえもさんかえもよけいなてすうはしなくてもすむし、わがはいもいちどでほうめんになることをにどもさんどもくりかええされるひつようはないのだ。
ただうってみろというめいれいは、うつことそれじしんをもくてきとするばあいのほかによううべきものでない。
うつのはむこうのこと、なくのはこっちのことだ。
なくことをはじめからよきしてかかって、ただうつというめいれいのうちに、こっちのずいいたるべきなくことさえふくまってるようにかんがえるのはしっけいせんまんだ。
たにんのじんかくをおもんぜんというものだ。
ねこをばかにしている。
しゅじんのだかつのごとくきらうかねだくんならやりそうなことだが、せきららをもってほこるしゅじんとしてはすこぶるひれつである。
しかしみのところしゅじんはこれほどけちなおとこではないのである。
だからしゅじんのこのめいれいはこうかつのきょくにででたのではない。
つまりちえのたりないところからわいたぼうふらのようなものとしいする。
めしをくえばはらがはるにきわまっている。
きればちがでるにごくっている。
ころせばしぬにきわまっている。
それだからぶてばなくにごくっているとそくだんをやったんだろう。
しかしそれはおきのどくだがすこしろんりにあわない。
そのかくでいくとかわへおちればかならずしぬことになる。
てんぷらをくえばかならずげりすることになる。
げっきゅうをもらえばかならずしゅっきんすることになる。
しょもつをよめばかならずえらくなることになる。
かならずそうなってはすこしこまるひとができてくる。
ぶてばかならずなかなければならんとなるとわがはいはめいわくである。
めじろのときのかねとどういつにみ傚されてはねことうまれたかいがない。
まずはらのうちでこれだけしゅじんをへこましておいて、しかるのちにゃーとちゅうもんどおりないてやった。
するとしゅじんはさいくんにむかって「いまないた、にゃあというこえはかんとうことばか、ふくしかなんだかしってるか」ときいた。
さいくんはあまりとつぜんなといなので、なににもいわない。
みをいうとわがはいもこれはせんとうのぎゃくじょうがまださめないためだろうとおもったくらいだ。
がんらいこのしゅじんはきんじょがっぺきゆうめいなへんじんでげんにあるひとはたしかにしんけいびょうだとまでだんげんしたくらいである。
ところがしゅじんのじしんはえらいもので、おれがしんけいびょうじゃない、よのなかのやつがしんけいびょうだとがんばっている。
きんぺんのものがしゅじんをいぬ々とよぶと、しゅじんはこうへいをいじするためひつようだとかごうしてかれらをぶた々とよぶ。
じっさいしゅじんはどこまでもこうへいをいじするつもりらしい。
こまったものだ。
こういうおとこだからこんなきもんをさいくんにたいってていしゅつするのも、しゅじんにとってはあさしょくぜんのしょうじけんかもしれないが、きくほうからいわせるとちょっとしんけいびょうにちかいひとのいいそうなことだ。
だからさいくんはけむりにまかれたきみでなにともいわない。
わがはいはむろんなにともこたえようがない。
するとしゅじんはたちまちおおきなこえで
「おい」とよびかけた。
さいくんはびっくりして「はい」とこたえた。
「そのはいはかんとうことばかふくしか、どっちだ」
「どっちですか、そんなばかきたことはどうでもいいじゃありませんか」
「いいものか、これがげんにこくごかのずのうをしはいしているだいもんだいだ」
「あらまあ、ねこのなきごえがですか、いやなことねえ。
だって、ねこのなきごえはにほんごじゃあないじゃありませんか」
「それだからさ。
それがむずかしいもんだいなんだよ。
ひかくけんきゅうというんだ」
「そう」とさいくんはりこうだから、こんなばかなもんだいにはかんけいしない。
「それで、どっちだかわかったんですか」
「じゅうようなもんだいだからそうきゅうにはわからんさ」とれいのさかなをむしゃむしゃくう。
ついでにそのとなりにあるぶたといものにころばしをくう。
「これはぶただな」「ええぶたでござんす」「ふん」とだいけいべつのちょうしをもってのみこんだ。
「さけをもういっぱいのもう」とはいをだす。
「こんやはなかなかあがるのね。
もうおおいたあかくなっていらっしゃいますよ」
「のむとも――ごぜんせかいでいちばんながいじをしってるか」
「ええ、まえのかんぱくだじょうだいじんでしょう」
「それはなまえだ。
ながいじをしってるか」
「じってよこもじですか」
「うん」
「しらないわ、――みきはもういいでしょう、これでごはんになさいな、ねえ」
「いや、まだのむ。
いちばんながいじをおしえてやろうか」
「ええ。
そうしたらごはんですよ」
「Archaiomelesidonophrunicherata というじだ」
「でたらめでしょう」
「でたらめなものか、まれ臘語だ」
「なにというじなの、にほんごにすれば」
「いみはしらん。
ただつづりだけしってるんだ。
ながくかくとろくすんさんふんくらいにかける」
たにんならさけのうえでいうべきことを、しょうきでゆっているところがすこぶるきかんである。
もっともこんやにかぎってさけをむあんにのむ。
へいぜいならちょこににはいときめているのを、もうよんはいのんだ。
にはいでもずいぶんあかくなるところをばいのんだのだからかおがしょうひばしのようにほてって、さもくるしそうだ。
それでもまだやめない。
「もういちはい」とだす。
さいくんはあまりのことに
「もうごよしになったら、いいでしょう。
くるしいばかりですわ」とにがにがしいかおをする。
「なにくるしくってもこれからすこしけいこするんだ。
おおまちけいげつがのめとゆった」
「けいげつってなにです」さすがのけいげつもさいくんにあってはいちぶんのかちもない。
「けいげつはげんこんいちりゅうのひひょうかだ。
それがのめというのだからいいにごくっているさ」
「ばかをおっしゃい。
けいげつだって、うめつきだって、くるしい思をしてさけをのめなんて、よけいなことですわ」
「さけばかりじゃない。
こうさいをして、どうらくをして、りょこうをしろといった」
「なおわるいじゃありませんか。
そんなひとがだいいちりゅうのひひょうかなの。
まああきれた。
さいしのあるものにどうらくをすすめるなんて……」
「どうらくもいいさ。
けいげつがすすめなくってもきんさえあればやるかもしれない」
「なくってしあわせだわ。
いまからどうらくなんぞはじめられちゃあたいへんですよ」
「たいへんだというならよしてやるから、そのかわりもうすこしおっとをだいじにして、そうしてばんに、もっとごちそうをくわせろ」
「これがせいいっぱいのところですよ」
「そうかしらん。
それじゃどうらくはおってきんがはいいりしだいやることにして、こんやはこれでやめよう」とめしちゃわんをだす。
なにでもちゃづけをさんぜんくったようだ。
わがはいはそのよるぶたにくさんへんとしおやきのあたまをちょうだいした。
はち
かきめぐりといううんどうをせつめいしたときに、しゅじんのにわをゆいにょうらしてあるたけがきのことをちょっとのべたつもりであるが、このたけがきのそとがすぐりんか、すなわちみなみとなりのじろうちゃんとことおもってはごかいである。
やちんはやすいがそこはくさやせんせいである。
あずかっちゃんやじろうちゃんなどとごうする、いわゆるちゃんつきのれんちゅうと、うすっへんなかきいちじゅうをへだてておとなりどうしのしんみつなるこうさいはむすんでおらぬ。
このかきのそとはごろくけんのくうちであって、そのことごとくるところにひのきが蓊然とごろくほん併んでいる。
椽側からはいけんすると、むこうはしげったもりで、ここに往むせんせいはのなかのいっけんやに、むめいのねこをともにしてじつげつをおくるこうこのしょしであるかのごときかんがある。
ただしひのきのえだはふいちょうするごとくみっせいしておらんので、そのかんからぐんつるだてという、なまえだけりっぱなやすげしゅくのやすやねがえんりょなくみえるから、しかくせんせいをそうぞうするのにはよほどほねのおれるのはむろんである。
しかしこのげしゅくがぐんつるかんならせんせいのきょはたしかにがりょう窟くらいなかちはある。
なまえにぜいはかからんからおかたみにえらそうなやつをかってしだいにつけることとして、このはばごろくけんのくうちがたけがきをそうてとうざいにはしることやくじゅうけん、それから、たちまち鉤のてにくっきょくして、がりょう窟のほくめんをとりかこんでいる。
このほくめんがそうどうのたねである。
ほんらいならくうちをいきつくしてまたあきち、とかなんとかいばってもいいくらいにいえのにがわをつつんでいるのだが、がりょう窟のしゅじんはむろん窟内のれいねこたるわがはいすらこのあきちにはてこずっている。
みなみがわにひのきがはばをきかしているごとく、きたがわにはきりのきがななはちほんぎょうれつしている。
もうしゅういいちしゃくくらいにのびているからげたやさえつれてくればいいあたいになるんだが、しゃくやのかなしさには、いくらきがついてもじっこうはできん。
しゅじんにたいしてもきのどくである。
せんだってがっこうのこづかいがきてえだをいちほんきっていったが、そのつぎにきたときはしんらしいきりのまないたげたをはいて、このかんのえだでこしらえましたと、ききもせんのにふいちょうしていた。
ずるいやっこだ。
きりはあるがわがはいおよびしゅじんかぞくにとってはいちぶんにもならないきりである。
たまをだいてつみありというこごがあるそうだが、これはきりをはやしてぜになしとゆってもしかるべきもので、いわゆるたからのもちぐされである。
ぐなるものはしゅじんにあらず、わがはいにあらず、やぬしのでんべえである。
いないかな、いないかな、げたやはいないかなときりのほうでさいそくしているのにしらんめんをしてやちんばかりとりたてにくる。
わがはいはべつにでんべえにうらもないからかれのわるぐちをこのくらいにして、ほんだいにもどってこのくうちがそうどうのたねであるというちんたんをしょうかいつかまつるが、けっしてしゅじんにいってはいけない。
これぎりのはなしである。
そもそもこのくうちにかんしてだいいちのふつごうなることはかきねのないことである。
ふきはらい、ふきとおし、ぬけうら、つうこうごめんてんかはれてのくうちである。
あるというとうそをつくようでよろしくない。
みをいうとあったのである。
しかしはなしはかこへさかのぼらんとみなもといんがわからない。
みなもといんがわからないと、いしゃでもしょほうにめいわくする。
だからここへひきこしてきたとうじからゆっくりとはなしはじめる。
ふきどおりしもなつはせいせいしてこころもちがいいものだ、ぶようじんだってきんのないところにとうなんのあるはずはない。
だからしゅじんのいえに、あらゆるへい、かき、ないしはらんぐい、さかもぎのるいはまったくふようである。
しかしながらこれはくうちのむこうにじゅうきょするにんげんもしくはどうぶつのしゅるいいかによってけつせらるるもんだいであろうとおもう。
したがってこのもんだいをけっするためにはいきおいむこうがわにじんどっているくんしのせいしつをめいかにせんければならん。
にんげんだかどうぶつだかわからないさきにくんしとしょうするのははなはだそうけいのようではあるがたいていくんしでま違はない。
りょうじょうのくんしなどとゆってどろぼうさえくんしというよのなかである。
ただしこのばあいにおけるくんしはけっしてけいさつのやっかいになるようなくんしではない。
けいさつのやっかいにならないかわりに、かずでこなしたものとみえてたくさんいる。
うじゃうじゃいる。
落雲かんとしょうするしりつのちゅうがっこう――はちひゃくのくんしをいやがうえにくんしにようせいするためにまいつきにえんのげっしゃをちょうしゅうするがっこうである。
なまえが落雲かんだからふうりゅうなくんしばかりかとおもうと、それがそもそものま違になる。
そのしんようすべからざることはぐんつるだてにつるのおりざるごとく、がりょう窟にねこがいるようなものである。
がくしとかきょうしとかごうするものにしゅじんくさやくんのごときき違のあることをしったいじょうは落雲かんのくんしがふうりゅうかんばかりでないということがわかるわけだ。
それがわからんとしゅちょうするならまずさんにちばかりしゅじんのうちへやどりにきてみるがいい。
まえもうすごとく、ここへひきごしのとうじは、れいのくうちにかきがないので、落雲かんのくんしはくるまやのくろのごとく、のそのそときりはたけにはいいりこんできて、はなしをする、べんとうをくう、ささのうえにねころぶ――いろいろのことをやったものだ。
それからはべんとうのしがいすなわちたけのかわ、こしんぶん、あるいはこぞうり、こげた、ふるというなのつくものをたいがいここへすてたようだ。
むとんじゃくなるしゅじんはぞんがいへいきにかまえて、べつだんこうぎももうしこまずにうちすぎたのは、しらなかったのか、しってもとがめんつもりであったのかわからない。
ところがかれらしょくんしはがっこうできょういくを受くるにしたがって、だんだんくんしらしくなったものとみえて、しだいにきたがわからみなみがわのほうめんへむけてさんしょくを企だててきた。
さんしょくというかたりがくんしにふにあいならやめてもよろしい。
ただしほかにことばがないのである。
かれらはみずくさをおうてきょをへんずるさばくのじゅうみんのごとく、きりのきをさってひのきのほうにすすんできた。
ひのきのあるところはざしきのしょうめんである。
よほどだいたんなるくんしでなければこれほどのこうどうはとれんはずである。
いちりょうじつののちかれらのだいたんはさらにいっそうのだいをくわえてだい々きもとなった。
きょういくのけっかほどこわしいものはない。
かれらはたんにざしきのしょうめんに逼るのみならず、このしょうめんにおいてうたをうたいだした。
なんといううたかわすれてしまったが、けっしてみそひともじのるいではない、もっとかっぱつで、もっとぞくじにはいりやすいうたであった。
おどろきろいたのはしゅじんばかりではない、わがはいまでもかれらくんしのさいげいに嘆服しておぼえずみみをかたむけたくらいである。
しかしどくしゃもごあんないであろうが、嘆服ということとじゃまということはときとしてりょうりつするばあいがある。
このりょうしゃがこのさいはからずもあわしていちとなったのは、いまからかんがえてみてもかえすがえすざんねんである。
しゅじんもざんねんであったろうが、やむをえずしょさいからとびだしていって、ここはきみとうのはいいるところではない、でたまえとゆって、にさんどおいだしたようだ。
ところがきょういくのあるくんしのことだから、こんなことでおとなしくきくわけがない。
おいだされればすぐはいいる。
はいいればかっぱつなるうたをうたう。
こうごえにだんわをする。
しかもくんしのだんわだからいっぷうちがって、おめえだのしらねえのという。
そんなことばはごいしんまえはおりすけとくもすけとさんすけのせんもんてきちしきにぞくしていたそうだが、にじゅうせいきになってからきょういくあるくんしのまなぶゆいいつのげんごであるそうだ。
いっぱんからけいべつせられたるうんどうが、かくのごとくきょうかんげいせらるるようになったのとどういつのげんしょうだとせつめいしたひとがある。
しゅじんはまたしょさいからとびだしてこのくんしりゅうのことばにもっともかんのうなるいちにんを捉まえて、なぜここへはいいるかときつもんしたら、くんしはたちまち「おめえ、しらねえ」のじょうひんなことばをわすれて「ここはがっこうのしょくぶつえんかとおもいました」とすこぶるげひんなことばでこたえた。
しゅじんはしょうらいをいましめてはなしてやった。
はなしてやるのはかめのこのようでおかしいが、じっさいかれはくんしのそでをとらえてだんぱんしたのである。
このくらいやかましくゆったらもうよかろうとしゅじんはおもっていたそうだ。
ところがじっさいはおんな※しのじだいからよきとちがうもので、しゅじんはまたしっぱいした。
こんどはきたがわからやしきないをおうだんしておもてもんからぬける、おもてもんをがらりとあけるからごきゃくかとおもうときりはたけのほうでわらうこえがする。
けいせいはますますふおんである。
きょういくのこうはてはいよいよけんちょになってくる。
きのどくなしゅじんはこいつはてにあわんと、それからしょさいへたてこもって、うやうやしくいちしょを落雲かんこうちょうにまつって、しょうしょうごとりしまりをとあいがんした。
こうちょうもていちょうなるへんしょをしゅじんにおくって、かきをするからまってくれとゆった。
しばらくするとにさんにんのしょくにんがきてはんにちばかりのまにしゅじんのやしきと、落雲かんのさかいに、たかささんしゃくばかりのよっつめかきができあがった。
これでようようあんしんだとしゅじんはきこんだ。
しゅじんはぐぶつである。
このくらいのことでくんしのきょどうのへんかするわけがない。
ぜんたいじんにからかうのはおもしろいものである。
わがはいのようなねこですら、ときどきはとうけのれいじょうにからかってあそぶくらいだから、落雲かんのくんしが、きのきかないにがさやせんせいにからかうのはしごくもっともなところで、これにふへいなのはおそらく、からかわれるとうにんだけであろう。
からかうというしんりをかいぼうしてみるとふたつのようそがある。
だいいちからかわれるとうにんがへいきですましていてはならん。
だいにからかうものがせいりょくにおいてにんずうにおいてあいてよりつよくなくてはいかん。
このかんしゅじんがどうぶつえんからかえってきてしきりにかんしんしてはなしたことがある。
きいてみるとらくだとこいぬのけんかをみたのだそうだ。
こいぬがらくだのしゅういをしっぷうのごとくかいてんしてほえたてると、らくだはなにのきもつかずに、いぜんとしてせなかへこぶをこしらえてつったったままであるそうだ。
いくらほえてもくるってもあいてにせんので、しまいにはいぬもあいそをつかしてやめる、じつにらくだはむしんけいだとわらっていたが、それがこのばあいのてきれいである。
いくらからかうものがじょうずでもあいてがらくだときてはせいりつしない。
さればとゆってししやとらのようにせんぽうがつよすぎてもものにならん。
からかいかけるやいなややつざきにされてしまう。
からかうとはをむきだしておこる、おこることはおこるが、こっちをどうすることもできないというあんしんのあるときにゆかいはひじょうにおおいものである。
なぜこんなことがおもしろいというとそのりゆうはいろいろある。
まずひまつぶしにてきしている。
たいくつなときにはひげのかずさえかんじょうしてみたくなるものだ。
むかししごくにとうぜられたしゅうじんのいちにんはぶりょうのあまり、ぼうのかべにさんかっけいをかさねてえがいてそのひをくらしたというはなしがある。
よのなかにたいくつほどがまんのできにくいものはない、なにかかっきをしげきするじけんがないといきているのがつらいものだ。
からかうというのもつまりこのしげきをつくってあそぶいっしゅのごらくである。
ただしたしょうせんぽうをおこらせるか、じらせるか、よわらせるかしなくてはしげきにならんから、むかししからからかうというごらくにふけるものはひとのきをしらないばかだいみょうのようなたいくつのおおいもの、もしくはじぶんのなぐさみいがいはこううるにひまなきほどあたまのはったつがようちで、しかもかっきのつかいみちにきゅうするしょうねんかにかぎっている。
つぎにはじこのゆうせいなことをじっちにしょうめいするものにはもっともかんべんなほうほうである。
ひとをころしたり、ひとをきずけたり、またはひとをおとしいれたりしてもじこのゆうせいなことはしょうめいできるわけであるが、これらはむしろころしたり、きずけたり、おとしいれたりするのがもくてきのときによるべきしゅだんで、じこのゆうせいなることはこのしゅだんをすいこうしたのちにひつぜんのけっかとしておこるげんしょうにすぎん。
だからいっぽうにはじぶんのせいりょくがしめしたくって、しかもそんなにひとにがいをあたえたくないというばあいには、からかうのがいちばんごかっこうである。
たしょうひとをきずけなければじこのえらいことはじじつのうえにしょうこだてられない。
じじつになってでてこないと、あたまのうちであんしんしていてもぞんがいかいらくのうすいものである。
にんげんはじこを恃むものである。
いな恃みがたいばあいでも恃みたいものである。
それだからじこはこれだけ恃めるものだ、これならあんしんだということを、ひとにたいしてじっちにおうようしてみないときがすまない。
しかもりくつのわからないぞくぶつや、あまりじこが恃みになりそうもなくておちつきのないものは、あらゆるきかいをりようして、このしょうけんをにぎろうとする。
じゅうじゅつしがときどきひとをなげてみたくなるのとおなじことである。
じゅうじゅつのあやしいものは、どうかじぶんよりよわいやつに、ただのいちかえでいいからであってみたい、しろうとでもかまわないからほうげてみたいとしごくきけんなりょうけんをだいてちょうないをあるくのもこれがためである。
そのたにもりゆうはいろいろあるが、あまりながくなるからりゃくすることにいたす。
ききたければかつおぶしのいちおりももってならいにくるがいい、いつでもおしえてやる。
いじょうにとくところをさんこうしてすいろんしてみると、わがはいのこうではおくやまのさると、がっこうのきょうしがからかうにはいちばんてごろである。
がっこうのきょうしをもって、おくやまのさるにひかくしてはもったいない。
――さるにたいしてもったいないのではない、きょうしにたいしてもったいないのである。
しかしよくにているからしかたがない、ごしょうちのとおりおくやまのさるはくさりでつながれている。
いくらはをむきだしても、きゃっきゃっさわいでもひきかかれるきやはない。
きょうしはくさりでつながれておらないかわりにげっきゅうでしばられている。
いくらからかったってだいじょうぶ、じしょくしてせいとをぶんなぐることはない。
じしょくをするゆうきのあるようなものならさいしょからきょうしなどをしてせいとのごもりはつとめないはずである。
しゅじんはきょうしである。
落雲かんのきょうしではないが、やはりきょうしにそういない。
からかうにはしごくてきとうで、しごくあんちょくで、しごくぶじなおとこである。
落雲かんのせいとはしょうねんである。
からかうことはじこのはなをたかくするゆえんで、きょういくのこうはてとしてしとうにようきゅうしてしかるべきけんりとまでこころえている。
のみならずからかいでもしなければ、かっきにみちたごたいとずのうを、いかにしようしてしかるべきかじゅうぶんのきゅうかちゅうもてあましてこまっているれんちゅうである。
これらのじょうけんがそなわればしゅじんはじからからかわれ、せいとはじからからかう、だれからいわしてもごうもむりのないところである。
それをおこるしゅじんはやぼのきょく、ま抜のこっちょうでしょう。
これから落雲かんのせいとがいかにしゅじんにからかったか、これにたいしてしゅじんがいかにやぼをきわめたかをちくいちかいてごらんにいれる。
しょくんはよっつめがきとはいかなるものであるかごしょうちであろう。
かぜとおしのいい、かんべんなかきである。
わがはいなどはめのまからじゆうじざいにおうらいすることができる。
こしらえたって、こしらえなくたっておなじことだ。
しかし落雲かんのこうちょうはねこのためによっつめかきをつくったのではない、じぶんがようせいするくんしがもぐられんために、わざわざしょくにんをいれてゆいにょうらせたのである。
なるほどいくらかぜとおしがよくできていても、にんげんにはもぐれそうにない。
このたけをもってくみあわせたるよんすんかくのあなをぬけることは、きよくにのきじゅつしちょうせそんそのひとといえどもむずかしい。
だからにんげんにたいしてはじゅうぶんかきのこうのうをつくしているにそういない。
しゅじんがそのできのぼったのをみて、これならよかろうとよろこんだのもむりはない。
しかししゅじんのろんりにはだいなるあながある。
このかきよりもおおいなるあながある。
どんしゅうのさかなをももらすべきおおあながある。
かれはかきは踰ゆべきものにあらずとのかていからしゅったつしている。
いやしくもがっこうのせいとたるいじょうはいかにそまつのかきでも、かきというながついて、ぶんかいせんのくいきさえはんぜんすればけっしてらんにゅうされるきやはないとかていしたのである。
つぎにかれはそのかていをしばらくうちくずして、よしらんにゅうするものがあってもだいじょうぶとろんだんしたのである。
よっつめがきのあなをくぐりえることは、いかなるこぞうといえどもとうていできるきやはないかららんにゅうのおそれはけっしてないとはやじょうしてしまったのである。
なるほどかれらがねこでないかぎりはこのしかくのめをぬけてくることはしまい、したくてもできまいが、のり踰えること、とびこえることはなにのこともない。
かえってうんどうになっておもしろいくらいである。
かきのできたよくじつから、かきのできぬまえとどうようにかれらはきたがわのくうちへぽかりぽかりととびこむ。
ただしざしきのしょうめんまではふかいりをしない。
もしおいかけられたらにげるのに、しょうしょうひまがいるから、あらかじめにげるじかんをかんじょうにいれて、とらえらるるきけんのないところでゆうよくをしている。
かれらがなにをしているかひがしのはなれにいるしゅじんにはむろんめにはいらない。
きたがわのくうちにかれらがゆうよくしているじょうたいは、きどをあけてはんたいのほうがくから鉤のてにまがってみるか、またはこうかのまどからかきねごしにながめるよりほかにしかたがない。
まどからながめるときはどこになにがいるか、ひとめめいりょうにみわたすことができるが、よしやてきをいくにんみいだしたからとゆってとらえるわけにはいかぬ。
ただまどのこうしのなかからしかりつけるばかりである。
もしきどからうかいしててきちをつこうとすれば、あしおとをききつけて、ぽかりぽかりと捉まるまえにむこうがわへおりてしまう。
おっとせいがひなたぼっこをしているところへみつりょうせんがむかったようなものだ。
しゅじんはむろんこうかではりばんをしているわけではない。
とゆってきどをひらいて、おとがしたらすぐとびだすよういもない。
もしそんなことをやるひにはきょうしをじしょくして、そのほうせんもんにならなければおっつかない。
しゅじんかたのふりをいうとしょさいからはてきのこえだけきこえてすがたがみえないのと、まどからはすがたがみえるだけでてがだせないことである。
このふりをかんぱしたるてきはこんなぐんりゃくをこうじた。
しゅじんがしょさいにたてこもっているとたんていしたときには、なるべくおおきなこえをだしてわあわあいう。
そのなかにはしゅじんをひやかすようなことをきこえよがしにのべる。
しかもそのこえのしゅっしょをきわめてふふんみょうにする。
ちょっときくとかきのうちでさわいでいるのか、あるいはむこうがわであばれているのかはんていしにくいようにする。
もししゅじんがでかけてきたら、にげだすか、またははじめからむこうがわにいてしらんかおをする。
またしゅじんがこうかへ――わがはいはさいぜんからしきりにこうかこうかときたないじをしようするのをべつだんのこうえいともおもっておらん、じつはめいわくせんまんであるが、このせんそうをきじゅつするうえにおいてひつようであるからやむをえない。
――すなわちしゅじんがこうかへまかりこしたとみてとるときは、かならずきりのきのふきんをはいかいしてわざとしゅじんのめにつくようにする。
しゅじんがもしこうかからしりんにひびくだいおとをあげてどなりつければてきはあわてるけしきもなくゆうぜんとこんきょちへひきあげる。
このぐんりゃくをもちいられるとしゅじんははなはだこんきゃくする。
たしかにはいいっているなとおもってすてっきをもってでかけるとじゃくねんとしてだれもいない。
いないかとおもってまどからのぞくとかならずいちににんはいいっている。
しゅじんはうらへまわってみたり、こうかからのぞいてみたり、こうかからのぞいてみたり、うらへまわってみたり、なんどいってもおなじことだが、なんどゆってもおなじことをくりかえしている。
ほんめいにつかれるとはこのことである。
きょうしがしょくぎょうであるか、せんそうがほんむであるかちょっとわからないくらいぎゃくじょうしてきた。
このぎゃくじょうのちょうてんにたっしたときにしたのじけんがおこったのである。
じけんはたいがいぎゃくじょうからでるものだ。
ぎゃくじょうとはよんでじのごとくぎゃくかさにのぼるのである、このてんにかんしてはげーれんもぱらせるさすもきゅうへいなる扁鵲もいぎをうたうるものはいちにんもない。
ただどこへぎゃくかさにのぼるかがもんだいである。
またなにがぎゃくかさにのぼるかがぎろんのあるところである。
こらいおうしゅうじんのでんせつによると、われじんのたいないにはよんしゅのえきがじゅんかんしておったそうだ。
だいいちにいかえきというやつがある。
これがぎゃくかさにのぼるといかりだす。
だいににどんえきとなづくるのがある。
これがぎゃくかさにのぼるとしんけいがにぶくなる。
つぎにはうえき、これはにんげんをいんきにする。
さいごがけつえき、これはししをたけしんにする。
そのごじんぶんがすすむにしたがってどんえき、いかえき、ゆうえきはいつのまにかなくなって、げんこんにいたってはけつえきだけがむかしのようにじゅんかんしているというはなしだ。
だからもしぎゃくじょうするものがあらばけつえきよりほかにはあるまいとおもわれる。
しかるにこのけつえきのぶんりょうはこじんによってちゃんときわまっている。
しょうぶんによってたしょうのぞうげんはあるが、まずたいていいちにんまえにつけごしょうごごうのわりあいである。
だによって、このごしょうごごうがぎゃくかさにのぼると、のぼったところだけはおこんにかつどうするが、そのたのきょくぶはけつぼうをかんじてつめたくなる。
ちょうどこうばんしょうだのとうじじゅんさがことごとくけいさつしょへたかって、ちょうないにはいちにんもなくなったようなものだ。
あれもいがくじょうからしんだんをするとけいさつのぎゃくじょうというものである。
でこのぎゃくじょうを癒やすにはけつえきをじゅうぜんのごとくたいないのかくぶへへいきんにぶんぱいしなければならん。
そうするにはぎゃくかさにのぼったやつをしたへくださなくてはならん。
そのほうにはいろいろある。
いまはこじんとなられたがしゅじんのせんくんなどはぬれてぬぐいをあたまにあててこたつにあたっておられたそうだ。
ずかんそくねつはえんめいそくさいのしるしとしょうかんろんにもでているとおり、ぬれてぬぐいはちょうじゅほうにおいていちにちもかくべからざるしゃである。
それでなければぼうずのかんようするしゅだんをこころみるがよい。
いっしょふじゅうのしゃもんうんすいあんぎゃの衲僧はかならずじゅかせきじょうをやどとすとある。
じゅかいしがみとはなんぎょうくぎょうのためではない。
まったくのぼせをさげるためにろくそがこめをうすずきながらかんがえだしたひほうである。
こころみにいしのうえにすわってごらん、しりがひえるのはあたりまえだろう。
しりがひえる、のぼせがさがる、これまたしぜんのじゅんじょにしてごうもうたぐをはさむべきよちはない。
かようにいろいろなほうほうをもちいてのぼせをさげるくふうはおおいたはつめいされたが、まだのぼせをひきおこすよかたがあんしゅつされないのはざんねんである。
いちがいにかんがえるとのぼせはそんあってえきなきげんしょうであるが、そうばかりそくだんしてならんばあいがある。
しょくぎょうによるとぎゃくじょうはよほどたいせつなもので、のぼせんとなににもできないことがある。
そのなかでもっともぎゃくじょうをおもんずるのはしじんである。
しじんにぎゃくじょうがひつようなることはきせんにせきたんがかくべからざるようなもので、このきょうきゅうがいちにちでもとぎれるとかれれとうはてをこまぬいてめしをくうよりほかになんらののうもないぼんじんになってしまう。
もっともぎゃくじょうはき違のいみょうで、き違にならないとかぎょうがたちゆかんとあってはせけんていがわるいから、かれらのなかまではぎゃくじょうをよぶにぎゃくじょうのなをもってしない。
もうしあわせていんすぴれーしょん、いんすぴれーしょんとさももったいそうにとなえている。
これはかれらがせけんをまんちゃくするためにせいぞうしたなでそのじつはまさにぎゃくじょうである。
ぷれーとーはかれらのかたをもってこのたねのぎゃくじょうをしんせいなるきょうきとごうしたが、いくらしんせいでもきょうきではひとがあいてにしない。
やはりいんすぴれーしょんというしんはつめいのばいやくのようななをつけておくほうがかれらのためによかろうとおもう。
しかしかまぼこのたねがやまいもであるごとく、かんのんのぞうがいっすんはちぶんのくちきであるごとく、かもなんばんのざいりょうがからすであるごとく、げしゅくやのぎゅうなべがばにくであるごとくいんすぴれーしょんもじつはぎゃくじょうである。
ぎゃくじょうであってみればりんじのき違である。
すがもへにゅういんせずにすむのはたんにりんじき違であるからだ。
ところがこのりんじのき違をせいぞうすることがこんなんなのである。
いちしょうがいのきょうじんはかえってできやすいが、ふでをとってかみにむこうかんだけき違にするのは、いかにこうしゃなかみさまでもよほどほねがおれるとみえて、なかなかこしらえてみせない。
かみがつくってくれんいじょうはじりきでこしらえなければならん。
そこでむかしからきょうまでぎゃくじょうじゅつもまたぎゃくじょうとりのけじゅつとおなじくだいにがくしゃのずのうをなやました。
あるひとはいんすぴれーしょんをえるためにまいにちしぶがきをじゅうにこずつくった。
これはしぶがきをくえばべんぴする、べんぴすればぎゃくじょうはかならずおこるというりろんからきたものだ。
またあるひとはかんとっくりをもっててっぽうふろへとびこんだ。
ゆのなかでさけをのんだらぎゃくじょうするにごくっているとかんがえたのである。
そのひとのせつによるとこれでせいこうしなければぶどうしゅのゆをわかしてはいいればいちかえでこうのうがあるとしんじきっている。
しかしきんがないのでついにじっこうすることができなくてしんでしまったのはきのどくである。
さいごにこじんのまねをしたらいんすぴれーしょんがおこるだろうとおもいついたものがある。
これはあるひとのたいどどうさをまねるとしんてきじょうたいもそのひとににてくるというがくせつをおうようしたのである。
よっぱらいのようにかんをまいていると、いつのまにかさけのみのようなこころもちになる、ざぜんをしてせんこういちほんのまがまんしているとどことなくぼうずらしいきぶんになれる。
だからむかしからいんすぴれーしょんをうけたゆうめいのおおやのしょさをまねればかならずぎゃくじょうするにそういない。
きくところによればゆーごーはかいそうせんのうえへねころんでぶんしょうのしゅこうをかんがえたそうだから、ふねへのってあおぞらをみつめていればかならずぎゃくじょう受合である。
すちーゔんそんははら這にねてしょうせつをかいたそうだから、うつふくしになってふでをもてばきっとちがぎゃくかさにのぼってくる。
かようにいろいろなひとがいろいろのことをかんがえだしたが、まだだれもせいこうしない。
まずきょうのところではじんいてきぎゃくじょうはふかのうのこととなっている。
ざんねんだがいたしかたがない。
そうばんずいいにいんすぴれーしょんをおこしえるじきのとうらいするはうたぐもないことで、わがはいはじんぶんのためにこのじきのいちにちもはやくきたらんことをせつぼうするのである。
ぎゃくじょうのせつめいはこのくらいでじゅうぶんだろうとおもうから、これよりいよいよじけんにとりかかる。
しかしすべてのだいじけんのまえにはかならずしょうじけんがおこるものだ。
だいじけんのみをのべて、しょうじけんをいっするのはこらいかられきしかのつねにおちいるへい竇である。
しゅじんのぎゃくじょうもしょうじけんにあうたびにいっそうのげきじんをくわえて、ついにだいじけんをひきおこしたのであるからして、いくぶんかそのはったつをじゅんじょたててのべないとしゅじんがいかにぎゃくじょうしているかわかりにくい。
わかりにくいとしゅじんのぎゃくじょうはくうめいにかえして、せけんからはよもやそれほどでもなかろうとみくびられるかもしれない。
せっかくぎゃくじょうしてもひとからてんはれなぎゃくじょうとうたわれなくてははりごうがないだろう。
これからのべるじけんはだいしょうにかからずしゅじんにとってめいよなものではない。
じけんそのものがふめいよであるならば、せめてぎゃくじょうなりとも、しょうめいのぎゃくじょうであって、けっしてひとにおとるものでないということをめいかにしておきたい。
しゅじんはたにたいしてべつにこれとゆってほこるにたるせいしつをゆうしておらん。
ぎゃくじょうでもじまんしなくてはほかにほねをおってかきたててやるたねがない。
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まえもうすとおりしゅじんはりっぱなるぎゃくじょうかである。
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りょうにんはかきをさかいになにかだんぱんしている。
きいてみるとこんなつまらないぎろんである。
「あれはほんこうのせいとです」
「せいとたるべきものが、なんでたのやしきないへしんにゅうするのですか」
「いやぼーるがついとんだものですから」
「なぜことわって、とりにこないのですか」
「これからよくちゅういします」
「そんなら、よろしい」
りゅうあがとら闘のそうかんがあるだろうとよきしたこうしょうはかくのごとくさんぶんてきなるだんぱんをもってぶじにじんそくにゆいりょうした。
しゅじんのたけしんなるはただいきごみだけである。
いざとなると、いつでもこれでおしまいだ。
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わがはいのしょうじけんというのはすなわちこれである。
しょうじけんをきじゅつしたあとには、じゅんじょとしてぜひだいじけんをはなさなければならん。
しゅじんはざしきのしょうじをひらいてはら這になって、なにかしあんしている。
おそらくてきにたいしてぼうぎょさくをこうじているのだろう。
落雲かんはじゅぎょうちゅうとみえて、うんどうじょうはぞんがいしずかである。
ただこうしゃのいっしつで、りんりのこうぎをしているのがてにとるようにきこえる。
ろうろうたるおんせいでなかなかうまくのべたてているのをきくと、まったくきのうてきちゅうからしゅつばしてだんぱんの衝にあたったしょうぐんである。
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でこうとくともうすとなにかあたらしくがいこくからゆにゅうしてきたようにかんがえるしょくんもあるかもしれんが、そうおもうのはだいなるあやまりで、むかしじんもふうしのみちいち以てこれをつらぬく、ただひろのみ矣といわれたことがある。
このじょともうすのがとりもなおさずこうとくのしゅっしょである。
わたしもにんげんであるからときにはおおきなこえをしてうたなどうたってみたくなることがある。
しかしわたしがべんきょうしているときにりんしつのものなどがほうかするのをきくと、どうしてもしょもつのよめぬのがわたしのしょうぶんである。
であるからしてじぶんがとうしせんでもこうごえにぎんじたらきぶんがはればれしてよかろうとおもうときですら、もしじぶんのようにめいわくがるひとがりんかにすんでおって、しらずしらずそのひとのじゃまをするようなことがあってはすまんとおもうて、そういうときはいつでもひかえるのである。
こういうわけだからしょくんもなるべくこうとくをまもって、いやしくもひとのぼうがいになるとおもうことはけっしてやってはならんのである。
……」
しゅじんはみみをかたむけて、このこうわをきんちょうしていたが、ここにいたってにやりとわらった。
ちょっとこのにやりのいみをせつめいするひつようがある。
ひにくかがこれをよんだらこのにやりのうらにはれいひょうてきぶんしがかっているとおもうだろう。
しかししゅじんはけっして、そんなひとのわるいおとこではない。
わるいというよりそんなにちえのはったつしたおとこではない。
しゅじんはなぜわらったかというとまったくうれしくってわらったのである。
りんりのきょうしたるしゃがかようにつうせつなるくんかいをあたえるからはこののちはえいきゅうだむだむだんのらんしゃをめんがれるにそういない。
とうぶんのうちあたまもはげずにすむ、ぎゃくじょうはいちじになおらんでもじきさえくればぜんじかいふくするだろう、ぬれてぬぐいをいただいて、こたつにあたらなくとも、じゅかせきじょうをやどとしなくともだいじょうぶだろうとかんていしたから、にやにやとわらったのである。
しゃっきんはかならずかえすものとにじゅうせいきのきょうにもやはりしょうじきにかんがえるほどのしゅじんがこのこうわをまじめにきくのはとうぜんであろう。
やがてじかんがきたとみえて、こうわはぱたりとやんだ。
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これがだいじけんのほったんである。
まずはちのじんだてからせつめいする。
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わがはいのめをもってかんさつしたところでは、かれらはこのうんどうじゅつをりようしてほうかのこうをおさめんとくわだてつつあるとしかおもわれない。
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じぜんのなをかりてさぎを働らき、いんすぴれーしょんとごうしてぎゃくじょうをうれしがるものがあるいじょうはべーすぼーるなるゆうぎのしたにせんそうをなさんともかぎらない。
あるるひとのせつめいはせけんいっぱんのべーすぼーるのことであろう。
いまわがはいがきじゅつするべーすぼーるはこのとくべつのばあいにかぎらるるべーすぼーるすなわちおさむじょうてきほうじゅつである。
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たまにはたたきそこなっただんがんがながれてしまうこともあるが、たいがいはぽかんとおおきなおとをたててたまねかえる。
そのぜいはひじょうにもうれつなものである。
しんけいせいいじゃくなるしゅじんのあたまをつぶすくらいはよういにできる。
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ぽかーんとすりこぎがだんごにあたるやいなやわー、ぱちぱちぱちと、わめく、てをはくつ、やれやれという。
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これでもきかねえかという。
おそれいらねえかという。
こうさんかという。
これだけならまだしもであるが、たたきかえされただんがんはさんどにいちどかならずがりょう窟邸ないへころがりこむ。
これがころがりこまなければこうげきのもくてきはたっせられんのである。
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やしきないにはいいるもっともかんべんなほうほうはよっつめかきをこえるにある。
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しからずんばかぶとをぬいでこうさんしなければならん。
くしんのあまりあたまがだんだんはげてこなければならん。
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こっそりはいいって、こっそりひろってはかんじんのもくてきがたっせられん。
だむだむだんはきちょうかもしれないが、しゅじんにからかうのはだむだむだんいじょうにだいじである。
このときのごときはとおくからたまのしょざいちははんぜんしている。
たけがきにあたったおともしっている。
あたったばしょもわかっている、しかしてそのおちたじめんもこころえている。
だからおとなしくしてひろえば、いくらでもおとなしくひろえる。
らいぷにっつのていぎによるとくうかんはできえべきどうざいげんしょうのちつじょである。
いろはにほへとはいつでもおなじじゅんにあらわれてくる。
やなぎのしたにはかならずどじょうがいる。
こうもりにゆうつきはつきものである。
かきねにぼーるはふにあいかもしれぬ。
しかしまいにちまいにちぼーるをひとのやしきないにほうりこむもののめにえいずるくうかんはたしかにこのはいれつになれている。
いちがんみればすぐわかるわけだ。
それをかくのごとくさわぎたてるのは必竟ずるにしゅじんにせんそうをいどむさくりゃくである。
こうなってはいかにしょうきょくてきなるしゅじんといえどもおうせんしなければならん。
さっきざしきのうちからりんりのこうぎをきいてにやにやしていたしゅじんはふんぜんとしてたちあがった。
もうぜんとして馳けだした。
驀然としててきのいちにんをなまとった。
しゅじんにしてはだいできである。
だいできにはそういないが、みるとじゅうよんごのしょうきょうである。
ひげのはえているしゅじんのてきとしてすこしふにあいだ。
けれどもしゅじんはこれでたくさんだとおもったのだろう。
わびいるのをむりにひっぱって椽側のまえまでつれてきた。
ここにちょっとてきのさくりゃくについていちげんするひつようがある、てきはしゅじんがきのうのけんまくをみてこのようすではきょうもかならずじしんでしゅつばするにそういないとさっした。
そのときまんいちにげそんじてだいそうがつらまってはことめんどうになる。
ここはいちねんせいかにねんせいくらいなしょうきょうをたまひろいにやってきけんをさけるにこしたことはない。
よししゅじんがしょうきょうをつらまえてぐずぐずりくつをつくねまわしたって、落雲かんのめいよにはかんけいしない、こんなものをだいにんきもなくあいてにするしゅじんのちじょくになるばかりだ。
てきのこうはこうであった。
これがふつうのにんげんのこうでしごくもっともなところである。
ただてきはあいてがふつうのにんげんでないということをかんじょうのうちにいれるのをわすれたばかりである。
しゅじんにこれくらいのじょうしきがあればきのうだってとびだしはしない。
ぎゃくじょうはふつうのにんげんを、ふつうのにんげんのていどいじょうにつるしあげて、じょうしきのあるものに、ひじょうしきをあたえるものである。
おんなだの、しょうきょうだの、くるまびきだの、まごだのと、そんなみさかいいのあるうちは、まだぎゃくじょうをもってひとにほこるにたらん。
しゅじんのごとくあいてにならぬちゅうがくいちねんせいをなまとってせんそうのひとじちとするほどのりょうけんでなくてはぎゃくうわやのなかまいりはできないのである。
かわいそうなのはほりょである。
たんにじょうきゅうせいのめいれいによってたまひろいなるぞうひょうのやくをつとめたるところ、うんわるくひじょうしきのてきしょう、ぎゃくじょうのてんさいにおいつめられて、かきこえるまもあらばこそ、ていぜんにひきすえられた。
こうなるとてきぐんはあんかんとみかたのちじょくをみているわけにいかない。
わがもわがもとよっつめかきをのりこしてきどぐちからにわちゅうにみだれはいる。
そのかずはやくいちだーすばかり、ずらりとしゅじんのまえにならんだ。
たいていはうわぎもちょっぎもつけておらん。
しろしゃつのうでをまくって、うでぐみをしたのがある。
めんねるのあらいざらしをもうしわけにせなかだけへのせているのがある。
そうかとおもうとしろのほもめんにくろいえんをとってむねのまんなかにはなもじを、おなじいろにぬいつけたしゃれしゃもある。
いずれもいっきとうせんのもうしょうとみえて、たんばのくにはささやまからさくやきしだてでござるといわぬばかりに、くろくたくましくきんにくがはったつしている。
ちゅうがくなどへいれてがくもんをさせるのはおしいものだ。
りょうしかせんどうにしたらさだめしこっかのためになるだろうとおもわれるくらいである。
かれらはもうしあわせたごとく、すあしにももひきをたかくまくって、きんかのてでんにでもいきそうなふうていにみえる。
かれらはしゅじんのまえにならんだぎりもくぜんとしてひとこともはっしない。
しゅじんもくちをひらかない。
しばらくのまそうほうどもねめくらをしているなかにちょっとさっきがある。
「きさまとうはぬすっとうか」としゅじんはじんもんした。
たいき※である。
おくばで囓みつぶしたかんしゃくだまがほのおとなってはなのあなからぬけるので、こばなが、いちじるしくおこってみえる。
えちごじしのはなはにんげんがおこったときのかっこうをかたちどってつくったものであろう。
それでなくてはあんなにおそれしくできるものではない。
「いえどろぼうではありません。
落雲かんのせいとです」
「うそをつけ。
落雲かんのせいとがむだんでひとのにわたくにしんにゅうするやつがあるか」
「しかしこのとおりちゃんとがっこうのきしょうのついているぼうしをこうむっています」
「にせものだろう。
落雲かんのせいとならなぜむやみにしんにゅうした」
「ぼーるがとびこんだものですから」
「なぜぼーるをとびこました」
「ついとびこんだんです」
「あやしからんやつだ」
「いごちゅういしますから、こんどだけゆるしてください」
「どこのなにものかわからんやつがかきをこえてやしきないにちんにゅうするのを、そうたやすくゆるされるとおもうか」
「それでも落雲かんのせいとに違ないんですから」
