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# 底本:「夏目漱石全集1」ちくま文庫、筑摩書房
#    1987(昭和62)年9月29日第1刷発行
# 底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
#    1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
# 入力:柴田卓治
# 校正:渡部峰子(一)、おのしげひこ(二、五)、田尻幹二(三)、高橋真也(四、七、八、十、十一)、しず(六)、瀬戸さえ子(九)
# 1999年9月17日公開
# 2009年10月25日修正
# 青空文庫作成ファイル:
# このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
#
わがはいはねこである。
なまえはまだない。
どこでうまれたかとんとけんとうがつかぬ。
なにでもうすぐらいじめじめしたところでにゃーにゃーないていたことだけはきおくしている。
わがはいはここではじめてにんげんというものをみた。
しかもあとできくとそれはしょせいというにんげんちゅうでいちばんどうあくなしゅぞくであったそうだ。
このしょせいというのはときどきわれわれをとらえてにてくうというはなしである。
しかしそのとうじはなにというこうもなかったからべつだんこわしいともおもわなかった。
ただかれのてのひらにのせられてすーともちあげられたときなんだかふわふわしたかんじがあったばかりである。
てのひらのうえですこしおちついてしょせいのかおをみたのがいわゆるにんげんというもののみはじめであろう。
このときみょうなものだとおもったかんじがいまでものこっている。
だいいちもうをもってそうしょくされべきはずのかおがつるつるしてまるでやかんだ。
そのごねこにもだいぶあったがこんなかたわにはいちどもであわしたことがない。
のみならずかおのまんなかがあまりにとっきしている。
そうしてそのあなのなかからときどきぷうぷうとけむりをふく。
どうものんどせぽくてじつによわった。
これがにんげんののむたばこというものであることはようやくこのころしった。
このしょせいのてのひらのうらでしばらくはよいこころもちにすわっておったが、しばらくするとひじょうなそくりょくでうんてんしはじめた。
しょせいがうごくのかじぶんだけがうごくのかわからないがむあんにめがめぐる。
むねがわるくなる。
とうていたすからないとおもっていると、どさりとおとがしてめからひがでた。
それまではきおくしているがあとはなにのことやらいくらかんがえだそうとしてもわからない。
ふときがついてみるとしょせいはいない。
たくさんおったきょうだいがいっぴきもみえぬ。
かんじんのははおやさえすがたをかくしてしまった。
そのかみいままでのところとはちがってむあんにあかるい。
めをあいていられぬくらいだ。
はてななにでもようすがおかしいと、のそのそはいだしてみるとひじょうにいたい。
わがはいはわらのうえからきゅうにささはらのなかへすてられたのである。
ようやくのおもいでささはらをはいだすとむこうにおおきないけがある。
わがはいはいけのまえにすわってどうしたらよかろうとかんがえてみた。
べつにこれというふんべつもでない。
しばらくしてないたらしょせいがまたむかえにきてくれるかとかんがえついた。
にゃー、にゃーとこころみにやってみたがだれもこない。
そのうちいけのうえをさらさらとかぜがわたってひがくれかかる。
はらがひじょうにへってきた。
なきたくてもこえがでない。
しかたがない、なにでもよいからしょくもつのあるところまであるこうとけっしんをしてそろりそろりといけをひだりりにまわりはじめた。
どうもひじょうにくるしい。
そこをがまんしてむりやりにはっていくとようやくのことでなんとなくにんげんくさいところへでた。
ここへはいいったら、どうにかなるとおもってたけがきのくずれたあなから、とあるやしきないにもぐりこんだ。
えんはふしぎなもので、もしこのたけがきがやぶれていなかったなら、わがはいはついにろぼうにがししたかもしれんのである。
いちじゅのかげとはよくゆったものだ。
このかきねのあなはきょうにいたるまでわがはいがりんかのさんもうをほうもんするときのつうろになっている。
さてやしきへはしのびこんだもののこれからさきどうしてよいかわからない。
そのうちにくらくなる、はらはへる、さむさはさむし、あめがふってくるというしまつでもういっこくのゆうよができなくなった。
しかたがないからとにかくあかるくてあたたかそうなほうへかたへとあるいていく。
いまからかんがえるとそのときはすでにいえのうちにはいいっておったのだ。
ここでわがはいはかれのしょせいいがいのにんげんをふたたびみるべききかいにそうぐうしたのである。
だいいちにあったのがおさんである。
これはまえのしょせいよりいっそうらんぼうなほうでわがはいをみるやいなやいきなり頸筋をつかんでひょうへほうりだした。
いやこれはだめだとおもったからめをねぶってうんをてんにまかせていた。
しかしひもじいのとさむいのにはどうしてもがまんができん。
わがはいはふたたびおさんのひまをみてだいどころへはいのぼった。
するとまもなくまたなげだされた。
わがはいはなげだされてははいのぼり、はいのぼってはなげだされ、なにでもおなじことをよんごへんくりかえしたのをきおくしている。
そのときにおさんというものはつくづくいやになった。
このかんおさんのさんうまを偸んでこのへんぽうをしてやってから、やっとむねの痞がおりた。
わがはいがさいごにつまみだされようとしたときに、このいえのしゅじんがそうぞうしいなにだといいながらでてきた。
げじょはわがはいをぶらさげてしゅじんのほうへむけてこのやどなしのしょうねこがいくらだしてもだしてもみだいしょへのぼってきてこまりますという。
しゅじんははなのもとのくろいけをよりながらわがはいのかおをしばらくながめておったが、やがてそんならうちへおいてやれといったままおくへはいいってしまった。
しゅじんはあまりくちをきかぬひととみえた。
げじょはくやしそうにわがはいをだいどころへほうりだした。
かくしてわがはいはついにこのいえをじぶんのじゅうかときわめることにしたのである。
わがはいのしゅじんはめったにわがはいとかおをあわせることがない。
しょくぎょうはきょうしだそうだ。
がっこうからかえるとしゅうじつしょさいにはいいったぎりほとんどでてくることがない。
いえのものはたいへんなべんきょうかだとおもっている。
とうにんもべんきょうかであるかのごとくみせている。
しかしじっさいはうちのものがいうようなきんべんかではない。
わがはいはときどきしのびあしにかれのしょさいをのぞいてみるが、かれはよくひるねをしていることがある。
ときどきよみかけてあるほんのうえによだれをたらしている。
かれはいじゃくでひふのいろがあわきいろをおびてだんりょくのないふかっぱつなちょうこうをあらわしている。
そのくせにおおいをくう。
おおめしをくったのちでたかじやすたーぜをのむ。
のんだのちでしょもつをひろげる。
にさんぺーじよむとねむくなる。
よだれをほんのうえへたらす。
これがかれのまいよくりかえすにっかである。
わがはいはねこながらときどきかんがえることがある。
きょうしというものはじつにらくなものだ。
にんげんとうまれたらきょうしとなるにかぎる。
こんなにねていてつとまるものならねこにでもできぬことはないと。
それでもしゅじんにいわせるときょうしほどつらいものはないそうでかれはともだちがくるたびになんとかかんとかふへいをならしている。
わがはいがこのいえへすみこんだとうじは、しゅじんいがいのものにははなはだふじんぼうであった。
どこへいってもはねつけられてあいてにしてくれてがなかった。
いかにちんちょうされなかったかは、きょうにいたるまでなまえさえつけてくれないのでもわかる。
わがはいはしかたがないから、できえるかぎりわがはいをいれてくれたしゅじんのはたにいることをつとめた。
あさしゅじんがしんぶんをよむときはかならずかれのひざのうえにのる。
かれがひるねをするときはかならずそのせなかにのる。
これはあながちしゅじんがすきというわけではないがべつにかまいしゅがなかったからやむをえんのである。
そのごいろいろけいけんのうえ、あさはめしびつのうえ、よるはこたつのうえ、てんきのよいひるは椽側へねることとした。
しかしいちばんこころもちのよいのはよるにはいってここのうちのしょうきょうのねどこへもぐりこんでいっしょにねることである。
このしょうきょうというのはいつつとみっつでよるになるとににんがひとつゆかへはいっていっけんへねる。
わがはいはいつでもかれらのちゅうかんにおのれれをようるべきよちをみいだしてどうにか、こうにかわりこむのであるが、うんわるくしょうきょうのいちにんがめをさますがさいごたいへんなことになる。
しょうきょうは――ことにちいさいほうがしつがわるい――ねこがきたねこがきたといってよなかでもなにでもおおきなこえでなきだすのである。
するとれいのしんけいいじゃくせいのしゅじんはかならずめをさましてつぎのへやからとびだしてくる。
げんにせんだってなどはものゆびでしりぺたをひどくたたかれた。
わがはいはにんげんとどうきょしてかれらをかんさつすればするほど、かれらはわがままなものだとだんげんせざるをえないようになった。
ことにわがはいがときどきどうきんするしょうきょうのごときにいたってはげんごどうだんである。
じぶんのかってなときはひとをさかさにしたり、あたまへふくろをかぶせたり、ほうりだしたり、へっついのなかへおしこんだりする。
しかもわがはいのほうですこしでもてだしをしようものならやないそうがかりでおいまわしてはくがいをくわえる。
このかんもちょっとたたみでつめをみがいだらさいくんがひじょうにおこってそれからよういにざしきへいれない。
だいどころのいたのまでたが顫えていてもいっこうへいきなものである。
わがはいのそんけいするすじむこうのしろくんなどはあうどごとににんげんほどふにんじょうなものはないといっておらるる。
はくくんはせんじつだまのようなこねこをよん疋うまれたのである。
ところがそこのいえのしょせいがさんにちめにそいつをうらのいけへもっていってよん疋ながらすててきたそうだ。
はくくんはなみだをながしてそのいちぶしじゅうをはなしたうえ、どうしてもわがとうねこぞくがおやこのあいをかんくしてうつくしいかぞくてきせいかつをするにはにんげんとたたかってこれをそうめつせねばならぬといわれた。
いちいちもっとものぎろんとおもう。
またとなりのさんもうくんなどはにんげんがしょゆうけんということをかいしていないといってだいにふんがいしている。
がんらいわれわれどうぞくかんではめとげのあたまでもぼらのほぞでもいちばんさきにみつけたものがこれをくうけんりがあるものとなっている。
もしあいてがこのきやくをまもらなければわんりょくにうったえてよいくらいのものだ。
しかるにかれらにんげんはごうもこのかんねんがないとみえてわがとうがみつけたごちそうはかならずかれらのためにりゃくだつせらるるのである。
かれらはそのきょうりょくをたのんでせいとうにわれじんがくいえべきものをうばってすましている。
はくくんはぐんじんのいえにおりさんもうくんはだいげんのしゅじんをもっている。
わがはいはきょうしのいえにすんでいるだけ、こんなことにかんするとりょうくんよりもむしろらくてんである。
ただそのひそのひがどうにかこうにかおくられればよい。
いくらにんげんだって、そういつまでもさかえることもあるまい。
まあきをながくねこのじせつをまつがよかろう。
わがままでおもいだしたからちょっとわがはいのいえのしゅじんがこのわがままでしっぱいしたはなしをしよう。
がんらいこのしゅじんはなにといってひとにすぐれてできることもないが、なににでもよくてをだしたがる。
はいくをやってほととぎすへとうしょをしたり、しんたいしをみょうじょうへだしたり、まちがいだらけのえいぶんをかいたり、ときによるとゆみにこったり、うたいをならったり、またあるときはゔぁいおりんなどをぶーぶーならしたりするが、きのどくなことには、どれもこれもものになっておらん。
そのくせやりだすといじゃくのくせにいやにねっしんだ。
こうかのなかでうたいをうたって、きんじょでこうかせんせいとあだなをつけられているにもかんせずいっこうへいきなもので、やはりこれはたいらのむねさかりにてこうをくりかえしている。
みんながそらむねさかりだとふきだすくらいである。
このしゅじんがどういうこうになったものかわがはいのすみこんでからいちがつばかりごのあるつきのげっきゅうびに、おおきなつつみをさげてあわただしくかえってきた。
なにをかってきたのかとおもうとすいさいえのぐともうひつとわっとまんというかみできょうからうたいやはいくをやめてえをかくけっしんとみえた。
はたしてよくじつからとうぶんのまというものはまいにちまいにちしょさいでひるねもしないでえばかりかいている。
しかしそのかきあげたものをみるとなにをかいたものやらだれにもかんていがつかない。
とうにんもあまりあまくないとおもったものか、あるひそのゆうじんでびがくとかをやっているひとがきたときにしたのようなはなしをしているのをきいた。
「どうもあまくかけないものだね。
ひとのをみるとなんでもないようだがみずからひつをとってみるといまさらのようにむずかしくかんずる」これはしゅじんのじゅっかいである。
なるほどいつわりのないところだ。
かれのともはきんぶちのめがねえつにしゅじんのかおをみながら、「そうはじめからじょうずにはかけないさ、だいいっしつないのそうぞうばかりでががかけるわけのものではない。
むかしし以太りのおおやあんどれあ・でる・さるとがいったことがある。
がをかくならなにでもしぜんそのものをうつせ。
てんにせいしんあり。
ちにろはなあり。
とぶに禽あり。
はしるにししあり。
いけにきんぎょあり。
かれきにかんからすあり。
しぜんはこれいちはばのだいかつがなりと。
どうだきみもがらしいがをかこうとおもうならちとしゃせいをしたら」
「へえあんどれあ・でる・さるとがそんなことをいったことがあるかい。
ちっともしらなかった。
なるほどこりゃもっともだ。
じつにそのとおりだ」としゅじんはむあんにかんしんしている。
きんぶちのうらにはあざけけるようなえみがみえた。
そのよくじつわがはいはれいのごとく椽側にでてこころもちよくひるねをしていたら、しゅじんがれいになくしょさいからでてきてわがはいのうしろでなにかしきりにやっている。
ふとめがさめてなにをしているかといちふんばかりさいもくにめをあけてみると、かれはよねんもなくあんどれあ・でる・さるとをきめこんでいる。
わがはいはこのありさまをみておぼえずしっしょうするのをきんじえなかった。
かれはかれのともにやゆせられたるけっかとしてまずてはじめにわがはいをしゃせいしつつあるのである。
わがはいはすでにじゅうぶんねた。
あくびがしたくてたまらない。
しかしせっかくしゅじんがねっしんにふでをとっているのをうごいてはきのどくだとおもって、じっとからしぼうしておった。
かれはいまわがはいのりんかくをかきあげてかおのあたりをいろいろどっている。
わがはいはじはくする。
わがはいはねことしてけっしてじょうじょうのできではない。
せといいけなみといいがおのぞうさといいあえてたのねこにまさるとはけっしておもっておらん。
しかしいくらぶきりょうのわがはいでも、いまわがはいのしゅじんにえがきだされつつあるようなみょうなすがたとは、どうしてもおもわれない。
だいいっしょくがちがう。
わがはいはなみ斯産のねこのごとくきをふくめるあわはいいろにうるしのごときふいりのひふをゆうしている。
これだけはだれがみてもうたがうべからざるじじつとおもう。
しかるにこんしゅじんのさいしきをみると、きでもなければくろでもない、はいいろでもなければかっしょくでもない、さればとてこれらをまぜたいろでもない。
ただいちしゅのいろであるというよりほかにひょうしかたのないいろである。
そのうえふしぎなことはめがない。
もっともこれはねているところをしゃせいしたのだからむりもないがめらしいところさえみえないからめくらねこだかねているねこだかはんぜんしないのである。
わがはいはしんじゅうひそかにいくらあんどれあ・でる・さるとでもこれではしようがないとおもった。
しかしそのねっしんにはかんぷくせざるをえない。
なるべくならうごかずにおってやりたいとおもったが、さっきからしょうべんが催うしている。
みうちのきんにくはむずむずする。
もはやいちふんもゆうよができぬしぎとなったから、やむをえずしっけいしてりょうあしをまえへぞんぶんのして、くびをひくくおしだしてあーあとだいなるあくびをした。
さてこうなってみると、もうおとなしくしていてもしかたがない。
どうせしゅじんのよていはうち壊わしたのだから、ついでにうらへいってようをたそうとおもってのそのそはいだした。
するとしゅじんはしつぼうといかりをかきまぜたようなこえをして、ざしきのなかから「このばかやろう」とどなった。
このしゅじんはひとをののしるときはかならずばかやろうというのがくせである。
ほかにわるぐちのいいようをしらないのだからしかたがないが、いままでからしぼうしたひとのきもしらないで、むあんにばかやろうこわりはしっけいだとおもう。
それもへいぜいわがはいがかれのせなかへのるときにすこしはよいかおでもするならこのまんばもあまんじてうけるが、こっちのべんりになることはなにひとつこころよくしてくれたこともないのに、しょうべんにたったのをばかやろうとはひどい。
がんらいにんげんというものはじこのりきりょうに慢じてみんなぞうちょうしている。
すこしにんげんよりつよいものがでてきてたしなめてやらなくてはこのさきどこまでぞうちょうするかわからない。
わがままもこのくらいならがまんするがわがはいはにんげんのふとくについてこれよりもすうばいかなしむべきほうどうをみみにしたことがある。
わがはいのいえのうらにじゅうつぼばかりのちゃえんがある。
ひろくはないがしょうしゃとしたこころもちよくひのあたるところだ。
うちのしょうきょうがあまりさわいでらくらくひるねのできないときや、あまりたいくつではらかげんのよくないおりなどは、わがはいはいつでもここへでてこうぜんのきをやしなうのがれいである。
あるこはるの穏かなびのにじごろであったが、わがはいはひるめしごかいよくいっすいしたのち、うんどうかたがたこのちゃえんへとふをはこばした。
ちゃのきのねをいちほんいちほんかぎながら、にしがわのすぎかきのそばまでくると、枯菊をおしたおしてそのうえにおおきなねこがぜんごふかくにねている。
かれはわがはいのちかづくのもいっこうこころづかざるごとく、またこころづくもむとんじゃくなるごとく、おおきないびきをしてながながとからだをよこえてねむっている。
たのにわないにしのびいりたるものがかくまでへいきにねむられるものかと、わがはいはひそかにそのだいたんなるどきょうにおどろかざるをえなかった。
かれはじゅんすいのくろねこである。
わずかにうまをすぎたるたいようは、とうめいなるこうせんをかれのひふのうえにほうげかけて、きらきらするやわらけのまよりめにみえぬほのおでももえでずるようにおもわれた。
かれはねこちゅうのだいおうともいうべきほどのいだいなるたいかくをゆうしている。
わがはいのばいはたしかにある。
わがはいはたんしょうのねんと、こうきのこころにぜんごをわすれてかれのまえにちょりつしてよねんもなくながめていると、しずかなるこはるのかぜが、すぎかきのうえからでたるあおぎりのえだをかるくさそってばらばらとにさんまいのはが枯菊のしげみにおちた。
だいおうはかっとそのまんまるのめをひらいた。
いまでもきおくしている。
そのめはにんげんのちんちょうするこはくというものよりもはるかにうつくしくかがやいていた。
かれはみうごきもしない。
そうぼうのおくからいるごときひかりをわがはいのわいしょうなるがくのうえにあつめて、ごめえはいったいなにだとゆった。
だいおうにしてはしょうしょうことばがいやしいとおもったがなにしろそのこえのそこにいぬをも挫しぐべきりょくがこもっているのでわがはいはすくなからずおそれをだいた。
しかしあいさつをしないとけん呑だとおもったから「わがはいはねこである。
なまえはまだない」となるべくへいきをよそおってれいぜんとこたえた。
しかしこのときわがはいのしんぞうはたしかにへいじよりもはげしくこどうしておった。
かれはだいにけいべつせるちょうしで「なに、ねこだ?ねこがきいてあきれらあ。
すべてえどこにすんでるんだ」ずいぶんぼうじゃくぶじんである。
「わがはいはここのきょうしのいえにいるのだ」「どうせそんなことだろうとおもった。
いやにやせてるじゃねえか」とだいおうだけにきえんをふきかける。
ことばづけからさっするとどうもりょうけのねこともおもわれない。
しかしそのあぶらきってひまんしているところをみるとごちそうをくってるらしい、ゆたかにくらしているらしい。
わがはいは「そういうきみはいったいだれだい」ときかざるをえなかった。
「おのれれあくるまやのくろよ」こうぜんたるものだ。
くるまやのくろはこのきんぺんでしらぬものなきらんぼうねこである。
しかしくるまやだけにつよいばかりでちっともきょういくがないからあまりだれもこうさいしない。
どうめいけいえんしゅぎのまとになっているやつだ。
わがはいはかれのなをきいてしょうしょうしりこそばゆきかんじをおこすとどうじに、いっぽうではしょうしょうけいぶのねんもしょうじたのである。
わがはいはまずかれがどのくらいむがくであるかをためしてみようとおもってひだりのもんどうをしてみた。
「いったいしゃやときょうしとはどっちがえらいだろう」
「くるまやのほうがつよいにきょくっていらあな。
ごめえのうちのしゅじんをみねえ、まるでほねとかわばかりだぜ」
「きみもくるまやのねこだけにおおいたきょうそうだ。
くるまやにいるとごちそうがくえるとみえるね」
「なににおれなんざ、どこのくにへいったってくいものにふじゆうはしねえつもりだ。
ごめえなんかもちゃはたけばかりぐるぐるまわっていねえで、ちっとおのれののちへくっついてきてみねえ。
いちとつきとたたねえうちにみちがえるようにふとれるぜ」
「おってそうねがうことにしよう。
しかしいえはきょうしのほうがくるまやよりおおきいのにすんでいるようにおもわれる」
「へらぼうめ、うちなんかいくらおおきくたってはらのたしになるもんか」
かれはだいにかんしゃくにさわったようすで、かんちくをそいだようなみみをしきりとぴくつかせてあららかにたちさった。
わがはいがくるまやのくろとちきになったのはこれからである。
そのごわがはいはたびたびくろとかいこうする。
かいこうするごとにかれはくるまやそうとうのきえんをはく。
さきにわがはいがみみにしたというふとくじけんもじつはくろからきいたのである。
あるるひれいのごとくわがはいとくろはあたたかいちゃはたけのなかでねころびながらいろいろざつだんをしていると、かれはいつものじまんはなしをさもあたらしそうにくりかえしたあとで、わがはいにむかってしたのごとくしつもんした。
「ごめえはいままでにねずみをなんひきとったことがある」ちしきはくろよりもよほどはったつしているつもりだがわんりょくとゆうきとにいたってはとうていくろのひかくにはならないとかくごはしていたものの、このといにせっしたるときは、さすがにきまりがよくはなかった。
けれどもじじつはじじつで詐るわけにはいかないから、わがはいは「じつはとろうとろうとおもってまだとらない」とこたえた。
くろはかれのはなのさきからぴんと突はっているながいひげをびりびりとふるわせてひじょうにわらった。
がんらいくろはじまんをするたけにどこかたりないところがあって、かれのきえんをかんしんしたようにいんこうをころころならしてきんちょうしていればはなはだぎょしやすいねこである。
わがはいはかれとこんづけになってからじかにこのこきゅうをのみこんだからこのばあいにもなまじいおのれれをべんごしてますますけいせいをわるくするのもぐである、いっそのことかれにじぶんのてがらばなしをしゃべらしてごちゃをにごすにわかくはないとしあんをさだめた。
そこでおとなしく「きみなどはとしがとしであるからだいぶとったろう」とそそのかしてみた。
かぜんかれは墻壁のけつしょにとっかんしてきた。
「たんとでもねえがさんよんじゅうはとったろう」とはとくいげなるかれのこたえであった。
かれはなおかたりをつづけて「ねずみのひゃくやにひゃくはいちにんでいつでもひきうけるがいたちってえやつはてにあわねえ。
いちどいたちにむかってひどいめにあった」「へえなるほど」とあいづちをうつ。
くろはおおきなめをぱちつかせていう。
「きょねんのだいそうじのときだ。
うちのていしゅがせっかいのふくろをもって椽のしたへはいこんだらごめえおおきないたちのやろうがめんくってとびだしたとおもいねえ」「ふん」とかんしんしてみせる。
「いたちってけどもなにねずみのすこしおおきいぐれえのものだ。
こんちくしょうってきでおっかけてとうとうどろみぞのなかへおいこんだとおもいねえ」「うまくやったね」とかっさいしてやる。
「ところがごめえいざってえだんになるとやっこめさいごっぺをこきゃがった。
におえのくさくねえのってそれからってえものはいたちをみるとむねがわるくならあ」かれはここにいたってあたかもきょねんのしゅうきをいまなおかんずるごとくまえあしをあげてはなのあたまをにさんへんなでめぐわした。
わがはいもしょうしょうきのどくなかんじがする。
ちっとけいきをつけてやろうとおもって「しかしねずみならきみににらまれてはひゃくねんめだろう。
きみはあまりねずみをとるのがめいじんでねずみばかりくうものだからそんなにふとっていろつやがよいのだろう」くろのごきげんをとるためのこのしつもんはふしぎにもはんたいのけっかをていしゅつした。
かれは喟然としてたいそくしていう。
「こうげえるとつまらねえ。
いくらかせいでねずみをとったって――いちてえにんげんほどふてえやつはよのなかにいねえぜ。
ひとのとったねずみをみんなとりあげやがってこうばんへもっていきゃあがる。
こうばんじゃだれがとったかわからねえからそのたんびにごせんずつくれるじゃねえか。
うちのていしゅなんかおのれのおかげでもういちえんごじゅうせんくらいもうけていやがるくせに、ろくなものをくわせたこともありゃしねえ。
おいにんげんてものあからだのよいどろぼうだぜ」さすがむがくのくろもこのくらいのりくつはわかるとみえてすこぶるおこったようすでせなかのけをさかだてている。
わがはいはしょうしょうきみがわるくなったからよいかげんにそのばをえびすまかしていえへかえった。
このときからわがはいはけっしてねずみをとるまいとけっしんした。
しかしくろのこぶんになってねずみいがいのごちそうをりょうってあるくこともしなかった。
ごちそうをくうよりもねていたほうがきらくでいい。
きょうしのいえにいるとねこもきょうしのようなせいしつになるとみえる。
ようじんしないといまにいじゃくになるかもしれない。
きょうしといえばわがはいのしゅじんもちかごろにいたってはとうていすいさいがにおいてもちのないことをさとったものとみえてじゅうにがついちにちのにっきにこんなことをかきつけた。
○○というひとにきょうのかいではじめてであった。
あのひとはおおいたほうとうをしたひとだというがなるほどつうじんらしいふうさいをしている。
こういうしつのひとはおんなにすかれるものだから○○がほうとうをしたというよりもほうとうをするべくよぎなくせられたというのがてきとうであろう。
あのひとのさいくんはげいしゃだそうだ、うらやましいことである。
がんらいほうとうかをわるくいうひとのだいぶぶんはほうとうをするしかくのないものがおおい。
またほうとうかをもってじにんするれんちゅうのうちにも、ほうとうするしかくのないものがおおい。
これらはよぎなくされないのにむりにすすんでやるのである。
あたかもわがはいのすいさいがにおけるがごときものでとうていそつぎょうするきづかいはない。
しかるにもかんせず、じぶんだけはつうじんだとおもってなしている。
りょうりやのさけをのんだりまちあいへはいいるからつうじんとなりえるというろんがたつなら、わがはいもひとかどのすいさいがかになりえるりくつだ。
わがはいのすいさいがのごときはかかないほうがましであるとおなじように、ぐまいなるつうじんよりもやまだしのだいやぼのほうがはるかにじょうとうだ。
つうじんろんはちょっとしゅこうしかねる。
またげいしゃのさいくんをともしいなどというところはきょうしとしてはくちにすべからざるぐれつのこうであるが、じこのすいさいがにおけるひひょうめだけはたしかなものだ。
しゅじんはかくのごとくじちのめいあるにもかんせずそのじ惚心はなかなかぬけない。
ちゅうににちおいてじゅうにがつよんにちのにっきにこんなことをかいている。
さくやはぼくがすいさいがをかいてとうていものにならんとおもって、そこらにほうっておいたのをだれかがりっぱながくにしてらんまにかけてくれたゆめをみた。
さてがくになったところをみるとわがながらきゅうにじょうずになった。
ひじょうにうれしい。
これならりっぱなものだとひとりでながめくらしていると、よるがあけてめがさめてやはりもとのとおりへたであることがあさひとともにめいりょうになってしまった。
しゅじんはゆめのうらまですいさいがのみれんをせおってあるいているとみえる。
これではすいさいがかはむろんふうしのところいいつうじんにもなれないしつだ。
しゅじんがすいさいがをゆめにみたよくじつれいのきんぶちめがねのびがくしゃがひさしぶりでしゅじんをほうもんした。
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かんげつはなんとなくそわそわしているごとくみえた。
にんげんのしんりほどかいしがたいものはない。
このしゅじんのいまのこころはおこっているのだか、うかれているのだか、またはてつじんのいしょにいちどうのいあんをもとめつつあるのか、ちっともわからない。
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くいたければくい、ねたければねる、おこるときはいっしょうけんめいにおこり、なくときはぜったいぜつめいになく。
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にっきをつけるひまがあるなら椽側にねているまでのことさ。
かんだのぼうちんでばんさんをくう。
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たかじやすたーぜはむろんいかん。
だれがなにとゆってもだめだ。
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しゅじんのこころはわがはいのがんきゅうのようにかんだんなくへんかしている。
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せんだってそのゆうじんでぼうというがくしゃがたずねてきて、いっしゅのけんちから、すべてのびょうきはふそのざいあくとじこのざいあくのけっかにほかならないというぎろんをした。
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するとゆうじんは「かーらいるがいじゃくだって、いじゃくのびょうにんがかならずかーらいるにはなれないさ」ときめつけたのでしゅじんはもくぜんとしていた。
かくのごとくきょえいしんにとんでいるもののじっさいはやはりいじゃくでないほうがいいとみえて、こんやからばんしゃくをはじめるなどというのはちょっとこっけいだ。
かんがえてみるとけさぞうにをあんなにたくさんくったのもさくやかんげつくんとまさむねをひっくりかえしたえいきょうかもしれない。
わがはいもちょっとぞうにがくってみたくなった。
わがはいはねこではあるがたいていのものはくう。
くるまやのくろのようによこちょうのさかなやまでえんせいをするきりょくはないし、しんどうのにげんきんのししょうのところのさんもうのようにぜいたくはむろんうんえるみぶんでない。
したがってぞんがいいやはすくないほうだ。
しょうきょうのくいこぼしためん麭もくうし、もちがしの※もなめる。
こうのものはすこぶるまずいがけいけんのためたくあんをにせつばかりやったことがある。
くってみるとみょうなもので、たいていのものはくえる。
あれはいやだ、これはいやだというのはぜいたくなわがままでとうていきょうしのいえにいるねこなどのくちにすべきところでない。
しゅじんのはなしによるとふらんすにばるざっくというしょうせつかがあったそうだ。
このおとこがだいのぜいたくやで――もっともこれはくちのぜいたくやではない、しょうせつかだけにぶんしょうのぜいたくをつくしたということである。
ばるざっくがあるるひじぶんのかいているしょうせつちゅうのにんげんのなをつけようとおもっていろいろつけてみたが、どうしてもきにいらない。
ところへゆうじんがあそびにきたのでいっしょにさんぽにでかけた。
ゆうじんはかたよりなにもしらずにつれだされたのであるが、ばるざっくはかねてじぶんのくしんしているなをめつけようというかんがえだからおうらいへでるとなにもしないでみせさきのかんばんばかりみてほこういている。
ところがやはりきにいったながない。
ゆうじんをつれてむあんにあるく。
ゆうじんはわけがわからずにくっついていく。
かれらはついにあさからばんまでともえりをたんけんした。
そのかえりがけにばるざっくはふとあるさいほうやのかんばんがめについた。
みるとそのかんばんにまーかすというながかいてある。
ばるざっくはてをはくって「これだこれだこれにかぎる。
まーかすはよいなじゃないか。
まーかすのうえへずぃーというかしらもじをつける、するともうしぶんのないなができる。
ずぃーでなくてはいかん。
Z. Marcus はじつにうまい。
どうもじぶんでつくったなはうまくつけたつもりでもなんとなくこいとらしいところがあっておもしろくない。
ようやくのことできにいったなができた」とゆうじんのめいわくはまるでわすれて、いちにんうれしがったというが、しょうせつちゅうのにんげんのなまえをつけるにいちにちともえりをたんけんしなくてはならぬようではずいぶんてすうのかかるはなしだ。
ぜいたくもこのくらいできればけっこうなものだがわがはいのようにかきてきしゅじんをもつみのうえではとてもそんなきはでない。
なにでもいい、くえさえすれば、というきになるのもきょうぐうのしからしむるところであろう。
だからこんぞうにがくいたくなったのもけっしてぜいたくのけっかではない、なにでもくえるときにくっておこうというこうから、しゅじんのくいあましたぞうにがもしやだいどころにのこっていはすまいかとおもいだしたからである。
……だいどころへまわってみる。
けさみたとおりのもちが、けさみたとおりのいろでわんのそこにこうちゃくしている。
はくじょうするがもちというものはいままでいちへんもくちにいれたことがない。
みるとうまそうにもあるし、またすこしはきみがわるくもある。
まえあしでうえにかかっているなっぱをかきよせる。
つめをみるともちのじょうひがひきかかってねばねばする。
かいでみるとかまのそこのめしをごひつへうつすときのようなこうがする。
くおうかな、やめようかな、とあたりをみまわす。
こうかふこうかだれもいない。
ごさんはくれもはるもおなじようなかおをしてはねをついている。
しょうきょうはおくざしきで「なんとおっしゃるうさぎさん」をうたっている。
くうとすればいまだ。
もしこのきをはずすとらいねんまではもちというもののあじをしらずにくらしてしまわねばならぬ。
わがはいはこのせつなにねこながらいちのしんりをかんとくした。
「えがたききかいはすべてのどうぶつをして、このまざることをも敢てせしむ」わがはいはみをいうとそんなにぞうにをくいたくはないのである。
いなわんそこのようすをじゅくしすればするほどきみがわるくなって、くうのがいやになったのである。
このときもしごさんでもかってぐちをあけたなら、おくのしょうきょうのあしおとがこちらへちかづくのをききえたなら、わがはいは惜気もなくわんをみすてたろう、しかもぞうにのことはらいねんまでねんとうにうかばなかったろう。
ところがだれもこない、いくら※躇していてもだれもこない。
はやくくわぬかくわぬかとさいそくされるようなこころもちがする。
わがはいはわんのなかをのぞきこみながら、はやくだれかきてくれればいいとねんじた。
やはりだれもきてくれない。
わがはいはとうとうぞうにをくわなければならぬ。
さいごにからだぜんたいのじゅうりょうをわんのそこへおとすようにして、あぐりともちのかくをいっすんばかりくいこんだ。
このくらいちからをこめてくいついたのだから、たいていなものならかみきれるわけだが、おどろいた!もうよかろうとおもってはをひこうとするとひけない。
もういちへんかみなおそうとするとうごきがとれない。
もちはまものだなとかんづいたときはすでにおそかった。
ぬまへでもおちたひとがあしをぬこうとしょうりょるたびにぶくぶくふかくしずむように、かめばかむほどくちがおもくなる、はがうごかなくなる。
はこたえはあるが、はこたえがあるだけでどうしてもしまつをつけることができない。
びがくしゃ迷亭せんせいがかつてわがはいのしゅじんをひょうしてきみはわりきれないおとこだといったことがあるが、なるほどうまいことをいったものだ。
このもちもしゅじんとおなじようにどうしてもわりきれない。
かんでもかんでも、さんでじゅうをわれるごとくじんみらいぎわかたのつくきはあるまいとおもわれた。
このはんもんのさいわがはいはおぼえずだいにのしんりにほうちゃくした。
「すべてのどうぶつはちょっかくてきにじぶつのてきふてきをよちす」しんりはすでにふたつまではつめいしたが、もちがくっついているのでごうもゆかいをかんじない。
はがもちのにくにきゅうしゅうされて、ぬけるようにいたい。
はやくくいきってにげないとごさんがくる。
しょうきょうのしょうかもやんだようだ、きっとだいどころへ馳けだしてくるにそういない。
はんもんのきょくしっぽをぐるぐるふってみたがなんらのこうのうもない、みみをたてたりねかしたりしたがだめである。
かんがえてみるとみみとしっぽはもちとなんらのかんけいもない。
ようするにふりそんの、だてそんの、ねかしそんであるときがついたからやめにした。
ようやくのことこれはまえあしのたすけをかりてもちをはらいおとすにかぎるとかんがえついた。
まずみぎのほうをあげてくちのしゅういをなでまわす。
なでたくらいでわりきれるわけのものではない。
こんどはひだりりのほうをのばしてくちをちゅうしんとしてきゅうげきにえんをかくしてみる。
そんなのろいでまはおちない。
からしぼうがかんじんだとおもってさゆう交る交るにうごかしたがやはりいぜんとしてははもちのなかにぶらくだっている。
ええめんどうだとりょうあしをいちどにつかう。
するとふしぎなことにこのときだけはあとあしにほんでたつことができた。
なんだかねこでないようなかんじがする。
ねこであろうが、あるまいがこうなったひにゃあかまうものか、なにでももちのまがおちるまでやるべしといういきごみでむちゃくちゃにかおちゅうひっかきまわす。
まえあしのうんどうがもうれつなのでややともするとちゅうしんをうしなってたおれかかる。
たおれかかるたびにあとあしでちょうしをとらなくてはならぬから、ひとつしょにいるわけにもいかんので、だいどころちゅうあちら、こちらととんでめぐる。
わがながらよくこんなにきようにたっていられたものだとおもう。
だいさんのしんりがまっしぐらにげんぜんする。
「ききにのぞめばへいじょうなしあたわざるところのものをなしあたう。
これをてんゆうという」こうにてんゆうをとおるけたるわがはいがいっしょうけんめいもちのまとたたかっていると、なんだかあしおとがしておくよりひとがくるようなきあいである。
ここでひとにきたられてはたいへんだとおもって、いよいよやっきとなってだいどころをかけめぐる。
あしおとはだんだんちかづいてくる。
ああざんねんだがてんゆうがすこしたりない。
とうとうしょうきょうにみつけられた。
「あらねこがごぞうにをたべておどりをおどっている」とおおきなこえをする。
このこえをだいいちにききつけたのがごさんである。
はねもはごいたもうちやってかってから「あらまあ」ととびこんでくる。
さいくんはちりめんのもんつきで「いやなねこねえ」とおおせられる。
しゅじんさえしょさいからでてきて「このばかやろう」といった。
おもしろいおもしろいというのはしょうともばかりである。
そうしてみんなもうしあわせたようにげらげらわらっている。
はらはたつ、くるしくはある、おどりはやめるわけにゆかぬ、よわった。
ようやくわらいがやみそうになったら、いつつになるおんなのこが「おかあよう、ねこもずいぶんね」といったのできょうらんをきとうになんとかするというぜいでまたたいへんわらわれた。
にんげんのどうじょうにとぼしいじっこうもおおいたけんぶんしたが、このときほどうらめしくかんじたことはなかった。
ついにてんゆうもどっかへきえうせて、ざいらいのとおりよっつ這になって、めをしろくろするのしゅうたいをえんずるまでにへいこうした。
さすがみごろしにするのもきのどくとみえて「まあもちをとってやれ」としゅじんがごさんにめいずる。
ごさんはもっとおどらせようじゃありませんかというめづけでさいくんをみる。
さいくんはおどりはみたいが、ころしてまでみるきはないのでだまっている。
「とってやらんとしんでしまう、はやくとってやれ」としゅじんはふたたびげじょをかえりみる。
ごさんはごちそうをはんぶんたべかけてゆめからおこされたときのように、きのないかおをしてもちをつかんでぐいとひく。
かんげつくんじゃないがまえばがみんなおれるかとおもった。
どうもいたいのいたくないのって、もちのなかへかたくくいこんでいるはをなさけようしゃもなくひっぱるのだからたまらない。
わがはいが「すべてのあんらくはこんくをつうかせざるべからず」というだいよんのしんりをけいけんして、けろけろとあたりをみまわしたときには、かじんはすでにおくざしきへはいいってしまっておった。
こんなしっぱいをしたときにはうちにいてごさんなんぞにかおをみられるのもなんとなくばつがわるい。
いっそのこときをやすえてしんどうのにげんきんのごししょうさんのところのさんもうこでもほうもんしようとだいどころからうらへでた。
みけこはこのきんぺんでゆうめいなびぼうかである。
わがはいはねこにはそういないがもののなさけはいちとおりこころえている。
うちでしゅじんのにがいかおをみたり、ごさんのけん突をくってきぶんがすぐれんときはかならずこのいせいのほうゆうのもとをほうもんしていろいろなはなしをする。
すると、いつのまにかこころがはればれしていままでのしんぱいもくろうもなにもかもわすれて、うまれかわったようなこころもちになる。
じょせいのえいきょうというものはじつにばくだいなものだ。
すぎかきのひまから、いるかなとおもってみわたすと、みけこはしょうがつだからくびわのあたらしいのをしてぎょうぎよく椽側にすわっている。
そのせなかのまるさかげんがいうにいわれんほどうつくしい。
きょくせんのびをつくしている。
しっぽのまがりかげん、あしのおりぐあい、ものうげにみみをちょいちょいふるけしきなどもとうていけいようができん。
ことによくひのあたるところにあたたかそうに、しなよくひかえているものだから、しんたいはせいしゅくたんせいのたいどをゆうするにもせきらず、てんがもうをあざむくほどのなめらかなまんみのけははるのひかりをはんしゃしてかぜなきにむらむらとびどうするごとくにおもわれる。
わがはいはしばらくこうこつとしてながめていたが、やがてわがにかえるとどうじに、ひくいこえで「みけこさんさんもうこさん」といいながらまえあしでまねいた。
みけこは「あらせんせい」と椽をおりる。
あかいくびわにつけたすずがちゃらちゃらとなる。
おやしょうがつになったらすずまでつけたな、どうもいいおとだとかんしんしているまに、わがはいのはたにきて「あらせんせい、おめでとう」とおをひだりりへふる。
われとうねこぞくかんでおかたみにあいさつをするときにはおをぼうのごとくたてて、それをひだりりへぐるりとまわすのである。
ちょうないでわがはいをせんせいとよんでくれるのはこのみけこばかりである。
わがはいはぜんかいことわったとおりまだなはないのであるが、きょうしのいえにいるものだからさんもうこだけはそんけいしてせんせいせんせいといってくれる。
わがはいもせんせいといわれてまんざらわるいこころもちもしないから、はいはいとへんじをしている。
「やあおめでとう、たいそうりっぱにごけしょうができましたね」「ええきょねんのくれごししょうさんにかっていただいたの、むべいでしょう」とちゃらちゃらならしてみせる。
「なるほどよいおとですな、わがはいなどはうまれてから、そんなりっぱなものはみたことがないですよ」「あらいやだ、みんなぶらさげるのよ」とまたちゃらちゃらならす。
「いいおとでしょう、あたしうれしいわ」とちゃらちゃらちゃらちゃらつづけざまにならす。
「あなたのうちのごししょうさんはたいへんあなたをかわいがっているとみえますね」とわれみにひきくらべてあんに欣羨のいをもらす。
みけこはむじゃきなものである「ほんとよ、まるでじぶんのしょうきょうのようよ」とあどけなくわらう。
ねこだってわらわないとはかぎらない。
にんげんはじぶんよりほかにわらえるものがないようにおもっているのはまちがいである。
わがはいがわらうのははなのあなをさんかくにしてのんどのどぼとけをしんどうさせてわらうのだからにんげんにはわからぬはずである。
「いったいあなたのところのごしゅじんはなにですか」「あらごしゅじんだって、みょうなのね。
ごししょうさんだわ。
にげんきんのごししょうさんよ」「それはわがはいもしっていますがね。
そのおんみぶんはなになんです。
いずれむかししはりっぱなほうなんでしょうな」「ええ」
きみをまつまのひめこまつ……………
しょうじのうちでごししょうさんがにげんきんをはじきだす。
「むべいごえでしょう」とさんもうこはじまんする。
「むべいようだが、わがはいにはよくわからん。
ぜんたいなにというものですか」「あれ?あれはなんとかってものよ。
ごししょうさんはあれがだいすきなの。
……ごししょうさんはあれでろくじゅうによ。
ずいぶんじょうぶだわね」ろくじゅうにでいきているくらいだからじょうぶといわねばなるまい。
わがはいは「はあ」とへんじをした。
すこしまがぬけたようだがべつにめいとうもでてこなかったからしかたがない。
「あれでも、もとはみぶんがたいへんよかったんだって。
いつでもそうおっしゃるの」「へえもとはなにだったんです」「なにでもてんしょういんさまのごゆうひつのいもうとのごよめにいったさききのごっかさんのおいのむすめなんだって」「なんですって?」「あのてんしょういんさまのごゆうひつのいもうとのごよめにいった……」「なるほど。
すこしまってください。
てんしょういんさまのいもうとのごゆうひつの……」「あらそうじゃないの、てんしょういんさまのごゆうひつのいもうとの……」「よろしいわかりましたてんしょういんさまのでしょう」「ええ」「ごゆうひつのでしょう」「そうよ」「ごよめにいった」「いもうとのごよめにいったですよ」「そうそうまちがった。
いもうとのごよめにはいったさききの」「おっかさんのおいのむすめなんですとさ」「おっかさんのおいのむすめなんですか」「ええ。
わかったでしょう」「いいえ。
なんだかこんざつしてようりょうをえないですよ。
つまるところてんしょういんさまのなにになるんですか」「あなたもよっぽどわからないのね。
だからてんしょういんさまのごゆうひつのいもうとのごよめにいったさききのごっかさんのおいのむすめなんだって、さきっきっからいってるんじゃありませんか」「それはすっかりわかっているんですがね」「それがわかりさえすればいいんでしょう」「ええ」としかたがないからこうさんをした。
われ々はときとするとりづめのきょげんをはかねばならぬことがある。
しょうじのなかでにげんきんのおとがぱったりやむと、ごししょうさんのこえで「さんもうやさんもうやごはんだよ」とよぶ。
みけこはうれしそうに「あらごししょうさんがよんでいらっしゃるから、わたししかえるわ、よくって?」わるいとゆったってしかたがない。
「それじゃまたあそびにいらっしゃい」とすずをちゃらちゃらならしてにわさきまでかけていったがきゅうにもどってきて「あなたたいへんしょくがわるくってよ。
どうかしやしなくって」としんぱいそうにといかける。
まさかぞうにをくっておどりをおどったともいわれないから「なにべつだんのこともありませんが、すこしかんがえごとをしたらずつうがしてね。
あなたとはなしでもしたらなおるだろうとおもってじつはでかけてきたのですよ」「そう。
ごだいじになさいまし。
さようなら」すこしはなごりおしきにみえた。
これでぞうにのげんきもさっぱりとかいふくした。
いいこころもちになった。
かえりにれいのちゃえんをとおりぬけようとおもってしもばしらのとけかかったのをふみつけながらけんにんじのくずれからかおをだすとまたくるまやのくろが枯菊のうえにせをやまにしてあくびをしている。
ちかごろはくろをみてきょうふするようなわがはいではないが、はなしをされるとめんどうだからしらぬかおをしていきすぎようとした。
くろのせいしつとしてたがおのれれをけいぶしたと認むるやいなやけっしてだまっていない。
「おい、ななしのごんべえ、ちかごろじゃおつうたかくとまってるじゃあねえか。
いくらきょうしのめしをくったって、そんなこうまんちきなめんらあするねえ。
ひとつけおもしろくもねえ」くろはわがはいのゆうめいになったのを、まだしらんとみえる。
せつめいしてやりたいがとうていわかるやっこではないから、まずいちおうのあいさつをしてできえるかぎりはやくごめんこうむるにわかくはないとけっしんした。
「いやくろくんおめでとう。
ふあいへんげんきがいいね」としっぽをたててひだりへくるりとまわりわす。
くろはしっぽをたてたぎりあいさつもしない。
「なにおめでてえ?しょうがつでおめでたけりゃ、ごめえなんざあねんがねんじゅうおめでてえほうだろう。
きをつけろい、このふいこのむこうめんめ」ふいこのむかうづらというくはばりのげんごであるようだが、わがはいにはりょうかいができなかった。
「ちょっと伺がうがふいこのむかうづらというのはどういういみかね」「へん、てめえがあくからだをつかれてるくせに、そのわけをききゃせわあねえ、だからしょうがつやろうだってことよ」しょうがつやろうはしてきであるが、そのいみにいたるとふいこのなんとかよりもいっそうふめいりょうなもんくである。
さんこうのためちょっときいておきたいが、きいたってめいりょうなとうべんはえられぬにきわまっているから、めんとたいったままむごんでたっておった。
いささかてもちぶさたのからだである。
するととつぜんくろのうちのかみさんがおおきなこえをはりあげて「おやたなへあげておいたさけがない。
たいへんだ。
またあのくろのちくしょうがとったんだよ。
ほんとににくらしいねこだっちゃありゃあしない。
いまにかえってきたら、どうするかみていやがれ」とどなる。
しょしゅんののどかなくうきをぶえんりょにしんどうさせて、えだをならさぬきみがみよをだいにぞくりょうしてしまう。
くろはどなるなら、どなりたいだけどなっていろといわぬばかりにおうちゃくなかおをして、しかくな顋をまえへだしながら、あれをきいたかとあいずをする。
いままではくろとのおうたいできがつかなかったが、みるとかれのあしのしたにはいちきれにせんさんりんにそうとうするさけのほねがどろだらけになってころがっている。
「きみふあいへんやってるな」といままでのゆきがかりはわすれて、ついかんとうことばをほうていした。
くろはそのくらいなことではなかなかきげんをなおさない。
「なにがやってるでえ、このやろう。
しゃけのいっさいやにせつであいかわらずたあなにだ。
ひとをみくびびったごとをいうねえ。
はばかりながらくるまやのくろだあ」とうでまくりのかわりにみぎのまえあしをぎゃくかにかたのあたりまでかきあげた。
「きみがくろくんだということは、はじめからしってるさ」「しってるのに、あいかわらずやってるたあなにだ。
なにだてえことよ」とあついのをしきりにふきかける。
にんげんならむなぐらをとられてこづきまわされるところである。
しょうしょうへきえきしてないしんこまったことになったなとおもっていると、ふたたびれいのかみさんのおおごえがきこえる。
「ちょいとにしかわさん、おいにしかわさんてば、ようがあるんだよこのひとあ。
ぎゅうにくをいちきんすぐもってくるんだよ。
いいかい、わかったかい、ぎゅうにくのかたくないところをいちきんだよ」とぎゅうにくちゅうもんのこえがしりんのせきばくをやぶる。
「へんねんにいっぺんぎゅうにくをあつらえるとおもって、いやにおおきなこえをだしゃあがらあ。
ぎゅうにくいちきんがとなりきんじょへじまんなんだからしまつにおえねえおもねまだ」とくろはあざけりながらよっつあしを踏はる。
わがはいはあいさつのしようもないからだまってみている。
「いちきんくらいじゃあ、しょうちができねえんだが、しかたがねえ、いいからとっときゃ、いまにくってやらあ」とじぶんのためにあつらえたもののごとくいう。
「こんどはほんとうのごちそうだ。
けっこうけっこう」とわがはいはなるべくかれをきそうとする。
「ごめっちのしったことじゃねえ。
だまっていろ。
うるせえや」といいながらとつぜんあとあしでしもばしらのくずれたやつをわがはいのあたまへばさりとあびせかける。
わがはいがおどろきろいて、からだのどろをはらっているまにくろはかきねをもぐって、どこかへすがたをかくした。
おおかたにしかわのうしを覘にいったものであろう。
いえへかえるとざしきのなかが、いつになくはるめいてしゅじんのわらいごえさえようきにきこえる。
はてなとあけはなした椽側からのぼってしゅじんのはたへよってみるとみなれぬきゃくがきている。
あたまをきれいにわけて、もめんのもんつきのはおりにおぐらのはかまをつけてしごくまじめそうなしょせいたいのおとこである。
しゅじんのてあぶりのかくをみるとしゅんけいぬりのまきたばこいれとならんでおちとうふうくんをしょうかい致候みずしまかんげつというめいしがあるので、このきゃくのなまえも、かんげつくんのゆうじんであるということもしれた。
しゅきゃくのたいわはとちゅうからであるからぜんごがよくわからんが、なんでもわがはいがぜんかいにしょうかいしたびがくしゃ迷亭くんのことにかんしているらしい。
「それでおもしろいしゅこうがあるからぜひいっしょにこいとおっしゃるので」ときゃくはおちついていう。
「なにですか、そのせいようりょうりへいってうまめしをくうのについてしゅこうがあるというのですか」としゅじんはちゃをぞくぎたしてきゃくのまえへおしやる。
「さあ、そのしゅこうというのが、そのときはわたしにもわからなかったんですが、いずれあのほうのことですから、なにかおもしろいたねがあるのだろうとおもいまして……」「いっしょにいきましたか、なるほど」「ところがおどろいたのです」しゅじんはそれみたかといわぬばかりに、ひざのうえにのったわがはいのあたまをぽかとたたく。
すこしいたい。
「またばかなちゃばんみたようなことなんでしょう。
あのおとこはあれがくせでね」ときゅうにあんどれあ・でる・さるとじけんをおもいだす。
「へへー。
きみなにかかわったものをくおうじゃないかとおっしゃるので」「なにをくいました」「まずこんだてをみながらいろいろりょうりについてのごはなしがありました」「あつらえらえないまえにですか」「ええ」「それから」「それからくびをひねってぼいのほうをごらんになって、どうもかわったものもないようだなとおっしゃるとぼいはまけぬきでかものろーすかこうじのちゃっぷなどはいかがですというと、せんせいは、そんなつきなみをくいにわざわざここまできやしないとおっしゃるんで、ぼいはつきなみといういみがわからんものですからみょうなかおをしてだまっていましたよ」「そうでしょう」「それからわたしのほうをごむきになって、きみふらんすやえいよしとしへいくとずいぶんてんめいちょうやまんようちょうがくえるんだが、にっぽんじゃどこへいったってばんでおしたようで、どうもせいようりょうりへはいいるきがしないというようなたいき※で――ぜんたいあのほうはようこうなすったことがあるのですかな」「なに迷亭がようこうなんかするもんですか、そりゃきんもあり、ときもあり、いこうとおもえばいつでもいかれるんですがね。
おおかたこれからいくつもりのところを、かこにみたてたしゃらくなんでしょう」としゅじんはじぶんながらうまいことをいったつもりでさそいだしえみをする。
きゃくはさまでかんぷくしたようすもない。
「そうですか、わたしはまたいつのまにようこうなさったかとおもって、ついまじめにはいちょうしていました。
それにみてきたようになめくじのそっぷのごはなしやかえるのしちゅのけいようをなさるものですから」「そりゃだれかにきいたんでしょう、うそをつくことはなかなかめいじんですからね」「どうもそうのようで」とかびんのすいせんをながめる。
すこしくざんねんのけしきにもとられる。
「じゃしゅこうというのは、それなんですね」としゅじんがねんをおす。
「いえそれはほんのぼうとうなので、ほんろんはこれからなのです」「ふーん」としゅじんはこうきてきなかんとうことばをはさむ。
「それから、とてもなめくじやかえるはくおうってもくえやしないから、まあとちめんぼーくらいなところでまけとくことにしようじゃないかきみとごそうだんなさるものですから、わたしはついなにのきなしに、それがいいでしょう、といってしまったので」「へー、とちめんぼうはみょうですな」「ええまったくみょうなのですが、せんせいがあまりまじめだものですから、ついきがつきませんでした」とあたかもしゅじんにむかって麁忽をわびているようにみえる。
「それからどうしました」としゅじんはむとんじゃくにきく。
きゃくのしゃざいにはいっこうどうじょうをあらわしておらん。
「それからぼいにおいとちめんぼーをににんまえもってこいというと、ぼいがめんちぼーですかとききなおしましたが、せんせいはますますまじめな貌でめんちぼーじゃないとちめんぼーだとていせいされました」「なある。
そのとちめんぼーというりょうりはいったいあるんですか」「さあわたしもすこしおかしいとはおもいましたがいかにもせんせいがちんちゃくであるし、そのうえあのとおりのせいようどおりでいらっしゃるし、ことにそのときはようこうなすったものとしんじきっていたものですから、わたしもくちをそえてとちめんぼーだとちめんぼーだとぼいにおしえてやりました」「ぼいはどうしました」「ぼいがね、いまかんがえるとじつにこっけいなんですがね、しばらくしあんしていましてね、はなはだごきのどくさまですがきょうはとちめんぼーはごあいにくさまでめんちぼーならごににんまえすぐにできますというと、せんせいはひじょうにざんねんなようすで、それじゃせっかくここまできたかいがない。
どうかとちめんぼーをつごうしてくわせてもらうわけにはいくまいかと、ぼいににじゅうせんぎんかをやられると、ぼいはそれではともかくもりょうりばんとそうだんしてまいりましょうとおくへいきましたよ」「たいへんとちめんぼーがくいたかったとみえますね」「しばらくしてぼいがでてきてしんにごあいにくで、ごあつらえならこしらえますがしょうしょうじかんがかかります、というと迷亭せんせいはおちついたもので、どうせわれわれはしょうがつでひまなんだから、すこしまってくっていこうじゃないかといいながらぽっけっとからはまきをだしてぷかりぷかりふかしはじめられたので、わたししもしかたがないから、ふところからにっぽんしんぶんをだしてよみだしました、するとぼいはまたおくへそうだんにいきましたよ」「いやにてすうがかかりますな」としゅじんはせんそうのつうしんをよむくらいのいきこみでせきをまえめる。
「するとぼいがまたでてきて、ちかごろはとちめんぼーのざいりょうがふっていでかめやへいってもよこはまのじゅうごばんへいってもかわれませんからとうぶんのまはごあいにくさまでときのどくそうにいうと、せんせいはそりゃこまったな、せっかくきたのになあとわたしのほうをごらんになってしきりにくりかえさるるので、わたしもだまっているわけにもまいりませんから、どうもいかんですな、いかんごくるですなとちょうしをあわせたのです」「ごもっともで」としゅじんがさんせいする。
なにがごもっともだかわがはいにはわからん。
「するとぼいもきのどくだとみえて、そのうちざいりょうがまいりましたら、どうかねがいますってんでしょう。
せんせいがざいりょうはなにをつかうかねととわれるとぼいはへへへへとわらってへんじをしないんです。
ざいりょうはにっぽんはのはいじんだろうとせんせいがおしかえしてきくとぼいはへえさようで、それだものだからちかごろはよこはまへいってもかわれませんので、まことにおきのどくさまといいましたよ」「あはははそれがおちなんですか、こりゃおもしろい」としゅじんはいつになくおおきなこえでわらう。
ひざがゆれてわがはいはおちかかる。
しゅじんはそれにもとんじゃくなくわらう。
あんどれあ・でる・さるとにかかったのはじぶんいちにんでないということをしったのできゅうにゆかいになったものとみえる。
「それからににんでひょうへでると、どうだきみうまくいったろう、とちめんぼうをたねにつかったところがおもしろかろうとだいとくいなんです。
けいふくのいたりですとゆっておわかれしたようなもののじつはうまめしのじこくがのびたのでたいへんくうふくになってよわりましたよ」「それはごめいわくでしたろう」としゅじんははじめてどうじょうをひょうする。
これにはわがはいもいぞんはない。
しばらくはなしがとぎれてわがはいのいんこうをならすおとがしゅきゃくのみみにはいる。
とうふうくんはさめたくなったちゃをぐっとのみほして「じつはきょうまいりましたのは、しょうしょうせんせいにごがんがあってまいったので」とあらたまる。
「はあ、なにかごようで」としゅじんもまけずにすます。
「ごしょうちのとおり、ぶんがくびじゅつがすきなものですから……」「けっこうで」とあぶらをさす。
「どうしだけがよりましてせんだってからろうどくかいというのをそしきしまして、まいつきいちかいかいごうしてこのほうめんのけんきゅうをこれからつづけたいつもりで、すでにだいいちかいはきょねんのくれにひらいたくらいであります」「ちょっとうかがっておきますが、ろうどくかいというとなにかせっそうでもつけて、しかぶんしょうのるいをよむようにきこえますが、いったいどんなかぜにやるんです」「まあはじめはこじんのさくからはじめて、つい々はどうじんのそうさくなんかもやるつもりです」「こじんのさくというとはくらくてんのびわゆきのようなものででもあるんですか」「いいえ」「ぶそんのしゅんぷうばつつみきょくのしゅるいですか」「いいえ」「それじゃ、どんなものをやったんです」「せんだってはちかまつのしんじゅうぶつをやりました」「ちかまつ?あのじょうるりのちかまつですか」ちかまつにににんはない。
ちかまつといえばぎきょくかのちかまつにごくっている。
それをききなおすしゅじんはよほどぐだとおもっていると、しゅじんはなににもわからずにわがはいのあたまをていねいになでている。
やぶにらみからほれられたとじにんしているにんげんもあるよのなかだからこのくらいのごびゅうはけっしておどろくにたらんとなでらるるがままにすましていた。
「ええ」とこたえてとうふうこはしゅじんのかおいろをうかがう。
「それじゃいちにんでろうどくするのですか、またはやくわりをきわめてやるんですか」「やくをきわめてかかごうでやってみました。
そのしゅいはなるべくさくちゅうのじんぶつにどうじょうをもってそのせいかくをはっきするのをだいいちとして、それにてまねやみぶりをそえます。
しろはなるべくそのじだいのひとをうつしだすのがおもで、ごじょうさんでもでっちでも、そのじんぶつがでてきたようにやるんです」「じゃ、まあしばいみたようなものじゃありませんか」「ええいしょうとかきわりがないくらいなものですな」「しつれいながらうまくいきますか」「まあだいいちかいとしてはせいこうしたほうだとおもいます」「それでこのまえやったとおっしゃるしんじゅうぶつというと」「その、せんどうがごきゃくをのせてよしはらへいくところなんで」「たいへんなまくをやりましたな」ときょうしだけにちょっとくびをかたむける。
はなからふきだしたひのでのけむりがみみをかすめてかおのよこでへめぐる。
「なあに、そんなにたいへんなこともないんです。
とうじょうのじんぶつはごきゃくと、せんどうと、おいらんとなかいとやりてとけんばんだけですから」ととうふうこはへいきなものである。
しゅじんはおいらんというなをきいてちょっとにがいかおをしたが、なかい、やりて、けんばんというじゅつごについてめいりょうのちしきがなかったとみえてまずしつもんをていしゅつした。
「なかいというのはしょうかのかひにあたるものですかな」「まだよくけんきゅうはしてみませんがなかいはちゃやのげじょで、やりてというのがじょへやのじょやくみたようなものだろうとおもいます」とうふうこはさっき、そのじんぶつがでてくるようにかりいろをつかうとゆったくせにやりてやなかいのせいかくをよくかいしておらんらしい。
「なるほどなかいはちゃやにれいぞくするもので、やりてはしょうかにきがするものですね。
つぎにけんばんというのはにんげんですかまたはいっていのばしょをさすのですか、もしにんげんとすればおとこですかおんなですか」「けんばんはなにでもおとこのにんげんだとおもいます」「なにをつかさどどっているんですかな」「さあそこまではまだしらべがとどいておりません。
そのうちしらべてみましょう」これでかかごうをやったひにはとんちんかんなものができるだろうとわがはいはしゅじんのかおをちょっとみあげた。
しゅじんはぞんがいまじめである。
「それでろうどくかはきみのほかにどんなひとがくわわったんですか」「いろいろおりました。
おいらんがほうがくしのけいくんでしたが、くちひげをはやして、おんなのあまったるいせりふをしかうのですからちょっとみょうでした。
それにそのおいらんがしゃくをおこすところがあるので……」「ろうどくでもしゃくをおこさなくっちゃ、いけないんですか」としゅじんはしんぱいそうにたずねる。
「ええとにかくひょうじょうがだいじですから」ととうふうこはどこまでもぶんげいかのきでいる。
「うまくしゃくがおこりましたか」としゅじんはけいくをはく。
「しゃくだけはだいいちかいには、ちとむりでした」ととうふうこもけいくをはく。
「ところできみはなにのやくわりでした」としゅじんがきく。
「わたししはせんどう」「へー、きみがせんどう」くんにしてせんどうがつとまるものならぼくにもけんばんくらいはやれるとゆったようなごきをもらす。
やがて「せんどうはむりでしたか」とごせじのないところをうちあける。
とうふうこはべつだんしゃくにさわったようすもない。
やはりちんちゃくなくちょうで「そのせんどうでせっかくのもよおしもりゅうとうだびにおわりました。
じつはかいじょうのとなりにじょがくせいがよんごにんげしゅくしていましてね、それがどうしてきいたものか、そのひはろうどくかいがあるということを、どこかでたんちしてかいじょうのまどかへきてぼうちょうしていたものとみえます。
わたししがせんどうのかりいろをつかって、ようやくちょうしづいてこれならだいじょうぶとおもってとくいにやっていると、……つまりみぶりがあまりすぎたのでしょう、いままで耐らえていたじょがくせいがいちどにわっとわらいだしたものですから、おどろきろいたこともおどろきろいたし、きまりがあくるいごともあくるいし、それでこしをおられてから、どうしてもごがつづけられないので、とうとうそれかぎりでさんかいしました」だいいちかいとしてはせいこうだとしょうするろうどくかいがこれでは、しっぱいはどんなものだろうとそうぞうするとわらわずにはいられない。
おぼえずのんどのどぼとけがごろごろなる。
しゅじんはいよいよやわらかにあたまをなでてくれる。
ひとをわらってかわいがられるのはありがたいが、いささかぶきみなところもある。
「それはとんだことで」としゅじんはしょうがつそうそうちょうしをのべている。
「だいにかいからは、もっとふんぱつしてせいだいにやるつもりなので、きょうでましたのもまったくそのためで、じつはせんせいにもひとつごにゅうかいのうえごじんりょくをあおぎたいので」「ぼくにはとてもしゃくなんかおこせませんよ」としょうきょくてきのしゅじんはすぐにことわりかける。
「いえ、しゃくなどはおこしていただかんでもよろしいので、ここにさんじょいんのめいぼが」といいながらむらさきのふろしきからだいじそうにこぎくばんのちょうめんをだす。
「これへどうかごしょめいのうえごなついんをねがいたいので」とちょうめんをしゅじんのひざのまえへひらいたままおく。
みるとげんこんちめいなぶんがくはかせ、ぶんがくしれんちゅうのながぎょうぎよくぜいそろいをしている。
「はあさんせいいんにならんこともありませんが、どんなぎむがあるのですか」とかきせんせいはかけねんのからだにみえる。
「ぎむともうしてべつだんぜひねがうこともないくらいで、ただごなまえだけをごきにゅうくださってさんせいのいさえおあらわしひくだればそれでけっこうです」「そんならはいいります」とぎむのかからぬことをしるやいなやしゅじんはきゅうにきがるになる。
せきにんさえないということがわかっておればむほんのれんばんじょうへでもなをかきいれますというかおづけをする。
かのこうちめいのがくしゃがなまえをつらねているなかにせいめいだけでもにゅうせきさせるのは、いままでこんなことにであったことのないしゅじんにとってはむじょうのこうえいであるからへんじのぜいのあるのもむりはない。
「ちょっとしっけい」としゅじんはしょさいへしるしをとりにはいいる。
わがはいはぼたりとたたみのうえへおちる。
とうふうこはかしさらのなかのかすてらをつまんでいちくちにほおばる。
もごもごしばらくはくるしそうである。
わがはいはけさのぞうにじけんをちょっとおもいだす。
しゅじんがしょさいからいんぎょうをもってでてきたときは、とうふうこのいのなかにかすてらがおちついたときであった。
しゅじんはかしさらのかすてらがいっさいたりなくなったことにはきがつかぬらしい。
もしきがつくとすればだいいちにうたがわれるものはわがはいであろう。
とうふうこがかえってから、しゅじんがしょさいにはいってつくえのうえをみると、いつのまにか迷亭せんせいのてがみがきている。
「しんねんのぎょけいめでたさるおさめこう。
……」
いつになくしゅつがまじめだとしゅじんがおもう。
迷亭せんせいのてがみにまじめなのはほとんどないので、このかんなどは「其後べつにこいきせるふじんもむこれ、いずほうよりつやしょもまいらず、まずまずぶじにしょうこうまかりありこうかん、乍憚ごきゅうしんかひしたこう」というのがきたくらいである。
それにくらべるとこのねんしじょうはれいがいにもせけんてきである。
「いっすんさんどうつかまつりどそうろえども、たいけいのしょうきょくしゅぎにはんして、できえるかぎりせっきょくてきほうしんをもって、此せんこみぞうのしんねんをむかいうるけいかくこ、まいにちまいにちめのめぐるほどのたぼう、ごすいさつねがいじょうこう……」
なるほどあのおとこのことだからしょうがつはあそびめぐるのに忙がしいにちがいないと、しゅじんははらのうちで迷亭くんにどういする。
「きのうはいっこくのひまを偸み、とうふうこにとちめんぼーのごちそうをいたさんとぞんじこうしょ、あいにくざいりょうふっていのためめ其意をはたさず、いかんせんまんにそんこう。
……」
そろそろれいのとおりになってきたとしゅじんはむごんでびしょうする。
「あしたはぼうだんしゃくのかるたかい、みょうごにちはしんびがくきょうかいのしんねんえんかい、其明びはとりぶきょうじゅかんげいかい、其又あしたは……」
うるさいなと、しゅじんはよみとばす。
「みぎのごとくようきょくかい、はいくかい、たんかかい、しんたいしかいとう、かいのれんぱつにてとうぶんのまは、のべつまくなしにしゅっきんいたしこうためめ、ふとく已賀じょうをもってはいすうのれいにやすえこうだんふあくごゆうじょひしたどこう。
……」
べつだんくるにもおよばんさと、しゅじんはてがみにへんじをする。
「こんどごこうらいのふしはひさしぶりにてばんさんでもきょうしたびこころえにござこう。
かんくりやなにのちんみもむのそうろえども、せめてはとちめんぼーでもとただいまよりこころかけいそうろう。
……」
まだとちめんぼーをふりまわしている。
しっけいなとしゅじんはちょっとむっとする。
「しかしとちめんぼーはちかごろざいりょうふっていのためめ、ことによるとまにあいけんこうもはかりがたきにつき、其節はくじゃくのしたでもごふうみにいれかさるこう。
……」
りょうてんびんをかけたなとしゅじんは、あとがよみたくなる。
「ごしょうちのとおりくじゃくいちわにつき、したにくのぶんりょうはこゆびのなかばにもたらぬほどこけんたんなるたいけいのい嚢をみたすためには……」
うそをつけとしゅじんはうちやったようにいう。
「ぜひどもにさんじゅうわのくじゃくをほかくいたさざるからずとそんこう。
しかるところくじゃくはどうぶつえん、あさくさはなやしきとうには、ちらほらみうけそうろえども、ふつうのとりや抔にはいっこうみあたりふさる、くしん此事にござこう。
……」
ひとりでかってにくしんしているのじゃないかとしゅじんはごうもかんしゃのいをひょうしない。
「此くじゃくのしたのりょうりはおうせきらうまぜんせいのみぎりり、いちじひじょうにりゅうこういたしこうものにて、ごうしゃふりゅうのきょくどとへいぜいよりひそかにしょくしをうごかしいそうろうしだいごりょうさつかひしたこう。
……」
なにがごりょうさつだ、ばかなとしゅじんはすこぶるれいたんである。
「ふってじゅうろくななせいきのころまではぜんおうをつうじてくじゃくはえんせきにかくべからざるこうあじとあいないそうろう。
れすたーはくがえりざべすじょすめらぎをけにるうぉーすにしょうたいいたしこうぶしもたしかくじゃくをしよういたしこうさまきおく致候。
ゆうめいなるれんぶらんとがえがきこうきょうえんのずにもくじゃくがおをひろげたる儘卓じょうによこわりおりこう……」
くじゃくのりょうりしをかくくらいなら、そんなにたぼうでもなさそうだとふへいをこぼす。
「とにかくちかごろのごとくごちそうのたべつづけにては、さすがのしょうせいもとおからぬうちにたいけいのごとくいじゃくとあいなるはひつじょう……」
たいけいのごとくはよけいだ。
なにもぼくをいじゃくのひょうじゅんにしなくてもすむとしゅじんはつぶやいた。
「れきしかのせつによればらうまじんはひににどさんどもえんかいをひらきこうよし。
ひににどもさんどもほうじょうのしょく饌につきそうろえばいかがなるけんいのひとにてもしょうかきのうにふちょうをかもすべく、したがってしぜんはたいけいのごとく……」
またたいけいのごとくか、しっけいな。
「しかるにぜいたくとえいせいとをりょうりつせしめんとけんきゅうをつくしたるかれらはふそうとうにたりょうのじみをむさぼるとどうじにいちょうをじょうたいにほじするのひつようをみとめ、ここにいちのひほうをあんしゅついたしこう……」
はてねとしゅじんはきゅうにねっしんになる。
「かれらはしょくごかならずにゅうよく致候。
にゅうよくごいちしゅのほうほうによりてよくまえにえんくだせるものをことごとくおうとし、いないをそうじいたしこう。
いないかくせいのこうをそうしたるのちまたしょくたくにつき、あくまでちんみをかぜよし、かぜよしりょうればまたゆにはいりてこれをとしゅつ致候。
かくのごとくすればこうぶつはむさぼぼりしだいむさぼりこうもごうもないぞうのしょきかんにしょうがいをしょうぜず、いっきょりょうとくとは此等のことをかさるかとぐこう致候……」
なるほどいっきょりょうとくにそういない。
しゅじんはうらやましそうなかおをする。
「にじゅうせいきのきょうこうつうのひんぱん、えんかいのぞうかはもうすまでもなく、ぐんこくたじせいろのだいにねんともあいなこうおりがら、われじんせんしょうこくのこくみんは、ぜひどもらうまじんに傚って此にゅうよくおうとのじゅつをけんきゅうせざるべからざるきかいにとうちゃくいたしこうごととじしん致候。
ひだりもなくばせつかくのだいこくみんもちかきしょうらいに於てことごとくたいけいのごとくいびょうかんじゃとあいなることとひそかにしんつうまかりありこう……」
またたいけいのごとくか、しゃくにさわるおとこだとしゅじんがおもう。
「此際われじんせいようのじじょうにつうずるものがこしでんせつをこうきゅうし、すでにはいぜつせるひほうをはっけんし、これをめいじのしゃかいにおうよういたしそうろわばところいいかをみもえにふせぐのくどくにもあいなりへいそいつらくを擅にいたしこうごおんかえもあいたちかさるとそんこう……」
なんだかみょうだなとくびをひねる。
「よて此間ちゅうよりぎぼん、もんせん、すみすひとししょかのちょじゅつをしょうりょういたしいそうろえどもいまだにはっけんのたんしょをもみいだしえざるはざんねんのいたりにそんこう。
しかしごぞんじのごとくしょうせいはいちどおもいたちこうごとはせいこうするまではけっしてちゅうぜつつかまつらざるせいしつにそうろえばおうとかたをさいこういたしこうもとおからぬうちとしんじおりこうしだい。
みぎははっけんしだいごほうどうかつかまつこうにつき、さようごしょうちかひしたこう。
就てはさきにさるじょうこうとちめんぼーおよびくじゃくのしたのごちそうもかあいなはみぎはっけんごにいたしたび、ひだりすればしょうせいのつごうはもちろん、すでにいじゃくになやみおらるるたいけいのためにもごべんぎかとそんこうそうそうふび」
なんだとうとうかつがれたのか、あまりかきかたがまじめだものだからついしまいまでほんきにしてよんでいた。
しんねんそうそうこんないたずらをやる迷亭はよっぽどひまじんだなあとしゅじんはわらいながらゆった。
それからよんごにちはべつだんのこともなくすぎさった。