「落雲かんのせいとならなんねんせいだ」
「さんねんせいです」
「きっとそうか」
「ええ」
しゅじんはおくのほうをかえりみながら、おいこらこらという。
さいたまうまれのごさんがふすまをあけて、へえとかおをだす。
「落雲かんへいってだれかつれてこい」
「だれをつれてまいります」
「だれでもいいからつれてこい」
げじょは「へえ」とこたえが、あまりていぜんのこうけいがみょうなのと、しのおもむきがはんぜんしないのと、さっきからのじけんのはってんがばかばかしいので、たちもせず、すわりもせずにやにやわらっている。
しゅじんはこれでもだいせんそうをしているつもりである。
ぎゃくじょうてきびんわんをだいにふっているつもりである。
しかるところじぶんのめししたるとうぜんこっちのかたをもつべきものが、まじめなたいどをもってことにのぞまんのみか、ようをいいつけるのをききながらにやにやわらっている。
ますますのぼせざるをえない。
「だれでもかまわんからよんでこいというのに、わからんか。
こうちょうでもかんじでもきょうとうでも……」
「あのこうちょうさんを……」げじょはこうちょうということばだけしかしらないのである。
「こうちょうでも、かんじでもきょうとうでもとゆっているのにわからんか」
「だれもおりませんでしたらこづかいでもよろしゅうございますか」
「ばかをいえ。
こづかいなどになにがわかるものか」
ここにいたってげじょもやむをえんとこころえたものか、「へえ」とゆってでていった。
しのしゅいはやはりのみこめんのである。
こづかいでもひっぱってきはせんかとしんぱいしていると、あにけいらんやれいのりんりのせんせいがおもてもんからのりこんできた。
へいぜんとざにつくをまちうけたしゅじんはただちにだんぱんにとりかかる。
「ただいまていないにこのものどもがらんにゅういたして……」とちゅうしんぐらのようなこふうなことばをつかったが「ほんとうにごこうのせいとでしょうか」としょうしょうひにくにごびをきった。
りんりのせんせいはべつだんおどろいたようすもなく、へいきでていぜんにならんでいるゆうしをいちとおりみまわわしたうえ、もとのごとくひとみをしゅじんのほうにかえして、したのごとくこたえた。
「さようみんながっこうのせいとであります。
こんなことのないようにしじゅうくんかいをくわえておきますが……どうもこまったもので……なぜきみとうはかきなどをのりこすのか」
さすがにせいとはせいとである、りんりのせんせいにむかってはひとこともないとみえてなんともいうものはない。
おとなしくにわのすみにかたまってひつじのぐんがゆきにあったようにひかえている。
「まるがはいいるのもしかたがないでしょう。
こうしてがっこうのとなりにすんでいるいじょうは、ときどきはぼーるもとんできましょう。
しかし……あまりらんぼうですからな。
たとえかきをのりこえるにしてもしれないないように、そっとひろっていくなら、まだかんべんのしようもありますが……」
「ごもっともで、よくちゅういはいたしますがなにぶんたにんずうのことで……よくこれからちゅういをせんといかんぜ。
もしぼーるがとんだらひょうからまわって、ごことわりをしてとらなければいかん。
いいか。
――ひろいがっこうのことですからどうもせわばかりやけてしかたがないです。
でうんどうはきょういくじょうひつようなものでありますから、どうもこれをきんずるわけにはまいりかねるので。
これをゆるすとついごめいわくになるようなことができますが、これはぜひごようしゃをねがいたいとおもいます。
そのかわりこうごはきっとおもてもんからまわってごことわりをいたしたうえでとらせますから」
「いや、そうことがわかればよろしいです。
たまはいくらおなげになってもさしつかえはないです。
ひょうからきてちょっとことわってくださればかまいません。
ではこのせいとはあなたにごひきわたしもうしますからおつれがえりをねがいます。
いやわざわざおよびたてもうしてきょうしゅくです」としゅじんはれいによってれいのごとくりゅうとうだびのあいさつをする。
りんりのせんせいはたんばのささやまをつれておもてもんから落雲かんへひきあげる。
わがはいのいわゆるだいじけんはこれでいちとまずらくちゃくをつげた。
なにのそれがだいじけんかとわらうなら、わらうがいい。
そんなひとにはだいじけんでないまでだ。
わがはいはしゅじんのだいじけんをうつしたので、そんなひとのだいじけんをしるしたのではない。
しりがきれてきょうどのすえぜいだなどとわるぐちするものがあるなら、これがしゅじんのとくしょくであることをきおくしてもらいたい。
しゅじんがこっけいぶんのざいりょうになるのもまたこのとくしょくにそんすることをきおくしてもらいたい。
じゅうよんごのしょうきょうをあいてにするのはばかだというならわがはいもばかにそういないとどういする。
だからおおまちけいげつはしゅじんをつらまえていまだちきをめんがれずというている。
わがはいはすでにしょうじけんをじょしりょうり、いままただいじけんをのべりょうったから、これよりだいじけんののちにおこるよ瀾をえがきでだして、ぜんへんのむすびをつけるつもりである。
すべてわがはいのかくごとは、くちからでまかせのいいかげんとおもうどくしゃもあるかもしれないがけっしてそんなけいそつなねこではない。
いちじいちくのうらにうちゅうのいちだいてつりをほうがんするはむろんのこと、そのいちじいちくがそう々れんぞくするとしゅびしょうおうじぜんごしょうてらして、瑣談繊話とおもってうっかりとよんでいたものが忽然ひょうへんしてよういならざるほうごとなるんだから、けっしてねころんだり、あしをだしてごぎょうごとにいちどによむのだなどというぶれいをえんじてはいけない。
やなぎたかしもとはかんしさこれのぶんをよむごとにばらのみずでてをきよめたというくらいだから、わがはいのぶんにたいしてもせめてじばらでざっしをかってきて、ゆうじんのごあまりをかりてまにあわすというふしまつだけはないことにいたしたい。
これからのべるのは、わがはいみずからよ瀾とごうするのだけれど、よ瀾ならどうせつまらんにごくっている、よまんでもよかろうなどとおもうととんだこうかいをする。
ぜひしまいまでせいどくしなくてはいかん。
だいじけんのあったよくじつ、わがはいはちょっとさんぽがしたくなったからひょうへでた。
するとむかうよこちょうへまがろうというかくでかねだのだんなとすずきのふじさんがしきりにたちながらはなしをしている。
かねだくんはくるまでじたくへかえるところ、すずきくんはかねだくんのるすをほうもんしてひきかえすとちゅうでりょうにんがばったりとであったのである。
きんらいはかねだのやしきないもちんらしくなくなったから、めったにあちらのほうがくへはあしがむかなかったが、こうごめにかかってみると、なんとなくおなつかしい。
すずきにもひさびさだからよそながらはいがんのさかえをえておこう。
こうけっしんしてのそのそごりょうくんのちょりつしておらるるはたちかくあゆみよってみると、しぜんりょうくんのだんわがみみにはいる。
これはわがはいのつみではない。
せんぽうがはなしているのがわるいのだ。
かねだくんはたんていさえつけてしゅじんのどうせいを窺がうくらいのていどのりょうしんをゆうしているおとこだから、わがはいがぐうぜんくんのだんわをはいちょうしたっておこらるるきやはあるまい。
もしおこられたらきみはこうへいといういみをごしょうちないのである。
とにかくわがはいはりょうくんのだんわをきいたのである。
ききたくてきいたのではない。
ききたくもないのにだんわのほうでわがはいのみみのなかへとびこんできたのである。
「ただいまごたくへうかがいましたところで、ちょうどよいところでごめにかかりました」とふじさんはていやすしにあたまをぴょこつかせる。
「うむ、そうかえ。
じつはこないだから、くんにちょっとあいたいとおもっていたがね。
それはよかった」
「へえ、それはこうつごうでございました。
なにかごようで」
「いやなに、たいしたことでもないのさ。
どうでもいいんだが、くんでないとできないことなんだ」
「わたしにできることならなんでもやりましょう。
どんなことで」
「ええ、そう……」とかんがえている。
「なになら、ごつごうのときでなおしてうかがいましょう。
いつがよろしゅう、ございますか」
「なあに、そんなたいしたことじゃないのさ。
――それじゃせっかくだからたのもうか」
「どうかおえんりょなく……」
「あのへんじんね。
そらきみのきゅうゆうさ。
くさやとかなんとかいうじゃないか」
「ええにがさやがどうかしましたか」
「いえ、どうもせんがね。
あのじけんいらいむなくそがわるくってね」
「ごもっともで、まったくくさやはつよし慢ですから……すこしはじぶんのしゃかいじょうのちいをかんがえているといいのですけれども、まるでひとりでんかですから」
「そこさ。
きんにあたまはさげん、じつぎょうかなんぞ――とかなんとか、いろいろこなまいきなことをいうから、そんならじつぎょうかのうでまえをみせてやろう、とおもってね。
こないだからおおいたじゃくらしているんだが、やっぱりがんばっているんだ。
どうもつよしなさけなやつだ。
おどろきろいたよ」
「どうもそんとくというかんねんのとぼしいやっこですからむあんにやせがまんをはるんでしょう。
むかしからああいうくせのあるおとこで、つまりじぶんのそんになることにきがつかないんですからどしがたいです」
「あはははほんとにどしがたい。
いろいろてをえきえしなをやすえてやってみるんだがね。
とうとうしまいにがっこうのせいとにやらした」
「そいつはみょうあんですな。
ききめがございましたか」
「これにゃあ、やつもおおいたこまったようだ。
もうとおからずらくじょうするにきょくっている」
「そりゃけっこうです。
いくらいばってもたぜいにぶぜいですからな」
「そうさ、いちにんじゃあしかたがねえ。
それでおおいたよわったようだが、まあどんなようすかきみにいってみてきてもらおうというのさ」
「はあ、そうですか。
なにやくはありません。
すぐいってみましょう。
ようすはかえりがけにごほうちをいたすことにして。
おもしろいでしょう、あのがんこなのがいきしょうちんしているところは、きっとけんぶつですよ」
「ああ、それじゃかえりにおより、まっているから」
「それではごめんこうむります」
おやこんどもまたこんたんだ、なるほどじつぎょうかのせいりょくはえらいものだ、せきたんの燃殻のようなしゅじんをぎゃくじょうさせるのも、くもんのけっかしゅじんのあたまがはえすべりのなんしょとなるのも、そのあたまがいすきらすとどうようのうんめいにおちいるのもかいじつぎょうかのせいりょくである。
ちきゅうがちじくをかいてんするのはなにのさようかわからないが、よのなかをうごかすものはたしかにきんである。
このきんのくりきをこころえて、このきんのいこうをじゆうにはっきするものはじつぎょうかしょくんをおいてほかにいちにんもない。
たいようがぶじにひがしからでて、ぶじににしへはいるのもまったくじつぎょうかのおかげである。
いままではわからずやのきゅうそだいのいえにようなわれてじつぎょうかのごりやくをしらなかったのは、わがながらふかくである。
それにしてもめい頑不れいのしゅじんもこんどはすこしさとらずばなるまい。
これでもめい頑不れいでおしとおすりょうけんだとあぶない。
しゅじんのもっともきちょうするいのちがあぶない。
かれはすずきくんにあってどんなあいさつをするのかしらん。
そのもようでかれのさとりぐあいもじからふんみょうになる。
ぐずぐずしてはおられん、ねこだってしゅじんのことだからだいにしんぱいになる。
そうそうすずきくんをすりぬけてごさきへきたくする。
すずきくんはあいかわらずちょうしのいいおとこである。
きょうはかねだのことなどはおくびにもださない、しきりにあたりさわりのないせけんばなしをおもしろそうにしている。
「きみすこしかおいろがわるいようだぜ、どうかしやせんか」
「べつにどこもなんともないさ」
「でもあおいぜ、ようじんせんといかんよ。
じこうがわるいからね。
よるはあんみんができるかね」
「うん」
「なにかしんぱいでもありゃしないか、ぼくにできることならなにでもするぜ。
えんりょなくいいたまえ」
「しんぱいって、なにを?」
「いえ、なければいいが、もしあればということさ。
しんぱいがいちばんどくだからな。
よのなかはわらっておもしろくくらすのがとくだよ。
どうもきみはあまりいんきすぎるようだ」
「わらうのもどくだからな。
むあんにわらうとしぬことがあるぜ」
「じょうだんゆっちゃいけない。
わらうもんにはふくくるさ」
「むかししまれ臘にくりしっぱすというてつがくしゃがあったが、きみはしるまい」
「しらない。
それがどうしたのさ」
「そのおとこがわらいすぎてしんだんだ」
「へえー、そいつはふしぎだね、しかしそりゃむかしのことだから……」
「むかししだっていまだってかわりがあるものか。
ろばがぎんのどんぶりからいちじくをくうのをみて、おかしくってたまらなくってむあんにわらったんだ。
ところがどうしてもわらいがとまらない。
とうとうわらいしににしんだんだあね」
「はははしかしそんなにとめどもなくわらわなくってもいいさ。
すこしわらう――てきぎに、――そうするといいこころもちだ」
すずきくんがしきりにしゅじんのどうせいをけんきゅうしていると、ひょうのもんががらがらとあく、きゃくらいかとおもうとそうでない。
「ちょっとぼーるがはいいりましたから、とらしてください」
げじょはだいどころから「はい」とこたえる。
しょせいはうらてへめぐる。
すずきはみょうなかおをしてなにだいときく。
「うらのしょせいがぼーるをにわへなげこんだんだ」
「うらのしょせい?うらにしょせいがいるのかい」
「落雲かんというがっこうさ」
「ああそうか、がっこうか。
ずいぶんそうぞうしいだろうね」
「そうぞうしいのなにのって。
ろくろくべんきょうもできやしない。
ぼくがもんぶだいじんならさっそくへいさをめいじてやる」
「はははおおいたおこったね。
なにかしゃくにさわることでもあるのかい」
「あるのないのって、あさからばんまでしゃくにさわりつづけだ」
「そんなにしゃくにさわるならこせばいいじゃないか」
「だれがこすもんか、しっけいせんまんな」
「ぼくにおこったってしかたがない。
なあにしょうきょうだあね、うちゃっておけばいいさ」
「きみはよかろうがぼくはよくない。
きのうはきょうしをよびつけてだんぱんしてやった」
「それはおもしろかったね。
おそれいったろう」
「うん」
このときまたかどぐちをあけて「ちょっとぼーるがはいいりましたからとらしてください」というこえがする。
「いやだいぶくるじゃないか、またぼーるだぜきみ」
「うん、ひょうからくるようにけいやくしたんだ」
「なるほどそれであんなにくるんだね。
そうーか、わかった」
「なにがわかったんだい」
「なに、ぼーるをとりにくるみなもといんがさ」
「きょうはこれでじゅうろくかえめだ」
「きみうるさくないか。
こないようにしたらいいじゃないか」
「こないようにするったって、くるからしかたがないさ」
「しかたがないといえばそれまでだが、そうがんこにしていないでもよかろう。
にんげんはかくがあるとよのなかをころがっていくのがほねがおれてそんだよ。
まるいものはごろごろどこへでもくなしにいけるがしかくなものはころがるにほねがおれるばかりじゃない、ころがるたびにかくがすれていたいものだ。
どうせじぶんいちにんのよのなかじゃなし、そうじぶんのおもうようにひとはならないさ。
まあなにだね。
どうしてもきんのあるものに、たてをついちゃそんだね。
ただしんけいばかりいためて、からだはわるくなる、ひとはほめてくれず。
むこうはへいきなものさ。
すわってひとをつかいさえすればすむんだから。
たぜいにぶぜいどうせ、かなわないのはしれているさ。
がんこもいいが、たてとおすつもりでいるうちに、じぶんのべんきょうにさわったり、まいにちのぎょうむにはんをおよぼしたり、とどのつまりがほねおりぞんのくたびれもうけけだからね」
「ごめんなさい。
いまちょっとぼーるがとびましたから、うらぐちへまわって、とってもいいですか」
「そらまたきたぜ」とすずきくんはわらっている。
「しっけいな」としゅじんはまっかになっている。
すずきくんはもうたいがいほうもんのいをはたしたとおもったから、それじゃしっけいちときたまえとかえっていく。
いれかわってやってきたのがあまぎせんせいである。
ぎゃくうわやがじぶんでぎゃくじょうかだとなのるものはむかししかられいがすくない、これはしょうしょうへんだなとさとったときはぎゃくじょうのとうげはもうこしている。
しゅじんのぎゃくじょうはきのうのだいじけんのさいにさいこうどにたっしたのであるが、だんぱんもりゅうとうだびたるにかからず、どうかこうかしまつがついたのでそのばんしょさいでつくづくかんがえてみるとすこしへんだときがついた。
もっとも落雲かんがへんなのか、じぶんがへんなのかうたぐをそんするよちはじゅうぶんあるが、なにしろへんに違ない。
いくらちゅうがっこうのとなりにきょをかまえたって、かくのごとくとしがねんじゅうかんしゃくをおこしつづけはちとへんだときがついた。
へんであってみればどうかしなければならん。
どうするったってしかたがない、やはりいしゃのくすりでものんでかんしゃくのみなもとにわいろでもつかっていぶするよりほかにみちはない。
こうさとったからへいぜいかかりつけのあまぎせんせいをむかえてしんさつをうけてみようというりょうみをおこしたのである。
けんかおろか、そのあたりはべつもんだいとして、とにかくじぶんのぎゃくじょうにきがついただけはしゅしょうのこころざし、きとくのこころえといわなければならん。
あまぎせんせいはれいのごとくにこにことおちつきはらって、「どうです」という。
いしゃはたいていどうですというにきわまってる。
わがはいは「どうです」といわないいしゃはどうもしんようをおくきにならん。
「せんせいどうもだめですよ」
「え、なにそんなことがあるものですか」
「いったいいしゃのくすりはきくものでしょうか」
あまぎせんせいもおどろきろいたが、そこはおんこうのちょうじゃだから、べつだんげきしたようすもなく、
「きかんこともないです」と穏かにこたえた。
「わたしのいびょうなんか、いくらやくをのんでもおなじことですぜ」
「けっして、そんなことはない」
「ないですかな。
すこしはよくなりますかな」とじぶんのいのことをひとにきいてみる。
「そうきゅうには、癒りません、だんだんききます。
いまでももとよりおおいたよくなっています」
「そうですかな」
「やはりかんしゃくがおこりますか」
「おこりますとも、ゆめにまでかんしゃくをおこします」
「うんどうでも、すこしなさったらいいでしょう」
「うんどうすると、なおかんしゃくがおこります」
あまぎせんせいもあきれかえったものとみえて、
「どれひとつはいけんしましょうか」としんさつをはじめる。
しんさつをおわるのをまちかねたしゅじんは、とつぜんおおきなこえをだして、
「せんせい、せんだってさいみんじゅつのかいてあるほんをよんだら、さいみんじゅつをおうようしててくせのわるいんだの、いろいろなびょうきだのをなおすことができるとかいてあったですが、ほんとうでしょうか」ときく。
「ええ、そういうりょうほうもあります」
「いまでもやるんですか」
「ええ」
「さいみんじゅつをかけるのはむずかしいものでしょうか」
「なにやくはありません、わたしなどもよくかけます」
「せんせいもやるんですか」
「ええ、ひとつやってみましょうか。
だれでもかからなければならんりくつのものです。
あなたさえよければかけてみましょう」
「そいつはおもしろい、ひとつかけてください。
わたしもとうからかかってみたいとおもったんです。
しかしかかりきりでめがさめないとこまるな」
「なにだいじょうぶです。
それじゃやりましょう」
そうだんはたちまちいっけつして、しゅじんはいよいよさいみんじゅつをかけらるることとなった。
わがはいはいままでこんなことをみたことがないからこころひそかによろこんでそのけっかをざしきのすみからはいけんする。
せんせいはまず、しゅじんのめからかけはじめた。
そのほうほうをみていると、りょうめのうえまぶたをうえからしたへとなでて、しゅじんがすでにめをねむっているにもかからず、しきりにおなじほうこうへくせをつけたがっている。
しばらくするとせんせいはしゅじんにむかって「こうやって、まぶたをなでていると、だんだんめがおもたくなるでしょう」ときいた。
しゅじんは「なるほどおもくなりますな」とこたえる。
せんせいはなおおなじようになでおろし、なでおろし「だんだんおもくなりますよ、ようござんすか」という。
しゅじんもそのきになったものか、なにともいわずにだまっている。
おなじまさつほうはまたさんよんふんくりかえされる。
さいごにあまぎせんせいは「さあもうひらきませんぜ」といわれた。
かわいそうにしゅじんのめはとうとうつぶれてしまった。
「もうひらかんのですか」「ええもうあきません」しゅじんはもくぜんとしてめをねむっている。
わがはいはしゅじんがもうもうもくになったものとおもいこんでしまった。
しばらくしてせんせいは「あけるならひらいてごらんなさい。
とうていあけないから」といわれる。
「そうですか」というがはやいかしゅじんはふつうのとおりりょうめをひらいていた。
しゅじんはにやにやわらいながら「かかりませんな」というとあまぎせんせいもおなじくわらいながら「ええ、かかりません」という。
さいみんじゅつはついにふせいこうにりょうる。
あまぎせんせいもかえる。
そのつぎにきたのが――しゅじんのうちへこのくらいきゃくのきたことはない。
こうさいのすくないしゅじんのいえにしてはまるでうそのようである。
しかしきたにそういない。
しかもちんきゃくがきた。
わがはいがこのちんきゃくのことをひとことでもきじゅつするのはたんにちんきゃくであるがためではない。
わがはいはせんこくもうすとおりだいじけんのよ瀾をえがきつつある。
しかしてこのちんきゃくはこのよ瀾をえがくにほうっていっすべからざるざいりょうである。
なんというなまえかしらん、ただがおのながいうえに、やぎのようなひげをはやしているよんじゅうぜんごのおとこといえばよかろう。
迷亭のびがくしゃたるにたいして、わがはいはこのおとこをてつがくしゃとよぶつもりである。
なぜてつがくしゃというと、なにも迷亭のようにじぶんでふりちらすからではない、ただしゅじんとたいわするときのようすをはいけんしているといかにもてつがくしゃらしくおもわれるからである。
これもむかししのどうそうとみえてりょうにんどもおうたいふりはしごくうちとけたありさまだ。
「うん迷亭か、あれはいけにういてるきんぎょふすまのようにふわふわしているね。
せんだってゆうじんをつれていちめんしきもないかぞくのもんぜんをつうこうしたとき、ちょっとよってちゃでものんでいこうとゆってひっはりこんだそうだがずいぶんのんきだね」
「それでどうしたい」
「どうしたかきいてもみなかったが、――そうさ、まあてんぴんのきじんだろう、そのかわりこうもなにもないまったくきんぎょふすまだ。
すずきか、――あれがくるのかい、へえー、あれはりくつはわからんがせけんてきにはりこうなおとこだ。
きむとけいはさげられるたちだ。
しかしおくゆきがないからおちつきがなくってだめだ。
えんかつえんかつというが、えんかつのいみもなにもわかりはせんよ。
迷亭がきんぎょふすまならあれはわらでくくったこんにゃくだね。
ただわるくすべかでぶるぶるふえているばかりだ」
しゅじんはこのきけいなひゆをきいて、だいにかんしんしたものらしく、ひさしぶりではははとわらった。
「そんならきみはなにだい」
「ぼくか、そうさなぼくなんかは――まあじねんじょくらいなところだろう。
ながくなってどろのなかにうまってるさ」
「きみはしじゅうたいぜんとしてきらくなようだが、うらやましいな」
「なにふつうのにんげんとおなじようにしているばかりさ。
べつにうらやまれるにたるほどのこともない。
ただありがたいことにひとをうらやむきもおこらんから、それだけいいね」
「かいけいはちかごろゆたかかね」
「なにおなじことさ。
たるやたらずさ。
しかしくうているからだいじょうぶ。
おどろかないよ」
「ぼくはふゆかいで、かんしゃくがおこってたまらん。
どっちをむいてもふへいばかりだ」
「ふへいもいいさ。
ふへいがおこったらおこしてしまえばとうぶんはいいこころもちになれる。
にんげんはいろいろだから、そうじぶんのようにひとにもなれとすすめたって、なれるものではない。
はしはひととおなじようにもたんとめしがくいにくいが、じぶんのめん麭はじぶんのかってにきるのがいちばんつごうがいいようだ。
じょうずなしたてやできものをこしらえれば、ちゃくたてから、からだにあったのをもってくるが、へたのさいほうやにあつらえたらとうぶんはがまんしないとだめさ。
しかしよのなかはうまくしたもので、きているうちにはようふくのほうで、こちらのこっかくにあわしてくれるから。
いまのよにあうようにじょうとうなりょうしんがてぎわよくうんでくれれば、それがこうふくなのさ。
しかしできそんこなったらよのなかにあわないでがまんするか、またはよのなかであわせるまでしんぼうするよりほかにみちはなかろう」
「しかしぼくなんか、いつまでたってもあいそうにないぜ、こころぼそいね」
「あまりあわないせびろをむりにきるとほころびる。
けんかをしたり、じさつをしたりそうどうがおこるんだね。
しかしきみなんかただおもしろくないというだけでじさつはむろんしやせず、けんかだってやったことはあるまい。
まあまあいいほうだよ」
「ところがまいにちけんかばかりしているさ。
あいてがでてこなくってもおこっておればけんかだろう」
「なるほどいちにんけんかだ。
おもしろいや、いくらでもやるがいい」
「それがいやになった」
「そんならよすさ」
「きみのまえだがじぶんのこころがそんなにじゆうになるものじゃない」
「まあぜんたいなにがそんなにふへいなんだい」
しゅじんはここにおいて落雲かんじけんをはじめとして、いまどしょうのたぬきから、ぴんすけ、きしゃごそのほかあらゆるふへいをあげてとうとうとてつがくしゃのまえにのべたてた。
てつがくしゃせんせいはだまってきいていたが、ようやくくちをひらいて、かようにしゅじんにときだした。
「ぴんすけやきしゃごがなにをゆったってしらんかおをしておればいいじゃないか。
どうせくだらんのだから。
ちゅうがくのせいとなんかかまうかちがあるものか。
なにぼうがいになる。
だってだんぱんしても、けんかをしてもそのぼうがいはとれんのじゃないか。
ぼくはそういうてんになるとせいようじんよりむかししのにっぽんじんのほうがよほどえらいとおもう。
せいようじんのやりかたはせっきょくてきせっきょくてきとゆってちかごろだいぶはやるが、あれはだいなるけってんをもっているよ。
だいいちせっきょくてきとゆったってさいげんがないはなしだ。
いつまでせっきょくてきにやりとおしたって、まんぞくといういきとかかんぜんというさかいにいけるものじゃない。
むかいにひのきがあるだろう。
あれがめざわりになるからとりはらう。
とそのむこうのげしゅくやがまたじゃまになる。
げしゅくやをたいきょさせると、そのつぎのいえがしゃくにさわる。
どこまでいってもさいげんのないはなしさ。
せいようじんのやりくちはみんなこれさ。
なぽれおんでも、あれきさんだーでもかってまんぞくしたものはいちにんもないんだよ。
ひとがきにくわん、けんかをする、せんぽうがへいこうしない、ほうにわへうったえる、ほうにわでかつ、それでらくちゃくとおもうのはま違さ。
こころのらくちゃくはしぬまであせったってかたづくことがあるものか。
寡人せいじがいかんから、だいぎせいたいにする。
だいぎせいたいがいかんから、またなにかにしたくなる。
かわがなまいきだってはしをかける、やまがきにくわんとゆって隧道をほりる。
こうつうがめんどうだとゆっててつどうをしく。
それでえいきゅうまんぞくができるものじゃない。
さればとゆってにんげんだものどこまでせっきょくてきにがいをとおすことができるものか。
せいようのぶんめいはせっきょくてき、しんしゅてきかもしれないがつまりふまんぞくでいっしょうをくらすひとのつくったぶんめいさ。
にっぽんのぶんめいはじぶんいがいのじょうたいをへんかさせてまんぞくをもとめるのじゃない。
せいようとだいにちがうところは、こんぽんてきにしゅういのきょうぐうはうごかすべからざるものといういちだいかていのしたにはったつしているのだ。
おやこのかんけいがおもしろくないとゆっておうしゅうじんのようにこのかんけいをかいりょうしておちつきをとろうとするのではない。
おやこのかんけいはざいらいのままでとうていうごかすことができんものとして、そのかんけいのしたにあんしんをもとむるしゅだんをこうずるにある。
ふうふくんしんのあいだがらもそのとおり、ぶしちょうにんのくべつもそのとおり、しぜんそのものをみるのもそのとおり。
――やまがあってりんごくへいかれなければ、やまをくずすというこうをおこすかわりにりんごくへいかんでもこまらないというくふうをする。
やまをこさなくともまんぞくだというこころもちをようせいするのだ。
それだからきみみたまえ。
ぜんけでもじゅかでもきっとこんぽんてきにこのもんだいをつらまえる。
いくらじぶんがえらくてもよのなかはとうていいのごとくなるものではない、らくじつをまわらすことも、かもがわをぎゃくにながすこともできない。
ただできるものはじぶんのこころだけだからね。
こころさえじゆうにするしゅうぎょうをしたら、落雲かんのせいとがいくらさわいでもへいきなものではないか、いまどしょうのたぬきでもかまわんでおられそうなものだ。
ぴんすけなんかぐなことをゆったらこのばかやろうとすましておればしさいなかろう。
なにでもむかししのぼうずはひとにきりつけられたときでんこうかげうらにしゅんぷうをきるとか、なんとかしゃれたことをゆったというはなしだぜ。
こころのしゅうぎょうがつんでしょうきょくのきょくにたっするとこんなれいかつなさようができるのじゃないかしらん。
ぼくなんか、そんなむずかしいことはわからないが、とにかくせいようじんふうのせっきょくしゅぎばかりがいいとおもうのはしょうしょうあやままっているようだ。
げんにきみがいくらせっきょくしゅぎにはたらいたって、せいとがきみをひやかしにくるのをどうすることもできないじゃないか。
きみのけんりょくであのがっこうをへいさするか、またはせんぽうがけいさつにうったえるだけのわるいことをやればかくべつだが、さもないいじょうは、どんなにせっきょくてきにでたったてかちてっこないよ。
もしせっきょくてきにでるとすればきんのもんだいになる。
たぜいにぶぜいのもんだいになる。
かんげんするときみがかねもちにあたまをさげなければならんということになる。
しゅうを恃むしょうきょうにおそれいらなければならんということになる。
きみのようなびんぼうにんでしかもたったいちにんでせっきょくてきにけんかをしようというのがそもそもきみのふへいのたねさ。
どうだいわかったかい」
しゅじんはわかったとも、わからないともいわずにきいていた。
ちんきゃくがかえったあとでしょさいへはいいってしょもつもよまずになにかかんがえていた。
すずきのふじさんはきんとしゅうとにしたがえとしゅじんにおしえたのである。
あまぎせんせいはさいみんじゅつでしんけいをしずめろとじょげんしたのである。
さいごのちんきゃくはしょうきょくてきのしゅうようであんしんをえろとせっぽうしたのである。
しゅじんがいずれをえらぶかはしゅじんのずいいである。
ただこのままではとおされないにきわまっている。
きゅう
しゅじんはいもめんである。
ごいしんまえはあばたもおおいたはやったものだそうだがにちえいどうめいのきょうからみると、こんなかおはいささかじこうおくれのかんがある。
あばたのすいたいはじんこうのぞうしょくとはんぴれいしてちかきしょうらいにはまったくその迹をたつにいたるだろうとはいがくじょうのとうけいからせいみつにわりだされたるけつろんであって、わがはいのごときねこといえどもごうもうたぐをはさむよちのないほどのめいろんである。
げんこんちきゅうじょうにあばたっめんをゆうしてせいそくしているにんげんはなんにんくらいあるかしらんが、わがはいがこうさいのくいきないにおいてださんしてみると、ねこにはいちひきもない。
にんげんにはたったいちにんある。
しかしてそのいちにんがすなわちしゅじんである。
はなはだきのどくである。
わがはいはしゅじんのかおをみるたびにかんがえる。
まあなにのいんがでこんなみょうなかおをしておくめんなくにじゅうせいきのくうきをこきゅうしているのだろう。
むかしならすこしははばもきいたかしらんが、あらゆるあばたがにのうでへたちのきをめいぜられたさっこん、いぜんとしてはなのあたまやほおのうえへじんどってがんとしてうごかないのはじまんにならんのみか、かえってあばたのたいめんにかんするわけだ。
できることならいまのうちとりはらったらよさそうなものだ。
あばたじしんだってこころぼそいにちがいない。
それともとうせいふしんのさい、ちかってらくじつをちゅうてんにばんかいせずんばやまずといういきごみで、あんなにおうふうにかおいちめんをせんりょうしているのかしらん。
そうするとこのあばたはけっしてけいべつのいをもってみるべきものでない。
とうとうたるりゅうぞくにこうするばんこふまのあなのしゅうごうたいであって、だいにわれじんのそんけいにあたいするおうとつとゆってよろしい。
ただきたならしいのがけってんである。
しゅじんのしょうきょうのときにうしごめのやまぶしまちにあさだそうはくというかんほうのめいいがあったが、このろうじんがびょうかをみまうときにはかならずかごにのってそろりそろりとまいられたそうだ。
ところがそうはくろうがなくなられてそのようしのだいになったら、かごがたちまちじんりきしゃにへんじた。
だからようしがしんでそのまたようしがあとをつづいだらかずらねゆがあんちぴりんにばけるかもしれない。
かごにのってとうきょうしちゅうをねりあるくのはそうはくろうのとうじですらあまりみっともいいものではなかった。
こんなまねをしてすましていたものはきゅうへいなもうじゃと、きしゃへつみこまれるぶたと、そうはくろうとのみであった。
しゅじんのあばたもそのふわざるごとにおいてはそうはくろうのかごといっぱんで、はたからみるときのどくなくらいだが、かんほういにもおとらざるがんこなしゅじんはいぜんとしてこじょうらくじつのあばたをてんかにばくろしつつまいにちとうこうしてりーどるをおしえている。
かくのごときぜんせいきのきのねんをまんめんにこくしてきょうだんにたつかれは、そのせいとにたいしてじゅぎょういがいにだいなるくんかいをたれつつあるにそういない。
かれは「さるがてをもつ」をはんぷくするよりも「あばたのがんめんにおよぼすえいきょう」というだいもんだいをぞうさくもなくかいしゃくして、ふげんのまにそのとうあんをせいとにあたえつつある。
もししゅじんのようなにんげんがきょうしとしてそんざいしなくなったあかつきにはかれらせいとはこのもんだいをけんきゅうするためにとしょかんもしくははくぶつかんへ馳けつけて、われじんがみいらによってえじぷとじんをほうふつするとどうていどのろうりょくをついやさねばならぬ。
このてんからみるとしゅじんのいももめいめいのうらにみょうなくどくを施こしている。
もっともしゅじんはこのくどくを施こすためにかおいちめんにほうそうをたねえつけたのではない。
これでもじつはたねえほうそうをしたのである。
ふこうにしてうでにたねえたとおもったのが、いつのまにかかおへでんせんしていたのである。
そのころはしょうきょうのことでいまのようにいろけもなにもなかったものだから、かゆいかゆいといいながらむあんにかおちゅうひきかいたのだそうだ。
ちょうどふんかざんがはれつしてらゔぁがかおのうえをながれたようなもので、おやがうんでくれたかおをだいなしにしてしまった。
しゅじんはおりおりさいくんにむかってほうそうをせぬうちはたまのようなだんしであったとゆっている。
あさくさのかんのんさまでせいようじんがふりそってみたくらいきれいだったなどとじまんすることさえある。
なるほどそうかもしれない。
ただだれもほしょうじんのいないのがざんねんである。
いくらくどくになってもくんかいになっても、きたないものはやっぱりきたないものだから、ぶっしんがついていらいというものしゅじんはだいにあばたについてしんぱいしだして、あらゆるしゅだんをつくしてこのしゅうたいをもみつぶそうとした。
ところがそうはくろうのかごとちがって、いやになったからというてそうきゅうにうちやられるものではない。
いまだにれきぜんとのこっている。
このれきぜんがたしょうきにかかるとみえて、しゅじんはおうらいをあるくどごとにあばためんをかんじょうしてあるくそうだ。
きょうなんにんあばたにであって、そのおもはおとこかおんなか、そのばしょはおがわまちのかんこうばであるか、うえののこうえんであるか、ことごとくかれのにっきにつけこんである。
かれはあばたにかんするちしきにおいてはけっしてだれにもゆずるまいとかくしんしている。
せんだってあるようこうがえりのゆうじんがきたおりなぞは、「きみせいようじんにはあばたがあるかな」ときいたくらいだ。
するとそのゆうじんが「そうだな」とくびをまげながらよほどかんがえたあとで「まあめったにないね」とゆったら、しゅじんは「めったになくっても、すこしはあるかい」とねんをいれてききかええした。
ゆうじんはきのないかおで「あってもこじきかりつんぼうだよ。
きょういくのあるひとにはないようだ」とこたえたら、しゅじんは「そうかなあ、にっぽんとはすこしちがうね」とゆった。
てつがくしゃのいけんによって落雲かんとのけんかをおもいとまったしゅじんはそのごしょさいにたてこもってしきりになにかかんがえている。
かれのちゅうこくをいれてせいざのうらにれいかつなるせいしんをしょうきょくてきにしゅうようするつもりかもしれないが、がんらいがきのちいさなにんげんのくせに、ああいんきなふところでばかりしていてはろくなけっかのでようはずがない。
それよりえいしょでもしつにいれてげいしゃかららっぱぶしでもならったほうがはるかにましだとまではきがついたが、あんなへんくつなおとこはとうていねこのちゅうこくなどをきくきやはないから、まあかってにさせたらよかろうとごろくにちはちかよりもせずにくらした。
きょうはあれからちょうどななにちめである。
ぜんけなどではいちななにちをかぎってたいごしてみせるなどとすごじいぜいでゆい跏するれんちゅうもあることだから、うちのしゅじんもどうかなったろう、しぬかいきるかなんとかかたづいたろうと、のそのそ椽側からしょさいのいりぐちまできてしつないのどうせいをていさつにおよんだ。
しょさいはみなみむきのろくじょうで、ひあたりのいいところにおおきなつくえがすえてある。
ただおおきなつくえではわかるまい。
ながさろくしゃく、はばさんしゃくはちすんだかさこれにかなうというおおきなつくえである。
むろんできごうのものではない。
きんじょのたてぐやにだんぱんしてしんだいけんつくえとしてせいぞうせしめたるきたいのしなものである。
なにのゆえにこんなおおきなつくえをしんちょうして、またなにのゆえにそのうえにねてみようなどというりょうけんをおこしたものか、ほんにんにきいてみないことだからとみとわからない。
ほんのいちじのできごころで、かかるなんぶつをかつぎこんだのかもしれず、あるいはことによるといちしゅのせいしんびょうしゃにおいてわれじんがしばしばみいだすごとく、えんもゆかりもないにこのかんねんをれんそうして、つくえとしんだいをかってにむすびつけたものかもしれない。
とにかくきばつなかんがえである。
ただきばつだけでやくにたたないのがけってんである。
わがはいはかつてしゅじんがこのつくえのうえへひるねをしてねがえりをするひょうしに椽側へころげおちたのをみたことがある。
それいらいこのつくえはけっしてしんだいにてんようされないようである。
つくえのまえにはうすっぺらなめりんすのざぶとんがあって、たばこのひでやけたあながみっつほどかたまってる。
なかからみえるめんはすすきくろい。
このざぶとんのうえにうしろむきにかしこまっているのがしゅじんである。
ねずみいろによごれたへこおびをこまむすびにむすんださゆうがだらりとあしのうらへたれかかっている。
このおびへじゃれついて、いきなりあたまをはられたのはこないだのことである。
めったによりつくべきおびではない。
まだかんがえているのかへたのこうという喩もあるのにとうしろからのぞきこんでみると、つくえのうえでいやにぴかぴかとひかったものがある。
わがはいはおもわず、つづけざまににさんどまどかをしたが、こいつはへんだとまぶしいのをがまんしてじっとひかるものをみつめてやった。
するとこのひかりはつくえのうえでうごいているかがみからでるものだということがわかった。
しかししゅじんはなにのためにしょさいでかがみなどをふりまわしているのであろう。
かがみといえばふろじょうにあるにきわまっている。
げんにわがはいはこんあさぶろじょうでこのかがみをみたのだ。
このかがみととくにいうのはしゅじんのうちにはこれよりほかにかがみはないからである。
しゅじんがまいあさがおをあらったあとでかみをわけるときにもこのかがみをもちいる。
――しゅじんのようなおとこがかみをわけるのかときくひともあるかもしれぬが、じっさいかれはたのことにぶしょうなるだけそれだけあたまをていねいにする。
わがはいがとうけにまいってからいまにいたるまでしゅじんはいかなるえんねつのひといえどもごふんかりにかりこんだことはない。
かならずにすんくらいのながさにして、それをおんたいそうにひだりのほうでわけるのみか、みぎのはじをちょっとはねかえしてすましている。
これもせいしんびょうのちょうこうかもしれない。
こんなきどったわけかたはこのつくえといっこうちょうわしないとおもうが、あえてたにんにがいをおよぼすほどのことでないから、だれもなにともいわない。
ほんにんもとくいである。
わけかたのはいからなのはさておいて、なぜあんなにかみをながくするのかとおもったらじつはこういうわけである。
かれのあばたはたんにかれのかおをしんしょくせるのみならず、とくのむかししにのうてんまでくいこんでいるのだそうだ。
だからもしふつうのひとのようにごふんかりやさんふんかりにすると、みじかかいけのこんぽんからなんじゅうとなくあばたがあらわれてくる。
いくらなでても、さすってもぽつぽつがとれない。
枯野にほたるをはなったようなものでふうりゅうかもしれないが、さいくんのぎょいにはいらんのはもちろんのことである。
かみさえながくしておけばろけんしないですむところを、このんでじこのひを曝くにもあたらぬわけだ。
なろうことならかおまでけをはやして、こっちのあばたもないさいにしたいくらいなところだから、ただではえるけをぜにをだしてかりこませて、わたしはずがいこつのうえまでてんねんとうにやられましたよとふいちょうするひつようはあるまい。
――これがしゅじんのかみをながくするりゆうで、かみをながくするのが、かれのかみをわけるげんいんで、そのげんいんがかがみをみるわけで、そのかがみがふろじょうにあるゆえんで、しこうしてそのかがみがひとつしかないというじじつである。
ふろじょうにあるべきかがみが、しかもひとつしかないかがみがしょさいにきているいじょうはかがみがはなれたましいびょうにかかったのかまたはしゅじんがふろじょうからもってきたにそういない。
もってきたとすればなにのためにもってきたのだろう。
あるいはれいのしょうきょくてきしゅうようにひつようなどうぐかもしれない。
むかししあるるがくしゃがなんとかいうちしきをおとなうたら、おしょうりょうはだをぬいで甎をみがくしておられた。
なにをこしらえなさるとしつもんをしたら、なにさこんかがみをつくろうとおもうていっしょうけんめいにやっておるところじゃとこたえた。
そこでがくしゃはおどろきろいて、なんぼめいそうでも甎をみがくしてかがみとすることはできまいというたら、おしょうからからとわらいながらそうか、それじゃやめよ、いくらしょもつをよんでもみちはわからぬのもそんなものじゃろとののしったというから、しゅじんもそんなことをきき噛ってふろじょうからかがみでももってきて、したりがおにふりまわしているのかもしれない。
おおいたぶっそうになってきたなと、そっとうかがっている。
かくともしらぬしゅじんははなはだねっしんなるようすをもっていちはりらいのかがみをみつめている。
がんらいきょうというものはきみのわるいものである。
しんやろうそくをたてて、ひろいへやのなかでいちにんきょうをのぞきこむにはよほどのゆうきがいるそうだ。
わがはいなどははじめてとうけのれいじょうからかがみをかおのまえへおしつけられたときに、はっとぎょうてんしてやしきのまわりをさんど馳けまわったくらいである。
いかにはくちゅうといえども、しゅじんのようにかくいっしょうけんめいにみつめているいじょうはじぶんでじぶんのかおがこわくなるにそういない。
ただみてさえあまりぎみのいいかおじゃない。
ややあってしゅじんは「なるほどきたないかおだ」とひとりごとをゆった。
じこのみにくをじはくするのはなかなかみあげたものだ。
ようすからいうとたしかにき違のしょさだがいうことはしんりである。
これがもういちほすすむと、おのれれのしゅうあくなことがこわくなる。
にんげんはわれみがこわろしいあくとうであるというじじつをてっぼねてっずいにかんじたものでないとくろうにんとはいえない。
くろうにんでないととうていげだつはできない。
しゅじんもここまできたらついでに「おおこわい」とでもいいそうなものであるがなかなかいわない。
「なるほどきたないかおだ」とゆったあとで、なにをかんがえだしたか、ぷうっとほおっぺたをふくらました。
そうしてふくれたほおっぺたをひらてでにさんどたたいてみる。
なにのまじないだかわからない。
このときわがはいはなんだかこのかおににたものがあるらしいというかんじがした。
よくよくかんがえてみるとそれはごさんのかおである。
ついでだからごさんのかおをちょっとしょうかいするが、それはそれはふくれたものである。
このかんさるひとがあなもりいなりからふぐのちょうちんをみやげにもってきてくれたが、ちょうどあのふぐちょうちんのようにふくれている。
あまりふくれかたがざんこくなのでめはりょうほうどもふんしつしている。
もっともふぐのふくれるのはまんへんなくまんまるにふくれるのだが、おさんとくると、がんらいのこっかくがたかくせいであって、そのこっかくどおりにふくれあがるのだから、まるでみずけになやんでいるろくかくとけいのようなものだ。
ごさんがきいたらさぞおこるだろうから、ごさんはこのくらいにしてまたしゅじんのほうにかえるが、かくのごとくあらんかぎりのくうきをもってほおっぺたをふくらませたるかれはまえもうすとおりてのひらでほおぺたをはたきながら「このくらいひふがきんちょうするとあばたもめにつかん」とまたひとりごをいった。
こんどはかおをよこにむけてはんめんにこうせんをうけたところをかがみにうつしてみる。
「こうしてみるとたいへんめだつ。
やっぱりまともにひのむかいてるほうがひらにみえる。
きたいなものだなあ」とおおいたかんしんしたようすであった。
それからみぎのてをうんとのばして、できるだけかがみをえんきょりにもっていってしずかにじゅくししている。
「このくらいはなれるとそんなでもない。
やはりちかすぎるといかん。
――かおばかりじゃないなにでもそんなものだ」とさとったようなことをいう。
つぎにかがみをきゅうによこにした。
そうしてはなのねをちゅうしんにしてめやがくやまゆをいちどにこのちゅうしんにむかってくしゃくしゃとあつめた。
みるからにふゆかいなようぼうができのぼったとおもったら「いやこれはだめだ」ととうにんもきがついたとみえてそうそうやめてしまった。
「なぜこんなにどくどくしいかおだろう」としょうしょうふしんのからだでかがみをめをさるさんすんばかりのところへひきよせる。
みぎのひとさしゆびでこばなをなでて、なでたゆびのあたまをつくえのうえにあったすいとりしのうえへ、うんとおしつける。
すいとられたはなのあぶらがまるるくしのうえへうきだした。
いろいろなげいをやるものだ。
それからしゅじんははなのあぶらをとまつしたしとうをてんじてぐいとみぎめのしもまぶたをうらがえして、ぞくにいうべっかんこうをみごとにやってのけた。
あばたをけんきゅうしているのか、かがみとねめけいをしているのかそのあたりはしょうしょうふめいである。
きのおおいしゅじんのことだからみているうちにいろいろになるとみえる。
それどころではない。
もしぜんいをもってこんにゃくもんどうてきにかいしゃくしてやればしゅじんはけんしょうじかくのほうべんとしてかようにかがみをあいてにいろいろなしぐさをえんじているのかもしれない。
すべてにんげんのけんきゅうというものはじこをけんきゅうするのである。
てんちといいやまかわといいじつげつといいせいしんというもかいじこのいみょうにすぎぬ。
じこをおいてたにけんきゅうすべきじこうはだれにんにもみいだしえぬわけだ。
もしにんげんがじこいがいにとびだすことができたら、とびだすとたんにじこはなくなってしまう。
しかもじこのけんきゅうはじこいがいにだれもしてくれるものはない。
いくらつかまつてやりたくても、もらいたくても、できないそうだんである。
それだからこらいのごうけつはみんなじりきでごうけつになった。
ひとのおかげでじこがわかるくらいなら、じぶんのだいりにぎゅうにくをくわして、かたいかやわらかいかはんだんのできるわけだ。
あさにほうをきき、ゆうにみちをきき、梧前とうかにしょかんをてにするのはみなこのじしょうをちょうはつするのほうべんのぐにすぎぬ。