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「ほんにねえ」はとうていわがはいのうちなどできかれることばではない。
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かぜをひくと、どなたでもごせきがでますからね……」
てんしょういんさまのなんとかのなんとかのげじょだけにばかていねいなことばをつかう。
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げじょはだいにかんどうしている。
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げじょはこくじのひみつでもかたるときのようにだいとくいである。
「わるいともだち?」「ええあのおもてどおりのきょうしのところにいるうすぎたないおねこでございますよ」「きょうしというのは、あのまいあさぶさほうなこえをだすひとかえ」「ええかおをあらうたんびに鵝鳥がしめころされるようなこえをだすひとでござんす」
鵝鳥がしめころされるようなこえはうまいけいようである。
わがはいのしゅじんはまいあさぶろじょうでがんそうをやるとき、ようじでいんこうをつっついてみょうなこえをぶえんりょにだすくせがある。
きげんのわるいときはやけにがあがあやる、きげんのよいときはげんきづいてなおがあがあやる。
つまりきげんのいいときもわるいときもやすみなくぜいよくがあがあやる。
さいくんのはなしではここへひっこすまえまではこんなくせはなかったそうだが、あるときふとやりだしてからきょうまでいちにちもやめたことがないという。
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ごいしんまえはちゅうかんでもぞうりとりでもそうおうのさほうはこころえたもので、やしきまちなどで、あんなかおのあらいかたをするものはいちにんもおらなかったよ」「そうでございましょうともねえ」
げじょはむあんにかんぷくしては、むあんにねえをしようする。
「あんなしゅじんをもっているねこだから、どうせのらねこさ、こんどきたらすこしたたいておやり」「たたいてやりますとも、さんもうのびょうきになったのもまったくあいつのおかげにそういございませんもの、きっと讐をとってやります」
とんだえんざいをこうむったものだ。
こいつはめったにちかかよれないとさんもうこにはとうとうあわずにかえった。
かえってみるとしゅじんはしょさいのなかでなにかちんぎんのからだでふでをとっている。
にげんきんのごししょうさんのところできいたひょうばんをはなしたら、さぞおこるだろうが、しらぬがほとけとやらで、うんうんいいながらしんせいなしじんになりすましている。
ところへとうぶんたぼうでいかれないとゆって、わざわざねんしじょうをよこした迷亭くんがひょうぜんとやってくる。
「なにかしんたいしでもつくっているのかね。
おもしろいのができたらみせたまえ」という。
「うん、ちょっとうまいぶんしょうだとおもったからいまほんやくしてみようとおもってね」としゅじんはおもたそうにくちをひらく。
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ぜんたいどこにあったのか」ととう。
「だいにどくほん」としゅじんはおちつきはらってこたえる。
「だいにどくほん?だいにどくほんがどうしたんだ」「ぼくのほんやくしているめいぶんというのはだいにどくほんのなかにあるということさ」「じょうだんじゃない。
くじゃくのしたの讐をきわどいところでうとうというすんぽうなんだろう」「ぼくはきみのようなほらふきとはちがうさ」とくちひげをひねる。
たいぜんたるものだ。
「むかししあるひとがさんように、せんせいちかごろめいぶんはござらぬかといったら、さんようがまごのかいたしゃっきんのさいそくじょうをしめしてきんらいのめいぶんはまずこれでしょうとゆったというはなしがあるから、きみのしんびめもぞんがいたしかかもしれん。
どれよんでみたまえ、ぼくがひひょうしてやるから」と迷亭せんせいはしんびめのほんけのようなことをいう。
しゅじんはぜんぼうずがだい燈国しのいかいをよむようなこえをだしてよみはじめる。
「きょじん、いんりょく」「なんだいそのきょじんいんりょくというのは」「きょじんいんりょくというだいさ」「みょうなだいだな、ぼくにはいみがわからんね」「いんりょくというなをもっているきょじんというつもりさ」「すこしむりなつもりだがひょうだいだからまずまけておくとしよう。
それからそうそうほんぶんをよむさ、きみはこえがよいからなかなかおもしろい」「ざつぜかえしてはいかんよ」と予じめねんをおしてまたよみはじめる。
けーとはまどからがいめんをながめる。
しょうにがたまをなげてあそんでいる。
かれらはたかくたまをくうちゅうになげうつ。
たまはうえへうえへとのぼる。
しばらくするとおちてくる。
かれらはまたたまをたかくなげうつ。
ふたたびさんど。
なげうつたびにたまはおちてくる。
なぜおちるのか、なぜうえへうえへとのみのぼらぬかとけーとがきく。
「きょじんがちちゅうにすむゆえに」とははがこたえる。
「かれはきょじんいんりょくである。
かれはつよい。
かれはばんぶつをおのれれのほうへとひく。
かれはかおくをちじょうにひく。
ひかねばとんでしまう。
しょうにもとんでしまう。
はがおちるのをみたろう。
あれはきょじんいんりょくがよぶのである。
ほんをおとすことがあろう。
きょじんいんりょくがこいというからである。
たまがそらにあがる。
きょじんいんりょくはよぶ。
よぶとおちてくる」
「それぎりかい」「むむ、あまいじゃないか」「いやこれはおそれいった。
とんだところでとちめんぼーのごへんれいにあずかった」「ごへんれいでもなんでもないさ、じっさいうまいからやくしてみたのさ、きみはそうおもわんかね」ときんぶちのめがねのおくをみる。
「どうもおどろきろいたね。
くんにしてこのぎりょうあらんとは、まったく此度というこんどはかつがれたよ、こうさんこうさん」といちにんでしょうちしていちにんでちょうしたる。
しゅじんにはいっこうつうじない。
「なにもきみをこうさんさせるかんがえはないさ。
ただおもしろいぶんしょうだとおもったからやくしてみたばかりさ」「いやじつにおもしろい。
そうこなくっちゃほんものでない。
すごいものだ。
きょうしゅくだ」「そんなにきょうしゅくするにはおよばん。
ぼくもちかごろはすいさいがをやめたから、そのかわりにぶんしょうでもやろうとおもってね」「どうしてえんきんむさべつくろしろびょうどうのすいさいがのひじゃない。
かんぷくのいたりだよ」「そうほめてくれるとぼくものりきになる」としゅじんはあくまでもかんちがいをしている。
ところへかんげつくんがせんじつはしつれいしましたとはいいってくる。
「いやしっけい。
こんたいへんなめいぶんをはいちょうしてとちめんぼーのぼうこんをたいじられたところで」と迷亭せんせいはわけのわからぬことをほのめかす。
「はあ、そうですか」とこれもわけのわからぬあいさつをする。
しゅじんだけはひだりのみうかれたけしきもない。
「せんじつはきみのしょうかいでおちとうふうというひとがきたよ」「ああのぼりましたか、あのおちとうふうというおとこはいたってしょうじきなおとこですがすこしかわっているところがあるので、あるいはごめいわくかとおもいましたが、ぜひしょうかいしてくれというものですから……」「べつにめいわくのこともないがね……」「こちらへのぼってもじぶんのせいめいのことについてなにかべんじていきゃしませんか」「いいえ、そんなはなしもなかったようだ」「そうですか、どこへいってもしょたいめんのひとにはじぶんのなまえのこうしゃくをするのがくせでしてね」「どんなこうしゃくをするんだい」とことあれかしとまちかまえた迷亭くんはくちをいれる。
「あのとうふうというのをおとでよまれるとたいへんきにするので」「はてね」と迷亭せんせいはきむからかわのたばこいりからたばこをつまみだす。
「わたししのなはおちとうふうではありません、おちこちですとかならずことわりますよ」「みょうだね」とくもいをはらのそこまでのみこむ。
「それがまったくぶんがくねつからきたので、こちとよむとえんきんというせいごになる、のみならずそのせいめいがいんをふんでいるというのがとくいなんです。
それだからとうふうをおとでよむとぼくがせっかくのくしんをひとがかってくれないといってふへいをいうのです」「こりゃなるほどかわってる」と迷亭せんせいはずにのってはらのそこからくもいをはなのあなまではきかえす。
とちゅうでけむりがとまよいをしていんこうのでぐちへひきかかる。
せんせいはきせるをにぎってごほんごほんとむせびかえる。
「せんじつきたときはろうどくかいでせんどうになってじょがくせいにわらわれたといっていたよ」としゅじんはわらいながらいう。
「うむそれそれ」と迷亭せんせいがきせるでひざがしらをたたく。
わがはいはけん呑になったからすこしはたをはなれる。
「そのろうどくかいさ。
せんだってとちめんぼーをごちそうしたときにね。
そのはなしがでたよ。
なにでもだいにかいにはちめいのぶんしをしょうたいしてたいかいをやるつもりだから、せんせいにもぜひごりんせきをねがいたいって。
それからぼくがこんどもちかまつのせわものをやるつもりかいときくと、いえこのつぎはずっとあたらしいものをえらんできんいろやしゃにしましたというから、きみにゃなにのやくがあたってるかときいたらわたしはおみやですといったのさ。
とうふうのごみやはおもしろかろう。
ぼくはぜひしゅっせきしてかっさいしようとおもってるよ」「おもしろいでしょう」とかんげつくんがみょうなわらいかたをする。
「しかしあのおとこはどこまでもせいじつでけいはくなところがないからよい。
迷亭などとはだいちがいだ」としゅじんはあんどれあ・でる・さるととくじゃくのしたととちめんぼーのふくしゅうをいちどにとる。
迷亭くんはきにもとめないようすで「どうせぼくなどはぎょうとくのまないたというかくだからなあ」とわらう。
「まずそんなところだろう」としゅじんがいう。
じつはぎょうとくのまないたというかたりをしゅじんはほぐさないのであるが、さすがえいねんきょうしをしてえびすまかしつけているものだから、こんなときにはきょうじょうのけいけんをしゃこうじょうにもおうようするのである。
「ぎょうとくのまないたというのはなにのことですか」とかんげつがしんそつにきく。
しゅじんはゆかのほうをみて「あのすいせんはくれにぼくがふろのかえりがけにかってきてさしたのだが、よくもつじゃないか」とぎょうとくのまないたをむりにねじふせる。
「くれといえば、きょねんのくれにぼくはじつにふしぎなけいけんをしたよ」と迷亭がきせるをだいかぐらのごとくゆびのとがでめぐわす。
「どんなけいけんか、きかしだまえ」としゅじんはぎょうとくのまないたをとおくのちにみすてたきで、ほっといきをつく。
迷亭せんせいのふしぎなけいけんというのをきくとひだりのごとくである。
「たしかくれのにじゅうななにちときおくしているがね。
れいのとうふうからさんどうのうえぜひぶんげいじょうのごこうわをうかがいたいからございしゅくをねがうというさききふれがあったので、あさからこころまちにまっているとせんせいなかなかこないやね。
ひるめしをくってすとーぶのまえでばりー・ぺーんのこっけいぶつをよんでいるところへしずおかのははからてがみがきたからみると、としよりだけにいつまでもぼくをしょうきょうのようにおもってね。
かんちゅうはやかんがいしゅつをするなとか、れいすいよくもいいがすとーぶをたいてしつを煖かにしてやらないとかぜをひくとかいろいろのちゅういがあるのさ。
なるほどおやはありがたいものだ、たにんではとてもこうはいかないと、のんきなぼくもそのときだけはだいにかんどうした。
それにつけても、こんなにのらくらしていてはもったいない。
なにかだいちょじゅつでもしてかめいをあげなくてはならん。
ははのいきているうちにてんかをしてめいじのぶんだんに迷亭せんせいあるをしらしめたいというきになった。
それからなおよんでいくとごぜんなんぞはじつにしあわせしゃだ。
ろしあとせんそうがはじまってわかいひとたちはたいへんなしんくをしておくにのために働らいているのにせっきしわすでもおしょうがつのようにきらくにあそんでいるとかいてある。
――ぼくはこれでもははのおもってるようにあそんじゃいないやね――そのあとへ以てきて、ぼくのしょうがっこうじだいのほうゆうでこんどのせんそうにでてしんだりふしょうしたもののなまえがれっきょしてあるのさ。
そのなまえをいちいちよんだときにはなんだかよのなかがあじけなくなってにんげんもつまらないというきがおこったよ。
いちばんしまいにね。
わたししもとるとしにそうろえばしょしゅんのごぞうにをいわいこうもこんどかぎりかと……なんだかこころぼそいことがかいてあるんで、なおのこときがくさくさしてしまってはやくとうふうがくればよいとおもったが、せんせいどうしてもこない。
そのうちとうとうばんめしになったから、ははへへんじでもかこうとおもってちょいとじゅうにさんこうかいた。
ははのてがみはろくしゃくいじょうもあるのだがぼくにはとてもそんなげいはできんから、いつでもじゅうこうないがいでごめんこうむることにきわめてあるのさ。
するといちにちうごかずにおったものだから、いのぐあいがみょうでくるしい。
とうふうがきたらまたせておけというきになって、ゆうびんをいれながらさんぽにでかけたとおもいたまえ。
いつになくふじみまちのほうへはあしがむかないでどてさんばんまちのほうへわがれしらずでてしまった。
ちょうどそのばんはすこしくもって、からかぜがごほりのむかうからふきつける、ひじょうにさむい。
かぐらざかのほうからきしゃがひゅーとなってどてかをとおりすぎる。
たいへんさびしいかんじがする。
くれ、せんし、ろうすい、むじょうじんそくなどというやつがあたまのなかをぐるぐる馳けめぐる。
よくひとがくびを縊るというがこんなときにふとさそわれてしぬきになるのじゃないかとおもいだす。
ちょいとくびをあげてどてのうえをみると、いつのまにかれいのまつのましたにきているのさ」
「れいのまつた、なにだい」としゅじんがだんくをなげいれる。
「くびかかのまつさ」と迷亭はりょうをちぢめる。
「くびかかのまつはおおとりのだいでしょう」かんげつがはもんをひろげる。
「おおとりのだいのはかねかかのまつで、どてさんばんまちのはくびかかのまつさ。
なぜこういうながついたかというと、むかししからのいいつたえでだれでもこのまつのしたへくるとくびが縊りたくなる。
どてのうえにまつはなんじゅうほんとなくあるが、そらくびくくりだときてみるとかならずこのまつへぶらさがっている。
としににさんかえはきっとぶらさがっている。
どうしてもたのまつではしぬきにならん。
みると、うまいぐあいにえだがおうらいのほうへよこにでている。
ああよいえだぶりだ。
あのままにしておくのはおしいものだ。
どうかしてあすこのところへにんげんをさげてみたい、だれかこないかしらと、しへんをみわたすとあいにくだれもこない。
しかたがない、じぶんでさがろうかしらん。
いやいやじぶんがさがってはいのちがない、あぶないからよそう。
しかしむかしのまれ臘人はえんかいのせきでくびくくりのまねをしてよきょうをそえたというはなしがある。
いちにんがたいのうえへのぼってなわのむすびめへくびをいれるとたんにたのものがだいをけかえす。
くびをいれたとうにんはだいをひかれるとどうじになわをゆるめてとびおりるというしゅこうである。
はたしてそれがじじつならべつだんおそれるるにもおよばん、ぼくもひとつこころみようとえだへてをかけてみるとよいぐあいにしわる。
しわりあんばいがじつにびてきである。
くびがかかってふわふわするところをそうぞうしてみるとうれしくてたまらん。
ぜひやることにしようとおもったが、もしとうふうがきてまっているときのどくだとかんがえだした。
それではまずとうふうにあってやくそくどおりはなしをして、それからでなおそうというきになってついにうちへかえったのさ」
「それでしがさかえたのかい」としゅじんがきく。
「おもしろいですな」とかんげつがにやにやしながらいう。
「うちへかえってみるととうふうはきていない。
しかしきょうはむよりどころしょさしつかえがあってでられぬ、いずれえいじつごめんごをきすというはしがきがあったので、やっとあんしんして、これならこころおきなくくびがくびれるうれしいとおもった。
でさっそくげたをひきかけて、いそぎあしでもとのところへひきかえしてみる……」とゆってしゅじんとかんげつのかおをみてすましている。
「みるとどうしたんだい」としゅじんはすこしじれる。
「いよいよかきょうにはいりますね」とかんげつははおりのひもをひねくる。
「みると、もうだれかきてさきへぶらさがっている。
たったひとあしちがいでねえきみ、ざんねんなことをしたよ。
かんがえるとなんでもそのときはしにがみにとりつかれたんだね。
ぜーむすなどにいわせるとふくいしきかのゆうめいかいとぼくがそんざいしているげんじつかいがいっしゅのいんがほうによってかたみにかんおうしたんだろう。
じつにふしぎなことがあるものじゃないか」迷亭はすましかえっている。
しゅじんはまたやられたとおもいながらなにもいわずにくうやもちをほおばってくちをもごもごいわしている。
かんげつはひばちのはいをていねいにかきならして、俯向いてにやにやわらっていたが、やがてくちをひらく。
きわめてしずかなちょうしである。
「なるほどうかがってみるとふしぎなことでちょっとありそうにもおもわれませんが、わたしなどはじぶんでやはりにたようなけいけんをついちかごろしたものですから、すこしもうたぐがうきになりません」
「おやきみもくびを縊りたくなったのかい」
「いえわたしのはくびじゃないんで。
これもちょうどあければさくねんのくれのことでしかもせんせいとどうじつどうこくくらいにおこったできごとですからなおさらふしぎにおもわれます」
「こりゃおもしろい」と迷亭もくうやもちをほおばる。
「そのひはむこうじまのちじんのいえでぼうねんかいけんがっそうかいがありまして、わたしもそれへゔぁいおりんをたずさえていきました。
じゅうごろくにんれいじょうやられいふじんがたかってなかなかせいかいで、きんらいのかいじとおもうくらいにばんじがととのっていました。
ばんさんもすみがっそうもすんでしほうのはなしがでてじこくもおおいたおそくなったから、もういとまごいをしてかえろうかとおもっていますと、ぼうはかせのふじんがわたしのそばへきてあなたは○れいしさんのごびょうきをごしょうちですかとこごえでききますので、じつはそのりょうさんにちまえにあったときはへいじょうのとおりどこもわるいようにはみうけませんでしたから、わたしもおどろきろいてくわしくようすをきいてみますと、わたししのあったそのばんからきゅうにはつねつして、いろいろな譫語をたえまなくくちばしるそうで、それだけならむべいですがその譫語のうちにわたしのながときどきでてくるというのです」
しゅじんはむろん、迷亭せんせいも「おやすくないね」などというつきなみはいわず、せいしゅくにきんちょうしている。
「いしゃをよんでみてもらうと、なんだかびょうめいはわからんが、なにしろねつがげきしいのでのうをおかしているから、もしすいみんざいがおもうようにこうをそうしないときけんであるというしんだんだそうでわたしはそれをきくやいなやいちしゅいやなかんじがおこったのです。
ちょうどゆめでうなされるときのようなおもくるしいかんじでしゅういのくうきがきゅうにこけいたいになってしほうからわがみをしめつけるごとくおもわれました。
かえりみちにもそのことばかりがあたまのなかにあってくるしくてたまらない。
あのきれいな、あのかいかつなあのけんこうなれいれいしさんが……」
「ちょっとしっけいだがまってくれたまえ。
さっきからうかがっていると○れいしさんというのがにかえばかりきこえるようだが、もしさしつかえがなければうけたまわわりたいね、きみ」としゅじんをかえりみると、しゅじんも「うむ」となまへんじをする。
「いやそれだけはとうにんのめいわくになるかもしれませんからはいしましょう」
「すべて曖々しかとして昧々しかたるかたでいくつもりかね」
「れいしょうなさってはいけません、ごくまじめなはなしなんですから……とにかくあのふじんがきゅうにそんなびょうきになったことをかんがえると、じつにひからくようのかんがいでむねがいちはいになって、そうしんのかっきがいちどにすとらいきをおこしたようにげんきがにわかにめいってしまいまして、ただ蹌々として踉々というかたちちであづまきょうへきかかったのです。
らんかんに倚ってしたをみるとまんちょうかかんちょうかわかりませんが、くろいみずがかたまってただうごいているようにみえます。
はなかわどのほうからじんりきしゃがいちだい馳けてきてはしのうえをとおりました。
そのちょうちんのひをみおくっていると、だんだんしょうくなってさっぽろびーるのところできえました。
わたしはまたみずをみる。
するとはるかのかわかみのほうでわたしのなをよぶこえがきこえるのです。
はてないまじぶんじんによばれるわけはないがだれだろうとみずのめんをすかしてみましたがくらくてなににもわかりません。
きのせいにちがいないそうそうかえろうとおもっていっそくにそくあるきだすと、またかすかなこえでとおくからわたしのなをよぶのです。
わたしはまたたちとまってみみをたててききました。
さんどめによばれたときにはらんかんにつかまっていながらひざがしらががくがく悸えだしたのです。
そのこえはとおくのほうか、かわのそこからでるようですがまぎれもない○れいしのこえなんでしょう。
わたしはおぼえず「はーい」とへんじをしたのです。
そのへんじがおおきかったものですからしずかなみずにひびいて、じぶんでじぶんのこえにおどろかされて、はっとしゅういをみわたしました。
ひともいぬもつきもなににもみえません。
そのときにわたしはこの「よる」のなかにまきこまれて、あのこえのでるところへいきたいというきがむらむらとおこったのです。
○れいしのこえがまたくるしそうに、うったえるように、救をもとめるようにわたしのみみをさしとおしたので、こんどは「こんじかにいきます」とこたえてらんかんからはんしんをだしてくろいみずをながめました。
どうもわたしをよぶこえがなみのしたからむりにもれてくるようにおもわれましてね。
このみずのもとだなとおもいながらわたしはとうとうらんかんのうえにのりましたよ。
こんどよんだらとびこもうとけっしんしてりゅうをみつめているとまたあわれなこえがいとのようにういてくる。
ここだとおもってちからをこめていったんとびあがっておいて、そしてこいしかなにぞのようにみれんなくおちてしまいました」
「とうとうとびこんだのかい」としゅじんがめをぱちつかせてとう。
「そこまでいこうとはおもわなかった」と迷亭がじぶんのはなのあたまをちょいとつまむ。
「とびこんだのちはきがとおくなって、しばらくはむちゅうでした。
やがてめがさめてみるとさむくはあるが、どこもぬれたところもなにもない、みずをのんだようなかんじもしない。
たしかにとびこんだはずだがじつにふしぎだ。
こりゃへんだときがついてそこいらをみわたすとおどろきましたね。
みずのなかへとびこんだつもりでいたところが、ついまちがってはしのまんなかへとびおりたので、そのときはじつにざんねんでした。
まえとうしろのま違だけであのこえのでるところへいくことができなかったのです」かんげつはにやにやわらいながられいのごとくはおりのひもをにやっかいにしている。
「ははははこれはおもしろい。
ぼくのけいけんとよくにているところがきだ。
やはりぜーむすきょうじゅのざいりょうになるね。
にんげんのかんおうというだいでしゃせいぶんにしたらきっとぶんだんをおどろかすよ。
……そしてその○れいしさんのびょうきはどうなったかね」と迷亭せんせいがついきゅうする。
「にさんにちまえねんしにいきましたら、もんのうちでげじょとはねをついていましたからびょうきはぜんかいしたものとみえます」
しゅじんはさいぜんからちんしのからだであったが、このときようやくくちをひらいて、「ぼくにもある」とまけぬきをだす。
「あるって、なにがあるんだい」迷亭のがんちゅうにしゅじんなどはむろんない。
「ぼくのもきょねんのくれのことだ」
「みんなきょねんのくれはあんごうでみょうですな」とかんげつがわらう。
かけたまえばのうちにくうやもちがついている。
「やはりどうじつどうこくじゃないか」と迷亭がまぜかえす。
「いやびはちがうようだ。
なにでもにじゅうにちごろだよ。
さいくんがおせいぼのかわりにせっつだいじょうをきかしてくれろというから、つれていってやらんこともないがきょうのかたりものはなにだときいたら、さいくんがしんぶんをさんこうしてうなぎだにだというのさ。
うなぎだにはきらいだからきょうはよそうとそのひはやめにした。
よくじつになるとさいくんがまたしんぶんをもってきてきょうはほりかわだからいいでしょうという。
ほりかわはしゃみせんものでにぎやかなばかりでみがないからよそうというと、さいくんはふへいなかおをしてひきさがった。
そのよくじつになるとさいくんがいうにはきょうはさんじゅうさんけんどうです、わたしはぜひせっつのさんじゅうさんけんどうがききたい。
あなたはさんじゅうさんけんどうもごきらいかしらないが、わたしにきかせるのだからいっしょにいってくだすってもむべいでしょうとてつめのだんぱんをする。
ごぜんがそんなにいきたいならいってもむべろしい、しかしいっせいちだいというのでたいへんなおおいりだからとうてい突かけにいったってはいいれるきづかいはない。
がんらいああいうばしょへいくにはちゃやというものがあってそれとこうしょうしてそうとうのせきをよやくするのがせいとうのてつづきだから、それをふまないでつねただしをだっしたことをするのはよくない、ざんねんだがきょうはやめようというと、さいくんはすごいめづけをして、わたしはおんなですからそんなむずかしいてつづきなんかしりませんが、おおはらのおははあさんも、すずきのきみよさんもせいとうのてつづきをふまないでりっぱにきいてきたんですから、いくらあなたがきょうしだからって、そうてすうのかかるけんぶつをしないでもすみましょう、あなたはあんまりだとなくようなこえをだす。
それじゃだめでもまあいくことにしよう。
ばんめしをくってでんしゃでいこうとこうさんをすると、いくならよんじまでにむこうへつくようにしなくっちゃいけません、そんなぐずぐずしてはいられませんときゅうにぜいがいい。
なぜよんじまでにいかなくてはだめなんだとききかえすと、そのくらいはやくいってばしょをとらなくちゃはいいれないからですとすずきのきみよさんからおしえられたとおりをのべる。
それじゃよんじをよぎればもうだめなんだねとねんをおしてみたら、ええだめですともとこたえる。
するときみふしぎなことにはそのときからきゅうにおかんがしだしてね」
「おくさんがですか」とかんげつがきく。
「なにさいくんはぴんぴんしていらあね。
ぼくがさ。
なんだかあなのあいたふうせんだまのようにいちどにいしゅくするかんじがおこるとおもうと、もうめがぐらぐらしてうごけなくなった」
「きゅうびょうだね」と迷亭がちゅうしゃくをくわえる。
「ああこまったことになった。
さいくんがとしにいちどのねがいだからぜひかなえてやりたい。
へいぜいしかりつけたり、くちをきかなかったり、しんじょうのくろうをさせたり、しょうきょうのせわをさせたりするばかりでなにひとつ洒掃しんすいのろうにむくいたことはない。
きょうはさいわいじかんもある、のうちゅうにはよんごまいのとぶつもある。
つれていけばいかれる。
さいくんもいきたいだろう、ぼくもつれていってやりたい。
ぜひつれていってやりたいがこうおかんがしてめがくらんではでんしゃへのるどころか、くつだっへおりることもできない。
ああきのどくだきのどくだとおもうとなおおかんがしてなおめがくらんでくる。
はやくいしゃにみてもらってふくやくでもしたらよんじまえにはぜんかいするだろうと、それからさいくんとそうだんをしてあまぎいがくしをむかいにやるとあいにくさくやがとうばんでまだだいがくからかえらない。
にじごろにはごかえりになりますから、かえりしだいすぐあげますというへんじである。
こまったなあ、こんきょうにんすいでものめばよんじまえにはきっと癒るにきょくっているんだが、うんのわるいときにはなにごともおもうようにいかんもので、たまさかさいくんのよろこぶえがおをみてらくもうというよさんも、がらりとはずれそうになってくる。
さいくんはうらめしいかおづけをして、とうていいらっしゃれませんかときく。
いくよかならずいくよ。
よんじまでにはきっとなおってみせるからあんしんしているがいい。
はやくかおでもあらってきものでもきかえてまっているがいい、とくちではゆったようなもののきょうちゅうはむげんのかんがいである。
おかんはますますげきしくなる、めはいよいよぐらぐらする。
もしやよんじまでにぜんかいしてやくそくをりこうすることができなかったら、きのせまいおんなのことだからなにをするかもしれない。
なさけないしぎになってきた。
どうしたらよかろう。
まんいちのことをかんがえるといまのうちにういてんぺんのり、しょうじゃひつめつのみちをとききかして、もしものへんがおこったときとりみださないくらいのかくごをさせるのも、おっとのつまにたいするぎむではあるまいかとかんがえだした。
ぼくははやかにさいくんをしょさいへよんだよ。
よんでごぜんはおんなだけれども many a slip 'twixt the cup and the lip というせいようのことわざくらいはこころえているだろうときくと、そんなよこもじなんかだれがしるもんですか、あなたはひとがえいごをしらないのをごぞんじのくせにわざとえいごをつかってひとにからかうのだから、よろしゅうございます、どうせえいごなんかはできないんですから、そんなにえいごがごすきなら、なぜ耶蘇がっこうのそつぎょうせいかなんかをおもらいなさらなかったんです。
あなたくらいれいこくなひとはありはしないとひじょうなけんまくなんで、ぼくもせっかくのけいかくのこしをおられてしまった。
くんとうにもべんかいするがぼくのえいごはけっしてあくいでつかったわけじゃない。
まったくつまをあいするしじょうからでたので、それをつまのようにかいしゃくされてはぼくもたつせがない。
それにさっきからのおかんとめまいですこしのうがみだれていたところへもってきて、はやくういてんぺん、しょうじゃひつめつのりをのみこませようとすこしせきこんだものだから、ついさいくんのえいごをしらないということをわすれて、なにのきもつかずにつかってしまったわけさ。
かんがえるとこれはぼくがあくるい、まったくておちであった。
このしっぱいでおかんはますますつよくなる。
めはいよいよぐらぐらする。
さいくんはめいぜられたとおりふろじょうへいってりょうはだをぬいでごけしょうをして、たんすからきものをだしてちゃくかえる。
もういつでもでかけられますというふぜいでまちかまえている。
ぼくはきがきでない。
はやくあまぎきみがきてくれればよいがとおもってとけいをみるともうさんじだ。
よんじにはもういちじかんしかない。
「そろそろでかけましょうか」とさいくんがしょさいのひらきどをあけてかおをだす。
じぶんのつまをほめるのはおかしいようであるが、ぼくはこのときほどさいくんをうつくしいとおもったことはなかった。
もろはだをぬいでせっけんでみがきあげたひふがぴかついてくろちりめんのはおりとはんえいしている。
そのかおがせっけんとせっつだいじょうをきこうというきぼうとのふたつで、ゆうけいむけいのりょうほうめんからてるやいてみえる。
どうしてもそのきぼうをまんぞくさせてでかけてやろうというきになる。
それじゃふんぱつしていこうかな、といちぷくふかしているとようやくあまぎせんせいがきた。
うまいちゅうもんどおりにいった。
がようだいをはなすと、あまぎせんせいはぼくのしたをながめて、てをにぎって、むねをたたいてせをなでて、まぶちをひっくりかえして、ずがいこつをさすって、しばらくかんがえこんでいる。
「どうもすこしけん呑のようなきがしまして」とぼくがいうと、せんせいはおちついて、「いえかくべつのこともございますまい」という。
「あのちょっとくらいがいしゅついたしてもさしつかえはございますまいね」とさいくんがきく。
「さよう」とせんせいはまたかんがえこむ。
「ごきぶんさえおわるくなければ……」「きぶんはわるいですよ」とぼくがいう。
「じゃともかくもとんぷくとみずぐすりをあげますから」「へえどうか、なんだかちと、あぶないようになりそうですな」「いやけっしてごしんぱいになるほどのことじゃございません、しんけいをごおこしになるといけませんよ」とせんせいがかえる。
さんじはさんじゅうふんすぎた。
げじょをくすりとりにやる。
さいくんのげんめいで馳けだしていって、馳けだしてかえってくる。
よんじじゅうごふんまえである。
よんじにはまだじゅうごふんある。
するとよんじじゅうごふんまえごろから、いままでなにともなかったのに、きゅうに嘔気を催おしてきた。
さいくんはみずぐすりをちゃわんへそそいでぼくのまえへおいてくれたから、ちゃわんをとりあげてのもうとすると、いのなかからげーというものがとっかんしてでてくる。
やむをえずちゃわんをしたへおく。
さいくんは「はやくごのみになったらむべいでしょう」と逼る。
はやくのんではやくでかけなくてはぎりがわるい。
おもいきってのんでしまおうとまたちゃわんをくちびるへつけるとまたげーがしゅうねんぶかくぼうがいをする。
のもうとしてはちゃわんをおき、のもうとしてはちゃわんをおいているとちゃのまのはしらどけいがちんちんちんちんとよんじをうった。
さあよんじだぐずぐずしてはおられんとちゃわんをまたとりあげると、ふしぎだねえきみ、じつにふしぎとはこのことだろう、よんじのおととともにはきけがすっかりとまってみずぐすりがなにのくなしにのめたよ。
それからよんじじゅうふんごろになると、あまぎせんせいのめいいということもはじめてりかいすることができたんだが、せなかがぞくぞくするのも、めがぐらぐらするのもゆめのようにきえて、とうぶんたつこともできまいとおもったびょうきがたちまちぜんかいしたのはうれしかった」
「それからかぶきざへいっしょにいったのかい」と迷亭がようりょうをえんというかおづけをしてきく。
「いきたかったがよんじをすぎちゃ、はいいれないというさいくんのいけんなんだからしかたがない、やめにしたさ。
もうじゅうごふんばかりはやくあまぎせんせいがきてくれたらぼくのぎりもたつし、つまもまんぞくしたろうに、わずかじゅうごぶんのさでね、じつにざんねんなことをした。
かんがえだすとあぶないところだったといまでもおもうのさ」
かたりりょうったしゅじんはようやくじぶんのぎむをすましたようなかぜをする。
これでりょうにんにたいしてかおがたつというきかもしれん。
かんげつはれいのごとくかけたはをだしてわらいながら「それはざんねんでしたな」という。
迷亭はとぼけたかおをして「きみのようなしんせつなおっとをもったさいくんはじつにしあわせだな」とひとりごとのようにいう。
しょうじのかげでえへんというさいくんのせきばらいがきこえる。
わがはいはおとなしくさんにんのはなしをじゅんばんにきいていたがおかしくもかなしくもなかった。
にんげんというものはじかんをつぶすためにしいてくちをうんどうさせて、おかしくもないことをわらったり、おもしろくもないことをうれしがったりするほかにのうもないものだとおもった。
わがはいのしゅじんのわがままでへんきょうなことはまえからしょうちしていたが、へいじょうはことばすうをつかわないのでなんだかりょうかいしかねるてんがあるようにおもわれていた。
そのりょうかいしかねるてんにすこしはこわしいというかんじもあったが、いまのはなしをきいてからきゅうにけいべつしたくなった。
かれはなぜりょうにんのはなしをちんもくしてきいていられないのだろう。
まけぬきになってぐにもつかぬだべんをろうすればなにのしょとくがあるだろう。
えぴくてたすにそんなことをしろとかいてあるのかしらん。
ようするにしゅじんもかんげつも迷亭もたいへいのいつみんで、かれらはへちまのごとくかぜにふかれてちょうぜんとすましきっているようなものの、そのじつはやはりしゃばけもありよくきもある。
きょうそうのねん、かとうかとうのこころはかれらがにちじょうのだんしょうちゅうにもちらちらとほのめいて、いちほすすめばかれらがへいじょうばとうしているぞっこつどもとひとつあなのどうぶつになるのはねこよりみてきのどくのいたりである。
ただそのげんごどうさがふつうのはんかつうのごとく、ぶんぎりがたのいやみをおびてないのはいささかのとりどくでもあろう。
こうかんがえるときゅうにさんにんのだんわがおもしろくなくなったので、みけこのようすでもみてこようかとにげんきんのごししょうさんのにわぐちへめぐる。
かどまつちゅうもくかざりはすでにとりはらわれてしょうがつもはややじゅうにちとなったが、うららかなしゅんじつはいちながれのくももみえぬふかきそらよりしかいてんかをいちどにてらして、じゅうつぼにたらぬにわのめんもがんじつのしょこうをうけたときより鮮かなかっきをていしている。
椽側にざぶとんがひとつあってひとかげもみえず、しょうじもたてきってあるのはごししょうさんはゆにでもおこなったのかしらん。
ごししょうさんはるすでもかまわんが、みけこはすこしはむべいかたか、それがきがかりである。
ひっそりしてひとのきあいもしないから、どろあしのまま椽側へのぼってざぶとんのまんなかへねてんろんでみるといいこころもちだ。
ついうとうととして、みけこのこともわすれてうたたねをしていると、きゅうにしょうじのうちでひとごえがする。
「ごくろうだった。
できたかえ」ごししょうさんはやはりるすではなかったのだ。
「はいおそくなりまして、ぶっしやへまいりましたらちょうどできのぼったところだともうしまして」「どれおみせなさい。
ああきれいにできた、これでさんもうもうかばれましょう。
きんははげることはあるまいね」「ええねんをおしましたらじょうとうをつかったからこれならにんげんのいはいよりももつともうしておりました。
……それからねこほまれしんにょのほまれのじはくずしたほうがかっこうがいいからすこし劃をやすえたともうしました」「どれどれさっそくごぶつだんへあげてごせんこうでもあげましょう」
みけこは、どうかしたのかな、なんだかようすがへんだとふとんのうえへたちのぼる。
ちーんなむねこほまれしんにょ、なむあみだぶつなむあみだぶつとごししょうさんのこえがする。
「ごぜんもえこうをしておやりなさい」
ちーんなむねこほまれしんにょなむあみだぶつなむあみだぶつとこんどはげじょのこえがする。
わがはいはきゅうにどうきがしてきた。
ざぶとんのうえにたったまま、きぼりのねこのようにめもうごかさない。
「ほんとにざんねんなことをいたしましたね。
はじめはちょいとかぜをひいたんでございましょうがねえ」「あまぎさんがくすりでもくださると、よかったかもしれないよ」「いったいあのあまぎさんがわるうございますよ、あんまりさんもうをばかにしかぎまさあね」「そうひとさまのことをわるくいうものではない。
これもじゅみょうだから」
みけこもあまぎせんせいにしんさつしてもらったものとみえる。
「つまるところおもてどおりのきょうしのうちののらねこがむあんにさそいだしたからだと、わたしはおもうよ」「ええあのちくしょうがさんもうのかたきでございますよ」
すこしべんかいしたかったが、ここががまんのしどころとつばをのんできいている。
はなしはしばしとぎれる。
「よのなかはじゆうにならんものでのう。
みけのようなきりょうよしははやじにをするし。
ぶきりょうなのらねこはたっしゃでいたずらをしているし……」「そのとおりでございますよ。
みけのようなかわいらしいねこはかねとたいこでさがしてあるいたって、ににんとはおりませんからね」
にひきというかわりににたりといった。
げじょのかんがえではねことにんげんとはどうしゅぞくものとおもっているらしい。
そういえばこのげじょのかおはわれとうねこぞくとはなはだるいじしている。
「できるものならさんもうのかわりに……」「あのきょうしのところののらがしぬとおあつらえどおりにまいったんでございますがねえ」
おあつらえどおりになっては、ちとこまる。
しぬということはどんなものか、まだけいけんしたことがないからすきともきらいともいえないが、せんじつあまりさむいのでひけしつぼのなかへもぐりこんでいたら、げじょがわがはいがいるのもしらんでうえからふたをしたことがあった。
そのときのくるしさはかんがえてもおそれしくなるほどであった。
はくくんのせつめいによるとあのくるしみがいますこしつづくとしぬのであるそうだ。
みけこのみがわりになるのならくじょうもないが、あのくるしみをうけなくてはしぬことができないのなら、だれのためでもしにたくはない。
「しかしねこでもぼうさんのごけいをよんでもらったり、かいみょうをこしらえてもらったのだからこころのこりはあるまい」「そうでございますとも、まったくかほうものでございますよ。
ただよくをいうとあのぼうさんのごけいがあまりけいしょうだったようでございますね」「すこしたんかすぎたようだったから、たいへんおはやうございますねとおたずねをしたら、げっけいじさんは、ええききめのあるところをちょいとやっておきました、なにねこだからあのくらいでじゅうぶんじょうどへいかれますとおっしゃったよ」「あらまあ……しかしあののらなんかは……」
わがはいはなまえはないとしばしばことわっておくのに、このげじょはのらのらとわがはいをよぶ。
しっけいなやっこだ。
「つみがふかいんですから、いくらありがたいごけいだってうかばれることはございませんよ」
わがはいはそのごのらがなんひゃくへんくりかえされたかをしらぬ。
わがはいはこのさいげんなきだんわをちゅうとでききすてて、ふとんをすべりおちて椽側からとびおりたとき、はちまんはちせんはちひゃくはちじゅうほんのもうはつをいちどにたててみぶるいをした。
そのごにげんきんのごししょうさんのきんじょへはよりついたことがない。
いまごろはごししょうさんじしんがげっけいじさんからけいしょうなごえこうをうけているだろう。
ちかごろはがいしゅつするゆうきもない。
なんだかせけんが慵うくかんぜらるる。
しゅじんにおとらぬほどのむせいねことなった。
しゅじんがしょさいにのみとじこもっているのをひとがしつれんだしつれんだとひょうするのもむりはないとおもうようになった。
ねずみはまだとったことがないので、いちじはごさんからほうちくろんさえていしゅつされたこともあったが、しゅじんはわがはいのふつういっぱんのねこでないということをしっているものだからわがはいはやはりのらくらしてこのいえにきがしている。
このてんについてはふかくしゅじんのおんをかんしゃするとどうじにそのかつがんにたいしてけいふくのいをひょうするにちゅうちょしないつもりである。
ごさんがわがはいをしらずしてぎゃくたいをするのはべつにはらもたたない。
いまにひだりじんごろうがでてきて、わがはいのしょうぞうをろうもんのはしらにきざみ、にっぽんのすたんらんがこのんでわがはいのにがおをかんゔぁすのうえにえがくようになったら、かれらどん瞎漢ははじめてじこのふめいをはずるであろう。
さん
みけこはしぬ。
くろはあいてにならず、いささかせきばくのかんはあるが、さいわいにんげんにちきができたのでさほどたいくつともおもわぬ。
せんだってはしゅじんのもとへわがはいのしゃしんをおくってくれとてがみでいらいしたおとこがある。
このかんはおかやまのめいさんきびだんごをわざわざわがはいのなあてでとどけてくれたひとがある。
だんだんにんげんからどうじょうをよせらるるにしたがって、おのれがねこであることはようやくぼうきゃくしてくる。
ねこよりはいつのまにかにんげんのほうへせっきんしてきたようなこころもちになって、どうぞくをきゅうごうしてにほんあしのせんせいとしゆうをけっしようなどというりょうみはさっこんのところもうとうない。
それのみかおりおりはわがはいもまたにんげんせかいのいちにんだとおもうおりさえあるくらいにしんかしたのはたのもしい。
あえてどうぞくをけいべつするしだいではない。
ただせいじょうのちかきところにむかっていっしんのやすきをおくはぜいのしからしむるところで、これをへんしんとか、けいはくとか、うらぎりとかひょうせられてはちとめいわくする。
かようなげんごをろうしてひとをばりするものにかぎってゆうずうのきかぬびんぼうしょうのおとこがおおいようだ。
こうねこのしゅうへきをだっかしてみるとさんもうこやくろのことばかりにやっかいにしているわけにはいかん。
やはりにんげんどうとうのきぐらいでかれらのしそう、げんこうをひょう隲したくなる。
これもむりはあるまい。
ただそのくらいなけんしきをゆうしているわがはいをやはりいっぱんねこじのけのはえたものくらいにおもって、しゅじんがわがはいにひとことのあいさつもなく、きびだんごをわがものがおにくいつくしたのはざんねんのしだいである。
しゃしんもまだとっておくらぬようすだ。
これもふへいといえばふへいだが、しゅじんはしゅじん、わがはいはわがはいで、そうごのけんかいがしぜんことなるのはいたしかたもあるまい。
わがはいはどこまでもにんげんになりすましているのだから、こうさいをせぬねこのどうさは、どうしてもちょいとふでにのぼりにくい。
迷亭、かんげつしょせんせいのひょうばんだけでごめんこうむることにいたそう。
きょうはうえてんきのにちようなので、しゅじんはのそのそしょさいからでてきて、わがはいのはたへひっけんとげんこうようしをならべてはら這になって、しきりになにかうなっている。
おおかたそうこうをかきおろすじょびらきとしてみょうなこえをはっするのだろうとちゅうもくしていると、ややしばらくしてふでぶとに「こういち※」とかいた。
はてなしになるか、はいくになるか、こういち※とは、しゅじんにしてはすこししゃれすぎているがとおもうまもなく、かれはこういち※をかきはなしにして、あらたにくだりをあらためて「さっきからてんねんこじのことをかこうとかんがえている」とふでをはしらせた。
ふではそれだけではたととまったぎりうごかない。
しゅじんはふでをもってくびをひねったがべつだんめいあんもないものとみえてふでのほを甞めだした。
くちびるがまっくろになったとみていると、こんどはそのしたへちょいとまるをかいた。
まるのなかへてんをふたつうってめをつける。
まんなかへこばなのひらいたはなをかいて、まいちもんじにくちをよこへひっぱった、これではぶんしょうでもはいくでもない。
しゅじんもじぶんであいそがつきたとみえて、そこそこにかおをぬりけしてしまった。
しゅじんはまたくだりをあらためる。
かれのこうによるとくだりさえあらためればしかさんかかたりかろくかなにかになるだろうとただあてもなくかんがえているらしい。
やがて「てんねんこじはくうかんをけんきゅうし、ろんごをよみ、しょういもをくい、はなしるをたらすひとである」とげんぶんいっちたいでいっきかせいにかきながした、なんとなくごたごたしたぶんしょうである。
それからしゅじんはこれをえんりょなくろうどくして、いつになく「ははははおもしろい」とわらったが「はなしるをたらすのは、ちとこくだからけそう」とそのくだけへぼうをひく。
いちほんですむところをにほんびきさんほんひき、きれいなへいこうせんをえがく、せんがほかのくだりまではみだしてもかまわずひいている。
せんがはちほんならんでもあとのくができないとみえて、こんどはふでをすててひげをひねってみる。
ぶんしょうをひげからひねりだしてごらんにいれますというけんまくでもうれつにひねってはねじあげ、ねじおろしているところへ、ちゃのまからさいくんがでてきてぴたりとしゅじんのはなのさきへすわわる。
「あなたちょっと」とよぶ。
「なんだ」としゅじんはすいちゅうでどらをたたくようなこえをだす。
へんじがきにいらないとみえてさいくんはまた「あなたちょっと」とでなおす。
「なんだよ」とこんどははなのあなへおやゆびとひとさしゆびをいれてはなげをぐっとぬく。
「こんげつはちっとたりませんが……」「たりんはずはない、いしゃへもやくれいはすましたし、ほんやへもせんげつはらったじゃないか。
こんげつはあまらなければならん」とすましてぬきとったはなげをてんかのきかんのごとくながめている。
「それでもあなたがごはんをめしのぼらんでめん麭をおたべになったり、じゃむをおなめになるものですから」「がんらいじゃむはいくかんなめたのかい」「こんげつはやっつはいりましたよ」「やっつ?そんなになめたおぼえはない」「あなたばかりじゃありません、こどももなめます」「いくらなめたってごろくえんくらいなものだ」としゅじんはへいきなかおではなげをいちほんいちほんていねいにげんこうしのうえへうえつける。
にくがついているのでぴんとはりをたてたごとくにたつ。
しゅじんはおもわぬはっけんをしてかんじいったからだで、ふっとふいてみる。
ねんちゃくりょくがつよいのでけっしてとばない。
「いやにがんこだな」としゅじんはいっしょうけんめいにふく。
「じゃむばかりじゃないんです、ほかにかわなけりゃ、ならないものもあります」とさいくんはだいにふへいなけしきをりょうほおにみなぎらす。
「あるかもしれないさ」としゅじんはまたゆびをつっこんでぐいとはなげをぬく。
あかいのや、くろいのや、しゅじゅのいろが交るなかにいちほんまっしろなのがある。
だいにおどろいたようすであなのひらくほどながめていたしゅじんはゆびのまたへはさんだまま、そのはなげをさいくんのかおのまえへだす。
「あら、いやだ」とさいくんはかおをしかめて、しゅじんのてをつきもどす。
「ちょっとみろ、はなげのはくはつだ」としゅじんはだいにかんどうしたようすである。
さすがのさいくんもわらいながらちゃのまへはいいる。
けいざいもんだいはだんねんしたらしい。
しゅじんはまたてんねんこじにとりかかる。
はなげでさいくんをおっぱらったしゅじんは、まずこれであんしんといわぬばかりにはなげをぬいてはげんこうをかこうとあせるからだであるがなかなかふではうごかない。
「しょういもをくうもだそくだ、かつあいしよう」とついにこのくもまっさつする。
「こういち※」にぼうてん]もあまりとうとつだからやめろ」と惜気もなくひっちゅうする。
あますところは「てんねんこじはくうかんをけんきゅうしろんごをよむひとである」といういっくになってしまった。
しゅじんはこれではなんだかかんたんすぎるようだなとかんがえていたが、ええめんどうくさい、ぶんしょうはごはいしにして、めいだけにしろと、ふでをじゅうもんじにふるってげんこうしのうえへへたなぶんじんがのらんをぜいよくかく。
せっかくのくしんもいちじのこらずらくだいとなった。
それからうらをかえして「くうかんにうまれ、くうかんをきわめ、くうかんにしす。
そらたりかんたりてんねんこじ噫」といみふめいなかたりをつらねているところへれいのごとく迷亭がはいいってくる。
迷亭はひとのいえもじぶんのいえもおなじものとこころえているのかあんないもこわず、ずかずかのぼってくる、のみならずときにはかってぐちからひょうぜんとまいこむこともある、しんぱい、えんりょ、きけん、くろう、をうまれるときどこかへふりおとしたおとこである。
「またきょじんいんりょくかね」とたったまましゅじんにきく。
「そう、いつでもきょじんいんりょくばかりかいてはおらんさ。
てんねんこじのはかめいをせんしているところなんだ」とおおげさなことをいう。
「てんねんこじというなあやはりぐうぜんどうじのようなかいみょうかね」と迷亭はふあいへんでたらめをいう。
「ぐうぜんどうじというのもあるのかい」「なにありゃしないがまずそのけんとうだろうとおもっていらあね」「ぐうぜんどうじというのはぼくのしったものじゃないようだがてんねんこじというのは、きみのしってるおとこだぜ」「いったいだれがてんねんこじなんてなをつけてすましているんだい」「れいの曾呂さきのことだ。
そつぎょうしてだいがくいんへはいいってくうかんろんというだいもくでけんきゅうしていたが、あまりべんきょうしすぎてふくまくえんでしんでしまった。
曾呂さきはあれでもぼくのしんゆうなんだからな」「しんゆうでもいいさ、けっしてわるいとうんやしない。
しかしその曾呂さきをてんねんこじにへんかさせたのはいったいだれのしょさだい」「ぼくさ、ぼくがつけてやったんだ。
がんらいぼうずのつけるかいみょうほどぞくなものはないからな」とてんねんこじはよほどみやびななのようにじまんする。
迷亭はわらいながら「まあそのぼひめいというやっこをみせたまえ」とげんこうをとりあげて「なんだ……くうかんにうまれ、くうかんをきわめ、くうかんにしす。
そらたりかんたりてんねんこじ噫」とおおきなこえでよみのぼる。
「なるほどこりゃあよい、てんねんこじそうとうのところだ」しゅじんはうれしそうに「よいだろう」という。
「このはかめいをたくあんせきへほりつけてほんどうのうらてへりきいしのようにほうりだしておくんだね。
みやびでいいや、てんねんこじもうかばれるわけだ」「ぼくもそうしようとおもっているのさ」としゅじんはしごくまじめにこたえたが「ぼくあちょっとしっけいするよ、じきかえるからねこにでもからかっていてくれたまえ」と迷亭のへんじもまたずかぜしかとでていく。
はからずも迷亭せんせいのせったいかかりをめいぜられてぶあいそうなかおもしていられないから、にゃーにゃーとあいきょうをふりまいてひざのうえへはいのぼってみた。
すると迷亭は「いよーおおいたふとったな、どれ」とぶさほうにもわがはいのえりがみをつかんでちゅうへつるす。
「あとあしをこうぶらさげては、ねずみはとれそうもない、……どうですおくさんこのねこはねずみをとりますかね」とわがはいばかりではふそくだとみえて、となりのしつのさいくんにはなしかける。
「ねずみどころじゃございません。
ごぞうにをたべておどりをおどるんですもの」とさいくんはとんだところできゅうあくをあばく。
わがはいはちゅうのりをしながらもしょうしょうきまりがわるかった。
迷亭はまだわがはいをおろしてくれない。
「なるほどおどりでもおどりそうなかおだ。
おくさんこのねこはゆだんのならないそうごうですぜ。
むかししのくさぞうしにあるねこまたににていますよ」とかってなことをいいながら、しきりにさいくんにはなしかける。
さいくんはめいわくそうにはりしごとのてをやめてざしきへでてくる。
「どうもごたいくつさま、もうかえりましょう」とちゃをそそぎやすえて迷亭のまえへだす。
「どこへいったんですかね」「どこへまいるにもことわっていったことのないおとこですからわかりかねますが、おおかたごいしゃへでもおこなったんでしょう」「あまぎさんですか、あまぎさんもあんなびょうにんにつかまっちゃさいなんですな」「へえ」とさいくんはあいさつのしようもないとみえてかんたんなこたえをする。
迷亭はいっこうとんじゃくしない。
「ちかごろはどうです、すこしはいのかげんがあたいんですか」「あたいかわるいかとみとわかりません、いくらあまぎさんにかかったって、あんなにじゃむばかり甞めてはいびょうのなおるわけがないとおもいます」とさいくんはせんこくのふへいをあんに迷亭にもらす。
「そんなにじゃむを甞めるんですかまるでしょうきょうのようですね」「じゃむばかりじゃないんで、このころはいびょうのくすりだとかゆってだいこんおろししをむあんに甞めますので……」「おどろきろいたな」と迷亭はかんたんする。
「なにでもだいこんおろしのなかにはじやすたーぜがあるとかいうはなしをしんぶんでよんでからです」「なるほどそれでじゃむのそんがいをつぐなおうというしゅこうですな。
なかなかかんがえていらあはははは」と迷亭はさいくんの訴をきいてだいにゆかいなけしきである。
「このかんなどはあかんぼうにまで甞めさせまして……」「じゃむをですか」「いいえだいこんおろしを……あなた。
ぼうやごとうさまがうまいものをやるからおいでてって、――たまにしょうきょうをかわいがってくれるかとおもうとそんなばかなことばかりするんです。
にさんにちまえにはなかのむすめをだいてたんすのうえへあげましてね……」「どういうしゅこうがありました」と迷亭はなにをきいてもしゅこうずくめにかいしゃくする。
「なにしゅこうもなにもありゃしません、ただそのうえからとびおりてみろというんですわ、みっつやよっつのおんなのこですもの、そんなごてんばばなことができるはずがないです」「なるほどこりゃしゅこうがなさすぎましたね。
しかしあれではらのうちはどくのないぜんにんですよ」「あのうえはらのうちにどくがあっちゃ、からしぼうはできませんわ」とさいくんはだいにきえんをあげる。
「まあそんなにふへいをいわんでもよいでさあ。
こうやってふそくなくそのひそのひがくらしていかれればうえのぶんですよ。
くさやくんなどはどうらくはせず、ふくそうにもかまわず、じみにせたいむきにできのぼったひとでさあ」と迷亭はえにないせっきょうをようきなちょうしでやっている。
「ところがあなただいちがいで……」「なにかうちうちでやりますかね。
ゆだんのならないよのなかだからね」とひょうぜんとふわふわしたへんじをする。
「ほかのどうらくはないですが、むあんによみもしないほんばかりかいましてね。
それもよいかげんにみはからってかってくれるとよいんですけれど、かってにまるぜんへいっちゃなんさつでもとってきて、げつまつになるとしらんかおをしているんですもの、きょねんのくれなんか、つきづきのがたまってたいへんこまりました」「なあにしょもつなんかとってくるだけとってきてかまわんですよ。
はらいをとりにきたらいまにやるいまにやるとゆっていりゃかえってしまいまさあ」「それでも、そういつまでもひっぱるわけにもまいりませんから」とさいくんはぶぜんとしている。
「それじゃ、わけをはなしてしょせきひをさくげんさせるさ」「どうして、そんなげんをゆったって、なかなかきくものですか、このかんなどはきさまはがくしゃのつまにもにあわん、ごうもしょせきのかちをかいしておらん、むかししらうまにこういうはなしがある。
こうがくのためきいておけというんです」「そりゃおもしろい、どんなはなしですか」迷亭はのきになる。
さいくんにどうじょうをあらわしているというよりむしろこうきしんにかられている。
「なにんでもむかししらうまにたるきんとかいうおうさまがあって……」「たるきん?たるきんはちとみょうですぜ」「わたしはとうじんのななんかむずかしくておぼえられませんわ。
なにでもななだいめなんだそうです」「なるほどななだいめたるきんはみょうですな。
ふんそのななだいめたるきんがどうかしましたかい」「あら、あなたまでひやかしてはたつせがありませんわ。
しっていらっしゃるならおしえてくださればいいじゃありませんか、ひとのわるい」と、さいくんは迷亭へくってかかる。
「なにひやかすなんて、そんなひとのわるいことをするぼくじゃない。
ただななだいめたるきんはふってるとおもってね……ええおまちなさいよらばのななだいめのおうさまですね、こうっとたしかにはおぼえていないがたーくいん・ぜ・ぷらうどのことでしょう。
まあだれでもいい、そのおうさまがどうしました」「そのおうさまのところへいちにんのおんながほんをきゅうさつもってきてかってくれないかとゆったんだそうです」「なるほど」「おうさまがいくらならうるといってきいたらたいへんなたかいことをいうんですって、あまりたかいもんだからすこしまけないかというとそのおんながいきなりきゅうさつのうちのさんさつをひにくべてたいてしまったそうです」「おしいことをしましたな」「そのほんのうちにはよげんかなにかほかでみられないことがかいてあるんですって」「へえー」「おうさまはきゅうさつがろくさつになったからすこしはあたいもへったろうとおもってろくさつでいくらだときくと、やはりもとのとおりいちぶんもひかないそうです、それはらんぼうだというと、そのおんなはまたさんさつをとってひにくべたそうです。
おうさまはまだみれんがあったとみえて、あまったさんさつをいくらでうるときくと、やはりきゅうさつぶんのねだんをくれというそうです。
きゅうさつがろくさつになり、ろくさつがさんさつになってもだいかは、もとのとおりいちりんもひかない、それをひかせようとすると、のこってるさんさつもひにくべるかもしれないので、おうさまはとうとうたかいごきんをだしてたけあまりのさんさつをかったんですって……どうだこのはなしですこしはしょもつのありがたみがわかったろう、どうだとちからみむのですけれど、わたしにゃなにがありがたいんだか、まあわかりませんね」とさいくんはいっかのけんしきをたてて迷亭のへんとうを促がす。
さすがの迷亭もしょうしょうきゅうしたとみえて、たもとからはんけちをだしてわがはいをじゃらしていたが「しかしおくさん」ときゅうになにかかんがえついたようにおおきなこえをだす。
「あんなにほんをかってやたらにつめこむものだからひとからすこしはがくしゃだとかなんとかいわれるんですよ。
このかんあるぶんがくざっしをみたらくさやくんのひょうがでていましたよ」「ほんとに?」とさいくんはむきなおる。
しゅじんのひょうばんがきにかかるのは、やはりふうふとみえる。
「なんとかいてあったんです」「なあににさんこうばかりですがね。
くさやくんのぶんはこううんりゅうすいのごとしとありましたよ」さいくんはすこしにこにこして「それぎりですか」「そのつぎにね――でずるかとおもえばたちまちきえ、ゆいてはながえにかえるを忘るとありましたよ」さいくんはみょうなかおをして「しょうめたんでしょうか」とこころもとないちょうしである。
「まあしょうめたほうでしょうな」と迷亭はすましてはんけちをわがはいのめのまえにぶらさげる。
「しょもつはしょうがいどうぐでしかたもござんすまいが、よっぽどへんくつでしてねえ」迷亭はまたべっとのほうめんからきたなとおもって「へんくつはしょうしょうへんくつですね、がくもんをするものはどうせあんなですよ」とちょうしをあわせるようなべんごをするようなふそくふりのみょうこたえをする。
「せんだってなどはがっこうからかえってすぐわきへでるのにきものをきかえるのがめんどうだものですから、あなたがいとうもぬがないで、つくえへこしをかけてごはんをたべるのです。
ごぜんをこたつろのうえへのせまして――わたしはごひつをかかえてすわっておりましたがおかしくって……」「なんだかはいからのくびじっけんのようですな。
しかしそんなところがにがさやくんのくさやくんたるところで――とにかくつきなみでない」とせつないほめかたをする。
「つきなみかつきなみでないかおんなにはわかりませんが、なんぼなにでも、あまりらんぼうですわ」「しかしつきなみよりよいですよ」とむあんにかせいするとさいくんはふまんなようすで「いったい、つきなみつきなみとみなさんが、よくおっしゃいますが、どんなのがつきなみなんです」とひらきなおってつきなみのていぎをしつもんする、「つきなみですか、つきなみというと――さようちとせつめいしにくいのですが……」「そんなあいまいなものならつきなみだってよさそうなものじゃありませんか」とさいくんはにょにんいちりゅうのろんりほうでつめよせる。
「あいまいじゃありませんよ、ちゃんとわかっています、ただせつめいしにくいだけのことでさあ」「なにでもじぶんのきらいなことをつきなみというんでしょう」とさいくんはわがしらずうがったことをいう。
迷亭もこうなるとなんとかつきなみのしょちをつけなければならぬしぎとなる。
「おくさん、つきなみというのはね、まずとしはにはちかにきゅうからぬといわずかたらずものおもいのまにねころんでいて、このひやてんきせいろうとくるとかならずいっぴょうをたずさえてぼくつつみにあそぶれんちゅうをいうんです」「そんなれんちゅうがあるでしょうか」とさいくんはわからんものだからこうかげんなあいさつをする。
「なんだかごたごたしてわたしにはわかりませんわ」とついにわがをおる。
「それじゃばきんのどうへめじょお・ぺんでにすのくびをつけていちにねんおうしゅうのくうきでつつんでおくんですね」「そうするとつきなみができるでしょうか」迷亭はへんじをしないでわらっている。
「なにそんなてすうのかかることをしないでもできます。
ちゅうがっこうのせいとにしらきやのばんがしらをくわえてにでわれるとりっぱなつきなみができのぼります」「そうでしょうか」とさいくんはくびをひねったままなっとくしかねたというふぜいにみえる。
「きみまだいるのか」としゅじんはいつのまにやらかえってきて迷亭のはたへすわわる。
「まだいるのかはちとこくだな、すぐかえるからまっていたまえといったじゃないか」「ばんじあれなんですもの」とさいくんは迷亭をかえりみる。
「いまくんのるすちゅうにきみのいつわをのこらずきいてしまったぜ」「おんなはとかくたべんでいかん、にんげんもこのねこくらいちんもくをまもるといいがな」としゅじんはわがはいのあたまをなでてくれる。
「きみはあかんぼうにだいこんおろししを甞めさしたそうだな」「ふむ」としゅじんはわらったが「あかんぼうでもちかごろのあかんぼうはなかなかりこうだぜ。
それいらい、ぼうやつらいのはどこときくときっとしたをだすからみょうだ」「まるでいぬにげいをしこむきでいるからざんこくだ。
ときにかんげつはもうきそうなものだな」「かんげつがくるのかい」としゅじんはふしんなかおをする。
「きたるんだ。
ごごいちじまでにくさやのいえへこいとはしがきをだしておいたから」「ひとのつごうもきかんでかってなことをするおとこだ。
かんげつをよんでなにをするんだい」「なあにきょうのはこっちのしゅこうじゃないかんげつせんせいじしんのようきゅうさ。
せんせいなにでもりがくきょうかいでえんぜつをするとかいうのでね。
そのけいこをやるからぼくにきいてくれというから、そりゃちょうどいいくさやにもきかしてやろうというのでね。
そこできみのいえへよぶことにしておいたのさ――なあにきみはひまじんだからちょうどいいやね――さしつかえなんぞあるおとこじゃない、きくがいいさ」と迷亭はひとりでのみこんでいる。
「ぶつりがくのえんぜつなんかぼくにゃわからん」としゅじんはしょうしょう迷亭のせんだんをいきどおったもののごとくにいう。
「ところがそのもんだいがまぐねつけられたのっずるについてなどというかんそうむみなものじゃないんだ。
くびくくりのりきがくというだつぞくちょうぼんなえんだいなのだからけいちょうするかちがあるさ」「きみはくびを縊りそんくなったおとこだからけいちょうするがよいがぼくなんざあ……」「かぶきざでおかんがするくらいのにんげんだからきかれないというけつろんはでそうもないぜ」とれいのごとくかるくちをたたく。
さいくんはほほとわらってしゅじんをかえりみながらつぎのまへしりぞく。
しゅじんはむごんのままわがはいのあたまをなでる。
このときのみはひじょうにていねいななでかたであった。
それからやくななふんくらいするとちゅうもんどおりかんげつくんがくる。
きょうはばんに演舌をするというのでれいになくりっぱなふろっくをきて、せんたくしだてのしろえりをそびやかして、おとこぶりをにわりかたあげて、「すこしおくれまして」とおちつきはらって、あいさつをする。
「さっきからににんでだいまちにまったところなんだ。
さっそくねがおう、なあきみ」としゅじんをみる。
しゅじんもやむをえず「うむ」となまへんじをする。
かんげつくんはいそがない。
「こっぷへみずをいっぱいちょうだいしましょう」という。
「いよーほんしきにやるのかつぎにははくしゅのせいきゅうとおいでなさるだろう」と迷亭はひとりでさわぎたてる。
かんげつくんはうちかくしからそうこうをとりだしてじょろに「けいこですから、ごえんりょなくごひひょうをねがいます」とぜん置をして、いよいよ演舌のごさらいをはじめる。
「ざいにんをしぼつみのけいにしょするということはおもにあんぐろさくそんみんぞくかんにおこなわれたほうほうでありまして、それよりこだいにさかのぼってかんがえますとくびくくりはおもにじさつのほうほうとしておこなわれたものであります。
なおふとしひとなかにあってはざいにんをいしをほうげつけてころすしゅうかんであったそうでございます。
きゅうやくぜんしょをけんきゅうしてみますといわゆるはんぎんぐなるかたりはざいにんのしたいをつるしてやじゅうまたはにくしょくとりのえじきとするいぎとみとめられます。
へろどたすのせつにしたがってみますとなおふとしじんはえじぷとをさるいぜんからやちゅうしがいをさらされることをいたくいみきらったようにおもわれます。
えじぷとじんはざいにんのくびをきってどうだけをじゅうじかにくぎづけにしてよなかさらしぶつにしたそうでございます。
なみ斯人は……」「かんげつくんくびくくりとえんがだんだんとおくなるようだがだいじょうぶかい」と迷亭がくちをいれる。
「これからほんろんにはいいるところですから、しょうしょうごからしぼうをねがいます。
……さてなみ斯人はどうかともうしますとこれもやはりしょけいにははりつけをもちいたようでございます。
ただしいきているうちにはりつけにいたしたものか、しんでからくぎをうったものかそのあたりはちとわかりかねます……」「そんなことはわからんでもいいさ」としゅじんはたいくつそうにあくびをする。
「まだいろいろおはなしいたしたいこともございますが、ごめいわくであらっしゃいましょうから……」「あらっしゃいましょうより、いらっしゃいましょうのほうがききいいよ、ねえにがさやくん」とまた迷亭がとがめりつをするとしゅじんは「どっちでもおなじことだ」ときのないへんじをする。
「さていよいよほんだいにはいりましてべんじます」「べんじますなんかこうしゃくしのうんいぐさだ。
演舌かはもっとじょうひんなことばをつかってもらいたいね」と迷亭せんせいまたまぜかえす。
「べんじますがげひんならなにとゆったらいいでしょう」とかんげつくんはしょうしょうむっとしたちょうしでといかける。
「迷亭のはきいているのか、まぜかえしているのかはんぜんしない。
かんげつくんそんなわたるじばにかまわず、さっさとやるがよい」としゅじんはなるべくはやくなんかんをきりぬけようとする。
「むっとしてべんじましたるやなぎかな、かね」と迷亭はあいかわらずひょうぜんたることをいう。
かんげつはおもわずふきだす。
「しんにしょけいとしてこうさつをもちいましたのは、わたしのしらべましたけっかによりますると、おでぃせーのにじゅうにかんめにでております。
すなわちかれのてれまかすがぺねろぴーのじゅうににんのじじょをこうさつするというじょうりでございます。
まれ臘語でほんぶんをろうどくしてもよろしゅうございますが、ちとてらうようなきみにもなりますからやめにいたします。
よんひゃくろくじゅうごこうから、よんひゃくななじゅうさんこうをごらんになるとわかります」「まれ臘語うんぬんはよしたほうがいい、さもまれ臘語ができますといわんばかりだ、ねえにがさやくん」「それはぼくもさんせいだ、そんなものほしそうなことはいわんほうがおくゆかしくてよい」としゅじんはいつになくただちに迷亭にかたんする。
りょうにんはごうもまれ臘語がよめないのである。
「それではこのりょうさんくはこんばんぬくことにいたしましてつぎをべんじ――ええもうしあげます。
このこうさつをいまからそうぞうしてみますと、これをしっこうするにふたつのほうほうがあります。
だいいちは、かれのてれまかすがゆーみあすおよびふ※りーしゃすの援を藉りてなわのいったんをはしらへくくりつけます。
そしてそのなわのところどころへむすびめをあなにあけてこのあなへおんなのあたまをひとつずついれておいて、かたほうのはじをぐいとひっぱってつりしあげたものとみるのです」「つまりせいようせんたくやのしゃつのようにおんながぶらくだったとみればよいんだろう」「そのとおりで、それからだいにはなわのいったんをまえのごとくはしらへくくりつけてたのいったんもはじめからてんじょうへたかくつるのです。
そしてそのたかいなわからなんほんかべつのなわをさげて、それにむすびめのわになったのをつけておんなの頸をいれておいて、いざというときにおんなのあしだいをとりはずすというしゅこうなのです」「たとえていうとなわのれんのさきへちょうちんだまをつりしたようなけしきとおもえばま違はあるまい」「ちょうちんだまというたまはみたことがないからなんとももうされませんが、もしあるとすればそのあたりのところかとおもいます。
――それでこれからりきがくてきにだいいちのばあいはとうていせいりつすべきものでないということをしょうこだててごらんにいれます」「おもしろいな」と迷亭がいうと「うんおもしろい」としゅじんもいっちする。
「まずおんながどうきょりにつられるとかていします。
またいちばんちめんにちかいににんのおんなのくびとくびをつないでいるなわはほりぞんたるとかていします。
そこであるふぁいちαに……あるふぁろくをなわがちへいせんとかたちづくるかくどとし、てぃーいちてぃー2……てぃーろくをなわのかくぶがうけるちからとみ做し、てぃーなな=えっくすはなわのもっともひくいぶぶんのうけるちからとします。
だぶりゅーはもちろんおんなのたいじゅうとごしょうちください。
どうですごわかりになりましたか」
迷亭としゅじんはかおをみあわせて「たいていわかった」という。
ただしこのたいていというどあいはりょうにんがかってにつくったのだからたにんのばあいにはおうようができないかもしれない。
「さてたかくがたにかんするごぞんじのへいきんせいりろんによりますと、したのごとくじゅうにのほうていしきがたちます。
T1cosあるふぁ1=T2cosあるふぁ2…… (1) T2cosあるふぁ2=T3cosあるふぁ3…… (2) ……]」「ほうていしきはそのくらいでたくさんだろう」としゅじんはらんぼうなことをいう。
「じつはこのしきがえんぜつのしゅのうなんですが」とかんげつくんははなはだのこりおしきにみえる。
「それじゃしゅのうだけはおってうかがうことにしようじゃないか」と迷亭もしょうしょうきょうしゅくのからだにみうけられる。
「このしきをりゃくしてしまうとせっかくのりきがくてきけんきゅうがまるでだめになるのですが……」「なにそんなえんりょはいらんから、ずんずんりゃくすさ……」としゅじんはへいきでいう。
「それではおおせにしたがって、むりですがりゃくしましょう」「それがよかろう」と迷亭がみょうなところでてをぱちぱちとたたく。
「それからえいこくへうつってろんじますと、べおうるふのなかにこうしゅかすなわちがるがともうすじがみえますからしぼつみのけいはこのじだいからおこなわれたものに違ないとおもわれます。
ぶらくすとーんのせつによるともししぼつみにしょせられるざいにんが、まんいちなわのぐあいでしにきれぬときはさいどどうようのけいばつを受くべきものだとしてありますが、みょうなことにはぴやーす・ぷろーまんのなかにはたとえきょうかんでもにどしめるほうはないというくがあるのです。
まあどっちがほんとうかしりませんが、わるくするといちどでしねないことがおうおうじつれいにあるので。
せんななひゃくはちじゅうろくねんにゆうめいなふ※つ・ぜらるどというあっかんをしめたことがありました。
ところがみょうなはずみでいちどめにはだいからとびおりるときになわがきれてしまったのです。
またやりなおすとこんどはなわがながすぎてあしがじめんへついたのでやはりしねなかったのです。
とうとうさんかえめにけんぶつにんがてつだっておうじょうさしたというはなしです」「やれやれ」と迷亭はこんなところへくるときゅうにげんきがでる。
「ほんとうにしにそんいだな」としゅじんまでうかれだす。
「まだおもしろいことがありますくびを縊るとせがいっすんばかりのびるそうです。
これはたしかにいしゃがはかってみたのだからま違はありません」「それはしんくふうだね、どうだいくさやなどはちとつってもらっちゃあ、ちょっとのびたらにんげんなみになるかもしれないぜ」と迷亭がしゅじんのほうをむくと、しゅじんはあんがいまじめで「かんげつくん、いっすんくらいせがのびていきかえることがあるだろうか」ときく。
「それはだめにきょくっています。
つられてせきずいがのびるからなんで、はやくいうとせがのびるというよりこわれるんですからね」「それじゃ、まあとめよう」としゅじんはだんねんする。
えんぜつのつづきは、まだなかなかながくあってかんげつくんはくびくくりのせいりさようにまでろんきゅうするはずでいたが、迷亭がむあんにふうらいぼうのようなちんごをはさむのと、しゅじんがときどきえんりょなくあくびをするので、ついにちゅうとでやめてかえってしまった。
そのばんはかんげつくんがいかなるたいどで、いかなるゆうべんをふったかえんぽうでおこったできごとのことだからわがはいにはしれようやくがない。
にさんにちはこともなくすぎたが、あるるひのごごにじごろまた迷亭せんせいはれいのごとくくうくうとしてぐうぜんどうじのごとくまいこんできた。
ざにつくと、いきなり「きみ、おちとうふうのたかなわじけんをきいたかい」とりょじゅんかんらくのごうがいをしらせにきたほどのぜいをしめす。
「しらん、ちかごろはあわんから」としゅじんはへいぜいのとおりいんきである。
「きょうはそのとうふうこのしっさくものがたりをごほうどうにおよぼうとおもっていそがしいところをわざわざきたんだよ」「またそんなぎょうさんなことをいう、きみはぜんたいふらちなおとこだ」「はははははふらちといわんよりむしろむらちのほうだろう。
それだけはちょっとくべつしておいてもらわんとめいよにかんけいするからな」「おんなしことだ」としゅじんはうそぶいている。
じゅんぜんたるてんねんこじのさいらいだ。
「このまえのにちようにとうふうこがたかなわせんがくじにいったんだそうだ。
このさむいのによせばいいのに――だいいちいまどきせんがくじなどへまいるのはさもとうきょうをしらない、いなかしゃのようじゃないか」「それはとうふうのかってさ。
きみがそれをとめるけんりはない」「なるほどけんりはまさにない。
けんりはどうでもいいが、あのてらないにぎしいぶつほぞんかいというみせものがあるだろう。
きみしってるか」「うんにゃ」「しらない?だってせんがくじへいったことはあるだろう」「いいや」「ない?こりゃおどろきろいた。
どうりでたいへんとうふうをべんごするとおもった。
えどっこがせんがくじをしらないのはなさけない」「しらなくてもきょうしはつとまるからな」としゅじんはいよいよてんねんこじになる。
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それをわざわざほうちにくるきみのほうがよっぽどおもしろいぜ」としゅじんはまきたばこのはいをひおけのなかへはたきおとす。