ひとのとくほうのうち、たのべんずるみちのうち、ないしはごしゃにあまる蠧紙うずたかうらにじこがそんざいするゆえんがない。
あればじこのゆうれいである。
もっともあるばあいにおいてゆうれいはむれいよりまさるかもしれない。
かげをおえばほんたいにほうちゃくするときがないともかぎらぬ。
おおくのかげはたいていほんたいをはなれぬものだ。
このいみでしゅじんがかがみをひねくっているならだいぶはなせるおとこだ。
えぴくてたすなどをう呑にしてがくしゃぶるよりもはるかにましだとおもう。
かがみはおのれ惚のじょうぞうきであるごとく、どうじにじまんのしょうどくきである。
もしふかきょえいのねんをもってこれにたいするときはこれほどぐぶつをせんどうするどうぐはない。
むかしからぞうじょうまんをもっておのれをがいしたを※うたじせきのさんぶんのにはたしかにかがみのしょさである。
ふつこくかくめいのとうじぶつすきなごいしゃさんがかいりょうくびきりきかいをはつめいしてとんだつみをつくったように、はじめてかがみをこしらえたひともさだめしねさとしのわるいことだろう。
しかしじぶんにあいそのつきかけたとき、じがのいしゅくしたおりはかがみをみるほどくすりになることはない。
妍醜りょうぜんだ。
こんなかおでよくまあひとでこうとそりかえってきょうまでくらされたものだときがつくにきまっている。
そこへきがついたときがにんげんのしょうがいちゅうもっともありがたいきぶしである。
じぶんでじぶんのばかをしょうちしているほどとうととくみえることはない。
このじかくせいばかのまえにはあらゆるえらがりやがことごとくあたまをさげておそれいらねばならぬ。
とうにんはこうぜんとしてわれをけいぶちょうしょうしているつもりでも、こちらからみるとそのこうぜんたるところがおそれいってあたまをさげていることになる。
しゅじんはかがみをみておのれれのぐをさとるほどのけんじゃではあるまい。
しかしわがかおにしるせられるいものめいくらいはこうへいによみえるおとこである。
かおのみにくいのをじにんするのはこころの賤しきをえとくする楷梯にもなろう。
たのもしいおとこだ。
これもてつがくしゃからやりこめられたけっかかもしれぬ。
かようにかんがえながらなおようすをうかがっていると、それともしらぬしゅじんはおもうぞんぶんあかんべえをしたあとで「おおいたじゅうけつしているようだ。
やっぱりまんせいけつまくえんだ」といいながら、ひとさしゆびのよこつらでぐいぐいじゅうけつしたまぶたをこすりはじめた。
おおかたかゆいのだろうけれども、たださえあんなにあかくなっているものを、こうこすってはたまるまい。
とおからぬうちにしおたいのめだまのごとくふらんするにきまってる。
やがてめをひらいてかがみにむかったところをみると、おおせるかなどんよりとしてきたぐにのふゆぞらのようにくもっていた。
もっともへいじょうからあまりはればれしいめではない。
こだいなけいようしをもちいるとこんとんとしてくろめとはくがんが剖判しないくらいばくぜんとしている。
かれのせいしんがもうろうとしてふとくようりょうそこにいっかんしているごとく、かれのめも曖々しか昧々しかとしてながえにがんかのおくにただようている。
これはたいどくのためだともいうし、あるいはほうそうのよはだともかいしゃくされて、ちいさいじぶんはだいぶやなぎのむしやあかがえるのやっかいになったこともあるそうだが、せっかくははおやのたんせいも、あるにそのかいあらばこそ、きょうまでうまれたとうじのままでぼんやりしている。
わがはいひそかにおもうにこのじょうたいはけっしてたいどくやほうそうのためではない。
かれのめだまがかようにかいじゅうこんだくのひきょうにほうこうしているのは、とりもなおさずかれのずのうがふとおるふめいのじっしつからこうせいされていて、そのさようがくら憺溟濛のきょくにたっしているから、しぜんとこれがけいたいのうえにあらわれて、しらぬははおやにいらぬしんぱいをかけたんだろう。
けむりたってひあるをしり、まなこにごってぐなるをあかす。
してみるとかれのめはかれのこころのしょうちょうで、かれのこころはてんぽうせんのごとくあながあいているから、かれのめもまたてんぽうせんとおなじく、おおきなわりあいにつうようしないに違ない。
こんどはひげをねじりはじめた。
がんらいからぎょうぎのよくないひげでみんなおもいおもいのしせいをとってはえている。
いくらこじんしゅぎがはやるよのなかだって、こうまち々にわがままをつくされてはもちぬしのめいわくはさこそとおもいやられる、しゅじんもここにかんがみるところあってちかごろはだいにくんれんをあたえて、できるかぎりけいとうてきにあんばいするようにじんりょくしている。
そのねっしんのこうはてはそらしからずしてさっこんようやくほちょうがすこしととのうようになってきた。
いままではひげがはえておったのであるが、このころはひげをはやしているのだとじまんするくらいになった。
ねっしんはなるこうのたびにおうじてこぶせられるものであるから、わがひげのぜんとゆうぼうなりとみてとってしゅじんはあさなゆうな、てがすいておればかならずひげにむかってべんたつをくわえる。
かれのあむびしょんはどいつこうていへいかのように、こうじょうのねんのおきなひげをたくわえるにある。
それだからけあながよこむかいであろうとも、げこうであろうともいささかとんじゃくなくじゅうわいちとからげににぎっては、うえのほうへひっぱりあげる。
ひげもさぞかしなんぎであろう、しょゆうしゅたるしゅじんすらときどきはいたいこともある。
がそこがくんれんである。
いなでも応でもさかにしごきあげる。
もんがいかんからみるときのしれないどうらくのようであるが、とうきょくしゃだけはしとうのこととこころえている。
きょういくしゃがいたずらにせいとのほんしょうをいためて、ぼくのてがらをみたまえとほこるようなものでごうもひなんすべきりゆうはない。
しゅじんがまんこうのねっせいをもってひげをちょうれんしていると、だいどころからたかくせいのごさんがゆうびんがまいりましたと、れいのごとくあかいてをぬっとしょさいのなかへだした。
みぎてにひげをつかみ、ひだりてにかがみをもったしゅじんは、そのままいりぐちのほうをふりかえる。
はちのじのおにぎゃくかたちをめいじたようなひげをみるやいなやごたかくはいきなりだいどころへひきもどして、ははははとおかまのふたへみをもたしてわらった。
しゅじんはへいきなものである。
ゆうゆうとかがみをおろしてゆうびんをとりあげた。
だいいちしんはかっぱんずりでなんだかいかめしいもじがならべてある。
よんでみると
はいけいいよいよごたしょうほうがこうかいこすればにちろのせんえきはれんせんれんしょうのぜいにじょうじてへいわこくふくをつげわれちゅうゆうぎれつなるしょうしはいまやかはんまんさいごえうらにがいかをそうしこくみんのかんきなにものかこれにしかん曩にせんせんのたいしょうかんぱつせらるるやぎゆうおおやけにほうじたるしょうしはひさしくばんりのいきょうにありてかつくかんあつのくなんをしのびいちいせんとうにじゅうじしいのちをこっかにささげたるのしせいはながくめいして忘るべからざるしょなり而してぐんたいのがいせんはほんつきをもって殆んどしゅうりょうをつげんとすよってほんかいはくるにじゅうごにちをきしほんくないいちせんゆうよのしゅっせいしょうこうかしそつにたいしほんくみんいっぱんをだいひょうし以ていちだいがいせんしゅくがかいをかいさいしけんてぐんじんいぞくをいしゃせんがためめねつせいしをむかえ聊かんしゃのびちゅうをあらわしど就てはかくいのごきょうさんをあおぎ此せいてんをきょこうするのこうをうばほんかいのめんぼくふかこれとそんこうかんなにとぞごさんせいふるってぎえんあらんことをただかんきぼうのいたりにこたえずこうけいぐ
とあってさしだしじんはかぞくさまである。
しゅじんはもくどくいっかののちただちにふうのなかへまきおさめてしらんかおをしている。
ぎえんなどはおそらくしそうにない。
せんだってとうほくきょうさくのぎえんきんをにえんとかさんえんとかだしてから、あうひとごとにぎえんをとられた、とられたとふいちょうしているくらいである。
ぎえんとあるいじょうはさしだすもので、とられるものでないにはごくっている。
どろぼうにあったのではあるまいし、とられたとはふおんとうである。
しかるにもかんせず、とうなんにでもかかったかのごとくにおもってるらしいしゅじんがいかにぐんたいのかんげいだとゆって、いかにかぞくさまのかんゆうだとゆって、ごうだんでもちかけたらいざしらず、かっぱんのてがみくらいできんせんをだすようなにんげんとはおもわれない。
しゅじんからいえばぐんたいをかんげいするまえにまずじぶんをかんげいしたいのである。
じぶんをかんげいしたのちならたいていのものはかんげいしそうであるが、じぶんがあさゆうにさしつかえるまは、かんげいはかぞくさまにまかせておくりょうけんらしい。
しゅじんはだいにしんをとりあげたが「や、これもかっぱんだ」とゆった。
じかしゅうれいのこうにこうしょきかえき々ごりゅうせいのだんほうがじょうこうちんればほんこうぎもごしょうちのとおりさきおととしいらいにさんやしんかのためめにさまたげられいちじ其極にたっしこうとくどもぜれかいふしょうはりさくがたらざるところにきいんすとぞんじふかくみずから警むるしょありがたきぎ甞胆そのくからしのけっかようやく茲にどくりょく以てわがりそうにてきするだけのこうしゃしんちくひをえるのとをこうじこう其はべつぎにもござなくべっさつさいほうひじゅつこうようとめいめいせるしょさつしゅっぱんのぎにござこうほんしょはふしょうはりさくがたねんくしんけんきゅうせるこうげいじょうのげんりげんそくにほうとりしんににくをさきちをしぼるの思をなしてちょじゅつせるものにござこうよってほんしょをあまねくいっぱんのかていへせいほんじっぴにさしょうのりじゅんをふしてごこうきゅうをねがいいちめんしどうはったつのいちじょとなすとどうじにまたいちめんにはきんしょうのりじゅんをちくせきしてこうしゃけんちくひにとうつるしんさんにござこうよってはちかごろなにきょうきょうしゅくのいたりにぞんじそうろえどもほんこうけんちくひちゅうへごきふひなるかとごおぼしめしし茲にていきょうつかまつこうひじゅつこうよういちぶをごこうきゅうのうえごじじょのほうへなりともごぶんよひなるかこうてごさんどうのいをごひょうあきらひなるかどふしてこんがんつかまつこう※々けいぐ
だいにっぽんじょしさいほうさいこうとうだいがくいん
こうちょうぬいたはりさくきゅうはい
とある。
しゅじんはこのていちょうなるしょめんを、れいたんにまるめてぽんとくずかごのなかへほうりこんだ。
せっかくのはりさくくんのきゅうはいもがたきぎ甞胆もなにのやくにもたたなかったのはきのどくである。
だいさんしんにかかる。
だいさんしんはすこぶるふうがわりのこうさいをはなっている。
じょうぶくろがこうはくのだんだらで、あめんぼうのかんばんのごとくはなやかなるまんなかにちんのくさやせんせいとらひかとはちふんたいでにくぶとにみとめてある。
なかからおふとしさんがでるかどうだかうけあわないがひょうだけはすこぶるりっぱなものだ。
もしわがをもっててんちをりっすればひとくちにしてにしえのみずをすいつくすべく、もしてんちをもってわがをりっすればわがはのりち陌上のちりのみ。
すべからくみちえ、てんちとわれといんものこうしょうかある。
……はじめてなまこをくいだせるひとは其胆りょくに於てけいすべく、はじめてふぐをきっせるかんは其勇きに於ておもんずべし。
なまこをくえるものはしんらんのさいらいにして、ふぐをきっせるものはにちれんのぶんしんなり。
くさやせんせいのごときにいたってはただかんぴょうのすみそをしるのみ。
かんぴょうのすみそをくっててんかのしたるものは、われいまだこれをみず。
……
しんゆうもなんじをうるべし。
ちちははもなんじにわたしあるべし。
あいじんもなんじを棄つべし。
ふうきはかたよりたのみがたかるべし。
爵禄はいっちょうにしてうしなうべし。
なんじのあたまちゅうにひぞうするがくもんにはかびがはえるべし。
なんじなにを恃まんとするか。
てんちのうらになにをたのまんとするか。
かみ?かみはにんげんのくるしまぎれにねつぞうせるどぐうのみ。
にんげんのせつなくそのぎょうけつせるにおいむくろのみ。
恃むまじきを恃んでやすしという。
咄々、すいかん漫りにうろんのげんじをろうして、まんさんとしてはかにむかう。
あぶらつきてあかりみずからめっす。
ぎょうつきてなにぶつをかのこす。
くさやせんせいよろしくごちゃでもあがれ。
……
ひとをひととおもわざればかしこるるところなし。
ひとをひととおもわざるものが、われをわれとおもわざるよをいきどおるはいか。
けんきえいたつのしはひとをひととおもわざるに於てとくたるがごとし。
ただたのわれをわれとおもわぬときに於てふつぜんとしていろをさくす。
にんいにいろをさくしくれ。
ばかやろう。
……
われのひとをひととおもうとき、たのわれをわれとおもわぬとき、ふへいけはほっさてきにてんふる。
此発さくてきかつどうをなづけてかくめいという。
かくめいはふへいけのしょいにあらず。
けんきえいたつのしがこのんでさんするところなり。
ちょうせんににんじんおおしせんせいなにがゆえにふくせざる。
ざいすがもてんとうこうへいさいはい
はりさくくんはきゅうはいであったが、このおとこはたんにさいはいだけである。
きふきんのいらいでないだけにななはいほどおうふうにかまえている。
きふきんのいらいではないがそのかわりすこぶるわかりにくいものだ。
どこのざっしへだしてもぼっしょになるかちはじゅうぶんあるのだから、ずのうのふとうめいをもってなるしゅじんはかならずすんだんすんだんにひきさいてしまうだろうと思のほか、うちかえしうちかえしよみなおしている。
こんなてがみにいみがあるとかんがえて、あくまでそのいみをきわめようというけっしんかもしれない。
およそてんちのまにわからんものはたくさんあるがいみをつけてつかないものはひとつもない。
どんなむずかしいぶんしょうでもかいしゃくしようとすればよういにかいしゃくのできるものだ。
にんげんはばかであるといおうが、にんげんはりこうであるといおうがてもなくわかることだ。
それどころではない。
にんげんはいぬであるとゆってもぶたであるとゆってもべつにくるしむほどのめいだいではない。
やまはひくいとゆってもかまわん、うちゅうはせまいとゆってもさしつかえはない。
からすがしろくてこまちがしゅうふでくさやせんせいがくんしでもとおらんことはない。
だからこんなむいみなてがみでもなんとかかとかりくつさえつければどうともいみはとれる。
ことにしゅじんのようにしらぬえいごをむりやりにこじつけてせつめいしとおしてきたおとこはなおさらいみをつけたがるのである。
てんきのあくるいのになぜぐーど・もーにんぐですかとせいとにとわれてななにちかんかんがえたり、ころんばすというなはにほんごでなにといいますかときかれてさんにちさんばんかかってこたえをくふうするくらいなおとこには、かんぴょうのすみそがてんかのしであろうと、ちょうせんのじんさんをくってかくめいをおこそうとずいいないみはずいしょにわきでるわけである。
しゅじんはしばらくしてぐーど・もーにんぐりゅうにこのなんかいなごんくをのみこんだとみえて「なかなかいみしんちょうだ。
なにでもよほどてつりをけんきゅうしたひとに違ない。
てんはれなけんしきだ」とたいへんしょうさんした。
このひとことでもしゅじんのぐなところはよくわかるが、ひるがえってかんがえてみるといささかもっともなてんもある。
しゅじんはなにによらずわからぬものをありがたがるくせをゆうしている。
これはあながちしゅじんにかぎったことでもなかろう。
わからぬところにはばかにできないものがせんぷくして、はかるべからざるあたりにはなんだかけだかいこころもちがおこるものだ。
それだからぞくじんはわからぬことをわかったようにふいちょうするにもかからず、がくしゃはわかったことをわからぬようにこうしゃくする。
だいがくのこうぎでもわからんことをちょうしたるひとはひょうばんがよくってわかることをせつめいするものはじんぼうがないのでもよくしれる。
しゅじんがこのてがみにけいふくしたのもいぎがめいりょうであるからではない。
そのしゅしが那辺にそんするかほとんどとらえがたいからである。
きゅうになまこがでてきたり、せつなくそがでてくるからである。
だからしゅじんがこのぶんしょうをそんけいするゆいいつのりゆうは、どうかでどうとくけいをそんけいし、じゅかでえきけいをそんけいし、ぜんけで臨済ろくをそんけいするといっぱんでまったくわからんからである。
ただしぜんぜんわからんではきがすまんからかってなちゅうしゃくをつけてわかったかおだけはする。
わからんものをわかったつもりでそんけいするのはむかしからゆかいなものである。
――しゅじんはうやうやしくはちふんたいのめいひつをまきおさめて、これをきじょうにおいたままふところでをしてめいそうにしずんでいる。
ところへ「たのむたのむ」とげんかんからおおきなこえであんないをこうものがある。
こえは迷亭のようだが、迷亭ににあわずしきりにあんないをたのんでいる。
しゅじんはさきからしょさいのうちでそのこえをきいているのだがふところでのままごうもうごこうとしない。
とりつぎにでるのはしゅじんのやくめでないというしゅぎか、このしゅじんはけっしてしょさいからあいさつをしたことがない。
げじょはせんこくせんたくせっけんをかいにでた。
さいくんははばかりである。
するととりつぎにでべきものはわがはいだけになる。
わがはいだってでるのはいやだ。
するときゃくじんはくつだっからしきだいへとびあがってしょうじをあけはなってつかつかのぼりこんできた。
しゅじんもしゅじんだがきゃくもきゃくだ。
ざしきのほうへいったなとおもうとふすまをにさんどあけたり閉てたりして、こんどはしょさいのほうへやってくる。
「おいじょうだんじゃない。
なにをしているんだ、ごきゃくさんだよ」
「おやきみか」
「おやきみかもないもんだ。
そこにいるならなんとかいえばいいのに、まるであきやのようじゃないか」
「うん、ちとかんがえごとがあるもんだから」
「かんがえていたってとおれくらいはうんえるだろう」
「うんえんごともないさ」
「あいかわらずどきょうがいいね」
「せんだってからせいしんのしゅうようをりきめているんだもの」
「ものずきだな。
せいしんをしゅうようしてへんじができなくなったひにはらいきゃくはごなんだね。
そんなにおちつかれちゃこまるんだぜ。
じつはぼくいちにんきたんじゃないよ。
たいへんなごきゃくさんをつれてきたんだよ。
ちょっとでてあってくれたまえ」
「だれをつれてきたんだい」
「だれでもいいからちょっとでてあってくれたまえ。
ぜひくんにあいたいというんだから」
「だれだい」
「だれでもいいからたちたまえ」
しゅじんはふところでのままぬっとたちながら「またひとをかつぐつもりだろう」と椽側へでてなにのきもつかずにきゃくまへはいいりこんだ。
するとろくしゃくのゆかをしょうめんにいちこのろうじんがしゅくぜんとたんざしてひかえている。
しゅじんはおもわずふところからりょうてをだしてぺたりとからかみのはたへしりをかたづけてしまった。
これではろうじんとおなじくにしむきであるからそうほうどもあいさつのしようがない。
むかしかたぎのひとはれいぎはやかましいものだ。
「さあどうぞあれへ」ととこのまのほうをさしてしゅじんを促がす。
しゅじんはりょうさんねんまえまではざしきはどこへすわってもかまわんものとこころえていたのだが、そのごあるひとからとこのまのこうしゃくをきいて、あれはじょうだんのまのへんかしたもので、じょうしがすわわるしょだとさとっていらいけっしてとこのまへはよりつかないおとこである。
ことにみずしらずのねんちょうしゃが頑とかまえているのだからかみざどころではない。
あいさつさえろくにはできない。
いちおうあたまをさげて
「さあどうぞあれへ」とむかうのいうとおりをくりかえした。
「いやそれではごあいさつができかねますから、どうぞあれへ」
「いえ、それでは……どうぞあれへ」としゅじんはいいかげんにせんぽうのこうじょうをまねている。
「どうもそう、ごけんそんではおそれいる。
かえっててまえがいたみいる。
どうかおえんりょなく、さあどうぞ」
「ごけんそんでは……おそれますから……どうか」しゅじんはまっかになってくちをもごもごいわせている。
せいしんしゅうようもあまりこうかがないようである。
迷亭くんはふすまのかげからわらいながらたちみをしていたが、もういいじぶんだとおもって、うしろからしゅじんのしりをおしやりながら
「まあでたまえ。
そうからかみへくっついてはぼくがすわるところがない。
えんりょせずにまえへでたまえ」とむりにわりこんでくる。
しゅじんはやむをえずまえのほうへすりでる。
「くさやくんこれがことごとくきみにうわさをするしずおかのおじだよ。
おじさんこれがにがさやくんです」
「いやはじめてごめにかかります、まいど迷亭がでてごじゃまをいたすそうで、いつかさんじょうのうえごこうわをはいちょういたそうとぞんじておりましたところ、さいわいきょうはごきんじょをつうこういたしたもので、おれいつくりうかがったわけで、どうぞごみしりおかれましてこんごともよろしく」とむかししかぜなこうじょうをよどみなくのべたてる。
しゅじんはこうさいのせまい、むくちなにんげんであるうえに、こんなこふうなじいさんとはほとんどであったことがないのだから、さいしょからたしょうばうてのきみでへきえきしていたところへ、とうとうとあびせかけられたのだから、ちょうせんじんさんもあめんぼうのじょうぶくろもすっかりわすれてしまってただくるしまぎれにみょうなへんじをする。
「わたしも……わたしも……ちょっと伺がうはずでありましたところ……なにぶんよろしく」といいおわってあたまをしょうしょうたたみからあげてみるとろうじんはいまだにひれふしているので、はっときょうしゅくしてまたあたまをぴたりとつけた。
ろうじんはこきゅうをはかってくびをあげながら「わたしももとはこちらにやしきもあって、ながらくごひざもとでくらしたものでがすが、がかいのおりにあちらへまいってからとんとでてこんのでな。
こんらいてみるとまるでほうがくもわからんくらいで、――迷亭にでもともれてあるいてもらわんと、とてもようたしもできません。
滄桑のへんとはもうしながら、ごにゅうこくいらいさんひゃくねんも、あのとおりしょうぐんけの……」といいかけると迷亭せんせいめんどうだとこころえて
「おじさんしょうぐんけもありがたいかもしれませんが、めいじのだいもけっこうですぜ。
むかしはせきじゅうじなんてものもなかったでしょう」
「それはない。
せきじゅうじなどとしょうするものはまったくない。
ことにみやさまのごかおをおがむなどということはめいじのみよでなくてはできぬことだ。
わしもながいきをしたおかげでこのとおりきょうのそうかいにもしゅっせきするし、きゅうでんかのごこえもきくし、もうこれでしんでもいい」
「まあひさしぶりでとうきょうけんぶつをするだけでもえですよ。
くさやくん、おじはね。
こんどせきじゅうじのそうかいがあるのでわざわざしずおかからでてきてね、きょういっしょにうえのへでかけたんだがいまそのかえりがけなんだよ。
それだからこのとおりせんじつぼくがしらきやへちゅうもんしたふろっくこーとをきているのさ」とちゅういする。
なるほどふろっくこーとをきている。
ふろっくこーとはきているがすこしもからだにあわない。
そでがながすぎて、えりがおっひらいて、せなかへいけができて、わきのしたがつるしあがっている。
いくらぶかっこうにつくろうとゆったって、こうまでねんをいれてかたちをくずすわけにはゆかないだろう。
そのじょうはくしゃつとしろえりがはなればなれになって、おっしゃむくとまからのんどのどぼとけがみえる。
だいいちくろいえりかざりがえりにぞくしているのか、しゃつにぞくしているのかはんぜんしない。
ふろっくはまだがまんができるがはくはつのちょんまげははなはだきかんである。
ひょうばんのてっせんはどうかとめをちゅうけるとひざのよこにちゃんとひきつけている。
しゅじんはこのときようやくほんしんにたちかえって、せいしんしゅうようのけっかをぞんぶんにろうじんのふくそうにおうようしてしょうしょうおどろいた。
まさか迷亭のはなしほどではなかろうとおもっていたが、あってみるとはなしいじょうである。
もしじぶんのあばたがれきしてきけんきゅうのざいりょうになるならば、このろうじんのちょんまげやてっせんはたしかにそれいじょうのかちがある。
しゅじんはどうかしてこのてっせんのゆらいをきいてみたいとおもったが、まさか、うちつけにしつもんするわけにはいかず、とゆってはなしをときらすのもれいにかけるとおもって
「だいぶひとがでましたろう」ときわめてじんじょうなといをかけた。
「いやひじょうなひとで、それでそのひとがかいわしをじろじろみるので――どうもきんらいはにんげんがものみだかくなったようでがすな。
むかししはあんなではなかったが」
「ええ、さよう、むかしはそんなではなかったですな」とろうじんらしいことをいう。
これはあながちしゅじんがしっこうふりをしたわけではない。
ただもうろうたるずのうからいいかげんにながれだすげんごとみればさしつかえない。
「それにな。
みなこのかぶとわりへめをつけるので」
「そのてっせんはだいぶおもいものでございましょう」
「くさやくん、ちょっともってみたまえ。
なかなかおもいよ。
おじさんもたしてごらんなさい」
ろうじんはおもたそうにとりあげて「しつれいでがすが」としゅじんにわたす。
きょうとのくろたにでさんけいじんがはちすせいぼうのたちをいただくようなかたで、くさやせんせいしばらくもっていたが「なるほど」とゆったままろうじんにへんきゃくした。
「みんながこれをてっせんてっせんというが、これはかぶとわりととなえててっせんとはまるでべつもので……」
「へえ、なににしたものでございましょう」
「かぶとをわれるので、――てきのめがくらむところをうちとったものでがす。
くすのきまさしげじだいからもちいたようで……」
「おじさん、そりゃまさしげのかぶとわりですかね」
「いえ、これはだれのかわからん。
しかしじだいはふるい。
たてたけしじだいのさくかもしれない」
「たてたけしじだいかもしれないが、かんげつくんはよわっていましたぜ。
くさやくん、こんひがえりにちょうどいいきかいだからだいがくをとおりぬけるついでにりかへよって、ぶつりのじっけんしつをみせてもらったところがね。
このかぶとわりがてつだものだから、じりょくのきかいがくるっておおさわぎさ」
「いや、そんなはずはない。
これはたてたけしじだいのてつで、せいのいいてつだからけっしてそんなおそれれはない」
「いくらせいのいいてつだってそうはいきませんよ。
げんにかんげつがそうゆったからしかたがないです」
「かんげつというのは、あのがらすだまをすっているおとこかい。
いまのわかさにきのどくなことだ。
もうすこしなにかやることがありそうなものだ」
「かあいそに、あれだってけんきゅうでさあ。
あのたまをすりあげるとりっぱながくしゃになれるんですからね」
「たまをすりあげてりっぱながくしゃになれるなら、だれにでもできる。
わしにでもできる。
びーどろやのしゅじんにでもできる。
ああいうことをするものをかんどではたまじんとしょうしたものでいたってみぶんのかるいものだ」といいながらしゅじんのほうをむいてあんにさんせいをもとめる。
「なるほど」としゅじんはかしこまっている。
「すべていまのよのがくもんはみなけいじかのがくでちょっとけっこうなようだが、いざとなるとすこしもやくにはたちませんてな。
むかしはそれとちがってさむらいはみないのちがけのしょうがいだから、いざというときにろうばいせぬようにこころのしゅうぎょうをいたしたもので、ごしょうちでもあらっしゃろうがなかなかだまをすったりはりがねをなったりするようなたやすいものではなかったのでがすよ」
「なるほど」とやはりかしこまっている。
「おじさんしんのしゅうぎょうというものはたまをするかわりにふところでをしてすわりこんでるんでしょう」
「それだからこまる。
けっしてそんなぞうさくのないものではない。
もうしはもとめほうしんといわれたくらいだ。
邵康ぶしはこころようはなとといたこともある。
またぶっけではなかみねおしょうというのがぐふたいてんということをおしえている。
なかなかよういにはわからん」
「とうていわかりっこありませんね。
ぜんたいどうすればいいんです」
「ごぜんはさわ菴禅しのふどうさとししんみょうろくというものをよんだことがあるかい」
「いいえ、きいたこともありません」
「こころをどこにおこうぞ。
てきのみの働にこころをおけば、てきのみの働にこころをとらるるなり。
てきのたちにこころをおけば、てきのたちにこころをとらるるなり。
てきをきらんとおもうところにこころをおけば、てきをきらんとおもうところにこころをとらるるなり。
わがたちにこころをおけば、わがたちにこころをとらるるなり。
われきられじとおもうところにこころをおけば、きられじとおもうところにこころをとらるるなり。
ひとの構にこころをおけば、ひとの構にこころをとらるるなり。
とかくこころのおきどころはないとある」
「よくわすれずにあんしょうしたものですね。
おじさんもなかなかきおくがいい。
ながいじゃありませんか。
くさやくんわかったかい」
「なるほど」とこんどもなるほどですましてしまった。
「なあ、あなた、そうでござりましょう。
こころをどこにおこうぞ、てきのみの働にこころをおけば、てきのみの働にこころをとらるるなり。
てきのたちにこころをおけば……」
「おじさんくさやくんはそんなことは、よくこころえているんですよ。
ちかごろはまいにちしょさいでせいしんのしゅうようばかりしているんですから。
きゃくがあってもとりつぎにでないくらいこころをおきざりにしているんだからだいじょうぶですよ」
「や、それはごきとくなことで――ごぜんなどもちとごいっしょにやったらよかろう」
「へへへそんなひまはありませんよ。
おじさんはじぶんがらくなからだだもんだから、ひともあそんでるとおもっていらっしゃるんでしょう」
「じっさいあそんでるじゃないかの」
「ところが閑中じから忙ありでね」
「そう、そこつだからしゅうぎょうをせんといかないというのよ、ぼうちゅうみずから閑ありというせいくはあるが、閑中みずから忙ありというのはきいたことがない。
なあくさやさん」
「ええ、どうもききませんようで」
「ははははそうなっちゃあてきわない。
ときにおじさんどうです。
ひさしぶりでとうきょうのうなぎでもくっちゃあ。
たけはでもおごりましょう。
これからでんしゃでいくとすぐです」
「うなぎもけっこうだが、きょうはこれからすいはらへいくやくそくがあるから、わしはこれでごめんをこうむろう」
「ああすぎはらですか、あのじいさんもたっしゃですね」
「すぎはらではない、すいげんさ。
ごぜんはよくま違ばかりゆってこまる。
たにんのせいめいをとりちがえるのはしつれいだ。
よくきをつけんといけない」
「だってすぎはらとかいてあるじゃありませんか」
「すぎはらとかいてすいはらとよむのさ」
「みょうですね」
「なにみょうなことがあるものか。
めいもくよみとゆってむかしからあることさ。
みみずをわめいでみみずという。
あれはまみずのめいもくよみで。
えび蟆のことをかいるというのとおなじことさ」
「へえ、おどろきろいたな」
「えび蟆をうちころすとあおむきにかえる。
それをめいもくよみにかいるという。
とおるかきをすいかき、くきりつをくくりつ、みなおなじことだ。
すぎはらをすぎはらなどというのはいなかもののことばさ。
すこしきをつけないとひとにわらわれる」
「じゃ、その、すいはらへこれからいくんですか。
こまったな」
「なにいやならごぜんはいかんでもいい。
わしいちにんでいくから」
「いちにんでいけますかい」
「あるいてはむずかしい。
くるまをやとっていただいて、ここからのっていこう」
しゅじんはかしこまってただちにごさんをくるまやへはしらせる。
ろうじんはながながとあいさつをしてちょんまげあたまへやまたかぼうをいただいてかえっていく。
迷亭はあとへのこる。
「あれがきみのおじさんか」
「あれがぼくのおじさんさ」
「なるほど」とふたたびざぶとんのうえにすわったなりふところでをしてかんがえこんでいる。
「はははごうけつだろう。
ぼくもああいうおじさんをもってしあわせなものさ。
どこへつれていってもあのとおりなんだぜ。
きみおどろきろいたろう」と迷亭くんはしゅじんをおどろきろかしたつもりでだいによろこんでいる。
「なにそんなにおどろきゃしない」
「あれでおどろかなけりゃ、たんりょくの据ったもんだ」
「しかしあのおじさんはなかなかえらいところがあるようだ。
せいしんのしゅうようをしゅちょうするところなぞはだいにけいふくしていい」
「けいふくしていいかね。
きみもいまにろくじゅうくらいになるとやっぱりあのおじみたように、じこうおくれになるかもしれないぜ。
しっかりしてくれたまえ。
じこうおくれのまわりもちなんかきがきかないよ」
「きみはしきりにじこうおくれをきにするが、ときとばあいによると、じこうおくれのほうがえらいんだぜ。
だいいちいまのがくもんというものはさきへさきへといくだけで、どこまでいったってさいげんはありゃしない。
とうていまんぞくはえられやしない。
そこへいくととうようりゅうのがくもんはしょうきょくてきでだいにあじがある。
こころそのもののしゅうぎょうをするのだから」とせんだっててつがくしゃからうけたまわわったとおりをじせつのようにのべたてる。
「えらいことになってきたぜ。
なんだかやぎどくせんくんのようなことをゆってるね」
やぎどくせんというなをきいてしゅじんははっとおどろきろいた。
じつはせんだってがりょう窟をほうもんしてしゅじんをせつふくにおよんでゆうぜんとたちかえったてつがくしゃというのがともなおさずこのやぎどくせんくんであって、こんしゅじんがしかつめらしくのべたてているぎろんはまったくこのやぎどくせんくんの受売なのであるから、しらんとおもった迷亭がこのせんせいのなをまふようかみのさいにもちだしたのはあんにしゅじんのいちやづくりのかりはなを挫いたわけになる。
「きみどくせんのせつをきいたことがあるのかい」としゅじんはけんのんだからねんをおしてみる。
「きいたの、きかないのって、あのおとこのせつときたら、じゅうねんまえがっこうにいたじぶんときょうとすこしもかわりゃしない」
「しんりはそうかわるものじゃないから、かわらないところがたのもしいかもしれない」
「まあそんな贔負があるからどくせんもあれでたちゆくんだね。
だいいちはちぼくというなからして、よくできてるよ。
あのひげがきみまったくやぎだからね。
そうしてあれもきしゅくしゃじだいからあのとおりのかっこうではえていたんだ。
なまえのどくせんなどもふったものさ。
むかししぼくのところへとまりがけにきてれいのとおりしょうきょくてきのしゅうようというぎろんをしてね。
いつまでたってもおなじことをくりかえしてやめないから、ぼくがきみもうねようじゃないかというと、せんせいきらくなものさ、いやぼくはねむくないとすましきって、やっぱりしょうきょくろんをやるにはめいわくしたね。
しかたがないからきみはねむくなかろうけれども、ぼくのほうはたいへんねむいのだから、どうかねてくれたまえとたのむようにしてねかしたまではよかったが――そのばんねずみがでてどくせんくんのはなのあたまを噛ってね。
よるなかにおおさわぎさ。
せんせいさとったようなことをいうけれどもいのちはいぜんとしておしかったとみえて、ひじょうにしんぱいするのさ。
ねずみのどくがそうしんにまわるとたいへんだ、きみどうかしてくれとせめるにはへいこうしたね。
それからしかたがないからだいどころへいってしへんへめしつぶをはってごまかしてやったあね」
「どうして」
「これははくらいのこうやくで、きんらいどいつのめいいがはつめいしたので、いんどじんなどのどくへびにかまれたときにもちいるとそっこうがあるんだから、これさえはっておけばだいじょうぶだとゆってね」
「きみはそのじぶんからごまかすことにみょうをえていたんだね」
「……するとどくせんくんはああいうこうじんぶつだから、まったくだとおもってあんしんしてぐうぐうねてしまったのさ。
あくるひおきてみるとこうやくのしたからいとくずがぶらさがってれいのやぎひげにひっかかっていたのはこっけいだったよ」
「しかしあのじぶんよりおおいたえらくなったようだよ」
「きみちかごろあったのかい」
「いちしゅうかんばかりまえにきて、ながいまはなしをしていった」
「どうりでどくせんりゅうのしょうきょくせつをふりまわすとおもった」
「じつはそのときだいにかんしんしてしまったから、ぼくもだいにふんぱつしてしゅうようをやろうとおもってるところなんだ」
「ふんぱつはけっこうだがね。
あんまりひとのいうことをしんにうけるとばかをみるぜ。
いったいくんはひとのいうことをなんでもかでもしょうじきにうけるからいけない。
どくせんもくちだけはりっぱなものだがね、いざとなるとご互とおなじものだよ。
くんきゅうねんまえのだいじしんをしってるだろう。
あのとききしゅくのにかいからとびおりてけがをしたものはどくせんくんだけなんだからな」
「あれにはとうにんおおいたせつがあるようじゃないか」
「そうさ、とうにんにいわせるとすこぶるありがたいものさ。
ぜんのきほうはたかし峭なもので、いわゆるせっかのきとなるとこわいくらいはやくものにおうずることができる。
ほかのものがじしんだとゆってうろたえているところをじぶんだけはにかいのまどからとびおりたところにしゅうぎょうのこうがあらわれてうれしいとゆって、びっこをひきながらうれしがっていた。
ふ惜みのつよいおとこだ。
いったいぜんとかふつとかゆってさわぎたてるれんちゅうほどあやしいのはないぜ」
「そうかな」とくさやせんせいしょうしょうこしがよわくなる。
「このかんきたときぜんしゅうぼうずのねごとみたようなことをなにかゆってったろう」
「うんでんこうかげうらにしゅんぷうをきるとかいうくをおしえていったよ」
「そのでんこうさ。
あれがじゅうねんまえからのごはこなんだからおかしいよ。
むさとしぜんじのでんこうときたらきしゅくしゃちゅうだれもしらないものはないくらいだった。
それにせんせいときどきせきこむとまちがえてでんこうかげうらをさかさまにしゅんぷうかげうらにでんこうをきるというからおもしろい。
こんどためしてみたまえ。
むこうでおちつきはらってのべたてているところを、こっちでいろいろはんたいするんだね。
するとすぐてんとうしてみょうなことをいうよ」
「きみのようないたずらものにあっちゃかなわない」
「どっちがいたずらしゃだかわかりゃしない。
ぼくはぜんぼうずだの、さとったのはだいいやだ。
ぼくのきんじょにみなみぞういんというてらがあるが、あすこにはちじゅうばかりのいんきょがいる。
それでこのかんのはくうのときてらないへかみなりがおちていんきょのいるにわさきのまつのきをさいてしまった。
ところがおしょうたいぜんとしてへいきだというから、よくききあわせてみるとからつんぼなんだね。
それじゃたいぜんたるわけさ。
たいがいそんなものさ。
どくせんもいちにんでさとっていればいいのだが、ややともするとひとをさそいだすからわるい。
げんにどくせんのおかげでににんばかりききょうにされているからな」
「だれが」
「だれがって。
いちにんはりのとうぜんさ。
どくせんのおかげでだいにぜんがくにこりかたまってかまくらへでかけていって、とうとうでさきでききょうになってしまった。
えんかくじのまえにきしゃのふみきりがあるだろう、あのふみきりないへとびこんでれーるのうえでざぜんをするんだね。
それでむこうからくるきしゃをとめてみせるというだいきえんさ。
もっともきしゃのほうでとまってくれたからいちめいだけはとりとめたが、そのかわりこんどはひにはいってやけず、みずにはいっておぼれぬこんごうふえのからだだとごうしててらうちのはすいけへはいいってぶくぶくあるきまわったもんだ」
「しんだかい」
「そのときもこう、どうじょうのぼうずがとおりかかってたすけてくれたが、そのごとうきょうへかえってから、とうとうふくまくえんでしんでしまった。
しんだのはふくまくえんだが、ふくまくえんになったげんいんはそうどうでむぎめしやまんねん漬をくったせいだから、つまるところはかんせつにどくせんがころしたようなものさ」
「むやみにねっちゅうするのもよしあししだね」としゅじんはちょっときみのわるいというかおづけをする。
「ほんとうにさ。
どくせんにやられたものがもういちにんどうそうちゅうにある」
「あぶないね。
だれだい」
「たてまちろううめくんさ。
あのおとこもまったくどくせんにそそのかされてうなぎがてんじょうするようなことばかりいっていたが、とうとうきみほんものになってしまった」
「ほんものたあなんだい」
「とうとううなぎがてんじょうして、ぶたがせんにんになったのさ」
「なにのことだい、それは」
「はちぼくがどくせんなら、たてまちはぶたせんさ、あのくらいくいいじのきたないおとこはなかったが、あのくいいじとぜんぼうずのわるいじがへいはつしたのだからたすからない。
はじめはぼくらもきがつかなかったがいまからかんがえるとみょうなことばかりならべていたよ。
ぼくのうちなどへきてきみあのまつのきへかつれつがとんできやしませんかの、ぼくのくにではかまぼこがいたへのっておよいでいますのって、しきりにけいくをはいたものさ。
ただはいているうちはよかったがきみひょうのどぶへきんとんをほりにいきましょうと促がすにいたってはぼくもこうさんしたね。
それからにさんにちするとついにぶたせんになってすがもへしゅうようされてしまった。
がんらいぶたなんぞがききょうになるしかくはないんだが、まったくどくせんのおかげであすこまでこぎつけたんだね。
どくせんのせいりょくもなかなかえらいよ」
「へえ、いまでもすがもにいるのかい」
「いるだんじゃない。
じだいきょうでだいきえんをはいている。
ちかごろはたてまちろううめなんてなはつまらないというので、みずからてんとうこうへいとごうして、てんとうのごんげをもってにんじている。
すさまじいものだよ。
まあちょっといってみたまえ」
「てんとうこうへい?」
「てんとうこうへいだよ。
ききょうのくせにうまいなをつけたものだね。
ときどきはあなたいらともかくことがある。
それでなにでもせじんがまよってるからぜひすくってやりたいというので、むやみにゆうじんやなにかへてがみをだすんだね。
ぼくもよんごつうもらったが、なかにはなかなかながいやつがあってふそくぜいをにどばかりとられたよ」
「それじゃぼくのところへきたのもろううめからきたんだ」
「きみのところへもきたかい。
そいつはみょうだ。
やっぱりあかいじょうぶくろだろう」
「うん、まんなかがあかくてさゆうがしろい。
いっぷうかわったじょうぶくろだ」
「あれはね、わざわざ支那からとりよせるのだそうだよ。
てんのみちはしろなり、ちのみちはしろなり、ひとはちゅうかんにあってあかしというぶたせんのかくげんをしめしたんだって……」
「なかなかいんねんのあるじょうぶくろだね」
「ききょうだけにだいにこったものさ。
そうしてききょうになってもくいいじだけはいぜんとしてそんしているものとみえて、まいかいかならずしょくもつのことがかいてあるからきみょうだ。
きみのところへもなんとかゆってきたろう」
「うん、なまこのことがかいてある」
「ろううめはなまこがすきだったからね。
もっともだ。
それから?」
「それからふぐとちょうせんじんさんかなにかかいてある」
「ふぐとちょうせんじんさんのとりあわせはうまいね。
おおかたふぐをくってあたったらちょうせんじんさんをせんじてのめとでもいうつもりなんだろう」
「そうでもないようだ」
「そうでなくてもかまわないさ。
どうせききょうだもの。
それっきりかい」
「まだある。
くさやせんせいごちゃでもあがれというくがある」
「あはははごちゃでもあがれはきびしすぎる。
それでだいにきみをやりこめたつもりに違ない。
だいできだ。
てんとうこうへいくんまんさいだ」と迷亭せんせいはおもしろがって、だいにわらいだす。
しゅじんはすくなからざるそんけいをもってはんぷくどくじゅしたしょかんのさしだしにんがきんぱくつきのきょうじんであるとしってから、さいぜんのねっしんとくしんがなんだかむだぼねのようなきがしてはらだたしくもあり、またふうてんびょうしゃのぶんしょうをさほどしんろうして翫味したかとおもうとはずかしくもあり、さいごにきょうじんのさくにこれほどかんぷくするいじょうはじぶんもたしょうしんけいにいじょうがありはせぬかとのぎねんもあるので、りっぷくと、ざんきと、しんぱいのがっぺいしたじょうたいでなんだかおちつかないかおづけをしてひかえている。
おりからおもてこうしをあららかにあけて、おもいくつのおとがにたあしほどくつだっにひびいたとおもったら「ちょっとたのみます、ちょっとたのみます」とおおきなこえがする。
しゅじんのしりのおもいにはんして迷亭はまたすこぶるきがるなおとこであるから、ごさんのとりつぎにでるのもまたず、とおれといいながらへだてのなかのまをにたあしばかりにとびこえてげんかんにおどりでした。
ひとのうちへあんないもこわずにつかつかはいいりこむところはめいわくのようだが、ひとのうちへはいいったいじょうはしょせいどうようとりつぎをつとめるからはなはだべんりである。
いくら迷亭でもごきゃくさんにはそういない、そのごきゃくさんがげんかんへしゅっちょうするのにしゅじんたるくさやせんせいがざしきへかまえこんでうごかんほうはない。
ふつうのおとこならあとからひきつづいてしゅつじんすべきはずであるが、そこがにがさやせんせいである。
へいきにざぶとんのうえへしりをおちつけている。
ただしおちつけているのと、おちついているのとは、そのおもむきはだいぶにているが、そのじっしつはよほどちがう。
げんかんへとびだした迷亭はなにかしきりにべんじていたが、やがておくのほうをむいて「おいごしゅじんちょっとごそくろうだがでてくれたまえ。
くんでなくっちゃ、まにあわない」とおおきなこえをだす。
しゅじんはやむをえずふところでのままのそりのそりとでてくる。
みると迷亭くんはいちまいのめいしをにぎったまましゃがんであいさつをしている。
すこぶるいげんのないこしつきである。
そのめいしにはけいしちょうけいじじゅんさよしだとらくらとある。
とらくらくんとならんでたっているのはにじゅうごろくのせのたかい、いなせなとうざんずくめのおとこである。
みょうなことにこのおとこはしゅじんとおなじくふところでをしたまま、むごんで突たっている。
なんだかみたようなかおだとおもってよくよくかんさつすると、みたようなどころじゃない。
このかんしんやごらいほうになってやまのいもをもっていかれたどろぼうくんである。
おやこんどははくちゅうこうぜんとげんかんからおいでになったな。
「おいこのほうはけいじじゅんさでせんだってのどろぼうをつらまえたから、くんにしゅっとうしろというんで、わざわざおいでになったんだよ」
しゅじんはようやくけいじがふみこんだりゆうがわかったとみえて、あたまをさげてどろぼうのほうをむいてていやすしにごじぎをした。
どろぼうのほうがとらくらくんよりおとこぶりがいいので、こっちがけいじだとはやがてんをしたのだろう。
どろぼうもおどろきろいたにそういないが、まさかわたしがどろぼうですよとことわるわけにもいかなかったとみえて、すましてたっている。
やはりふところでのままである。
もっともてじょうをはめているのだから、でそうとゆってもでるきやはない。
つうれいのものならこのようすでたいていはわかるはずだが、このしゅじんはとうせいのにんげんににあわず、むやみにやくにんやけいさつをありがたがるくせがある。
おかみのごいこうとなるとひじょうにおそれしいものとこころえている。
もっともりろんじょうからいうと、じゅんさなぞはじぶんたちがきんをだしてばんにんにやとっておくのだくらいのことはこころえているのだが、じっさいにのぞむといやにへえへえする。
しゅじんのおやじはそのむかしばすえのなぬしであったから、うえのしゃにぴょこぴょこあたまをさげてくらしたしゅうかんが、いんがとなってかようにこに酬ったのかもしれない。
まことにきのどくないたりである。
じゅんさはおかしかったとみえて、にやにやわらいながら「あしたね、ごぜんきゅうじまでににっぽんつつみのぶんしょまできてください。
――とうなんひんはなんとなにでしたかね」
「とうなんひんは……」といいかけたが、あいにくせんせいたいがいわすれている。
ただおぼえているのはたたらさんぺいのやまのいもだけである。
やまのいもなどはどうでもかまわんとおもったが、とうなんひんは……といいかけてあとがでないのはいかにもよたろうのようでていさいがわるい。
ひとがぬすまれたのならいざしらず、じぶんがぬすまれておきながら、めいりょうのこたえができんのはいちにんまえではないしょうこだと、おもいきって「とうなんひんは……やまのいもいちはこ」とつけた。
どろぼうはこのときよほどおかしかったとみえて、したをむいてきもののえりへあごをいれた。
迷亭はあはははとわらいながら「やまのいもがよほどおしかったとみえるね」とゆった。
じゅんさだけはぞんがいまじめである。
「やまのいもはでないようだがほかのぶっけんはたいがいもどったようです。
――まあきてみたらわかるでしょう。
それでね、さげわたしたらうけしょがはいるから、いんぎょうをわすれずにもっておいでなさい。
――きゅうじまでにこなくってはいかん。
にっぽんつつみぶんしょです。