おりがらこうしどのべるがとびのぼるほどなって「ごめんなさい」とするどどいおんなのこえがする。
迷亭としゅじんはおもわずかおをみあわせてちんもくする。
しゅじんのうちへおんなきゃくはけうだなとみていると、かのするどどいこえのしょゆうぬしはちりめんのにまいがさねをたたみへなすりつけながらはいいってくる。
としはよんじゅうのうえをすこしこしたくらいだろう。
ぬけのぼったはえぎわからまえがみがていぼうこうじのようにたかくそびえて、すくなくともかおのながさのにぶんのいちだけてんにむかってせりだしている。
めがきりどおしのさかくらいなこうばいで、ちょくせんにつるしあげられてさゆうにたいりつする。
ちょくせんとはくじらよりほそいというけいようである。
はなだけはむあんにおおきい。
ひとのはなをぬすんできてかおのまんなかへすえつけたようにみえる。
さんつぼほどのしょうにわへしょうこんしゃのいしとうかごをうつしたときのごとく、ひとりではばをきかしているが、なんとなくおちつかない。
そのはなはいわゆるかぎはなで、ひとどはせいいっぱいたかくなってみたが、これではあんまりだとちゅうとからけんそんして、さきのほうへいくと、はじめのぜいににずたれかかって、したにあるくちびるをのぞきこんでいる。
かくちょるしいはなだから、このおんながものをいうときはくちがものをいうといわんより、はながくちをきいているとしかおもわれない。
わがはいはこのいだいなるはなにけいいをひょうするため、いらいはこのおんなをしょうしてはなこはなことよぶつもりである。
はなこはまずしょたいめんのあいさつをおわって「どうもけっこうなごじゅうきょですこと」とざしきちゅうをねめめぐわす。
しゅじんは「うそをつけ」とはらのうちでいったまま、ぷかぷかたばこをふかす。
迷亭はてんじょうをみながら「きみ、ありゃあめもりか、いたのもくめか、みょうなもようがでているぜ」とあんにしゅじんを促がす。
「むろんあめのもりさ」としゅじんがこたえると「けっこうだなあ」と迷亭がすましていう。
はなこはしゃこうをしらぬひとたちだとはらのうちでいきどおる。
しばらくはさんにんていざのままむごんである。
「ちとうかがいたいことがあって、まいったんですが」とはなこはふたたびはなしのくちをきる。
「はあ」としゅじんがきわめてれいたんにうける。
これではならぬとはなこは、「じつはわたしはついごきんじょで――あのむこうよこちょうのかどやしきなんですが」「あのおおきなせいようかんのくらのあるうちですか、どうりであすこにはかねだというひょうさつがでていますな」としゅじんはようやくかねだのせいようかんと、かねだのくらをにんしきしたようだがかねだふじんにたいするそんけいのどあいはまえとどうようである。
「じつはやどがでまして、ごはなしをうかがうんですがかいしゃのほうがたいへん忙がしいもんですから」とこんどはすこしきいたろうというめづけをする。
しゅじんはいっこうどうじない。
はなこのせんこくからのことばづかいがしょたいめんのおんなとしてはあまりそんざいすぎるのですでにふへいなのである。
「かいしゃでもひとつじゃないんです、ふたつもみっつもかねているんです。
それにどのかいしゃでもじゅうやくなんで――たぶんごぞんじでしょうが」これでもおそれいらぬかというかおづけをする。
がんらいここのしゅじんははかせとかだいがくきょうじゅとかいうとひじょうにきょうしゅくするおとこであるが、みょうなことにはじつぎょうかにたいするそんけいのたびはきわめてひくい。
じつぎょうかよりもちゅうがっこうのせんせいのほうがえらいとしんじている。
よししんじておらんでも、ゆうずうのきかぬせいしつとして、とうていじつぎょうか、きんまんかのおんこをこうむることはさとしたばないとたいらめている。
いくらせんぽうがせいりょくかでも、ざいさんかでも、じぶんがせわになるみこみのないとおもいきったひとのりがいにはきわめてむとんじゃくである。
それだからがくしゃしゃかいをのぞいてたのほうめんのことにはきわめてまが濶で、ことにじつぎょうかいなどでは、どこに、だれがなにをしているかいっこうしらん。
しってもそんけいいふくのねんはごうもおこらんのである。
はなこのほうではあめがしたのいちぐうにこんなへんじんがやはりにっこうにてらされてせいかつしていようとはゆめにもしらない。
いままでよのなかのにんげんにもだいぶせっしてみたが、かねだのつまですとなのって、きゅうにとりあつかいのかわらないばあいはない、どこのかいへでても、どんなみぶんのたかいひとのまえでもりっぱにかねだふじんでとおしていかれる、いわんやこんないぶりかえったろうしょせいにおいてをやで、わたしのいえはむかうよこちょうのかどやしきですとさえいえばしょくぎょうなどはきかぬさきからおどろくだろうとよきしていたのである。
「かねだってひとをしってるか」としゅじんはむぞうさに迷亭にきく。
「しってるとも、かねださんはぼくのおじのともだちだ。
このかんなんざえんゆうかいへおいでになった」と迷亭はまじめなへんじをする。
「へえ、きみのおじさんてえなだれだい」「まきやまだんしゃくさ」と迷亭はいよいよまじめである。
しゅじんがなにかいおうとしていわぬさきに、はなこはきゅうにむきなおって迷亭のほうをみる。
迷亭はおおしまつむぎにこわたりさらさかなにかかさねてすましている。
「おや、あなたがまきやまさまの――なんでいらっしゃいますか、ちっともぞんじませんで、はなはだしつれいをいたしました。
まきやまさまにはしじゅうごせわになると、やどでことごとくごうわさをいたしております」ときゅうにていねいなことばしをして、おまけにごじぎまでする、迷亭は「へええなに、はははは」とわらっている。
しゅじんはあっけにとられてむごんでににんをみている。
「たしかむすめのえんぺんのことにつきましてもいろいろまきやまさまへごしんぱいをねがいましたそうで……」「へえー、そうですか」とこればかりは迷亭にもちととうとつすぎたとみえてちょっとたまげたようなこえをだす。
「じつはかたがたからくれくれともうしこみはございますが、こちらのみぶんもあるものでございますから、めったなところへもかたづけられませんので……」「ごもっともで」と迷亭はようやくあんしんする。
「それについて、あなたにうかがおうとおもってあがったんですがね」とはなこはしゅじんのほうをみてきゅうにそんざいなことばにかえる。
「あなたのところへみずしまかんげつというおとこがたびたびあがるそうですが、あのひとはぜんたいどんなかぜなひとでしょう」「かんげつのことをきいて、なににするんです」としゅじんはにがにがしくいう。
「やはりごれいじょうのごこんぎじょうのかんけいで、かんげつくんのせいこうのいちむらをごしょうちになりたいというわけでしょう」と迷亭がきてんをきかす。
「それがうかがえればたいへんつごうがよろしいのでございますが……」「それじゃ、ごれいじょうをかんげつにおやりになりたいとおっしゃるんで」「やりたいなんてえんじゃないんです」とはなこはきゅうにしゅじんをまいらせる。
「ほかにもだんだんくちがあるんですから、むりにもらっていただかないだってこまりゃしません」「それじゃかんげつのことなんかきかんでもよいでしょう」としゅじんもやっきとなる。
「しかしおかくしなさるわけもないでしょう」とはなこもしょうしょうけんかごしになる。
迷亭はそうほうのまにすわって、ぎんきせるをぐんばいうちわのようにもって、こころのうらではっけよいやよいやとどなっている。
「じゃあかんげつのほうでぜひもらいたいとでもゆったのですか」としゅじんがしょうめんからてっぽうをくわせる。
「もらいたいとゆったんじゃないんですけれども……」「もらいたいだろうとおもっていらっしゃるんですか」としゅじんはこのふじんてっぽうにかぎるとさとったらしい。
「はなしはそんなにはこんでるんじゃありませんが――かんげつさんだってまんざらうれしくないこともないでしょう」とどひょうぎわでもちなおす。
「かんげつがなにかそのごれいじょうにれんちゃくしたというようなことでもありますか」あるならゆってみろというけんまくでしゅじんはそりかえる。
「まあ、そんなけんとうでしょうね」こんどはしゅじんのてっぽうがすこしもこうをそうしない。
いままでおもしろきにぎょうじきどりでけんぶつしていた迷亭もはなこのひとことにこうきしんをちょうはつされたものとみえて、きせるをおいてまえへのりだす。
「かんげつがごじょうさんにつけぶみでもしたんですか、こりゃゆかいだ、しんねんになっていつわがまたひとつふえてはなしのこうざいりょうになる」といちにんでよろこんでいる。
「つけぶみじゃないんです、もっとはげしいんでさあ、ごににんともごしょうちじゃありませんか」とはなこはおつにからまってくる。
「きみしってるか」としゅじんはきつねつきのようなかおをして迷亭にきく。
迷亭もばかきたちょうしで「ぼくはしらん、しっていりゃきみだ」とつまらんところでけんそんする。
「いえごりょうにんどもごぞんじのことですよ」とはなこだけだいとくいである。
「へえー」とごりょうにんはいちどにかんじいる。
「ごわすれになったらわたししからごはなしをしましょう。
きょねんのくれむこうじまのあべさんのごやしきでえんそうかいがあってかんげつさんもでかけたじゃありませんか、そのばんがえりにあづまばしでなにかあったでしょう――くわしいことはいいますまい、とうにんのごめいわくになるかもしれませんから――あれだけのしょうこがありゃじゅうぶんだとおもいますが、どんなものでしょう」とこんごうせきいりのゆびたまきのはまったゆびを、ひざのうえへ併べて、つんといずまいをなおす。
いだいなるはながますますいさいをはなって、迷亭もしゅじんもあれどもむきがごときありさまである。
しゅじんはむろん、さすがの迷亭もこのふい撃にはきもをぬかれたものとみえて、しばらくはぼうぜんとしておこりのおちたびょうにんのようにすわっていたが、きょうがくのたががゆるんでだんだんもちまえのほんたいにふくするとともに、こっけいというかんじがいちどにとっかんしてくる。
りょうにんはもうしあわせたごとく「ははははは」とわらいくずれる。
はなこばかりはすこしあてがはずれて、このさいわらうのははなはだしつれいだとりょうにんをにらみつける。
「あれがごじょうさんですか、なるほどこりゃいい、おっしゃるとおりだ、ねえにがさやくん、まったくかんげつはおじょうさんをこいってるにそういないね……もうかくしたってしようがないからはくじょうしようじゃないか」「うふん」としゅじんはゆったままである。
「ほんとうにおかくしなさってもいけませんよ、ちゃんとたねはのぼってるんですからね」とはなこはまたとくいになる。
「こうなりゃしかたがない。
なにでもかんげつくんにかんするじじつはごさんこうのためにちんじゅつするさ、おいくさやくん、きみがしゅじんだのに、そう、にやにやわらっていてはらちがあかんじゃないか、じつにひみつというものはおそろしいものだねえ。
いくらかくしても、どこからかろけんするからな。
――しかしふしぎといえばふしぎですねえ、かねだのおくさん、どうしてこのひみつをごたんちになったんです、じつにおどろきろきますな」と迷亭はいちにんでちょうしたる。
「わたししのほうだって、ぬかりはありませんやね」とはなこはしたりがおをする。
「あんまり、ぬかりがなさすぎるようですぜ。
いったいだれにおききになったんです」「じきこのうらにいるくるまやのかみさんからです」「あのくろねこのいるくるまやですか」としゅじんはめをまるくする。
「ええ、かんげつさんのことじゃ、よっぽどつかいましたよ。
かんげつさんが、ここへくるたびに、どんなはなしをするかとおもってくるまやのかみさんをたのんでいちいちしらせてもらうんです」「そりゃ苛い」としゅじんはおおきなこえをだす。
「なあに、あなたがなにをなさろうとおっしゃろうと、それにかまってるんじゃないんです。
かんげつさんのことだけですよ」「かんげつのことだって、だれのことだって――ぜんたいあのくるまやのかみさんはきにくわんやつだ」としゅじんはいちにんおこりだす。
「しかしあなたのかきねのそとへきてたっているのはむこうのかってじゃありませんか、はなしがきこえてわるけりゃもっとちいさいこえでなさるか、もっとおおきなうちへおはいいんなさるがいいでしょう」とはなこはすこしもせきめんしたようすがない。
「くるまやばかりじゃありません。
しんどうのにげんきんのししょうからもおおいたいろいろなことをきいています」「かんげつのことをですか」「かんげつさんばかりのことじゃありません」とすこしすごいことをいう。
しゅじんはおそれいるかとおもうと「あのししょうはいやにじょうひんぶってじぶんだけにんげんらしいかおをしている、ばかやろうです」「はばかりさま、おんなですよ。
やろうはみかどちがいです」とはなこのことばづかいはますますごさとをあらわしてくる。
これではまるでけんかをしにきたようなものであるが、そこへいくと迷亭はやはり迷亭でこのだんぱんをおもしろそうにきいている。
てつ枴仙じんがしゃものけあいをみるようなかおをしてへいきできいている。
わるぐちのこうかんではとうていはなこのてきでないとじかくしたしゅじんは、しばらくちんもくをまもるのやむをえざるにいたらしめられていたが、ようやくおもいついたか「あなたはかんげつのほうからごじょうさんにれんちゃくしたようにばかりおっしゃるが、わたしのきいたんじゃ、すこしちがいますぜ、ねえ迷亭くん」と迷亭のすくいをもとめる。
「うん、あのときのはなしじゃごじょうさんのほうが、はじめびょうきになって――なんだか譫語をいったようにきいたね」「なにそんなことはありません」とかねだふじんははんぜんたるちょくせんりゅうのことばづかいをする。
「それでもかんげつはたしかに○○はかせのふじんからきいたとゆっていましたぜ」「それがこっちのてなんでさあ、○○はかせのおくさんをたのんでかんげつさんのきをひいてみたんでさあね」「○○のおくさんは、それをしょうちでひきうけたんですか」「ええ。
ひきうけてもらうたって、ただじゃできませんやね、それやこれやでいろいろものをつかっているんですから」「ぜひかんげつくんのことをねほりりはほりりおききにならなくっちゃごかえりにならないというけっしんですかね」と迷亭もすこしきもちをわるくしたとみえて、いつになくてさわりのあらいことばをつかう。
「いいやきみ、はなしたってそんのいくことじゃなし、はなそうじゃないかにがさやくん――おくさん、わたしでもくさやでもかんげつくんにかんするじじつでさしつかえのないことは、みんなはなしますからね、――そう、じゅんをたててだんだんきいてくださるとつごうがいいですね」
はなこはようやくなっとくしてそろそろしつもんをていしゅつする。
いちじあらだてたことばづかいも迷亭にたいしてはまたもとのごとくていねいになる。
「かんげつさんもりがくしだそうですが、ぜんたいどんなことをせんもんにしているのでございます」「だいがくいんではちきゅうのじきのけんきゅうをやっています」としゅじんがまじめにこたえる。
ふこうにしてそのいみがはなこにはわからんものだから「へえー」とはゆったがけげんなかおをしている。
「それをべんきょうするとはかせになれましょうか」ときく。
「はかせにならなければやれないとおっしゃるんですか」としゅじんはふゆかいそうにたずねる。
「ええ。
ただのがくしじゃね、いくらでもありますからね」とはなこはへいきでこたえる。
しゅじんは迷亭をみていよいよいやなかおをする。
「はかせになるかならんかはぼくとうもほしょうすることができんから、ほかのことをきいていただくことにしよう」と迷亭もあまりよいきげんではない。
「ちかごろでもそのちきゅうの――なにかをべんきょうしているんでございましょうか」「にさんにちまえはくびくくりのりきがくというけんきゅうのけっかをりがくきょうかいでえんぜつしました」としゅじんはなにのきもつかずにいう。
「おやいやだ、くびくくりだなんて、よっぽどへんじんですねえ。
そんなくびくくりやなにかやってたんじゃ、とてもはかせにはなれますまいね」「ほんにんがくびを縊っちゃあむずかしいですが、くびくくりのりきがくならなれないともかぎらんです」「そうでしょうか」とこんどはしゅじんのほうをみてかおいろをうかがう。
かなしいことにりきがくといういみがわからんのでおちつきかねている。
しかしこれしきのことをたずねてはかねだふじんのめんぼくにかんするとおもってか、ただあいてのかおいろではっけをたててみる。
しゅじんのかおはしぶい。
「そのほかになにか、わかりやすいものをべんきょうしておりますまいか」「そうですな、せんだってどんぐりのすたびりちーをろんじてあわせててんたいのうんこうにおよぶというろんぶんをかいたことがあります」「どんぐりなんぞでもだいがっこうでべんきょうするものでしょうか」「さあぼくもしろうとだからよくわからんが、なにしろ、かんげつくんがやるくらいなんだから、けんきゅうするかちがあるとみえますな」と迷亭はすましてひやかす。
はなこはがくもんじょうのしつもんはてにあわんとだんねんしたものとみえて、こんどはわだいをてんずる。
「ごはなしはちがいますが――このごしょうがつにしいたけをたべてまえばをにまいおったそうじゃございませんか」「ええそのかけたところにくうやもちがくっついていましてね」と迷亭はこのしつもんこそわれなわばりないだときゅうにうかれだす。
「いろけのないひとじゃございませんか、なにだってようじをつかわないんでしょう」「こんどあったらちゅういしておきましょう」としゅじんがくすくすわらう。
「しいたけではがかけるくらいじゃ、よほどはのせいがわるいとおもわれますが、いかがなものでしょう」「よいとはいわれますまいな――ねえ迷亭」「よいことはないがちょっとあいきょうがあるよ。
あれぎり、まだはめないところがみょうだ。
いまだにくうやもち引掛しょになってるなあきかんだぜ」「はをはめるこづかいがないのでかけなりにしておくんですか、またはものずきでかけなりにしておくんでしょうか」「なにもながくまえばけつなるをなのるわけでもないでしょうからごあんしんなさいよ」と迷亭のきげんはだんだんかいふくしてくる。
はなこはまたもんだいをあらためる。
「なにかごたくにてがみかなんぞとうにんのかいたものでもございますならちょっとはいけんしたいもんでございますが」「はしがきならたくさんあります、ごらんなさい」としゅじんはしょさいからさんよんじゅうまいもってくる。
「そんなにたくさんはいけんしないでも――そのうちのにさんまいだけ……」「どれどれぼくがよいのをせんってやろう」と迷亭せんせいは「これなざあおもしろいでしょう」といちまいのえはがきをだす。
「おやえもかくんでございますか、なかなかきようですね、どれはいけんしましょう」とながめていたが「あらいやだ、たぬきだよ。
なにだってせんりにせんってたぬきなんぞかくんでしょうね――それでもたぬきとみえるからふしぎだよ」とすこしかんしんする。
「そのもんくをよんでごらんなさい」としゅじんがわらいながらいう。
はなこはげじょがしんぶんをよむようによみだす。
「きゅうれきのとしのよる、やまのたぬきがえんゆうかいをやってさかりにぶとうします。
そのうたにいわく、こいさ、としのよるで、おんやまふびもこまいぞ。
すっぽこぽんのぽん」「なにですこりゃ、ひとをばかにしているじゃございませんか」とはなこはふへいのからだである。
「このてんにょはおきにいりませんか」と迷亭がまたいちまいだす。
みるとてんにょがはごろもをきてびわをひいている。
「このてんにょのはながすこしちいさすぎるようですが」「なに、それがひとなみですよ、はなよりもんくをよんでごらんなさい」もんくにはこうある。
「むかししあるところにいちにんのてんもんがくしゃがありました。
あるよるいつものようにたかいだいにのぼって、いっしんにほしをみていますと、そらにうつくしいてんにょがあらわれ、このよではきかれぬほどのびみょうなおんがくをそうしだしたので、てんもんがくしゃはみにしむさむさもわすれてききほれてしまいました。
あさみるとそのてんもんがくしゃのしがいにしもがまっしろにふっていました。
これはほんとうのはなしだと、あのうそつきのじいやがもうしました」「なにのことですこりゃ、いみもなにもないじゃありませんか、これでもりがくしでとおるんですかね。
ちっとぶんげいくらぶでもよんだらよさそうなものですがねえ」とかんげつくんさんざんにやられる。
迷亭はおもしろはんぶんに「こりゃどうです」とさんまいめをだす。
こんどはかっぱんでほかかふねがいんさつしてあって、れいのごとくそのしたになにかかきちらしてある。
「よべのとまりのじゅうろくしょうじょろう、おやがないとて、ありそのちどり、さよのねさとしのちどりにないた、おやはふなのりはのそこ」「うまいのねえ、かんしんだこと、はなせるじゃありませんか」「はなせますかな」「ええこれならしゃみせんにのりますよ」「しゃみせんにのりゃほんものだ。
こりゃいかがです」と迷亭はむあんにだす。
「いえ、もうこれだけはいけんすれば、ほかのはたくさんで、そんなにやぼでないんだということはわかりましたから」といちにんでがてんしている。
はなこはこれでかんげつにかんするたいていのしつもんをそつえたものとみえて、「これははなはだしつれいをいたしました。
どうかわたしのまいったことはかんげつさんへはうちうちにねがいます」とえてかってなようきゅうをする。
かんげつのことはなにでもきかなければならないが、じぶんのほうのことはいっさいかんげつへしらしてはならないというほうしんとみえる。
迷亭もしゅじんも「はあ」ときのないへんじをすると「いずれそのうちおれいはいたしますから」とねんをいれていいながらたつ。
みおくりにでたりょうにんがせきへかえるやいなや迷亭が「ありゃなにだい」というとしゅじんも「ありゃなにだい」とそうほうからおなじといをかける。
おくのへやでさいくんが怺えきれなかったとみえてくつくつわらうこえがきこえる。
迷亭はおおきなこえをだして「おくさんおくさん、つきなみのひょうほんがきましたぜ。
つきなみもあのくらいになるとなかなかふっていますなあ。
さあえんりょはいらんから、ぞんぶんおわらいなさい」
しゅじんはふまんなこうきで「だいいっきにくわんかおだ」とあくらしそうにいうと、迷亭はすぐひきうけて「はながかおのちゅうおうにじんどっておつにかまえているなあ」とあとをつける。
「しかもまがっていらあ」「すこしねこぜだね。
ねこぜのはなは、ちときばつすぎる」とおもしろそうにわらう。
「おっとを剋するかおだ」としゅじんはなおくやしそうである。
「じゅうきゅうせいきでうれのこって、にじゅうせいきでみせさらしにあうというそうだ」と迷亭はみょうなことばかりいう。
ところへさいくんがおくのまからでてきて、おんなだけに「あんまりわるぐちをおっしゃると、またくるまやのかみさんにいつけられますよ」とちゅういする。
「すこしいつけるほうがくすりですよ、おくさん」「しかしかおのざんそなどをなさるのは、あまりかとうですわ、だれだってこのんであんなはなをもってるわけでもありませんから――それにあいてがふじんですからね、あんまり苛いわ」とはなこのはなをべんごすると、どうじにじぶんのようぼうもかんせつにべんごしておく。
「なにひどいものか、あんなのはふじんじゃない、ぐじんだ、ねえ迷亭くん」「ぐじんかもしれんが、なかなかえらしゃだ、おおいたびきかかれたじゃないか」「ぜんたいきょうしをなんとこころえているんだろう」「うらのくるまやくらいにこころえているのさ。
ああいうじんぶつにそんけいされるにははかせになるにかぎるよ、いったいはかせになっておかんのがきみのふりょうけんさ、ねえおくさん、そうでしょう」と迷亭はわらいながらさいくんをかえりみる。
「はかせなんてとうていだめですよ」としゅじんはさいくんにまでみはなされる。
「これでもいまになるかもしれん、けいべつするな。
きさまなぞはしるまいがむかししあいそくらちすというひとはきゅうじゅうよんさいでだいちょじゅつをした。
そふぉくりすがけっさくをだしててんかをおどろかしたのは、ほとんどひゃくさいのこうれいだった。
しもにじすははちじゅうでみょうしをつくった。
おれだって……」「ばかばかしいわ、あなたのようないびょうでそんなにながくいきられるものですか」とさいくんはちゃんとしゅじんのじゅみょうをよさんしている。
「しっけいな、――あまぎさんへいってきいてみろ――がんらいごぜんがこんなしわくちゃなくろもめんのはおりや、つぎだらけのきものをきせておくから、あんなおんなにばかにされるんだ。
あしたから迷亭のきているようなやつをきるからだしておけ」「だしておけって、あんなりっぱなおめしはござんせんわ。
かねだのおくさんが迷亭さんにていねいになったのは、おじさんのなまえをきいてからですよ。
きもののとがじゃございません」とさいくんうまくせきにんを逃がれる。
しゅじんはおじさんということばをきいてきゅうにおもいだしたように「きみにおじがあるということは、きょうはじめてきいた。
いままでついにうわさをしたことがないじゃないか、ほんとうにあるのかい」と迷亭にきく。
迷亭はまってたといわぬばかりに「うんそのおじさ、そのおじがばかに頑物でねえ――やはりそのじゅうきゅうせいきかられんめんときょうまでいきのびているんだがね」としゅじんふうふをはんはんにみる。
「おほほほほほおもしろいことばかりおっしゃって、どこにいきていらっしゃるんです」「しずおかにいきてますがね、それがただいきてるんじゃないです。
あたまにちょんまげをいただいていきてるんだからきょうしゅくしまさあ。
ぼうしをかぶれってえと、おれはこのとしになるが、まだぼうしをこうむるほどさむさをかんじたことはないといばってるんです――さむいから、もっとねていらっしゃいというと、にんげんはよんじかんねればじゅうぶんだ。
よんじかんいじょうねるのはぜいたくのさただってあさくらいうちからおきてくるんです。
それでね、おれもすいみんじかんをよんじかんにちぢめるには、えいねんしゅうぎょうをしたもんだ、わかいうちはどうしてもねむたくていかなんだが、ちかごろにいたってはじめてずいしょにんいの庶境にはいってはなはだうれしいとじまんするんです。
ろくじゅうななになってねられなくなるなああたりまえでさあ。
しゅうぎょうもへちまもはいったものじゃないのにとうにんはまったくこっきのちからでせいこうしたとおもってるんですからね。
それでがいしゅつするときには、きっとてっせんをもってでるんですがね」「なににするんだい」「なににするんだかわからない、ただもってでるんだね。
まあすてっきのかわりくらいにかんがえてるかもしれんよ。
ところがせんだってみょうなことがありましてね」とこんどはさいくんのほうへはなしかける。
「へえー」とさいくんがさしごうのないへんじをする。
「此年のはるとつぜんてがみをよこしてやまたかぼうしとふろっくこーとをしきゅうおくれというんです。
ちょっとおどろきろいたから、ゆうびんでといかえしたところがろうじんじしんがきるというへんじがきました。
にじゅうさんにちにしずおかでしゅくしょうかいがあるからそれまでにまにあうように、しきゅうちょうたつしろというめいれいなんです。
ところがおかしいのはめいれいちゅうにこうあるんです。
ぼうしはいいかげんなおおきさのをかってくれ、ようふくもすんぽうをみはからってだいまるへちゅうもんしてくれ……」「ちかごろはだいまるでもようふくをしたてるのかい」「なあに、せんせい、しらきやとまちがえたんだあね」「すんぽうをみはかってくれたってむりじゃないか」「そこがおじのおじたるところさ」「どうした?」「しかたがないからみはからっておくってやった」「きみもらんぼうだな。
それでまにあったのかい」「まあ、どうにか、こうにかおっついたんだろう。
くにのしんぶんをみたら、とうじつまきやまおうはちんらしくふろっくこーとにて、れいのてっせんをもち……」「てっせんだけははなさなかったとみえるね」「うんしんだらかんのなかへてっせんだけはいれてやろうとおもっているよ」「それでもぼうしもようふくも、うまいぐあいにきられてよかった」「ところがおおま違さ。
ぼくもぶじにいってありがたいとおもってると、しばらくしてくにからこづつみがとどいたから、なにかれいでもくれたこととおもってあけてみたられいのやまたかぼうしさ、てがみがそえてあってね、せっかくおもとめひしたそうろえどもしょうしょうおおきくこうかん、ぼうしやへおつかわしのうえ、おちぢめひしたどこう。
ちぢめちんはこがわせにて此方よりおおくかさるじょうこうとあるのさ」「なるほどまが濶だな」としゅじんはおのれれよりまが濶なもののてんかにあることをはっけんしてだいにまんぞくのからだにみえる。
やがて「それから、どうした」ときく。
「どうするったってしかたがないからぼくがちょうだいしてこうむっていらあ」「あのぼうしかあ」としゅじんがにやにやわらう。
「そのほうがだんしゃくでいらっしゃるんですか」とさいくんがふしぎそうにたずねる。
「だれがです」「そのてっせんのおじさまが」「なあにかんがくしゃでさあ、わかいときせいどうでしゅしがくか、なにかにこりかたまったものだから、でんきとうのしたでうやうやしくちょんまげをいただいているんです。
しかたがありません」とやたらに顋をなでまわす。
「それでもきみは、さっきのおんなにまきやまだんしゃくとゆったようだぜ」「そうおっしゃいましたよ、わたしもちゃのまできいておりました」とさいくんもこれだけはしゅじんのいけんにどういする。
「そうでしたかなあははははは」と迷亭はわけもなくわらう。
「そりゃうそですよ。
ぼくにだんしゃくのおじがありゃ、いまごろはきょくちょうくらいになっていまさあ」とへいきなものである。
「なんだかへんだとおもった」としゅじんはうれしそうな、しんぱいそうなかおづけをする。
「あらまあ、よくまじめであんなうそがつけますねえ。
あなたもよっぽどほらがごじょうずでいらっしゃること」とさいくんはひじょうにかんしんする。
「ぼくより、あのおんなのほうがうえわてでさあ」「あなただってごまけなさるきづかいはありません」「しかしおくさん、ぼくのほらはたんなるほらですよ。
あのおんなのは、みんなこんたんがあって、いわくつきのうそですぜ。
たちがわるいです。
さるちえからわりだしたじゅっすうと、てんらいのこっけいしゅみとこんどうされちゃ、こめでぃーのかみさまもかつがんのしなきをたんぜざるをえざるわけにたちいたりますからな」しゅじんは俯目になって「どうだか」という。
さいくんはわらいながら「おなじことですわ」という。
わがはいはいままでむかうよこちょうへあしをふみこんだことはない。
かどやしきのかねだとは、どんなかまえかみたことはむろんない。
きいたことさえいまがはじめてである。
しゅじんのいえでじつぎょうかがわとうにのぼったことはいちかえもないので、しゅじんのめしをくうわがはいまでがこのほうめんにはたんにむかんけいなるのみならず、はなはだれいたんであった。
しかるにせんこくはからずもはなこのほうもんをうけて、よそながらそのだんわをはいちょうし、そのれいじょうのつやびをそうぞうし、またそのふうき、けんせいをおもいうかべてみると、ねこながらあんかんとして椽側にねころんでいられなくなった。
しかのみならずわがはいはかんげつくんにたいしてはなはだどうじょうのいたりにこたえん。
せんぽうでははかせのおくさんやら、くるまやのかみさんやら、にげんきんのてんしょういんまでばいしゅうしてしらぬまに、まえばのかけたのさえたんていしているのに、かんげつくんのほうではただにやにやしてはおりのひもばかりきにしているのは、いかにそつぎょうしたてのりがくしにせよ、あまりのうがなさすぎる。
といって、ああいういだいなはなをかおのなかにあんちしているおんなのことだから、めったなものではよりつけるわけのものではない。
こういうじけんにかんしてはしゅじんはむしろむとんじゃくでかつあまりにせんがなさすぎる。
迷亭はぜににふじゆうはしないが、あんなぐうぜんどうじだから、かんげつに援けをあたえるべんぎは尠かろう。
してみるとかわいそうなのはくびくくりのりきがくをえんぜつするせんせいばかりとなる。
わがはいでもふんぱつして、てきじょうへのりこんでそのどうせいをていさつしてやらなくては、あまりふこうへいである。
わがはいはねこだけれど、えぴくてたすをよんでつくえのうえへたたきつけるくらいながくしゃのいえにきぐうするねこで、せけんいっぱんの痴猫、ぐねことはすこしくせんをことにしている。
このぼうけんをあえてするくらいのぎきょうしんはかたよりしっぽのさきにたたみこんである。
なにもかんげつくんにおんになったというわけもないが、これはただにこじんのためにするけっきそうきょうのさたではない。
おおきくいえばこうへいをこのみちゅうようをあいするてんいをげんじつにするてんはれなびきょだ。
ひとのきょだくをけいずしてあづまばしじけんなどをいたるしょにふりまわりわすいじょうは、ひとののきしたにいぬをしのばして、そのほうどうをとくとくとしてあうひとにふいちょうするいじょうは、しゃふ、ばてい、ぶらいかん、ごろつきしょせい、ひやといばば、さんば、妖婆、あんま、とみばにいたるまでをしようしてこっかゆうようのざいにはんをおよぼしてかえりみざるいじょうは――ねこにもかくごがある。
さいわいてんきもよい、しもかいはしょうしょうへいこうするがみちのためにはいちめいもすてる。
あしのうらへどろがついて、椽側へうめのはなのしるしをおすくらいなことは、ただごさんのめいわくにはなるかしれんが、わがはいのくつうとはもうされない。
よくじつともいわずこれからでかけようとゆうもうしょうじんのだいけっしんをおこしてだいどころまでとんででたが「まてよ」とかんがえた。
わがはいはねことしてしんかのきょくどにたっしているのみならず、のうりょくのはったつにおいてはあえてちゅうがくのさんねんせいにおとらざるつもりであるが、かなしいかないんこうのこうぞうだけはどこまでもねこなのでにんげんのげんごがじょうぜつれない。
よししゅびよくかねだていへしのびこんで、じゅうぶんてきのじょうせいをみとどけたところで、かんじんのかんげつくんにおしえてやるわけにいかない。
しゅじんにも迷亭せんせいにもはなせない。
はなせないとすればどちゅうにあるこんごうせきのひをうけてひからぬとおなじことで、せっかくのちしきもむようのちょうぶつとなる。
これはぐだ、やめようかしらんとのぼりぐちでたたずんでみた。
しかしいちどおもいたったことをちゅうとでやめるのは、はくうがくるかとまっているときくろくもどもりんごくへとおりすぎたように、なんとなくのこりおしい。
それもひがこっちにあればかくべつだが、いわゆるせいぎのため、じんどうのためなら、たといむだしをやるまでもすすむのが、ぎむをしるだんじのほんかいであろう。
むだぼねをおり、むだあしをけがすくらいはねことしててきとうのところである。
ねことうまれたいんがでかんげつ、迷亭、くさやしょせんせいとさんすんのぜっとうにそうごのしそうをこうかんするわざ倆はないが、ねこだけにしのびのじゅつはしょせんせいよりたっしゃである。
たにんのできぬことをじょうじゅするのはそれじしんにおいてゆかいである。
われいち箇でも、かねだのうちまくをしるのは、だれもしらぬよりゆかいである。
ひとにつげられんでもひとにしられているなというじかくをかれらにあずかうるだけがゆかいである。
こんなにゆかいがぞくぞくでてきてはいかずにはいられない。
やはりいくことにいたそう。
むこうよこちょうへきてみると、きいたとおりのせいようかんがかどちめんをわれぶつがおにせんりょうしている。
このしゅじんもこのせいようかんのごとくごうまんにかまえているんだろうと、もんをはいいってそのけんちくをながめてみたがただじんをいあつしようと、にかいづくりがむいみにつったっているほかになんらののうもないこうぞうであった。
迷亭のいわゆるつきなみとはこれであろうか。
げんかんをみぎにみて、うえこみのなかをとおりぬけて、かってぐちへめぐる。
さすがにかってはひろい、くさやせんせいのだいどころのじゅうばいはたしかにある。
せんだってにっぽんしんぶんにくわしくかいてあったおおくまはくのかってにもおとるまいとおもうくらいせいぜんとぴかぴかしている。
「もはんかってだな」とはいいりこむ。
みるとしっくいでたたきあげたにつぼほどのどまに、れいのくるまやのかみさんがたちながら、ごはんたきとしゃふをあいてにしきりになにかべんじている。
こいつはけんのんだとみずおけのうらへかくれる。
「あのきょうしあ、うちのだんなのなをしらないのかね」とめし焚がいう。
「しらねえことがあるもんか、このかいわいでかねださんのごやしきをしらなけりゃめもみみもねえかたわだあな」これはかかえしゃふのこえである。
「なんともいえないよ。
あのきょうしときたら、ほんよりほかになににもしらないへんじんなんだからねえ。
だんなのことをすこしでもしってりゃおそれるかもしれないが、だめだよ、じぶんのしょうきょうのとしさえしらないんだもの」とかみさんがいう。
「かねださんでもおそれねえかな、やっかいなとうへんぼくだ。
構あことあねえ、みんなでいかくかしてやろうじゃねえか」「それがよいよ。
おくさまのはながおおきすぎるの、かおがきにくわないのって――そりゃあひどいことをいうんだよ。
じぶんのめんあいまどしょうのたぬきみたようなくせに――あれでいちにんまえだとおもっているんだからやれきれないじゃないか」「かおばかりじゃない、てぬぐいをさげてゆにいくところからして、いやにこうまんちきじゃないか。
じぶんくらいえらいものはないつもりでいるんだよ」とくさやせんせいはめし焚にもだいにふじんぼうである。
「なにでもたいせいであいつのかきねのはたへいってわるぐちをさんざんいってやるんだね」「そうしたらきっとおそれいるよ」「しかしこっちのすがたをみせちゃあおもしろくねえから、こえだけきかして、べんきょうのじゃまをしたうえに、できるだけじらしてやれって、さっきおくさまがいいつけておいでなすったぜ」「そりゃわかっているよ」とかみさんはわるぐちのさんぶんのいちをひきうけるといういみをしめす。
なるほどこのてあいがにがさやせんせいをひやかしにくるなとさんにんのよこを、そっととおりぬけておくへはいいる。
ねこのあしはあれどもむきがごとし、どこをあるいてもぶきようなおとのしたためしがない。
そらをふむがごとく、くもをいくがごとく、すいちゅうにかおるをうつがごとく、ほらうらに瑟をこするがごとく、だいごのみょうみを甞めてげんせんのほかにひやだんをじちするがごとし。
つきなみなせいようかんもなく、もはんかってもなく、くるまやのかみさんも、ごんすけも、めし焚も、ごじょうさまも、なかばたらきも、はなこふじんも、ふじんのだんなさまもない。
いきたいところへいってききたいはなしをきいて、したをだししっぽを掉って、ひげをぴんとたててゆうゆうとかえるのみである。
ことにわがはいはこのみちにかけてはにっぽんいちのかんのうである。
くさぞうしにあるねこまたのけつみゃくをうけておりはせぬかとみずからうたがうくらいである。
ひきがえるのがくにはやこうのめいたまがあるというが、わがはいのしっぽにはじんぎしゃっきょうこいむじょうはむろんのこと、まんてんかのにんげんをばかにするいっかそうでんのみょうやくがつめこんである。