――あさくさけいさつしょのかんかつないのにほんづつみぶんしょです。
――それじゃ、さようなら」とひとりでべんじてかえっていく。
どろぼうきみもつづいてもんをでる。
てがだせないので、もんをしめることができないからあけはなしのままおこなってしまった。
おそれいりながらもふへいとみえて、しゅじんはほおをふくらして、ぴしゃりとたてきった。
「あはははくんはけいじをたいへんそんけいするね。
つねにああいうきょうけんなたいどをもってるといいおとこだが、きみはじゅんさだけにていやすしなんだからこまる」
「だってせっかくしらせてきてくれたんじゃないか」
「しらせにくるったって、さきはしょうばいだよ。
あたりまえにあしらってりゃたくさんだ」
「しかしただのしょうばいじゃない」
「むろんただのしょうばいじゃない。
たんていといういけすかないしょうばいさ。
あたりまえのしょうばいよりかとうだね」
「きみそんなことをいうと、ひどいめにあうぜ」
「はははそれじゃけいじのわるぐちはやめにしよう。
しかしけいじをそんけいするのは、まだしもだが、どろぼうをそんけいするにいたっては、おどろかざるをえんよ」
「だれがどろぼうをそんけいしたい」
「きみがしたのさ」
「ぼくがどろぼうにちかづきがあるもんか」
「あるもんかってきみはどろぼうにおじぎをしたじゃないか」
「いつ?」
「たったいまへいしんていとうしたじゃないか」
「ばかあゆってら、あれはけいじだね」
「けいじがあんななりをするものか」
「けいじだからあんななりをするんじゃないか」
「がんこだな」
「きみこそがんこだ」
「まあだいいち、けいじがひとのところへきてあんなにふところでなんかして、突たっているものかね」
「けいじだってふところでをしないとはかぎるまい」
「そうもうれつにやってきてはおそれいるがね。
きみがおじぎをするまあいつはしじゅうあのままでたっていたのだぜ」
「けいじだからそのくらいのことはあるかもしれんさ」
「どうもじしんかだな。
いくらゆってもきかないね」
「きかないさ。
きみはくちさきばかりでどろぼうだどろぼうだとゆってるだけで、そのどろぼうがはいるところをみとどけたわけじゃないんだから。
ただそうおもってひとりでごうじょうをはってるんだ」
迷亭もここにおいてとうていさいどすべからざるおとことだんねんしたものとみえて、れいににずだまってしまった。
しゅじんはひさしぶりで迷亭をへこましたとおもってだいとくいである。
迷亭からみるとしゅじんのかちはごうじょうをはっただけげらくしたつもりであるが、しゅじんからいうとごうじょうをはっただけ迷亭よりえらくなったのである。
よのなかにはこんなとんちんかんなことはままある。
ごうじょうさえはりとおせばかったきでいるうちに、とうにんのじんぶつとしてのそうばははるかにげらくしてしまう。
ふしぎなことにがんこのほんにんはしぬまでじぶんはめんぼくを施こしたつもりかなにかで、そのときいごじんがけいべつしてあいてにしてくれないのだとはゆめにもさとりえない。
こうふくなものである。
こんなこうふくをぶたてきこうふくとなづけるのだそうだ。
「ともかくもあしたいくつもりかい」
「いくとも、きゅうじまでにこいというから、はちじからでていく」
「がっこうはどうする」
「やすむさ。
がっこうなんか」と擲きつけるようにゆったのはたけしなものだった。
「えらいぜいだね。
やすんでもいいのかい」
「いいともぼくのがっこうはげっきゅうだから、さしひかれるきやはない、だいじょうぶだ」とまっすぐにはくじょうしてしまった。
ずるいこともずるいが、たんじゅんなこともたんじゅんなものだ。
「きみ、いくのはいいがみちをしってるかい」
「しるものか。
くるまにのっていけばわけはないだろう」とぷんぷんしている。
「しずおかのおじにゆずらざるとうきょうどおりなるにはおそれいる」
「いくらでもおそれいるがいい」
「はははにっぽんつつみぶんしょというのはね、きみただのところじゃないよ。
よしわらだよ」
「なんだ?」
「よしわらだよ」
「あのゆうかくのあるよしわらか?」
「そうさ、よしはらとうんやあ、とうきょうにひとつしかないやね。
どうだ、おこなってみるきかい」と迷亭くんまたからかいかける。
しゅじんはよしはらときいて、そいつはとしょうしょうしゅんじゅんのからだであったが、たちまちおもいかえして「よしはらだろうが、ゆうかくだろうが、いったんいくとゆったいじょうはきっといく」とはいらざるところにちからみでみせた。
ぐじんはえてこんなところにいじをはるものだ。
迷亭くんは「まあおもしろかろう、みてきたまえ」とゆったのみである。
いちはらんをしょうじたけいじじけんはこれでひとまずらくちゃくをつげた。
迷亭はそれからあいかわらずだべんをろうしてひぐれかた、あまりおそくなるとおじにおこられるとゆってかえっていった。
迷亭がかえってから、そこそこにばんめしをすまして、またしょさいへひきあげたしゅじんはふたたびこうしゅしてしたのようにかんがえはじめた。
「じぶんがかんぷくして、だいにみならおうとしたやぎどくせんくんも迷亭のはなしによってみると、べつだんみならうにもおよばないにんげんのようである。
のみならずかれのしょうどうするところのせつはなんだかひじょうしきで、迷亭のいうとおりたしょうふうてんてきけいとうにぞくしてもおりそうだ。
いわんやかれはへ乎としたににんのききょうのこぶんをゆうしている。
はなはだきけんである。
めったにちかよるとどうけいとうないにひきずりこまれそうである。
じぶんがぶんしょうのうえにおいてきょうたんのよ、これこそだいけんしきをゆうしているいじんにそういないとおもいこんだてんとうこうへいじじつなだちまちろううめはじゅんぜんたるきょうじんであって、げんにすがものびょういんにききょしている。
迷亭のきじゅつがぼうだいのざれげんにもせよ、かれがふうてんいんちゅうにせいめいを擅ままにしててんとうのしゅさいをもってみずからにんずるはおそらくじじつであろう。
こういうじぶんもことによるとしょうしょうござっているかもしれない。
どうきしょうもとめ、どうるいしょうあつまるというから、ききょうのせつにかんぷくするいじょうは――すくなくともそのぶんしょうげんじにどうじょうをひょうするいじょうは――じぶんもまたききょうにえんのちかいものであるだろう。
よしどうけいちゅうにいかせられんでものきをくらべてきょうじんととなりあわせにきょをぼくするとすれば、さかいのかべをいちじゅううちぬいていつのまにかどうしつないにひざをつきあわせてだんしょうすることがないともかぎらん。
こいつはたいへんだ。
なるほどかんがえてみるとこのほどじゅうからじぶんののうのさようはわがながらおどろくくらいきじょうにみょうをてんじへんはたにちんをそえている。
のうしょういちしゃくのかがくてきへんかはとにかくいしのうごいてこういとなるところ、はっしてげんじとかするあたりにはふしぎにもちゅうようをしっしたてんがおおい。
したじょうにりゅうせんなく、わきかにせいふうをしょうぜざるも、しこんにきょうしゅうあり、すじあたまに瘋味あるをいかんせん。
いよいよたいへんだ。
ことによるともうすでにりっぱなかんじゃになっているのではないかしらん。
まだこうにひとをきずけたり、せけんのじゃまになることをしでかさんからやはりちょうないをおいはらわれずに、とうきょうしみんとしてそんざいしているのではなかろうか。
こいつはしょうきょくのせっきょくのというだんじゃない。
まずみゃくはくからしてけんさしなくてはならん。
しかしみゃくにはかわりはないようだ。
あたまはあついかしらん。
これもべつにぎゃくじょうのきみでもない。
しかしどうもしんぱいだ。
「こうじぶんとききょうばかりをひかくしてるいじのてんばかりかんじょうしていては、どうしてもききょうのりょうぶんをだっすることはできそうにもない。
これはほうほうがわるかった。
ききょうをひょうじゅんにしてじぶんをそっちへひきつけてかいしゃくするからこんなけつろんがでるのである。
もしけんこうなひとをほんいにしてそのはたへじぶんをおいてかんがえてみたらあるいははんたいのけっかがでるかもしれない。
それにはまずてぢかからはじめなくてはいかん。
だいいちにきょうきたふろっくこーとのおじさんはどうだ。
こころをどこにおこうぞ……あれもしょうしょうあやしいようだ。
だいににかんげつはどうだ。
あさからばんまでべんとうじさんでたまばかりみがいている。
これもぼうぐみだ。
だいさんにと……迷亭?あれはふざけめぐるのをてんしょくのようにこころえている。
まったくようせいのききょうにそういない。
だいよんはと……かねだのさいくん。
あのどくあくなこんじょうはまったくじょうしきをはずれている。
じゅんぜんたるきじるしにごくってる。
だいごはかねだくんのばんだ。
かねだくんにはごめにかかったことはないが、まずあのさいくんをうやうやしくおったてて、きんしつちょうわしているところをみるとひぼんのにんげんとみたててさしつかえあるまい。
ひぼんはききょうのいみょうであるから、まずこれもどうるいにしておいてかまわない。
それからと、――まだあるある。
落雲かんのしょくんしだ、ねんれいからいうとまだめばえだが、そうきょうのてんにおいてはいっせいをむなしゅうするにたるてんはれなごうのものである。
こうかぞえたててみるとたいていのものはどうるいのようである。
あんがいこころじょうぶになってきた。
ことによるとしゃかいはみんなききょうのよりごうかもしれない。
ききょうがしゅうごうして鎬をけずってつかみあい、いがみあい、ののしりあい、うばいあって、そのぜんたいがだんたいとしてさいぼうのようにくずれたり、もちのぼったり、もちのぼったり、くずれたりしてくらしていくのをしゃかいというのではないかしらん。
そのなかでたしょうりくつがわかって、ふんべつのあるやつはかえってじゃまになるから、ふうてんいんというものをつくって、ここへおしこめてでられないようにするのではないかしらん。
するとふうてんいんにゆうへいされているものはふつうのひとで、いんがいにあばれているものはかえってききょうである。
ききょうもこりつしているまはどこまでもききょうにされてしまうが、だんたいとなってせいりょくがでると、けんぜんのにんげんになってしまうのかもしれない。
おおきなききょうがきんりょくやいりょくをらんようしておおくのしょうききょうをしえきしてらんぼうをはたらいて、ひとからりっぱなおとこだといわれているれいはすくなくない。
なにがなんだかわからなくなった」
いじょうはしゅじんがとうや煢々たることうのしたでちんしじゅくりょしたときのしんてきさようをありのままにえがきだしたものである。
かれのずのうのふとうめいなることはここにもしるるしくあらわれている。
かれはかいぜるににたはちじひげを蓄うるにもかかわらずきょうじんとじょうじんのさべつさえなしえぬくらいの凡倉である。
のみならずかれはせっかくこのもんだいをていきょうしてじこのしさくりょくにうったえながら、ついになんらのけつろんにたっせずしてやめてしまった。
なにごとによらずかれはてっていてきにかんがえるのうりょくのないおとこである。
かれのけつろんのぼうばくとして、かれのびこうからへいしゅつするあさひのけむりのごとく、ほそくしがたきは、かれのぎろんにおけるゆいいつのとくしょくとしてきおくすべきじじつである。
わがはいはねこである。
ねこのくせにどうしてしゅじんのしんじゅうをかくせいみつにきじゅつしえるかとうたがうものがあるかもしれんが、このくらいなことはねこにとってなにでもない。
わがはいはこれでどくしんじゅつをこころえている。
いつこころえたなんて、そんなよけいなことはきかんでもいい。
ともかくもこころえている。
にんげんのひざのうえへのってねむっているうちに、わがはいはわがはいのやわらかなもうころもをそっとにんげんのはらにこすりつける。
するといちどうのでんきがおこってかれのはらのうちのいきさつがてにとるようにわがはいのしんがんにえいずる。
せんだってなどはしゅじんがやさしくわがはいのあたまをなでまわしながら、とつぜんこのねこのかわをはいでちゃんちゃんにしたらさぞあたたかでよかろうととんでもないりょうけんをむらむらとおこしたのをそくざにきどっておぼえずひやっとしたことさえある。
こわいことだ。
とうやしゅじんのあたまのなかにおこったいじょうのしそうもそんなわけあいでこうにもしょくんにごほうどうすることができるようにあいなったのはわがはいのだいにえいよとするところである。
ただししゅじんは「なにがなんだかわからなくなった」までかんがえてそのあとはぐうぐうねてしまったのである、あすになればなにをどこまでかんがえたかまるでわすれてしまうに違ない。
きょうこうもししゅじんがききょうについてかんがえることがあるとすれば、もういちかえでなおしてあたまからかんがえはじめなければならぬ。
そうするとはたしてこんなけいろをとって、こんなかぜに「なにがなんだかわからなくなる」かどうだかほしょうできない。
しかしなにかえかんがえなおしても、なんじょうのけいろをとってすすもうとも、ついに「なにがなんだかわからなくなる」だけはたしかである。
じゅう
「あなた、もうななじですよ」とふすまごしにさいくんがこえをかけた。
しゅじんはめがさめているのだか、ねているのだか、むかうむきになったぎりへんじもしない。
へんじをしないのはこのおとこのくせである。
ぜひなんとかくちをきらなければならないときはうんという。
このうんもよういなことではでてこない。
にんげんもへんじがうるさくなるくらいぶしょうになると、どことなくおもむきがあるが、こんなひとにかぎっておんなにすかれたためしがない。
げんざいつれそうさいくんですら、あまりちんちょうしておらんようだから、そのたはおしてしるべしとゆってもたいしたま違はなかろう。
おやきょうだいにみはなされ、あかのたにんのけいせいに、かわいがらりょうはずがない、とあるいじょうは、さいくんにさえもてないしゅじんが、せけんいっぱんのしゅくじょにきにいるはずがない。
なにもいせいかんにふじんぼうなしゅじんをこのさいことさらにばくろするひつようもないのだが、ほんにんにおいてぞんがいなかんがえ違をして、まったくとしまわりのせいでさいくんにすかれないのだなどとりくつをつけていると、迷のたねであるから、じかくのいちじょにもなろうかとしんせつしんからちょっともうしそえるまでである。
いいつけられたじこくに、じこくがきたとちゅういしても、せんぽうがそのちゅういをむにするいじょうは、むかいをむいてうんさえはっせざるいじょうは、そのきょくはおっとにあって、つまにあらずとろんていしたるさいくんは、おそくなってもしりませんよというしせいでほうきとはたきをかついでしょさいのほうへいってしまった。
やがてぱたぱたしょさいちゅうをはたきちらすおとがするのはれいによってれいのごときそうじをはじめたのである。
いったいそうじのもくてきはうんどうのためか、ゆうぎのためか、そうじのやくめをおびぬわがはいのかんちするところでないから、しらんかおをしていればさしつかえないようなものの、ここのさいくんのそうじほうのごときにいたってはすこぶるむいぎのものといわざるをえない。
なにがむいぎであるかというと、このさいくんはたんにそうじのためにそうじをしているからである。
はたきをいちとおりしょうじへかけて、ほうきをいちおうたたみのうえへすべらせる。
それでそうじはかんせいしたものとかいしゃくしている。
そうじのみなもといんおよびけっかにいたってはみじんのせきにんだにせおっておらん。
かるがゆえにきれいなところはまいにちきれいだが、ごみのあるところ、ほこりのせきっているところはいつでもごみがたまってほこりがせきっている。
つげついたちの※ひつじというこじもあることだから、これでもやらんよりはましかもしれない。
しかしやってもべつだんしゅじんのためにはならない。
ならないところをまいにちまいにちごくろうにもやるところがさいくんのえらいところである。
さいくんとそうじとはたねんのしゅうかんで、きかいてきのれんそうをかたちづくってがんとしてむすびつけられているにもかかわらず、そうじのじつにいたっては、さいくんがいまだうまれざるいぜんのごとく、はたきとほうきがはつめいせられざるむかしのごとく、ごうもあがっておらん。
おもうにこのりょうしゃのかんけいはけいしきろんりがくのめいだいにおけるめいじのごとくそのないようのいかんにかかわらずけつごうせられたものであろう。
わがはいはしゅじんとちがって、がんらいがはやおこしのほうだから、このときすでにくうふくになってまいった。
とうていうちのものさえぜんにむかわぬさきから、ねこのみぶんをもってあさめしにありつけるわけのものではないが、そこがねこのあさましさで、もしやけむりのたったしるのこうがあわびかいのなかから、うまそうにたちのぼっておりはすまいかとおもうと、じっとしていられなくなった。
はかないことを、はかないとしりながらたのみにするときは、ただそのたのみだけをあたまのなかにえがいて、うごかずにおちついているほうがとくさくであるが、さてそうはいかぬもので、こころのねがいとじっさいが、あうかあわぬかぜひともしけんしてみたくなる。
しけんしてみればかならずしつぼうするにきまってることですら、さいごのしつぼうをみずからじじつのうえにうけとるまではしょうちできんものである。
わがはいはたまらなくなってだいどころへはいでした。
まずへっついのかげにあるあわびかいのなかをのぞいてみるとあんにちがわず、ゆうべなめつくしたまま、闃然として、あやしきひかりがひきまどをもるしょしゅうのひかげにかがやいている。
ごさんはすでにたきりつのめしを、ごひつにうつして、いまやななりんにかけたなべのなかをかきまぜつつある。
かまのしゅういにはわきあがってながれだしたべいのしるが、かさかさにいくじょうとなくこびりついて、あるものはよしのがみをはりつけたごとくにみえる。
もうめしもしるもできているのだからくわせてもよさそうなものだとおもった。
こんなときにえんりょするのはつまらないはなしだ、よしんばじぶんのもちどおりにならなくったってもともとでそんはいかないのだから、おもいきってあさめしのさいそくをしてやろう、いくらいそうろうのみぶんだってひもじいにかわりはない。
とかんがえさだめたわがはいはにゃあにゃあとあまえるごとく、訴うるがごとく、あるいはまた怨ずるがごとくないてみた。
ごさんはいっこうかえりみるけしきがない。
うまれついてのおたかくだからにんじょうにうといのはとうからしょうちのうえだが、そこをうまくなきたててどうじょうをおこさせるのが、こっちのてぎわである。
こんどはにゃごにゃごとやってみた。
そのなきごえはわれながらひそうのおとをおびててんがいのゆうしをしてだんちょうの思あらしむるにたるとしんずる。
ごさんは恬としてかえりみない。
このおんなはつんぼなのかもしれない。
つんぼではげじょがつとまるわけがないが、ことによるとねこのこえだけにはつんぼなのだろう。
よのなかにはしきもうというのがあって、とうにんはかんぜんなしりょくをそなえているつもりでも、いしゃからいわせるとかたわだそうだが、このごさんはこえめくらなのだろう。
こえめくらだってかたわにちがいない。
かたわのくせにいやにおうふうなものだ。
やちゅうなぞでも、いくらこっちがようがあるからあけてくれろとゆってもけっしてあけてくれたことがない。
たまにだしてくれたとおもうとこんどはどうしてもいれてくれない。
なつだってよつゆはどくだ。
いわんやしもにおいてをやで、のきしたにたちあかして、ひのでをまつのは、どんなにつらいかとうていそうぞうができるものではない。
このかんしめだしをくったときなぞはのらいぬのしゅうげきをこうむって、すでにあやうくみえたところを、ようやくのことでものおきのいえねへかけのぼって、しゅうや顫えつづけたことさえある。
これとうはみなごさんのふにんじょうからはいたいしたふつごうである。
こんなものをあいてにしてないてみせたって、かんおうのあるはずはないのだが、そこが、ひもじいときのかみだのみ、ひんのぬすみにこいのふみというくらいだから、たいていのことならやるきになる。
にゃごおうにゃごおうとさんどめには、ちゅういをかんきするためにことさらにふくざつなるなきかたをしてみた。
じぶんではべとゔぇんのしんふぉにーにもおとらざるびみょうのおととかくしんしているのだがごさんにはなんらのえいきょうもしょうじないようだ。
ごさんはとつぜんひざをついて、あげいたをいちまいはねのけて、ちゅうからかたずみのよんすんばかりながいのをいちほんつかみだした。
それからそのながいやっこをななりんのかくでぽんぽんとたたいたら、ながいのがみっつほどにくだけてきんじょはすみのこなでまっくろくなった。
しょうしょうはしるのなかへもはいいったらしい。
ごさんはそんなことにとんじゃくするおんなではない。
ただちにくだけたるさんこのすみをなべのしりからななりんのなかへおしこんだ。
とうていわがはいのしんふぉにーにはみみをかたむけそうにもない。
しかたがないからしょうぜんとちゃのまのほうへひきかえそうとしてふろじょうのよこをとおりすぎると、ここはこんおんなのこがさんにんでかおをあらってるさいちゅうで、なかなかはんじょうしている。
かおをあらうとゆったところで、うえのににんがようちえんのせいとで、さんばんめはあねのしりについてさえいかれないくらいちいさいのだから、せいしきにかおがあらえて、きようにごけしょうができるはずがない。
いちばんちいさいのがばけつのなかからぬれぞうきんをひきずりだしてしきりにかおちゅうなでまわりわしている。
ぞうきんでかおをあらうのはさだめしこころもちがわるかろうけれども、じしんがゆるたびにおもちろいわというこだからこのくらいのことはあってもおどろきろくにたらん。
ことによるとやぎどくせんくんよりさとっているかもしれない。
さすがにちょうじょはちょうじょだけに、あねをもってみずからにんじているから、うがいちゃわんをからからかんとほうだして「ぼうやちゃん、それはぞうきんよ」とぞうきんをとりにかかる。
ぼうやちゃんもなかなかじしんかだからよういにあねのいうことなんかききそうにしない。
「いやーよ、ばぶ」といいながらぞうきんをひっぱりかえした。
このばぶなるかたりはいかなるいぎで、いかなるごげんをゆうしているか、だれもしってるものがない。
ただこのぼうやちゃんがかんしゃくをおこしたときにおりおりごしようになるばかりだ。
ぞうきんはこのときあねのてと、ぼうやちゃんのてでさゆうにひっぱられるから、みずをふくんだまんなかからぽたぽたしずくがたれて、ようしゃなくぼうやのあしにかかる、あしだけならがまんするがひざのあたりがしたたかぬれる。
ぼうやはこれでもげんろくをきているのである。
げんろくとはなにのことだとだんだんきいてみると、ちゅうがたのもようならなんでもげんろくだそうだ。
いったいだれにおそわってきたものかわからない。
「ぼうやちゃん、げんろくがぬれるからおよしなさい、ね」とあねがしゃれたことをいう。
そのくせこのあねはついこのかんまでげんろくとすごろくとをまちがえていたものしりである。
げんろくでおもいだしたからついでにちょうしたってしまうが、このこどものことばちがいをやることはおびただしいもので、おりおりひとをばかにしたようなま違をゆってる。
かじでたけがとんできたり、ごちゃのみそのじょがっこうへいったり、えびす、だいどころとならべたり、あるるときなどは「わたしゃわらてんのこじゃないわ」というから、よくよくききただしてみるとうらだなとわらてんをこんどうしていたりする。
しゅじんはこんなま違をきくたびにわらっているが、じぶんががっこうへでてえいごをおしえるときなどは、これよりもこっけいなごびゅうをまじめになって、せいとにきかせるのだろう。
ぼうやは――とうにんはぼうやとはいわない。
いつでもぼうばという――げんろくがぬれたのをみて「もとどこがべたい」とゆってなきだした。
げんろくがつめたくてはたいへんだから、ごさんがだいどころからとびだしてきて、ぞうきんをとりあげてきものをふいてやる。
このそうどうちゅうひかくてきしずかであったのは、じじょのすんこじょうである。
すんこじょうはむかうむきになってたなのうえからころがりおちた、おおしろいのびんをあけて、しきりにごけしょうをほどこしている。
だいいちにつっこんだゆびをもってはなのあたまをきゅーとなでたからたてにいちほんしろいすじがかよって、はなのありかがいささかぶんめいになってきた。
つぎにぬりつけたゆびをてんじてほおのうえをまさつしたから、そこへもってきて、これまたしろいかたまりができのぼった。
これだけそうしょくがととのったところへ、げじょがはいってきてぼうばのきものをふいたついでに、すんこのかおもふいてしまった。
すんこはしょうしょうふまんのからだにみえた。
わがはいはこのこうけいをよこにみて、ちゃのまからしゅじんのしんしつまできてもうおきたかとひそかにようすをうかがってみると、しゅじんのあたまがどこにもみえない。
そのかわりじゅうぶんはんのかぶとのたかいあしが、やぐのすそからいちほんはみだしている。
あたまがでていてはおこされるときにめいわくだとおもって、かくもぐりこんだのであろう。
かめのこのようなおとこである。
ところへしょさいのそうじをしてしまったさいくんがまたほうきとはたきをかついでやってくる。
さいぜんのようにふすまのいりぐちから
「まだおおきにならないのですか」とこえをかけたまま、しばらくたって、くびのでないやぐをみつめていた。
こんどもへんじがない。
さいくんはいりぐちからにほばかりすすんで、ほうきをとんとつきながら「まだなんですか、あなた」とかさねてへんじをうけたまわわる。
このときしゅじんはすでにめがさめている。
さめているから、さいくんのしゅうげきにそなうるため、あらかじめやぐのなかにくびもろともたてこもったのである。
くびさえださなければ、みのがしてくれることもあろうかと、つまらないことをたのみにしてねていたところ、なかなかゆるしそうもない。
しかしだいいちかいのこえはしきいのうえで、すくなくともいっけんのかんかくがあったから、まずあんしんとはらのうちでおもっていると、とんとついたほうきがなにでもさんしゃくくらいのきょりにおっていたにはちょっとおどろきろいた。
のみならずだいにの「まだなんですか、あなた」がきょりにおいてもおんりょうにおいてもまえよりもばいいじょうのぜいをもってやぐのなかまできこえたから、こいつはだめだとかくごをして、ちいさなこえでうんとへんじをした。
「きゅうじまでにいらっしゃるのでしょう。
はやくなさらないとまにあいませんよ」
「そんなにいわなくてもいまおきる」とよぎのそでぐちからこたえたのはきかんである。
さいくんはいつでもこのてをくって、おきるかとおもってあんしんしていると、またねこまれつけているから、ゆだんはできないと「さあおおきなさい」とせめたてる。
おきるというのに、なおおきろとせめるのはきにくわんものだ。
しゅじんのごときわがまましゃにはなおきにくわん。
ここにおいてかしゅじんはいままであたまからこうむっていたよぎをいちどにはねのけた。
みるとおおきなめをふたつともひらいている。
「なんだそうぞうしい。
おきるといえばおきるのだ」
「おきるとおっしゃってもおおきなさらんじゃありませんか」
「だれがいつ、そんなうそをついた」
「いつでもですわ」
「ばかをいえ」
「どっちがばかだかわかりゃしない」とさいくんぷんとしてほうきをついてまくらもとにたっているところはいさましかった。
このときうらのくるまやのこども、はちっちゃんがきゅうにおおきなこえをしてわーとなきだす。
はちっちゃんはしゅじんがいかりだしさえすればかならずなきだすべく、くるまやのかみさんからめいぜられるのである。
かみさんはしゅじんがおこるたんびにはちっちゃんをなかしてこづかいになるかもしれんが、はちっちゃんこそいいめいわくだ。
こんなごふくろをもったがさいごあさからばんまでなきとおしにないていなくてはならない。
すこしはこのあたりのじじょうをさっしてしゅじんもしょうしょうおこるのをさしひかえてやったら、はちっちゃんのじゅみょうがすこしはのびるだろうに、いくらかねだくんからたのまれたって、こんなぐなことをするのは、てんとうこうへいくんよりもはげしくおいでになっているほうだとかんていしてもよかろう。
おこるたんびになかせられるだけなら、まだよゆうもあるけれども、かねだくんがきんじょのごろつきをやとっていまどしょうをきめこむたびに、はちっちゃんはなかねばならんのである。
しゅじんがおこるかおこらぬか、まだはんぜんしないうちから、かならずおこるべきものとよそうして、はやてまわしにはちっちゃんはないているのである。
こうなるとしゅじんがはちっちゃんだか、はちっちゃんがしゅじんだかはんぜんしなくなる。
しゅじんにあてつけるにてすうはかからない、ちょっとはちっちゃんにけんつくをくわせればなにのくもなく、しゅじんのよこっつらをはったわけになる。
むかししせいようではんざいしゃをところけいにするときに、ほんにんがこっきょうがいにとうぼうして、とらえられんときは、ぐうぞうをつくってにんげんのかわりにひあぶりにしたというが、かれらのうちにもせいようのこじにつうぎょうするぐんしがあるとみえて、うまいけいりゃくをさづけたものである。
落雲かんといい、はちっちゃんのごふくろといい、うでのきかぬしゅじんにとってはさだめしにがてであろう。
そのほかにがてはいろいろある。
あるいはちょうないちゅうことごとくにがてかもしれんが、ただいまはかんけいがないから、だんだんなしくずしにしょうかいいたすことにする。
はちっちゃんのなきごえをきいたしゅじんは、あさっぱらからよほどかんしゃくがおこったとみえて、たちまちがばとふとんのうえにおきなおった。
こうなるとせいしんしゅうようもやぎどくせんもなにもあったものじゃない。
おきなおりながらりょうほうのてでごしごしごしとひょうひのむけるほど、あたまちゅうひきかきまわす。
いちかげつもたまっているふけはえんりょなく、頸筋やら、ねまきのえりへとんでくる。
ひじょうなそうかんである。
ひげはどうだとみるとこれはまたおどろきろくべく、ぴんしかとおったっている。
もちぬしがおこっているのにひげだけおちついていてはすまないとでもこころえたものか、いちほんいちほんにかんしゃくをおこして、かってしだいのほうがくへもうれつなるぜいをもってとっしんしている。
これとてもなかなかのけんぶつである。
きのうはかがみのてまえもあることだから、おとなしくどくきのとこうていへいかのまねをしてせいれつしたのであるが、いちばんねればくんれんもなにもあったものではない、ただちにほんらいのめんぼくにかえっておもいおもいのしゅつでりつにもどるのである。
あたかもしゅじんのいちやづくりのせいしんしゅうようが、あくるひになるとぬぐうがごとくきれいにきえさって、うまれついてのやちょてきほんりょうがただちにぜんめんをばくろしくるのといっぱんである。
こんならんぼうなひげをもっている、こんならんぼうなおとこが、よくまあいままでめんしょくにもならずにきょうしがつとまったものだとおもうと、はじめてにっぽんのひろいことがわかる。
ひろければこそかねだくんやかねだくんのいぬがにんげんとしてつうようしているのでもあろう。
かれらがにんげんとしてつうようするまはしゅじんもめんしょくになるりゆうがないとかくしんしているらしい。
いざとなればすがもへはしがきをとばしててんとうこうへいくんにききあわせてみれば、すぐわかることだ。
このときしゅじんは、きのうしょうかいしたこんとんたるたいこのめをせいいっぱいにみはって、むこうのとだなをきっとみた。
これはたかさいっけんをよこにしきってじょうげどもかくにまいのふくろどをはめたものである。
したのほうのとだなは、ふとんのすそとすれすれのきょりにあるから、おきなおったしゅじんがめをあきさえすれば、てんねんしぜんここにしせんがむくようにできている。
みるともようをおいたかみがところどころやぶれてみょうなちょうがあからさまにみえる。
ちょうにはいろいろなのがある。
あるものはかっぱんすりで、あるものはにくひつである。
あるものはうらがえしで、あるものはさかさまである。
しゅじんはこのちょうをみるとどうじに、なにがかいてあるかよみたくなった。
いままではくるまやのかみさんでもとらえて、はなづらをまつのきへこすりつけてやろうくらいにまでおこっていたしゅじんが、とつぜんこのほごしをよんでみたくなるのはふしぎのようであるが、こういうようせいのかんしゃくもちにはちんらしくないことだ。
しょうきょうがなくときにさいちゅうのひとつもあてがえばすぐわらうといっぱんである。
しゅじんがむかししさるところのごてらにげしゅくしていたとき、ふすまいちとじゅうをへだててあまがごろくにんいた。
あまなどというものはがんらいいじのわるいおんなのうちでもっともいじのわるいものであるが、このあまがしゅじんのせいしつをみぬいたものとみえてじすいのなべをたたきながら、いまないたからすがもうわらった、いまないたからすがもうわらったとひょうしをとってうたったそうだ、しゅじんがあまがだいいやになったのはこのときからだというが、あまはいやにせよまったくそれに違ない。
しゅじんはないたり、わらったり、うれしがったり、かなしがったりひといちばいもするかわりにいずれもながくつづいたことがない。
よくいえばしゅうちゃくがなくて、しんきがむやみにてんずるのだろうが、これをぞくごにほんやくしてやさしくいえばおくゆきのない、うすっへんの、はなっはりだけつよいだだっこである。
すでにだだっこであるいじょうは、けんかをするぜいで、むっくと刎ねおきたしゅじんがきゅうにきをかえてふくろどのちょうをよみにかかるのももっともといわねばなるまい。
だいいちにめにとまったのがいとうひろぶみのぎゃくかたちである。
うえをみるとめいじじゅういちねんくがつにじゅうはちにちとある。
かんこくとうかんもこのじだいからごふれいのしっぽをおっかけてあるいていたとみえる。
たいしょうこのじぶんはなにをしていたんだろうと、よめそうにないところをむりによむとおおくらきょうとある。
なるほどえらいものだ、いくらぎゃくかたちしてもおおくらきょうである。
すこしひだりのほうをみるとこんどはおおくらきょうよこになってひるねをしている。
もっともだ。
ぎゃくかたちではそうながくつづくきやはない。
したのほうにおおきなきばんでなんじはとにじだけみえる、あとがみたいがあいにくろしゅつしておらん。
つぎのくだりにははやくのにじだけでている。
こいつもよみたいがそれぎれでてがかりがない。
もししゅじんがけいしちょうのたんていであったら、ひとのものでもかまわずにひっぺがすかもしれない。
たんていというものにはこうとうなきょういくをうけたものがないからじじつをあげるためにはなにでもする。
あれはしまつにいかないものだ。
ねがいくばもうすこしえんりょをしてもらいたい。
えんりょをしなければじじつはけっしてあげさせないことにしたらよかろう。
きくところによるとかれらはらおきょこうをもってりょうみんをつみにおとしいれることさえあるそうだ。
りょうみんがきんをだしてやとっておくものが、やといぬしをつみにするなどときてはこれまたりっぱなききょうである。
つぎにめをてんじてまんなかをみるとまんなかにはおおいたけんがちゅうがえりをしている。
いとうひろぶみでさえぎゃくかたちをするくらいだから、おおいたけんがちゅうがえりをするのはとうぜんである。
しゅじんはここまでよんできて、そうほうへにぎりこぶしをこしらえて、これをたかくてんじょうにむけてつきあげた。
あくびのよういである。
このあくびがまたくじらのとお吠のようにすこぶるへんちょうをきわめたものであったが、それがいちだんらくをつげると、しゅじんはのそのそときものをきかえてかおをあらいにふろじょうへでかけていった。
まちかねたさいくんはいきなりふとんをまくってよぎをたたんで、れいのとおりそうじをはじめる。
そうじがれいのとおりであるごとく、しゅじんのかおのあらいかたもじゅうねんいちにちのごとくれいのとおりである。
せんじつしょうかいをしたごとくいぜんとしてがーがー、げーげーをじぞくしている。
やがてあたまをわけおわって、せいようてぬぐいをかたへかけて、ちゃのまへしゅつぎょになると、ちょうぜんとしてながひばちのよこにざをしめた。
ながひばちというとけやきの如輪きか、どうのそうおとしで、せんぱつのあねごがたてひざで、ちょうきせるをくろがきのえんへたたきつけるようをそうけんするしょくんもないともかぎらないが、わがにがさやせんせいのながひばちにいたってはけっして、そんないきなものではない、なんでつくったものかしろうとにはけんとうのつかんくらいこがなものである。
ながひばちはふきこんでてらてらひかるところがしんじょうなのだが、このしろものはけやきかさくらかきりかがんらいふめいりょうなうえに、ほとんどふきんをかけたことがないのだからいんきでひきたたざることおびただしい。
こんなものをどこからかってきたかというと、けっしてかったさとしはない。
そんならもらったかときくと、だれもくれたひとはないそうだ。
しからばぬすんだのかとただしてみると、なんだかそのあたりがあいまいである。
むかしししんるいにいんきょがおって、そのいんきょがしんだとき、とうぶんるすばんをたのまれたことがある。
ところがそのごいちこをかまえて、いんきょしょをひきはらうさいに、そこでじぶんのもののようにつかっていたひばちをなにのきもなく、ついもってきてしまったのだそうだ。
しょうしょうたちがわるいようだ。
かんがえるとたちがわるいようだがこんなことはせけんにおうおうあることだとおもう。
ぎんこうかなどはまいにちじんのきんをあつかいつけているうちにひとのきんが、じぶんのきんのようにみえてくるそうだ。
やくにんはじんみんのめしつかいである。
ようじをべんじさせるために、あるけんげんをいたくしただいりにんのようなものだ。
ところがいにんされたけんりょくをかさにきてまいにちじむをしょりしていると、これはじぶんがしょゆうしているけんりょくで、じんみんなどはこれについてなんらの喙をようるるりゆうがないものだなどとくるってくる。
こんなひとがよのなかにじゅうまんしているいじょうはながひばちじけんをもってしゅじんにどろぼうこんじょうがあるとだんていするわけにはいかぬ。
もししゅじんにどろぼうこんじょうがあるとすれば、てんかのひとにはみんなどろぼうこんじょうがある。
ながひばちのはたにじんどって、しょくたくをまえにひかえたるしゅじんのさんめんには、せんこくぞうきんでかおをあらったぼうばとごちゃのみそのがっこうへいくとんこと、おおしろい罎にゆびをつきこんだすんこが、すでにぜいそろいをしてあさめしをくっている。
しゅじんはいちおうこのさんじょしのかおをこうへいにみわたした。
とんこのかおはなんばんてつのかたなのつばのようなりんかくをゆうしている。
すんこもいもうとだけにたしょうあねのおもかげをそんしてりゅうきゅうぬりのしゅぼんくらいなしかくはある。
ただぼうばにいたってはひとりいさいをはなって、おもながにできのぼっている。
ただしたてにながいのならせけんにそのれいもすくなくないが、このこのはよこにながいのである。
いかにりゅうこうがへんかしやすくったって、よこにながいかおがはやることはなかろう。
しゅじんはじぶんのこながらも、つくづくかんがえることがある。
これでもせいちょうしなければならぬ。
せいちょうするどころではない、そのせいちょうのはやかなることはぜんてらのたけのこがわかたけにへんかするぜいでおおきくなる。
しゅじんはまたおおきくなったなとおもうたんびに、うしろからおってにせまられるようなきがしてひやひやする。
いかにくうばくなるしゅじんでもこのさんれいじょうがおんなであるくらいはこころえている。
おんなであるいじょうはどうにかかたづけなくてはならんくらいもしょうちしている。
しょうちしているだけでかたづけるしゅわんのないこともじかくしている。
そこでじぶんのこながらもすこしくもてあましているところである。
もてあますくらいならせいぞうしなければいいのだが、そこがにんげんである。
にんげんのていぎをいうとほかになににもない。
ただはいらざることをねつぞうしてみずからくるしんでいるものだといえば、それでじゅうぶんだ。
さすがにこどもはえらい。
これほどおやじがしょちにきゅうしているとはゆめにもしらず、たのしそうにごはんをたべる。
ところがしまつにおえないのはぼうばである。
ぼうばはとうねんとってさんさいであるから、さいくんがきをきかして、しょくじのときには、さんさいしかたるこがたのはしとちゃわんをあてがうのだが、ぼうばはけっしてしょうちしない。
かならずあねのちゃわんをうばい、あねのはしをひったくって、もちあつかいわるいやっこをむりにもちあつかっている。
よのなかをみわたすとむのうむさいのこどもほど、いやにのさばりでてえにもないかんしょくにのぼりたがるものだが、あのせいしつはまったくこのぼうばじだいからほうがしているのである。
そのよってくるところはかくのごとくふかいのだから、けっしてきょういくやくんとうでいやせるものではないと、はやくあきらめてしまうのがいい。
ぼうばはとなりからぶんどったいだいなるちゃわんと、ちょうだいなるはしをせんゆうして、しきりにぼういを擅にしている。
つかいこなせないものをむやみにつかおうとするのだから、ぜいぼういをたくましくせざるをえない。
ぼうばはまずはしのねもとをにほんいっしょににぎったままうんとちゃわんのそこへ突こんだ。
ちゃわんのなかはめしがはちふんどおりもりこまれて、そのうえにみそしるがいちめんにみなぎっている。
はしのちからがちゃわんへつたわるやいなや、いままでどうか、こうか、へいきんをたもっていたのが、きゅうにしゅうげきをうけたのでさんじゅうどばかりかたむいた。
どうじにみそしるはようしゃなくだらだらとむねのあたりへこぼれだす。
ぼうばはそのくらいなことでへきえきするわけがない。
ぼうばはぼうくんである。
こんどはつきこんだはしを、うんとちからいっぱいちゃわんのそこから刎ねあげた。
どうじにちいさなくちをえんまでもっていって、刎ねあげられたべいつぶをはいいるだけくちのなかへじゅのうした。
うちもらされたべいつぶはきいろなしるとあいわしてはなのあたまとほおっぺたと顋とへ、やっとかけごえをしてとびついた。
とびつきそんじてたたみのうえへこぼれたものはださんのかぎりでない。
ずいぶんむふんべつなめしのくいかたである。
わがはいはつつしんでゆうめいなるかねだくんおよびてんかのせいりょくかにちゅうこくする。
おおやけとうのほかをあつかうこと、ぼうばのちゃわんとはしをあつかうがごとくんば、おおやけとうのくちへとびこむべいつぶはきわめてきんしょうのものである。
ひつぜんのぜいをもってとびこむにあらず、と迷をしてとびこむのである。
どうかごさいこうをわずらわしたい。
せこにたけたびんわんかにもにあいしからぬことだ。
あねのとんこは、じぶんのはしとちゃわんをぼうばにりゃくだつされて、ふそうおうにちいさなやつをもってさっきからがまんしていたが、もともとちいさすぎるのだから、いちはいにもったつもりでも、あんとあけるとさんくちほどでくってしまう。
したがってひんぱんにおはちのかたへてがでる。
もうよんぜんかえて、こんどはごはいめである。
とんこはおはちのふたをあけておおきなしゃもじをとりあげて、しばらくながめていた。
これはくおうか、よそうかとまよっていたものらしいが、ついにけっしんしたものとみえて、こげのなさそうなところをみはかっていちすくいしゃもじのじょうへのせたまではぶなんであったが、それをうらがえして、ぐいとちゃわんのうえをこいたら、ちゃわんにはいりきらんめしはかたまりまったままたたみのうえへころがりだした。
とんこはおどろきろくけしきもなく、こぼれためしをていやすしにひろいはじめた。
ひろってなににするかとおもったら、みんなおはちのちゅうへいれてしまった。
すこしきたないようだ。
ぼうばがいちだいかつやくをこころみてはしを刎ねあげたときは、ちょうどとんこがめしをよそいりょうったときである。
さすがにあねはあねだけで、ぼうばのかおのいかにもらんざつなのをみかねて「あらぼうばちゃん、たいへんよ、かおがごぜんつぶだらけよ」といいながら、さっそくぼうばのかおのそうじにとりかかる。
だいいちにはなのあたまにきぐうしていたのをとりはらう。
とりはらってすてると思のほか、すぐじぶんのくちのなかへいれてしまったのにはおどろきろいた。
それからほおっぺたにかかる。
ここにはおおいたぐんをなしてかずにしたら、りょうほうをあわせてやくにじゅうつぶもあったろう。
あねはたんねんにいちつぶずつとってはくい、とってはくい、とうとういもうとのかおちゅうにあるやっこをひとつのこらずくってしまった。
このときただいままではおとなしくたくあんをかじっていたすんこが、きゅうにもりだてのみそしるのなかからさつまいものくずれたのをしゃくいだして、ぜいよくくちのうちへほうりこんだ。
しょくんもごしょうちであろうが、しるにしたさつまいものねっしたのほどくちじゅうにこたえるものはない。
おとなですらちゅういしないとかしょうをしたようなこころもちがする。
ましてすんこのごとき、さつまいもにけいけんのとぼしいものはむろんろうばいするわけである。
すんこはわっといいながらくちじゅうのいもをしょくたくのうえへはきだした。
そのにさんへんがどういうひょうしか、ぼうばのまえまですべってきて、ちょうどいいかげんなきょりでとまる。
ぼうばはかたよりさつまいもがだいすきである。
だいすきなさつまいもがめのまえへとんできたのだから、さっそくはしをほうりだして、てつかみにしてむしゃむしゃくってしまった。
せんこくからこのていたらくをもくげきしていたしゅじんは、ひとこともいわずに、せんしんじぶんのめしをくい、じぶんのしるをのんで、このときはすでにようじをつかっているさいちゅうであった。
しゅじんはむすめのきょういくにかんしてぜったいてきほうにんしゅぎをとるつもりとみえる。
いまにさんにんがえびちゃしきぶかねずみしきぶかになって、さんにんとももうしあわせたようにじょうふをこしらえてしゅっぽんしても、やはりじぶんのめしをくって、じぶんのしるをのんですましてみているだろう。
はたらきのないことだ。
しかしいまのよのはたらきのあるというひとをはいけんすると、うそをついてひとをつることと、さきへまわってうまのめだまをぬくことと、きょせいをはってひとをおどかすことと、かまをかけてひとをおとしいれることよりほかになにもしらないようだ。
ちゅうがくなどのしょうねんぱいまでがみようみまねに、こうしなくてははばがきかないとこころえちがいをして、ほんらいならせきめんしてしかるべきのをとくとくとりこうしてみらいのしんしだとおもっている。
これははたらきてというのではない。
ごろつきしゅというのである。
わがはいもにっぽんのねこだからたしょうのあいこくしんはある。
こんなはたらきてをみるたびになぐってやりたくなる。
こんなものがいちにんでもふえればこっかはそれだけおとろえるわけである。
こんなせいとのいるがっこうは、がっこうのちじょくであって、こんなじんみんのいるこっかはこっかのちじょくである。
ちじょくであるにもせきらず、ごろごろせけんにごろついているのはこころえがたいとおもう。
にっぽんのにんげんはねこほどのきがいもないとみえる。
なさけないことだ。
こんなごろつきしゅにくらべるとしゅじんなどははるかにじょうとうなにんげんといわなくてはならん。
いくじのないところがじょうとうなのである。
むのうなところがじょうとうなのである。
ちょこざいでないところがじょうとうなのである。
かくのごとくはたらきのないくいかたをもって、ぶじにちょうしょくをすましたるしゅじんは、やがてようふくをきて、くるまへのって、にっぽんつつみぶんしょへしゅっとうにおよんだ。
こうしをあけたとき、しゃふににっぽんつつみというところをしってるかときいたら、しゃふはへへへとわらった。
あのゆうかくのあるよしわらのきんぺんのにっぽんつつみだぜとねんをおしたのはしょうしょうこっけいであった。
しゅじんがちんらしくくるまでげんかんからでかけたあとで、さいくんはれいのごとくしょくじをすませて「さあがっこうへおいで。
おそくなりますよ」とさいそくすると、しょうきょうはへいきなもので「あら、でもきょうはごやすみよ」としたくをするけしきがない。
「ごやすみなもんですか、はやくなさい」としかるようにいってきかせると「それでもきのう、せんせいがごきゅうだって、おっしゃってよ」とあねはなかなかどうじない。
さいくんもここにいたってたしょうへんにおもったものか、とだなからこよみをだしてくりかえしてみると、あかいじでちゃんとごさいじつとでている。
しゅじんはさいじつともしらずにがっこうへけっきんとどけをだしたのだろう。
さいくんもしらずにゆうびんばこへほうりこんだのだろう。
ただし迷亭にいたってはじっさいしらなかったのか、しってしらんかおをしたのか、そこはしょうしょうぎもんである。
このはつめいにおやとおどろきろいたさいくんはそれじゃ、みんなでおとなしくごあそびなさいとへいぜいのとおりはりばこをだしてしごとにとりかかる。
そのごさんじゅうふんかんはかないへいおん、べつだんわがはいのざいりょうになるようなじけんもおこらなかったが、とつぜんみょうなひとがごきゃくにきた。
じゅうななはちのじょがくせいである。
かかとのまがったくつをはいて、むらさきいろのはかまをひきずって、かみをそろばんたまのようにふくらましてかってぐちからあんないもこわずにのぼってきた。
これはしゅじんのめいである。
がっこうのせいとだそうだが、おりおりにちようにやってきて、よくおじさんとけんかをしてかえっていくゆきえとかいうきれいななのおじょうさんである。