かねだかのろうかをひとのしらぬまにおうこうするくらいは、におうさまがところてんをふみつぶすよりもよういである。
このときわがはいはわがながら、わがりきりょうにかんぷくして、これもふだんだいじにするしっぽのおかげだなときがついてみるとただおかれない。
わがはいのそんけいするしっぽだいみょうじんをれいはいしてにゃんうんちょうきゅうをいのらばやと、ちょっとていとうしてみたが、どうもすこしけんとうがちがうようである。
なるべくしっぽのほうをみてさんはいしなければならん。
しっぽのほうをみようとしんたいをまわすとしっぽもしぜんとめぐる。
おいつこうとおもってくびをねじると、しっぽもおなじかんかくをとって、さきへ馳けだす。
なるほどてんちげんこうをさんすんうらにおさめるほどのれいぶつだけあって、とうていわがはいのてにあわない、しっぽをたまきることななどびはんにしてくたびれたからやめにした。
しょうしょうめがくらむ。
どこにいるのだかちょっとほうがくがわからなくなる。
かまうものかとめちゃくちゃにあるきめぐる。
しょうじのうらではなこのこえがする。
ここだとたちとまって、さゆうのみみをはすにきって、いきをこらす。
「びんぼうきょうしのくせになまいきじゃありませんか」とれいのかなきりごえをふりたてる。
「うん、なまいきなやっこだ、ちとこらしめのためにいじめてやろう。
あのがっこうにゃくにのものもいるからな」「だれがいるの?」「つきぴんすけやふくちきしゃごがいるから、たのんでからかわしてやろう」わがはいはかねだくんのしょうごくはわからんが、みょうななまえのにんげんばかりそろったところだとしょうしょうおどろいた。
かねだくんはなおかたりをついで、「あいつはえいごのきょうしかい」ときく。
「はあ、くるまやのかみさんのはなしではえいごのりーどるかなにかせんもんにおしえるんだっていいます」「どうせろくなきょうしじゃあるめえ」あるめえにも尠なからずかんしんした。
「このかんぴんすけにあったら、わたしのがっこうにゃみょうなやつがおります。
せいとからせんせいばんちゃはえいごでなにといいますときかれて、ばんちゃは Savage tea であるとまじめにこたえたんで、きょういんかんのものわらいとなっています、どうもあんなきょういんがあるから、ほかのものの、めいわくになってこまりますとゆったが、おおかたあいつのことだぜ」「あいつにきょくっていまさあ、そんなことをいいそうなつらがまえですよ、いやにひげなんかはやして」「あやしからんやつだ」ひげをはやしてあやしからなければねこなどはいっぴきだってかいしかりようがない。
「それにあの迷亭とか、へべれけとかいうやつは、まあなにてえ、とんきょうな跳かえりなんでしょう、おじのまきやまだんしゃくだなんて、あんなかおにだんしゃくのおじなんざ、あるはずがないとおもったんですもの」「ごぜんがどこのうまのほねだかわからんもののいうことをしんにうけるのもわるい」「わるいって、あんまりひとをばかにしすぎるじゃありませんか」とたいへんざんねんそうである。
ふしぎなことにはかんげつくんのことはいちごんはんくもでない。
わがはいのしのんでくるまえにひょうばんきはすんだものか、またはすでにらくだいとことがごくってねんとうにないものか、そのあたりはけねんもあるがしかたがない。
しばらくたたずんでいるとろうかをへだててむこうのざしきでべるのおとがする。
そらあすこにもなにかことがある。
おくれぬさきに、とそのほうがくへふをむける。
きてみるとおんながひとりでなにかおおごえではなしている。
そのこえがはなことよくにているところをもっておすと、これがすなわちとうけのれいじょうかんげつくんをしてみすいじゅすいをあえてせしめたるしろものだろう。
惜哉しょうじごしでたまのごすがたをはいすることができない。
したがってかおのまんなかにおおきなはなをまつりこんでいるか、どうだかうけあえない。
しかしだんわのもようからはないきのあらいところなどをそうごうしてかんがえてみると、まんざらひとのちゅういをひかぬ獅鼻ともおもわれない。
おんなはしきりにちょうしたっているがあいてのこえがすこしもきこえないのは、うわさにきくでんわというものであろう。
「ごぜんはやまとかい。
あしたね、いくんだからね、うずらのさんをとっておいておくれ、いいかえ――わかったかい――なにわからない?おやいやだ。
うずらのさんをとるんだよ。
――なんだって、――とれない?とれないはずはない、とるんだよ――へへへへへごじょうだんをだって――なにがごじょうだんなんだよ――いやにひとをおひゃらかすよ。
ぜんたいごぜんはだれだい。
ちょうきちだ?ちょうきちなんぞじゃわけがわからない。
おかみさんにでんわぐちへしゅつろってごいいな――なに?わたししでなにでもべんじます?――おまえはしっけいだよ。
そばめしをだれだかしってるのかい。
かねだだよ。
――へへへへへよくぞんじておりますだって。
ほんとにばかだよこのひとあ。
――かねだだってえばさ。
――なに?――まいどごひいきにあずかりましてありがとうございます?――なにがありがたいんだね。
おんれいなんかききたかあないやね――おやまたわらってるよ。
おまえはよっぽどぐぶつだね。
――おおせのとおりだって?――あんまりひとをばかにするとでんわをきってしまうよ。
いいのかい。
こまらないのかよ――だまってちゃわからないじゃないか、なんとかごいいなさいな」でんわはちょうきちのほうからきったものかなにのへんじもないらしい。
れいじょうはかんしゃくをおこしてやけにべるをじゃらじゃらとまわす。
あしもとでちんがおどろきろいてきゅうにほえだす。
これはまが濶にできないと、きゅうにとびおりて椽のしたへもぐりこむ。
おりがらろうかをちかくあしおとがしてしょうじをあけるおとがする。
だれかきたなといっしょうけんめいにきいていると「ごじょうさま、だんなさまとおくさまがよんでいらっしゃいます」とこまづかいらしいこえがする。
「しらないよ」とれいじょうはけんつくをくわせる。
「ちょっとようがあるからじょうをよんでこいとおっしゃいました」「うるさいね、しらないてば」とれいじょうはだいにのけんつくをくわせる。
「……みずしまかんげつさんのことでごようがあるんだそうでございます」とこまづかいはきをきかしてきげんをなおそうとする。
「かんげつでも、すいげつでもしらないんだよ――だいきらいだわ、へちまがとまよいをしたようなかおをして」だいさんのけんつくは、あわれなるかんげつくんが、るすちゅうにちょうだいする。
「おやごぜんいつそくはつにゆったの」こまづかいはほっとひといきついて「きょう」となるべくたんかんなあいさつをする。
「なまいきだねえ、こまづかいのくせに」とだいよんのけんつくをべつほうめんからくわす。
「そうしてあたらしいはんえりをかけたじゃないか」「へえ、せんだってごじょうさまからいただきましたので、けっこうすぎてもったいないとおもってこうりのなかへしまっておきましたが、いままでのがあまりよごれましたからかけやすえました」「いつ、そんなものをあげたことがあるの」「このごしょうがつ、しらきやへいらっしゃいまして、おもとめあそばしたので――うぐいすちゃへすもうのばんふをそめだしたのでございます。
そばめしにはじみすぎていやだからごぜんにあげようとおっしゃった、あれでございます」「あらいやだ。
よくにあうのね。
にくらしいわ」「おそれいります」「ほめたんじゃない。
にくらしいんだよ」「へえ」「そんなによくにあうものをなぜだまってもらったんだい」「へえ」「ごぜんにさえ、そのくらいにあうなら、そばめしにだっておかしいことあないだろうじゃないか」「きっとよくごにあいあそばします」「にあうのがわかってるくせになぜだまっているんだい。
そうしてすましてかけているんだよ、ひとのわるい」けんつくはとめどもなくれんぱつされる。
このさき、こときょくはどうはってんするかときんちょうしているとき、むこうのざしきで「とみこや、とみこや」とおおきなこえでかねだくんがれいじょうをよぶ。
れいじょうはやむをえず「はい」とでんわしつをでていく。
わがはいよりすこしおおきなちんがかおのちゅうしんにめとくちをひきあつめたようなめんをしてついていく。
わがはいはれいのしのびあしでふたたびかってからおうらいへでて、いそいでしゅじんのいえにかえる。
たんけんはまずじゅうにぶんのせいせきである。
かえってみると、きれいないえからきゅうにきたなないところへうつったので、なんだかひあたりのよいやまのうえからすすきくろいどうくつのなかへはいりこんだようなこころもちがする。
たんけんちゅうは、ほかのことにきをうばわれてへやのそうしょく、ふすま、しょうじのぐあいなどにはめもとまらなかったが、わがじゅうきょのかとうなるをかんずるとどうじにかれのいわゆるつきなみがこいしくなる。
きょうしよりもやはりじつぎょうかがえらいようにおもわれる。
わがはいもすこしへんだとおもって、れいのしっぽにうかがいをたててみたら、そのとおりそのとおりとしっぽのさきからごたくせんがあった。
ざしきへはいいってみるとおどろいたのは迷亭せんせいまだかえらない、まきたばこのすいがらをはちのすのごとくひばちのなかへつきたてて、だいこざでなにかはなしたてている。
いつのまにかかんげつくんさえきている。
しゅじんはてまくらをしててんじょうのあめもをよねんもなくながめている。
あいかわらずたいへいのいつみんのかいごうである。
「かんげつくん、きみのことを譫語にまでいったふじんのなは、とうじひみつであったようだが、もうはなしてもよかろう」と迷亭がからかいだす。
「おはなしをしても、わたしだけにかんすることならさしつかえないんですが、せんぽうのめいわくになることですから」「まだだめかなあ」「それに○○はかせふじんにやくそくをしてしまったもんですから」「たごんをしないというやくそくかね」「ええ」とかんげつくんはれいのごとくはおりのひもをひねくる。
そのひもはばいひんにあるまじきむらさきいろである。
「そのひものいろは、ちとてんぽうちょうだな」としゅじんがねながらいう。
しゅじんはかねだじけんなどにはむとんじゃくである。
「そうさ、とうていにちろせんそうじだいのものではないな。
じんがさにたちあおいのもんのついたぶっさきはおりでもきなくっちゃおさまりのつかないひもだ。
おだのぶなががむこいりをするときあたまのかみをちゃせんにゆったというがそのふしもちいたのは、たしかそんなひもだよ」と迷亭のもんくはあいかわらずながい。
「じっさいこれはじいがちょうしゅうせいばつのときにもちいたのです」とかんげつくんはまじめである。
「もういいかげんにはくぶつかんへでもけんのうしてはどうだ。
くびくくりのりきがくのえんじゃ、りがくしみずしまかんげつくんともあろうものが、うれのこりのはたもとのようなしゅつでりつをするのはちとたいめんにかんするわけだから」「ごちゅうこくのとおりにいたしてもいいのですが、このひもがたいへんよくにあうとゆってくれるひともありますので――」「だれだい、そんなしゅみのないことをいうのは」としゅじんはねがえりをうちながらおおきなこえをだす。
「それはごぞんじのほうなんじゃないんで――」「ごぞんじでなくてもいいや、いったいだれだい」「さるじょせいなんです」「はははははよほどちゃじんだなあ、あててみようか、やはりすみだがわのそこからきみのなをよんだおんななんだろう、そのはおりをきてもう一返御駄仏をきめこんじゃどうだい」と迷亭がよこごうからとびだす。
「へへへへへもうすいていからよんではおりません。
ここからいぬいのほうがくにあたるせいじょうなせかいで……」「あんまりせいじょうでもなさそうだ、どくどくしいはなだぜ」「へえ?」とかんげつはふしんなかおをする。
「むこうよこちょうのはながさっきおしかけてきたんだよ、ここへ、じつにぼくとうににんはおどろいたよ、ねえにがさやくん」「うむ」としゅじんはねながらちゃをのむ。
「はなってだれのことです」「きみのしんあいなるくおんのじょせいのごぼどうさまだ」「へえー」「かねだのつまというおんながきみのことをききにきたよ」としゅじんがまじめにせつめいしてやる。
おどろくか、うれしがるか、はずかしがるかとかんげつくんのようすをうかがってみるとべつだんのこともない。
れいのとおりしずかなちょうしで「どうかわたしに、あのむすめをもらってくれといういらいなんでしょう」と、またむらさきのひもをひねくる。
「ところがだい違さ。
そのごぼどうなるものがいだいなるはなのしょゆうぬしでね……」迷亭がなかばいいかけると、しゅじんが「おいくん、ぼくはさっきから、あのはなについて俳体しをかんがえているんだがね」ときにたけをついだようなことをいう。
となりのしつでさいくんがくすくすわらいだす。
「ずいぶんきみものんきだなあできたのかい」「すこしできた。
だいいっくがこのかおにはなまつりというのだ」「それから?」「つぎがこのはなにみきそなえというのさ」「つぎのくは?」「まだそれぎりしかできておらん」「おもしろいですな」とかんげつくんがにやにやわらう。
「つぎへあなふたつかすかなりとつけちゃどうだ」と迷亭はすぐできる。
するとかんげつが「おくふかくけもみえずはいけますまいか」とおのおのでたらめをならべていると、かきねにちかく、おうらいで「いまどしょうのたぬきいまどしょうのたぬき」とよんごにんわいわいいうこえがする。
しゅじんも迷亭もちょっとおどろきろいてひょうのほうを、かきのひまからすかしてみると「わははははは」とわらうこえがしてとおくへちるあしのおとがする。
「いまどしょうのたぬきというななにだい」と迷亭がふしぎそうにしゅじんにきく。
「なんだかわからん」としゅじんがこたえる。
「なかなかふっていますな」とかんげつくんがひひょうをくわえる。
迷亭はなにをおもいだしたかきゅうにたちのぼって「わがはいはねんらいびがくじょうのけんちからこのはなについてけんきゅうしたことがございますから、そのいちむらをひれきして、ごりょうくんのせいちょうをわずらわしたいとおもいます」と演舌のまねをやる。
しゅじんはあまりのとつぜんにぼんやりしてむごんのまま迷亭をみている。
かんげつは「ぜひうけたまわりたいものです」とこごえでいう。
「いろいろしらべてみましたがはなのきげんはどうも確とわかりません。
だいいちのふしんは、もしこれをじつようじょうのどうぐとかていすればあながふたつでたくさんである。
なにもこんなにおうふうにまんなかからつきだしてみるひつようがないのである。
ところがどうしてだんだんごらんのごとくかようにせりだしてまいったか」とじぶんのはなをつまんでみせる。
「あんまりせりだしてもおらんじゃないか」としゅじんはごせじのないところをいう。
「とにかくひっこんではおりませんからな。
ただにこのあなが併んでいるじょうたいとこんどうなすっては、ごかいをしょうずるにいたるかもはかられませんから、あらかじめごちゅういをしておきます。
――でぐけんによりますとはなのはったつはわれ々にんげんがはなしるをかむともうすびさいなるこういのけっかがしぜんとちくせきしてかくちょめいなるげんしょうをていしゅつしたものでございます」「佯りのないぐけんだ」とまたしゅじんがすんぴょうをそうにゅうする。
「ごしょうちのとおりはなしるをかむときは、ぜひはなをつまみます、はなをつまんで、ことにこのきょくぶだけにしげきをあたえますと、しんかろんのだいげんそくによって、このきょくぶはこのしげきにおうずるがためたにひれいしてふそうとうなはったつをいたします。
かわもしぜんかたくなります、にくもしだいにかたくなります。
ついにこってほねとなります」「それはすこし――そうじゆうににくがほねにいっそくひにへんかはできますまい」とりがくしだけあってかんげつくんがこうぎをもうしこむ。
迷亭はなにくわぬかおでのべつづける。
「いやごふしんはごもっともですがろんよりしょうここのとおりぼねがあるからしかたがありません。
すでにほねができる。
ほねはできてもはなしるはでますな。
でればかまずにはいられません。
このさようでほねのさゆうがけずりとられてほそいたかいりゅうきとへんかしてまいります――じつにおそろしいさようです。
てんてきのいしをうがつがごとく、賓頭顱のあたまがじからこうみょうをはなつがごとく、ふしぎかおるふしぎしゅうの喩のごとく、かようにはなすじがかよってかたくなります」「それでもきみのなんぞ、ぶくぶくだぜ」「えんじゃじしんのきょくぶはかいまもるのおそれがありますから、わざとろんじません。
かのかねだのごぼどうのもたせらるるはなのごときは、もっともはったつせるもっともいだいなるてんかのちんぴんとしてごりょうくんにしょうかいしておきたいとおもいます」かんげつくんはおもわずひやややという。
「しかしものもきょくどにたっしますといかんにはそういございませんがなんとなくこわしくてちかづきがたいものであります。
あのびりょうなどはもとはれしいにはちがいございませんが、しょうしょうしゅんけんすぎるかとおもわれます。
こじんのうちにてもそくらちす、ごーるどすみすもしくはさっかれーのはななどはこうぞうのうえからいうとずいぶんもうしぶんはございましょうがそのもうしぶんのあるところにあいきょうがございます。
はなたかきがゆえにとうとからず、きなるがためにとうとしとはこのゆえでもございましょうか。
げせわにもはなよりだんごともうしますればびてきかちからもうしますとまず迷亭くらいのところがてきとうかとぞんじます」かんげつとしゅじんは「ふふふふ」とわらいだす。
迷亭じしんもゆかいそうにわらう。
「さてただいままでべんじましたのは――」「せんせいべんじましたはすこしこうしゃくしのようでげひんですから、よしていただきましょう」とかんげつくんはせんじつのふくしゅうをやる。
「さようしからばかおをあらってでなおしましょうかな。
――ええ――これからはなとかおのけんこうにひとことろんきゅうしたいとおもいます。
たにかんけいなくたんどくにはなろんをやりますと、かのごぼどうなどはどこへだしてもはずかしからぬはな――くらまやまでてんらんかいがあってもおそらくいっとうしょうだろうとおもわれるくらいなはなをしょゆうしていらせられますが、かなしいかなあれはめ、くち、そのたのしょせんせいとなんらのそうだんもなくできのぼったはなであります。
じゅりあす・しーざーのはなはたいしたものにそういございません。
しかししーざーのはなを鋏でちょんきって、とうけのねこのかおへあんちしたらどんなものでございましょうか。
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むろんとうけのねこのごとくれっとうではない。
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しょくん、このかおにしてこのはなありとたんぜざるをえんではありませんか」迷亭のことばがすこしとぎれるとたん、うらのほうで「まだはなのはなしをしているんだよ。
なにてえつよしつくはりだろう」というこえがきこえる。
「くるまやのかみさんだ」としゅじんが迷亭におしえてやる。
迷亭はまたやりそめる。
「はからざるうらてにあたって、あらたにいせいのぼうちょうしゃのあることをはっけんしたのはえんじゃのふかくめいよとおもうところであります。
ことにあててんたる嬌音をもって、かんそうなるこうえんにいちてんのつやみをそえられたのはじつにぼうがいのこうふくであります。
なるべくつうぞくてきにひきなおしてかじんしゅくじょのけんこにせかざらんことをきするわけでありますが、これからはしょうしょうりきがくじょうのもんだいにたちいりますので、ぜいごふじんかたにはごわかりにくいかもしれません、どうかごからしぼうをねがいます」かんげつくんはりきがくというかたりをきいてまたにやにやする。
「わたしのしょうこだてようとするのは、このはなとこのかおはとうていちょうわしない。
つぁいしんぐのおうごんりつをしっしているということなんで、それをげんかくにりきがくじょうのこうしきからえんえきしてごらんにいれようというのであります。
まずえいちをはなのたかさとします。
あるふぁははなとかおのへいめんのこうさよりしょうずるかくどであります。
だぶりゅーはむろんはなのじゅうりょうとごしょうちください。
どうですたいていおわかりになりましたか。
……」「わかるものか」としゅじんがいう。
「かんげつくんはどうだい」「わたしにもちとわかりかねますな」「そりゃこまったな。
くさやはとにかく、きみはりがくしだからわかるだろうとおもったのに。
このしきがえんぜつのしゅのうなんだからこれをりゃくしてはいままでやったかいがないのだが――まあしかたがない。
こうしきはりゃくしてけつろんだけはなそう」「けつろんがあるか」としゅじんがふしぎそうにきく。
「あたりまえさけつろんのない演舌は、でざーとのないせいようりょうりのようなものだ、――いいかりょうくんのうくききたまえ、これからがけつろんだぜ。
――さていじょうのこうしきにうぃるひょう、わいすまんしょかのせつをさんしゃくしてかんがえてみますと、せんてんてきけいたいのいでんはむろんのことゆるさねばなりません。
またこのけいたいについ陪しておこるしんいてきじょうきょうは、たといこうてんせいはいでんするものにあらずとのゆうりょくなるせつあるにもかんせず、あるていどまではひつぜんのけっかとみとめねばなりません。
したがってかくのごとくみぶんにふにあいなるはなのもちぬしのうんだこには、そのはなにもなにかいじょうがあることとさっせられます。
かんげつくんなどは、まだとしがおわかいからかねだれいじょうのはなのこうぞうにおいてとくべつのいじょうをみとめられんかもしれませんが、かかるいでんはせんぷくきのながいものでありますから、いつなんじきこうのげきへんとともに、きゅうにはったつしてごぼどうのそれのごとく、とっさのまにぼうちょうするかもしれません、それゆえにこのごこんぎは、迷亭のがくりてきろんしょうによりますと、いまのなかごだんねんになったほうがあんぜんかとおもわれます、これにはとうけのごしゅじんはむろんのこと、そこにねておらるるねこまたどのにもごいぞんはなかろうとぞんじます」しゅじんはようようおきかえって「そりゃむろんさ。
あんなもののむすめをだれがもらうものか。
かんげつくんもらっちゃいかんよ」とたいへんねっしんにしゅちょうする。
わがはいもいささかさんせいのいをひょうするためににゃーにゃーとにごえばかりないてみせる。
かんげつくんはべつだんさわいだようすもなく「せんせいかたのごいこうがそうなら、わたしはだんねんしてもいいんですが、もしとうにんがそれをきにしてびょうきにでもなったらつみですから――」「はははははつやざいというわけだ」しゅじんだけはだいにむきになって「そんなばかがあるものか、あいつのむすめならろくなものでないにきょくってらあ。
はじめてひとのうちへきておれをやりこめにかかったやつだ。
ごうまんなやっこだ」とひとりでぷんぷんする。
するとまたかきねのそばでさんよんにんが「わははははは」というこえがする。
いちにんが「こうまんちきなとうへんぼくだ」というといちにんが「もっとおおきないえへはいいりてえだろう」という。
またいちにんが「ごきのどくだが、いくらいばったってかげべんけいだ」とおおきなこえをする。
しゅじんは椽側へでてまけないようなこえで「やかましい、なんだわざわざそんなへいのしたへきて」とどなる。
「わはははははさゔぇじ・ちーだ、さゔぇじ・ちーだ」とくちぐちにののししる。
しゅじんはだいにげきりんのからだでとつぜんおこってすてっきをもって、おうらいへとびだす。
迷亭はてをはくって「おもしろい、やれやれ」という。
かんげつははおりのひもをよってにやにやする。
わがはいはしゅじんのあとをつけてかきのくずれからおうらいへでてみたら、まんなかにしゅじんがてもちぶさたにすてっきをついてたっている。
ひとどおりはいちにんもない、ちょっときつねにつままれたからだである。
よん
れいによってかねだていへしのびこむ。
れいによってとはいまさらかいしゃくするひつようもない。
しばしばをじじょうしたほどのどあいをしめすかたりである。
いちどやったことはにどやりたいもので、にどこころみたことはさんどこころみたいのはにんげんにのみかぎらるるこうきしんではない、ねこといえどもこのしんりてきとっけんをゆうしてこのせかいにうまれででたものとにんていしていただかねばならぬ。
さんどいじょうくりかえすときはじめてしゅうかんなるかたりをかんせられて、このこういがせいかつじょうのひつようとしんかするのもまたにんげんとそういはない。
なにのために、かくまであししげくかねだていへかようのかとふしんをおこすならそのまえにちょっとにんげんにはんもんしたいことがある。
なぜにんげんはくちからけむりをすいこんではなからはきだすのであるか、はらのたしにもちのみちのくすりにもならないものを、はじかしきもなく吐呑して憚からざるいじょうは、わがはいがかねだにしゅつにゅうするのを、あまりおおきなこえでとがめだてをしてもらいたくない。
かねだていはわがはいのたばこである。
しのびこむというとごへいがある、なんだかどろぼうかまおとこのようでききぐるしい。
わがはいがかねだていへいくのは、しょうたいこそうけないが、けっしてかつおのきりみをちょろまかしたり、めはながかおのちゅうしんにけいれんてきにみっちゃくしているちんくんなどとみつだんするためではない。
――なにたんてい?――もってのほかのことである。
およそよのなかになにが賤しいかぎょうだとゆってたんていとこうりかしほどかとうなしょくはないとおもっている。
なるほどかんげつくんのためにねこにあるまじきほどのぎきょうしんをおこして、いちどはかねだかのどうせいをよそながらうかがったことはあるが、それはただのいちへんで、そのごはけっしてねこのりょうしんにはずるようなろうれつなふるまいをいたしたことはない。
――そんなら、なぜしのびこむというようなうろんなもじをしようした?――さあ、それがすこぶるいみのあることだて。
がんらいわがはいのこうによるとおおぞらはばんぶつをおおうためだいちはばんぶつをのせるためにできている――いかにしつようなぎろんをこのむにんげんでもこのじじつをひていするわけにはいくまい。
さてこのおおぞらだいちをせいぞうするためにかれらじんるいはどのくらいのろうりょくをついやしているかというとしゃくすんのてでんもしておらぬではないか。
じぶんがせいぞうしておらぬものをじぶんのしょゆうときわめるほうはなかろう。
じぶんのしょゆうときわめてもさしつかえないがたのしゅつにゅうをきんずるりゆうはあるまい。
このぼうぼうたるだいちを、こざかしくもかきを囲らしぼうくいをたててぼうぼうしょゆうちなどとかくしかぎるのはあたかもかのそうてんになわばりして、このぶぶんはわがのてん、あのぶぶんはかれのてんととどけでるようなものだ。
もしとちをきりきざんでいちつぼいくらのしょゆうけんをばいばいするならわがとうがこきゅうするくうきをいちしゃくりっぽうにわってきりうりをしてもよいわけである。
くうきのきりうりができず、そらのなわばりがふとうならじめんのしゆうもふごうりではないか。
にょぜかんによりて、にょぜほうをしんじているわがはいはそれだからどこへでもはいいっていく。
もっともいきたくないところへはいかぬが、こころざすほうがくへはとうざいなんぼくのさべつははいらぬ、へいきなかおをして、のそのそとまいる。
かねだごときものにえんりょをするわけがない。
――しかしねこのかなしさはちからずくではとうていにんげんにはかなわない。
つよぜいはけんりなりとのかくげんさえあるこのうきよにそんざいするいじょうは、いかにこっちにどうりがあってもねこのぎろんはとおらない。
むりにとおそうとするとくるまやのくろのごとくふいにさかなやのてんびんぼうをくうおそれがある。
りはこっちにあるがけんりょくはむこうにあるというばあいに、りをまげていちもにもなくくつじゅうするか、またはけんりょくのめをかすめてわがりをつらぬくかといえば、わがはいはむろんこうしゃをえらぶのである。
てんびんぼうはさけざるべからざるがゆえに、しのばざるべからず。
ひとのやしきないへははいいりこんでさしつかえなきここまざるをえず。
このゆえにわがはいはかねだていへしのびこむのである。
しのびこむたびがかさなるにつけ、たんていをするきはないがしぜんかねだくんいっかのじじょうがみたくもないわがはいのめにえいじておぼえたくもないわがはいののうりにいんしょうをとめむるにいたるのはやむをえない。
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しょうきょうのじぶんけんかをして、がきだいしょうのために頸筋を捉まえられて、うんとせいいっぱいにどべいへおしつけられたときのかおがよんじゅうねんごのきょうまで、いんがをなしておりはせぬかとかいまるるくらいへいたんなかおである。
しごく穏かできけんのないかおにはそういないが、なんとなくへんかにとぼしい。
いくらおこってもたいらかながおである。
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ちかごろはかってぐちのよこをにわへとおりぬけて、つきやまのかげからむこうをみわたしてしょうじがたてきってものしずかであるなとみきわめがつくと、じょじょのぼりこむ。
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わるいことをしたさとしはないからなにもかくれることも、おそれることもないのだが、そこがにんげんというむほうものにあってはふうんとあきらめるよりしかたがないので、もしせけんがくまさかながのりばかりになったらいかなるせいとくのくんしもやはりわがはいのようなたいどにでずるであろう。
かねだくんはどうどうたるじつぎょうかであるからかたよりくまさかながのりのようにごしゃくさんすんをふりまわすきやはあるまいが、うけたまわるしょによればひとをひととおもわぬびょうきがあるそうである。
ひとをひととおもわないくらいならねこをねこともおもうまい。
してみればねこたるものはいかなるせいとくのねこでもかれのやしきないでけっしてゆだんはできぬわけである。
しかしそのゆだんのできぬところがわがはいにはちょっとおもしろいので、わがはいがかくまでにかねだかのもんをしゅつにゅうするのも、ただこのきけんがおかしてみたいばかりかもしれぬ。
それはおってとくとかんがえたうえ、ねこののうりをのこりなくかいぼうしえたときあらためてごふいちょうつかまつろう。
きょうはどんなもようだなと、れいのつきやまのしばふのうえにあごをおしつけてぜんめんをみわたすとじゅうごじょうのきゃくまをやよいのはるにあけはなって、なかにはかねだふうふといちにんのらいきゃくとのごはなしさいちゅうである。
あいにくはなこふじんのはながこっちをむいていけごしにわがはいのがくのうえをしょうめんからねめつけている。
はなににらまれたのはうまれてきょうがはじめてである。
かねだくんはさいわいよこがおをむけてきゃくとそうたいしているかられいのへいたんなぶぶんははんぶんかくれてみえぬが、そのかわりはなのざいしょがはんぜんしない。
ただごましおしょくのくちひげがいいかげんなところかららんざつにしげるなしているので、あのうえにあながふたつあるはずだとけつろんだけはくもなくできる。
しゅんぷうもああいうなめらかながおばかりふいていたらさだめてらくだろうと、ついでながらそうぞうをたくましゅうしてみた。
ごきゃくさんはさんにんのなかでいちばんふつうなようぼうをゆうしている。
ただしふつうなだけに、これぞととりたててしょうかいするにたるようなぞうさはひとつもない。
ふつうというとけっこうなようだが、ふつうのきょくへいぼんのどうにのぼり、いさおぞくのしつにはいったのはむしろびんぜんのいたりだ。
かかるむいみなめん構をゆうすべきしゅくめいをおびてめいじのしょうだいにうまれてきたのはだれだろう。
れいのごとく椽のしたまでいってそのだんわをうけたまわわらなくてはわからぬ。
「……それでつまがわざわざあのおとこのところまででかけていってようすをきいたんだがね……」とかねだくんはれいのごとくおうふうなことばしである。
おうふうではあるがごうもしゅんけんなところがない。
げんごもかれのがんめんのごとくへいばんむくいぬだいである。
「なるほどあのおとこがみずしまさんをおしえたことがございますので――なるほど、よいごおもいつきで――なるほど」となるほどずくめのはごきゃくさんである。
「ところがなんだかようりょうをえんので」
「ええにがさやじゃようりょうをえないわけで――あのおとこはわたしがいっしょにげしゅくをしているじぶんからじつににえきらない――そりゃおこまりでございましたろう」とごきゃくさんははなこふじんのほうをむく。
「こまるの、こまらないのってあなた、わたしゃこのとしになるまでひとのうちへいって、あんなふとりあつかいをうけたことはありゃしません」とはなこはれいによってはなあらしをふく。
「なにかぶれいなことでももうしましたか、むかししからがんこなしょうぶんで――なにしろじゅうねんいちにちのごとくりーどるせんもんのきょうしをしているのでもだいたいごわかりになりましょう」とごきゃくさんはからだよくちょうしをあわせている。
「いやおはなしにもならんくらいで、つまがなにかきくとまるでけんもほろろのあいさつだそうで……」
「それはあやしからんやくで――いったいすこしがくもんをしているととかくまんしんがきざすもので、そのうえびんぼうをするとまけおしみがでますから――いえよのなかにはずいぶんむほうなやつがおりますよ。
じぶんのはたらきのないのにゃきがつかないで、むあんにざいさんのあるものにくってかかるなんてえのが――まるでかれらのざいさんでもまきあげたようなきぶんですからおどろきますよ、あははは」とごきゃくさんはだいきょうえつのからだである。
「いや、まことにげんごどうだんで、ああいうのは必竟せけんみずのわがままからおこるのだから、ちっとこらしめのためにいじめてやるがよかろうとおもって、すこしあたってやったよ」
「なるほどそれではだいぶこたえましたろう、まったくほんにんのためにもなることですから」とごきゃくさんはいかなるあたりかたかうけたまわらぬさきからすでにかねだくんにどういしている。
「ところがすずきさん、まあなんてがんこなおとこなんでしょう。
がっこうへでてもふくちさんや、つきさんにはくちもきかないんだそうです。
おそれいってだまっているのかとおもったらこのかんはつみもない、たくのしょせいをすてっきをもっておっかけたってんです――さんじゅうめんさげて、よく、まあ、そんなばかなまねができたもんじゃありませんか、まったくやけですこしきがへんになってるんですよ」
「へえどうしてまたそんならんぼうなことをやったんで……」とこれには、さすがのごきゃくさんもすこしふしんをおこしたとみえる。
「なあに、ただあのおとこのまえをなんとかゆってとおったんだそうです、すると、いきなり、すてっきをもってはだしあしでとびだしてきたんだそうです。
よしんば、ちっとやそっと、なにかゆったってしょうきょうじゃありませんか、ひげめんのだいそうのくせにしかもきょうしじゃありませんか」
「さようきょうしですからな」とごきゃくさんがいうと、かねだくんも「きょうしだからな」という。
きょうしたるいじょうはいかなるぶじょくをうけてももくぞうのようにおとなしくしておらねばならぬとはこのさんにんのきせずしていっちしたろんてんとみえる。
「それに、あの迷亭っておとこはよっぽどなよいこうじんですね。
やくにもたたないうそはっぴゃくをならべたてて。
わたしゃあんなへんてこなひとにゃはじめてあいましたよ」
「ああ迷亭ですか、あいかわらずほらをふくとみえますね。
やはりにがさやのところでおあいになったんですか。
あれにかかっちゃたまりません。
あれもむかししじすいのなかまでしたがあんまりひとをばかにするものですからのうくけんかをしましたよ」
「だれだっていかりまさあね、あんなじゃ。
そりゃうそをつくのもむべうござんしょうさ、ね、ぎりがあくるいとか、ばつをあわせなくっちゃあならないとか――そんなときにはだれしもこころにないことをいうもんでさあ。
しかしあのおとこのははかなくってすむのにやたらにはくんだからしまつにりょうえないじゃありませんか。
なにがほしくって、あんなでたらめを――よくまあ、しらじらしくうんえるとおもいますよ」
「ごもっともで、まったくどうらくからくるうそだからこまります」
「せっかくあなたまじめにききにいったみずしまのこともめちゃめちゃになってしまいました。
わたしゃごうふくでいまいましくって――それでもぎりはぎりでさあ、ひとのうちへものをききにいってしらんかおのはんべえもあんまりですから、あとでしゃふにびーるをいちだーすもたせてやったんです。
ところがあなたどうでしょう。
こんなものをうけとるりゆうがない、もってかえれっていうんだそうで。
いえおれいだから、どうかおとりくださいってしゃふがゆったら――あくくいじゃあありませんか、おれはじゃむはまいにちなめるがびーるのようなにがいものはのんだことがないって、ふいとおくへはいいってしまったって――いいぐさにことをかいて、まあどうでしょう、しつれいじゃありませんか」
「そりゃ、ひどい」とごきゃくさんもこんどはほんきに苛いとかんじたらしい。
「そこできょうわざわざきみをまねいたのだがね」としばらくとぎれてかねだくんのこえがきこえる。
「そんなばかしゃはかげから、からかってさえいればすむようなものの、しょうしょうそれでもこまることがあるじゃて……」とまぐろのさしみをくうときのごとくはげあたまをぴちゃぴちゃたたく。
もっともわがはいは椽のしたにいるからじっさいたたいたかたたかないかみえようはずがないが、このはげあたまのおとはきんらいおおいた聞なれている。
びくにがもくぎょのおとをききわけるごとく、椽のしたからでもおとさえたしかであればすぐはげあたまだなとしゅっしょをかんていすることができる。
「そこでちょっときみをわずらわしたいとおもってな……」
「わたしにできますことならなんでもおえんりょなくどうか――こんどとうきょうきんむということになりましたのもまったくいろいろごしんぱいをかけたけっかにほかならんわけでありますから」とごきゃくさんはかいよくかねだくんのいらいをしょうだくする。
このくちょうでみるとこのごきゃくさんはやはりかねだくんのせわになるひととみえる。
いやだんだんじけんがおもしろくはってんしてくるな、きょうはあまりてんきがむべいので、くるきもなしにきたのであるが、こういうこうざいりょうをえようとはまったくおもいかけなんだ。
ごひがんにおてらまいりをしてぐうぜんほうじょうでぼたもちのごちそうになるようなものだ。
かねだくんはどんなことをきゃくじんにいらいするかなと、椽のしたからみみをすましてきいている。
「あのにがさやというへんぶつが、どういうわけかみずしまにいれちえをするので、あのかねだのむすめをもらってはいかんなどとほのめかすそうだ――なあはなこそうだな」
「ほのめかすどころじゃないんです。
あんなやつのむすめをもらうばかがどこのくににあるものか、かんげつくんけっしてもらっちゃいかんよっていうんです」
「あんなやつとはなにだしっけいな、そんならんぼうなことをゆったのか」