もっともかおはなまえほどでもない、ちょっとひょうへでていちにまちあるけばかならずあえるにんそうである。
「おばさんきょうは」とちゃのまへつかつかはいいってきて、はりばこのよこへしりをおろした。
「おや、よくはやくから……」
「きょうはだいさいじつですから、あさのうちにちょっとあがろうとおもって、はちじはんごろからいえをでていそいできたの」
「そう、なにかようがあるの?」
「いいえ、ただあんまりごぶさたをしたから、ちょっとあがったの」
「ちょっとでなくっていいから、ゆるくりあそんでいらっしゃい。
いまにおじさんがかえってきますから」
「おじさんは、もう、どこへかいらしったの。
ちんらしいのね」
「ええきょうはね、みょうなところへいったのよ。
……けいさつへいったの、みょうでしょう」
「あら、なんで?」
「このはるはいいったどろぼうがつらまったんだって」
「それでひきごうにだされるの?いいめいわくね」
「なあにしなものがもどるのよ。
とられたものがでたからとりにこいって、きのうじゅんさがわざわざきたもんですから」
「おや、そう、それでなくっちゃ、こんなにはやくおじさんがでかけることはないわね。
いつもならいまじぶんはまだねていらっしゃるんだわ」
「おじさんほど、ねぼうはないんですから……そうしておこすとぷんぷんおこるのよ。
けさなんかもななじまでにぜひおこせというから、おこしたんでしょう。
するとやぐのなかへもぐってへんじもしないんですもの。
こっちはしんぱいだからにどめにまたおこすと、よぎのそでからなにかいうのよ。
ほんとうにあきれかえってしまうの」
「なぜそんなにねむいんでしょう。
きっとしんけいすいじゃくなんでしょう」
「なにですか」
「ほんとうにむやみにおこるほうね。
あれでよくがっこうがつとまるのね」
「なにがっこうじゃおとなしいんですって」
「じゃなおあくるいわ。
まるでこんにゃく閻魔ね」
「なぜ?」
「なぜでもこんにゃく閻魔なの。
だってこんにゃく閻魔のようじゃありませんか」
「ただおこるばかりじゃないのよ。
ひとがみぎといえばひだり、ひだりといえばみぎで、なにでもひとのいうとおりにしたことがない、――そりゃごうじょうですよ」
「てんさぐおんなでしょう。
おじさんはあれがどうらくなのよ。
だからなにかさせようとおもったら、うらをいうと、こっちのおもいどおりになるのよ。
こないだこうもりがさをかってもらうときにも、いらない、いらないって、わざとゆったら、いらないことがあるものかって、すぐかってしたすったの」
「ほほほほうまいのね。
わたしもこれからそうしよう」
「そうなさいよ。
それでなくっちゃそんだわ」
「こないだほけんかいしゃのひとがきて、ぜひおはいいんなさいって、すすめているんでしょう、――いろいろやくをいって、こういうりえきがあるの、ああいうりえきがあるのって、なにでもいちじかんもはなしをしたんですが、どうしてもはいいらないの。
うちだってちょちくはなし、こうしてしょうきょうはさんにんもあるし、せめてほけんへでもはいいってくれるとよっぽどこころじょうぶなんですけれども、そんなことはすこしもかまわないんですもの」
「そうね、もしものことがあるとふあんしんだわね」とじゅうななはちのむすめににあわしからんしょたいじみたことをいう。
「そのだんぱんをかげできいていると、ほんとうにおもしろいのよ。
なるほどほけんのひつようもみとめないではない。
ひつようなものだからかいしゃもそんざいしているのだろう。
しかししなないいじょうはほけんにはいいるひつようはないじゃないかってごうじょうをはっているんです」
「おじさんが?」
「ええ、するとかいしゃのおとこが、それはしななければむろんほけんかいしゃはいりません。
しかしにんげんのいのちというものはじょうぶなようでもろいもので、しらないうちに、いつきけんが逼っているかわかりませんというとね、おじさんは、だいじょうぶぼくはしなないことにけっしんをしているって、まあむほうなことをいうんですよ」
「けっしんしたって、しぬわねえ。
わたしなんかぜひきゅうだいするつもりだったけれども、とうとうらくだいしてしまったわ」
「ほけんしゃいんもそういうのよ。
じゅみょうはじぶんのじゆうにはなりません。
けっしんでちょうがいきができるものなら、だれもしぬものはございませんって」
「ほけんかいしゃのほうがしとうですわ」
「しとうでしょう。
それがわからないの。
いえけっしてしなない。
ちかってしなないっていばるの」
「みょうね」
「みょうですとも、だいみょうですわ。
ほけんのかけきんをだすくらいならぎんこうへちょきんするほうがはるかにましだってすましきっているんですよ」
「ちょきんがあるの?」
「あるもんですか。
じぶんがしんだあとなんか、ちっともかまうこうなんかないんですよ」
「ほんとうにしんぱいね。
なぜ、あんななんでしょう、ここへいらっしゃるほうだって、おじさんのようなのはいちにんもいないわね」
「いるものですか。
むるいですよ」
「ちっとすずきさんにでもたのんでいけんでもしてもらうといいんですよ。
ああいうおだやかなひとだとよっぽどらくですがねえ」
「ところがすずきさんは、うちじゃひょうばんがわるいのよ」
「みんなぎゃくなのね。
それじゃ、あのほうがいいでしょう――ほらあのおちついてる――」
「やぎさん?」
「ええ」
「やぎさんにはおおいたへいこうしているんですがね。
きのう迷亭さんがきてわるぐちをいったものだから、おもったほどきかないかもしれない」
「だっていいじゃありませんか。
あんなかぜにおうようにおちついていれば、――こないだがっこうでえんぜつをなすったわ」
「やぎさんが?」
「ええ」
「やぎさんはゆきえさんのがっこうのせんせいなの」
「いいえ、せんせいじゃないけども、しゅくとくふじんかいのときにしょうたいして、えんぜつをしていただいたの」
「おもしろかって?」
「そうね、そんなにおもしろくもなかったわ。
だけども、あのせんせいが、あんなながいかおなんでしょう。
そうしててんじんさまのようなひげをはやしているもんだから、みんなかんしんしてきいていてよ」
「おはなしって、どんなごはなしなの?」とさいくんがききかけていると椽側のほうから、ゆきえさんのはなしごえをききつけて、さんにんのこどもがどたばたちゃのまへらんにゅうしてきた。
いままではたけがきのそとのくうちへでてあそんでいたものであろう。
「あらゆきえさんがきた」とににんのねえさんはうれしそうにおおきなこえをだす。
さいくんは「そんなにさわがないで、みんなしずかにしておすわわりなさい。
ゆきえさんがいまおもしろいはなしをなさるところだから」としごとをすみへかたづける。
「ゆきえさんなにのごはなし、わたしおはなしがだいすき」とゆったのはとんこで「やっぱりかちかちやまのごはなし?」ときいたのはすんこである。
「ぼうばもおはなち」といいだしたさんじょはあねとあねのまからひざをまえのほうにだす。
ただしこれはごはなしをうけたまわわるというのではない、ぼうばもまたごはなしをつかまつるといういみである。
「あら、またぼうばちゃんのはなしだ」とねえさんがわらうと、さいくんは「ぼうばはあとでなさい。
ゆきえさんのごはなしがすんでから」と賺かしてみる。
ぼうばはなかなかききそうにない。
「いやーよ、ばぶ」とおおきなこえをだす。
「おお、よしよしぼうばちゃんからなさい。
なんというの?」とゆきえさんはけんそんした。
「あのね。
ぼうたん、ぼうたん、どこいくのって」
「おもしろいのね。
それから?」
「わたちはたんぼへいねかりいに」
「そう、よくしってること」
「ごぜんがくうとじゃまになる」
「あら、くうとじゃないわ、くるとだわね」ととんこがくちをだす。
ぼうばはあいかわらず「ばぶ」といっかつしてただちにあねをへきえきさせる。
しかしちゅうとでくちをだされたものだから、つづきをわすれてしまって、あとがでてこない。
「ぼうばちゃん、それぎりなの?」とゆきえさんがきく。
「あのね。
あとでおならはごめんだよ。
ぷう、ぷうぷうって」
「ほほほほ、いやだこと、だれにそんなことを、おそわったの?」
「ごさんに」
「わるいごさんね、そんなことをおしえて」とさいくんはくしょうをしていたが「さあこんどはゆきえさんのばんだ。
ぼうやはおとなしくきいているのですよ」というと、さすがのぼうくんもなっとくしたとみえて、それぎりとうぶんのまはちんもくした。
「はちぼくせんせいのえんぜつはこんなのよ」とゆきえさんがとうとうくちをきった。
「むかしあるつじのまんなかにおおきないしじぞうがあったんですってね。
ところがそこがあいにくうまやくるまがとおるたいへんにぎやかなばしょだもんだからじゃまになってしようがないんでね、ちょうないのものがたいせいよって、そうだんをして、どうしてこのいしじぞうをすみのほうへかたづけたらよかろうってかんがえたんですって」
「そりゃほんとうにあったはなしなの?」
「どうですか、そんなことはなにともおっしゃらなくってよ。
――でみんながいろいろそうだんをしたら、そのちょうないでいちばんつよいおとこが、そりゃやくはありません、わたしがきっとかたづけてみせますって、いちにんでそのつじへいって、りょうはだをぬいであせをながしてひっぱったけれども、どうしてもうごかないんですって」
「よっぽどおもいいしじぞうなのね」
「ええ、それでそのおとこがつかれてしまって、うちへかえってねてしまったから、ちょうないのものはまたそうだんをしたんですね。
するとこんどはちょうないでいちばんりこうなおとこが、わたしにまかせてごらんなさい、いちばんやってみますからって、じゅうばこのなかへぼたもちをいっぱいいれて、じぞうのまえへきて、『ここまでおいで』といいながらぼたもちをみせびらかしたんだって、じぞうだってくいいじがはってるからぼたもちでつれるだろうとおもったら、すこしもうごかないんだって。
りこうなおとこはこれではいけないとおもってね。
こんどはひょうたんへおさけをいれて、そのひょうたんをかたてへぶらさげて、かたてへちょこをもってまたじぞうさんのまえへきて、さあのみたくはないかね、のみたければここまでおいでとさんじかんばかり、からかってみたがやはりうごかないんですって」
「ゆきえさん、じぞうさまはごはらがへらないの」ととんこがきくと「ぼたもちがたべたいな」とすんこがゆった。
「りこうなひとはにどどもしくじったから、そのつぎにはにせさつをたくさんこしらえて、さあほしいだろう、ほしければとりにおいでとさつをだしたりひっこましたりしたがこれもまるでえきにたたないんですって。
よっぽどがんこなじぞうさまなのよ」
「そうね。
すこしおじさんににているわ」
「ええまるでおじさんよ、しまいにりこうなひともあいそをつかしてやめてしまったんですとさ。
それでそのあとからね、おおきなほらをふくひとがでて、わたしならきっとかたづけてみせますからごあんしんなさいとさもたやすいことのようにうけあったそうです」
「そのほらをふくひとはなにをしたんです」
「それがおもしろいのよ。
さいしょにはねじゅんさのふくをきて、つけひげをして、じぞうさまのまえへきて、こらこら、うごかんとそのほうのためにならんぞ、けいさつですてておかんぞといばってみせたんですとさ。
いまのよにけいさつのかりこえなんかつかったってだれもききゃしないわね」
「ほんとうね、それでじぞうさまはうごいたの?」
「うごくもんですか、おじさんですもの」
「でもおじさんはけいさつにはたいへんおそれいっているのよ」
「あらそう、あんなかおをして?それじゃ、そんなにこわいことはないわね。
けれどもじぞうさまはうごかないんですって、へいきでいるんですとさ。
それでほら吹はたいへんおこって、じゅんさのふくをぬいで、つけひげをかみくずかごへほうりこんで、こんどはおおがねもちのふくそうをしてでてきたそうです。
いまのよでいうといわさきだんしゃくのようなかおをするんですとさ。
おかしいわね」
「いわさきのようなかおってどんなかおなの?」
「ただおおきなかおをするんでしょう。
そうしてなにもしないで、またなにもいわないでじぞうのまわりを、おおきなまきたばこをふかしながらほこういているんですとさ」
「それがなにになるの?」
「じぞうさまをけむりにまくんです」
「まるではなししかのしゃれのようね。
しゅびよくけむりにまいたの?」
「だめですわ、あいてがいしですもの。
ごまかしもたいていにすればいいのに、こんどはでんかさまにばけてきたんだって。
ばかね」
「へえ、そのじぶんにもでんかさまがあるの?」
「あるんでしょう。
はちぼくせんせいはそうおっしゃってよ。
たしかにでんかさまにばけたんだって、おそれおおいことだがばけてきたって――だいいちふけいじゃありませんか、ほらふきのぶんざいで」
「でんかって、どのでんかさまなの」
「どのでんかさまですか、どのでんかさまだってふけいですわ」
「そうね」
「でんかさまでもきかないでしょう。
ほらふきもしようがないから、とてもわたしのてぎわでは、あのじぞうはどうすることもできませんとこうさんをしたそうです」
「いいきみね」
「ええ、ついでにちょうえきにやればいいのに。
――でもちょうないのものはたいそうきをもんで、またそうだんをひらいたんですが、もうだれもひきうけるものがないんでよわったそうです」
「それでおしまい?」
「まだあるのよ。
いちばんしまいにくるまやとごろつきをたいせいやとって、じぞうさまのまわりをわいわいさわいであるいたんです。
ただじぞうさまをいじめて、いたたまれないようにすればいいとゆって、よるひるこうたいでさわぐんだって」
「ごくろうさまですこと」
「それでもとりあわないんですとさ。
じぞうさまのほうもずいぶんごうじょうね」
「それから、どうして?」ととんこがねっしんにきく。
「それからね、いくらまいにちまいにちさわいでもけんがみえないので、おおいたみんながいやになってきたんですが、しゃふやごろつきはいくにちでもにっとうになることだからよろこんでさわいでいましたとさ」
「ゆきえさん、ひなたってなに?」とすんこがしつもんをする。
「にっとうというのはね、ごきんのことなの」
「ごきんをもらってなににするの?」
「ごきんをもらってね。
……ほほほほいやなすんこさんだ。
――それでおばさん、まいにちまいばんからさわぎをしていますとね。
そのときちょうないにばかたけとゆって、なにもしらない、だれもあいてにしないばかがいたんですってね。
そのばかがこのさわぎをみてごぜんぽうはなんでそんなにさわぐんだ、なんねんかかってもじぞうひとつうごかすことができないのか、かわいそうなものだ、とゆったそうですって――」
「ばかのくせにえらいのね」
「なかなかえらいばかなのよ。
みんながばかたけのいうことをきいて、ものはためしだ、どうせだめだろうが、まあたけにやらしてみようじゃないかとそれからたけにたのむと、たけはいちもにもなくひきうけたが、そんなじゃまなさわぎをしないでまあしずかにしろとくるまひきやごろつきをひきこましてひょうぜんとじぞうさまのまえへでてきました」
「ゆきえさんひょうぜんて、ばかたけのおともだち?」ととんこがかんじんなところできもんをはなったので、さいくんとゆきえさんはどっとわらいだした。
「いいえおともだちじゃないのよ」
「じゃ、なに?」
「ひょうぜんというのはね。
――いいようがないわ」
「ひょうぜんて、いいようがないの?」
「そうじゃないのよ、ひょうぜんというのはね――」
「ええ」
「そらたたらさんぺいさんをしってるでしょう」
「ええ、やまのいもをくれてよ」
「あのたたらさんみたようなをいうのよ」
「たたらさんはひょうぜんなの?」
「ええ、まあそうよ。
――それでばかたけがじぞうさまのまえへきてふところでをして、じぞうさま、ちょうないのものが、あなたにうごいてくれというからうごいてやんなさいとゆったら、じぞうさまはたちまちそうか、そんならはやくそういえばいいのに、とのこのこうごきだしたそうです」
「みょうなじぞうさまね」
「それからがえんぜつよ」
「まだあるの?」
「ええ、それからはちぼくせんせいがね、きょうはごふじんのかいでありますが、わたしがかようなごはなしをわざわざいたしたのはしょうしょうこうがあるので、こうもうすとしつれいかもしれませんが、ふじんというものはとかくものをするのにしょうめんからちかみちをとおっていかないで、かえってえんぽうからまわりくどいしゅだんをとるへいがある。
もっともこれはごふじんにかぎったことでない。
めいじのだいはだんしといえども、ぶんめいのへいをうけてたしょうじょせいてきになっているから、よくいらざるてすうとろうりょくをついやして、これがほんすじである、しんしのやるべきほうしんであるとごかいしているものがおおいようだが、これとうはかいかのごうにそくばくされた畸形じである。
べつにろんずるにおよばん。
ただごふじんにあってはなるべくただいまもうしたむかしばなしをごきおくになって、いざというばあいにはどうかばかたけのようなしょうじきなりょうけんでものごとをしょりしていただきたい。
あなたかたがばかたけになればふうふのま、よめしゅうとのまにおこるいまわしきかっとうのさんふんいちはたしかにげんぜられるにそういない。
にんげんはこんたんがあればあるほど、そのこんたんがたたってふこうのみなもとをなすので、おおくのふじんがへいきんだんしよりふこうなのは、まったくこのこんたんがありすぎるからである。
どうかばかたけになってください、というえんぜつなの」
「へえ、それでゆきえさんはばかたけになるきなの」
「やだわ、ばかたけだなんて。
そんなものになりたくはないわ。
かねだのとみこさんなんぞはしっけいだってたいへんおこってよ」
「かねだのとみこさんて、あのこうよこちょうの?」
「ええ、あのはいからさんよ」
「あのひともゆきえさんのがっこうへいくの?」
「いいえ、ただふじんかいだからぼうちょうにきたの。
ほんとうにはいからね。
どうもおどろきろいちまうわ」
「でもたいへんいいきりょうだっていうじゃありませんか」
「なみですわ。
ごじまんほどじゃありませんよ。
あんなにごけしょうをすればたいていのひとはよくみえるわ」
「それじゃゆきえさんなんぞはそのかたのようにごけしょうをすればかねださんのばいくらいうつくしくなるでしょう」
「あらいやだ。
よくってよ。
しらないわ。
だけど、あのほうはまったくつくりすぎるのね。
なんぼごきんがあったって――」
「つくりすぎてもごきんのあるほうがいいじゃありませんか」
「それもそうだけれども――あのほうこそ、すこしばかたけになったほうがいいでしょう。
むあんにいばるんですもの。
このかんもなんとかいうしじんがしんたいししゅうをささげたって、みんなにふいちょうしているんですもの」
「とうふうさんでしょう」
「あら、あのほうがささげたの、よっぽどものすうきね」
「でもとうふうさんはたいへんまじめなんですよ。
じぶんじゃ、あんなことをするのがとうまえだとまでおもってるんですもの」
「そんなひとがあるから、いけないんですよ。
――それからまだおもしろいことがあるの。
此間だれか、あのほうのところへつやしょをおくったものがあるんだって」
「おや、いやらしい。
だれなの、そんなことをしたのは」
「だれだかわからないんだって」
「なまえはないの?」
「なまえはちゃんとかいてあるんだけれどもきいたこともないひとだって、そうしてそれがながいながいいっけんばかりもあるてがみでね。
いろいろなみょうなことがかいてあるんですとさ。
わたしがあなたをこいっているのは、ちょうどしゅうきょうかがかみにあこがれているようなものだの、あなたのためならばさいだんにそなえるしょうひつじとなってほふられるのがむじょうのめいよであるの、しんぞうのかたちちがさんかくで、さんかくのちゅうしんにきゅーぴっどのやがたって、ふきやならおおあたりであるの……」
「そりゃまじめなの?」
「まじめなんですとさ。
げんにわたしのごともだちのうちでそのてがみをみたものがさんにんあるんですもの」
「いやなひとね、そんなものをみせびらかして。
あのほうはかんげつさんのとこへごよめにいくつもりなんだから、そんなことがせけんへしれちゃこまるでしょうにね」
「こまるどころですかだいとくいよ。
こんだかんげつさんがきたら、しらしてあげたらいいでしょう。
かんげつさんはまるでごぞんじないんでしょう」
「どうですか、あのほうはがっこうへいってたまばかりみがいていらっしゃるから、おおかたしらないでしょう」
「かんげつさんはほんとうにあのほうをごもらいになるきなんでしょうかね。
ごきのどくだわね」
「なぜ?ごきんがあって、いざってときにちからになって、いいじゃありませんか」
「おばさんは、じきにきむ、きむってしながわるいのね。
きんよりあいのほうがだいじじゃありませんか。
あいがなければふうふのかんけいはせいりつしやしないわ」
「そう、それじゃゆきえさんは、どんなところへごよめにいくの?」
「そんなことしるもんですか、べつになにもないんですもの」
ゆきえさんとおばさんはけっこんじけんについてなにかべんろんをたくましくしていると、さっきから、わからないなりにきんちょうしているとんこがとつぜんくちをひらいて「わたしもごよめにいきたいな」といいだした。
このむてっぽうなきぼうには、さすがせいしゅんのきにみちて、だいにどうじょうをやどりきすべきゆきえさんもちょっとどくけをぬかれたからだであったが、さいくんのほうはひかくてきへいきにかまえて「どこへいきたいの」とえみながらきいてみた。
「わたしねえ、ほんとうはね、しょうこんしゃへごよめにいきたいんだけれども、すいどうきょうをわたるのがいやだから、どうしようかとおもってるの」
さいくんとゆきえさんはこのめいとうをえて、あまりのことにといかえすゆうきもなく、どっとわらいくずれたときに、じじょのすんこがねえさんにむかってかようなそうだんをもちかけた。
「ごねえさまもしょうこんしゃがすき?わたしもだいすき。
いっしょにしょうこんしゃへごよめにいきましょう。
ね?いや?いやならよいわ。
わたしいちにんでくるまへのってさっさといっちまうわ」
「ぼうばもいくの」とついにはぼうばさんまでがしょうこんしゃへよめにいくことになった。
かようにさんにんがかおをそろえてしょうこんしゃへよめにいけたら、しゅじんもさぞらくであろう。
ところへくるまのおとががらがらともんぜんにとまったとおもったら、たちまちいせいのいいごかえりというこえがした。
しゅじんはにほんづつみぶんしょからもどったとみえる。
しゃふがさしだすおおきなふろしきつつみをげじょにうけとらして、しゅじんはゆうぜんとちゃのまへはいいってくる。
「やあ、きたね」とゆきえさんにあいさつしながら、れいのゆうめいなるながひばちのはたへ、ぽかりとてにたずさえたとっくりさまのものをほうりだした。
とっくりさまというのはじゅんぜんたるとっくりではむろんない、とゆってはないけともおもわれない、ただいっしゅいようのとうきであるから、やむをえずしばらくかようにもうしたのである。
「みょうなとっくりね、そんなものをけいさつからもらっていらしったの」とゆきえさんが、たおれたやつをおこしながらおじさんにきいてみる。
おじさんは、ゆきえさんのかおをみながら、「どうだ、いいかっこうだろう」とじまんする。
「いいかっこうなの?それが?あんまりよかあないわ?あぶらつぼなんかなんでもっていらっしったの?」
「あぶらつぼなものか。
そんなしゅみのないことをいうからこまる」
「じゃ、なあに?」
「はなかつさ」
「はなかつにしちゃ、くちがしょういさすぎて、いやにどうがはってるわ」
「そこがおもしろいんだ。
ごぜんもぶふうりゅうだな。
まるでおばさんとえらぶところなしだ。
こまったものだな」とひとりであぶらつぼをとりあげて、しょうじのほうへむけてながめている。
「どうせぶふうりゅうですわ。
あぶらつぼをけいさつからもらってくるようなまねはできないわ。
ねえおばさん」おばさんはそれどころではない、ふろしきつつみをといてさらめになって、とうなんひんをけんべている。
「おやおどろきろいた。
どろぼうもしんぽしたのね。
みんな、といてあらいはりをしてあるわ。
ねえちょいと、あなた」
「だれがけいさつからあぶらつぼをもらってくるものか。
まってるのがたいくつだから、あすこいらをさんぽしているうちにほりりだしてきたんだ。
ごぜんなんぞにはわかるまいがそれでもちんぴんだよ」
「ちんぴんすぎるわ。
いったいおじさんはどこをさんぽしたの」
「どこってにっぽんつつみかいわいさ。
よしわらへもはいいってみた。
なかなかもりなところだ。
あのてつのもんをみたことがあるかい。
ないだろう」
「だれがみるもんですか。
よしわらなんてせんぎょうふのいるところへいくいんねんがありませんわ。
おじさんはきょうしのみで、よくまあ、あんなところへいかれたものねえ。
ほんとうにおどろきろいてしまうわ。
ねえおばさん、おばさん」
「ええ、そうね。
どうもしなかずがたりないようだこと。
これでみんなもどったんでしょうか」
「もどらんのはやまのいもばかりさ。
がんらいきゅうじにしゅっとうしろといいながらじゅういちじまでまたせるほうがあるものか、これだからにっぽんのけいさつはいかん」
「にっぽんのけいさつがいけないって、よしはらをさんぽしちゃなおいけないわ。
そんなことがしれるとめんしょくになってよ。
ねえおばさん」
「ええ、なるでしょう。
あなた、わたしのおびのかたがわがないんです。
なんだかたりないとおもったら」
「おびのかたがわくらいあきらめるさ。
こっちはさんじかんもまたされて、たいせつのじかんをはんにちつぶしてしまった」とにっぽんふくにきかえてへいきにひばちへもたれてあぶらつぼをながめている。
さいくんもしかたがないとあきらめて、もどったしなをそのままとだなへしまいこんでざにかえる。
「おばさん、このあぶらつぼがちんぴんですとさ。
きたないじゃありませんか」
「それをよしわらでかっていらしったの?まあ」
「なにがまあだ。
わかりもしないくせに」
「それでもそんなつぼならよしわらへいかなくっても、どこにだってあるじゃありませんか」
「ところがないんだよ。
めったにあるしなではないんだよ」
「おじさんはずいぶんいしじぞうね」
「またしょうきょうのくせになまいきをいう。
どうもこのころのじょがくせいはくちがわるるくっていかん。
ちとおんなだいがくでもよむがいい」
「おじさんはほけんがいやでしょう。
じょがくせいとほけんとどっちがいやなの?」
「ほけんはいやではない。
あれはひつようなものだ。
みらいのこうのあるものは、だれでもはいいる。
じょがくせいはむようのちょうぶつだ」
「むようのちょうぶつでもいいことよ。
ほけんへはいいってもいないくせに」
「らいげつからはいいるつもりだ」
「きっと?」
「きっとだとも」
「およしなさいよ、ほけんなんか。
それよりかそのかかきんでなにかかったほうがいいわ。
ねえ、おばさん」おばさんはにやにやわらっている。
しゅじんはまじめになって
「おまえなどはひゃくもにひゃくもいきるきだから、そんなのんきなことをいうのだが、もうすこしりせいがはったつしてみろ、ほけんのひつようをかんずるにいたるのはとうまえだ。
ぜひらいげつからはいいるんだ」
「そう、それじゃしかたがない。
だけどこないだのようにこうもりがさをかってくださるごきんがあるなら、ほけんにはいいるほうがましかもしれないわ。
ひとがいりません、いりませんというのをむりにかってくださるんですもの」
「そんなにいらなかったのか?」
「ええ、こうもりがさなんかよくしかないわ」
「そんならかえすがいい。
ちょうどとんこがほしがってるから、あれをこっちへまわしてやろう。
きょうもってきたか」
「あら、そりゃ、あんまりだわ。
だって苛いじゃありませんか、せっかくかってくだすっておきながら、かえせなんて」
「いらないというから、かえせというのさ。
ちっとも苛くはない」
「いらないことはいらないんですけれども、苛いわ」
「わからんことをいうやっこだな。
いらないというからかえせというのに苛いごとがあるものか」
「だって」
「だって、どうしたんだ」
「だって苛いわ」
「ぐだな、おなじことばかりくりかえしている」
「おじさんだっておなじことばかりくりかえしているじゃありませんか」
「ごぜんがくりかえすからしかたがないさ。
げんにいらないとゆったじゃないか」
「そりゃいいましたわ。
いらないことはいらないんですけれども、かえすのはいやですもの」
「おどろきろいたな。
ぼつぶんあかつきでごうじょうなんだからしかたがない。
ごぜんのがっこうじゃろんりがくをおしえないのか」
「よくってよ、どうせむきょういくなんですから、なんとでもおっしゃい。
ひとのものをかえせだなんて、たにんだってそんなふにんじょうなことはうんやしない。
ちっとばかたけのまねでもなさい」
「なにのまねをしろ?」
「ちとしょうじきにたんぱくになさいというんです」
「おまえはぐぶつのくせにやにごうじょうだよ。
それだかららくだいするんだ」
「らくだいしたっておじさんにがくしはだしてもらいやしないわ」
ゆきえさんはげんここにいたってかんにこたえざるもののごとく、さんぜんとしていっきくのなみだをむらさきのはかまのうえにおとした。
しゅじんは茫乎として、そのなみだがいかなるしんりさようにきいんするかをけんきゅうするもののごとく、はかまのうえと、俯つむいたゆきえさんのかおをみつめていた。
ところへごさんがだいどころからあかいてをしきいえつにそろえて「おきゃくさまがいらっしゃいました」という。
「だれがきたんだ」としゅじんがきくと「がっこうのせいとさんでございます」とごさんはゆきえさんのなきがおをよこめにねめながらこたえた。
しゅじんはきゃくまへでていく。
わがはいもたねとりけんにんげんけんきゅうのため、しゅじんにおしてしのびやかに椽へまわった。
にんげんをけんきゅうするにはなにかはらんがあるときをえらばないといっこうけっかがでてこない。
へいぜいはおおかたのひとがおおかたのひとであるから、みてもきいてもちょうごうのないくらいへいぼんである。
しかしいざとなるとこのへいぼんがきゅうにれいみょうなるしんぴてきさようのためにむくむくともちあがってきなもの、へんなもの、みょうなもの、ことなもの、いちとくちにいえばわがはいねこどもからみてすこぶるこうがくになるようなじけんがいたるところにおうふうにあらわれてくる。
ゆきえさんのこうるいのごときはまさしくそのげんしょうのひとつである。
かくのごとくふかしぎ、ふかそくのこころをゆうしているゆきえさんも、さいくんとはなしをしているうちはさほどともおもわなかったが、しゅじんがかえってきてあぶらつぼをほうりだすやいなや、たちまちしりゅうに蒸汽喞筒をちゅうぎかけたるごとく、ぼつぜんとしてそのしんおうにしてきちすべからざる、こうみょうなる、びみょうなる、きみょうなる、れいみょうなる、れいしつを、惜気もなくはつようしりょうった。
しかしてそのれいしつはてんかのじょせいにきょうつうなるれいしつである。
ただおしいことにはよういにあらわれてこない。
いなあらわれることはにろくじちゅうかんだんなくあらわれているが、かくのごとくけんちょに灼然へいことしてえんりょなくはあらわれてこない。
こうにしてしゅじんのようにわがはいのけをややともするとさかさになでたがるつむじまがりのきとくかがおったから、かかるきょうげんもはいけんができたのであろう。
しゅじんのあとさえついてあるけば、どこへいってもぶたいのやくしゃはわれしらずうごくにそういない。
おもしろいおとこをだんなさまにいただいて、みじかかいねこのいのちのうちにも、おおいたおおくのけいけんができる。
ありがたいことだ。
こんどのおきゃくはなにものであろう。
みるととしごろはじゅうななはち、ゆきえさんとおっつ、かえっつのしょせいである。
おおきなあたまをちのひまいてみえるほどかりこんでだんごっはなをかおのまんなかにかためて、ざしきのすみのほうにひかえている。
べつにこれというとくちょうもないがずがいこつだけはすこぶるおおきい。
あおぼうずにかってさえ、ああおおきくみえるのだから、しゅじんのようにながくのばしたらさだめしひとめをひくことだろう。
こんなかおにかぎってがくもんはあまりできないものだとは、かねてよりしゅじんのじせつである。
じじつはそうかもしれないがちょっとみるとなぽれおんのようですこぶるいかんである。
きものはつうれいのしょせいのごとく、さつまがすりか、くるめがすりかまたいよかすりかわからないが、ともかくもかすりとなづけられたるあわせをそでたんかにきこなして、したには襯衣もじばんもないようだ。
すあわせやすあしはいきなものだそうだが、このおとこのはなはだむさくるしいかんじをあたえる。
ことにたたみのうえにどろぼうのようなおやゆびをれきぜんとみっつまでしるしているのはまったくすあしのせきにんにそういない。
かれはよっつめのあしあとのうえへちゃんとすわって、さもきゅうくつそうにかしこしこまっている。
いったいかしこまるべきものがおとなしくひかえるのはべつだんきにするにもおよばんが、いがぐりあたまのつんつるてんのらんぼうしゃがきょうしゅくしているところはなんとなくふちょうわなものだ。
とちゅうでせんせいにあってさえれいをしないのをじまんにするくらいのれんちゅうが、たといさんじゅうふんでもひとなみにすわるのはくるしいに違ない。
ところをうまれえてきょうけんのくんし、せいとくのちょうじゃであるかのごとくかまえるのだから、とうにんのくるしいにかかわらずはたからみるとだいぶおかしいのである。
きょうじょうもしくはうんどうじょうであんなにそうぞうしいものが、どうしてかようにじこを箝束するちからをそなえているかとおもうと、あわれにもあるがこっけいでもある。
こうやっていちにんずつそうたいになると、いかにぐ※なるしゅじんといえどもせいとにたいしていくふんかのおもみがあるようにおもわれる。
しゅじんもさだめしとくいであろう。
ちりせきってやまをなすというから、びびたるいちせいともたぜいが聚合するとあなどるべからざるだんたいとなって、はいせきうんどうやすとらいきをしでかすかもしれない。
これはちょうどおくびょうものがさけをのんでだいたんになるようなげんしょうであろう。
しゅうをたのんでさわぎだすのは、ひとのきによっぱらったけっか、しょうきをとりおとしたるものとみとめてさしつかえあるまい。
それでなければかようにおそれいるといわんよりむしろしょうぜんとして、みずからふすまにおしつけられているくらいなさつまがすりが、いかにろうきゅうだとゆって、苟めにもせんせいとなのつくしゅじんをけいべつしようがない。
ばかにできるわけがない。
しゅじんはざぶとんをおしやりながら、「さあおしき」とゆったがいがぐりせんせいはかたくなったまま「へえ」とゆってうごかない。
はなのさきにはげかかったさらさのざぶとんが「おのんなさい」ともなにともいわずにちゃくせきしているうしろに、いきたおおとがつくねんとちゃくせきしているのはみょうなものだ。
ふとんはのるためのふとんでみつめるためにさいくんがかんこうばからしいれてきたのではない。
ふとんにしてしかれずんば、ふとんはまさしくそのめいよをきそんせられたるもので、これをすすめたるしゅじんもまたいくぶんかかおがたたないことになる。
しゅじんのかおをつぶしてまで、ふとんとねめくらをしているいがぐりくんはけっしてふとんそのものがいやなのではない。
みをいうと、せいしきにすわったことはそふさんのほうじのときのほかはうまれてからめったにないので、さきっきからすでにしびれがきれかかってしょうしょうあしのさきはこんなんをうったえているのである。
それにもかかわらずしかない。
ふとんがてもちぶさたにひかえているにもかかわらずしかない。
しゅじんがさあおしきというのにしかない。
やっかいないがぐりぼうずだ。
このくらいえんりょするならたにんずうあつまったときもうすこしえんりょすればいいのに、がっこうでもうすこしえんりょすればいいのに、げしゅくやでもうすこしえんりょすればいいのに。
すまじきところへきけんをして、すべきときにはけんそんしない、いなだいにろうぜきを働らく。
たちのあくるいいがぐりぼうずだ。
ところへうしろのふすまをすうとあけて、ゆきえさんがいちわんのちゃをうやうやしくぼうずにきょうした。
へいぜいなら、そらさゔぇじ・ちーがでたとひやかすのだが、しゅじんいちにんにたいしてすらいたみいっているうえへ、みょうれいのじょせいががっこうでおぼえだてのおがさわらりゅうで、きのとにきどったてつきをしてちゃわんをつきつけたのだから、ぼうずはだいにくもんのからだにみえる。
ゆきえさんはふすまをしめるときにうしろからにやにやとわらった。
してみるとおんなはどうねんぱいでもなかなかえらいものだ。
ぼうずにひすればはるかにどきょうがすわっている。
ことにせんこくのむねんにはらはらとながしたいってきのこうるいのあとだから、このにやにやがさらにめだってみえた。
ゆきえさんのひきこんだあとは、そうほうむごんのまま、しばらくのまはからしぼうしていたが、これではごうをするようなものだときがついたしゅじんはようやくくちをひらいた。
「きみはなんとかゆったけな」
「ふるい……」
「ふるい?ふるいなんとかだね。
なは」
「ふるいたけしみぎえもん」
「ふるいたけしみぎえもん――なるほど、だいぶながいなだな。
いまのなじゃない、むかしのなだ。
よんねんせいだったね」
「いいえ」
「さんねんせいか?」
「いいえ、にねんせいです」
「かぶとのくみかね」
「おつです」
「おつなら、わたしのかんとくだね。
そうか」としゅじんはかんしんしている。
じつはこのだいあたまはにゅうがくのとうじから、しゅじんのめについているんだから、けっしてわすれるどころではない。
のみならず、ときどきはゆめにみるくらいかんめいしたあたまである。
しかしのんきなしゅじんはこのあたまとこのこふうなせいめいとをれんけつして、そのれんけつしたものをまたにねんきのとぐみにれんけつすることができなかったのである。
だからこのゆめにみるほどかんしんしたあたまがじぶんのかんとくぐみのせいとであるときいて、おもわずそうかとこころのうらでてをはくったのである。
しかしこのおおきなあたまの、ふるいなの、しかもじぶんのかんとくするせいとがなにのためにいまごろやってきたのかとみと推諒できない。
がんらいふじんぼうなしゅじんのことだから、がっこうのせいとなどはしょうがつだろうがくれだろうがほとんどよりついたことがない。
よりついたのはふるいたけしみぎえもんくんをもってこうしとするくらいなちんきゃくであるが、そのらいほうのしゅいがわからんにはしゅじんもだいにへいこうしているらしい。
こんなおもしろくないひとのいえへただあそびにくるわけもなかろうし、またじしょくかんこくならもうすこしこうぜんとかまえこみそうだし、とゆってたけみぎえもんくんなどがいっしんじょうのようじそうだんがあるはずがないし、どっちから、どうかんがえてもしゅじんにはわからない。
たけみぎえもんくんのようすをみるとあるいはほんにんじしんにすらなんで、ここまでまいったのかはんぜんしないかもしれない。
しかたがないからしゅじんからとうとうおもてむこうにききだした。
「きみあそびにきたのか」
「そうじゃないんです」
「それじゃようじかね」
「ええ」
「がっこうのことかい」
「ええ、すこしおはなししようとおもって……」
「うむ。
どんなことかね。
さあはなしたまえ」というとたけみぎえもんくんかをむかいたぎりなににもいわない。
がんらいたけみぎえもんくんはちゅうがくのにねんせいにしてはよくべんずるほうで、あたまのおおきいわりにのうりょくははったつしておらんが、ちょうしたることにおいてはおつぐみちゅう鏘々たるものである。
げんにせんだってころんばすのにっぽんやくをおしえろとゆってだいにしゅじんをこまらしたはまさにこのたけみぎえもんくんである。
その鏘々たるせんせいが、さいぜんからどものごひめさまのようにもじもじしているのは、なにかうんわくのあることでなくてはならん。
たんにえんりょのみとはとうていうけとられない。
しゅじんもしょうしょうふしんにおもった。
「はなすことがあるなら、はやくはなしたらいいじゃないか」
「すこしはなしにくいことで……」
「はなしにくい?」といいながらしゅじんはたけみぎえもんくんのかおをみたが、せんぽうはいぜんとして俯向になってるから、なにごとともかんていができない。
やむをえず、すこしごせいをかえて「いいさ。
なにでもはなすがいい。
ほかにだれもきいていやしない。
わたしもたごんはしないから」とおだやかにつけくわえた。
「はなしてもいいでしょうか?」とたけみぎえもんくんはまだまよっている。
「いいだろう」としゅじんはかってなはんだんをする。
「でははなしますが」といいかけて、いがぐりあたまをむくりともちあげてしゅじんのほうをちょっとまぼしそうにみた。
そのめはさんかくである。
しゅじんはほおをふくらましてあさひのけむりをふきだしながらちょっとよこをむいた。
「じつはその……こまったことになっちまって……」
「なにが?」
「なにがって、はなはだこまるもんですから、きたんです」
「だからさ、なにがこまるんだよ」
「そんなことをするこうはなかったんですけれども、はまだがかせかせというもんですから……」
「はまだというのははまだへいすけかい」
「ええ」
「はまだにげしゅくりょうでもかしたのかい」
「なにそんなものをかしたんじゃありません」
「じゃなにをかしたんだい」
「なまえをかしたんです」
「はまだがきみのなまえをかりてなにをしたんだい」
「つやしょをおくったんです」
「なにをおくった?」
「だから、なまえははいして、とうかんやくになるとゆったんです」
「なんだかようりょうをえんじゃないか。
いったいだれがなにをしたんだい」
「つやしょをおくったんです」
「つやしょをおくった?だれに?」
「だから、はなしにくいというんです」
「じゃきみが、どこかのおんなにつやしょをおくったのか」
「いいえ、ぼくじゃないんです」
「はまだがおくったのかい」
「はまだでもないんです」
「じゃだれがおくったんだい」
「だれだかわからないんです」
「ちっともようりょうをえないな。
ではだれもおくらんのかい」
「なまえだけはぼくのななんです」
「なまえだけはきみのなだって、なにのことだかちっともわからんじゃないか。
もっとじょうりをたててはなすがいい。
がんらいそのつやしょをうけたとうにんはだれか」
「かねだってこうよこちょうにいるおんなです」
「あのかねだというじつぎょうかか」
「ええ」
「で、なまえだけかしたとはなにのことだい」
「あすこのむすめがはいからでなまいきだからつやしょをおくったんです。
――はまだがなまえがなくちゃいけないっていいますから、きみのなまえをかけってゆったら、ぼくのじゃつまらない。
ふるいたけしみぎえもんのほうがいいって――それで、とうとうぼくのなをかしてしまったんです」
「で、きみはあすこのむすめをしってるのか。
こうさいでもあるのか」
「こうさいもなにもありゃしません。
かおなんかみたこともありません」
「らんぼうだな。
かおもしらないひとにつやしょをやるなんて、まあどういうりょうけんで、そんなことをしたんだい」
「ただみんながあいつはなまいきでいばってるていうから、からかってやったんです」
「ますますらんぼうだな。
じゃきみのなをこうぜんとかいておくったんだな」
「ええ、ぶんしょうははまだがかいたんです。
ぼくがなまえをかしてえんどうがよるあすこのうちまでいってとうかんしてきたんです」
「じゃさんにんできょうどうしてやったんだね」
「ええ、ですけれども、あとからかんがえると、もしあらわれてたいがくにでもなるとたいへんだとおもって、ひじょうにしんぱいしてにさんにちはねられないんで、なんだか茫やりしてしまいました」
「そりゃまたとんでもないばかをしたもんだ。
それでぶんめいちゅうがくにねんせいふるいたけしみぎえもんとでもかいたのかい」
「いいえ、がっこうのななんかかきゃしません」
「がっこうのなをかかないだけまあよかった。
これでがっこうのながでてみるがいい。
それこそぶんめいちゅうがくのめいよにかんする」
「どうでしょうたいこうになるでしょうか」
「そうさな」
「せんせい、ぼくのおやじさんはたいへんやかましいひとで、それにおかあさんがけいぼですから、もしたいこうにでもなろうもんなら、ぼくあこまっちまうです。
ほんとうにたいこうになるでしょうか」
「だからめったなまねをしないがいい」
「するきでもなかったんですが、ついやってしまったんです。
たいこうにならないようにできないでしょうか」とたけみぎえもんくんはなきだしそうなこえをしてしきりにあいがんにおよんでいる。
ふすまのかげではさいぜんからさいくんとゆきえさんがくすくすわらっている。
しゅじんはあくまでももったいぶって「そうさな」をくりかえしている。
なかなかおもしろい。
わがはいがおもしろいというと、なにがそんなにおもしろいときくひとがあるかもしれない。
きくのはもっともだ。
にんげんにせよ、どうぶつにせよ、おのれをしるのはしょうがいのだいじである。
おのれをしることができさえすればにんげんもにんげんとしてねこよりそんけいをうけてよろしい。
そのときはわがはいもこんないたずらをかくのはきのどくだからすぐさまやめてしまうつもりである。
しかしじぶんでじぶんのはなのたかさがわからないとおなじように、じこのなにものかはなかなかけんとうがつきわるくいとみえて、へいぜいからけいべつしているねこにむかってさえかようなしつもんをかけるのであろう。
にんげんはなまいきなようでもやはり、どこかぬけている。
ばんぶつのれいだなどとどこへでもばんぶつのれいをかついであるくかとおもうと、これしきのじじつがりかいできない。
しかも恬としてへいぜんたるにいたってはちといち※をもよおしたくなる。
かれはばんぶつのれいをせなかへかついで、おれのはなはどこにあるかおしえてくれ、おしえてくれとさわぎたてている。
それならばんぶつのれいをじしょくするかとおもうと、どういたしてしんでもはなしそうにしない。
このくらいこうぜんとむじゅんをしてへいきでいられればあいきょうになる。
あいきょうになるかわりにはばかをもってあまじなくてはならん。
わがはいがこのさいぶみぎえもんくんと、しゅじんと、さいくん及雪こうじょうをおもしろがるのは、たんにがいぶのじけんがはちあわせをして、そのはちあわせがはどうをおつなところにつたえるからではない。
じつはそのはちごうのはんきょうがにんげんのこころにここべつべつのねいろをおこすからである。
だいいちしゅじんはこのじけんにたいしてむしろれいたんである。
たけみぎえもんくんのおやじさんがいかにやかましくって、おっかさんがいかにきみをままこあつかいにしようとも、あんまりおどろきろかない。
おどろきろくはずがない。
たけみぎえもんくんがたいこうになるのは、じぶんがめんしょくになるのとはだいにおもむきがちがう。
せんにんちかくのせいとがみんなたいこうになったら、きょうしもいしょくのとにきゅうするかもしれないが、ふるいたけしみぎえもんくんいちにんのうんめいがどうへんかしようと、しゅじんのあさゆうにはほとんどかんけいがない。
かんけいのうすいところにはどうじょうもじからうすいわけである。
みずしらずのひとのためにまゆをひそめたり、はなをかんだり、たんそくをするのは、けっしてしぜんのけいこうではない。
にんげんがそんなになさけぶかい、おもいやりのあるどうぶつであるとははなはだうけとりにくい。
ただよのなかにうまれてきたふぜいとして、ときどきこうさいのためになみだをながしてみたり、きのどくなかおをつくってみせたりするばかりである。
いわばごまかしせいひょうじょうで、みをいうとおおいたぼねがおれるげいじゅつである。
このごまかしをうまくやるものをげいじゅつてきりょうしんのつよいひととゆって、これはせけんからたいへんちんちょうされる。
だからひとからちんちょうされるにんげんほどあやしいものはない。
ためしてみればすぐわかる。
このてんにおいてしゅじんはむしろつたななぶるいにぞくするとゆってよろしい。
つたなだからちんちょうされない。
ちんちょうされないから、ないぶのれいたんをぞんがいかくすところもなくはっぴょうしている。
かれがたけみぎえもんくんにたいして「そうさな」をくりかえしているのでも這裏のしょうそくはよくわかる。
しょくんはれいたんだからとゆって、けっしてしゅじんのようなぜんにんをきらってはいけない。
れいたんはにんげんのほんらいのせいしつであって、そのせいしつをかくそうとりきめないのはしょうじきなひとである。
もししょくんがかかるさいにれいたんいじょうをのぞんだら、それこそにんげんをかいかぶったといわなければならない。
しょうじきですらふっていなよにそれいじょうをよきするのは、ばきんのしょうせつからしのやしょうぶんごがぬけだして、むこうさんけんりょうどなりへはっけんでんがひきこしたときでなくては、あてにならないむりなちゅうもんである。
しゅじんはまずこのくらいにして、つぎにはちゃのまでわらってるうなつらにとりかかるが、これはしゅじんのれいたんをいちほむこうへまたいで、こっけいのりょうぶんにおどりこんでうれしがっている。
このうなつらにはたけみぎえもんくんがずつうにやんでいるつやしょじけんが、ぶつだのふくいんのごとくありがたくおもわれる。
りゆうはないただありがたい。
しいてかいぼうすればたけみぎえもんくんがこまるのがありがたいのである。
しょくんおんなにむかってきいてごらん、「あなたはひとがこまるのをおもしろがってわらいますか」と。
きかれたひとはこのといをていしゅつしたものをばかというだろう、ばかといわなければ、わざとこんなといをかけてしゅくじょのひんせいをぶじょくしたというだろう。
ぶじょくしたとおもうのはじじつかもしれないが、ひとのこまるのをわらうのもじじつである。
であるとすれば、これからわたしのひんせいをぶじょくするようなことをじぶんでしておめにかけますから、なんとかゆっちゃいやよとことわるのといっぱんである。
ぼくはどろぼうをする。
しかしけっしてふどうとくとゆってはならん。
もしふどうとくだなどといえばぼくのかおへどろをぬったものである。
ぼくをぶじょくしたものである。
としゅちょうするようなものだ。
おんなはなかなかりこうだ、かんがえにすじみちがたっている。
いやしくもにんげんにうまれるいじょうはふんだり、けたり、どやされたりして、しかもひとがふりむきもせぬとき、へいきでいるかくごがひつようであるのみならず、つばをはきかけられ、くそをたれかけられたうえに、おおきなこえでわらわれるのをかいよくおもわなくてはならない。
それでなくてはかようにりこうなおんなとなのつくものとこうさいはできない。
たけみぎえもんせんせいもちょっとしたはずみから、とんだま違をしてだいにおそれいってはいるようなものの、かようにおそれいってるものをかげでわらうのはしっけいだとくらいはおもうかもしれないが、それはとしがいかないちきというもので、ひとがしつれいをしたときにおこるのをきがちいさいとせんぽうではなづけるそうだから、そういわれるのがいやならおとなしくするがよろしい。
さいごにたけみぎえもんくんのこころいきをちょっとしょうかいする。
きみはしんぱいのごんげである。
かのいだいなるずのうはなぽれおんのそれがこうみょうしんをもってじゅうまんせるがごとく、まさにしんぱいをもってはちきれんとしている。
ときどきそのだんごっはながぴくぴくうごくのはしんぱいががんめんしんけいにつたって、はんしゃさようのごとくむいしきにかつどうするのである。
かれはおおきなてつほうがんをのみくだしたごとく、はらのうちにいかんともすべからざるかたまりまりをだいて、このりょうさんにちしょちにきゅうしている。
そのせつなさのあまり、べつにふんべつのしゅっしょもないからかんとくとなのつくせんせいのところへでむいたら、どうかたすけてくれるだろうとおもって、いやなひとのいえへおおきなあたまをさげにまかりこしたのである。
かれはへいぜいがっこうでしゅじんにからかったり、どうきゅうせいをせんどうして、しゅじんをこまらしたりしたことはまるでわすれている。
いかにからかおうともこまらせようともかんとくとなのつくいじょうはしんぱいしてくれるにそういないとしんじているらしい。
ずいぶんたんじゅんなものだ。
かんとくはしゅじんがこのんでなったやくではない。
こうちょうのいのちによってやむをえずいただいている、いわば迷亭のおじさんのやまたかぼうしのしゅるいである。
ただなまえである。
ただなまえだけではどうすることもできない。
なまえがいざというばあいにやくにたつならゆきえさんはなまえだけでみあいができるわけだ。
たけみぎえもんくんはただにわがままなるのみならず、たにんはおのれれにむかってかならずしんせつでなくてはならんという、にんげんをかいかぶったかていからしゅったつしている。
わらわれるなどとは思もよらなかったろう。
たけみぎえもんくんはかんとくのいえへきて、きっとにんげんについて、いちのしんりをはつめいしたにそういない。
かれはこのしんりのためにしょうらいますますほんとうのにんげんになるだろう。
ひとのしんぱいにはれいたんになるだろう、ひとのこまるときにはおおきなこえでわらうだろう。
かくのごとくにしててんかはみらいのたけみぎえもんくんをもってみたされるであろう。
かねだくんおよびかねだれいふじんをもってみたされるであろう。
わがはいはせつにたけみぎえもんくんのためにしゅんじもはやくじかくしてまにんげんになられんことをきぼうするのである。
しからずんばいかにしんぱいするとも、いかにこうかいするとも、いかにぜんにうつるのこころがせつじつなりとも、とうていかねだくんのごときせいこうはえられんのである。
いなしゃかいはとおからずしてきみをにんげんのきょじゅうちいがいにほうちくするであろう。
ぶんめいちゅうがくのたいこうどころではない。
かようにかんがえておもしろいなとおもっていると、こうしががらがらとあいて、げんかんのしょうじのかげからかおがはんぶんぬうとでた。
「せんせい」
しゅじんはたけみぎえもんくんに「そうさな」をくりかえしていたところへ、せんせいとげんかんからよばれたので、だれだろうとそっちをみるとはんぶんほどすじ違にしょうじからはみだしているかおはまさしくかんげつくんである。
「おい、おはいいり」とゆったぎりすわっている。
「ごきゃくですか」とかんげつくんはやはりかおはんぶんでききかえしている。
「なにかまわん、まあごあがり」
「じつはちょっとせんせいをさそいにきたんですがね」
「どこへいくんだい。
またあかさかかい。
あのほうめんはもうごめんだ。
せんだってはむやみにあるかせられて、あしがぼうのようになった」
「きょうはだいじょうぶです。
ひさしぶりにでませんか」
「どこへでるんだい。
まあごあがり」
「うえのへいってとらのなきごえをきこうとおもうんです」
「つまらんじゃないか、それよりちょっとごのぼり」
かんげつくんはとうていえんぽうではだんぱんふちょうとおもったものか、くつをぬいでのそのそあがってきた。
れいのごとくねずみいろの、しりにつぎのあたったずぼんをはいているが、これはじだいのため、もしくはしりのおもいためにやぶれたのではない、ほんにんのべんかいによるとちかごろじてんしゃのけいこをはじめてきょくぶにひかくてきおおくのまさつをあたえるからである。
みらいのさいくんをもって矚目されたほんにんへぶんをつけたこいのあだとはゆめにもしらず、「やあ」とゆってたけみぎえもんくんにかるくえしゃくをして椽側へちかいところへざをしめた。
「とらのなきごえをきいたってなじらないじゃないか」
「ええ、いまじゃいけません、これからかたがたさんぽしてよるじゅういちじごろになって、うえのへいくんです」
「へえ」
「するとこうえんないのろうぼくはしんしんとしてものすごいでしょう」
「そうさな、ひるまよりすこしはさびしいだろう」
「それでなにでもなるべくきのしげった、ひるでもひとのとおらないところを択ってあるいていると、いつのまにかべにちりばんじょうのとかいにすんでるきはなくなって、やまのなかへまよいこんだようなこころもちになるにそういないです」
「そんなこころもちになってどうするんだい」
「そんなこころもちになって、しばらくたたずんでいるとたちまちどうぶつえんのうちで、とらがなくんです」
「そううまくなくかい」
「だいじょうぶなきます。
あのなきごえはひるでもりかだいがくへきこえるくらいなんですから、しんや闃寂として、よんもちひとなく、ききはだに逼って、すだまはなをつくさいに……」
「すだまはなをつくとはなにのことだい」
「そんなことをいうじゃありませんか、こわいときに」
「そうかな。
あんまりきかないようだが。
それで」
「それでとらがうえののろうすぎのはをことごとくふるいおとすようなぜいでなくでしょう。
ものすごいでさあ」
「そりゃものすごいだろう」
「どうですぼうけんにでかけませんか。
きっとゆかいだろうとおもうんです。
どうしてもとらのなきごえはよるなかにきかなくっちゃ、きいたとはいわれないだろうとおもうんです」
「そうさな」としゅじんはたけみぎえもんくんのあいがんにれいたんであるごとく、かんげつくんのたんけんにもれいたんである。
このときまでもくぜんとしてとらのはなしをうらやましそうにきいていたたけみぎえもんくんはしゅじんの「そうさな」でふたたびじぶんのみのうえをおもいだしたとみえて、「せんせい、ぼくはしんぱいなんですが、どうしたらいいでしょう」とまたききかえす。
かんげつくんはふしんなかおをしてこのおおきなあたまをみた。
わがはいはおもうしさいあってちょっとしっけいしてちゃのまへめぐる。
ちゃのまではさいくんがくすくすわらいながら、きょうしょうのやすちゃわんにばんちゃをろうろうとそそいで、あんちもにーのちゃたくのうえへのせて、
「ゆきえさん、はばかりさま、これをだしてきてください」
「わたし、いやよ」
「どうして」とさいくんはしょうしょうおどろきろいたからだでわらいをはたととめる。
「どうしてでも」とゆきえさんはやにすましたかおをそくせきにこしらえて、はたにあったよみうりしんぶんのうえにのしかかるようにめをおとした。
さいくんはもういちおうきょうしょうをはじめる。
「あらみょうなひとね。
かんげつさんですよ。
構やしないわ」
「でも、わたし、いやなんですもの」とよみうりしんぶんのうえからめをはなさない。
こんなときにいちじもよめるものではないが、よんでいないなどとあばかれたらまたなきだすだろう。
「ちっともはじかしいごとはないじゃありませんか」とこんどはさいくんわらいながら、わざとちゃわんをよみうりしんぶんのうえへおしやる。
ゆきえさんは「あらじんのあくるい」としんぶんをちゃわんのしたから、ぬこうとするひょうしにちゃたくにひきかかって、ばんちゃはえんりょなくしんぶんのうえからたたみのめへながれこむ。
「それごらんなさい」とさいくんがいうと、ゆきえさんは「あらたいへんだ」とだいどころへ馳けだしていった。
ぞうきんでももってくるりょうけんだろう。
わがはいにはこのきょうげんがちょっとおもしろかった。
かんげつくんはそれともしらずざしきでみょうなことをはなしている。
「せんせいしょうじをはりやすえましたね。
だれがはったんです」
「おんながはったんだ。
よくはれているだろう」
「ええなかなかうまい。
あのとき々おいでになるごじょうさんがごはりになったんですか」
「うんあれもてつだったのさ。
このくらいしょうじがはれればよめにいくしかくはあるとゆっていばってるぜ」
「へえ、なるほど」といいながらかんげつくんしょうじをみつめている。
「こっちのほうはたいらですが、みぎのはじはかみがあまってなみができていますね」
「あすこがはりたてのところで、もっともけいけんのとぼしいときにできのぼったところさ」
「なるほど、すこしごてぎわがおちますね。
あのひょうめんはちょうぜつてききょくせんでとうていふつうのふぁんくしょんではあらわせないです」と、りがくしゃだけにむずかしいことをいうと、しゅじんは
「そうさね」といいかげんなあいさつをした。
このようすではいつまでたんがんをしていても、とうていみこみがないとおもいきったたけみぎえもんくんはとつぜんかのいだいなるずがいこつをたたみのうえにおしつけて、むごんのうらにあんにけつべつのいをあらわした。
しゅじんは「かえるかい」とゆった。
たけみぎえもんくんはしょうぜんとしてさつまげたをひきずってもんをでた。
かあいそに。
うちゃっておくといわおあたまのぎんでもかいてけごんたきからとびこむかもしれない。
もとをただせばかねだれいじょうのはいからとなまいきからおこったことだ。
もしたけみぎえもんくんがしんだら、ゆうれいになってれいじょうをとりころしてやるがいい。
あんなものがせかいからいちにんやににんきえてなくなったって、だんしはすこしもこまらない。
かんげつくんはもっとれいじょうらしいのをもらうがいい。
「せんせいありゃせいとですか」
「うん」
「たいへんおおきなあたまですね。
がくもんはできますか」
「あたまのわりにはできないがね、ときどきみょうなしつもんをするよ。
こないだころんばすをやくしてくださいってだいによわった」
「まったくあたまがおおきすぎますからそんなよけいなしつもんをするんでしょう。
せんせいなんとおっしゃいました」
「ええ?なあにいいかげんなことをゆってやくしてやった」
「それでもやくすことはやくしたんですか、こりゃえらい」
「しょうきょうはなにでもやくしてやらないとしんようせんからね」
「せんせいもなかなかせいじかになりましたね。
しかしいまのようすでは、なんだかひじょうにげんきがなくって、せんせいをこまらせるようにはみえないじゃありませんか」
「きょうはすこしよわってるんだよ。
ばかなやっこだよ」
「どうしたんです。
なんだかちょっとみたばかりでひじょうにかわいそうになりました。
ぜんたいどうしたんです」
「なにぐなことさ。
かねだのむすめにつやしょをおくったんだ」
「え?あのだいあたまがですか。
ちかごろのしょせいはなかなかえらいもんですね。
どうもおどろきろいた」
「きみもしんぱいだろうが……」
「なにちっともしんぱいじゃありません。
かえっておもしろいです。
いくら、つやしょがふりこんだってだいじょうぶです」
「そうきみがあんしんしていればかまわないが……」
「かまわんですともわたしはいっこうかまいません。
しかしあのおおとがつやしょをかいたというには、すこしおどろきろきますね」
「それがさ。
じょうだんにしたんだよ。
あのむすめがはいからでなまいきだから、からかってやろうって、さんにんがきょうどうして……」
「さんにんがいちほんのてがみをかねだのれいじょうにやったんですか。
ますますきだんですね。
いちにんまえのせいようりょうりをさんにんでくうようなものじゃありませんか」
「ところがてわけがあるんだ。
いちにんがぶんしょうをかく、いちにんがとうかんする、いちにんがなまえをかす。
でいまきたのがなまえをかしたやつなんだがね。
これがいちばんぐだね。
しかもかねだのむすめのかおもみたことがないっていうんだぜ。
どうしてそんなむちゃなことができたものだろう」
「そりゃ、きんらいのだいできですよ。
けっさくですね。
どうもあのおおとが、おんなにぶんをやるなんておもしろいじゃありませんか」
「とんだま違にならあね」
「なになったって構やしません、あいてがかねだですもの」
「だってきみがもらうかもしれないひとだぜ」
「もらうかもしれないからかまわないんです。
なあに、かねだなんか、構やしません」
「きみはかまわなくっても……」
「なにかねだだって構やしません、だいじょうぶです」
「それならそれでいいとして、とうにんがあとになって、きゅうにりょうしんにせめられて、おそろしくなったものだから、だいにきょうしゅくしてぼくのうちへそうだんにきたんだ」
「へえ、それであんなにしょうしょうとしているんですか、きのちいさいことみえますね。
せんせいなんとかゆっておやんなすったんでしょう」
「ほんにんはたいこうになるでしょうかって、それをいちばんしんぱいしているのさ」
「なんでたいこうになるんです」
「そんなあくるい、ふどうとくなことをしたから」
「なに、ふどうとくというほどでもありませんやね。
構やしません。
かねだじゃめいよにおもってきっとふいちょうしていますよ」
「まさか」
「とにかくかあいそですよ。
そんなことをするのがわるいとしても、あんなにしんぱいさせちゃ、わかいおとこをいちにんころしてしまいますよ。
ありゃあたまはおおきいがにんそうはそんなにわるくありません。
はななんかぴくぴくさせてかわいいです」
「きみもおおいた迷亭みたようにのんきなことをいうね」
「なに、これがじだいしちょうです、せんせいはあまりむかししかぜだから、なにでもむずかしくかいしゃくなさるんです」
「しかしぐじゃないか、しりもしないところへ、いたずらにつやしょをおくるなんて、まるでじょうしきをかいてるじゃないか」
「いたずらは、たいがいじょうしきをかいていまさあ。
すくっておやんなさい。
くどくになりますよ。
あのようすじゃけごんのたきへでかけますよ」
「そうだな」
「そうなさい。
もっとおおきな、もっとふんべつのあるだいそうどもがそれどころじゃない、わるいいたずらをしてしらんめんをしていますよ。
あんなこをたいこうさせるくらいなら、そんなやつらをかたっぱしからほうちくでもしなくっちゃふこうへいでさあ」
「それもそうだね」
「それでどうですうえのへとらのなきごえをききにいくのは」
「とらかい」
「ええ、ききにいきましょう。
じつはにさんにちちゅうにちょっときこくしなければならないことができましたから、とうぶんどこへもごともはできませんから、きょうはぜひいっしょにさんぽをしようとおもってきたんです」
「そうかかえるのかい、ようじでもあるのかい」
「ええちょっとようじができたんです。
――ともかくもでようじゃありませんか」
「そう。
それじゃでようか」
「さあいきましょう。
きょうはわたしがばんさんをおごりますから、――それからうんどうをしてうえのへいくとちょうどよいこくげんです」としきりに促がすものだから、しゅじんもそのきになって、いっしょにでかけていった。
あとではさいくんとゆきえさんがえんりょのないこえでげらげらけらけらからからとわらっていた。
じゅういち
とこのまのまえにごばんをなかにすえて迷亭くんとどくせんくんがたいざしている。
「ただはやらない。
まけたほうがなにかおごるんだぜ。
いいかい」と迷亭くんがねんをおすと、どくせんくんはれいのごとくやぎひげをひっぱりながら、こうゆった。
「そんなことをすると、せっかくのきよし戯をぞくりょうしてしまう。
かけなどでしょうぶにこころをうばわれてはおもしろくない。
せいはいをどがいにおいて、しらくものしぜんに岫をででて冉々たるごときこころもちでいちきょくをりょうしてこそ、こちゅうのあじはわかるものだよ」
「またきたね。
そんなせんこつをあいてにしちゃしょうしょうほねがおれすぎる。
えんぜんたるれつせんでんちゅうのじんぶつだね」
「む絃のそきんをたまじさ」
「むせんのでんしんをかけかね」
「とにかく、やろう」
「きみがしろをもつのかい」
「どっちでもかまわない」
「さすがにせんにんだけあっておうようだ。
きみがしろならしぜんのじゅんじょとしてぼくはくろだね。
さあ、らいたまえ。
どこからでもきたまえ」
「くろからうつのがほうそくだよ」
「なるほど。
しからばけんそんして、じょうせきにここいらからいこう」
「じょうせきにそんなのはないよ」
「なくってもかまわない。
しんきはつめいのじょうせきだ」
わがはいはせけんがせまいからごばんというものはきんらいになってはじめてはいけんしたのだが、かんがえればかんがえるほどみょうにできている。
ひろくもないしかくないたをせまくるしくしかくにしきって、めがくらむほどごたごたとくろしろのいしをならべる。
そうしてかったとか、まけたとか、しんだとか、いきたとか、あぶらあせをながしてさわいでいる。
こうがいちしゃくしほうくらいのめんせきだ。
ねこのまえあしでかきちらしてもめちゃめちゃになる。
ひきよせてむすべばくさのあんにて、かいくればもとののはらなりけり。
はいらざるいたずらだ。
ふところでをしてばんをながめているほうがはるかにきらくである。
それもさいしょのさんよんじゅうもくは、いしのならべかたではべつだんめざわりにもならないが、いざてんかわけめというまぎわにのぞいてみると、いやはやごきのどくなありさまだ。
しろとくろがばんから、こぼれおちるまでにおしあって、ごかたみにぎゅーぎゅーゆっている。
きゅうくつだからとゆって、となりのやっこにどいてもらうわけにもいかず、じゃまだともうしてまえのせんせいにたいきょをめいずるけんりもなし、てんめいとあきらめて、じっとしてみうごきもせず、すくんでいるよりほかに、どうすることもできない。
ごをはつめいしたものはにんげんで、にんげんのしこうがきょくめんにあらわれるものとすれば、きゅうくつなるごいしのうんめいはせせこましいにんげんのせいしつをだいひょうしているとゆってもさしつかえない。
にんげんのせいしつがごいしのうんめいですいちすることができるものとすれば、にんげんとはてんくううみ濶のせかいを、わがからとちぢめて、おのれれのたつりょうあしいがいには、どうあってもふみだせぬように、こがたなざいくでじぶんのりょうぶんになわばりをするのがすきなんだとだんげんせざるをえない。
にんげんとはしいてくつうをもとめるものであるといちげんにひょうしてもよかろう。
のんきなる迷亭くんと、ぜんきあるどくせんくんとは、どういうりょうけんか、きょうにかぎってとだなからこごばんをひきずりだして、このあつくるしいいたずらをはじめたのである。
さすがにごりょうにんごそろいのことだから、さいしょのうちはかくじにんいのこうどうをとって、ばんのうえをしらいしとくろいしがじゆうじざいにとびかわしていたが、ばんのひろさにはかぎりがあって、よこたてのめもりはいちてごとにうまっていくのだから、いかにのんきでも、いかにぜんきがあっても、くるしくなるのはあたりまえである。
「迷亭くん、きみのごはらんぼうだよ。
そんなところへはいいってくるほうはない」
「ぜんぼうずのごにはこんなほうはないかもしれないが、ほんいんぼうのりゅうぎじゃ、あるんだからしかたがないさ」
「しかししぬばかりだぜ」
「しんしをだもじせず、いわんや※かたをやと、ひとつ、こういくかな」
「そうおいでになったと、よろしい。
くんぷうみなみよりきたって、しんがり閣微りょうをしょうず。
こう、ついでおけばだいじょうぶなものだ」
「おや、ついだのは、さすがにえらい。
まさか、つぐきやはなかろうとおもった。
ついで、くりゃるなやはたかねをと、こうやったら、どうするかね」
「どうするも、こうするもないさ。
いちけんてんに倚ってさむし――ええ、めんどうだ。
おもいきって、きってしまえ」
「やや、たいへんたいへん。
そこをきられちゃしんでしまう。
おいじょうだんじゃない。
ちょっとまった」
「それだから、さっきからいわんことじゃない。
こうなってるところへははいいれるものじゃないんだ」
「はいいってしっけいつかまつりこう。
ちょっとこのしろをとってくれたまえ」
「それもまつのかい」
「ついでにそのとなりのもひきあげてみてくれたまえ」
「ずうずうしいぜ、おい」
「Do you see the boy か。
――なにきみとぼくのあいだがらじゃないか。
そんなみずくさいことをいわずに、ひきあげてくれたまえな。
しぬかいきるかというばあいだ。
しばらく、しばらくってかどうから馳けだしてくるところだよ」
「そんなことはぼくはしらんよ」
「しらなくってもいいから、ちょっとどけたまえ」
「きみさっきから、ろくかえまったをしたじゃないか」
「きおくのいいおとこだな。
こうごはきゅうにばいしまったをつかまつりこう。
だからちょっとどけたまえというのだあね。
きみもよっぽどごうじょうだね。
ざぜんなんかしたら、もうすこしはけそうなものだ」
「しかしこのいしでもころさなければ、ぼくのほうはすこしまけになりそうだから……」
「きみはさいしょからまけてもかまわないりゅうじゃないか」
「ぼくはまけてもかまわないが、くんにはかたしたくない」
「とんだごどうだ。
あいかわらずしゅんぷうかげうらにでんこうをきってるね」
「しゅんぷうかげうらじゃない、でんこうかげうらだよ。
きみのはぎゃくだ」
「ははははもうたいていぎゃくかになっていいじぶんだとおもったら、やはりたしかなところがあるね。
それじゃしかたがないあきらめるかな」
「せいしじだい、むじょうじんそく、あきらめるさ」
「あーめん」と迷亭せんせいこんどはまるでかんけいのないほうめんへぴしゃりといっせきをくだした。
とこのまのまえで迷亭くんとどくせんくんがいっしょうけんめいにゆえいをあらそっていると、ざしきのいりぐちには、かんげつくんととうふうくんがそうならんでそのはたにしゅじんがきいろいかおをしてすわっている。
かんげつくんのまえにかつおぶしがさんほん、はだかのままたたみのうえにぎょうぎよくはいれつしてあるのはきかんである。
このかつおぶしのしゅっしょはかんげつくんのふところで、とりだしたときはだんたかく、てのひらにかんじたくらい、はだかながらぬくもっていた。
しゅじんととうふうくんはみょうなめをしてしせんをかつおぶしのうえにそそいでいると、かんげつくんはやがてくちをひらいた。
「じつはよんにちばかりまえにくにからかえってきたのですが、いろいろようじがあって、かたがた馳けあるいていたものですから、ついあがられなかったのです」
「そういそいでくるにはおよばないさ」としゅじんはれいのごとくぶあいきょうなことをいう。
「いそいでくんでもいいのですけれども、このおみやげをはやくけんじょうしないとしんぱいですから」
「かつおぶしじゃないか」
「ええ、くにのめいさんです」
「めいさんだってとうきょうにもそんなのはありそうだぜ」としゅじんはいちばんおおきなやつをいちほんとりあげて、はなのさきへもっていってにおいをかいでみる。
「かいだって、かつおぶしのぜんあくはわかりませんよ」
「すこしおおきいのがめいさんたるゆえんかね」
「まあたべてごらんなさい」
「たべることはどうせたべるが、こいつはなんだかさきがかけてるじゃないか」
「それだからはやくもってこないとしんぱいだというのです」
「なぜ?」
「なぜって、そりゃねずみがくったのです」
「そいつはきけんだ。
めったにくうとぺすとになるぜ」
「なにだいじょうぶ、そのくらいかじったってがいはありません」
「ぜんたいどこで噛ったんだい」
「ふねのなかでです」
「ふねのなか?どうして」
「いれるところがなかったから、ゔぁいおりんといっしょにふくろのなかへいれて、ふねへのったら、そのばんにやられました。
かつおぶしだけなら、いいのですけれども、たいせつなゔぁいおりんのどうをかつおぶしとまちがえてやはりしょうしょう噛りました」
「そそっかしいねずみだね。
ふねのなかにすんでると、そうみさかいがなくなるものかな」としゅじんはだれにもわからんことをゆっていぜんとしてかつおぶしをながめている。
「なにねずみだから、どこにすんでてもそそっかしいのでしょう。
だからげしゅくへもってきてもまたやられそうでね。
けんのんだからよるるはねどこのなかへいれてねました」
「すこしきたないようだぜ」
「だからたべるときにはちょっとおあらいなさい」
「ちょっとくらいじゃきれいにゃなりそうもない」
「それじゃあくでもつけて、ごしごしみがいたらいいでしょう」
「ゔぁいおりんもだいてねたのかい」
「ゔぁいおりんはおおきすぎるからだいてねるわけにはいかないんですが……」といいかけると
「なんだって?ゔぁいおりんをだいてねたって?それはふうりゅうだ。
いくはるやおもたきびわのだきしんというくもあるが、それはとおきそのうえのことだ。
めいじのしゅうさいはゔぁいおりんをだいてねなくっちゃこじんをしのぐわけにはいかないよ。
かいまきにながきよるまもるやゔぁいおりんはどうだい。
とうふうくん、しんたいしでそんなことがうんえるかい」とむこうのほうから迷亭せんせいおおきなこえでこっちのだんわにもかんけいをつける。
とうふうくんはまじめで「しんたいしははいくとちがってそうきゅうにはできません。
しかしできたあかつきにはもうすこしいきりょうのきびにふれたみょうおんがでます」
「そうかね、いきりょうはおがらをたいてむかえまつるものとおもってたが、やっぱりしんたいしのちからでもごらいりんになるかい」と迷亭はまだごをそっちのけにしてちょう戯ている。
「そんなむだぐちをたたくとまたまけるぜ」としゅじんは迷亭にちゅういする。
迷亭はへいきなもので
「かちたくても、まけたくても、あいてがかまなかのたこどうぜんてもあしもだせないのだから、ぼくもぶりょうでやむをえずゔぁいおりんのごなかまをつかまつるのさ」というと、あいてのどくせんくんはいささかげきしたちょうしで
「こんどはきみのばんだよ。
こっちでまってるんだ」といいはなった。
「え?もううったのかい」
「うったとも、とうにうったさ」
「どこへ」
「このしろをはすにのばした」
「なあるほど。
このしろをはすにのばしてまけにけりか、そんならこっちはと――こっちは――こっちはこっちはとてくれにけりと、どうもいいてがないね。
きみもういちかえうたしてやるからかってなところへいちめうちたまえ」
「そんなごがあるものか」
「そんなごがあるものかならうちましょう。
――それじゃこのかどじめんへちょっとまがっておくかな。
――かんげつくん、きみのゔぁいおりんはあんまりやすいからねずみがばかにして噛るんだよ、もうすこしいいのをふんぱつしてかうさ、ぼくが以太とぎあからさんひゃくねんまえのふるものをとりよせてやろうか」
「どうかねがいます。
ついでにおはらいのほうもねがいたいもので」
「そんなふるいものがやくにたつものか」となににもしらないしゅじんはいっかつにして迷亭くんをきわめつけた。
「きみはにんげんのふるものとゔぁいおりんのふるものとどういつししているんだろう。
にんげんのふるものでもかねだぼうのごときものはいまだにりゅうこうしているくらいだから、ゔぁいおりんにいたってはふるいほどがいいのさ。
――さあ、どくせんくんどうかおはやくねがおう。
けいまさのせりふじゃないがあきのひはくれやすいからね」
「きみのようなせわしないおとことごをうつのはくつうだよ。
かんがえるひまもなにもありゃしない。
しかたがないから、ここへひとめいれてめにしておこう」
「おやおや、とうとういかしてしまった。
おしいことをしたね。
まさかそこへはうつまいとおもって、いささかだべんをふってかんたんをくだいていたが、やっぱりだめか」
「あたりまえさ。
きみのはうつのじゃない。
ごまかすのだ」
「それがほんいんぼうりゅう、かねだりゅう、とうせいしんしりゅうさ。
――おいくさやせんせい、さすがにどくせんくんはかまくらへいってまんねん漬をくっただけあって、ものにどうじないね。
どうもたかし々ふく々だ。
ごはまずいが、どきょうは据ってる」
「だからきみのようなどきょうのないおとこは、すこしまねをするがいい」としゅじんがうしろむこうのままでこたえるやいなや、迷亭くんはおおきなあかいしたをぺろりとだした。
どくせんくんはごうもかんせざるもののごとく、「さあきみのばんだ」とまたあいてをうながした。
「きみはゔぁいおりんをいつころからはじめたのかい。
ぼくもすこしならおうとおもうのだが、よっぽどむずかしいものだそうだね」ととうふうくんがかんげつくんにきいている。
「うむ、いちととおりならだれにでもできるさ」
「おなじげいじゅつだからしかのしゅみのあるものはやはりおんがくのほうでもじょうたつがはやいだろうと、ひそかに恃むところがあるんだが、どうだろう」
「いいだろう。
きみならきっとじょうずになるよ」
「きみはいつころからはじめたのかね」
「こうとうがっこうじだいさ。
――せんせいわたししのゔぁいおりんをならいだしたてんまつをおはなししたことがありましたかね」
「いいえ、まだきかない」
「こうとうがっこうじだいにせんせいでもあってやりだしたのかい」
「なあにせんせいもなにもありゃしない。
どくしゅうさ」
「まったくてんさいだね」
「どくしゅうならてんさいとかぎったこともなかろう」とかんげつくんはつんとする。
てんさいといわれてつんとするのはかんげつくんだけだろう。
「そりゃ、どうでもいいが、どういうかぜにどくしゅうしたのかちょっときかしたまえ。
さんこうにしたいから」
「はなしてもいい。
せんせいはなしましょうかね」
「ああはなしたまえ」
「いまではわかいひとがゔぁいおりんのはこをさげて、よくおうらいなどをあるいておりますが、そのじぶんはこうとうがっこうせいでせいようのおんがくなどをやったものはほとんどなかったのです。
ことにわたしのおったがっこうはいなかのいなかであさうらぞうりさえないというくらいなしつぼくなところでしたから、がっこうのせいとでゔぁいおりんなどをひくものはもちろんいちにんもありません。
……」
「なんだかおもしろいはなしがむこうではじまったようだ。
どくせんくんいいかげんにきりあげようじゃないか」
「まだかたづかないところがにさんかしょある」
「あってもいい。
たいがいなところなら、くんにしんじょうする」
「そうゆったって、もらうわけにもいかない」
「ぜんがくしゃにもにあわんきちょうめんなおとこだ。
それじゃいっきかせいにやっちまおう。
――かんげつくんなんだかよっぽどおもしろそうだね。
――あのこうとうがっこうだろう、せいとがはだしでとうこうするのは……」
「そんなことはありません」
「でも、みななはだしでへいしきたいそうをして、まわれみぎをやるんであしのかわがたいへんあつくなってるというはなしだぜ」
「まさか。
だれがそんなことをいいました」
「だれでもいいよ。
そうしてべんとうにはいだいなるにぎりめしをいちこ、なつみかんのようにこしへぶらさげてきて、それをくうんだっていうじゃないか。
くうというよりむしろくいつくんだね。
するとちゅうしんからうめぼしがいちこでてくるそうだ。
このうめぼしがでるのをたのしみにしおけのないしゅういをいっしんふらんにくいかいてとっしんするんだというが、なるほどげんきおうせいなものだね。
どくせんくん、きみのきにいりそうなはなしだぜ」
「しつぼくごうけんでたのもしいきふうだ」
「まだたのもしいことがある。
あすこにははいふききがないそうだ。
ぼくのゆうじんがあすこへほうしょくをしているころとげっぽうのしるしのあるはいふききをかいにでたところが、とげっぽうどころか、はいふきとなづくべきものがいちこもない。
ふしぎにおもって、きいてみたら、はいふききなどはうらのやぶへいってきってくればだれにでもできるから、うるひつようはないとすましてこたえたそうだ。
これもしつぼくごうけんのきふうをあらわすびたんだろう、ねえどくせんくん」
「うむ、そりゃそれでいいが、ここへだめをひとついれなくちゃいけない」
「よろしい。
だめ、だめ、だめと。
それでかたづいた。
――ぼくはそのはなしをきいて、じつにおどろいたね。
そんなところできみがゔぁいおりんをどくしゅうしたのはみあげたものだ。
※どくにしてふ羣なりとすわえじにあるがかんげつくんはまったくめいじの屈原だよ」
「屈原はいやですよ」
「それじゃこんせいきのうぇるてるさ。
――なにせきをあげてかんじょうをしろ?やにものがたいせいしつだね。
かんじょうしなくってもぼくはまけてるからたしかだ」
「しかしきまりがつかないから……」
「それじゃきみやってくれたまえ。
ぼくはかんじょうしょじゃない。
いちだいのさいじんうぇるてるくんがゔぁいおりんをならいだしたいつわをきかなくっちゃ、せんぞへすまないからしっけいする」とせきをはずして、かんげつくんのほうへすりだしてきた。
どくせんくんはたんねんにしろいしをとってはしろのあなをうめ、くろいしをとってはくろのあなをうめて、しきりにくちのうちでけいさんをしている。
かんげつくんははなしをつづける。
「とちがらがすでにとちがらだのに、わたしのくにのものがまたひじょうにがんこなので、すこしでもにゅうじゃくなものがおっては、たけんのせいとにがいぶんがわるいとゆって、むやみにせいさいをげんじゅうにしましたから、ずいぶんやっかいでした」
「きみのくにのしょせいときたら、ほんとうにはなせないね。
がんらいなにだって、こんのむじのはかまなんぞはくんだい。
だいいちあれからしておつだね。
そうしてしおふうにふかれつけているせいか、どうも、いろがくろいね。
おとこだからあれですむがおんながあれじゃさぞかしこまるだろう」と迷亭くんがいちにんはいいるとかんじんのはなしはどっかへとんでいってしまう。
「おんなもあのとおりくろいのです」
「それでよくもらいてがあるね」
「だっていちこくちゅうことごとくくろいのだからしかたがありません」
「いんがだね。
ねえにがさやくん」
「くろいほうがいいだろう。
しょうじしろいとかがみをみるたんびにおのれ惚がでていけない。
おんなというものはしまつにおえないぶっけんだからなあ」としゅじんは喟然としてたいそくをもらした。
「だっていちこくちゅうことごとくくろければ、くろいほうでうぬぼれはしませんか」ととうふうくんがもっともなしつもんをかけた。
「ともかくもおんなはぜんぜんふひつようなものだ」としゅじんがいうと、
「そんなことをいうとさいくんがあとでごきげんがわるいぜ」とわらいながら迷亭せんせいがちゅういする。
「なにだいじょうぶだ」
「いないのかい」
「しょうきょうをつれて、さっきでかけた」
「どうれでしずかだとおもった。
どこへいったのだい」
「どこだかわからない。
かってにでてあるくのだ」
「そうしてかってにかえってくるのかい」
「まあそうだ。
きみはどくしんでいいなあ」というととうふうくんはしょうしょうふへいなかおをする。
かんげつくんはにやにやとわらう。
迷亭くんは
「つまをもつとみんなそういうきになるのさ。
ねえどくせんくん、きみなどもさいくんなんのほうだろう」
「ええ?ちょっとまった。
よんろくにじゅうよん、にじゅうご、にじゅうろく、にじゅうななと。
せまいとおもったら、よんじゅうろくもくあるか。
もうすこしかったつもりだったが、こしらえてみると、たったじゅうはちもくのさか。
――なにだって?」
「きみもさいくんなんだろうというのさ」
「あははははべつだんなんでもないさ。
ぼくのつまはがんらいぼくをあいしているのだから」
「そいつはしょうしょうしっけいした。
それでこそどくせんくんだ」
「どくせんくんばかりじゃありません。
そんなれいはいくらでもありますよ」とかんげつくんがてんかのさいくんにかわってちょっとべんごのろうをとった。
「ぼくもかんげつくんにさんせいする。
ぼくのこうではにんげんがぜったいのいきにはいるには、ただふたつのみちがあるばかりで、そのふたつのみちとはげいじゅつとこいだ。
ふうふのあいはそのひとつをだいひょうするものだから、にんげんはぜひけっこんをして、このこうふくをかんうしなければてんいにそむくわけだとおもうんだ。
――がどうでしょうせんせい」ととうふうくんはあいかわらずまじめで迷亭くんのほうへむきなおった。
「ぎょめいろんだ。
ぼくなどはとうていぜったいのさかいにはいいれそうもない」
「つまをもらえばなおはいいれやしない」としゅじんはむずかしいかおをしてゆった。
「ともかくもわれわれみこんのせいねんはげいじゅつのれいきにふれてこうじょうのいちろをかいたくしなければじんせいのいぎがわからないですから、まずてはじめにゔぁいおりんでもならおうとおもってかんげつくんにさっきからけいけんたんをきいているのです」
「そうそう、うぇるてるくんのゔぁいおりんものがたりをはいちょうするはずだったね。
さあはなしたまえ。
もうじゃまはしないから」と迷亭くんがようやくほうぼうをおさめると、
「こうじょうのいちろはゔぁいおりんなどであけるものではない。
そんなゆうぎさんまいでうちゅうのしんりがしれてはたいへんだ。
這裡のしょうそくをしろうとおもえばやはりけんがいにてを撒して、ぜつごにふたたびよみがええるそこのきはくがなければだめだ」とどくせんくんはもったいふって、とうふうくんにくんかいじみたせっきょうをしたのはよかったが、とうふうくんはぜんしゅうのぜのじもしらないおとこだからとみとかんしんしたようすもなく
「へえ、そうかもしれませんが、やはりげいじゅつはにんげんのかつごうのきょくちをあらわしたものだとおもいますから、どうしてもこれをすてるわけにはまいりません」
「すてるわけにいかなければ、おのぞみどおりぼくのゔぁいおりんだんをしてきかせることにしよう、でいまはなすとおりのしだいだからぼくもゔぁいおりんのけいこをはじめるまでにはおおいたくしんをしたよ。
だいいちかうのにこまりましたよせんせい」
「そうだろうあさうらぞうりがないとちにゔぁいおりんがあるはずがない」
「いえ、あることはあるんです。
きんもまえからよういしてためたからさしつかえないのですが、どうもかえないのです」
「なぜ?」
「せまいとちだから、かっておればすぐみつかります。
みつかれば、すぐなまいきだというのでせいさいをくわえられます」
「てんさいはむかしからはくがいをくわえられるものだからね」ととうふうくんはだいにどうじょうをあらわした。
「またてんさいか、どうかてんさいよばわりだけはごめんこうむりたいね。
それでねまいにちさんぽをしてゔぁいおりんのあるみせさきをとおるたびにあれがかえたらよかろう、あれをてにかかえたこころもちはどんなだろう、ああほしい、ああほしいとおもわないひはいちにちもなかったのです」
「もっともだ」とひょうしたのは迷亭で、「みょうにこったものだね」とかいしかねたのがしゅじんで、「やはりきみ、てんさいだよ」とけいふくしたのはとうふうくんである。
ただどくせんくんばかりはちょうぜんとしてひげをよしている。
「そんなところにどうしてゔぁいおりんがあるかがだいいちごふしんかもしれないですが、これはかんがえてみるとあたりまえのことです。
なぜというとこのちほうでもじょがっこうがあって、じょがっこうのせいとはかぎょうとしてまいにちゔぁいおりんをけいこしなければならないのですから、あるはずです。
むろんいいのはありません。
ただゔぁいおりんというながかろうじてつくくらいのものであります。
だからみせでもあまりおもきをおいていないので、にさんてこいっしょにてんとうへつるしておくのです。
それがね、ときどきさんぽをしてまえをとおるときにかぜがふきつけたり、こぞうのてがさわったりして、そらおとをだすことがあります。
そのおとをきくときゅうにしんぞうがはれつしそうなこころもちで、いてもたってもいられなくなるんです」
「きけんだね。
みずてんかん、ひとてんかんとてんかんにもいろいろしゅるいがあるがきみのはうぇるてるだけあって、ゔぁいおりんてんかんだ」と迷亭くんがひやかすと、
「いやそのくらいかんかくがえいびんでなければしんのげいじゅつかにはなれないですよ。
どうしてもてんさいはだだ」ととうふうくんはいよいよかんしんする。
「ええじっさいてんかんかもしれませんが、しかしあのねいろだけはきたいですよ。
そのごきょうまでずいぶんひきましたがあのくらいうつくしいおとがでたことがありません。
そうさなにとけいようしていいでしょう。
とうていいいあらわせないです」
「琳琅※鏘としてなるじゃないか」とむずかしいことをもちだしたのはどくせんくんであったが、だれもとりあわなかったのはきのどくである。
「わたしがまいにちまいにちてんとうをさんぽしているうちにとうとうこのれいいなおとをさんどききました。
さんどめにどうあってもこれはかわなければならないとけっしんしました。
たとえくにのものからけんせきされても、たけんのものからけいべつされても――よしてっけんせいさいのためにぜっそくしても――まかりまちがってたいこうのしょぶんをうけても――、こればかりはかわずにいられないとおもいました」
「それがてんさいだよ。
てんさいでなければ、そんなにおもいこめるわけのものじゃない。
ともしい。
ぼくもどうかして、それほどもうれつなかんじをおこしてみたいとねんらいこころがけているが、どうもいけないね。
おんがくかいなどへいってできるだけねっしんにきいているが、どうもそれほどにかんきょうがのらない」ととうふうくんはしきりにともやましがっている。
「のらないほうがしあわせだよ。
いまでこそへいきではなすようなもののそのときのくるしみはとうていそうぞうができるようなしゅるいのものではなかった。
――それからせんせいとうとうふんぱつしてかいました」
「ふむ、どうして」
「ちょうどじゅういちがつのてんちょうせつのまえのばんでした。
くにのものはそろってとまりがけにおんせんにいきましたから、いちにんもいません。
わたしはびょうきだとゆって、そのひはがっこうもやすんでねていました。
こんばんこそひとつでていってけんてのぞみのゔぁいおりんをてにいれようと、ゆかのなかでそのことばかりかんがえていました」
「にせびょうをつかってがっこうまでやすんだのかい」
「まったくそうです」
「なるほどすこしてんさいだね、こりゃ」と迷亭きみもしょうしょうおそれいったようすである。
「やぐのなかからくびをだしていると、ひぐれがまちとおでたまりません。
しかたがないからあたまからもぐりこんで、めをねむってまってみましたが、やはりだめです。
くびをだすとはげしいあきのひが、ろくしゃくのしょうじへいちめんにあたって、かんかんするにはかんしゃくがおこりました。
うえのほうにほそながいかげがかたまって、ときどきあきかぜにゆすれるのがめにつきます」
「なんだい、そのほそながいかげというのは」
「しぶがきのかわをむいて、のきへつるしておいたのです」
「ふん、それから」
「しかたがないから、ゆかをでてしょうじをあけて椽側へでて、しぶがきのあまぼしをひとつとってくいました」
「うまかったかい」としゅじんはしょうきょうみたようなことをきく。
「うまいですよ、あのあたりのかきは。
とうていとうきょうなどじゃあのあじはわかりませんね」
「かきはいいがそれから、どうしたい」とこんどはとうふうくんがきく。
「それからまたもぐってめをふさいで、はやくひがくれればいいがと、ひそかにしんぶつにねんじてみた。
やくさんよんじかんもたったとおもうころ、もうよかろうと、くびをだすとあにはからんやはげしいあきのひはいぜんとしてろくしゃくのしょうじをてらしてかんかんする、うえのほうにほそながいかげがかたまって、ふわふわする」
「そりゃ、きいたよ」
「なにかえもあるんだよ。
それからゆかをでて、しょうじをあけて、あまぼしのかきをひとつくって、またねどこへはいいって、はやくひがくれればいいと、ひそかにしんぶつにきねんをこらした」
「やっぱりもとのところじゃないか」
「まあせんせいそうあせかずにきいてください。
それからやくさんよんじかんやぐのなかでしんぼうして、こんどこそもうよかろうとぬっとくびをだしてみると、はげしいあきのひはいぜんとしてろくしゃくのしょうじへいちめんにあたって、うえのほうにほそながいかげがかたまって、ふわふわしている」
「いつまでいってもおなじことじゃないか」
「それからゆかをでてしょうじをあけて、椽側へでてあまぼしのかきをひとつくって……」
「またかきをくったのかい。
どうもいつまでいってもかきばかりくっててさいげんがないね」
「わたしもじれったくてね」
「きみよりきいてるほうがよっぽどじれったいぜ」
「せんせいはどうもせいきゅうだから、はなしがしにくくってこまります」
「きくほうもすこしはこまるよ」ととうふうきみもあんにふへいをもらした。
「そうしょくんがおこまりとあるいじょうはしかたがない。
たいていにしてきりあげましょう。
ようするにわたしはあまぼしのかきをくってはもぐり、もぐってはくい、とうとうのきばにつるしたやつをみんなくってしまいました」
「みんなくったらひもくれたろう」
「ところがそういかないので、わたしがさいごのあまぼしをくって、もうよかろうとくびをだしてみると、あいかわらずはげしいあきのひがろくしゃくのしょうじへいちめんにあたって……」
「ぼくあ、もうごめんだ。
いつまでいってもはてしがない」
「はなすわたしもあきあきします」
「しかしそのくらいこんきがあればたいていのじぎょうはじょうじゅするよ。
だまってたら、あしたのあさまであきのひがかんかんするんだろう。
ぜんたいいつころにゔぁいおりんをかうきなんだい」とさすがの迷亭きみもすこししんぼうしきれなくなったとみえる。
ただどくせんくんのみはたいぜんとして、あしたのあさまででも、あさってのあさまででも、いくらあきのひがかんかんしてもどうずるけしきはさらにない。
かんげつくんもおちつきはらったもので
「いつかうきだとおっしゃるが、ばんになりさえすれば、すぐかいにでかけるつもりなのです。
ただざんねんなことには、いつとうをだしてみてもあきのひがかんかんしているものですから――いえそのときのわたししのくるしみとゆったら、とうていいまあなたかたのごじれになるどころのさわぎじゃないです。
わたしはさいごのあまひをくっても、まだひがくれないのをみて、※しかとしておもわずなきました。
とうふうくん、ぼくはじつになさけなくってないたよ」
「そうだろう、げいじゅつかはほんらいたじょうたこんだから、ないたことにはどうじょうするが、はなしはもっとはやくしんこうさせたいものだね」ととうふうくんはひとがいいから、どこまでもまじめでこっけいなあいさつをしている。
「しんこうさせたいのはやまやまだが、どうしてもひがくれてくれないものだからこまるのさ」
「そうひがくれなくちゃきくほうもこまるからやめよう」としゅじんがとうとうがまんがしきれなくなったとみえていいだした。
「やめちゃなおこまります。
これからがいよいよかきょうにはいるところですから」
「それじゃきくから、はやくひがくれたことにしたらよかろう」
「では、すこしごむりなごちゅうもんですが、せんせいのことですから、まげて、ここはひがくれたことにいたしましょう」
「それはこうつごうだ」とどくせんくんがすましてのべられたのでいちどうはおもわずどっとふきだした。
「いよいよよるにはいったので、まずあんしんとほっとひといきついてくらかかむらのげしゅくをでました。
わたしはせいらいそうぞうしいところがいやですから、わざとべんりなしないをさけて、ひと迹稀なかんそんのひゃくしょうかにしばらくかぎゅうのあんをむすんでいたのです……」
「ひと迹のまれなはあんまりおおげさだね」としゅじんがこうぎをもうしこむと「かぎゅうのあんもぎょうさんだよ。
とこのまなしのよじょうはんくらいにしておくほうがしゃせいてきでおもしろい」と迷亭きみもくじょうをもちだした。
とうふうくんだけは「じじつはどうでもげんごがしてきでかんじがいい」とほめた。
どくせんくんはまじめなかおで「そんなところにすんでいてはがっこうへかようのがたいへんだろう。
なにさとくらいあるんですか」ときいた。
「がっこうまではたったよんごちょうです。
がんらいがっこうからしてかんそんにあるんですから……」
「それじゃがくせいはそのあたりにだいぶやどをとってるんでしょう」とどくせんくんはなかなかしょうちしない。
「ええ、たいていなひゃくしょうかにはいちにんやににんはかならずいます」
「それでひと迹稀なんですか」としょうめんこうげきをくわせる。
「ええがっこうがなかったら、まったくひと迹はまれですよ。
……でとうやのふくそうというと、ておりもめんのめんいりのうえへきんぼたんのせいふくがいとうをきて、がいとうのずきんをすぽりとおおってなるべくひとのめにつかないようなちゅういをしました。