「ゆったどころじゃありません、ちゃんとくるまやのかみさんがしらせにきてくれたんです」
「すずきくんどうだい、ご聞のとおりのしだいさ、ずいぶんやっかいだろうが?」
「こまりますね、ほかのこととちがって、こういうことにはたにんがみだりにようかいするべきはずのものではありませんからな。
そのくらいなことはいかなにがさやでもこころえているはずですが。
いったいどうしたわけなんでしょう」
「それでの、きみはがくせいじだいからくさやとどうしゅくをしていて、いまはとにかく、むかしはしんみつなあいだがらであったそうだからごいらいするのだが、きみとうにんにあってな、よくりがいをさとしてみてくれんか。
なにかおこっているかもしれんが、おこるのはむかいがあくるいからで、せんぽうがおとなしくしてさえいればいっしんじょうのべんぎもじゅうぶんはかってやるし、きにさわわるようなこともやめてやる。
しかしむかいがむかいならこっちもこっちというきになるからな――つまりそんなわがをはるのはとうにんのそんだからな」
「ええまったくおっしゃるとおりぐなていこうをするのはほんにんのそんになるばかりでなにのえきもないことですから、よくもうしきけましょう」
「それからむすめはいろいろともうしこもあることだから、かならずみずしまにやるときわめるわけにもいかんが、だんだんきいてみるとがくもんもじんぶつもわるくもないようだから、もしとうにんがべんきょうしてちかいうちにはかせにでもなったらあるいはもらうことができるかもしれんくらいはそれとなくほのめかしてもかまわん」
「そうゆってやったらとうにんもはげみになってべんきょうすることでしょう。
よろしゅうございます」
「それから、あのみょうなことだが――みずしまにもにあわんことだとおもうが、あのへんぶつのくさやをせんせいせんせいとゆってくさやのいうことはたいていきくようすだからこまる。
なにそりゃなにもみずしまにかぎるわけではむろんないのだからくさやがなにとゆってじゃまをしようと、わしのほうはべつにさしつかえもせんが……」
「みずしまさんがかわいそうですからね」とはなこふじんがくちをだす。
「みずしまというひとにはあったこともございませんが、とにかくこちらとごえんぐみができればしょうがいのこうふくで、ほんにんはむろんいぞんはないのでしょう」
「ええみずしまさんはもらいたがっているんですが、くさやだの迷亭だのってかわりものがなにだとか、かんだとかいうものですから」
「そりゃ、よくないことで、そうとうのきょういくのあるものにもにあわんしょさですな。
よくわたしがにがさやのところへまいってだんじましょう」
「ああ、どうか、ごめんどうでも、ひとつねがいたい。
それからじつはみずしまのこともくさやがいちばんくわしいのだがせんだってつまがおこなったときはいまのしまつでろくろくきくこともできなかったわけだから、くんからいまいちおうほんにんのせいこうがくさいとうをよくきいてもらいたいて」
「かしこまりました。
きょうはどようですからこれからまわったら、もうかえっておりましょう。
ちかごろはどこにすんでおりますかしらん」
「ここのまえをみぎへつきあたって、ひだりへいちちょうばかりいくとくずれかかったくろへいのあるうちです」とはなこがおしえる。
「それじゃ、ついきんじょですな。
わけはありません。
かえりにちょっとよってみましょう。
なあに、だいたいわかりましょうひょうさつをみれば」
「ひょうさつはあるときと、ないときとありますよ。
めいしをご饌粒でもんへはりつけるのでしょう。
あめがふるとはがれてしまいましょう。
するとごてんきのひにまたはりつけるのです。
だからひょうさつはとうにゃなりませんよ。
あんなめんどうくさいことをするよりせめてきふだでもかけたらよさそうなもんですがねえ。
ほんとうにどこまでもきのしれないひとですよ」
「どうもおどろきますな。
しかしくずれたくろへいのうちときいたらたいがいわかるでしょう」
「ええあんなきたなないうちはちょうないにいちけんしかないから、すぐわかりますよ。
あ、そうそうそれでわからなければ、よいことがある。
なにでもやねにくさがはえたうちをさがしていけばまちがっこありませんよ」
「よほどとくしょくのあるいえですなあはははは」
すずきくんがごこうらいになるまえにかえらないと、すこしつごうがわるい。
だんわもこれだけきけばだいじょうぶだくさんである。
椽のしたをつたわってせっちんをにしへまわってつきやまのかげからおうらいへでて、いそぎあしでやねにくさのはえているうちへかえってきてなにくわぬかおをしてざしきの椽へめぐる。
しゅじんは椽側へしろもうふをしいて、はら這になってうららかなしゅんじつにこうらをほしている。
たいようのこうせんはぞんがいこうへいなものでやねにぺんぺんぐさのもくひょうのある陋屋でも、かねだくんのきゃくまのごとくようきにあたたかそうであるが、きのどくなことにはもうふだけがはるらしくない。
せいぞうもとではしろのつもりでおりだして、とうぶつやでもしろのきでうりさばいたのみならず、しゅじんもしろというちゅうもんでかってきたのであるが――なにしろじゅうにさんねんいぜんのことだからしろのじだいはとくにとおりこしてただいまはこはいいろなるへんしょくのじきにそうぐうしつつある。
このじきをけいかしてたのあんこくしょくにばけるまでもうふのいのちがつづくかどうだかは、ぎもんである。
いまでもすでにまんへんなくすりきれて、たてよこのすじはめいかによまれるくらいだから、もうふとしょうするのはもはやせんじょうのさたであって、けのじははぶいてたんにっととでももうすのがてきとうである。
しかししゅじんのかんがえではいちねんもち、にねんもち、ごねんもちじゅうねんもったいじょうはしょうがいもたねばならぬとおもっているらしい。
ずいぶんのんきなことである。
さてそのいんねんのあるもうふのうえへまえもうすとおりはら這になってなにをしているかとおもうとりょうてででばった顋をささえて、みぎてのゆびのまたにまきたばこをはさんでいる。
ただそれだけである。
もっともかれがふけだらけのあたまのうらにはうちゅうのだいしんりがひのくるまのごとくかいてんしつつあるかもしれないが、がいぶからはいけんしたところでは、そんなこととはゆめにもおもえない。
たばこのひはだんだんすいくちのほうへ逼って、いっすんばかりもえつくしたはいのぼうがぱたりともうふのうえにおつるのもかまわずしゅじんはいっしょうけんめいにたばこからたちのぼるけむりのぎょうまつをみつめている。
そのけむりはしゅんぷうにうきつしずみつ、ながれるわをいくえにもえがいて、むらさきふかきさいくんのせんぱつのこんぽんへふきよせつつある。
――おや、さいくんのことをはなしておくはずだった。
わすれていた。
さいくんはしゅじんにしりをむけて――なにしつれいなさいくんだ?べつにしつれいなことはないさ。
れいもひれいもそうごのかいしゃくしだいでどうでもなることだ。
しゅじんはへいきでさいくんのしりのところへほおづえをつき、さいくんはへいきでしゅじんのかおのさきへそうごんなるしりをすえたまでのことでぶれいもへちまもないのである。
ごりょうにんはけっこんごいちかねんもたたぬまにれいぎさほうなどときゅうくつなきょうぐうをだっきゃくせられたちょうぜんてきふうふである。
――さてかくのごとくしゅじんにしりをむけたさいくんはどういうりょうけんか、きょうのてんきにじょうじて、しゃくにあまるみどりのくろかみを、ふすまのりとなまたまごでごしごしせんたくせられたものとみえてくせのないやっこを、みよがしにかたからせへふりかけて、むごんのまましょうきょうのそでなしをねっしんにぬっている。
じつはそのせんぱつをかわかすためにとうちりめんのふとんとはりばこを椽側へだして、うやうやしくしゅじんにしりをむけたのである。
あるいはしゅじんのほうでしりのあるけんとうへかおをもってきたのかもしれない。
そこでせんこくおはなしをしたたばこのけむりが、ゆたかになびくくろかみのまにながれながれて、ときならぬかげろうのもえるところをしゅじんはよねんもなくながめている。
しかしながらけむりはかたよりいっしょにとままるものではない、そのせいしつとしてうえへうえへとたちのぼるのだからしゅじんのめもこのけむりのかみけともつれあうきかんをおちなくみようとすれば、ぜひどもめをうごかさなければならない。
しゅじんはまずこしのあたりからかんさつをはじめてじょじょとせなかをつたって、かたから頸筋にかかったが、それをとおりすぎてようようのうてんにたっしたとき、おぼえずあっとおどろいた。
――しゅじんがかいろうどうけつをちぎったふじんののうてんのまんなかにはまんまるなおおきなかぶろがある。
しかもそのかぶろがあたたかいにっこうをはんしゃして、いまやときをとくがおにかがやいている。
おもわざるあたりにこのふしぎなだいはっけんをなしたときのしゅじんのめはまばゆゆいなかにじゅうぶんのおどろきをしめして、はげしいこうせんでどうこうのひらくのもかまわずいっしんふらんにみつめている。
しゅじんがこのかぶろをみたとき、だいいちかれののうりにうかんだのはかのいえでんらいのぶつだんにいくよとなくかざりつけられたるごとうみょうさらである。
かれのいっかはしんしゅうで、しんしゅうではぶつだんにみぶんふそうおうなきんをかけるのがこれいである。
しゅじんはようしょうのときそのいえのくらのなかに、うすぐらくかざりつけられたるきんぱくあつきずしがあって、そのずしのなかにはいつでもしんちゅうのとうみょうさらがぶらくだって、そのとうみょうさらにはひるでもぼんやりしたあかりがついていたことをきおくしている。
しゅういがくらいなかにこのとうみょうさらがひかくてきめいりょうにてるやいていたのでしょうきょうしんにこのあかりをなんへんとなくみたときのいんしょうがさいくんのかぶろによびおこされてとつぜんとびだしたものであろう。
とうみょうさらはいちふんたたぬまにきえた。
このたびはかんのんさまのはとのことをおもいだす。
かんのんさまのはととさいくんのかぶろとはなんらのかんけいもないようであるが、しゅじんのあたまではふたつのまにみっせつなれんそうがある。
おなじくしょうきょうのじぶんにあさくさへいくとかならずはとにまめをかってやった。
まめはいちさらがぶんきゅうふたつで、あかいどきへはいいっていた。
そのどきが、いろといいだいさといいこのかぶろによくにている。
「なるほどにているな」としゅじんが、さもかんしんしたらしくいうと「なにがです」とさいくんはみむきもしない。
「なにだって、ごぜんのあたまにゃおおきなかぶろがあるぜ。
しってるか」
「ええ」とさいくんはいぜんとしてしごとのてをやめずにこたえる。
べつだんろけんをおそれたようすもない。
ちょうぜんたるもはんさいくんである。
「よめにくるときからあるのか、けっこんごあらたにできたのか」としゅじんがきく。
もしよめにくるまえからはげているなら欺されたのであるとくちへはださないがこころのなかでおもう。
「いつできたんだかおぼえちゃいませんわ、かぶろなんざどうだってむべいじゃありませんか」とだいにさとったものである。
「どうだってむべいって、じぶんのあたまじゃないか」としゅじんはしょうしょうどきをおびている。
「じぶんのあたまだから、どうだってむべいんだわ」とゆったが、さすがすこしはきになるとみえて、みぎのてをあたまにのせて、くるくるかぶろをなでてみる。
「おやおおいたおおきくなったこと、こんなじゃないとおもっていた」といったところをもってみると、としにあわしてかぶろがあまりおおきすぎるということをようやくじかくしたらしい。
「おんなはまげにゆうと、ここがつれますからだれでもはげるんですわ」とすこしくべんごしだす。
「そんなそくどで、みんなはげたら、よんじゅうくらいになれば、からやかんばかりできなければならん。
そりゃびょうきにちがいない。
でんせんするかもしれん、いまのうちはやくあまぎさんにみてもらえ」としゅじんはしきりにじぶんのあたまをなでまわしてみる。
「そんなにひとのことをおっしゃるが、あなただってはなのあなへはくはつがはえてるじゃありませんか。
かぶろがでんせんするならはくはつだってでんせんしますわ」とさいくんしょうしょうぷりぷりする。
「はなのなかのはくはつはみえんからがいはないが、のうてんが――ことにわかいおんなののうてんがそんなにはげちゃみぐるしい。
ふぐだ」
「ふぐなら、なぜごもらいになったのです。
ごじぶんがすきでもらっておいてふぐだなんて……」
「しらなかったからさ。
まったくきょうまでしらなかったんだ。
そんなにいばるなら、なぜよめにくるときあたまをみせなかったんだ」
「ばかなことを!どこのくににあたまのしけんをしてきゅうだいしたらよめにくるなんて、ものがあるもんですか」
「かぶろはまあがまんもするが、ごぜんはそむいがひとなみはずれてひくい。
はなはだみぐるしくていかん」
「そむいはみればすぐわかるじゃありませんか、せのひくいのはさいしょからしょうちでごもらいになったんじゃありませんか」
「それはしょうちさ、しょうちにはそういないがまだのびるかとおもったからもらったのさ」
「にじゅうにもなってそむいがのびるなんて――あなたもよっぽどじんをばかになさるのね」とさいくんはそでなしをほうりだしてしゅじんのほうにねじむく。
へんとうしだいではそのぶんにはすまさんというけんまくである。
「にじゅうになったってそむいがのびてならんというほうはあるまい。
よめにきてからじようぶんでもくわしたら、すこしはのびるみこみがあるとおもったんだ」とまじめなかおをしてみょうなりくつをのべているとかどぐちのべるがぜいよくなりたててたのむというおおきなこえがする。
いよいよすずきくんがぺんぺんぐさをもくてきにくさやせんせいのがりょう窟をたずねあてたとみえる。
さいくんはけんかをごじつにゆずって、そうこうはりばことそでなしをかかえてちゃのまへにげこむ。
しゅじんはねずみいろのもうふをまるめてしょさいへなげこむ。
やがてげじょがもってきためいしをみて、しゅじんはちょっとおどろきろいたようなかおづけであったが、こちらへごとおしもうしてといいすてて、めいしをにぎったままこうかへはいいった。
なにのためにこうかへきゅうにはいいったかいっこうようりょうをえん、なにのためにすずきとうじゅうろうくんのめいしをこうかまでもっていったのかなおさらせつめいにくるしむ。
とにかくめいわくなのはくさいところへずいこうをめいぜられためいしくんである。
げじょがさらさのざぶとんをゆかのまえへなおして、どうぞこれへとひきさがった、あとで、すずきくんはいちおうしつないをみまわわす。
ゆかにかけたはなひらきばんこくはるとあるき菴のにせものや、きょうせいのやすせいじにいけたひがんざくらなどをいちいちじゅんばんにてんけんしたあとで、ふとげじょのすすめたふとんのうえをみるといつのまにかいっぴきのねこがすましてすわっている。
もうすまでもなくそれはかくもうすわがはいである。
このときすずきくんのむねのうちにちょっとのまかおいろにもでぬほどのふうはがおこった。
このふとんはうたがいもなくすずきくんのためにしかれたものである。
じぶんのためにしかれたふとんのうえにじぶんがのらぬさきから、ことわりもなくみょうなどうぶつがへいぜんとそんきょしている。
これがすずきくんのこころのへいきんをやぶるだいいちのじょうけんである。
もしこのふとんがすすめられたまま、あるじなくしてしゅんぷうのふくにまかせてあったなら、すずきくんはわざとけんそんのいをあらわして、しゅじんがさあどうぞというまではかたいたたみのうえでがまんしていたかもしれない。
しかしそうばんじぶんのしょゆうすべきふとんのうえにあいさつもなくのったものはだれであろう。
にんげんならゆずることもあろうがねことはあやしからん。
のりてがねこであるというのがいちだんとふゆかいをかんぜしめる。
これがすずきくんのこころのへいきんをやぶるだいにのじょうけんである。
さいごにそのねこのたいどがもっともしゃくにさわる。
すこしはきのどくそうにでもしていることか、のるけんりもないふとんのうえに、ごうぜんとかまえて、まるいぶあいきょうなめをぱちつかせて、ごぜんはだれだいといわぬばかりにすずきくんのかおをみつめている。
これがへいきんをはかいするだいさんのじょうけんである。
これほどふへいがあるなら、わがはいの頸ねっこをとらえてひきずりおろしたらむべさそうなものだが、すずきくんはだまってみている。
どうどうたるにんげんがねこにおそれててだしをせぬということはあろうはずがないのに、なぜはやくわがはいをしょぶんしてじぶんのふへいをもらさないかというと、これはまったくすずきくんがいちこのにんげんとしてじこのたいめんをいじするじちょうしんのゆえであるとさっせらるる。
もしわんりょくにうったえたならさんしゃくのどうじもわがはいをじゆうにじょうげしえるであろうが、たいめんをおもんずるてんよりかんがえるといかにかねだくんのここうたるすずきとうじゅうろうそのひともこのにしゃくしほうのまんなかにちんざましますねこだいみょうじんをいかがともすることができぬのである。
いかにひとのみていぬばしょでも、ねことざせきあらそいをしたとあってはいささかにんげんのいげんにかんする。
まじめにねこをあいてにしてきょくちょくをあらそうのはいかにもだいにんきない。
こっけいである。
このふめいよをさけるためにはたしょうのふべんはしのばねばならぬ。
しかししのばねばならぬだけそれだけねこにたいするぞうおのねんはますわけであるから、すずきくんはときどきわがはいのかおをみてはにがいかおをする。
わがはいはすずきくんのふへいなかおをはいけんするのがおもしろいからこっけいのねんをおさえてなるべくなにくわぬかおをしている。
わがはいとすずきくんのまに、かくのごときむごんげきがおこなわれつつあるまにしゅじんはえもんをつくろってこうかからでてきて「やあ」とせきについたが、てにもっていためいしのかげさえみえぬところをもってみると、すずきとうじゅうろうくんのなまえはくさいところへむきとけいにしょせられたものとみえる。
めいしこそとんだわざわいうんにさいかいしたものだとおもうまもなく、しゅじんはこのやろうとわがはいのえりがみをつかんでえいとばかりに椽側へ擲きつけた。
「さあしきたまえ。
ちんらしいな。
いつとうきょうへでてきた」としゅじんはきゅうゆうにむかってふとんをすすめる。
すずきくんはちょっとこれをうらがえしたうえで、それへすわる。
「ついまだ忙がしいものだからほうちもしなかったが、じつはこのかんからとうきょうのほんしゃのほうへかえるようになってね……」
「それはけっこうだ、おおいたながくあわなかったな。
きみがいなかへいってから、はじめてじゃないか」
「うん、もうじゅうねんちかくになるね。
なにそのごじ々とうきょうへはでてくることもあるんだが、ついようじがおおいもんだから、いつでもしっけいするようなわけさ。
あくるくおもってくれたもうな。
かいしゃのほうはきみのしょくぎょうとはちがってずいぶん忙がしいんだから」
「じゅうねんたつうちにはだいぶちがうもんだな」としゅじんはすずきくんをみあげたりみおろしたりしている。
すずきくんはあたまをびれいにわけて、えいこくしたてのとうぃーどをきて、はでなえりかざりをして、むねにきむくさりりさえぴかつかせているていさい、どうしてもにがさやくんのきゅうゆうとはおもえない。
「うん、こんなものまでぶらさげなくちゃ、ならんようになってね」とすずきくんはしきりにきむくさりりをきにしてみせる。
「そりゃほんものかい」としゅじんはぶさほうなしつもんをかける。
「じゅうはちきんだよ」とすずきくんはわらいながらこたえたが「きみもおおいたねんをとったね。
たしかしょうきょうがあるはずだったがいちにんかい」
「いいや」
「ににん?」
「いいや」
「まだあるのか、じゃさんにんか」
「うんさんにんある。
このさきいくにんできるかわからん」
「あいかわらずきらくなことをゆってるぜ。
いちばんおおきいのはいくつになるかね、もうよっぽどだろう」
「うん、いくつかのうくしらんがおおかたむっつか、ななつかだろう」
「はははきょうしはのんきでいいな。
ぼくもきょういんにでもなればよかった」
「なってみろ、さんにちでいやになるから」
「そうかな、なんだかじょうひんで、きらくで、かんかがあって、すきなべんきょうができて、よさそうじゃないか。
じつぎょうかもわるくもないがわれわれのうちはだめだ。
じつぎょうかになるならずっとうえにならなくっちゃいかん。
したのほうになるとやはりつまらんごせじをふりまいたり、こうかんちょこをいただきにでたりずいぶんぐなもんだよ」
「ぼくはじつぎょうかはがっこうじだいからだいいやだ。
きんさえとれればなにでもする、むかしでいえばもとちょうにんだからな」とじつぎょうかをまえにひかえてたいへいらくをならべる。
「まさか――そうばかりもいえんがね、すこしはげひんなところもあるのさ、とにかくきんとじょうしをするかくごでなければやりとおせないから――ところがそのきんというやつがくせもので、――いまもあるじつぎょうかのところへいってきいてきたんだが、きんをつくるにもさんかくじゅつをつかわなくちゃいけないというのさ――ぎりをかく、にんじょうをかく、はじをかくこれでさんかくになるそうだおもしろいじゃないかあはははは」
「だれだそんなばかは」
「ばかじゃない、なかなかりこうなおとこなんだよ、じつぎょうかいでちょっとゆうめいだがね、きみしらんかしら、ついこのさきのよこちょうにいるんだが」
「かねだか?なにんだあんなやっこ」
「たいへんおこってるね。
なあに、そりゃ、ほんのじょうだんだろうがね、そのくらいにせんときんはたまらんという喩さ。
きみのようにそうまじめにかいしゃくしちゃこまる」
「さんかくじゅつはじょうだんでもいいが、あすこのにょうぼうのはなはなんだ。
きみおこなったんならみてきたろう、あのはなを」
「さいくんか、さいくんはなかなかさばけたひとだ」
「はなだよ、おおきなはなのことをゆってるんだ。
せんだってぼくはあのはなについて俳体しをつくったがね」
「なにだい俳体しというのは」
「俳体しをしらないのか、きみもずいぶんじせいにくらいな」
「ああぼくのように忙がしいとぶんがくなどはとうていだめさ。
それにいぜんからあまりすうきでないほうだから」
「きみしゃーれまんのはなのかっこうをしってるか」
「あははははずいぶんきらくだな。
しらんよ」
「えるりんとんはぶかのものからはな々といみょうをつけられていた。
きみしってるか」
「はなのことばかりきにして、どうしたんだい。
よいじゃないかはななんかまるくてもとがんがってても」
「けっしてそうでない。
きみぱすかるのことをしってるか」
「またしってるかか、まるでしけんをうけにきたようなものだ。
ぱすかるがどうしたんだい」
「ぱすかるがこんなことをゆっている」
「どんなことを」
「もしくれおぱとらのはながすこしたんかかったならばせかいのひょうめんにだいへんかをきたしたろうと」
「なるほど」
「それだからきみのようにそうむぞうさにはなをばかにしてはいかん」
「まあいいさ、これからだいじにするから。
そりゃそうとして、きょうきたのは、すこしきみにようじがあってきたんだがね――あのもときみのおしえたとかいう、みずしま――ええみずしまええちょっとおもいだせない。
――そらきみのところへしじゅうくるというじゃないか」
「かんげつか」
「そうそうかんげつかんげつ。
あのひとのことについてちょっとききたいことがあってきたんだがね」
「けっこんじけんじゃないか」
「まあたしょうそれにるいじのことさ。
きょうかねだへいったら……」
「このまはながじぶんできた」
「そうか。
そうだって、さいくんもそうゆっていたよ。
くさやさんに、よくうかがおうとおもってのぼったら、あいにく迷亭がきていてちゃちゃをいれてなにがなんだかわからなくしてしまったって」
「あんなはなをつけてくるからあくるいや」
「いえきみのことをいうんじゃないよ。
あの迷亭くんがおったもんだから、そうたちいったことをきくわけにもいかなかったのでざんねんだったから、もういっぺんぼくにいってよくきいてきてくれないかってたのまれたものだからね。
ぼくもいままでこんなせわはしたことはないが、もしとうにんどうしがいややでないならなかへたってまとめるのも、けっしてわるいことはないからね――それでやってきたのさ」
「ごくろうさま」としゅじんはれいたんにこたえたが、はらのうちではとうにんどうしというかたりをきいて、どういうわけかわからんが、ちょっとこころをうごかしたのである。
むしあついなつのよるにいちるのれいふうがそでぐちをもぐったようなきぶんになる。
がんらいこのしゅじんはぶっきらぼうの、がんここうたくけしをむねとしてせいぞうされたおとこであるが、さればとゆってれいこくふにんじょうなぶんめいのさんぶつとはじからそのせんをことにしている。
かれがなぞというと、むかっぱらをたててぷんぷんするのでも這裏のしょうそくはえとくできる。
せんじつはなとけんかをしたのははながきにくわぬからではなのむすめにはなにのつみもないはなしである。
じつぎょうかはきらいだから、じつぎょうかのかたわれなるかねだぼうもいやにそういないがこれもむすめそのひととはぼっこうしょうのさたといわねばならぬ。
むすめにはおんもうらみもなくて、かんげつはじぶんがみのおとうとよりもあいしているもんかせいである。
もしすずきくんのいうごとく、とうにんどうしがすいたなかなら、かんせつにもこれをぼうがいするのはくんしのなすべきしょさでない。
――くさやせんせいはこれでもじぶんをくんしとおもっている。
――もしとうにんどうしがすいているなら――しかしそれがもんだいである。
このじけんにたいしてじこのたいどをあらためるには、まずそのしんそうから確めなければならん。
「きみそのむすめはかんげつのところへきたがってるのか。
かねだやはなはどうでもかまわんが、むすめじしんのいこうはどうなんだ」
「そりゃ、その――なにだね――なにでも――え、きたがってるんだろうじゃないか」すずきくんのあいさつはしょうしょうあいまいである。
じつはかんげつくんのことだけきいてふくめいさえすればいいつもりで、ごじょうさんのいこうまではたしかめてこなかったのである。
したがってえんてんかつだつのすずきくんもちょっとろうばいのきみにみえる。
「だろうたはんぜんしないことばだ」としゅじんはなにごとによらず、しょうめんから、どやしつけないときがすまない。
「いや、これゃちょっとぼくのいいようがわるかった。
れいじょうのほうでもたしかにいがあるんだよ。
いえまったくだよ――え?――さいくんがぼくにそうゆったよ。
なにでもときどきはかんげつくんのわるぐちをいうこともあるそうだがね」
「あのむすめがか」
「ああ」
「あやしからんやつだ、わるぐちをいうなんて。
だいいちそれじゃかんげつにいがないんじゃないか」
「そこがさ、よのなかはみょうなもので、じぶんのよいているひとのわるぐちなどはことさらゆってみることもあるからね」
「そんなぐなやつがどこのくににいるものか」としゅじんはかようなにんじょうのきびにたちいったことをいわれてもとみとかんじがない。
「そのぐなやつがずいぶんよのなかにゃあるからしかたがない。
げんにかねだのさいくんもそうかいしゃくしているのさ。
とまどいをしたへちまのようだなんて、ときどきかんげつさんのわるぐちをいいますから、よっぽどこころのなかではおもってるにそういありませんと」
しゅじんはこのふかしぎなかいしゃくをきいて、あまりおもいかけないものだから、めをまるくして、へんとうもせず、すずきくんのかおを、だいどうえきしゃのように眤とみつめている。
すずきくんはこいつ、このようすでは、ことによるとやりそこなうなとかんづいたとみえて、しゅじんにもはんだんのできそうなほうめんへとわとうをうつす。
「きみかんがえてもわかるじゃないか、あれだけのざいさんがあってあれだけのきりょうなら、どこへだってそうおうのいえへやれるだろうじゃないか。
かんげつだってえらいかもしれんがみぶんからうんや――いやみぶんとゆっちゃしつれいかもしれない。
――ざいさんというてんからうんや、まあ、だれがみたってつりあわんのだからね。
それをぼくがわざわざしゅっちょうするくらいりょうしんがきをもんでるのはほんにんがかんげつくんにいがあるからのことじゃあないか」とすずきくんはなかなかうまいりくつをつけてせつめいをあたえる。
こんどはしゅじんにもなっとくができたらしいのでようやくあんしんしたが、こんなところにまごまごしているとまたとっかんをくうきけんがあるから、はやくはなしのふをすすめて、いっこくもはやくしめいをかんうするほうがばんぜんのさくとこころづいた。
「それでね。
いまいうとおりのわけであるから、せんぽうでいうにはなにもきんせんやざいさんはいらんからそのかわりとうにんにふぞくしたしかくがほしい――しかくというと、まあかたがきだね、――はかせになったらやってもいいなんていばってるしだいじゃない――ごかいしちゃいかん。
せんだってさいくんのきたときは迷亭くんがいてみょうなことばかりいうものだから――いえきみがわるいのじゃない。
さいくんもきみのことをごせじのないしょうじきないいほうだとしょうめていたよ。
まったく迷亭くんがわるかったんだろう。
――それでさほんにんがはかせにでもなってくれればせんぽうでもせけんへたいしてかたみがひろい、めんぼくがあるというんだがね、どうだろう、ちかぢかのうちみずしまくんははかせろんぶんでもていしゅつして、はかせのがくいをうけるようなはこびにはいくまいか。
なあに――かねだだけならはかせもがくしもいらんのさ、ただせけんというものがあるとね、そうてがるにもいかんからな」
こういわれてみると、せんぽうではかせをせいきゅうするのも、あながちむりでもないようにおもわれてくる。
むりではないようにおもわれてくれば、すずきくんのいらいどおりにしてやりたくなる。
しゅじんをいかすのもころすのもすずきくんのいのままである。
なるほどしゅじんはたんじゅんでしょうじきなおとこだ。
「それじゃ、こんどかんげつがきたら、はかせろんぶんをかくようにぼくからすすめてみよう。
しかしとうにんがかねだのむすめをもらうつもりかどうだか、それからまずといただしてみなくちゃいかんからな」
「といただすなんて、きみそんなかくばったことをしてものがまとまるものじゃない。
やっぱりふつうのだんわのさいにそれとなくきをひいてみるのがいちばんちかみちだよ」
「きをひいてみる?」
「うん、きをひくというとごへいがあるかもしれん。
――なにきをひかんでもね。
はなしをしているとしぜんわかるもんだよ」
「きみにゃわかるかもしれんが、ぼくにゃはんぜんときかんことはわからん」
「わからなけりゃ、まあよいさ。
しかし迷亭くんみたようによけいなちゃちゃをいれてうち壊わすのはよくないとおもう。
たとえすすめないまでも、こんなことはほんにんのずいいにすべきはずのものだからね。
こんどかんげつくんがきたらなるべくどうかじゃまをしないようにしてくれたまえ。
――いえきみのことじゃない、あの迷亭くんのことさ。
あのおとこのくちにかかるととうていたすかりっこないんだから」としゅじんのだいりに迷亭のわるぐちをきいていると、うわさをすればかげの喩にもれず迷亭せんせいれいのごとくかってぐちからひょうぜんとしゅんぷうにじょうじてまいこんでくる。
「いやーちんきゃくだね。
ぼくのような狎客になるとくさやはとかくそりゃくにしたがっていかん。
なにでもくさやのうちへはじゅうねんにいちへんくらいくるにかぎる。
このかしはいつもよりじょうとうじゃないか」とふじむらのようかんをむぞうさにほおばる。
すずきくんはもじもじしている。
しゅじんはにやにやしている。
迷亭はくちをもがもがさしている。
わがはいはこのしゅんじのこうけいを椽側からはいけんしてむごんげきというものはゆうにせいりつしえるとおもった。
ぜんけでむごんのもんどうをやるのがいしんでんしんであるなら、このむごんのしばいもあかにいしんでんしんのまくである。
すこぶるみじかかいけれどもすこぶるするどどいまくである。
「きみはいっしょうたびがらすかとおもってたら、いつのまにかまいもどったね。
ちょうせいはしたいもんだな。
どんなぎょうこうにまわりあわんともかぎらんからね」と迷亭はすずきくんにたいしてもしゅじんにたいするごとくごうもえんりょということをしらぬ。
いかにじすいのなかまでもじゅうねんもあわなければ、なんとなくきのおけるものだが迷亭くんにかぎって、そんなもとふもみえぬのは、えらいのだかばかなのかちょっとけんとうがつかぬ。
「かわいそうに、そんなにばかにしたものでもない」とすずきくんはあたらずさわらずのへんじはしたが、なんとなくおちつきかねて、れいのきんくさりをしんけいてきにいじっている。
「きみでんきてつどうへのったか」としゅじんはとつぜんすずきくんにたいしてきもんをはっする。
「きょうはしょくんからひやかされにきたようなものだ。
なんぼいなかものだって――これでもまちてつをろくじゅうかぶもってるよ」
「そりゃばかにできないな。
ぼくははちひゃくはちじゅうはちかぶはんもっていたが、おしいことにおおかたちゅうがくってしまって、いまじゃはんかぶばかりしかない。
もうすこしはやくきみがとうきょうへでてくれば、むしのくわないところをじゅうかぶばかりやるところだったがおしいことをした」
「あいかわらずくちがあくるい。
しかしじょうだんはじょうだんとして、ああいうかぶはもっててそんはないよ、ねんねんたかくなるばかりだから」
「そうだたとえはんかぶだってせんねんももってるうちにゃくらがみっつくらいたつからな。
きみもぼくもそのあたりにぬかりはないとうせいのさいしだが、そこへいくとくさやなどはあわれなものだ。
かぶといえばだいこんのきょうだいぶんくらいにかんがえているんだから」とまたようかんをつまんでしゅじんのほうをみると、しゅじんも迷亭のくいけがでんせんしておのずからかしさらのほうへてがでる。
よのなかではばんじせっきょくてきのものがひとからまねらるるけんりをゆうしている。
「かぶなどはどうでもかまわんが、ぼくは曾呂さきにいちどでいいからでんしゃへのらしてやりたかった」としゅじんはくいかけたようかんのはこんを撫然としてながめる。
「曾呂さきがでんしゃへのったら、のるたんびにしながわまでいってしまうは、それよりやっぱりてんねんこじでたくあんせきへほりつけられてるほうがぶじでいい」
「曾呂さきといえばしんだそうだな。
きのどくだねえ、いいあたまのおとこだったがおしいことをした」とすずきくんがいうと、迷亭はただちにひきうけて
「あたまはよかったが、めしをたくことはいちばんへただったぜ。
曾呂さきのとうばんのときには、ぼくあいつでもがいしゅつをしてそばでしのいでいた」
「ほんとに曾呂さきのたいためしはこげくさくってこころがあってぼくもよわった。
ごまけにごさいにかならずとうふをなまでくわせるんだから、つめたくてくわれやせん」とすずきくんもじゅうねんまえのふへいをきおくのそこからよびおこす。
「くさやはあのじだいから曾呂さきのしんゆうでまいばんいっしょにしるこをくいにでたが、そのたたりでいまじゃまんせいいじゃくになってくるしんでいるんだ。
みをいうとくさやのほうがしるこのかずをよけいくってるから曾呂さきよりさきへしんでむべいやくなんだ」
「そんなろんりがどこのくににあるものか。
おれのしるこよりきみはうんどうとごうして、まいばんしないをもってうらのたまごとうばへでて、せきとうをたたいてるところをぼうずにみつかってけんつくをくったじゃないか」としゅじんもまけぬきになって迷亭のきゅうあくを曝く。
「あはははそうそうぼうずがふつさまのあたまをたたいてはあんみんのぼうがいになるからよしてくれっていったっけ。
しかしぼくのはしないだが、このすずきしょうぐんのはて暴だぜ。
せきとうとすもうをとってだいしょうさんこばかりころがしてしまったんだから」
「あのときのぼうずのいかりかたはじつにはげしかった。
ぜひもとのようにおこせというからにんそくをやとうまでまってくれとゆったらにんそくじゃいかんざんげのいをひょうするためにあなたがじしんでおこさなくてはふつのいにそむくというんだからね」
「そのときのきみのふうさいはなかったぜ、かなきんのしゃつにえっちゅうふんどしであめあがりのみずたまりのなかでうんうんうなって……」
「それをきみがすましたかおでしゃせいするんだから苛い。
ぼくはあまりはらをたてたことのないおとこだが、あのときばかりはしっけいだとこころからおもったよ。
あのときのきみのげんくさをまだおぼえているがきみはしってるか」
「じゅうねんまえのげんくさなんかだれがおぼえているものか、しかしあのせきとうにきいずみいんどのきつるだいこじやすながごねんたつしょうがつとほってあったのだけはいまだにきおくしている。
あのせきとうはこがにできていたよ。
ひきこすときにぬすんでいきたかったくらいだ。
じつにびがくじょうのげんりにかなって、ごしっくしゅみなせきとうだった」と迷亭はまたいいかげんなびがくをふりまわす。
「そりゃいいが、きみのげんくさがさ。
こうだぜ――わがはいはびがくをせんこうするつもりだからてんちかんのおもしろいできごとはなるべくしゃせいしておいてしょうらいのさんこうにきょうさなければならん、きのどくだの、かわいそうだのというしじょうはがくもんにちゅうじつなるわがはいごときもののくちにすべきところでないとへいきでいうのだろう。
ぼくもあんまりなふにんじょうなおとこだとおもったからどろだらけのてできみのしゃせいじょうをひきさいてしまった」
「ぼくのゆうぼうながさいがとんざしていっこうふわなくなったのもまったくあのときからだ。
くんにきほうをおられたのだね。
ぼくはきみに恨がある」
「ばかにしちゃいけない。
こっちがうらめしいくらいだ」
「迷亭はあのじぶんからほら吹だったな」としゅじんはようかんをくいりょうってふたたびににんのはなしのなかにわりこんでくる。
「やくそくなんかりこうしたことがない。
それできつもんをうけるとけっしてわびたことがないなんとかかとかいう。
あのてらのけいだいにさるすべりがさいていたじぶん、このさるすべりがちるまでにびがくげんろんというちょじゅつをするというから、だめだ、とうていできるきやはないとゆったのさ。
すると迷亭のこたえにぼくはこうみえてもみかけによらぬいしのつよいおとこである、そんなにうたがうならとをしようというからぼくはまじめにうけてなにでもかんだのせいようりょうりをおごりっこかなにかにきわめた。
きっとしょもつなんかかくきやはないとおもったからとをしたようなもののないしんはしょうしょうおそろしかった。
ぼくにせいようりょうりなんかおごるきんはないんだからな。
ところがせんせいいちこうこうをおこすけしきがない。
ななにちたってもにじゅうにちたってもいちまいもかかない。
いよいよさるすべりがちっていちりんのはなもなくなってもとうにんへいきでいるから、いよいよせいようりょうりにありついたなとおもってけいやくりこうを逼ると迷亭すましてとりあわない」
「またなんとかりくつをつけたのかね」とすずきくんがそうのてをいれる。
「うん、じつにずうずうしいおとこだ。
わがはいはほかにのうはないがいしだけはけっしてきみかたにまけはせんとつよしじょうをはるのさ」
「いちまいもかかんのにか」とこんどは迷亭くんじしんがしつもんをする。