おりがらかきらくようのじせつでやどからなんごうかいどうへでるまではこのはでみちがいちはいです。
いちほはこぶごとにがさがさするのがきにかかります。
だれかあとをつけてきそうでたまりません。
ふりむいてみるとひがしみねてらのもりがこんもりとくろく、くらいなかにくらくうつっています。
このひがしみねてらというのはまつだいらかのぼだいしょで、こうしんやまのふもとにあって、わたしのやどとはいちちょうくらいしか隔っていない、すこぶるゆうすいなぼんさつです。
もりからうえはのべつまくなしのほしづきよで、れいのあまのがわがながせがわをすじ違によこぎってすえは――すえは、そうですね、まずぬの哇のほうへながれています……」
「ぬの哇はとっぴだね」と迷亭くんがゆった。
「なんごうかいどうをついににちょうきて、たかうてなまちからしないにはいいって、ふるしろまちをとおって、せんごくまちをまがって、ほうじろまちをよこにみて、かよいまちをいちちょうめ、にちょうめ、さんちょうめとじゅんにとおりこして、それからおわりまち、なごやまち、しゃちほこまち、かまぼこまち……」
「そんなにいろいろなまちをとおらなくてもいい。
ようするにゔぁいおりんをかったのか、かわないのか」としゅじんがじれったそうにきく。
「がっきのあるみせはきむよしすなわちかねこよしひょうえかたですから、まだなかなかです」
「なかなかでもいいからはやくかうがいい」
「かしこまりました。
それできむよしかたへきてみると、みせにはらんぷがかんかんともって……」
「またかんかんか、きみのかんかんはいちどやにどですまないんだからなんじゅうするよ」とこんどは迷亭がよぼうせんをはった。
「いえ、こんどのかんかんは、ほんのとおりいちかえのかんかんですから、べつだんごしんぱいにはおよびません。
……ほかげにすかしてみるとれいのゔぁいおりんが、ほのかにあきのあかりをはんしゃして、くりこんだどうのまるみにつめたいひかりをおびています。
つよくはったきんせんのいちぶだけがきらきらとしろくめにうつります。
……」
「なかなかじょじゅつがうまいや」ととうふうくんがほめた。
「あれだな。
あのゔぁいおりんだなとおもうと、きゅうにどうきがしてあしがふらふらします……」
「ふふん」とどくせんくんがはなでわらった。
「おもわず馳けこんで、こもふくろからがまぐちをだして、がまぐちのなかからごえんさつをにまいだして……」
「とうとうかったかい」としゅじんがきく。
「かおうとおもいましたが、まてしばし、ここがかんじんのところだ。
めったなことをしてはしっぱいする。
まあよそうと、きわどいところでおもいとまりました」
「なんだ、まだかわないのかい。
ゔぁいおりんいちてこでなかなかひとをひっぱるじゃないか」
「ひっぱるわけじゃないんですが、どうも、まだかえないんですからしかたがありません」
「なぜ」
「なぜって、まだよいのくちでひとがたいせいとおるんですもの」
「かまわんじゃないか、ひとがにひゃくやさんひゃくかよったって、きみはよっぽどみょうなおとこだ」としゅじんはぷんぷんしている。
「ただのひとならせんがにせんでもかまいませんがね、がっこうのせいとがうでまくりをして、おおきなすてっきをもってはいかいしているんだからよういにてをだせませんよ。
なかにはちんでんとうなどとごうして、いつまでもくらすのそこにたまってよろこんでるのがありますからね。
そんなのにかぎってじゅうどうはつよいのですよ。
めったにゔぁいおりんなどにてだしはできません。
どんなめにあうかわかりません。
わたしだってゔぁいおりんはほしいにそういないですけれども、いのちはこれでもおしいですからね。
ゔぁいおりんをひいてころされるよりも、ひかずにいきてるほうがらくですよ」
「それじゃ、とうとうかわずにやめたんだね」としゅじんがねんをおす。
「いえ、かったのです」
「じれったいおとこだな。
かうならはやくかうさ。
いやならいやでいいから、はやくかたをつけたらよさそうなものだ」
「えへへへへ、よのなかのことはそう、こっちのおもうようにらちがあくもんじゃありませんよ」といいながらかんげつくんはれいぜんと「あさひ」へひをつけてふかしだした。
しゅじんはめんどうになったとみえて、ついとたってしょさいへはいいったとおもったら、なんだかふるぼけたようしょをいちさつもちだしてきて、ごろりとはら這になってよみはじめた。
どくせんくんはいつのまにやら、とこのまのまえへたいきょして、ひとりでごいしをならべていちにんすもうをとっている。
せっかくのいつわもあまりながくかかるのでききてがいちにんへりににんへって、のこるはげいじゅつにちゅうじつなるとうふうくんと、ながいことにかつてへきえきしたことのない迷亭せんせいのみとなる。
ながいけむりをふうとよのなかへえんりょなくふきだしたかんげつくんは、やがてぜんどうようのそくどをもってだんわをつづける。
「とうふうくん、ぼくはそのときこうおもったね。
とうていこりゃよいのくちはだめだ、とゆってまよなかにくればきむよしはねてしまうからなおだめだ。
なにでもがっこうのせいとがさんぽからかえりつくして、そうしてきむよしがまだねないときをみはからってこなければ、せっかくのけいかくがすいほうにきする。
けれどもそのじかんをうまくみけいうのがむずかしい」
「なるほどこりゃむずかしかろう」
「でぼくはそのじかんをまあじゅうじごろとみつもったね。
それでいまからじゅうじごろまでどこかでくらさなければならない。
うちへかえってでなおすのはたいへんだ。
ともだちのうちへはなしにいくのはなんだかきがとがめるようでおもしろくなし、しかたがないからそうとうのじかんがくるまでしちゅうをさんぽすることにした。
ところがへいぜいならばにじかんやさんじかんはぶらぶらあるいているうちに、いつのまにかたってしまうのだがそのよるにかぎって、じかんのたつのがおそいのなにのって、――せんしゅうの思とはあんなことをいうのだろうと、しみじみかんじました」とさもかんじたらしいかぜをしてわざと迷亭せんせいのほうをむく。
「こじんをまつみにつらきおきごたつといわれたことがあるからね、またまたるるみよりまつみはつらいともあってのきにつられたゔぁいおりんもつらかったろうが、あてのないたんていのようにうろうろ、まごついているきみはなおさらつらいだろう。
るいるいとしてそうかのいぬのごとし。
いややどのないいぬほどきのどくなものはじっさいないよ」
「いぬはざんこくですね。
いぬにひかくされたことはこれでもまだありませんよ」
「ぼくはなんだかきみのはなしをきくと、むかししのげいじゅつかのつてをよむようなきもちがしてどうじょうのねんにこたえない。
いぬにひかくしたのはせんせいのじょうだんだからきにかけずにはなしをしんこうしたまえ」ととうふうくんはいしゃした。
いしゃされなくてもかんげつくんはむろんはなしをつづけるつもりである。
「それからおかちまちからひゃくきまちをとおって、りょうがえまちからたかじょうまちへでて、けんちょうのまえで枯柳のかずをかんじょうしてびょういんのよこでまどのあかりをけいさんして、こんやきょうのうえでまきたばこをにほんふかして、そうしてとけいをみた。
……」
「じゅうじになったかい」
「おしいことにならないね。
――こんやきょうをわたりきってかわぞえにひがしへのぼっていくと、あんまにさんにんあった。
そうしていぬがしきりにほえましたよせんせい……」
「あきのよながにかわばたでいぬのとお吠をきくのはちょっとしばいがかりだね。
きみはおちうどというかくだ」
「なにかわるいことでもしたんですか」
「これからしようというところさ」
「かわいそうにゔぁいおりんをかうのがわるいことじゃ、おんがくがっこうのせいとはみんなざいにんですよ」
「ひとがみとめないことをすれば、どんないいことをしてもざいにんさ、だからよのなかにざいにんほどあてにならないものはない。
耶蘇もあんなよにうまれればざいにんさ。
こうだんしかんげつくんもそんなところでゔぁいおりんをかえばざいにんさ」
「それじゃまけてざいにんとしておきましょう。
ざいにんはいいですがじゅうじにならないのにはよわりました」
「もういちかえ、まちのなをかんじょうするさ。
それでたりなければまたあきのひをかんかんさせるさ。
それでもおっつかなければまたあまぼしのしぶがきをさんだーすもくうさ。
いつまでもきくからじゅうじになるまでやりたまえ」
かんげつせんせいはにやにやとわらった。
「そうさきをこされてはこうさんするよりほかはありません。
それじゃいっそくとびにじゅうじにしてしまいましょう。
さてごやくそくのじゅうじになってきむよしのまえへきてみると、よさむのころですから、さすがめぬきのりょうがえまちもほとんどひとどおりがたえて、むかいからくるげたのおとさえさびしいこころもちです。
きむよしではもうおおどをたてて、わずかにくぐりどだけをしょうじにしています。
わたしはなんとなくいぬにおけられたようなこころもちで、しょうじをあけてはいいるのにしょうしょうすすきぎみがわるかったです……」
このときしゅじんはきたならしいほんからちょっとめをはずして、「おいもうゔぁいおりんをかったかい」ときいた。
「これからかうところです」ととうふうくんがこたえると「まだかわないのか、じつにながいな」とひとりごとのようにゆってまたほんをよみだした。
どくせんくんはむごんのまま、しろとくろでごばんをたいはんうめてしまった。
「おもいきってとびこんで、ずきんをこうむったままゔぁいおりんをくれといいますと、ひばちのしゅういによんごにんこぞうやわかぞうがかたまってはなしをしていたのがおどろいて、もうしあわせたようにわたしのかおをみました。
わたしはおもわずみぎのてをあげてずきんをぐいとまえのほうにひきました。
おいゔぁいおりんをくれとにどめにいうと、いちばんまえにいて、わたしのかおをのぞきこむようにしていたこぞうがへえとさとしたばないへんじをして、たちあがってれいのみせさきにつるしてあったのをさんよんてこいちどにおろしてきました。
いくらかときくとごえんにじゅうせんだといいます……」
「おいそんなやすいゔぁいおりんがあるのかい。
おもちゃじゃないか」
「みんなどうあたいかときくと、へえ、どれでもかわりはございません。
みんなじょうぶにねんをいれて拵らえてございますといいますから、がまぐちのなかからごえんさつとぎんかをにじゅうせんだしてよういのだいふろしきをだしてゔぁいおりんをつつみました。
このかん、みせのものははなしをちゅうししてじっとわたしのかおをみています。
かおはずきんでかくしてあるからわかるきやはないのですけれどもなんだかきがせいていっこくもはやくおうらいへでたくてたまりません。
ようやくのことふろしきつつみをがいとうのしたへいれて、みせをでたら、ばんがしらがこえをそろえてありがとうとおおきなこえをだしたのにはひやっとしました。
おうらいへでてちょっとみまわしてみると、みゆきだれもいないようですが、いちちょうばかりむこうからにさんにんしてちょうないちゅうにひびけとばかりしぎんをしてきます。
こいつはたいへんだときむよしのかくをにしへおれてほりたんをくすりおうしどうへでて、はんのきむらからこうしんやまのすそへでてようやくげしゅくへかえりました。
げしゅくへかえってみたらもうにじじゅうふんまえでした」
「よどおしあるいていたようなものだね」ととうふうくんがきのどくそうにいうと「やっとあがった。
やれやれながいどうちゅうすごろくだ」と迷亭くんはほっといちといきついた。
「これからがききどころですよ。
いままではたんにじょまくです」
「まだあるのかい。
こいつはよういなことじゃない。
たいていのものはきみにあっちゃこんきまけをするね」
「こんきはとにかく、ここでやめちゃふつさくってたましいいれずといっぱんですから、もうすこしはなします」
「はなすのはむろんずいいさ。
きくことはきくよ」
「どうですにがさやせんせいもおききになっては。
もうゔぁいおりんはかってしまいましたよ。
ええせんせい」
「こんどはゔぁいおりんをうるところかい。
うるところなんかきかなくってもいい」
「まだうるどこじゃありません」
「そんならなおきかなくてもいい」
「どうもこまるな、とうふうくん、きみだけだね、ねっしんにきいてくれるのは。
すこしちょうごうがぬけるがまあしかたがない、ざっとはなしてしまおう」
「ざっとでなくてもいいからゆるくりはなしたまえ。
たいへんおもしろい」
「ゔぁいおりんはようやくの思でてにいれたが、まずだいいちにこまったのはおきしょだね。
ぼくのところへはおおいたじんがあそびにくるからめったなところへぶらさげたり、たてかけたりするとすぐろけんしてしまう。
あなをほってうめちゃほりだすのがめんどうだろう」
「そうさ、てんじょううらへでもかくしたかい」ととうふうくんはきらくなことをいう。
「てんじょうはないさ。
ひゃくしょうかだもの」
「そりゃこまったろう。
どこへいれたい」
「どこへいれたとおもう」
「わからないね。
とぶくろのなかか」
「いいえ」
「やぐにくるんでとだなへしまったか」
「いいえ」
とうふうくんとかんげつくんはゔぁいおりんのかくれがについてかくのごとくもんどうをしているうちに、しゅじんと迷亭きみもなにかしきりにはなしている。
「こりゃなんとよむのだい」としゅじんがきく。
「どれ」
「このにこうさ」
「なにだって?〔Quid aliud est mulier nisi amicitiae& inimica〕……こりゃきみら甸語じゃないか」
「ら甸語はわかってるが、なんとよむのだい」
「だってきみはひらおら甸語がよめるとゆってるじゃないか」と迷亭きみもきけんだとみてとって、ちょっとにげた。
「むろんよめるさ。
よめることはよめるが、こりゃなにだい」
「よめることはよめるが、こりゃなんだはてひどいね」
「なにでもいいからちょっとえいごにやくしてみろ」
「みろははげしいね。
まるでじゅうそつのようだね」
「じゅうそつでもいいからなにだ」
「まあら甸語などはあとにして、ちょっとかんげつくんのごこうわをはいちょうつかまつろうじゃないか。
こんたいへんなところだよ。
いよいよろけんするか、しないかききいっぱつというあたかのせきへかかってるんだ。
――ねえかんげつくんそれからどうしたい」ときゅうにのきになって、またゔぁいおりんのなかまいりをする。
しゅじんはなさけなくもとりのこされた。
かんげつくんはこれにぜいをえてかくししょをせつめいする。
「とうとうこつづらのなかへかくしました。
このつづらはくにをでるときごそぼさんがせんべつにくれたものですが、なんでもごそぼさんがよめにくるときもってきたものだそうです」
「そいつはふるものだね。
ゔぁいおりんとはすこしちょうわしないようだ。
ねえとうふうくん」
「ええ、ちとちょうわせんです」
「てんじょううらだってちょうわしないじゃないか」とかんげつくんはとうふうせんせいをやりこめた。
「ちょうわはしないが、くにはなるよ、あんしんしたまえ。
あきさびしつづらにかくすゔぁいおりんはどうだい、りょうくん」
「せんせいきょうはおおいたはいくができますね」
「きょうにかぎったことじゃない。
いつでもはらのうちでできてるのさ。
ぼくのはいくにおけるぞうけいとゆったら、こしきこもしたをまいておどろきろいたくらいのものさ」
「せんせい、しきさんとはおつきごうでしたか」としょうじきなとうふうくんはしんそつなしつもんをかける。
「なにつきあわなくってもしじゅうむせんでんしんでかんたんしょうてらしていたもんだ」とむちゃくちゃをいうので、とうふうせんせいあきれてだまってしまった。
かんげつくんはわらいながらまたしんこうする。
「それでおきしょだけはできたわけだが、こんどはだすのにこまった。
ただだすだけならひとめをかすめてながめるくらいはやれんことはないが、ながめたばかりじゃなににもならない。
ひかなければやくにたたない。
ひけばおとがでる。
でればすぐろけんする。
ちょうどむくげかきをいちじゅうへだててみなみとなりはちんでんぐみのとうりょうがげしゅくしているんだからけんのんだあね」
「こまるね」ととうふうくんがきのどくそうにちょうしをあわせる。
「なるほど、こりゃこまる。
ろんよりしょうこおんがでるんだから、しょうとくのつぼねもまったくこれでしくじったんだからね。
これがぬすみしょくをするとか、にせさつをつくるとかいうなら、まだしまつがいいが、おんぎょくはひとにかくしちゃできないものだからね」
「おとさえでなければどうでもできるんですが……」
「ちょっとまった。
おとさえでなけりゃというが、おとがでなくてもかくしりょうせないのがあるよ。
むかししぼくとうがこいしかわのみてらでじすいをしているじぶんにすずきのふじさんというひとがいてね、このふじさんがたいへんみ淋がすきで、びーるのとっくりへあじ淋をかってきてはいちにんでたのしみにのんでいたのさ。
あるにっとうさんがさんぽにでたあとで、よせばいいのにくさやくんがちょっとぬすんでのんだところが……」
「おれがすずきのあじ淋などをのむものか、のんだのはきみだぜ」としゅじんはとつぜんおおきなこえをだした。
「おやほんをよんでるからだいじょうぶかとおもったら、やはりきいてるね。
ゆだんのできないおとこだ。
みみもはっちょう、めもはっちょうとはきみのことだ。
なるほどいわれてみるとぼくものんだ。
ぼくものんだにはそういないが、はっかくしたのはきみのほうだよ。
――りょうくんまあききたまえ。
くさやせんせいがんらいさけはのめないのだよ。
ところをひとのあじ淋だとおもっていっしょうけんめいにのんだものだから、さあたいへん、かおちゅうまっかにはれのぼってね。
いやもうにもくとはみられないありさまさ……」
「だまっていろ。
ら甸語もよめないくせに」
「はははは、それでふじさんがかえってきてびーるのとっくりをふってみると、はんぶんいじょうたりない。
なにでもだれかのんだにそういないというのでみまわしてみると、たいしょうすみのほうにしゅどろをねりかためたにんぎょうのようにかたくなっていらあね……」
さんにんはおもわず哄然とわらいだした。
しゅじんもほんをよみながら、くすくすとわらった。
ひとりどくせんくんにいたってはきがいのきをろうしすぎて、しょうしょうひろうしたとみえて、ごばんのうえへのしかかって、いつのまにやら、ぐうぐうねている。
「まだおとがしないものでろけんしたことがある。
ぼくがむかししうばこのおんせんにいって、いちにんのじじいとあいやどになったことがある。
なにでもとうきょうのごふくやのいんきょかなにかだったがね。
まああいやどだからごふくやだろうが、ふるぎやだろうがかまうことはないが、ただこまったことがひとつできてしまった。
というのはぼくはうばこへついてからさんにちめにたばこをきらしてしまったのさ。
しょくんもしってるだろうが、あのうばこというのはやまのなかのいっけんやでただおんせんにはいいってめしをくうよりほかにどうもこうもしようのないふべんのところさ。
そこでたばこをきらしたのだからごなんだね。
ものはないとなるとなおほしくなるもので、たばこがないなとおもうやいなや、いつもそんなでないのがきゅうにのみたくなりだしてね。
いじのわるいことに、そのじじいがふろしきにいちはいたばこをよういしてとざんしているのさ。
それをすこしずつだしては、ひとのまえでこざをかいてのみたいだろうといわないばかりに、すぱすぱふかすのだね。
ただふかすだけならかんべんのしようもあるが、しまいにはけむりをわにふいてみたり、たてにふいたり、よこにふいたり、ないしはかんたんゆめのまくらとぎゃくにふいたり、またははなからししのほらいり、ほらかえりにふいたり。
つまりのみびらかすんだね……」
「なにです、のみびらかすというのは」
「いしょうどうぐならみせびらかすのだが、たばこだからのみびらかすのさ」
「へえ、そんなくるしいおもいをなさるよりもらったらいいでしょう」
「ところがもらわないね。
ぼくもだんしだ」
「へえ、もらっちゃいけないんですか」
「いけるかもしれないが、もらわないね」
「それでどうしました」
「もらわないで偸んだ」
「おやおや」
「やっこさんてぬぐいをぶらさげてゆにでかけたから、のむならここだとおもっていっしんふらんたてつづけにのんで、ああゆかいだとおもうまもなく、しょうじがからりとあいたから、おやとふりかえるとたばこのもちぬしさ」
「ゆにははいいらなかったのですか」
「はいいろうとおもったらきんちゃくをわすれたのにきがついて、ろうかからひきかえしたんだ。
ひとがきんちゃくでもとりゃしまいしだいいちそれからがしっけいさ」
「なんともいえませんね。
たばこのごてぎわじゃ」
「ははははじじいもなかなかがんしきがあるよ。
きんちゃくはとにかくだが、じいさんがしょうじをあけるとににちかんのためのみをやったたばこのけむりがむっとするほどしつのなかにこもってるじゃないか、あくじせんりとはよくゆったものだね。
たちまちろけんしてしまった」
「じいさんなんとかいいましたか」
「さすがとしのこうだね、なににもいわずにまきたばこをごろくじゅうほんはんしにくるんで、しつれいですが、こんなそはでよろしければどうぞおのみくださいましとゆって、またゆつぼへおりていったよ」
「そんなのがえどしゅみというのでしょうか」
「えどしゅみだか、ごふくやしゅみだかしらないが、それからぼくはじいさんとだいにかんたんしょうてらして、にしゅうかんのまおもしろくとうりゅうしてかえってきたよ」
「たばこはにしゅうかんちゅうじいさんのごちそうになったんですか」
「まあそんなところだね」
「もうゔぁいおりんはへんついたかい」としゅじんはようやくほんをふせて、おきのぼりながらついにこうさんをもうしこんだ。
「まだです。
これからがおもしろいところです、ちょうどいいときですからきいてください。
ついでにあのごばんのうえでひるねをしているせんせい――なんとかいいましたね、え、どくせんせんせい、――どくせんせんせいにもきいていただきたいな。
どうですあんなにねちゃ、からだにどくですぜ。
もうおこしてもいいでしょう」
「おい、どくせんくん、おきたおきた。
おもしろいはなしがある。
おきるんだよ。
そうねちゃどくだとさ。
おくさんがしんぱいだとさ」
「え」といいながらかおをあげたどくせんくんのやぎひげをつたわってすいぜんがひとすじちょう々とながれて、かぎゅうのはった迹のようにれきぜんとひかっている。
「ああ、ねむかった。
さんじょうのしらくもわがものうきににたりか。
ああ、いいこころもちにねたよ」
「ねたのはみんながみとめているのだがね。
ちっとおきちゃどうだい」
「もう、おきてもいいね。
なにかおもしろいはなしがあるかい」
「これからいよいよゔぁいおりんを――どうするんだったかな、くさやくん」
「どうするのかな、とんとけんとうがつかない」
「これからいよいよひくところです」
「これからいよいよゔぁいおりんをひくところだよ。
こっちへでてきて、ききたまえ」
「まだゔぁいおりんかい。
こまったな」
「きみはむ絃のそきんをだんずるれんちゅうだからこまらないほうなんだが、かんげつくんのは、きいきいぴいぴいきんじょがっぺきへきこえるのだからだいにこまってるところだ」
「そうかい。
かんげつくんきんじょへきこえないようにゔぁいおりんをひくほうをしらんですか」
「しりませんね、あるならうかがいたいもので」
「うかがわなくてもろじのしろうしをみればすぐわかるはずだが」と、なんだかつうじないことをいう。
かんげつくんはねぼけてあんなちんごをろうするのだろうとかんていしたから、わざとあいてにならないでわとうをすすめた。
「ようやくのことでいっさくをあんしゅつしました。
あくるひはてんちょうせつだから、あさからうちにいて、つづらのふたをとってみたり、かぶせてみたりいちにちそわそわしてくらしてしまいましたがいよいよひがくれて、つづらのそこで※がなきだしたときおもいきってれいのゔぁいおりんとゆみをとりだしました」
「いよいよでたね」ととうふうくんがいうと「めったにひくとあぶないよ」と迷亭くんがちゅういした。
「まずゆみをとって、きっさきからつばもとまでしらべてみる……」
「へたなかたなやじゃあるまいし」と迷亭くんがれいひょうした。
「じっさいこれがじぶんのたましいだとおもうと、さむらいがとぎすましためいとうを、ちょうやのほかげでさや払をするときのようなこころもちがするものですよ。
わたしはゆみをもったままぶるぶるとふるえました」
「まったくてんさいだ」というとうふうくんについて「まったくてんかんだ」と迷亭くんがつけた。
しゅじんは「はやくひいたらよかろう」という。
どくせんくんはこまったものだというかおづけをする。
「ありがたいことにゆみはぶなんです。
こんどはゔぁいおりんをおなじくらんぷのはたへひきつけて、うらおもてどもよくしらべてみる。
このかんやくごふんかん、つづらのそこではしじゅう※がないているとおもってください。
……」
「なんとでもおもってやるからあんしんしてひくがいい」
「まだひきゃしません。
――さいわいゔぁいおりんもきずがない。
これならだいじょうぶとぬっくとたちあがる……」
「どっかへいくのかい」
「まあすこしだまってきいてください。
そういっくごとにじゃまをされちゃはなしができない。
……」
「おいしょくん、だまるんだとさ。
しーしー」
「しゃべるのはきみだけだぜ」
「うん、そうか、これはしっけい、きんちょうきんちょう」
「ゔぁいおりんをこわきにだいこんで、ぞうりをつかけたままにさんほくさのとをでたが、まてしばし……」
「そらおいでなすった。
なにでも、どっかでていでんするに違ないとおもった」
「もうかえったってあまぼしのかきはないぜ」
「そうしょせんせいがごまぜかえしになってははなはだいかんのいたりだが、とうふうくんいちにんをあいてにするよりいたしかたがない。
――いいかねとうふうくん、にさんほでたがまたひきかえして、くにをでるときさんえんにじゅうせんでかったあかもうふをあたまからこうむってね、ふっとらんぷをけすときみまくらやみになってこんどはぞうりのしょざいちがはんぜんしなくなった」
「いったいどこへいくんだい」
「まあきいてたまい。
ようやくのことぞうりをみつけて、ひょうへでるとほしづきよにかきらくよう、あかもうふにゔぁいおりん。
みぎへみぎへとつまさきあがりにこうしんやまへさしかかってくると、ひがしみねてらのかねがぼーんともうふをとおして、みみをとおして、あたまのなかへひびきわたった。
いつだとおもう、きみ」
「しらないね」
「きゅうじだよ。
これからあきのよながをたったいちにん、さんどうはちちょうをおおひらというところまでのぼるのだが、へいぜいならおくびょうなぼくのことだから、こわしくってたまらないところだけれども、いっしんふらんとなるとふしぎなもので、こわいにもこわくないにも、もうとうそんなねんはてんでこころのなかにおこらないよ。
ただゔぁいおりんがはじきたいばかりでむねがいちはいになってるんだからみょうなものさ。
このおおひらというところはこうしんやまのみなみがわでてんきのいいひにのぼってみるとあかまつのまからじょうかがいちもくにみくだせるちょうぼうよぜっのひらちで――そうさひろさはまあひゃくつぼもあろうかね、まんなかにはちじょうしきほどないちまいいわがあって、きたがわはうのぬまといういけつづきで、いけのまわりはさんかかえもあろうというくすのきばかりだ。
やまのなかだから、ひとのすんでるところはしょうのうをとるこやがいちけんあるばかり、いけのきんぺんはひるでもあまりこころもちのいいばしょじゃない。
さいわいこうへいがえんしゅうのためみちをきりひらいてくれたから、のぼるのにほねはおれない。
ようやくいちまいいわのうえへきて、もうふをしいて、ともかくもそのうえへすわった。
こんなさむいばんにのぼったのははじめてなんだから、いわのうえへすわってすこしおちつくと、あたりのさびしさがしだいしだいにはらのそこへしみわたる。
こういうばあいにひとのこころをみだすものはただこわいというかんじばかりだから、このかんじさえひきぬくと、あまるところはこう々きよし々たるそられいのきだけになる。
にじゅうふんほどぼうぜんとしているうちになんだかすいしょうでつくったごてんのなかに、たったいちにんすんでるようなきになった。
しかもそのいちにんすんでるぼくのからだが――いやからだばかりじゃない、こころもたましいもことごとくかんてんかなにかでせいぞうされたごとく、ふしぎにすきとおってしまって、じぶんがすいしょうのごてんのなかにいるのだか、じぶんのはらのうちにすいしょうのごてんがあるのだか、わからなくなってきた……」
「とんだことになってきたね」と迷亭くんがまじめにからかうあとについて、どくせんくんが「おもしろいきょうかいだ」とすこしくかんしんしたようすにみえた。
「もしこのじょうたいがながくつづいたら、わたしはあすのあさまで、せっかくのゔぁいおりんもひかずに、茫やりいちまいいわのうえにすわってたかもしれないです……」
「きつねでもいるところかい」ととうふうくんがきいた。
「こういうぐあいで、じたのくべつもなくなって、いきているかしんでいるかほうがくのつかないときに、とつぜんうしろのこぬまのおくでぎゃーというこえがした。
……」
「いよいよでたね」
「そのこえがとおくはんきょうをおこしてまんざんのあきのこずえを、のわけとともにわたったとおもったら、はっとわがにかえった……」
「やっとあんしんした」と迷亭くんがむねをなでおろすまねをする。
「たいしいちばんけんこんしんなり」とどくせんくんはめくばせをする。
かんげつくんにはちっともつうじない。
「それから、わがにかえってあたりをみまわわすと、こうしんやまいちめんはしんとして、あまだれほどのおともしない。
はてないまのおとはなにだろうとかんがえた。
ひとのこえにしてはするどすぎるし、とりのこえにしてはおおきすぎるし、さるのこえにしては――このあたりによもやさるはおるまい。
なにだろう?なにだろうというもんだいがあたまのなかにおこると、これをかいしゃくしようというのでいままでしずまりかえっていたやからが、ふんぜんざつぜんかてしかとしてあたかもこんのーとでんかかんげいのとうじにおけるとじんしきょうらんのたいどをもってのうりをかけめぐる。
そのうちにそうしんのけあながきゅうにあいて、しょうちゅうをふきかけたけずねのように、ゆうき、たんりょく、ふんべつ、ちんちゃくなどとごうするおきゃくさまがすうすうとじょうはつしていく。
しんぞうがろっこつのしたですててこをおどりだす。
りょうあしがいかのぼりのうなりのようにしんどうをはじめる。
これはたまらん。
いきなり、もうふをあたまからかぶって、ゔぁいおりんをこわきにかいこんでひょろひょろといちまいいわをとびおりて、いちもくさんにさんどうはちちょうをふもとのほうへかけおりて、やどへかえってふとんへくるまってねてしまった。
いまかんがえてもあんなきみのわるかったことはないよ、とうふうくん」
「それから」
「それでおしまいさ」
「ゔぁいおりんはひかないのかい」
「はじきたくっても、ひかれないじゃないか。
ぎゃーだもの。
きみだってきっとひかれないよ」
「なんだかきみのはなしはものたりないようなきがする」
「きがしてもじじつだよ。
どうですせんせい」とかんげつくんはいちざをみまわわしてだいとくいのようすである。
「ははははこれはじょうでき。
そこまでもっていくにはだいぶくしんさんたんたるものがあったのだろう。
ぼくはだんしのさんどら・べろにがとうほうくんしのくににしゅつげんするところかとおもって、いまがいままでまじめにはいちょうしていたんだよ」とゆった迷亭くんはだれかさんどら・べろにのこうしゃくでもきくかと思のほか、なににもしつもんがでないので「さんどら・べろにがげっかにたてごとをひいて、以太とぎあふうのうたをもりのなかでうたってるところは、きみのこうしんやまへゔぁいおりんをかかえてのぼるところとどうきょくにしていたくみなるものだね。
おしいことにむこうはつきちゅうのじょうがをおどろきろかし、きみはこぬまのかいたぬきにおどろかされたので、きわどいところでこっけいとすうこうのたいさをきたした。
さぞいかんだろう」といちにんでせつめいすると、
「そんなにいかんではありません」とかんげつくんはぞんがいへいきである。
「ぜんたいやまのうえでゔぁいおりんをひこうなんて、はいからをやるから、おどかされるんだ」とこんどはしゅじんがこくひょうをくわえると、
「こうかんこのおに窟裏にむかってせいけいをいとなむ。
おしいことだ」とどくせんくんはたんそくした。
すべてどくせんくんのいうことはけっしてかんげつくんにわかったためしがない。
かんげつくんばかりではない、おそらくだれにでもわからないだろう。
「そりゃ、そうとかんげつくん、ちかごろでもやばりがっこうへいってたまばかりみがいてるのかね」と迷亭せんせいはしばらくしてわとうをてんじた。
「いえ、こないだうちからくにへきせいしていたもんですから、ざんじちゅうしのすがたです。
たまももうあきましたから、じつはよそうかとおもってるんです」
「だってたまがみがけないとはかせにはなれんぜ」としゅじんはすこしくまゆをひそめたが、ほんにんはぞんがいきらくで、
「はかせですか、えへへへへ。
はかせならもうならなくってもいいんです」
「でもけっこんがのびて、そうほうこまるだろう」
「けっこんってだれのけっこんです」
「きみのさ」
「わたしがだれとけっこんするんです」
「かねだのれいじょうさ」
「へええ」
「へえって、あれほどやくそくがあるじゃないか」
「やくそくなんかありゃしません、そんなことをいいふらすなあ、むこうのかってです」
「こいつはすこしらんぼうだ。
ねえ迷亭、きみもあのいちけんはしってるだろう」
「あのいちけんた、はなじけんかい。
あのじけんなら、きみとぼくがしってるばかりじゃない、こうぜんのひみつとしててんかいっぱんにしれわたってる。
げんにまんあさなぞでははなむこはなよめというひょうだいでりょうくんのしゃしんをしじょうに掲ぐるのさかえはいつだろう、いつだろうって、うるさくぼくのところへききにくるくらいだ。
とうふうくんなぞはすでにえんおうかといういちだいちょうへんをつくって、さんかげつまえからまってるんだが、かんげつくんがはかせにならないばかりで、せっかくのけっさくもたからのもちぐされになりそうでしんぱいでたまらないそうだ。
ねえ、とうふうくんそうだろう」
「まだしんぱいするほどもちあつかってはいませんが、とにかくまんぷくのどうじょうをこめたさくをおおやけけにするつもりです」
「それみたまえ、きみがはかせになるかならないかで、しほうはっぽうへとんだえいきょうがおよんでくるよ。
すこししっかりして、たまをみがいてくれたまえ」
「へへへへいろいろごしんぱいをかけてすみませんが、もうはかせにはならないでもいいのです」
「なぜ」
「なぜって、わたしにはもうれきぜんとしたにょうぼうがあるんです」
「いや、こりゃえらい。
いつのまにひみつけっこんをやったのかね。
ゆだんのならないよのなかだ。
くさやさんただいまおききおよびのとおりかんげつくんはすでにさいしがあるんだとさ」
「こどもはまだですよ。
そうけっこんしていちとつきもたたないうちにこどもがうまれちゃことでさあ」
「がんらいいつどこでけっこんしたんだ」としゅじんはよしんはんじみたようなしつもんをかける。
「いつって、くにへかえったら、ちゃんと、うちでまってたのです。
きょうせんせいのところへもってきた、このかつおぶしはけっこんしゅくにしんるいからもらったんです」
「たったさんほんいわうのはけちだな」
「なにだくさんのうちをさんほんだけもってきたのです」
「じゃおくにのおんなだね、やっぱりいろがくろいんだね」
「ええ、まっくろです。
ちょうどわたしにはそうとうです」
「それでかねだのほうはどうするきだい」
「どうするきでもありません」
「そりゃすこしぎりがわるかろう。
ねえ迷亭」
「わるくもないさ。
ほかへやりゃおなじことだ。
どうせふうふなんてものはやみのなかではちあわせをするようなものだ。
ようするにはちあわせをしないでもすむところをわざわざはちあわせるんだからよけいなことさ。
すでによけいなことならだれとだれのはちがあったってかまいっこないよ。
ただきのどくなのはえんおうかをつくったとうふうくんくらいなものさ」
「なにえんおうかはつごうによって、こちらへむけやすえてもよろしゅうございます。
かねだかのけっこんしきにはまたべつにつくりますから」
「さすがしじんだけあってじゆうじざいなものだね」
「かねだのほうへことわったかい」としゅじんはまだかねだをきにしている。
「いいえ。
ことわるわけがありません。
わたしのほうでくれとも、もらいたいとも、せんぽうへもうしこんだことはありませんから、だまっていればたくさんです。
――なあにだまっててもたくさんですよ。
いまじぶんはたんていがじゅうにんもにじゅうにんもかかっていちぶしじゅうのこらずしれていますよ」
たんていというげんごをきいた、しゅじんは、きゅうににがいかおをして
「ふん、そんならだまっていろ」ともうしわたしたが、それでもあきたらなかったとみえて、なおたんていについてしたのようなことをさもだいぎろんのようにのべられた。
「ふよういのさいにひとのかいちゅうをぬくのがすりで、ふよういのさいにひとのきょうちゅうをつるのがたんていだ。
しらぬまにあまどをはずしてひとのしょゆうひんを偸むのがどろぼうで、しらぬまにくちをすべらしてひとのこころをよむのがたんていだ。
だんびらをたたみのうえへさしてむりにひとのきんせんをちゃくふくするのがごうとうで、おどしもんくをいやにならべてひとのいしをつようるのがたんていだ。
だからたんていというやつはすり、どろぼう、ごうとうのいちぞくでとうていひとのかざかみにおけるものではない。
そんなやつのいうことをきくとくせになる。
けっしてまけるな」
「なにだいじょうぶです、たんていのせんにんやにせんにん、かざかみにたいごをととのえてしゅうげきしたってこわくはありません。
たますりのめいじんりがくしみずしまかんげつでさあ」
「ひやひやみあげたものだ。
さすがしんこんがくしほどあってげんきおうせいなものだね。
しかしにがさやさん。
たんていがすり、どろぼう、ごうとうのどうるいなら、そのたんていをつかうかねだくんのごときものはなにのどうるいだろう」
「くまさかながのりくらいなものだろう」
「くまさかはよかったね。
ひとつとみえたるながのりがふたつになってぞうせにけりというが、あんなからすがねでしんだいをつくったこうよこちょうのながのりなんかはぎょうつくはりの、よくはりやだから、いくつになってもうせるきやはないぜ。
あんなやつにつかまったらいんがだよ。
しょうがいたたるよ、かんげつくんようじんしたまえ」
「なあに、いいですよ。
ああらものものしぬすびとよ。
てなみはさきにもしりつらん。
それにもこりずうちはいるかって、ひどいめにあわせてやりまさあ」とかんげつくんはじじゃくとしてほうしょうりゅうにき※をはいてみせる。
「たんていといえばにじゅうせいきのにんげんはたいていたんていのようになるけいこうがあるが、どういうわけだろう」とどくせんくんはどくせんくんだけにじきょくもんだいにはかんけいのないちょうぜんたるしつもんをていしゅつした。
「ぶっかがたかいせいでしょう」とかんげつくんがこたえる。
「げいじゅつしゅみをかいしないからでしょう」ととうふうくんがこたえる。
「にんげんにぶんめいのかくがはえて、こんぺいとうのようにいらいらするからさ」と迷亭くんがこたえる。
こんどはしゅじんのばんである。
しゅじんはもったいふったくちょうで、こんなぎろんをはじめた。
「それはぼくがだいぶかんがえたことだ。
ぼくのかいしゃくによるととうせじんのたんていてきけいこうはまったくこじんのじかくしんのつよすぎるのがげんいんになっている。
ぼくのじかくしんとなづけるのはどくせんくんのほうでいう、けんしょうじょうぶつとか、じこはてんちとどういったいだとかいうごどうのるいではない。
……」
「おやおおいたむずかしくなってきたようだ。
くさやくん、くんにしてそんなだいぎろんをぜっとうにろうするいじょうは、かくもうす迷亭もはばかりながらごあとでげんだいのぶんめいにたいするふへいをどうどうというよ」
「かってにいうがいい、いうこともないくせに」
「ところがある。
だいにある。
きみなぞはせんだってはけいじじゅんさをかみのごとくうやまい、またきょうはたんていをすりどろぼうにひし、まるでむじゅんのへんかいだが、ぼくなどはしゅうしいっかんちちははみしょういぜんからただいまにいたるまで、かつてじせつをへんじたことのないおとこだ」
「けいじはけいじだ。
たんていはたんていだ。
せんだってはせんだってできょうはきょうだ。
じせつがかわらないのははったつしないしょうこだ。
しもぐはうつらずというのはきみのことだ。
……」
「これはきびしい。
たんていもそうまともにくるとかわいいところがある」
「おれがたんてい」
「たんていでないから、しょうじきでいいというのだよ。
けんかはおやめおやめ。
さあ。
そのだいぎろんのあとをはいちょうしよう」
「いまのひとのじかくしんというのはじことたにんのまにせつぜんたるりがいのおおとりみぞがあるということをしりすぎているということだ。
そうしてこのじかくしんなるものはぶんめいがすすむにしたがっていちにちいちにちとえいびんになっていくから、しまいにはいっきょしゅいっとうそくもしぜんてんねんとはできないようになる。
へんれーというひとがすちーゔんそんをひょうしてかれはかがみのかかったへやにはいって、かがみのまえをとおるごとにじこのかげをうつしてみなければきがすまぬほどしゅんじもじこを忘るることのできないひとだとひょうしたのは、よくきょうのすうせいをいいあらわしている。
ねてもおれ、さめてもおれ、このおれがいたるところにつけまつわっているから、にんげんのこういげんどうがじんこうてきにこせつくばかり、じぶんできゅうくつになるばかり、よのなかがくるしくなるばかり、ちょうどみあいをするわかいだんじょのこころもちであさからばんまでくらさなければならない。
ゆうゆうとかしょうようとかいうじは劃があっていみのないことばになってしまう。
このてんにおいていまだいのひとはたんていてきである。
どろぼうてきである。
たんていはひとのめをかすめてじぶんだけうまいことをしようというしょうばいだから、ぜいじかくしんがつよくならなくてはできん。
どろぼうもつかまるか、みつかるかというしんぱいがねんとうをはなれることがないから、ぜいじかくしんがつよくならざるをえない。
いまのひとはどうしたらおのれれのりになるか、そんになるかとねてもさめてもかんがえつづけだから、ぜいたんていどろぼうとおなじくじかくしんがつよくならざるをえない。
にろくじちゅうきょときょと、こそこそしてはかにはいるまでいっこくのあんしんもえないのはいまのひとのこころだ。
ぶんめいの咒詛だ。
ばかばかしい」
「なるほどおもしろいかいしゃくだ」とどくせんくんがいいだした。
こんなもんだいになるとどくせんくんはなかなかひきこんでいないおとこである。
「くさやくんのせつめいはよくがいをえている。
むかししのじんはおのれれをわすれろとおしえたものだ。
いまのひとはおのれれをわすれるなとおしえるからまるでちがう。
にろくじちゅうおのれれといういしきをもってじゅうまんしている。
それだからにろくじちゅうたいへいのときはない。
いつでもしょうねつじごくだ。
てんかになにがくすりだとゆっておのれれをわすれるよりくすりなことはない。
さんこうげっかにゅうむがとはこのしきょうを咏じたものさ。
いまのひとはしんせつをしてもしぜんをかいている。
えいよしとしのないすなどとじまんするこういもぞんがいじかくしんがはりきれそうになっている。
えいこくのてんしがいんどへあそびにいって、いんどのおうぞくとしょくたくをともにしたときに、そのおうぞくがてんしのまえともこころづかずに、ついじこくのがりゅうをだしてじゃがいもをてつかみでさらへとって、あとからまっかになって愧じはいったら、てんしはしらんかおをしてやはりにほんゆびでじゃがいもをさらへとったそうだ……」
「それがえいよしとししゅみですか」これはかんげつくんのしつもんであった。
「ぼくはこんなはなしをきいた」としゅじんがごをつける。
「やはりえいこくのあるへいえいでれんたいのしかんがたいせいしていちにんのかしかんをごちそうしたことがある。
ごちそうがすんでてをあらうみずをがらすはちへいれてだしたら、このかしかんはえんかいになれんとみえて、がらすはちをくちへあててなかのみずをぐうとのんでしまった。
するとれんたいちょうがとつぜんかしかんのけんこうをしゅくすといいながら、やはりふ※んがー・ぼーるのみずをひといきにのみほしたそうだ。
そこでなみいるしかんもわがおとらじとみずさかずきをあげてかしかんのけんこうをしゅくしたというぜ」
「こんなはなしもあるよ」とだまってることのいやな迷亭くんがゆった。
「かーらいるがはじめてじょすめらぎに謁したとき、きゅうていのれいに嫻わぬへんぶつのことだから、せんせいとつぜんどうですといいながら、どさりといすへこしをおろした。
ところがじょすめらぎのうしろにたっていたたいせいのじじゅうやかんじょがみんなくすくすわらいだした――だしたのではない、でそうとしたのさ、するとじょすめらぎがうしろをむいて、ちょっとなにかあいずをしたら、たぜいのじじゅうかんじょがいつのまにかみんないすへこしをかけて、かーらいるはめんぼくをうしなわなかったというんだがずいぶんごねんのはいったしんせつもあったもんだ」
「かーらいるのことなら、みんながたっててもへいきだったかもしれませんよ」とかんげつくんがたんぴょうをこころみた。
「しんせつのほうのじかくしんはまあいいがね」とどくせんくんはしんこうする。
「じかくしんがあるだけしんせつをするにもほねがおれるわけになる。
きのどくなことさ。
ぶんめいがすすむにしたがってさつばつのきがなくなる、こじんとこじんのこうさいがおだやかになるなどとふつういうがだいまちがいさ。
こんなにじかくしんがつよくって、どうしておだやかになれるものか。
なるほどちょっとみるとごくしずかでぶじなようだが、ご互のまはひじょうにくるしいのさ。
ちょうどすもうがどひょうのまんなかでよっつにくんでうごかないようなものだろう。
はたからみるとへいおんしごくだがとうにんのはらはなみをうっているじゃないか」
「けんかもむかししのけんかはぼうりょくであっぱくするのだからかえってつみはなかったが、ちかごろじゃなかなかこうみょうになってるからなおなおじかくしんがましてくるんだね」とばんが迷亭せんせいのあたまのうえにまわってくる。
「べーこんのことばにしぜんのちからにしたがってはじめてしぜんにかつとあるが、いまのけんかはまさにべーこんのかくげんどおりにできのぼってるからふしぎだ。
ちょうどじゅうじゅつのようなものさ。
てきのちからをりようしててきを斃すごとをかんがえる……」
「またはすいりょくでんきのようなものですね。
みずのちからにさからわないでかえってこれをでんりょくにへんかしてりっぱにやくにたたせる……」とかんげつくんがいいかけると、どくせんくんがすぐそのあとをひきとった。
「だからひんじにはひんにばくせられ、とみじにはとみにばくせられ、うときにはゆうにばくせられ、きじにはきにばくせられるのさ。
さいじんはさいに斃れ、ちしゃはさとしにやぶれ、くさやくんのようなかんしゃくもちはかんしゃくをりようさえすればすぐにとびだしててきのぺてんにかかる……」
「ひやひや」と迷亭くんがてをたたくと、くさやくんはにやにやわらいながら「これでなかなかそうあまくはいかないのだよ」とこたえたら、みんないちどにわらいだした。
「ときにかねだのようなのはなんで斃れるだろう」
「にょうぼうははなで斃れ、しゅじんはいんごうで斃れ、こぶんはたんていで斃れか」
「むすめは?」
「むすめは――むすめはみたことがないからなんともいえないが――まずきだおれか、くいだおれ、もしくはのんだくれのるいだろう。
よもやこいたおれにはなるまい。
ことによるとそとうばこまちのようにゆきだおれになるかもしれない」
「それはすこしひどい」としんたいしをささげただけにとうふうくんがいぎをもうしたてた。
「だから応無しょじゅう而生其心というのはだいじなことばだ、そういうきょうかいにいたらんとにんげんはくるしくてならん」とどくせんくんしきりにひとりさとったようなことをいう。
「そういばるもんじゃないよ。
きみなどはことによるとでんこうかげうらにさかたおれをやるかもしれないぜ」
「とにかくこのぜいでぶんめいがすすんでいったひにやぼくはいきてるのはいやだ」としゅじんがいいだした。
「えんりょはいらないからしぬさ」と迷亭がげんかにどうはする。
「しぬのはなおいやだ」としゅじんがわからんごうじょうをはる。
「うまれるときにはだれもじゅっこうしてうまれるものはありませんが、しぬときにはだれもくにするとみえますね」とかんげつくんがよそよそしいかくげんをのべる。
「きんをかりるときにはなにのきなしにかりるが、かえすときにはみんなしんぱいするのとおなじことさ」とこんなときにすぐへんじのできるのは迷亭くんである。
「かりたきんをかえすことをかんがえないものはこうふくであるごとく、しぬことをくにせんものはこうふくさ」とどくせんくんはちょうぜんとしてしゅっせけんてきである。
「きみのようにいうとつまりずぶといのがさとったのだね」
「そうさ、ぜんごにてつうしめんのてつうししん、うしてつめんのうしてっしんというのがある」
「そうしてきみはそのひょうほんというわけかね」
「そうでもない。
しかししぬのをくにするようになったのはしんけいすいじゃくというびょうきがはつめいされてからいごのことだよ」
「なるほどきみなどはどこからみてもしんけいすいじゃくいぜんのみんだよ」