「むろんさ、そのとききみはこうゆったぜ。
わがはいはいしのいちてんにおいてはあえてなんにんにもいちほもゆずらん。
しかしざんねんなことにはきおくがひといちばいない。
びがくげんろんをしるわそうとするいしはじゅうぶんあったのだがそのいしをきみにはっぴょうしたよくじつからわすれてしまった。
それだからさるすべりのちるまでにちょしょができなかったのはきおくのつみでいしのつみではない。
いしのつみでないいじょうはせいようりょうりなどをおごるりゆうがないといばっているのさ」
「なるほど迷亭くんいちりゅうのとくしょくをはっきしておもしろい」とすずきくんはなぜだかおもしろがっている。
迷亭のおらぬときのごきとはよほどちがっている。
これがりこうなひとのとくしょくかもしれない。
「なにがおもしろいものか」としゅじんはいまでもおこっているようすである。
「それはごきのどくさま、それだからそのうまあわせをするためにくじゃくのしたなんかをきんとたいこでさがしているじゃないか。
まあそうおこらずにまっているさ。
しかしちょしょといえばきみ、きょうはいちだいちんほうを齎らしてきたんだよ」
「きみはくるたびにちんほうを齎らすおとこだからゆだんができん」
「ところがきょうのちんほうはしんのちんほうさ。
しょうふだづけいちりんもひけなしのちんほうさ。
きみかんげつがはかせろんぶんのこうをおこしたのをしっているか。
かんげつはあんなみょうにけんしきばったおとこだからはかせろんぶんなんてむしゅみなろうりょくはやるまいとおもったら、あれでやっぱりいろけがあるからおかしいじゃないか。
きみあのはなにぜひつうちしてやるがいい、このころはどんぐりはかせのゆめでもみているかもしれない」
すずきくんはかんげつのなをきいて、はなしてはいけぬはなしてはいけぬと顋とめでしゅじんにあいずする。
しゅじんにはいっこういみがつうじない。
さっきすずきくんにあってせっぽうをうけたときはかねだのむすめのことばかりがきのどくになったが、こん迷亭からはな々といわれるとまたせんじつけんかをしたことをおもいだす。
おもいだすとこっけいでもあり、またしょうしょうはわるらしくもなる。
しかしかんげつがはかせろんぶんをくさしかけたのはなによりのごみやげで、こればかりは迷亭せんせいじさんのごとくまずまずきんらいのちんほうである。
ただにちんほうのみならず、うれしいこころよよいちんほうである。
かねだのむすめをもらおうがもらいうまいがそんなことはまずどうでもよい。
とにかくかんげつのはかせになるのはけっこうである。
じぶんのようにできそんいのもくぞうはぶっしやのすみでむしがくうまでしらきのままくすぶっていてもいかんはないが、これはうまくしあがったとおもうちょうこくにはいちにちもはやくはくをぬってやりたい。
「ほんとうにろんぶんをかきかけたのか」とすずきくんのあいずはそっちのけにして、ねっしんにきく。
「よくひとのいうことをうたぐぐるおとこだ。
――もっとももんだいはどんぐりだかくびくくりのりきがくだか確とわからんがね。
とにかくかんげつのことだからはなのきょうしゅくするようなものにちがいない」
さっきから迷亭がはな々とぶえんりょにいうのをきくたんびにすずきくんはふあんのようすをする。
迷亭はすこしもきがつかないからへいきなものである。
「そのごはなについてまたけんきゅうをしたが、このころとりすとらむ・しゃんでーのなかにはなろんがあるのをはっけんした。
かねだのはななどもすたーんにみせたらよいざいりょうになったろうにざんねんなことだ。
はなめいをせんざいにたれるしかくはじゅうぶんありながら、あのままでくちはてつるとはふびんせんまんだ。
こんどここへきたらびがくじょうのさんこうのためにしゃせいしてやろう」とあいかわらずくちからでまかせにちょうしたりたてる。
「しかしあのむすめはかんげつのところへきたいのだそうだ」としゅじんがこんすずきくんからきいたとおりをのべると、すずきくんはこれはめいわくだというかおづけをしてしきりにしゅじんにめくばせをするが、しゅじんはふどうたいのごとくいっこうでんきにかんせんしない。
「ちょっとおつだな、あんなもののこでもこいをするところが、しかしたいしたこいじゃなかろう、おおかたはなこいくらいなところだぜ」
「はなこいでもかんげつがもらえばいいが」
「もらえばいいがって、きみはせんじつだいはんたいだったじゃないか。
きょうはいやになんかしているぜ」
「なんかはせん、ぼくはけっしてなんかはせんしかし……」
「しかしどうかしたんだろう。
ねえすずき、きみもじつぎょうかのまっせきをけがすいちにんだからさんこうのためにいってきかせるがね。
あのかねだぼうなるものさ。
あのぼうなるもののそくじょなどをてんかのしゅうさいみずしまかんげつのれいふじんとあがめまつるのは、しょうしょうちょうちんとつりがねというしだいで、われわれほうゆうたるしゃがひや々もっかするわけにいかんことだとおもうんだが、たといじつぎょうかのきみでもこれにはいぞんはあるまい」
「あいかわらずげんきがいいね。
けっこうだ。
きみはじゅうねんまえとようすがすこしもかわっていないからえらい」とすずきくんはやなぎにうけて、ごまかそうとする。
「えらいとほめるなら、もうすこしはくがくなところをごめにかけるがね。
むかししのまれ臘人はひじょうにたいいくをおもんじたものであらゆるきょうぎにきちょうなるけんしょうをだしてひゃっぽうしょうれいのさくをこうじたものだ。
しかるにふしぎなことにはがくしゃのちしきにたいしてのみはなんらのほうびもあたえたというきろくがなかったので、きょうまでじつはだいにあやしんでいたところさ」
「なるほどすこしみょうだね」とすずきくんはどこまでもちょうしをあわせる。
「しかるについりょうさんにちまえにいたって、びがくけんきゅうのさいふとそのりゆうをはっけんしたのでたねんのぎだんはいちどにひょうかい。
うるしおけをぬくがごとくつうかいなるさとりをえて歓天きちのしきょうにたっしたのさ」
あまり迷亭のことばがぎょうさんなので、さすがごじょうずもののすずきくんも、こりゃてにあわないというかおづけをする。
しゅじんはまたはじまったなといわぬばかりに、ぞうげのはしでかしさらのえんをかんかんたたいて俯つむいている。
迷亭だけはだいとくいでべんじつづける。
「そこでこのむじゅんなるげんしょうのせつめいをめいきして、あんこくのふちからわれじんのうたぐをせんざいのしたにすくいだしてくれたものはだれだとおもう。
がくもんあっていらいのがくしゃとしょうせらるるかれのまれ臘のてつじん、しょうようはのがんそありすとーとるそのひとである。
かれのせつめいにいわくさ――おいかしさらなどをたたかんできんちょうしていなくちゃいかん。
――かれらまれ臘人がきょうぎにおいてえるところのしょうよはかれらがえんずるぎげいそのものよりきちょうなものである。
それゆえにほうびにもなり、しょうれいのぐともなる。
しかしちしきそのものにいたってはどうである。
もしちしきにたいするほうしゅうとしてなにぶつをかあたえんとするならばちしきいじょうのかちあるものをあたえざるべからず。
しかしちしきいじょうのちんぽうがよのなかにあろうか。
むろんあるはずがない。
へたなものをやればちしきのいげんをそんするわけになるばかりだ。
かれらはちしきにたいしてせんりょうばこをおりむぱすのやまほどつみ、くりーさすのとみをかたむけつくしてもそうとうのほうしゅうをあたえんとしたのであるが、いかにかんがえてもとうていつりあうはずがないということをみやぶして、それよりいらいというものはきれいさっぱりなににもやらないことにしてしまった。
こうはくあおぜにがちしきのひってきでないことはこれでじゅうぶんりかいできるだろう。
さてこのげんりをふくようしたうえでじじもんだいにのぞんでみるがいい。
かねだぼうはなにだいしへいにめはなをつけただけのにんげんじゃないか、きけいなるかたりをもってけいようするならばかれはいちこのかつどうしへいによぎんのである。
かつどうしへいのむすめならかつどうきってくらいなところだろう。
ひるがえってかんげつくんはいかとみればどうだ。
辱けなくもがくもんさいこうのふをだいいちいにそつぎょうしてごうもけんたいのねんなくちょうしゅうせいばつじだいのはおりのひもをぶらさげて、にちやどんぐりのすたびりちーをけんきゅうし、それでもなおまんぞくするようすもなく、ちかぢかのちゅうろーど・けるゔぃんをあっとうするほどなだいろんぶんをはっぴょうしようとしつつあるではないか。
たまたまあづまきょうをとおりかかってみなげのげいをしそんじたことはあるが、これもねっせいなるせいねんにありがちのほっさてきしょいでごうもかれがちしきのとんやたるにわずらいをおよぼすほどのできごとではない。
迷亭いちりゅうの喩をもってかんげつくんをひょうすればかれはかつどうとしょかんである。
ちしきをもってつくねあげたるにじゅうはち珊のだんがんである。
このだんがんがいちたびじきをえてがっかいにばくはつするなら、――もしばくはつしてみたまえ――ばくはつするだろう――」迷亭はここにいたって迷亭いちりゅうとじしょうするけいようしがおもうようにでてこないのでぞくにいうりゅうとうだびのかんにたしょうひるんでみえたがたちまち「かつどうきってなどはなんせんまんまいあったってこななみじんになってしまうさ。
それだからかんげつには、あんなつりあわないじょせいはだめだ。
ぼくがふしょうちだ、ひゃくじゅうのなかでもっともそうめいなるだいぞうと、もっともどんらんなるしょうぶたとけっこんするようなものだ。
そうだろうにがさやくん」とゆってしりぞけると、しゅじんはまただまってかしさらをはたきだす。
すずきくんはすこしへこんだきみで
「そんなこともなかろう」とじゅつなげにこたえる。
さっきまで迷亭のわるぐちをずいぶんついたあげくここでむくらなことをいうと、しゅじんのようなむほうものはどんなことをすっぱぬくかしれない。
なるべくここはこうかげんに迷亭のえいほうをあしらってぶじにきりぬけるのがじょうふんべつなのである。
すずきくんはりこうしゃである。
いらざるていこうはさけらるるだけさけるのがとうせいで、むようのこうろんはほうけんじだいのいぶつとこころえている。
じんせいのもくてきはこうぜつではないじっこうにある。
じこのおもいどおりにちゃくちゃくじけんがしんちょくすれば、それでじんせいのもくてきはたっせられたのである。
くろうとしんぱいとそうろんとがなくてじけんがしんちょくすればじんせいのもくてきはごくらくりゅうにたっせられるのである。
すずきくんはそつぎょうごこのごくらくしゅぎによってせいこうし、このごくらくしゅぎによってきむとけいをぶらさげ、このごくらくしゅぎでかねだふうふのいらいをうけ、おなじくこのごくらくしゅぎでまんまとしゅびよくにがさやくんをときおとしてとうがいじけんがじゅっちゅうはっくまでじょうじゅしたところへ、迷亭なるつねただしをもってりっすべからざる、ふつうのにんげんいがいのしんりさようをゆうするかとかいまるるふうらいぼうがとびこんできたのでしょうしょうそのとつぜんなるにめんくっているところである。
ごくらくしゅぎをはつめいしたものはめいじのしんしで、ごくらくしゅぎをじっこうするものはすずきとうじゅうろうくんで、いまこのごくらくしゅぎでこんきゃくしつつあるものもまたすずきとうじゅうろうくんである。
「きみはなににもしらんからそうでもなかろうなどとすましかえって、れいになくことば寡なにじょうひんにひかえこむが、せんだってあのはなのあるじがきたときのようすをみたらいかにじつぎょうか贔負のそんこうでもへきえきするにごくってるよ、ねえにがさやくん、きみだいにふんとうしたじゃないか」
「それでもきみよりぼくのほうがひょうばんがいいそうだ」
「あはははなかなかじしんがつよいおとこだ。
それでなくてはさゔぇじ・ちーなんてせいとやきょうしにからかわれてすましてがっこうへでちゃいられんわけだ。
ぼくもいしはけっしてひとにおとらんつもりだが、そんなにずぶとくはできんけいふくのいたりだ」
「せいとやきょうしがしょうしょうぐずぐずいったってなにがおそろしいものか、さんとぶーゔはここんどっぽのひょうろんかであるがぱりだいがくでこうぎをしたときはひじょうにふひょうばんで、かれはがくせいのこうげきにおうずるためがいしゅつのさいかならずひしゅをそでのしたにもってぼうぎょのぐとなしたことがある。
ぶるぬちぇるがやはりぱりのだいがくでぞらのしょうせつをこうげきしたときは……」
「だってきみゃだいがくのきょうしでもなにでもないじゃないか。
こうがりーどるのせんせいでそんなおおやをれいにひくのはじゃこがくじらをもってみずからたとえるようなもんだ、そんなことをいうとなおからかわれるぜ」
「だまっていろ。
さんとぶーゔだっておれだっておなじくらいながくしゃだ」
「たいへんなけんしきだな。
しかしかいけんをもってふいくだけはあぶないからまねないほうがいいよ。
だいがくのきょうしがかいけんならりーどるのきょうしはまあこがたなくらいなところだな。
しかしそれにしてもはものはけんのんだからなかみせへいっておもちゃのくうきじゅうをかってきてせおってあるくがよかろう。
あいきょうがあっていい。
ねえすずきくん」というとすずきくんはようやくはなしがかねだじけんをはなれたのでほっとひといきつきながら
「あいかわらずむじゃきでゆかいだ。
じゅうねんふりではじめてきみとうにあったんでなんだかきゅうくつなろじからひろいのはらへでたようなきもちがする。
どうもわれわれなかまのだんわはすこしもゆだんがならなくてね。
なにをいうにもきをおかなくちゃならんからしんぱいできゅうくつでじつにくるしいよ。
はなしはつみがないのがいいね。
そしてむかししのしょせいじだいのともだちとはなすのがいちばんえんりょがなくっていい。
ああきょうははからず迷亭くんにあってゆかいだった。
ぼくはちとようじがあるからこれでしっけいする」とすずきくんがたちかけると、迷亭も「ぼくもいこう、ぼくはこれからにほんばしのえんげいきょうふうかいにいかなくっちゃならんから、そこまでいっしょにいこう」「そりゃちょうどいいひさしぶりでいっしょにさんぽしよう」とりょうくんはてをたずさえてかえる。
にじゅうよんじかんのできごとをもれなくかいて、もれなくよむにはすくなくもにじゅうよんじかんかかるだろう、いくらしゃせいぶんをこすいするわがはいでもこれはとうていねこのくわだておよぶべからざるげいとうとじはくせざるをえない。
したがっていかにわがはいのしゅじんが、にろくじちゅうせいさいなるびょうしゃにあたいするきげんきこうをろうするにもせきらずちくいちこれをどくしゃにほうちするののうりょくとこんきのないのははなはだいかんである。
いかんではあるがやむをえない。
きゅうようはねこといえどもひつようである。
すずきくんと迷亭きみのかえったあとはこがらしのはたとふきいきんで、しんしんとふるゆきのよるのごとくしずかになった。
しゅじんはれいのごとくしょさいへひきこもる。
しょうきょうはろくじょうのまへまくらをならべてねる。
いっけんはんのふすまをへだててみなみむこうのしつにはさいくんがかぞえどしみっつになる、めんこさんとそえじしてよこになる。
はなぐもりにくれをいそいだひはとくおちて、ひょうをとおるこまげたのおとさえてにとるようにちゃのまへひびく。
となりまちのげしゅくでみんてきをふくのがたえたりつづいたりしてねむいみみそこにおりおりにぶいしげきをあたえる。
がいめんはおおかたおぼろであろう。
ばんさんにはんぺんのにじるであわびかいをからにしたはらではどうしてもきゅうようがひつようである。
ほのかにうけたまわわればせけんにはねこのこいとかしょうするはいかいしゅみのげんしょうがあって、はるさきはちょうないのどうぞくどものゆめやすからぬまでうかれふるくよるもあるとかいうが、わがはいはまだかかるしんてきへんかに遭逢したことはない。
そもそもこいはうちゅうてきのかつりょくである。
うえはざいてんのかみじゅぴたーよりしたはどちゅうになくみみず、おけらにいたるまでこのみちにかけてうきみをやつすのがばんぶつのならいであるから、わがはいどもがおぼろうれしと、ぶっそうなふりゅうきをだすのもむりのないはなしである。
かいこすればかくいうわがはいもさんもうこにおもいこがれたこともある。
さんかくしゅぎのちょうほんかねだくんのれいじょうあべがわのとみこさえかんげつくんにれんぼしたといううわさである。
それだからせんきんのしゅんしょうをこころもそらにまんてんかのめすねこゆうねこがくるいめぐるのをぼんのうの迷のとけいべつするねんはもうとうないのであるが、いかんせんさそわれてもそんなこころがでないからしかたがない。
わがはいめしたのじょうたいはただきゅうようをほっするのみである。
こうねむくてはこいもできぬ。
のそのそとしょうきょうのふとんのすそへまわってここちこころよくねむる。
……
ふとめをひらいてみるとしゅじんはいつのまにかしょさいからしんしつへきてさいくんのとなりにのべてあるふとんのなかにいつのまにかもぐりこんでいる。
しゅじんのくせとしてねるときはかならずよこもじのこもとをしょさいからたずさえてくる。
しかしよこになってこのほんをにぺーじとつづけてよんだことはない。
あるときはもってきてまくらもとへおいたなり、まるでてをふれぬことさえある。
いっこうもよまぬくらいならわざわざさげてくるひつようもなさそうなものだが、そこがしゅじんのしゅじんたるところでいくらさいくんがわらっても、よせとゆっても、けっしてしょうちしない。
まいよよまないほんをごくろうせんまんにもしんしつまではこんでくる。
あるときはよくはってさんよんさつもかかえてくる。
せんだってじゅうはまいばんうぇぶすたーのだいじてんさえかかえてきたくらいである。
おもうにこれはしゅじんのびょうきでぜいたくなひとがたつふみどうになるまつかぜのおとをきかないとねつかれないごとく、しゅじんもしょもつをまくらもとにおかないとねむれないのであろう、してみるとしゅじんにとってはしょもつはよむものではないねむりをさそうきかいである。
かっぱんのすいみんざいである。
こんやもなにかあるだろうとのぞいてみると、あかいうすいほんがしゅじんのくちひげのさきにつかえるくらいなちいにはんぶんひらかれてころがっている。
しゅじんのひだりのてのぼしがほんのまにはさまったままであるところからおすときとくにもこんやはごろくこうよんだものらしい。
あかいほんとならんでれいのごとくにっけるのたもととけいがはるににあわぬさむきいろをはなっている。
さいくんはちちのみじをいちしゃくばかりさきへほうりだしてくちをひらいていびきをかいてまくらをはずしている。
およそにんげんにおいてなにがみぐるしいとゆってくちをあけてねるほどのふていさいはあるまいとおもう。
ねこなどはしょうがいこんなはじをかいたことがない。
がんらいぐちはおとをだすためはなはくうきを吐呑するためのどうぐである。
もっともきたのかたへいくとにんげんがぶしょうになってなるべくくちをあくまいとけんやくをするけっかはなでげんごをつかうようなずーずーもあるが、はなをへいそくしてくちばかりでこきゅうのようをべんじているのはずーずーよりもみともないとおもう。
だいいちてんじょうからねずみのくそでもおちたとききけんである。
しょうきょうのほうはとみるとこれもおやにおとらぬていたらくでねそべっている。
あねのとんこは、あねのけんりはこんなものだといわぬばかりにうんとみぎのてをのばしていもうとのみみのうえへのせている。
いもうとのすんこはそのふくしゅうにあねのはらのうえにかたあしをあげて踏そりかえっている。
そうほうどもねたときのしせいよりきゅうじゅうどはたしかにかいてんしている。
しかもこのふしぜんなるしせいをいじしつつりょうにんともふへいもいわずおとなしくじゅくすいしている。
さすがにはるのともしびはかくべつである。
てんしんらんまんながらぶふうりゅうきわまるこのこうけいのうらにりょうやをおしめとばかりゆかしげにてるやいてみえる。
もうなんじだろうとしつのなかをみまわすとしりんはしんとしてただきこえるものははしらどけいとさいくんのいびきとえんぽうでげじょのはぎしりをするおとのみである。
このげじょはひとからはぎしりをするといわれるといつでもこれをひていするおんなである。
わたしはうまれてからきょうにいたるまではぎしりをしたさとしはございませんとごうじょうをはってけっしてなおしましょうともごきのどくでございますともいわず、ただそんなさとしはございませんとしゅちょうする。
なるほどねていてするげいだからさとしはないに違ない。
しかしじじつはさとしがなくてもそんざいすることがあるからこまる。
よのなかにはわるいことをしておりながら、じぶんはどこまでもぜんにんだとかんがえているものがある。
これはじぶんがつみがないとじしんしているのだからむじゃきでけっこうではあるが、ひとのこまるじじつはいかにむじゃきでもめっきゃくするわけにはいかぬ。
こういうしんししゅくじょはこのげじょのけいとうにぞくするのだとおもう。
――よるはだいぶふけたようだ。
だいどころのあまどにとんとんとにかえばかりかるくあたったものがある。
はてないまごろじんのくるはずがない。
おおかたれいのねずみだろう、ねずみならとらんことにきわめているからかってにあばれるがよろしい。
――またとんとんとあたる。
どうもねずみらしくない。
ねずみとしてもたいへんようじんぶかいねずみである。
しゅじんのうちのねずみは、しゅじんのでるがっこうのせいとのごとくひなかでもよなかでもらんぼうろうぜきのねりおさむによねんなく、びんぜんなるしゅじんのゆめをおどろきやぶするのをてんしょくのごとくこころえているれんちゅうだから、かくのごとくえんりょするわけがない。
いまのはたしかにねずみではない。
せんだってなどはしゅじんのしんしつにまでちんにゅうしてたかからぬしゅじんのはなのあたまを囓んでがいかをそうしてひきあげたくらいのねずみにしてはあまりおくびょうすぎる。
けっしてねずみではない。
こんどはぎーとあまどをしたからうえへもちあげるおとがする、どうじにこししょうじをできるだけゆるやかに、みぞにそうてすべらせる。
いよいよねずみではない。
にんげんだ。
このしんやににんげんがあんないもこわずとしめをそとずしてごこうらいになるとすれば迷亭せんせいやすずきくんではないにごくっている。
ごこうみょうだけはかねてうけたまわわっているどろぼうかげしではないかしらん。
いよいよかげしとすればはやくそんがんをはいしたいものだ。
かげしはいまやかってのうえにおおいなるどろあしをあげてにそくばかりすすんだもようである。
さんそくめとおもうころあげいたにけいてか、がたりとよるにひびくようなおとをたてた。
わがはいのせなかのけがくつはけでぎゃくにこすすられたようなこころもちがする。
しばらくはあしおともしない。
さいくんをみるといまだくちをあいてたいへいのくうきをむちゅうに吐呑している。
しゅじんはあかいほんにぼしをはさまれたゆめでもみているのだろう。
やがてだいどころでまちをこするおとがきこえる。
かげしでもわがはいほどやいんにめはきかぬとみえる。
かってがわるくてさだめしふつごうだろう。
このときわがはいはそんきょまりながらかんがえた。
かげしはかってからちゃのまのほうめんへむけてしゅつげんするのであろうか、またはひだりへおれげんかんをつうかしてしょさいへとぬけるであろうか。
――あしおとはふすまのおととともに椽側へでた。
かげしはいよいよしょさいへはいいった。
それぎりおんもさたもない。
わがはいはこのかんにはやくしゅじんふうふをおこしてやりたいものだとようやくきがついたが、さてどうしたらおきるやら、いっこうようりょうをえんこうのみがあたまのなかにすいしゃのぜいでかいてんするのみで、なんらのふんべつもでない。
ふとんのすそを啣えてふってみたらとおもって、にさんどやってみたがすこしもこうようがない。
つめたいはなをほおになすりつけたらとおもって、しゅじんのかおのさきへもっていったら、しゅじんはねむったまま、てをうんとのばして、わがはいのはなづらをいなやというほどつきとばした。
はなはねこにとってもきゅうしょである。
いたむことおびただしい。
此度はしかたがないからにゃーにゃーとにかえばかりないておこそうとしたが、どういうものかこのときばかりはいんこうにものが痞えておもうようなこえがでない。
やっとのおもいでしぶりながらひくいやっこをしょうしょうだすとおどろいた。
かんじんのしゅじんはさめるけしきもないのにとつぜんかげしのあしおとがしだした。
みちりみちりと椽側をつたってちかづいてくる。
いよいよきたな、こうなってはもうだめだとたいらめて、ふすまとやなぎごうりのまにしばしのまみをしのばせてどうせいを窺がう。
かげしのあしおとはしんしつのしょうじのまえへきてぴたりと已む。
わがはいはいきをこらして、このつぎはなにをするだろうといっしょうけんめいになる。
あとでかんがえたがねずみをとるときは、こんなきぶんになればわけはないのだ、たましいがりょうほうのめからとびだしそうなぜいである。
かげしのおかげでにどとないさとるをひらいたのはじつにありがたい。
たちまちしょうじの桟のみっつめがあめにぬれたようにまんなかだけいろがかわる。
それをとおしてうすべになものがだんだんこくうつったとおもうと、かみはいつかやぶれて、あかいしたがぺろりとみえた。
したはしばしのまにくらいなかにきえる。
いれかわってなんだかおそれしくひかるものがひとつ、やぶれたあなのむこうがわにあらわれる。
うたがいもなくかげしのめである。
みょうなことにはそのめが、へやのなかにあるなにぶつをもみないで、ただやなぎごうりののちにかくれていたわがはいのみをみつめているようにかんぜられた。
いちふんにもたらぬまではあったが、こうにらまれてはじゅみょうがちぢまるとおもったくらいである。
もうがまんできんからこうりのかげからとびでそうとけっしんしたとき、しんしつのしょうじがすーとあいてまちかねたかげしがついにがんぜんにあらわれた。
わがはいはじょじゅつのじゅんじょとして、ふじのちんきゃくなるどろぼうかげしそのひとをこのさいしょくんにごしょうかいするのえいよをゆうするわけであるが、そのまえちょっとひけんをかいちんしてごこうおもんばかをわずらわしたいことがある。
こだいのかみはぜんちぜんのうとあがめられている。
ことにやそきょうのかみはにじゅうせいきのきょうまでもこのぜんちぜんのうのめんをこうむっている。
しかしぞくじんのこううるぜんちぜんのうは、ときによるとむさとしむのうともかいしゃくができる。
こういうのはめいかにぱらどっくすである。
しかるにこのぱらどっくすをどうはしたものはてんちかいびゃくいらいわがはいのみであろうとかんがえると、じぶんながらまんさらなねこでもないというきょえいしんもでるから、ぜひどもここにそのりゆうをもうしあげて、ねこもばかにできないということを、こうまんなるにんげんしょくんののうりにたたきこみたいとかんがえる。
てんちばんゆうはかみがつくったそうな、してみればにんげんもかみのごせいさくであろう。
げんにせいしょとかいうものにはそのとおりとめいきしてあるそうだ。
さてこのにんげんについて、にんげんじしんがすうせんねんらいのかんさつをつんで、だいにげんみょうふしぎがるとどうじに、ますますかみのぜんちぜんのうをしょうにんするようにかたむいたじじつがある。
それはそとでもない、にんげんもかようにうじゃうじゃいるがおなじかおをしているものはせかいじゅうにいちにんもいない。
かおのどうぐはむろんごくっている、だいさもたいがいはにたりよったりである。
かんげんすればかれらはみなおなじざいりょうからつくりあげられている、おなじざいりょうでできているにもせきらずいちにんもおなじけっかにできのぼっておらん。
よくまああれだけのかんたんなざいりょうでかくまでいようなかおをおもいついたものだとおもうと、せいぞうかのぎりょうにかんぷくせざるをえない。
よほどどくそうてきなそうぞうりょくがないとこんなへんかはできんのである。
いちだいのがこうがせいりょくをしょうもうしてへんかをもとめたかおでもじゅうにさんしゅいがいにでることができんのをもっておせば、にんげんのせいぞうをいってで受おったかみのてぎわはかくべつなものだときょうたんせざるをえない。
とうていにんげんしゃかいにおいてもくげきしえざるそこのぎりょうであるから、これをぜんのうてきぎりょうとゆってもさしつかえないだろう。
にんげんはこのてんにおいてだいにかみにおそれいっているようである、なるほどにんげんのかんさつてんからいえばもっともなおそれいりかたである。
しかしねこのたちばからいうとどういつのじじつがかえってかみのむのうりょくをしょうめいしているともかいしゃくができる。
もしぜんぜんむのうでなくともにんげんいじょうののうりょくはけっしてないものであるとだんていができるだろうとおもう。
かみがにんげんのかずだけそれだけおおくのかおをせいぞうしたというが、とうしょからきょうちゅうにせいさんがあってかほどのへんかをしめしたものか、またはねこもしゃくしもおなじかおにつくろうとおもってやりかけてみたが、とうていうまくいかなくてできるのもできるのもつくりそこねてこのらんざつなじょうたいにおちいったものか、わからんではないか。
かれらがんめんのこうぞうはかみのせいこうのきのねんとみらるるとどうじにしっぱいのあと迹ともはんぜらるるではないか。
ぜんのうともいえようが、むのうとひょうしたってさしつかえはない。
かれらにんげんのめはへいめんのうえにふたつならんでいるのでさゆうをいちじにみることができんからじぶつのはんめんだけしかしせんないにはいいらんのはきのどくなしだいである。
たちばをかえてみればこのくらいたんじゅんなじじつはかれらのしゃかいににちやかんだんなくおこりつつあるのだが、ほんにんぎゃくせあがって、かみにのまれているからさとりようがない。
せいさくのうえにへんかをあらわすのがこんなんであるならば、そのうえにてっとうてつびのかたぎ傚をしめすのもどうようにこんなんである。
らふぁえるにすんぶんちがわぬせいぼのぞうをにまいかけとちゅうもんするのは、ぜんぜんによらぬまどんなをそうふくみせろと逼るとおなじく、らふぁえるにとってはめいわくであろう、いなおなじものをにまいかくほうがかえってこんなんかもしれぬ。
こうぼうだいしにむかってきのうかいたとおりのひっぽうでくうかいとねがいますというほうがまるでしょたいをかえてとちゅうもんされるよりもくるしいかもわからん。
にんげんのよううるこくごはぜんぜんも傚しゅぎででんしゅうするものである。
かれらにんげんがははから、おんばから、たにんからじつようじょうのげんごをならうときには、ただきいたとおりをくりかえすよりほかにもうとうのやしんはないのである。
できるだけののうりょくでひとまねをするのである。
かようにひとまねからせいりつするこくごがじゅうねんにじゅうねんとたつうち、はつおんにしぜんとへんかをしょうじてくるのは、かれらにかんぜんなるも傚ののうりょくがないということをしょうめいしている。
じゅんすいのかたぎ傚はかくのごとくしなんなものである。
したがってかみがかれらにんげんをくべつのできぬよう、しっかいやきいんのごかめのごとくつくりえたならばますますかみのぜんのうをひょうめいしえるもので、どうじにきょうのごとくかってしだいなかおをてんじつに曝らさして、めまぐるしきまでにへんかをしょうぜしめたのはかえってそのむのうりょくをすいちしえるのぐともなりえるのである。
わがはいはなにのひつようがあってこんなぎろんをしたかわすれてしまった。
ほんをぼうきゃくするのはにんげんにさえありがちのことであるからねこにはとうぜんのことさとおおめにみてもらいたい。
とにかくわがはいはしんしつのしょうじをあけてしきいのうえにぬっとあらわれたどろぼうかげしをべっけんしたとき、いじょうのかんそうがしぜんときょうちゅうにわきででたのである。
なぜわいた?――なぜというしつもんがでれば、いまいちおうかんがえなおしてみなければならん。
――ええと、そのわけはこうである。
わがはいのがんぜんにゆうぜんとあらわれたかげしのかおをみるとそのかおが――へいじょうしんのせいさくについてそのできさかえをあるいはむのうのけっかではあるまいかとうたがっていたのに、それをいちじにうちけすにたるほどなとくちょうをゆうしていたからである。
とくちょうとはほかではない。
かれのびもくがわがしんあいなるこうだんしみずしまかんげつくんにうりふたつであるというじじつである。
わがはいはむろんどろぼうにおおくのちきはもたぬが、そのこういのらんぼうなところからへいじょうそうぞうしてわたしかにきょうちゅうにえがいていたかおはないでもない。
こばなのさゆうにてんかいした、いっせんどうかくらいのめをつけた、いがぐりあたまにきまっているとじぶんでかってにきわめたのであるが、みるとかんがえるとはてんちのそうい、そうぞうはけっして逞くするものではない。
このかげしはせのすらりとした、いろのあさぐろいいちのじまゆの、いきでりっぱなどろぼうである。
としはにじゅうろくななさいでもあろう、それすらかんげつくんのしゃせいである。
かみもこんなにたかおをにこせいぞうしえるてぎわがあるとすれば、けっしてむのうをもってもくするわけにはいかぬ。
いやじっさいのことをいうとかんげつくんじしんがきがへんになってしんやにとびだしてきたのではあるまいかと、はっとおもったくらいよくにている。
ただはなのしたにすすきくろくひげのめばえがうえつけてないのでさてはべつじんだときがついた。
かんげつくんはにがみばしったこうだんしで、かつどうこぎってと迷亭からしょうせられたる、かねだとみこじょうをゆうにきゅうしゅうするにたるほどなねんいれのせいさくぶつである。
しかしこのかげしもにんそうからかんさつするとそのふじんにたいするいんりょくじょうのさようにおいてけっしてかんげつくんにいちほもゆずらない。
もしかねだのれいじょうがかんげつくんのめづけやくちさきにまよったのなら、どうとうのねつどをもってこのどろぼうくんにもほれこまなくてはぎりがわるい。
ぎりはとにかく、ろんりにあわない。
ああいうさいきのある、なにでもはやわかりのするせいしつだからこのくらいのことはひとからきかんでもきっとわかるであろう。
してみるとかんげつくんのかわりにこのどろぼうをさしだしてもかならずまんしんのあいをささげてきんしつちょうわのみをあげらるるにそういない。
まんいちかんげつくんが迷亭などのせっぽうにうごかされて、このせんこのりょうえんがわれるとしても、このかげしがけんざいであるうちはだいじょうぶである。
わがはいはみらいのじけんのはってんをここまでよそうして、とみこじょうのために、やっとあんしんした。
このどろぼうくんがてんちのまにそんざいするのはとみこじょうのせいかつをこうふくならしむるいちだいようけんである。
かげしはこわきになにかかかえている。
みるとせんこくしゅじんがしょさいへほうりこんだこもうふである。
とうざんのはんてんに、ごなんどのはかたのおびをしりのうえにむすんで、なまっちろいはぎはひざからしもむきだしのままいまやかたあしをあげてたたみのうえへいれる。
せんこくからあかいほんにゆびをかまれたゆめをみていた、しゅじんはこのときねがえりをどうとうちながら「かんげつだ」とおおきなこえをだす。
かげしはもうふをおとして、だしたあしをきゅうにひきこます。
しょうじのかげにほそながいこうはぎがにほんたったままかすかにうごくのがみえる。
しゅじんはうーん、むにゃむにゃといいながられいのあかほんをつきとばして、くろいうでをひぜんやみのようにぼりぼりかく。
そのあとはしずまりかえって、まくらをはずしたなりねてしまう。
かんげつだとゆったのはまったくわがしらずのねごととみえる。
かげしはしばらく椽側にたったまましつないのどうせいをうかがっていたが、しゅじんふうふのじゅくすいしているのをみなしてまたかたあしをたたみのうえにいれる。
こんどはかんげつだというこえもきこえぬ。
やがてのこるかたあしもふみこむ。
いちほのはるとうでゆたかにてらされていたろくじょうのまは、かげしのかげにするどどくにふんせられてやなぎごうりのあたりからわがはいのあたまのうえをこえてかべのなかばがまっくろになる。
ふりむいてみるとかげしのかおのかげがちょうどかべのたかさのさんぶんのにのところにばくぜんとうごいている。
こうだんしもかげだけみると、やっつあたまのばけもののごとくまことにみょうなかっこうである。
かげしはさいくんのねがおをうえからのぞきこんでみたがなにのためかにやにやとわらった。
わらいかたまでがかんげつくんのもしゃであるにはわがはいもおどろいた。
さいくんのまくらもとにはよんすんかくのいちしゃくごろくすんばかりのくぎづけにしたはこがだいじそうにおいてある。
これはひぜんのくにはからつのじゅうにんたたらさんぺいくんがせんじつきせいしたときごみやげにもってきたやまのいもである。
やまのいもをまくらもとへかざってねるのはあまりれいのないはなしではあるがこのさいくんはにものにつかうさんぼんをようだんすへいれるくらいばしょのてきふてきというかんねんにとぼしいおんなであるから、さいくんにとれば、やまのいもはおろか、たくあんがしんしつにあってもへいきかもしれん。
しかしかみならぬかげしはそんなおんなとしろうはずがない。
かくまでていちょうにはだみにちかくおいてあるいじょうはたいせつなしなものであろうとかんていするのもむりはない。
かげしはちょっとやまのいものはこをあげてみたがそのおもさがかげしのよきとあわしておおいためかたがかかりそうなのですこぶるまんぞくのからだである。
いよいよやまのいもをぬすむなとおもったら、しかもこのこうだんしにしてやまのいもをぬすむなとおもったらきゅうにおかしくなった。
しかしめったにこえをたてるときけんであるからじっと怺えている。
やがてかげしはやまのいものはこをうやうやしくこもうふにくるみそめた。
なにかからげるものはないかとあたりをみまわす。
と、さいわいしゅじんがねるときにときすてたちりめんのへいいにしえたいがある。
かげしはやまのいものはこをこのおびでしっかりくくって、くもなくせなかへしょう。
あまりおんながすくていさいではない。
それからしょうきょうのちゃんちゃんをにまい、しゅじんのめりやすのももひきのなかへおしこむと、またのあたりがまるくふくれてあおだいしょうがかえるをのんだような――あるいはあおだいしょうのりんげつというほうがよくけいようしえるかもしれん。
とにかくへんなかっこうになった。
うそだとおもうならためしにやってみるがよろしい。
かげしはめりやすをぐるぐるくびったまきへまきつけた。
そのつぎはどうするかとおもうとしゅじんのつむぎのうわぎをだいふろしきのようにひろげてこれにさいくんのおびとしゅじんのはおりと繻絆とそのたあらゆるざつぶつをきれいにたたんでくるみこむ。
そのじゅくれんときようなやりくちにもちょっとかんしんした。
それからさいくんのおびあげとしごきとをぞくぎあわせてこのつつみをくくってかたてにさげる。
まだちょうだいするものはないかなと、あたりをみまわしていたが、しゅじんのあたまのさきに「あさひ」のふくろがあるのをみつけて、ちょっとたもとへなげこむ。
またそのふくろのなかからいちほんだしてらんぷにかざしてひをてんける。