迷亭とどくせんがみょうなかけあいをのべつにやっていると、しゅじんはかんげつとうふうにくんをあいてにしてしきりにぶんめいのふへいをのべている。
「どうしてかりたきんをかえさずにすますかがもんだいである」
「そんなもんだいはありませんよ。
かりたものはかえさなくちゃなりませんよ」
「まあさ。
ぎろんだから、だまってきくがいい。
どうしてかりたきんをかえさずにすますかがもんだいであるごとく、どうしたらしなずにすむかがもんだいである。
いなもんだいであった。
れんきんじゅつはこれである。
すべてのれんきんじゅつはしっぱいした。
にんげんはどうしてもしななければならんことがぶんめいになった」
「れんきんじゅついぜんからぶんめいですよ」
「まあさ、ぎろんだから、だまってきいていろ。
いいかい。
どうしてもしななければならんことがぶんめいになったときにだいにのもんだいがおこる」
「へえ」
「どうせしぬなら、どうしてしんだらよかろう。
これがだいにのもんだいである。
じさつくらぶはこのだいにのもんだいとともにおこるべきうんめいをゆうしている」
「なるほど」
「しぬことはくるしい、しかししぬことができなければなおくるしい。
しんけいすいじゃくのこくみんにはいきていることがしよりもはなはだしきくつうである。
したがってしをくにする。
しぬのがいやだからくにするのではない、どうしてしぬのがいちばんよかろうとしんぱいするのである。
ただたいていのものはちえがたりないからしぜんのままにほうてきしておくうちに、せけんがいじめころしてくれる。
しかしいちとくせあるものはせけんからなしくずしにいじめころされてまんぞくするものではない。
かならずやしにかたについてしゅじゅこうきゅうのけっか、嶄新なめいあんをていしゅつするに違ない。
だからしてせかいこうごのすうせいはじさつしゃがぞうかして、そのじさつしゃがかいどくそうてきなほうほうをもってこのよをさるに違ない」
「おおいたぶっそうなことになりますね」
「なるよ。
たしかになるよ。
あーさー・じょーんすというひとのかいたきゃくほんのなかにしきりにじさつをしゅちょうするてつがくしゃがあって……」
「じさつするんですか」
「ところがおしいことにしないのだがね。
しかしいまからせんねんもたてばみんなじっこうするにそういないよ。
まんねんののちにはしといえばじさつよりほかにそんざいしないもののようにかんがえられるようになる」
「たいへんなことになりますね」
「なるよきっとなる。
そうなるとじさつもおおいたけんきゅうがつんでりっぱなかがくになって、落雲かんのようなちゅうがっこうでりんりのかわりにじさつがくをせいかとしてさづけるようになる」
「みょうですな、ぼうちょうにでたいくらいのものですね。
迷亭せんせいおききになりましたか。
くさやせんせいのぎょめいろんを」
「きいたよ。
そのじぶんになると落雲かんのりんりのせんせいはこういうね。
しょくんこうとくなどというやばんのいふうをぼくしゅしてはなりません。
せかいのせいねんとしてしょくんがだいいちにちゅういすべきぎむはじさつである。
しかしておのれれのこうむところはこれをじんに施こしてかなるわけだから、じさつをいちほてんかいしてたさつにしてもよろしい。
ことにひょうのきゅうそだいちんのくさやしのごときものはいきてござるのがおおいたくつうのようにみうけらるるから、いっこくもはやくころしてしんぜるのがしょくんのぎむである。
もっともむかしとちがってきょうはかいめいのじせつであるからやり、なぎなたもしくはとびどうぐのるいをもちいるようなひきょうなふるまいをしてはなりません。
ただあてこすりのこうしょうなるぎじゅつによって、からかいころすのがほんにんのためくどくにもなり、またしょくんのめいよにもなるのであります。
……」
「なるほどおもしろいこうぎをしますね」
「まだおもしろいことがあるよ。
げんだいではけいさつがじんみんのせいめいざいさんをほごするのをだいいちのもくてきとしている。
ところがそのじぶんになるとじゅんさがいぬごろしのようなこんぼうをもっててんかのこうみんをぼくさつしてあるく。
……」
「なぜです」
「なぜっていまのにんげんはせいめいがだいじだからけいさつでほごするんだが、そのじぶんのこくみんはいきてるのがくつうだから、じゅんさがじひのためにうちころしてくれるのさ。
もっともすこしきのきいたものはたいがいじさつしてしまうから、じゅんさにうちころされるようなやつはよくよくいくじなしか、じさつののうりょくのないはくちもしくはふぐしゃにかぎるのさ。
それでころされたいにんげんはかどぐちへちょうさつをしておくのだね。
なにただ、ころされたいおとこありとかおんなありとか、はりつけておけばじゅんさがつごうのいいときにめぐってきて、すぐしぼうどおりとはかってくれるのさ。
しがいかね。
しがいはやっぱりじゅんさがくるまをひいてひろってあるくのさ。
まだおもしろいことができてくる。
……」
「どうもせんせいのじょうだんはさいげんがありませんね」ととうふうくんはだいにかんしんしている。
するとどくせんくんはれいのとおりやぎひげをきにしながら、のそのそべんじだした。
「じょうだんといえばじょうだんだが、よげんといえばよげんかもしれない。
しんりにてっていしないものは、とかくがんぜんのげんしょうせかいにそくばくせられてほうまつのむげんをえいきゅうのじじつとにんていしたがるものだから、すこしとびはなれたことをいうと、すぐじょうだんにしてしまう」
「えんじゃくいずくんぞたいほうのこころざしをしらんやですね」とかんげつくんがおそれいると、どくせんくんはそうさといわぬばかりのかおづけではなしをすすめる。
「むかししすぺいんにこるどゔぁというところがあった……」
「いまでもありゃしないか」
「あるかもしれない。
こんじゃくのもんだいはとにかく、そこのふうしゅうとしてひぐれのかねがおてらでなると、いえいえのおんながことごとくでてきてかわへはいいってすいえいをやる……」
「ふゆもやるんですか」
「そのあたりはたしかにしらんが、とにかくき賤ろうにゃくのべつなくかわへとびこむ。
ただしだんしはいちにんも交らない。
ただとおくからみている。
とおくからみているとぼしょくそうぜんたるなみのうえに、しろいはだがもことしてうごいている……」
「してきですね。
しんたいしになりますね。
なんというところですか」ととうふうくんはらたいがでさえすればまえへのりだしてくる。
「こるどゔぁさ。
そこでちほうのわかいものが、おんなといっしょにおよぐこともできず、さればとゆってとおくからはんぜんそのすがたをみることもゆるされないのをざんねんにおもって、ちょっといたずらをした……」
「へえ、どんなしゅこうだい」といたずらときいた迷亭くんはだいにうれしがる。
「おてらのかねつきばんにわいろをつかって、にちぼつをあいずにつくかねをいちじかんまえにならした。
するとおんななどはあさはかなものだから、そらかねがなったというので、めいめいかわぎしへあつまってはんじばん、はんももひきのふくそうでざぶりざぶりとすいのなかへとびこんだ。
とびこみはしたものの、いつもとちがってひがくれない」
「はげしいあきのひがかんかんしやしないか」
「はしのうえをみるとおとこがたいせいたってながめている。
はずかしいがどうすることもできない。
だいにせきめんしたそうだ」
「それで」
「それでさ、にんげんはただがんぜんのしゅうかんにまよわされて、こんぽんのげんりをわすれるものだからきをつけないとだめだということさ」
「なるほどありがたいごせっきょうだ。
がんぜんのしゅうかんにまよわされのごはなしをぼくもひとつやろうか。
このかんあるざっしをよんだら、こういうさぎしのしょうせつがあった。
ぼくがまあここでしょがこっとうてんをひらくとする。
でてんとうにおおやのはばや、めいじんのどうぐるいをならべておく。
むろんにせものじゃない、しょうじきしょうめい、うそいつわりのないじょうとうひんばかりならべておく。
じょうとうひんだからみんなこうかにきまってる。
そこへものすうきなごきゃくさんがきて、このもとのぶのはばはいくらだねときく。
ろくひゃくえんならろくひゃくえんとぼくがいうと、そのきゃくがほしいことはほしいが、ろくひゃくえんではてもとにもちあわせがないから、ざんねんだがまあみあわせよう」
「そういうときまってるかい」としゅじんはあいかわらずしばいぎのないことをいう。
迷亭くんはぬからぬかおで、
「まあさ、しょうせつだよ。
いうとしておくんだ。
そこでぼくがなにだいはかまいませんから、おきにはいったらもっていらっしゃいという。
きゃくはそうもいかないからとちゅうちょする。
それじゃげっぷでいただきましょう、げっぷもほそく、ながく、どうせこれからごひいきになるんですから――いえ、ちっともごえんりょにはおよびません。
どうですつきにじゅうえんくらいじゃ。
なにならつきにごえんでもかまいませんとぼくがごくきさくにいうんだ。
それからぼくときゃくのまににさんのもんどうがあって、とどぼくがかのほうげんもとのぶのはばをろくひゃくえんただしげっぷじゅうえんはらいこみのことでうわたす」
「たいむすのひゃっかぜんしょみたようですね」
「たいむすはたしかだが、ぼくのはすこぶるふ慥だよ。
これからがいよいよこうみょうなるさぎにとりかかるのだぜ。
よくききたまえつきじゅうえんずつでろくひゃくえんならなんねんでかいさいになるとおもう、かんげつくん」
「むろんごねんでしょう」
「むろんごねん。
でごねんのさいげつはながいとおもうかみじかかいとおもうか、どくせんくん」
「いちねんまんねん、まんねんいちねん。
たんかくもあり、たんかくもなしだ」
「なんだそりゃどうかか、じょうしきのないどうかだね。
そこでごねんのままいつきじゅうえんずつはらうのだから、つまりせんぽうではろくじゅうかいはらえばいいのだ。
しかしそこがしゅうかんのおそろしいところで、ろくじゅうかいもおなじことをまいつきくりかえしていると、ろくじゅういちかいにもやはりじゅうえんはらうきになる。
ろくじゅうにかいにもじゅうえんはらうきになる。
ろくじゅうにかいろくじゅうさんかい、かいをかさねるにしたがってどうしてもきじつがくればじゅうえんはらわなくてはきがすまないようになる。
にんげんはりこうのようだが、しゅうかんにまよって、こんぽんをわすれるというだいじゃくてんがある。
そのじゃくてんにじょうじてぼくがなんどでもじゅうえんずつまいつきとくをするのさ」
「ははははまさか、それほどわすれっぽくもならないでしょう」とかんげつくんがわらうと、しゅじんはいささかまじめで、
「いやそういうことはまったくあるよ。
ぼくはだいがくのたいひをまいつきまいつきかんじょうせずにかえして、しまいにむかいからことわられたことがある」とじぶんのはじをにんげんいっぱんのはじのようにこうげんした。
「そら、そういうひとがげんにここにいるからたしかなものだ。
だからぼくのせんこくのべたぶんめいのみらいきをきいてじょうだんだなどとわらうものは、ろくじゅうかいでいいげっぷをしょうがいはらってせいとうだとかんがえるれんちゅうだ。
ことにかんげつくんや、とうふうくんのようなけいけんのとぼしいせいねんしょくんは、よくぼくらのいうことをきいてだまされないようにしなくっちゃいけない」
「かしこまりました。
げっぷはかならずろくじゅうかいかぎりのことにいたします」
「いやじょうだんのようだが、じっさいさんこうになるはなしですよ、かんげつくん」とどくせんくんはかんげつくんにむかいだした。
「たとえばですね。
こんくさやくんか迷亭くんが、きみがむだんでけっこんしたのがおんとうでないから、かねだとかいうひとにしゃざいしろとちゅうこくしたらきみどうです。
しゃざいするりょうけんですか」
「しゃざいはごようしゃにあずかりたいですね。
むこうがあやまるならとくべつ、わたしのほうではそんなよくはありません」
「けいさつがきみにあやまれとめいじたらどうです」
「なおなおごめんこうむります」
「だいじんとかかぞくならどうです」
「いよいよもってごめんこうむります」
「それみたまえ。
むかしといまとはにんげんがそれだけかわってる。
むかしはおかみのごいこうならなにでもできたじだいです。
そのつぎにはおかみのごいこうでもできないものができてくるじだいです。
いまのよはいかにでんかでもかっかでも、あるていどいじょうにこじんのじんかくのうえにのしかかることができないよのなかです。
はげしくいえばせんぽうにけんりょくがあればあるほど、のしかかられるもののほうではふゆかいをかんじてはんこうするよのなかです。
だからいまのよはむかししとちがって、おかみのごいこうだからできないのだというしんげんしょうのあらわれるじだいです、むかししのものからかんがえると、ほとんどかんがえられないくらいなことがらがどうりでとおるよのなかです。
せたいにんじょうのへんせんというものはじつにふしぎなもので、迷亭くんのみらいきもじょうだんだといえばじょうだんにすぎないのだが、そのあたりのしょうそくをせつめいしたものとすれば、なかなかあじがあるじゃないですか」
「そういうちきがでてくるとぜひみらいきのつづきがのべたくなるね。
どくせんくんのごせつのごとくいまのよにおかみのごいこうをかさにきたり、たけやりのにさんひゃくほんを恃にしてむりをおしとおそうとするのは、ちょうどかごへのってなにでもかでもきしゃときょうそうしようとあせる、じだいおくれの頑物――まあわからずやのちょうほん、からすがねのながのりせんせいくらいのものだから、だまってごてぎわをはいけんしていればいいが――ぼくのみらいきはそんなとうざまにあわせのしょうもんだいじゃない。
にんげんぜんたいのうんめいにかんするしゃかいてきげんしょうだからね。
つらつらもっかぶんめいのけいこうをたっかんして、とおきしょうらいのすうせいをぼくするとけっこんがふかのうのことになる。
おどろきろくなかれ、けっこんのふかのう。
わけはこうさ。
まえもうすとおりいまのよはこせいちゅうしんのよである。
いっかをしゅじんがだいひょうし、いちぐんをだいかんがだいひょうし、いちこくをりょうしゅがだいひょうしたじぶんには、だいひょうしゃいがいのにんげんにはじんかくはまるでなかった。
あってもみとめられなかった。
それががらりとかわると、あらゆるせいぞんしゃがことごとくこせいをしゅちょうしだして、だれをみてもきみはきみ、ぼくはぼくだよといわぬばかりのかぜをするようになる。
ふたりのひとがとちゅうであえばうぬがにんげんなら、おれもにんげんだぞとこころのなかでけんかをかいながらゆきちがう。
それだけこじんがつよくなった。
こじんがびょうどうにつよくなったから、こじんがびょうどうによわくなったわけになる。
ひとがおのれをがいすることができにくくなったてんにおいて、たしかにじぶんはつよくなったのだが、めったにひとのみのうえにてだしがならなくなったてんにおいては、めいかにむかしよりよわくなったんだろう。
つよくなるのはうれしいが、よわくなるのはだれもありがたくないから、ひとからいちごうもおかされまいと、つよいてんをあくまでこしゅするとどうじに、せめてはんもうでもひとをおかしてやろうと、よわいところはむりにもひろげたくなる。
こうなるとひととひとのまにくうかんがなくなって、いきてるのがきゅうくつになる。
できるだけじぶんをはりつめて、はちきれるばかりにふくれかえってくるしがってせいぞんしている。
くるしいからいろいろのほうほうでこじんとこじんとのまによゆうをもとめる。
かくのごとくにんげんがじごうじとくでくるしんで、そのくるしまぎれにあんしゅつしただいいちのほうあんはおやこべっきょのせいさ。
にっぽんでもやまのなかへはいいってみたまえ。
いっかいちもんことごとくいちけんのうちにごろごろしている。
しゅちょうすべきこせいもなく、あってもしゅちょうしないから、あれですむのだがぶんめいのみんはたといおやこのまでもおかたみにわがままをはれるだけはらなければそんになるからいきおいりょうしゃのあんぜんをほじするためにはべっきょしなければならない。
おうしゅうはぶんめいがすすんでいるからにっぽんよりはやくこのせいどがおこなわれている。
たまたまおやこどうきょするものがあっても、むすこがおやじからりそくのつくきんをかりたり、たにんのようにげしゅくりょうをはらったりする。
おやがむすこのこせいをみとめてこれにそんけいをはらえばこそ、こんなびふうがせいりつするのだ。
このかぜはそうばんにっぽんへもぜひゆにゅうしなければならん。
しんるいはとくにはなれ、おやこはきょうにはなれて、やっとがまんしているようなもののこせいのはってんと、はってんにつれてこれにたいするそんけいのねんはむせいげんにのびていくから、まだはなれなくてはらくができない。
しかしおやこきょうだいのはなれたるきょう、もうはなれるものはないわけだから、さいごのほうあんとしてふうふがわかれることになる。
いまのひとのこうではいっしょにいるからふうふだとおもってる。
それがおおきなりょうけんちがいさ。
いっしょにいるためにはいっしょにいるにじゅうぶんなるだけこせいがあわなければならないだろう。
むかししならもんくはないさ、いたいどうしんとかゆって、めにはふうふににんにみえるが、ないじつはいちにんまえなんだからね。
それだからかいろうどうけつとかごうして、しんでもひとつあなのたぬきにばける。
やばんなものさ。
いまはそうはいかないやね。
おっとはあくまでもおっとでつまはどうしたってつまだからね。
そのつまがじょがっこうであんどんばかまをはいてろうこたるこせいをきたえあげて、そくはつすがたでのりこんでくるんだから、とてもおっとのおもうとおりになるわけがない。
またおっとのおもいどおりになるようなつまならつまじゃないにんぎょうだからね。
けんぷじんになればなるほどこせいはすごいほどはったつする。
はったつすればするほどおっととあわなくなる。
あわなければしぜんのぜいおっととしょうとつする。
だからけんつまとながつくいじょうはあさからばんまでおっととしょうとつしている。
まことにけっこうなことだが、けんつまをむかえればむかえるほどそうほうどもくるしみのていどがましてくる。
みずとあぶらのようにふうふのまにはせつぜんたるしきりがあって、それもおちついて、しきりがすいへいせんをたもっていればまだしもだが、みずとあぶらがそうほうから働らきかけるのだからいえのなかはだいじしんのようにあがったりさがったりする。
ここにおいてふうふざっきょはお互のそんだということがしだいににんげんにわかってくる。
……」
「それでふうふがわかれるんですか。
しんぱいだな」とかんげつくんがゆった。
「わかれる。
きっとわかれる。
てんかのふうふはみんなふんれる。
いままではいっしょにいたのがふうふであったが、これからはどうせいしているものはふうふのしかくがないようにせけんからめされてくる」
「するとわたしなぞはしかくのないくみへへんにゅうされるわけですね」とかんげつくんはきわどいところでのろけをゆった。
「めいじのみよにうまれてこうさ。
ぼくなどはみらいきをつくるだけあって、ずのうがじせいよりいちにほずつまえへでているからちゃんといまからどくしんでいるんだよ。
ひとはしつれんのけっかだなどとさわぐが、きんがんしゃのみるところはじつにあわれなほどせんばくなものだ。
それはとにかく、みらいきのつづきをはなすとこうさ。
そのときいちにんのてつがくしゃがてんふってはてんこうのしんりをしょうどうする。
そのせつにいわくさ。
にんげんはこせいのどうぶつである。
こせいをめっすればにんげんをめっするとどうけっかにおちいる。
いやしくもにんげんのいぎをかんからしめんためには、いかなるあたいをはらうともかまわないからこのこせいをほじするとどうじにはったつせしめなければならん。
かの陋習にばくせられて、いやいやながらけっこんをしっこうするのはにんげんしぜんのけいこうにはんしたばんぷうであって、こせいのはったつせざるもうまいのじだいはいざしらず、ぶんめいのきょうなおこのへい竇におちいって恬としてかえりみないのははなはだしきびゅうけんである。
かいかのこうちょうどにたっせるいまだいにおいてにこのこせいがふつういじょうにしんみつのていどをもってれんけつされえべきりゆうのあるべきはずがない。
この覩やすきりゆうはあるにもせきらずむきょういくのせいねんだんじょがいちじのれつじょうにかられて、漫にごう※のしきをきょぐるははいとくぼつりんのはなはだしきしょいである。
われじんはじんどうのため、ぶんめいのため、かれらせいねんだんじょのこせいほごのため、ぜんりょくをあげこのばんぷうにていこうせざるべからず……」
「せんせいわたしはそのせつにはぜんぜんはんたいです」ととうふうくんはこのときおもいきったちょうしでぴたりとひらてでひざがしらをたたいた。
「わたしのこうではよのなかになにがとうといとゆってあいとびほどとうといものはないとおもいます。
われ々をいしゃし、われ々をかんぜんにし、われ々をこうふくにするのはまったくりょうしゃのおかげであります。
われじんのじょうそうをゆうびにし、ひんせいをこうけつにし、どうじょうをあらいねするのはまったくりょうしゃのおかげであります。
だからわれじんはいつのよいずくにうまれてもこのふたつのものをわすれることができないです。
このふたつのものがげんじつせかいにあらわれると、あいはふうふというかんけいになります。
びはしか、おんがくのけいしきにわかれます。
それだからいやしくもじんるいのちきゅうのひょうめんにそんざいするかぎりはふうふとげいじゅつはけっしてめっすることはなかろうとおもいます」
「なければけっこうだが、こんてつがくしゃがゆったとおりちゃんとめつしてしまうからしかたがないと、あきらめるさ。
なにげいじゅつだ?げいじゅつだってふうふとおなじうんめいにきちゃくするのさ。
こせいのはってんというのはこせいのじゆうといういみだろう。
こせいのじゆうといういみはおれはおれ、ひとはひとといういみだろう。
そのげいじゅつなんかそんざいできるわけがないじゃないか。
げいじゅつがはんじょうするのはげいじゅつかときょうじゅしゃのまにこせいのいっちがあるからだろう。
きみがいくらしんたいしかだって踏張っても、きみのしをよんでおもしろいというものがいちにんもなくっちゃ、きみのしんたいしもごきのどくだがきみよりほかによみてはなくなるわけだろう。
えんおうかをいくへんつくったってはじまらないやね。
さいわいにめいじのきょうにうまれたから、てんかがあがってあいどくするのだろうが……」
「いえそれほどでもありません」
「いまでさえそれほどでなければ、じんぶんのはったつしたみらいすなわちれいのいちだいてつがくしゃがでてひけっこんろんをしゅちょうするじぶんにはだれもよみしゅはなくなるぜ。
いやきみのだからよまないのじゃない。
ひとびとここおのおのとくべつのこせいをもってるから、ひとのつくったしぶんなどはいっこうおもしろくないのさ。
げんにいまでもえいこくなどではこのけいこうがちゃんとあらわれている。
げんこんえいこくのしょうせつかちゅうでもっともこせいのいちじるしいさくひんにあらわれた、めれじすをみたまえ、じぇーむすをみたまえ。
よみてはきわめてすくないじゃないか。
すくないわけさ。
あんなさくひんはあんなこせいのあるひとでなければよんでおもしろくないんだからしかたがない。
このけいこうがだんだんはったつしてこんいんがふどうとくになるじぶんにはげいじゅつもかんくめつぼうさ。
そうだろうきみのかいたものはぼくにわからなくなる、ぼくのかいたものはきみにわからなくなったひにゃ、きみとぼくのまにはげいじゅつもくそもないじゃないか」
「そりゃそうですけれどもわたしはどうもちょっかくてきにそうおもわれないんです」
「きみがちょっかくてきにそうおもわれなければ、ぼくはきょくさとしてきにそうおもうまでさ」
「きょくさとしてきかもしれないが」とこんどはどくせんくんがくちをだす。
「とにかくにんげんにこせいのじゆうをゆるせばゆるすほどご互のまがきゅうくつになるにそういないよ。
にーちぇがちょうじんなんかかつぎだすのもまったくこのきゅうくつのやりどころがなくなってしかたなしにあんなてつがくにへんけいしたものだね。
ちょっとみるとあれがあのおとこのりそうのようにみえるが、ありゃりそうじゃない、ふへいさ。
こせいのはってんしたじゅうきゅうせいきにすくんで、となりのひとにはこころ置なくめったにねがえりもうてないから、たいしょうすこしやけになってあんならんぼうをかきちらしたのだね。
あれをよむとそうかいというよりむしろきのどくになる。
あのこえはゆうもうしょうじんのこえじゃない、どうしてもえんこんつうふんのおとだ。
それもそのはずさむかしはいちにんえらいひとがあればてんかきゅうぜんとしてそのきかにあつまるのだから、ゆかいなものさ。
こんなゆかいがじじつにでてくればなにもにーちぇみたようにふでとかみのちからでこれをしょもつのうえにあらわすひつようがない。
だからほーまーでもちぇゔぃ・ちぇーずでもおなじくちょうじんてきなせいかくをうつしてもかんじがまるでちがうからね。
ようきださ。
ゆかいにかいてある。
ゆかいなじじつがあって、このゆかいなじじつをかみにうつしかえたのだから、にがみはないはずだ。
にーちぇのじだいはそうはいかないよ。
えいゆうなんかいちにんもでやしない。
でたってだれもえいゆうとたてやしない。
むかしはこうしがたったいちにんだったから、こうしもはばをきかしたのだが、いまはこうしがいくにんもいる。
ことによるとてんかがことごとくこうしかもしれない。
だからおれはこうしだよといばっても圧がきかない。
きかないからふへいだ。
ふへいだからちょうじんなどをしょもつのうえだけでふりまわすのさ。
われじんはじゆうをほっしてじゆうをえた。
じゆうをえたけっかふじゆうをかんじてこまっている。
それだからせいようのぶんめいなどはちょっといいようでもつまりだめなものさ。
これにはんしてとうようじゃむかししからこころのしゅぎょうをした。
そのほうがただしいのさ。
みたまえこせいはってんのけっかみんなしんけいすいじゃくをおこして、しまつがつかなくなったとき、おうじゃのみんとうとうたりというくのかちをはじめてはっけんするから。
むいにしてかすというかたりのばかにできないことをさとるから。
しかしさとったってそのときはもうしようがない。
あるこーるちゅうどくにかかって、ああさけをのまなければよかったとかんがえるようなものさ」
「せんせいかたはおおいたえんせいてきなごせつのようだが、わたしはみょうですね。
いろいろうかがってもなんともかんじません。
どういうものでしょう」とかんげつくんがいう。
「そりゃさいくんをもちだてだからさ」と迷亭くんがすぐかいしゃくした。
するとしゅじんがとつぜんこんなことをいいだした。
「つまをもって、おんなはいいものだなどとおもうととんだま違になる。
さんこうのためだから、おれがおもしろいものをよんできかせる。
よくきくがいい」とさいぜんしょさいからもってきたふるいほんをとりあげて「このほんはふるいほんだが、このじだいからおんなのわるいことはれきぜんとわかってる」というと、かんげつくんが
「すこしおどろきましたな。
がんらいいつころのほんですか」ときく。
「たます・なっしとゆってじゅうろくせいきのちょしょだ」
「いよいよおどろきろいた。
そのじぶんすでにわたしのつまのわるぐちをゆったものがあるんですか」
「いろいろおんなのわるぐちがあるが、そのうちにはぜひくんのつまもはいいるわけだからきくがいい」
「ええききますよ。
ありがたいことになりましたね」
「まずこらいのけんてつがじょせいかんをしょうかいすべしとかいてある。
いいかね。
きいてるかね」
「みんなきいてるよ。
どくしんのぼくまできいてるよ」
「ありすとーとるいわくおんなはどうせろくでなしなれば、よめをとるなら、おおきなよめよりちいさなよめをとるべし。
おおきなろくでなしより、ちいさなろくでなしのほうがわざわいすくなし……」
「かんげつくんのさいくんはおおきいかい、ちいさいかい」
「おおきなろくでなしのぶですよ」
「はははは、こりゃおもしろいほんだ。
さああとをよんだ」
「あるるひととう、いかなるかこれさいだいきせき。
けんじゃこたえていわく、ていふ……」
「けんじゃってだれですか」
「なまえはかいてない」
「どうせふられたけんじゃにそういないね」
「つぎにはだいおじにすがでている。
あるるひととう、つまをめとるいずれのときにおいてすべきか。
だいおじにすこたえていわくせいねんはみだし、ろうねんはすでにおそし。
とある」
「せんせいたるのなかでかんがえたね」
「ぴさごらすいわくてんかにさんのおそるべきものありいわくひ、いわくすい、いわくおんな」
「まれ臘のてつがくしゃなどはぞんがいまが濶なことをいうものだね。
ぼくにいわせるとてんかにおそれるべきものなし。
ひにはいってやけず、みずにはいっておぼれず……」だけでどくせんくんちょっといきづまる。
「おんなにあってとろけずだろう」と迷亭せんせいがえんぺいにでる。
しゅじんはさっさとあとをよむ。
「そくらちすはふじょしをぎょするはにんげんのさいだいなんじとうんえり。
でもすせにすいわくじんもしそのてきをくるしめんとせば、わがおんなをてきにあずかうるよりさくのとくたるはあらず。
かていのふうはにひとなくよるとなくかれをこんぱいたつあたわざるにいたらしむるをえればなりと。
せねかはふじょとむがくをもってせかいにおけるにたいやくとし、まーかす・おーれりあすはじょしはせいぎょしがたきてんにおいてせんぱくににたりといい、ぷろーたすはじょしがきらをかざるのせいへきをもってそのてんぴんのみにくをおおうの陋策にもとづくものとせり。
ゔぁれりあすかつてしょをそのともぼうにおくってつげていわくてんかになにごともじょしのしのんでなしえざるものあらず。
ねがわくはすめらぎてん憐をたれて、きみをしてかれらのじゅっちゅうにおちいらしむるなかれと。
かれまたいわくじょしとはなぞ。
ゆうあいのてきにあらずや。
避くべからざるくるしみにあらずや、ひつぜんのがいにあらずや、しぜんのゆうわくにあらずや、みつににたるどくにあらずや。
もしじょしを棄つるがふとくならば、かれらをすてざるはいっそうのかしゃくといわざるべからず。
……」
「もうたくさんです、せんせい。
そのくらいぐさいのわるぐちをはいちょうすればもうしぶんはありません」
「まだよんごぺーじあるから、ついでにきいたらどうだ」
「もうたいていにするがいい。
もうおくがたのごかえりのこくげんだろう」と迷亭せんせいがからかいかけると、ちゃのまのほうで
「きよしや、きよしや」とさいくんがげじょをよぶこえがする。
「こいつはたいへんだ。
おくがたはちゃんといるぜ、きみ」
「うふふふふ」としゅじんはわらいながら「かまうものか」とゆった。
「おくさん、おくさん。
いつのまにごかえりですか」
ちゃのまではしんとしてこたえがない。
「おくさん、いまのをきいたんですか。
え?」
こたえはまだない。
「いまのはね、ごしゅじんのごこうではないですよ。
じゅうろくせいきのなっしくんのせつですからごあんしんなさい」
「ぞんじません」とさいくんはとおくでかんたんなへんじをした。
かんげつくんはくすくすとわらった。
「わたしもぞんじませんでしつれいしましたあはははは」と迷亭くんはえんりょなくわらってると、かどぐちをあらあらしくあけて、たのむとも、ごめんともいわず、おおきなあしおとがしたとおもったら、ざしきのからかみがらんぼうにあいて、たたらさんぺいくんのかおがそのかんからあらわれた。
さんぺいくんきょうはいつににず、まっしろなしゃつにおろしだてのふろっくをきて、すでにいくぶんかそうばをくるわせてるうえへ、みぎのてへおもそうにさげたよんほんのびーるをなわぐるみ、かつおぶしのはたへおくとどうじにあいさつもせず、どっかとこしをおろして、かつひざをくずしたのはめざましいむしゃふである。
「せんせいいびょうはきんらいいいですか。
こうやって、うちにばかりいなさるから、いかんたい」
「まだわるいともなんともいやしない」
「いわんばってんが、かおいろはよかなかごたる。
せんせいかおいろがきですばい。
ちかごろはつりがいいです。
しながわからふねをいちそうやとうて――わたしはこのまえのにちようにいきました」
「なにかつれたかい」
「なにもつれません」
「つれなくってもおもしろいのかい」
「こうぜんのきをやしなうたい、あなた。
どうですあなたがた。
つりにいったことがありますか。
おもしろいですよつりは。
おおきなうみのうえをこぶねでのりまわりわしてあるくのですからね」とだれかれのようしゃなくはなしかける。
「ぼくはちいさなうみのうえをおおぶねでのりまわしてあるきたいんだ」と迷亭くんがあいてになる。
「どうせつるなら、くじらかにんぎょでもつらなくっちゃ、なじらないです」とかんげつくんがこたえた。
「そんなものがつれますか。
ぶんがくしゃはじょうしきがないですね。
……」
「ぼくはぶんがくしゃじゃありません」
「そうですか、なにですかあなたは。
わたしのようなびじねす・まんになるとじょうしきがいちばんたいせつですからね。
せんせいわたしはきんらいよっぽどじょうしきにとんできました。
どうしてもあんなところにいると、はたがはただから、おのずから、そうなってしまうです」
「どうなってしまうのだ」
「たばこでもですね、あさひや、しきしまをふかしていてははばがきかんです」といいながら、すいくちにきんぱくのついたえじぷとたばこをだして、すぱすぱすいだした、
「そんなぜいたくをするきんがあるのかい」
「きんはなかばってんが、いまにどうかなるたい。
このたばこをすってると、たいへんしんようがちがいます」
「かんげつくんがたまをみがくよりもらくなしんようでいい、てすうがかからない。
けいべんしんようだね」と迷亭がかんげつにいうと、かんげつがなんともこたえないまに、さんぺいくんは
「あなたがかんげつさんですか。
はかせにゃ、とうとうならんですか。
あなたがはかせにならんものだから、わたしがもらうことにしました」
「はかせをですか」
「いいえ、かねだかのれいじょうをです。
じつはごきのどくとおもうたですたい。
しかしせんぽうでぜひもらうてくれもらうてくれというから、とうとうもらうことにきわめました、せんせい。
しかしかんげつさんにぎりがわるいとおもってしんぱいしています」
「どうかおえんりょなく」とかんげつくんがいうと、しゅじんは
「もらいたければもらったら、いいだろう」とあいまいなへんじをする。
「そいつはおめでたいはなしだ。
だからどんなむすめをもってもしんぱいするがものはないんだよ。
だれかもらうと、さっきぼくがゆったとおり、ちゃんとこんなりっぱなしんしのごむこさんができたじゃないか。
とうふうくんしんたいしのたねができた。
さっそくとりかかりたまえ」と迷亭くんがれいのごとくちょうしづくとさんぺいくんは
「あなたがとうふうくんですか、けっこんのときになにかつくってくれませんか。
すぐかっぱんにしてかたがたへくばります。
たいようへもだしてもらいます」
「ええなにかつくりましょう、いつころごにゅうようですか」
「いつでもいいです。
いままでつくったうちでもいいです。
そのかわりです。
ひろうのときよんでごちそうするです。
しゃんぱんをのませるです。
きみしゃんぱんをのんだことがありますか。
しゃんぱんはうまいです。
――せんせいひろうかいのときにがくたいをよぶつもりですが、とうふうくんのさくをふにしてそうしたらどうでしょう」
「かってにするがいい」
「せんせい、ふにしてくださらんか」
「ばかいえ」
「だれか、このうちにおんがくのできるものはおらんですか」
「らくだいのこうほしゃかんげつくんはゔぁいおりんのみょうしゅだよ。
しっかりたのんでみたまえ。
しかししゃんぱんくらいじゃしょうちしそうもないおとこだ」
「しゃんぱんもですね。
いちびんよんえんやごえんのじゃよくないです。
わたしのごちそうするのはそんなやすいのじゃないですが、きみひとつふをつくってくれませんか」
「ええつくりますとも、いちびんにじゅうせんのしゃんぱんでもつくります。
なんならただでもつくります」
「ただはたのみません、おれいはするです。
しゃんぱんがいやなら、こういうおれいはどうです」といいながらうわぎのこもふくろのなかからななはちまいのしゃしんをだしてばらばらとたたみのうえへおとす。
はんしんがある。
ぜんしんがある。
たってるのがある。
すわってるのがある。
はかまをはいてるがある。
ふりそでがある。
たかしまだがある。
ことごとくみょうれいのじょしばかりである。
「せんせいこうほしゃがこれだけあるです。
かんげつくんととうふうくんにこのうちどれかおれいにしゅうせんしてもいいです。
こりゃどうです」といちまいかんげつくんにつきつける。
「いいですね。
ぜひしゅうせんをねがいましょう」
「これでもいいですか」とまたいちまいつきつける。
「それもいいですね。
ぜひしゅうせんしてください」
「どれをです」
「どれでもいいです」
「きみなかなかたじょうですね。
せんせい、これははかせのめいです」
「そうか」
「このほうはせいしつがごくいいです。
としもわかいです。
これでじゅうななです。
――これならじさんきんがせんえんあります。
――こっちのはちじのむすめです」といちにんでべんじたてる。
「それをみんなもらうわけにゃいかないでしょうか」
「みんなですか、それはあまりよくはりたい。
きみいっぷたさいしゅぎですか」
「たさいしゅぎじゃないですが、にくしょくろんしゃです」
「なにでもいいから、そんなものははやくしまったら、よかろう」としゅじんはしかりつけるようにいいはなったので、さんぺいくんは
「それじゃ、どれももらわんですね」とねんをおしながら、しゃしんをいちまいいちまいにぽっけっとへおさめた。
「なんだいそのびーるは」
「おみやげでござります。
まえいわいにかくのさかやでかうてきました。
ひとつのんでください」
しゅじんはてをはくってげじょをよんでせんをぬかせる。
しゅじん、迷亭、どくせん、かんげつ、とうふうのごくんはうやうやしくこっぷをささげて、さんぺいくんのつやふくをしゅくした。
さんぺいくんはだいにゆかいなようすで
「ここにいるしょくんをひろうかいにしょうたいしますが、みんなでてくれますか、でてくれるでしょうね」という。
「おれはいやだ」としゅじんはすぐこたえる。
「なぜですか。
わたしのいっしょうにいちどのたいれいですばい。
でてくんなさらんか。
すこしふにんじょうのごたるな」
「ふにんじょうじゃないが、おれはでないよ」
「きものがないですか。
はおりとはかまくらいどうでもしますたい。
ちとひとなかへもでるがよかたいせんせい。
ゆうめいなひとにしょうかいしてあげます」
「まっぴらごめんだ」
「いびょうが癒りますばい」
「癒らんでもさしつかえない」
「そげんがんこはりなさるならやむをえません。
あなたはどうですきてくれますか」
「ぼくかね、ぜひいくよ。
できるならばいしゃくにんたるのさかえをえたいくらいのものだ。
しゃんぱんのさんさんくどやはるのよい。
――なになこうどはすずきのふじさんだって?なるほどそこいらだろうとおもった。
これはざんねんだがしかたがない。
なこうどがににんできてもおおすぎるだろう、ただのにんげんとしてまさにしゅっせきするよ」
「あなたはどうです」
「ぼくですか、いちさおふうげつ閑せいけい、ひとつりしろ蘋紅たでかん」
「なにですかそれは、とうしせんですか」
「なんだかわからんです」
「わからんですか、こまりますな。
かんげつくんはでてくれるでしょうね。
いままでのかんけいもあるから」
「きっとでることにします、ぼくのつくったきょくをがくたいがそうするのを、ききおとすのはざんねんですからね」
「そうですとも。
きみはどうですとうふうくん」
「そうですね。
でてごりょうにんのまえでしんたいしをろうどくしたいです」
「そりゃゆかいだ。
せんせいわたしはうまれてから、こんなゆかいなことはないです。
だからもういちはいびーるをのみます」とじぶんでかってきたびーるをいちにんでぐいぐいのんでまっかになった。
みじかかいあきのひはようやくくれて、まきたばこのしがいがさんをみだすひばちのなかをみればひはとくのむかしにきえている。
さすがのんきのれんちゅうもすこしくきょうがつきたとみえて、「おおいたおそくなった。
もうかえろうか」とまずどくせんくんがたちあがる。
つづいて「ぼくもかえる」とくちぐちにげんかんにでる。
よせがはねたあとのようにざしきはさびしくなった。
しゅじんはゆうはんをすましてしょさいにはいる。
さいくんははだかんのじばんのえりをかきあわせて、あらいざらしのふだんぎをぬう。
しょうきょうはまくらをならべてねる。
げじょはゆにいった。
のんきとみえるひとびとも、こころのそこをたたいてみると、どこかかなしいおとがする。
さとったようでもどくせんくんのあしはやはりじめんのほかはふまぬ。
きらくかもしれないが迷亭くんのよのなかはえにかいたよのなかではない。
かんげつくんはたますりをやめてとうとうおくにからおくさんをつれてきた。
これがじゅんとうだ。
しかしじゅんとうがながくつづくとさだめしたいくつだろう。
とうふうきみもいまじゅうねんしたら、むあんにしんたいしをささげることのひをさとるだろう。
さんぺいくんにいたってはみずにすむひとか、やまにすむひとかちとかんていがむずかしい。
しょうがいさんむちしゅをごちそうしてとくいとおもうことができればけっこうだ。
すずきのふじさんはどこまでもころがっていく。
ころがればどろがつく。
どろがついてもころがれぬものよりもはばがきく。
ねことうまれてひとのよにすむこともはやにねんごしになる。
じぶんではこれほどのけんしきかはまたとあるまいとおもうていたが、せんだってかーてる・むるというみずしらずのどうぞくがとつぜんたいき※をあげたので、ちょっとびっくりした。
よくよくきいてみたら、じつはひゃくねんまえにしんだのだが、ふとしたこうきしんからわざとゆうれいになってわがはいをおどろかせるために、とおいめいどからしゅっちょうしたのだそうだ。
このねこはははとたいめんをするとき、あいさつのしるしとして、いちひきのさかなを啣えてでかけたところ、とちゅうでとうとうがまんがしきれなくなって、じぶんでくってしまったというほどのふこうものだけあって、さいきもなかなかにんげんにまけぬほどで、あるときなどはしをつくってしゅじんをおどろかしたこともあるそうだ。
こんなごうけつがすでにいちせいきもまえにしゅつげんしているなら、わがはいのようなろくでなしはとうにごひまをちょうだいしてむなんゆうさとにきがしてもいいはずであった。
しゅじんはそうばんいびょうでしぬ。
かねだのじいさんはよくでもうしんでいる。
あきのこのははたいがいおちつくした。
しぬのがばんぶつのじょうぎょうで、いきていてもあんまりやくにたたないなら、はやくしぬだけがけんこいかもしれない。
しょせんせいのせつにしたがえばにんげんのうんめいはじさつにきするそうだ。
ゆだんをするとねこもそんなきゅうくつなよにうまれなくてはならなくなる。
おそるべきことだ。
なんだかきがくさくさしてきた。
さんぺいくんのびーるでものんでちとけいきをつけてやろう。
かってへめぐる。
あきかぜにがたつくとがさいもくにあいてるまからふきこんだとみえてらんぷはいつのまにかきえているが、つきよとおもわれてまどからかげがさす。
こっぷがぼんのうえにみっつならんで、そのふたつにちゃいろのみずがはんぶんほどたまっている。
がらすのなかのものはゆでもつめたいきがする。
ましてよさむのつきかげにてらされて、しずかにひけしつぼとならんでいるこのえきたいのことだから、くちびるをつけぬさきからすでにさむくてのみたくもない。
しかしものはためしだ。
さんぺいなどはあれをのんでから、まっかになって、あつくるしいいきづかいをした。
ねこだってのめばようきにならんこともあるまい。
どうせいつしぬかしれぬいのちだ。
なにでもいのちのあるうちにしておくことだ。
しんでからああざんねんだとはかばのかげからくやんでもおっつかない。
おもいきってのんでみろと、ぜいよくしたをいれてぴちゃぴちゃやってみるとおどろいた。
なんだかしたのさきをはりでさされたようにぴりりとした。
にんげんはなにのよいきょうでこんなくさったものをのむのかわからないが、ねこにはとてものみきれない。
どうしてもねことびーるはせいがあわない。
これはたいへんだといちどはだしたしたをひきこめてみたが、またかんがえなおした。
にんげんはくちぐせのようにりょうやくぐちににがしといってかぜなどをひくと、かおをしかめてへんなものをのむ。
のむから癒るのか、癒るのにのむのか、いままでぎもんであったがちょうどいいこうだ。
このもんだいをびーるでかいけつしてやろう。
のんではらのうちまでにがくなったらそれまでのこと、もしさんぺいのようにぜんごをわすれるほどゆかいになればくうぜんのもうけしゃで、きんじょのねこへおしえてやってもいい。
まあどうなるか、うんをてんにまかせて、やっつけるとけっしんしてふたたびしたをだした。
めをあいているとのみにくいから、しっかりねむって、またぴちゃぴちゃはじめた。
わがはいはがまんにがまんをかさねて、ようやくいちはいのびーるをのみほしたとき、みょうなげんしょうがおこった。
はじめはしたがぴりぴりして、くちじゅうががいぶからあっぱくされるようにくるしかったのが、のむにしたがってようやくらくになって、いちはいめをかたづけるじぶんにはべつだんほねもおれなくなった。
もうだいじょうぶとにはいめはなんなくやっつけた。
ついでにぼんのうえにこぼれたのもぬぐうがごとくはらないにおさめた。
それからしばらくのまはじぶんでじぶんのどうせいをうかがうため、じっとすくんでいた。
しだいにからだがあたたかになる。
めのふちがぽうっとする。
みみがほてる。
うたがうたいたくなる。
ねこじゃねこじゃがおどりたくなる。
しゅじんも迷亭もどくせんもくそをくえというきになる。
かねだのじいさんをひっかいてやりたくなる。
さいくんのはなをくいかきたくなる。
いろいろになる。
さいごにふらふらとたちたくなる。
おこったらよたよたあるきたくなる。
こいつはおもしろいとそとへでたくなる。
でるとごつきさまこんばんはとあいさつしたくなる。
どうもゆかいだ。
とうぜんとはこんなことをいうのだろうとおもいながら、あてもなく、そこかしことさんぽするような、しないようなこころもちでしまりのないあしをいいかげんにはこばせてゆくと、なんだかしきりにねむい。
ねているのだか、あるいてるのだかはんぜんしない。
めはあけるつもりだがおもいことおびただしい。
こうなればそれまでだ。
うみだろうが、やまだろうがおどろきろかないんだと、まえあしをぐにゃりとまえへだしたとおもうとたんぼちゃんとおとがして、はっといううち、――やられた。
どうやられたのかかんがえるまがない。
ただやられたなときがつくか、つかないのにあとはめちゃくちゃになってしまった。
わがにかえったときはみずのうえにういている。
くるしいからつめでもってやたらにかいたが、かけるものはみずばかりで、かくとすぐもぐってしまう。
しかたがないからあとあしでとびのぼっておいて、まえあしでかいたら、がりりとおとがしてわずかにて応があった。
ようやくあたまだけうくからどこだろうとみまわわすと、わがはいはおおきなうのなかにおちている。
このうはなつまでみずあおいとしょうするみずくさがしげっていたがそのごからすのかんおおやけがきてあおいをくいつくしたうえにぎょうずいをつかう。
ぎょうずいをつかえばみずがへる。
へればこなくなる。
きんらいはおおいたげんってからすがみえないなとせんこくおもったが、わがはいじしんがからすのかわりにこんなところでぎょうずいをつかおうなどとはおもいもよらなかった。
みずからえんまではよんすんよもある。
あしをのばしてもとどかない。
とびのぼってもでられない。
のんきにしていればしずむばかりだ。
もがけばがりがりとうにつめがあたるのみで、あたったときは、すこしうくきみだが、すべればたちまちぐっともぐる。
もぐればくるしいから、すぐがりがりをやる。
そのうちからだがつかれてくる。
きはあせるが、あしはさほどきかなくなる。
ついにはもぐるためにうをかくのか、かくためにもぐるのか、じぶんでもわかりにくくなった。
そのときくるしいながら、こうかんがえた。
こんなかしゃくにあうのはつまりうからうえへあがりたいばかりのねがいである。
あがりたいのはやまやまであるがあがれないのはしれきっている。
わがはいのあしはさんすんにたらぬ。
よしみずのめんにからだがういて、ういたところからおもうぞんぶんまえあしをのばしたってごすんにあまるうのえんにつめのかかりようがない。
うのふちにつめのかかりようがなければいくらもかいても、あせっても、ひゃくねんのまみをこなにしてもでられっこない。
でられないとわかりきっているものをでようとするのはむりだ。
むりをとおそうとするからくるしいのだ。
つまらない。
みずからもとめてくるしんで、みずからこのんでごうもんにかかっているのはばかきている。
「もうよそう。
かってにするがいい。
がりがりはこれぎりごめんこうむるよ」と、まえあしも、あとあしも、あたまもおもしぜんのちからにまかせてていこうしないことにした。
しだいにらくになってくる。
くるしいのだかありがたいのだかけんとうがつかない。
みずのなかにいるのだか、ざしきのうえにいるのだか、はんぜんしない。
どこにどうしていてもさしつかえはない。
ただらくである。
いならくそのものすらもかんじえない。
じつげつをきりおとし、てんちをこな韲してふかしぎのたいへいにはいる。
わがはいはしぬ。
しんでこのたいへいをえる。
たいへいはしななければえられぬ。
なむあみだぶつなむあみだぶつ。
ありがたいありがたい。